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川柳的逍遥 人の世の一家言
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黒ばかり減った戦争のお絵かき  下谷憲子
 
 
 
          頼朝の前に居並ぶ御家人たち
正面頼朝から段差下左に大江広元 右に北条時政、和田義盛、畠山重忠
 
 
鎌倉本流の源実朝が、承久元年(1219)に死亡した時には「鎌倉殿
の13人」の鎌倉幕府に残るメンバーは三善康信・北条義時・大江広元
の3人だけになっていた。実際のところ、13人の合議制は、成立して、
翌年には瓦解し始まり、「頼家の独裁」「比企氏の乱」「牧の方の乱」
で崩壊、そして「和田義盛の乱」で消滅した。


生成りのあれは昨日の紙芝居  高橋 蘭


「鎌倉殿の13人の男たちの蜉蝣」



  梶原景時

 
梶原景時
優れた行政官だが讒言で敵を増やし、駿河への帰路、仲間の御家人らと
清見関にて戦闘になり、3人の息子たちが討死すると、梶原景時は西奈
にて自害。正治2年(1200)2月、60歳だった。
三浦義澄
頼朝の死去の翌年、梶原景時「鎌倉追放」に加担し、梶原氏の終末を
見収めるように、その3日後に病没。正治2年2月、74歳。
安達盛長
頼朝の死後、出家して蓮西と号するも「梶原景時排斥」を主導するなど、
存在感を保った。頼朝の死の翌年、正治2年6月に死去。66歳。
比企能員
比企氏にとって北条氏は脅威でしかなかった。能員頼家と謀り、時政
の追討を画策、これを察知した時政によって騙し討ちにされ一家は全滅。
建仁3年10月(1203)のこと。頼家は伊豆へ流された。
頼家の子・善哉は出家し、公暁の号で八幡宮に入った。


殺陣師から習うこの世の倒れ方  清水すみれ
 

 和田義盛

足立遠元
院の権力と結ぶ足立遠元の人脈や素養は、幕府の対朝廷外交に大きな力
を発揮したが、承元元年(1207)3月3日の「闘鶏会」にまつわる
『吾妻鏡』の記事を最後に、歴史の資料からその名を消している。
中原親能(ちかよし)
頼朝の次女の死後、出家(寂忍)したが、その後も、京に常駐し幕府の
スポークスマンとして陰ながら活躍をつづけた。承元2年(1209)
京都で卒去。66歳。
和田義盛
幕府で最も傑出した武将と称えられた侍所の別当・義盛は、権謀術数を
駆使する北条義時の挑発に乗せられ、建保元年(1213)「和田合戦」
を起こした。その勝負は2日間で決し,義盛そして和田氏は滅亡した。
66歳だった。
八田知家
比企氏に通じ北条時政と対立。頼家により嫌疑をかけられ、阿野全成
誅殺したのも時政の次女・阿波局を妻としていたからか。和田義盛滅亡
の5年後の建保6年(1218)に死去。76歳。


媚びたりしない白い紫陽花  みつ木もも花
 
 
 比企能員

三善康信
「承久の乱」で、大江広元とともに即時出兵を唱えて勝利に貢献、その
直後の承久3年(1221)8月に死去した。82歳。
二階堂行政
3代将軍・実朝の死を悼み出家するも、訴訟や政務を審議する「評定衆」
の一人となり、貞永元年(1232)に「御成敗式目」の制定に参加、
暦仁元年(1238)まで生きた。死去年齢不明。
北条時政
鎌倉幕府初代執権。元久2年(1205)「牧氏の変」により、娘政子
によって牧の方とともに伊豆島へ配流・隠遁生活を強いられ、建保3年
(1215)腫物で死去するまで伊豆の島で暮らした。78歳。
(牧の方は時政の死後、京都へ戻り、15年近く暮らしたという)


キミの名はらっきょだったのか  そうか  高野末次
 
 
  北条義時
元仁元年(1224)6月死去。
大江広元
時に話をはぐらかし、態度を曖昧にすることで政争から巧みに身を躱し、
宿老として常に幕府の中心に位置し、政所を仕切った。
嘉禄元年(1225)6月死去。
北条政子
政子は13人の合議制には入っていないが、ある時は表で、又ある時は
陰で義時を支援し、鎌倉という船の舵をとった。
嘉禄元年(1225)7月死去。
義時・広元・政子の3人は、仲良く自らの役目を終えた様に世を去った。


黄昏色のドアに待ったをかけておく  前岡由美子
 


        大磯ー和田義盛と朝比奈義秀


「鎌倉殿の13人」 和田義盛

 
和田義盛は34歳で「頼朝旗揚げ」に三浦一族として参戦し、その後の
戦さにも加わっている。
その後、鎌倉に本拠を定め、軍事政権として内乱の過程で成立した鎌倉
幕府において、頼朝の御家人として、主従関係で結び付いていた。
治承4年(1180)のことであった。
すると幕府に、御家人たちを統制する機関が必要になった。
それが「侍所」であった。
また「別当」は、最も軍略に優れ武勇の士である者が選ばれた。
その初代長官から実朝時代まで3代に渡って、別当として君臨したのが
和田義盛である。


毎日が等身大の福笑い  北山まみどり


合戦に当たっての義盛の武技は、弓矢に優れていたという。
頼朝が弓馬に優れ、忠節なる御家人22人を選出した際にも、義盛は選
ばれているほどである。まさに義盛は、頼朝に忠実で奉仕し功を重ねた。
さらに頼朝の耳目の役割をも果たした。
頼朝が死亡して、頼家が将軍になると、宿老13人の合議制が生まれた。
この13人に義盛は、当然、名を連ねた。
梶原景時「謀叛事件」には、積極的に動き、景時失脚後、義盛はその
影響力を強めた。


