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川柳的逍遥 人の世の一家言
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圏外の方へまがっていくキュウリ  みつ木もも花



            鎌 倉 武 士 の 館


建仁3年(1202)~元久2年(1205)の3年間鎌倉が揺れた。
揺れは、頼家が征夷大将軍になった建仁3年の5月、頼朝の弟で叔父に
あたる阿野全成が謀反の疑いで討たれた事にはじまった。
7月には、頼家が重病に一時重態となる。
8月、その病いにより頼家は、若狭局との間にもうけた一幡と弟千幡
権限を委譲する。
9月、頼家の命を受け北条氏打倒を企てた比企能員が、誅殺される。
(この能員誅殺の知らせを聞いた比企一族は、一幡を擁して、小御所に
 立てこもり抵抗を試みたが、圧倒的な軍勢の前に脆くも破れ、
 一族のほとんどは若宮一幡と共に自決した)
 
 
どうなるのだろう裏表紙のけむり  大島都嗣子


頼家は武士たちの領地を勝手に奪い、他の者に与えたり、土地をめぐる
武士同士の争いを、不正に裁くという行いが絶えなかった。
ー領地は武士の命。
土地を疎かにする者は、武家の棟梁にふさわしくない。
「頼家追放事件」は、そうした武士たちの怒りが爆発したクーデターだ
ったのである。
頼家追放から8日後の9月15日、第三代将軍が誕生した。
頼朝の血を引く12歳の実朝は、武士たちの結束の象徴として三代将軍
に据えられたのである。
その29日、病の回復した頼家だが、伊豆修善寺に流され幽閉される。


こだわりを捨ててふぬけになったトゲ  上西延子



    政所別当・大江広元


翌月8日、3代将軍・実朝の元服式が執り行われた。
政子にとって、頼朝以来の偉業を継続することのほうが大切であった。
征夷大将軍になった実時は、まだ12歳。当然、実際に政務を司るわけ
もなく、後見人として祖父である北条時政がその役割を得た。
それも大江広元と共に政所別当という地位で堂々と行えるのである。
実朝の元服の儀では時政、広元それぞれの嫡男である義時、親広が雑具
持参の役を受けもっている。
この特別な役割を得たことは、北条・大江両氏の権力の象徴ともいえた。


穏やかな時間に灯す青ランプ  中野六助


しかし、元久2年7月、ふたたび事件が起った。
時政が刺客を放ち、伊豆に幽閉されていた頼家を暗殺したのである。
さらに時政は、こともあろうに、自分の館に住まわせている実の孫・
実朝の命を狙いはじめた。
幼い将軍・実朝を補佐するはずの時政の乱心。
その裏には、時政の若い妻・牧の方の思惑があった。
牧の方は溺愛する娘婿を将軍に据えるよう、時政を唆したのである。
それには源氏直系の血を引く二代将軍・頼家、三代将軍・実朝を亡き
者にする必要があった。


菜箸を削って削って爪楊枝  笠嶋恵美子


密告によってこれを知った実朝の母・政子は愕然とした。
<なんということを>
父時政は我が子・頼家を殺し、その上実朝まで手にかけようとしている。
この源氏への裏切りを、武士たちが許すはずもない。
政子はすぐに行動を起こした。
同年7月19日、政子は父時政の館から実朝を救い出し、
弟・義時の館に匿い住まわせた。
この知らせを聞くと、鎌倉中の武士が実朝のいる館に結集し、
源氏への忠誠を示した。
一方、執権でありながら私利私欲に走り、源氏を裏切ろうとした時政
従う者はなかった。
観念し、出家を余儀なくされた時政は、妻・牧の方とともに伊豆に追放
される。
祖父・時政に命を狙われ、その時政の娘である政子に命を救われた実朝
は、骨肉相争う修羅場の中から、将軍として歩み始めたのである。
(これが建仁元久の鎌倉が揺れた事変である)

 
黄昏色のドアに待ったをかけておく  前岡由美子



       鎌倉の棟梁となった北条義時


「鎌倉殿の13人」 いよいよ義時の時代へ


こうなれば、いよいよ義時「ナンバー1」というわけである、
が…ふしぎなことに、彼はわざとその座に顔をそむけた。
父に代って、執権になったのだからナンバー1であるはずなのに…である。
義時は、姉の政子をその座に据えた。
父親は、後妻に甘い顔を見せたりするから油断がならないが、
政子は母を同じくする姉だし、三十数年、それこそ緊密な連帯感をもって
行動してきた。


花まるを大きく描いて自画自賛  津田照子


以来、政子は幼い将軍の母親として、幕政に隠然たる発言力を持つよう
になる。世間には政子像が誤り伝えられており、最初から権力を振るっ
たように思われがちだが、政子の公的活動はむしろこれからなのである。
いわば政子は、義時によって作られた、幕府のシンボルなのである。
ではなぜ義時は、ナンバー1になることを避けたか。
「ほんとうに権力を弄ぶのには、ナンバー2でいるのにかぎる」
43年の人生を経てきた男の、これが結論だった。
そしてもう一つ、
「親父は本気で、俺の代りに朝雅を推すつもりかもしれぬ」
との考え方も脳裡にあった。
<朝雅が鎌倉の棟梁に…なんてことがあってはならない> のだ。


影武者に日光浴をさせている  月波余生

 
朝雅の家、平賀氏はたしかに源氏の血はひいているが、頼朝一族とは
格が違う。父親の義信は、とっくに頼朝に臣下の礼をとっているし、
まかりまちがっても将軍になれる毛並みではない。
ただ、「将軍の座を狙った」といえば誅殺しやすいから、これを口実に
したにすぎないのだ。
が、執権の座なれば話は別だ。
時政が先妻の息子・義時をさしおいて後妻の娘婿を後継者にする可能性
は大いにある。
それを見ぬいた義時は、本命は朝雅打倒にありながら、
その前段階として、父を引退させ、朝雅の基盤にゆさぶりをかけた。
<謀叛が事実だったかどうか> などは問題外だ。
義時は、牧の方畠山父子を陥れた手をそっくり使い、
平賀朝雅を誅殺してしまったのである。


雲梯の二段抜かしよ喫水線  蟹口和枝
 




「牧の方が畠山父子を陥れた手とは」


元久元年10月14日に、3代将軍源実朝の妻となる坊門信清の息女を
迎えるため、北条政範・結城朝光・千葉常秀・畠山重保らを上洛させ、
牧の方は鎌倉で嫁取りの総指揮官として、腕をふるっていた。
牧の方の娘婿である平賀朝雅は、京都に駐在し鎌倉側の窓口にある。
「都の姫君をお迎えするのですからね、こちらからも、目鼻立ちの整っ
 た若武者をさしむけねば…ごつい田舎者ばかり行ったのでは、笑いも
 のにされます」
という意向で選ばれた若者の中には、もちろん、牧の方が時政との間に
もうけた自慢の息子16歳の政範も入っていた。
政範と朝雅を都で会わせ、<姫君の側近第一号>にしようという魂胆が
見えすいている。


親バカのどこかに支障ありますか  清水すみれ


ところが、はりきって京都へ向った政範が、なんと京で病に侵され、
あっけなく死んでしまう。
涙をこらえて嫁迎えだけは、順調に済ませたものの、牧の方の胸ははれ
ない。怒りの矛先に彼女は、はけ口を探した。
狙われたのは、政範とともに嫁迎えに行った畠山重忠の嫡子・重保である。
この畠山一族と朝雅とは、以前から仲がよくなかった。
都についた重保は、些細な事から朝雅と喧嘩し、あわや大乱闘という
ところまでいってしまった。
その時は周囲の人々に止められて無事におさまったものの、
この噂はたちまち鎌倉に伝えられた。


てのひらの川が氾濫しています  通利一遍


「あの重保めが、婿の朝雅と揉めている…?」
<重保め、政範が死んだのもきっとあいつのせいに違いない>
牧の方は怒りを増幅させ、遂に夫の時政をそそのかし、重保に謀叛の
汚名を着せて虐殺してしまうことを計画する。
――そして、<この際親父の重忠もやっつけてしまったら……>
牧の方はさらに時政を煽りたてた。


この線は君がなんとかしなくっちゃ  宮井いずみ



        馬上の北条時房(時連)


時政としても、強大な畠山がいなくなることは望むところである。
「じゃ、重忠親子が謀叛を企んだということにするか」
そこで時政は、義時とその弟・時房に、秘密の計画をうちあけた。
 時政・牧の方の謀略にはまり、畠山重忠・重保父子は無抵抗のまま
義時・時房に討たれる。元久2年6月22日のことであった。
 
 
移ろいの季節に棒杭をたてる  高橋 蘭

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花巡り孤独の深さ分かち合う  靏田寿子
 

 
                                      明 月 記

 
「藤原定家の素顔」

定家は、鎌倉初期の大歌人.。「千載和歌集」「新古今和歌集」の編纂
を行ったりしたが、現在のわれわれには「百人一首」の選者としてのほ
うが馴染み深い。
『明月記』はそんな彼が19歳から80歳で没するまで記された日記だ。
そこには、源平争乱期から鎌倉初期の出来事が、細かに記されており、
定家ファンが「ウソ!ホント!」がっかりしそうな他人の悪口などなど
当代随一の文化人らしからぬ記述もあり、定家という1人の「貴族の真
姿」を自虐のように正直に記している。
たとえば、定家24歳のとき、些細なことで、言い合いになった同僚の
源雅行を蝋燭で殴りつけ、謹慎処分を受けたり…など。
案外と激しやす
い人間だったのかもしれない。


赤染まる忘れた過去のリトマス紙  峯島 妙


また彼は、任官への執念が深かったようで、当時の権力者であった藤原
兼子を「狂女」と罵りながら、金品を贈って機嫌をうかがい、庇護を期
待していた…ことなどはよく知られていることだ。
さらに中納言になりたいがために、九条道家に執拗に食い下がって嘆願
を続け、この願いが果たせなければ、「一層のこと死んでしまいたい」
とまで、その心情を(「明月記」に)記している。