今日もまた一番星をさがしてる  奥山節子


やがて、北条氏の権力の前に立ち塞がる御家人は、比企能員和田義盛
など数人に過ぎなくなった。「比企氏討伐」に関しては義盛は北条時政・
義時父子に加担して「政敵・比企氏」の排除を計った。
だが、北条氏の権力が大きくなり、独裁制を強化するようになると、
北条と和田の対立は避けられなくなった。
この後、「畠山重忠追討」に続く、時政と牧の方による娘婿・平賀朝雅
を将軍に擁立しようとした「牧氏陰謀事件」によって時政が失脚すると
その後の北条氏の権力は、義時に移った。


何事も無い顔をして桜咲く  新家完司
 


        義盛を攻める義時の兵士


「和田合戦」


建保元年(1213)、鎌倉殿の3代・実朝の10年目。
和田義盛は、鎌倉幕府創立以来の功臣であり、御家人の最長老であり、
しかも、御家人に頂点に立つ侍所・別当であり続けた。
一方、2代執権・北条義時は、「権力をより強固なものにするため」に
大きな力を持っている義盛の力を削ぐことを計画した。
義時がきっかけとしたのは、
<実朝を将軍職から引きずり下ろし、代わりに、頼家の遺児を擁立して
 北条氏を倒す>
とする信濃の武士・泉親衡(ちかひら)が謀ったクーデター計画だった。
この泉親衡のクーデターに、和田氏一族が加担していることが発覚した。


お疲れのようだ あちこちから煙  竹内ゆみこ


義盛の甥・和田胤長が捕縛されたまま、義時の被官・金窪行親に連行さ
れて処罰された。和田一族に下げ渡されるはずの、胤長の屋敷地も没収
してしまった。
これは義時が、この一連の事態を利用し、もともと短慮な性格の義盛を
挑発したものだった。
この義時の度重なる挑発に、義盛はぶち切れてしまった。
まんまと挑発に乗ってしまった義盛は、同族の三浦一族の三浦義村を味
方に引き入れて、「北条氏打倒」へ挙兵、将軍御所や義時邸を襲撃した。
「和田合戦」である。


ふーっと息吐いて変身するナイフ  宮井いずみ


ところが、一度は同心した三浦義村の裏切り、また、唯一の頼りにした
3千騎を引連れて、駆け付ける手筈だった横山党の横山時兼が、事前に
予知していた義時側に足止めをくらい、義盛は孤立状態となった。
さらに土尾・山内・土肥・愛甲・逸見氏などの御家人が和田側にいたが
義時の狡猾な戦略に封鎖されていた。そして5月2日、
「君側(くんそく)の奸を討つ」として兵を挙げた義盛軍は、
4日の明け方には壊滅し、和田一族は滅亡した。義盛67歳だった。
(和田義盛が死亡したことで義時が侍所・別当を兼任、北条の執権政治
体制が確立した)


不都合はボタン一つで はい消去  津田照子
 


 北条義時


【付録】 その後、

建保元年 (1213)
1月、実朝、正二位に、義時、正五位になる。
5月、和田合戦。義時、侍所別当4兼任する。
8月、義時、新造御所に移徒の実朝に随従する。
建保4年 (1216)
1月、義時従4位、広元陸奥守となる。
4月、将軍家政所別当9人制となる。
6月、実朝が権中納言となる。陳和卿が実朝に拝謁する。
9月、義時・広元による実朝への諫言・「官職推挙懇願」がされる。
11月、実朝、権中納言の直衣始を行う。
   実朝、唐船建造を命令する。義時これを諫言する。
建保5年 (1217)
1月、義時、右京権大夫に。実朝の唐船、着水失敗に終わる。
6月、公暁が鎌倉に入る。
10月、公暁が鶴岡八幡宮別当となる。
11月、広元が陸奥守を辞任する。
12月、義時が陸奥守を兼任する。
建保6年 (1218)
1月、実朝、権大納言となる。
3月、実朝、左近衛大将となる。
4月、政子、従3位となる。
7月、泰時、侍所別当となる。
10月、実朝、内大臣となる。
12月、実朝、右大臣となる。
この翌年、鎌倉に大事件が勃発する。


さて今日も今日とて並のメニューです  山本昌乃

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アバターの黒いタイツに電線が  河村啓子



       北条政子愛用の手箱の硯箱  (複製)(縦35×横42×高さ33㎝)

手箱は後白河法皇から頼朝に下賜され、政子が主に化粧道具入れとして
使用していたとされる。
明治7年、ウィーン万国博に出品の帰途、伊豆半島沖で船が沈没。
その時、手箱は海の中へ消失した。


ついに建仁3年(1203)9月2日。
2代将軍・頼家の妻・つつじの実家である比企氏と、政子の実家である
北条氏との間で戦闘が起った。
この戦いで、比企氏は北条氏に滅ぼされたが、苦悩した政子はまもなく
一つの決断をした。
<頼家がこのまま将軍を続けていると、幕府の混乱が収まらない>
政子は頼家を出家させることにした。
同年9月末、頼家は、伊豆の修禅寺に幽閉された。
孤独と寂寥に耐えかねた頼家は、
「深い山の中で、何もすることがありません。せめて側に仕える者だけ
 でもよこしてください」
と、鎌倉の政子に訴えた。
しかし、政子はその訴えを許さなかった。
以後、頼家が使いを寄こすことすら禁じた。