ドスの利いた声で清楚な佇まい  前中一晃


だが、その執念もわからなくもない。
和歌の大家としての名声があっても、裕福な暮らしをしていたわけでは
なかったのだ。
彼の家族は、妻と11人の子どもの他に、同居人や従者、女房、下女を
合わせて30人余り。
定家はこれらの人々を養っていかねばならなかった。
さらに、文化人としての、交際費や都にあった広い屋敷の維持費、など、
その苦しい生活状況を察することができる。
そう考えると、プライドをかなぐり捨てて、家族のために頑張る親父み
たいで、応援したくなる。


引き際を探しあぐねている蚯蚓  河村啓子


「鎌倉殿の13人」 百人一首 & 後鳥羽上皇と藤原定家


菊歌の帝王といわれた後鳥羽上皇と同時代の代表的宮廷歌人・藤原定家
2人を結びつけたものは、もちろん「和歌の世界」であった。
上皇21歳、定家39歳。
上皇は、定家の和歌の世界に強く心を惹かれ、定家は上皇によってその
才能を世に広く認められるようになった。
上皇は定家の才能を見出し、定家は上皇の芸術上の師となったのである。
ところが、18も歳の違う2人の蜜月時代は、そう長く続かなかった。


嵐の章に挟まれていた栞  清水すみれ


和歌に政治的なものを求めようとする上皇と、和歌を純粋に文学として
捉えようとする定家とでは、根本的に和歌観が違うのである。
2人の確執は、上皇が起こした「承久の乱」直前に決定的となった。
承久2年(1220)2月13日の内裏の歌会で、定家が場所柄をわき
まえない言葉をつかったことに対して、上皇の怒りが炸裂し、
定家は、宮廷の歌会からボイコットされてしまった。
宮廷で歌を詠むことを禁じられたのだから、宮廷歌人にとっては失脚同
然であった。


消しゴムを借りぱなしにした別れ  山本秀子




           時代不同歌合絵 (中務卿具平親王愚詠)京都国立博物館蔵)
隠岐で後鳥羽が編んだ歌合を絵画化


「承久の乱」に敗れた後鳥羽上皇は、隠岐島へ流罪となった。
定家は上皇と仲違いしていたことも幸いし、歌詠みとしては異例の出世
とも思える、権中納言に任ぜられる。
しかし、彼は、一年でその職を退き、小倉山の麓にこもってしまった。
一方配流の身となった上皇は、隠岐での19年間を、和歌の世界に没頭
した。上皇が隠岐で編纂した「時代不同歌合」には、時代を超えて選ば
れた万葉以来の100人の王朝歌人の歌が、それぞれ3首ずつ掲載され
ていた。その中には、藤原定家の名前も入っていた
隠岐の動向に人一倍注意している定家の耳に、この便りがつたわらない
はずはない。上皇と不自然な別れ方をした定家だあったからこそ、
この「時代不同歌合」の思いもよらない嬉しい便りは、彼を天にも昇る
心地にさせたに違いない。


けんかして喧嘩して許してしまう  市井美春
 


     百 人 一 首
ちはやふる この方が百人一首一番人気らしい。これが正規の色男です。


藤原定家が編纂した「百人一首」は、王朝社会から武家社会への大きな
時代の転換期に産み落とされた作品である。
「小倉百人一首」として、われわれの耳には馴染み深いが、実はこの作
品の裏側には、余人には考えも及ばないような秘密が隠されていた。
定家がこの作品に盛り込もうとしたメッセージとは…?


言い訳は出来ない七月の指紋  山本早苗


  
    藤原定家              後鳥羽上皇


「メッセージ」

定家が編纂したとされる「百人一首」には、隠岐の後鳥羽上皇に対する
定家の思いが、隠されている。
「上皇を思う気持ちを言葉で」伝えたいという衝動と、しかし言葉では
表現できないというジレンマが定家を苦しめた。
その結果、生まれたのが「百人一首」である。
上皇は、鎌倉幕府の最大の敵である。
うっかり上皇の肩入れをしようものなら、即刻、捕えられ、国賊として
上皇同様に配流に処されるのである。
そこで定家は、百首の歌を選ぶとき、隠岐に流されている後鳥羽上皇を
連想させる言葉の入った歌を選んだ。
「おき」=「隠岐」、「あま」=「海士」のように、定家にしかわから
ない暗号句である。
(「海士」は上皇が19年間暮らした流刑地中の島にある海士浦(あま
のうら)のこと。)


手のひらにそっと頂くひとり分  津田照子


世の中はつねにもがもな渚漕ぐ あまの小舟の網手かなしも
                        93番 源 実朝
(この世の中が、いつまでも変わらないでほしいものだなあー。
 渚を漕いでゆく漁師の小舟が、網手をひかれるさまは、何とも愛おし
 いものだ)


よく見ればやっぱりこの世おもしろい   新家完司


わたの原漕ぎいでてみればひさかたの 雲居にまがふの白波
                        11番 藤原忠通
(広々とした海上へ船を漕ぎ出して見渡すと、はるか遠くでは、
 白い雲と見分けのつかぬように立っている沖の白波よ)


待ち受けはあの日の空にしています  宮井いずみ


心あてに折らばや折らむ初霜の おきまどはせる白菊の花
                       29番 凡河内躬恒
(この辺がそれであろうと折るなら、あて推量に折ってもみようか。
 初霜があたり一面に降りて、霜なのか白菊なのか、さっぱり分からな
 くなっている。そんな白菊の花であるよ)


折鶴の仕上げに祈り吹き入れる  石川柳寿


わたの原八十島かけて漕ぎいでぬと 人にはつげよあまの釣り船
                    76番 小野 篁(たかむら)
(あの篁は、広々とした海原はるかに、多くの島々をめざして、船を
 漕ぎ出して行ったと都にいるあの人に告げておくれ。漁師の釣舟よ)


無理ですよ昨日はやって来ないから  太下和子


人もおし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆえに物思う身は
                       99番 後鳥羽上皇
(人が愛おしくもあり、人が恨めしいとも思われる。つまらないことに
 この世をあれこれと思うがゆえに思い悩む、この身には)


さっきまできっと菜の花だった蝶  鏡渕和代


藤原定家は、数ある上皇の歌の中から、流刑地において、上皇が詠んだ
この一首を「百人一首」に入れた。
「思い通りにいかないこの世を嘆き、人々に対する愛情と恨み」
を詠いこんだ暗い和歌である。
こうして定家は、自分だけにしかわからない暗号に等しい歌を集め、
後鳥羽上皇への思いの丈を、彼一流のストーリーに創り上げたのである。


度の合わぬメガネと遊ぶおぼろ月  田村ひろ子
 


    藤 原 定 家


藤原定家は自分の和歌も一首、「百人一首」のなかに収めている。

来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや藻塩の 身もこがれつつ

この歌の中で待つ人とは勿論、後鳥羽上皇である。
(松帆の海岸で、夕方に焼かれる藻塩みたいに、愛しい彼を待っている。 
 私の心も恋い焦がれている)
松帆の浦は、淡路島の北端にある地名。夕凪どき、すなわち夕方ころの
海面は波がない。そこで藻塩を焼いている。(藻塩を焼く=塩作り)


ふわり雲なくしたものがでてきたわ  山本昌乃

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追憶の道サンザシの実が浮かぶ  宮井いずみ


 
                       実朝エピソードに出てくる相模川橋脚跡

 
大正12年、関東大震災と余震による液状化現象で相模川付近にあった
水田から、突如太い木の柱のようなものが出現した。
調査によりこれらが鎌倉時代、相模川にかけられた「橋の橋脚」である
ことが考証された。
出現した10本の柱の配置から、現在とは異なり、相模川は東西方向に
流れており、橋は、南北方向に架けられていたことが分かった。
橋の大きさは、幅約9m、長さは40m以上あることも分かった。
 『吾妻鑑』によると、橋は源頼朝の家臣・稲毛重成が架かけたもので、
頼朝が渡り初めをした、とある。
この相模川橋脚は、歴史遺産としての重要性に加え、関東大震災の地震
状況を示す天然記念物、また当地の地域遺産として保存されている。


自然薯のように私は永らえる  岸本 清


「鎌倉殿の13人」 実朝エピソード



  モズ、獲物を獲保の場面


episode ①  鷹とモズ

3代将軍となった実朝は、繊細な性格の中にも将軍としての威厳も持ち
合わせた父・頼朝に似たところがあったようだ。
 例えば15歳の時、鷹を扱わせたは名人といわれる鷹飼の櫻井齋頼
「小さな鳥のモズでも、鷹のように獲物を捕らえさせることができる」
と、聞いた。すぐにそれを見たくてしょうがない実朝は、相州すなわち
執権・北条義時に相談をした。そのとき
「子どものようなことを言って、自分でもしょうがないと思うけれど」
と、恥ずかしそうに、付け加えている。
実朝の家臣を思いやる、優しい心が垣間見られる言葉遣いである。
この時、義時は、実朝の希望を察して、すでに齋頼を呼んでいたので、
このすぐあと、齋頼が現れ、スズメを三羽捕えてみせたので、実朝は、
すっかりご機嫌になった、という。
そこには、やはりまだ幼さの抜けない少年、実朝の姿があった。


鏡には父に似てきた顔がある  広瀬勝博



    相模川橋脚史跡


episode ②  相模川にかかる橋修理

相模川にかかる橋の修理を三浦義村が上申した。
その橋は、頼朝が完成時の席に招かれた帰路に落馬して「やがて死んだ」
といういわくつきだったため、それを不吉とした北条義時らが、修理の
不要を決めたという報告をすると、実朝は「不吉なことなど関係ない。
それよりもこの橋は伊豆・箱根の参詣道で、民衆の往復にも便利だから
早く修理するように」と、改めて修理を命じたという。
部下への心配りや政治家としての、見識の高さを示す実朝の小さなエピ
ソードだが、兄・頼家の乱行に手を焼いた母・政子にとっては、
将来を期待させるには十分だった。