廃線は途切れ下弦の月残る  藤本鈴菜


翌元久元年(1204)7月18日。
頼家は幽閉先の修禅寺で殺害された。享年23歳。
その時政子は、48歳。
その肩には、「混乱した幕府の立て直しをはかる」という重い荷物が
課せられることになった。


言い訳は出来ない七月の指紋  山本早苗


「鎌倉殿の13人」 政子と実朝


          
      北条政子            源頼朝

建仁3年10月8日、頼家の跡を継いで二男の実朝が三代将軍になった。
その時、実朝は、まだ12歳。
幼いながらも父・頼朝を彷彿させる心配りの闊達な人柄で、周囲にその
将来を期待させた。
だが12歳で、実際に政務を司るわけもなく、政子を中心に北条時政
大江広元が政所別当という地位で、政治の代行をすることとした。
政子が、政治の表舞台に立つようになったことを示す記述がある。
『尼御台所御計也』
尼御台所とは、政子のことである。
つまり「政子の裁量によって、武士たちに土地が与えられた」と記され
ているものである。
慈円『愚管抄』、「女人入眼の日本国」すなわち
「いまや日本は政子という女性の力で治められている」
と、記したのもこの頃である。


これからを口ぐせにするアホウドリ  富山やよい


ところが、肝腎の三代将軍の実朝は、母・政子の活躍と裏腹に、次第に
政治への関心が薄れていく。
和歌に熱中し、実朝は、朝廷の実力者で優れた歌人でもある後鳥羽上皇
心酔していったのである。
そんな実朝が、18歳の時に詠んだ和歌が、都の高名な歌人・藤原定家
認められ、後鳥羽上皇の前でも、披露されたのである。
実朝は歌人としても、注目を集めるようになった。


歌詠んであとは野となり酒となる  中村幸彦


「京の実朝邸」
藤原定家43歳が、実朝の和歌の指導に来ている。
定家「仙洞50首の御製でございますね。
   下の句のーやや影さむし よもぎふの月 ー
   ここが味わい深くてようございます」
実朝「しかし、これも入れると私の歌だけで、30首を超すね」
定家「お気になさいますな」
そこへ卿の局・藤原兼子50歳がくる。
兼子「また古今和歌集のご相談ですか、毎日、ご熱心なこと」
実朝「そなたもいい歌を詠んだら、採用してやるぞ」
兼子「とんでもない。私の腰折れなど…」
実朝「だろうな…」


苦労性もしもばかりを考えて  荒井加寿


実朝「で、何の用だ?」
兼子「鎌倉から将軍の正室に公卿の姫君を戴きたいと申して参りました」
定家「私には…適当な娘はおりませんが」
兼子「鎌倉が欲しがっているのは、坊門殿の姫君です」
実朝「前大納言は私の叔父御だ、その娘といえば私の従兄弟だよ」
兼子「だからです!坊門殿には5人も姫君がいらっしゃいますし、
   しかも上の姫は、上皇様ご寵愛のその御方。
   その妹君が鎌倉将軍の正室となれば…」
定家「上皇様と将軍は、ご姻戚になられる…!?」
兼子「京と鎌倉はよき関係になりましょう…」
実朝「尼御前だな言い出したのは」
兼子「私も同じ考えです」


たらればの話はすぐに盛り上がる  津田照子



             実朝の使用した硯箱
和歌や政所下文を書くときにつかったのだろう。


「話を戻す」
そしてある時、実朝は運命を変える一冊の書に出会った。
後鳥羽上皇が編纂を命じた『新古今和歌集』である。
その序文には、
「歌は世を治め、民を和らぐる道とせり」 とある。
実朝はこれをきっかけに、民のために政所を行った朝廷政治を学んだ。
そしてそれを将軍としての理想とするようになっていった。


網目から月燦燦とこぼれだす  市井美春



           「政所下文」 
冒頭の文字は将軍・実朝のものである。


「政所下文」とは、実朝が、幕府の命令を武士たちに発する際に出した、
公式文書のことで、末尾には、北条義時をはじめ、有力な武士たちの署名
が並んでいる。
このことは、実朝が合議による政治を行っていたことを示している。
つまりは実朝は、「最終的に自らの手で政治決定を行っていた」
と、いうことになる。
実朝は、政治に積極的に取り組み、武士を束ねようとした。
実際この頃、実朝は、盗賊が増えて民衆が困っていると聞くと、
これを厳しく取り締まるよう通達を全国に発し、 また、
壊れた橋が長く捨て置かれていると聞くと、これもすぐに直させた。
実朝は、和歌を通じて知った古の「朝廷政治を理想」として実践しよう
としたのである。


渋柿と呼ばれてやっと今日  井上一筒


しかし、将軍実朝が朝廷にならった政治を行い始めたことが、
鎌倉の武士たちに、次第に、不信の念を抱かせるようになっていった。
朝廷や公家はもともと、土地の支配権をめぐり、武士と利害の対立する
勢力だった。
実朝の父・頼朝はあるとき、弟・義経が平家を滅ぼした功績によって、
朝廷から官位を賜ると、これに激怒し、義経を死に追いやっている。
官位を受けた義経は、
「朝廷に取り込まれて、武家政権を危うくする裏切り者だ」
としたのである。
ー今、三代将軍・実朝が、和歌を通じて朝廷と結びつき、政所を行おう
としている。このことは鎌倉の武士たち、特に執権・北条義時にとって、
武家政治の危機と映りはじめていた。