くすぐってやるとほぐれるわだかまり  青砥たかこ
 
 
 
          実朝の妻 (大通寺蔵) 
 
 
episode ③  実朝の妻

幕府の実権を握っていく北条氏に頭が上がらなかった観がある実朝だが、
『吾妻鏡』では、そうそう北条氏の言いなりになっていない。
有力御家人で、源氏一族の足利氏の娘を娶るよう北条氏から働きがけが
あっても、実朝は頑として受け付けず、京の公家の娘を妻に迎えている。

 実朝の妻は、建久4年 (1193) 京都生まれ。
姉妹2人ずつが、後鳥羽順徳の後宮に入る家柄で、幕府と後鳥羽院
結ぶ政略結婚であったが、実朝自身が妻には、京の娘を求めていた。
1つ上の実朝とは仲睦まじく、2人してよく寺社詣でや花見などに出か
けたという。
しかし、実朝が暗殺されてしまうと、翌日には出家し、京都へ帰った。
そして、実朝が所有していた西八条第に住み、尼となって実朝の菩提を
弔う寺として、遍照心院を建てている。
晩年、「代々将軍家の祈祷を行う寺院として、廃れることのないよう、
戒行を保ち、寺物を私物化しない律僧を長老とすること」を定めている。
あれほどの強い姑・政子とも円満だった、ことからみても、かなりしっ
かりした女性だったらしい。


1+1はたいがいビブラート  くんじろう



  執務の一時、蹴鞠を楽しむ実朝ら


episode ④  実朝の政治感覚

「承元三年十一月十四日、相州、年来の郎従のうち、功あるの者をもっ
 て、侍に准ずべきの旨、仰せ下さるべきの由、これを望み申さる。
 内々その沙汰ありて、御許容なし。その事を聴さるるにおいては、
 然るごときの輩、子孫の時に及びて、定めて以往の由緒を忘れ、
 誤りて幕府参昇を企てんか。御難を招くべきの因縁なり。
 永く御免あるべからざるの趣厳密に仰せ出さる、と、云々」

叔父の義時「功績ある自分の家来を御家人の列に加えて欲しい」と、
願い出たのを実朝が許さなかった。
「御家人に引き立てれば、本人たちは特例であったことをわきまえても、
 子孫の代にはそんなことすっかり忘れ、後々の争いのタネとなりかね
ない」と、実朝は厳しく言い渡している。
実朝がまだ18歳のときの事だから、後に北条氏の家来たちが「御家人」
として専横を極め、幕府が衰退する原因のひとつとなったことを考えると、
実朝には、優れた先見性、政治感覚があったことが察せられる。


三回目の欠伸ここらで保釈する  藤村タダシ



      太子信仰・聖徳太子絵伝  (秦致真筆)


episode ⑤  実朝が尊敬する歴史上の人物

「承元四年十月十五日、聖徳太子の十七条の憲法ならびに守屋逆臣の跡
 の収公田の員数在所、および、天王寺法隆寺に納め置かるるところの
 重實等の記、将軍家日来御尋ねあり。廣元朝臣相触れて、これを尋ね
 今日進覧すと云々」
「同年十一月廿二日、御持仏堂において、聖徳太子の御影を供養せらる。
 眞智房法橋隆宣導師たり。この事日来の御願と云々」

実朝聖徳太子に非常に関心を寄せていたことを示す記事である。
後者の太子の肖像の供養は、他の年にもでてくる。
また、太子を拝するだけでなく、十七条の憲法を見たり、太子と戦った
物部氏の記録まで求めさせている実朝の行動からは、聖徳太子の実際の
政治的動向を具体的に知りたいという意思が見えてくる。


青ジソが芝の中まではえている  平井和美



      唐 船


episode ⑥  実朝の夢を砕いた謎の宋人

寿永元年(1182)からの「東大寺大仏の再興」に携わり、重源上人
をサポートしていた陳和卿という宋朝の鋳物師がいた。
 建久6年(1195)東大寺復興の落慶供養に参席した頼朝が、この
和卿に会いたいと希望したが「多くの生命を断ってきた頼朝は罪深い」
として拒否した経緯がある人物である。
 その和卿が21年後の建保4年(1216)、鎌倉へひょっこり姿を
現し、時の将軍・実朝と対面した。和卿は実朝の前で、
「あなたの前世は、宋国医王山の長老で、自分はその時に一門弟として
仕えていた」と、涙を流しながら話した。
実朝も5年ほど前、夢の中で1人の高僧が同じことを言ったことを思い
出し、和卿を信じてしまう。
こうして交流していくうちに、和卿の話に引き込まれた実朝は、
中国へ渡る「唐船」の製造を決意し、和卿にそれを命じた。


ドクターの意見にだけは素直なり  靍田久子

 
宋商船想像図 (谷井健三画)
鎌倉時代、日本と宋を往復する船を唐船と呼んでいた。


1年後、大きな唐船が完成した。
由比ガ浜の海に船を浮かべる引き手に、御家人数百人が召し出され、
和卿の指示で舟を出す……はずだったのだがいくら引いても船は動かず、
海に浮かべるどころではない。
由比ガ浜は、唐船のような大きな船は、出入りできない浅瀬だったのだ。
その海の深浅も考えずに、船をつくった和卿の失敗だった。
この和卿、船の進水に失敗するやいなや、さっと姿を消してしまった。