助走用カプサイシンを三匙ほど  平井美智子



鎌倉時代の女たち
その後ろでは、男がややこをあやしている。


「政子は悪女ではなかった」

当時の武士階級の女性は、夫が死んだあと、家の中で非常に大きな権限
を握った。つまり、夫亡きあと、後家は家父長権を代行するのを認めら
れており、親子関係でいえば、親権が非常に強かった。
たとえば、母親と息子が違った意見を出したとすると、当時の人たちは
母親の意見に賛同した。
政子の頼家に対する諫めの言葉にしても、常識的でしかも冷静なものだ
から、御家人たちの指示を得られた。
息子だからといって、偏愛をしなかった。


さみどりの対角線にある戦さ  合田瑠美子


頼家が側近だけを大切にしたり、一所懸命の武士たちの土地に対して、
真剣に考えて取扱わなかったりしたのを見、実朝が、後鳥羽上皇と協調
路線を取ろうとするのを見、また聞くにつけ、政子は、生まれながらの
東国の女性だから、息子たちがだんだん違った方向へ行っているという
感は拭えなかっただろう。


親バカのどこかに支障ありますか  清水すみれ

 
新しい社会の建設を亡き夫・頼朝の路線に沿ってすすめていくか、
自分の子どもをとるか、二者択一を迫られたとしたら、
政子は躊躇なく、新しい社会の建設という方向を選んだ。
その決定が多くの御家人たちの支持を得て、鎌倉を北条を育てていった。
とはいえ、根の優しい政子は、期待した息子たちが、
期待どおりにいってくれない、というもどかしさを胸に抑え込んで、
「母の情をおろそかにした」というわけではない。


有刺鉄線越えるかキミと抱き合うか  酒井かがり
 
 
「尼御台所の心配事ー兼子が持ってきた結婚話はうまくいったが…」

尼御台所であり、母である政子にとって、一つの心配事があった。
「いつまで経っても実朝に跡継ぎが生れず、幕府の後継者が定まらない」
ことである。
建保6年(1218)2月4日、政子63歳は、京の都を訪れた。
実朝に子どもが恵まれないので、朝廷にかけあって、皇族の一人を跡継ぎ
に迎えるためであった。皇族を将軍に迎えれば、
<朝廷と幕府のもっとうまくいくようになるに違いない>
と、いう思いもあった。
この時、政子は、朝廷から従三位という高い位を授けられ、後鳥羽上皇
会うことも許された。しかし、政子は、
「辺鄙の老尼、竜眼に咫尺(しせき)するもその益なし」
と、答えて辞退した。
(片田舎の老いた尼が上皇様にお会いしても何もよいことはございません)


お疲れのようだ あちこちから煙  竹内ゆみこ

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圏外の方へまがっていくキュウリ  みつ木もも花



            鎌 倉 武 士 の 館


建仁3年(1202)~元久2年(1205)の3年間鎌倉が揺れた。
揺れは、頼家が征夷大将軍になった建仁3年の5月、頼朝の弟で叔父に
あたる阿野全成が謀反の疑いで討たれた事にはじまった。
7月には、頼家が重病に一時重態となる。
8月、その病いにより頼家は、若狭局との間にもうけた一幡と弟千幡
権限を委譲する。
9月、頼家の命を受け北条氏打倒を企てた比企能員が、誅殺される。
(この能員誅殺の知らせを聞いた比企一族は、一幡を擁して、小御所に
 立てこもり抵抗を試みたが、圧倒的な軍勢の前に脆くも破れ、
 一族のほとんどは若宮一幡と共に自決した)
 
 
どうなるのだろう裏表紙のけむり  大島都嗣子


頼家は武士たちの領地を勝手に奪い、他の者に与えたり、土地をめぐる
武士同士の争いを、不正に裁くという行いが絶えなかった。
ー領地は武士の命。
土地を疎かにする者は、武家の棟梁にふさわしくない。
「頼家追放事件」は、そうした武士たちの怒りが爆発したクーデターだ
ったのである。
頼家追放から8日後の9月15日、第三代将軍が誕生した。
頼朝の血を引く12歳の実朝は、武士たちの結束の象徴として三代将軍
に据えられたのである。
その29日、病の回復した頼家だが、伊豆修善寺に流され幽閉される。


こだわりを捨ててふぬけになったトゲ  上西延子



    政所別当・大江広元


翌月8日、3代将軍・実朝の元服式が執り行われた。
政子にとって、頼朝以来の偉業を継続することのほうが大切であった。
征夷大将軍になった実時は、まだ12歳。当然、実際に政務を司るわけ
もなく、後見人として祖父である北条時政がその役割を得た。
それも大江広元と共に政所別当という地位で堂々と行えるのである。
実朝の元服の儀では時政、広元それぞれの嫡男である義時、親広が雑具
持参の役を受けもっている。
この特別な役割を得たことは、北条・大江両氏の権力の象徴ともいえた。


穏やかな時間に灯す青ランプ  中野六助


しかし、元久2年7月、ふたたび事件が起った。
時政が刺客を放ち、伊豆に幽閉されていた頼家を暗殺したのである。
さらに時政は、こともあろうに、自分の館に住まわせている実の孫・
実朝の命を狙いはじめた。
幼い将軍・実朝を補佐するはずの時政の乱心。
その裏には、時政の若い妻・牧の方の思惑があった。
牧の方は溺愛する娘婿を将軍に据えるよう、時政を唆したのである。
それには源氏直系の血を引く二代将軍・頼家、三代将軍・実朝を亡き
者にする必要があった。