不発弾捨てにときどき旅に出る  原 洋志

拍手[4回]

起きなさい朝日迎えに来てますよ  中野六助
 
 
 
        北条政子
 
 
① 『女人此国ヲバ入眼スト申伝ヘタルハ是也』
(女人が日本の国を完成するといい伝えられているのは、
 このことである)

② 『女人入眼ノ日本国イヨイヨマコト也ケリト云ベキニヤ』
(日本国は女人が最後の仕上げをする国であるということは、
 いよいよ真実であるというべきではあるまいか)
(慈円は『愚管抄』に「日本国女人入眼」とか
  「女人此国ヲバ入眼ス」などと繰り返し述べている)


むら雲の嗚呼の部分のうすべにの  宮井いずみ


「鎌倉殿の13人」 北条政子・藤原兼子+慈円




「女人入眼」
 
「入眼」は、絵を描く時など最後に瞳を点じて完成とすることから、
「物事を成し遂げる、仕上げをするといった意味」で、慈円政子
「男たちが戦で彫り上げた国の形に、玉眼を入れるのは、女人であろう
 と、私は思うのですよ」と、語る。
 「入眼」とは、古辞書に「成就」の意とある。
 日本の国の仕上げをするのは、「女性」だというのである。
 
 
一日に二回は空へ吠えている  森 茂俊


「日本国女人入眼」の例としては、北条政子、藤原兼子から後白河法皇
の女御・建春門院、さらには古代の女帝まで含めて、かなり広い範囲に
わたっており、女帝の問題は特に重視されている。
慈円には、女人政治を基準とする時代区分があるとし。
「奈良時代の末までは、女帝の時代、平安時代は皇室から女帝を建てず、
 藤原鎌足の子孫が妻后(さいこう)・母后(ぼこう)となり、后の父
 に政治を行わせた時代。そして、その後に来るのが、退位した上皇が
 天皇の父として院政を行う時代」 としている。


仕上げには星の雫を二、三滴  合田瑠美子



     慈 円


「なぜ女性が活躍するのか」

「人間は母胎から生まれ、出産の苦痛は、言語を絶したものであって、
 人は女性である母の恩を受けているのだから、母を敬い孝養を尽くす
 のは当然であり、それ故に女性が政治に活躍するのだ」
と、慈円は延べ、母性としての女性の特質から説明している。


母という万能薬を持っている  田辺豊子


藤原鎌足の子孫であり、摂関家の出身である慈円が、
子女を天皇の后として政権を握ってきた摂関政治を合理化しているのは
当然であるが、それに留まらず、女性の本質に関する仏教思想的な省察
が見られるようである。
慈円の言うように、鎌倉前期は、「女流政治家」の時代である。
兼子の先輩には、後白河法皇の寵を得た高階栄子(丹後局)がいるし、
政子が争った相手には、北条時政の後妻・牧の方がいる。
しかし、これらの中では、いうまでもなく政子のスケールが際立って大
きい。
(政子を詠ったものとして、次の句がある)


一盛り六十余洲後家差配   江戸川柳
 
 
 慈円は、女人政治家の特質を母性に求めた。
丹後局牧の方は、この条件でまず失格である。
彼らは権力者の母ではなく、妻であるから、陰で権力者を操る程度の
ことしかできない。
藤原兼子は、後鳥羽上皇の乳母で、上皇よりも25年も年長だから
上皇に対しては、母に準ずる立場にあったといえよう。
45歳で典侍としてスタートして雇用されたのだから、
よほど有能だったのだろう。
しかし、所詮は上皇の秘書にすぎないから、上皇の機嫌をとり、后妃
だけでなく上皇、お気に入りの白拍子の世話まで焼かねばならない。


幸せな振りをしている飾り窓    田中 俊子  


手腕を振るったといっても、上皇に内密に奏聞したにすぎず、
それも多くは官位の昇進についてである。
それに対し政子は、頼朝の妻であったが、活躍するのは夫の没後であり、
将軍頼家・実朝の母としてであるから憚ることなく、権力を振るうこと
ができたのである。
とかく恐れられがちな、政子という女人のために、
とくに弁明しておきたいのは、頼家・実朝に対する彼女の行為が、
当時としては、何ら異様なものではないということである。


俎板の模様は母の形見です  北島 澪


武士の家庭では、親は子に対して、絶対の権限をもっており、
子を思いのままに勘当すらできる。
それは主として、父の権限であるが、父の死後は母が行使する。
親から見て不肖の子であれば、それを勘当するのは、家門を繁栄させる
立場からいえば当然なのだから、政子頼家を勘当したのは、
親の権限によるのである。
頼家を殺したことに政子はあずかっていないし、実朝にいたっては、
政子や北条氏が擁立したのであるから、殺害を唆す筈もない。
子どもに対する仕打ちで、政子が非難される理由はまったくない。


一の波二の波父と母である  太田のりこ



       北条政子


それよりも慈円を驚かせたのは、政子が父の時政を幽閉したことであり、
確かに当時の家族のあり方からは非難されることである。
「実朝が母、頼朝が後家ナレバ」
と、説明しているように、時政の主人にあたる頼朝、実朝の後家であり
母であるから家来である時政を幽閉したのも、当然だということであろ
うが、当時の主従と親子の軽重からいえば、政子の選択が普通であると
は必ずしも思えない。

それだけ政子の行為が、公人としての、より高い立場からなされている
ことになるし、また実朝を大事と考えていたことが、この面からも論証
される。


春の日の紙飛行機は二人乗り  米山明日歌


しかし政子、「真に指導者として、独裁的な手腕を発揮した」のは、
実朝の没後であった。
慈円は妻后とか母后とか、男性との関係で女性政治家ととらえているが、
それでは男性権力者の影にすぎないことになり、
妻でもなく、母でもない、独身の女性の方が、独裁者の条件に相応しい
のではなかろうか。
あるいはまた、古代の女帝の多くがそうであったように、
政子は頼経が成人するまでの繋ぎの意味を、持っていたのかもしれない。       
                         (上横手雅敬)


心配は母の職業病と知る  伊藤良一 




「女人入眼」は、永井沙耶子さん著で現代版人気発売中です。
 2022年7/22発表の直木賞候補でしたが、今どき感が弱くて惜しむ
らく負けてしまいました。総合点では勝っていたのに、なぜか賞を獲得
したのは、窪美澄『夜に星を放つ』でした。が、ドラマ性は断トツの評。
ということは、面白いということ。歴史好きの方には、必読の書である
ことは間違いなし。なお、
今年の直木賞・芥川賞の作者は、両方とも女性だったことを書き添えて
おきましょう。まさに「女人入眼」です。

(あらすじ)
権勢を誇った後白河院の死後、都ではその寵妃・丹後局と関白の九条
兼実が権力争いを繰り広げていた。
丹後局は、鎌倉の頼朝を味方にするため、女官の周子を鎌倉に送り込み、
大姫を天皇に嫁がせようとする。
男たちが彫り上げた国という仏に目を入れるのは女たち……。
パワーゲームに翻弄され心を閉ざす大姫を、周子は救えるのか…
歴史好きの方には必読の書です。


クライマックスまで、3・2・・・・・ 山口ろっぱ
 


  丹後局(鈴木京香)


「藤原兼子」

卿の二位、あるいは今日の局とも呼ばれた藤原兼子
彼女は後鳥羽院の乳母であったことから、天皇の趣味・嗜好を熟知して
おり、後鳥羽が上皇になってからも彼に愛人や、美少年を世話するなど
して、うまくとりいった。
さらに当時、権勢を誇っていた源通親と結び、盤石の地位を獲得した。
陰から政治に口を出し、富と権力を欲しいままにしたのだ。
兼子は、任官叙位の権限まで握っていたので、
皆こぞって立身出世のために賄賂を贈った。
藤原定家などは、彼女を「狂女」呼ばわりしながら、
ちゃっかり昇進の斡旋を依頼している。


ひらがなのふの字の好きな人が好き  佐藤正昭


兼子はこうして得た金や土地屋敷を転売交換して、地価の上がりそうな
二条大路近辺の一等地を買い占めた。
財テク、土地転がしの手腕も一流だったのだ。
兼子は実朝の後継者について政子と折衝し、自分が養育した後鳥羽上皇
の皇子・頼仁親王を次期将軍にと画策したが、これは実現しなかった。
幕府の権力にまでその手を伸ばそうとしていたのだから恐れ入る。
まさに宮中随一のやり手バァであった。


海亀の甲羅びっしり苔むして  くんじろう
 


   松崎天神縁起 一人で旅する女性


「蛇足」 鎌倉時代の女は強かった。

「武家の女性は男性を陰で支えるもの」
というイメージがあるが、鎌倉時代はちょっと違ったようだ。
兄弟たちと並んで、女子も所領を相続することができた。
家を継ぐ嫡子は、通常は男であったが、ときには女が嫡子として
一族の惣領になることもあったのである。
また、夫が亡くなった場合は、後家として譲与され所領を一族の代表と
して管理しなければならなかった。
地頭職に就く女性もいたというから、この時代の武家の女は、
強くなければならなかったのである。


禁煙せねば灰皿飛んでくる  銭谷まさひろ



  前大僧正慈円

慈円は歌人としても名高く、6千首を超える数が残っている。
歌仙絵にもその独特の風貌が描かれている。歌仙絵の歌は、
おほけなく うき世の民に おほうかな  わが立つ杣に 墨染の袖 "