菜箸を削って削って爪楊枝  笠嶋恵美子


密告によってこれを知った実朝の母・政子は愕然とした。
<なんということを>
父時政は我が子・頼家を殺し、その上実朝まで手にかけようとしている。
この源氏への裏切りを、武士たちが許すはずもない。
政子はすぐに行動を起こした。
同年7月19日、政子は父時政の館から実朝を救い出し、
弟・義時の館に匿い住まわせた。
この知らせを聞くと、鎌倉中の武士が実朝のいる館に結集し、
源氏への忠誠を示した。
一方、執権でありながら私利私欲に走り、源氏を裏切ろうとした時政
従う者はなかった。
観念し、出家を余儀なくされた時政は、妻・牧の方とともに伊豆に追放
される。
祖父・時政に命を狙われ、その時政の娘である政子に命を救われた実朝
は、骨肉相争う修羅場の中から、将軍として歩み始めたのである。
(これが建仁元久の鎌倉が揺れた事変である)

 
黄昏色のドアに待ったをかけておく  前岡由美子



       鎌倉の棟梁となった北条義時


「鎌倉殿の13人」 いよいよ義時の時代へ


こうなれば、いよいよ義時「ナンバー1」というわけである、
が…ふしぎなことに、彼はわざとその座に顔をそむけた。
父に代って、執権になったのだからナンバー1であるはずなのに…である。
義時は、姉の政子をその座に据えた。
父親は、後妻に甘い顔を見せたりするから油断がならないが、
政子は母を同じくする姉だし、三十数年、それこそ緊密な連帯感をもって
行動してきた。


花まるを大きく描いて自画自賛  津田照子


以来、政子は幼い将軍の母親として、幕政に隠然たる発言力を持つよう
になる。世間には政子像が誤り伝えられており、最初から権力を振るっ
たように思われがちだが、政子の公的活動はむしろこれからなのである。
いわば政子は、義時によって作られた、幕府のシンボルなのである。
ではなぜ義時は、ナンバー1になることを避けたか。
「ほんとうに権力を弄ぶのには、ナンバー2でいるのにかぎる」
43年の人生を経てきた男の、これが結論だった。
そしてもう一つ、
「親父は本気で、俺の代りに朝雅を推すつもりかもしれぬ」
との考え方も脳裡にあった。
<朝雅が鎌倉の棟梁に…なんてことがあってはならない> のだ。


影武者に日光浴をさせている  月波余生

 
朝雅の家、平賀氏はたしかに源氏の血はひいているが、頼朝一族とは
格が違う。父親の義信は、とっくに頼朝に臣下の礼をとっているし、
まかりまちがっても将軍になれる毛並みではない。
ただ、「将軍の座を狙った」といえば誅殺しやすいから、これを口実に
したにすぎないのだ。
が、執権の座なれば話は別だ。
時政が先妻の息子・義時をさしおいて後妻の娘婿を後継者にする可能性
は大いにある。
それを見ぬいた義時は、本命は朝雅打倒にありながら、
その前段階として、父を引退させ、朝雅の基盤にゆさぶりをかけた。
<謀叛が事実だったかどうか> などは問題外だ。
義時は、牧の方畠山父子を陥れた手をそっくり使い、
平賀朝雅を誅殺してしまったのである。


雲梯の二段抜かしよ喫水線  蟹口和枝
 




「牧の方が畠山父子を陥れた手とは」


元久元年10月14日に、3代将軍源実朝の妻となる坊門信清の息女を
迎えるため、北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保らを上洛させ、
牧の方は鎌倉で嫁取りの総指揮官として、腕をふるっていた。
牧の方の娘婿である平賀朝雅は、京都に駐在し鎌倉側の窓口にある。
「都の姫君をお迎えするのですからね、こちらからも、目鼻立ちの整っ
 た若武者をさしむけねば…ごつい田舎者ばかり行ったのでは、笑いも
 のにされます」
という意向で選ばれた若者の中には、もちろん、牧の方が時政との間に
もうけた自慢の息子16歳の政範も入っていた。
政範と朝雅を都で会わせ、<姫君の側近第一号>にしようという魂胆が
見えすいている。


親バカのどこかに支障ありますか  清水すみれ


ところが、はりきって京都へ向った政範が、なんと京で病に侵され、
あっけなく死んでしまう。
涙をこらえて嫁迎えだけは、順調に済ませたものの、牧の方の胸ははれ
ない。怒りの矛先に彼女は、はけ口を探した。
狙われたのは、政範とともに嫁迎えに行った畠山重忠の嫡子・重保である。
この畠山一族と朝雅とは、以前から仲がよくなかった。
都についた重保は、些細な事から朝雅と喧嘩し、あわや大乱闘という
ところまでいってしまった。
その時は周囲の人々に止められて無事におさまったものの、
この噂はたちまち鎌倉に伝えられた。


てのひらの川が氾濫しています  通利一遍


「あの重保めが、婿の朝雅と揉めている…?」
<重保め、政範が死んだのもきっとあいつのせいに違いない>
牧の方は怒りを増幅させ、遂に夫の時政をそそのかし、重保に謀叛の
汚名を着せて虐殺してしまうことを計画する。
――そして、<この際親父の重忠もやっつけてしまったら……>
牧の方はさらに時政を煽りたてた。


この線は君がなんとかしなくっちゃ  宮井いずみ



        馬上の北条時房(時連)


時政としても、強大な畠山がいなくなることは望むところである。
「じゃ、重忠親子が謀叛を企んだということにするか」
そこで時政は、義時とその弟・時房に、秘密の計画をうちあけた。
 時政・牧の方の謀略にはまり、畠山重忠・重保父子は無抵抗のまま
義時・時房に討たれる。元久2年6月22日のことであった。
 
 
移ろいの季節に棒杭をたてる  高橋 蘭

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花巡り孤独の深さ分かち合う  靏田寿子
 

 
                                      明 月 記

 
「藤原定家の素顔」

定家は、鎌倉初期の大歌人.。「千載和歌集」「新古今和歌集」の編纂
を行ったりしたが、現在のわれわれには「百人一首」の選者としてのほ
うが馴染み深い。
『明月記』はそんな彼が19歳から80歳で没するまで記された日記だ。
そこには、源平争乱期から鎌倉初期の出来事が、細かに記されており、
定家ファンが「ウソ!ホント!」がっかりしそうな他人の悪口などなど
当代随一の文化人らしからぬ記述もあり、定家という1人の「貴族の真
姿」を自虐のように正直に記している。
たとえば、定家24歳のとき、些細なことで、言い合いになった同僚の
源雅行を蝋燭で殴りつけ、謹慎処分を受けたり…など。
案外と激しやす
い人間だったのかもしれない。


赤染まる忘れた過去のリトマス紙  峯島 妙


また彼は、任官への執念が深かったようで、当時の権力者であった藤原
兼子を「狂女」と罵りながら、金品を贈って機嫌をうかがい、庇護を期
待していた…ことなどはよく知られていることだ。
さらに中納言になりたいがために、九条道家に執拗に食い下がって嘆願
を続け、この願いが果たせなければ、「一層のこと死んでしまいたい」
とまで、その心情を(「明月記」に)記している。


ドスの利いた声で清楚な佇まい  前中一晃


だが、その執念もわからなくもない。
和歌の大家としての名声があっても、裕福な暮らしをしていたわけでは
なかったのだ。
彼の家族は、妻と11人の子どもの他に、同居人や従者、女房、下女を
合わせて30人余り。
定家はこれらの人々を養っていかねばならなかった。
さらに、文化人としての、交際費や都にあった広い屋敷の維持費、など、
その苦しい生活状況を察することができる。
そう考えると、プライドをかなぐり捨てて、家族のために頑張る親父み
たいで、応援したくなる。


引き際を探しあぐねている蚯蚓  河村啓子


「鎌倉殿の13人」 百人一首 & 後鳥羽上皇と藤原定家


菊歌の帝王といわれた後鳥羽上皇と同時代の代表的宮廷歌人・藤原定家
2人を結びつけたものは、もちろん「和歌の世界」であった。
上皇21歳、定家39歳。
上皇は、定家の和歌の世界に強く心を惹かれ、定家は上皇によってその
才能を世に広く認められるようになった。
上皇は定家の才能を見出し、定家は上皇の芸術上の師となったのである。
ところが、18も歳の違う2人の蜜月時代は、そう長く続かなかった。


嵐の章に挟まれていた栞  清水すみれ


和歌に政治的なものを求めようとする上皇と、和歌を純粋に文学として
捉えようとする定家とでは、根本的に和歌観が違うのである。
2人の確執は、上皇が起こした「承久の乱」直前に決定的となった。
承久2年(1220)2月13日の内裏の歌会で、定家が場所柄をわき
まえない言葉をつかったことに対して、上皇の怒りが炸裂し、
定家は、宮廷の歌会からボイコットされてしまった。
宮廷で歌を詠むことを禁じられたのだから、宮廷歌人にとっては失脚同
然であった。


消しゴムを借りぱなしにした別れ  山本秀子




           時代不同歌合絵 (中務卿具平親王愚詠)京都国立博物館蔵)
隠岐で後鳥羽が編んだ歌合を絵画化


「承久の乱」に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐島へ流罪となった。
定家は上皇と仲違いしていたことも幸いし、歌詠みとしては異例の出世
とも思える、権中納言に任ぜられる。
しかし、彼は、一年でその職を退き、小倉山の麓にこもってしまった。
一方配流の身となった上皇は、隠岐での19年間を、和歌の世界に没頭
した。上皇が隠岐で編纂した「時代不同歌合」には、時代を超えて選ば
れた万葉以来の100人の王朝歌人の歌が、それぞれ3首ずつ掲載され
ていた。その中には、藤原定家の名前も入っていた
隠岐の動向に人一倍注意している定家の耳に、この便りがつたわらない
はずはない。上皇と不自然な別れ方をした定家だあったからこそ、
この「時代不同歌合」の思いもよらない嬉しい便りは、彼を天にも昇る
心地にさせたに違いない。


けんかして喧嘩して許してしまう  市井美春
 


     百 人 一 首
ちはやふる この方が百人一首一番人気らしい。これが正規の色男です。


藤原定家が編纂した「百人一首」は、王朝社会から武家社会への大きな
時代の転換期に産み落とされた作品である。
「小倉百人一首」として、われわれの耳には馴染み深いが、実はこの作
品の裏側には、余人には考えも及ばないような秘密が隠されていた。
定家がこの作品に盛り込もうとしたメッセージとは…?


言い訳は出来ない七月の指紋  山本早苗


  
    藤原定家              後鳥羽上皇


「メッセージ」

定家が編纂したとされる「百人一首」には、隠岐の後鳥羽上皇に対する
定家の思いが、隠されている。
「上皇を思う気持ちを言葉で」伝えたいという衝動と、しかし言葉では
表現できないというジレンマが定家を苦しめた。
その結果、生まれたのが「百人一首」である。
上皇は、鎌倉幕府の最大の敵である。
うっかり上皇の肩入れをしようものなら、即刻、捕えられ、国賊として
上皇同様に配流に処されるのである。
そこで定家は、百首の歌を選ぶとき、隠岐に流されている後鳥羽上皇を
連想させる言葉の入った歌を選んだ。
「おき」=「隠岐」、「あま」=「海士」のように、定家にしかわから
ない暗号句である。
(「海士」は上皇が19年間暮らした流刑地中の島にある海士浦(あま
のうら)のこと。)


手のひらにそっと頂くひとり分  津田照子


世の中はつねにもがもな渚漕ぐ あまの小舟の網手かなしも
                        93番 源 実朝
(この世の中が、いつまでも変わらないでほしいものだなあー。
 渚を漕いでゆく漁師の小舟が、網手をひかれるさまは、何とも愛おし
 いものだ)


よく見ればやっぱりこの世おもしろい   新家完司


わたの原漕ぎいでてみればひさかたの 雲居にまがふの白波
                        11番 藤原忠通
(広々とした海上へ船を漕ぎ出して見渡すと、はるか遠くでは、
 白い雲と見分けのつかぬように立っている沖の白波よ)


待ち受けはあの日の空にしています  宮井いずみ


心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花
                       29番 凡河内躬恒
(この辺がそれであろうと折るなら、あて推量に折ってもみようか。
 初霜があたり一面に降りて、霜なのか白菊なのか、さっぱり分からな
 くなっている。そんな白菊の花であるよ)


折鶴の仕上げに祈り吹き入れる  石川柳寿


わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと 人にはつげよあまの釣り船
                    76番 小野 篁(たかむら)
(あの篁は、広々とした海原はるかに、多くの島々をめざして、船を
 漕ぎ出して行ったと都にいるあの人に告げておくれ。漁師の釣舟よ)


無理ですよ昨日はやって来ないから  太下和子


人もおし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆえに物思う身は
                       99番 後鳥羽上皇
(人が愛おしくもあり、人が恨めしいとも思われる。つまらないことに
 この世をあれこれと思うがゆえに思い悩む、この身には)


さっきまできっと菜の花だった蝶  鏡渕和代


藤原定家は、数ある上皇の歌の中から、流刑地において、上皇が詠んだ
この一首を「百人一首」に入れた。
「思い通りにいかないこの世を嘆き、人々に対する愛情と恨み」
を詠いこんだ暗い和歌である。
こうして定家は、自分だけにしかわからない暗号に等しい歌を集め、
後鳥羽上皇への思いの丈を、彼一流のストーリーに創り上げたのである。


度の合わぬメガネと遊ぶおぼろ月  田村ひろ子
 


    藤 原 定 家


藤原定家は自分の和歌も一首、「百人一首」のなかに収めている。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

この歌の中で待つ人とは勿論、後鳥羽上皇である。
(松帆の海岸で、夕方に焼かれる藻塩みたいに、愛しい彼を待っている。 
 私の心も恋い焦がれている)
松帆の浦は、淡路島の北端にある地名。夕凪どき、すなわち夕方ころの
海面は波がない。そこで藻塩を焼いている。(藻塩を焼く=塩作り)


ふわり雲なくしたものがでてきたわ  山本昌乃

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追憶の道サンザシの実が浮かぶ  宮井いずみ


 
                       実朝エピソードに出てくる相模川橋脚跡

 
大正12年、関東大震災と余震による液状化現象で相模川付近にあった
水田から、突如太い木の柱のようなものが出現した。
調査によりこれらが鎌倉時代、相模川にかけられた「橋の橋脚」である
ことが考証された。
出現した10本の柱の配置から、現在とは異なり、相模川は東西方向に
流れており、橋は、南北方向に架けられていたことが分かった。
橋の大きさは、幅約9m、長さは40m以上あることも分かった。
 『吾妻鑑』によると、橋は源頼朝の家臣・稲毛重成が架かけたもので、
頼朝が渡り初めをした、とある。
この相模川橋脚は、歴史遺産としての重要性に加え、関東大震災の地震
状況を示す天然記念物、また当地の地域遺産として保存されている。


自然薯のように私は永らえる  岸本 清


「鎌倉殿の13人」 実朝エピソード



  モズ、獲物を獲保の場面


episode ①  鷹とモズ

3代将軍となった実朝は、繊細な性格の中にも将軍としての威厳も持ち
合わせた父・頼朝に似たところがあったようだ。
 例えば15歳の時、鷹を扱わせたは名人といわれる鷹飼の櫻井齋頼
「小さな鳥のモズでも、鷹のように獲物を捕らえさせることができる」
と、聞いた。すぐにそれを見たくてしょうがない実朝は、相州すなわち
執権・北条義時に相談をした。そのとき
「子どものようなことを言って、自分でもしょうがないと思うけれど」
と、恥ずかしそうに、付け加えている。
実朝の家臣を思いやる、優しい心が垣間見られる言葉遣いである。
この時、義時は、実朝の希望を察して、すでに齋頼を呼んでいたので、
このすぐあと、齋頼が現れ、スズメを三羽捕えてみせたので、実朝は、
すっかりご機嫌になった、という。
そこには、やはりまだ幼さの抜けない少年、実朝の姿があった。


鏡には父に似てきた顔がある  広瀬勝博



    相模川橋脚史跡


episode ②  相模川にかかる橋修理

相模川にかかる橋の修理を三浦義村が上申した。
その橋は、頼朝が完成時の席に招かれた帰路に落馬して「やがて死んだ」
といういわくつきだったため、それを不吉とした北条義時らが、修理の
不要を決めたという報告をすると、実朝は「不吉なことなど関係ない。
それよりもこの橋は伊豆・箱根の参詣道で、民衆の往復にも便利だから
早く修理するように」と、改めて修理を命じたという。
部下への心配りや政治家としての、見識の高さを示す実朝の小さなエピ
ソードだが、兄・頼家の乱行に手を焼いた母・政子にとっては、
将来を期待させるには十分だった。


くすぐってやるとほぐれるわだかまり  青砥たかこ
 
 
 
          実朝の妻 (大通寺蔵) 
 
 
episode ③  実朝の妻

幕府の実権を握っていく北条氏に頭が上がらなかった観がある実朝だが、
『吾妻鏡』では、そうそう北条氏の言いなりになっていない。
有力御家人で、源氏一族の足利氏の娘を娶るよう北条氏から働きがけが
あっても、実朝は頑として受け付けず、京の公家の娘を妻に迎えている。

 実朝の妻は、建久4年 (1193) 京都生まれ。
姉妹2人ずつが、後鳥羽順徳の後宮に入る家柄で、幕府と後鳥羽院
結ぶ政略結婚であったが、実朝自身が妻には、京の娘を求めていた。
1つ上の実朝とは仲睦まじく、2人してよく寺社詣でや花見などに出か
けたという。
しかし、実朝が暗殺されてしまうと、翌日には出家し、京都へ帰った。
そして、実朝が所有していた西八条第に住み、尼となって実朝の菩提を
弔う寺として、遍照心院を建てている。
晩年、「代々将軍家の祈祷を行う寺院として、廃れることのないよう、
戒行を保ち、寺物を私物化しない律僧を長老とすること」を定めている。
あれほどの強い姑・政子とも円満だった、ことからみても、かなりしっ
かりした女性だったらしい。


1+1はたいがいビブラート  くんじろう



  執務の一時、蹴鞠を楽しむ実朝ら


episode ④  実朝の政治感覚

「承元三年十一月十四日、相州、年来の郎従のうち、功あるの者をもっ
 て、侍に准ずべきの旨、仰せ下さるべきの由、これを望み申さる。
 内々その沙汰ありて、御許容なし。その事を聴さるるにおいては、
 然るごときの輩、子孫の時に及びて、定めて以往の由緒を忘れ、
 誤りて幕府参昇を企てんか。御難を招くべきの因縁なり。
 永く御免あるべからざるの趣厳密に仰せ出さる、と、云々」

叔父の義時「功績ある自分の家来を御家人の列に加えて欲しい」と、
願い出たのを実朝が許さなかった。
「御家人に引き立てれば、本人たちは特例であったことをわきまえても、
 子孫の代にはそんなことすっかり忘れ、後々の争いのタネとなりかね
ない」と、実朝は厳しく言い渡している。
実朝がまだ18歳のときの事だから、後に北条氏の家来たちが「御家人」
として専横を極め、幕府が衰退する原因のひとつとなったことを考えると、
実朝には、優れた先見性、政治感覚があったことが察せられる。


三回目の欠伸ここらで保釈する  藤村タダシ



      太子信仰・聖徳太子絵伝  (秦致真筆)


episode ⑤  実朝が尊敬する歴史上の人物

「承元四年十月十五日、聖徳太子の十七条の憲法ならびに守屋逆臣の跡
 の収公田の員数在所、および、天王寺法隆寺に納め置かるるところの
 重實等の記、将軍家日来御尋ねあり。廣元朝臣相触れて、これを尋ね
 今日進覧すと云々」
「同年十一月廿二日、御持仏堂において、聖徳太子の御影を供養せらる。
 眞智房法橋隆宣導師たり。この事日来の御願と云々」

実朝聖徳太子に非常に関心を寄せていたことを示す記事である。
後者の太子の肖像の供養は、他の年にもでてくる。
また、太子を拝するだけでなく、十七条の憲法を見たり、太子と戦った
物部氏の記録まで求めさせている実朝の行動からは、聖徳太子の実際の
政治的動向を具体的に知りたいという意思が見えてくる。


青ジソが芝の中まではえている  平井和美



      唐 船


episode ⑥  実朝の夢を砕いた謎の宋人

寿永元年(1182)からの「東大寺大仏の再興」に携わり、重源上人
をサポートしていた陳和卿という宋朝の鋳物師がいた。
 建久6年(1195)東大寺復興の落慶供養に参席した頼朝が、この
和卿に会いたいと希望したが「多くの生命を断ってきた頼朝は罪深い」
として拒否した経緯がある人物である。
 その和卿が21年後の建保4年(1216)、鎌倉へひょっこり姿を
現し、時の将軍・実朝と対面した。和卿は実朝の前で、
「あなたの前世は、宋国医王山の長老で、自分はその時に一門弟として
仕えていた」と、涙を流しながら話した。
実朝も5年ほど前、夢の中で1人の高僧が同じことを言ったことを思い
出し、和卿を信じてしまう。
こうして交流していくうちに、和卿の話に引き込まれた実朝は、
中国へ渡る「唐船」の製造を決意し、和卿にそれを命じた。


ドクターの意見にだけは素直なり  靍田久子

 
宋商船想像図 (谷井健三画)
鎌倉時代、日本と宋を往復する船を唐船と呼んでいた。


1年後、大きな唐船が完成した。
由比ガ浜の海に船を浮かべる引き手に、御家人数百人が召し出され、
和卿の指示で舟を出す……はずだったのだがいくら引いても船は動かず、
海に浮かべるどころではない。
由比ガ浜は、唐船のような大きな船は、出入りできない浅瀬だったのだ。
その海の深浅も考えずに、船をつくった和卿の失敗だった。
この和卿、船の進水に失敗するやいなや、さっと姿を消してしまった。


不発弾捨てにときどき旅に出る  原 洋志

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