 「慈円」

「愚管抄』は、承久の乱(1221)が起る直前に書かれており、
この中で慈円は、後鳥羽上皇の無謀な倒幕計画を痛烈に批判している。
「愚管抄」の目的は、上皇の幕府転覆を阻止することにあったようだ。
摂関家という名門出身であり、加えて僧としても、天台座主も任じられた
ことのある慈円は、世の「変遷」「道理」の展開ととらえた。
藤原氏による摂関政治も、鎌倉幕府の成立すべて「道理」であり、
よって保元の乱(1156)以降の武家勢力の台頭は必然であると、肯定した。
慈円は、兄・九条兼実と同じく親幕府派の人物であった。
東大寺開眼供養の折に、上洛した頼朝と対面し、まるで旧知の仲のように
打ち解けたという。
疑り深い性格の頼朝がすぐに心を許したのだから、慈円の寛大な人柄が
想像される。


玄関で積乱雲になってます  森田律子

拍手[5回]

横隔膜 流人の辿りついた波  高橋 蘭
 


                  橋を渡る人々

人々で賑わう四条大橋。当時の京の中心地であるとともに街道の出発点
でもあった。武士・僧侶・女・子供と様々な人が行き交う。

 
鎌倉二代将軍・実朝は、京風文化の憧れは強く、和歌や蹴鞠を好んだ。
特に和歌に熱中し、藤原定家鴨長明に指導を仰いだほどである。
元久2年(1205)9月、自らも数首ほど出した「新古今和歌集」が、
後鳥羽院より藤原定家の門弟・内藤兵衛尉朝親が届けた。

朝親 「もっと早くにお届けしたかったのですが…」
実朝 「いや~、待ち焦がれておった」
” 見渡せば花ももみじもなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮れ "
 実朝 「これは定家殿の歌だな…父上の歌もあるぞ…」
" みちすがらふじの煙もわかざりきはるるまもなき空の景色に "
相模国・三浦三崎にて (実朝の3句)
” 世の中はつねにもがもな渚こぐ あまのを舟の綱手かなしも "
伊豆の海と初島を眺めて
" 箱根路をわが越えくれば伊豆の海や 沖の小島に波のよるみゆ "
" 大海の磯もとどろによする波 割れて砕けて裂けて散るかも "

実朝の詠んだ和歌は、後に「金槐和歌集」に纏められた。


木漏れ日を浴びて詩人の顔になる  郷田みや
 


      鴨長明の草庵の想像復元図

 庵の東側に3尺余りのひさしを差し出して、その下を柴を折って
  燃やすところ(炊事場)とした。
② 東側隅にわらびの穂を綿代わりにした敷物を敷いて寝床にした。
 室内は西側北の部分に衝立を立て、その奥に阿弥陀如来と普賢菩薩
  の絵をかかけ、前には法華経を置いてある。
 西側の南半分に、竹のつり棚を拵えて、黒い皮籠を3つ置いた。
  中には、歌書・楽書さらに「往生要集」などの抜き書きを入れた。 
  その横には琴と琵琶をそれぞれ一面ずつ立ててある。
 南側に竹の簀の子板を敷く。


小さくなった庵の前に立ち庵を眺める長明


 
「鎌倉殿の13人」 鴨長明・方丈記&古今和歌集


『ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
 よどみにうかぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、
 久しくとどまりたるためしなし。
 世の中にある人と棲(すみか)と、又かくの如し』


この有名な書き出しで始まる『方丈記』の作者・鴨長明は、久寿2年
(1155)京・下鴨神社の禰宜(下級神官)鴨長継ながつぐ)の
次男として生まれた。
若くして、父方の祖母の家を継いだ長明の未来は、前途洋々だったが、
19歳で父を失うと急速に没落し、その後は失意の生活を送ることに
なる。30歳を過ぎてから、祖母の家を出て加茂川の畔の庵に移るが、
その大きさは、「以前の家の10分の1しかなかった」と、長明は書
き残している。
平家の没落から鎌倉幕府の樹立へと、激しく激動する時代のなか、
長明は、和歌と管弦の道に没頭し、やがて歌人として認められるよう
になった。


すーっと風洗い流してくれました  津田照子


建仁元年(1201)長明は、後鳥羽上皇によって再興された和歌所の
寄人(よりうど)として抜擢される。
しかし、ここでも長明の不運は続く。
後鳥羽上皇の庇護によって、いったんは下鴨河合社の禰宜に就くことが
決っていたが、同族の妨害によって実現しなかったのだ。
この生涯2度目の挫折に悲嘆した長明は、50歳で出家し京都・大原に
隠棲する。
だが、ここも安住の地ではなかったらしく、承元2年(1208)長明
は、大原から日野山の奥に移り、いわゆる一丈四方(4畳半程)の草庵
を結んだ。新しい住まいは、最初に作った庵の100分の1にも足りな
い大きさだった。


平均という甘い居場所にしがみつく  原 洋志
 




日野山に移ってから間もなく、長明『新古今和歌集』の選者の1人で
ある藤原雅経に伴われて、鎌倉に赴く。
すでに長明は、新古今和歌集に10首も入るほど、和歌の名手として知
られていた。
雅経は、こうした長明の才能を惜しみ、歌人としても名高い将軍・実朝
の歌道師範として推挙したのだ。
鎌倉では、実朝と何度も和歌談義し、指導もしたが、結局、この最後の
仕事も長くはつづかなかった。


階段はいらん養成所の裏手  酒井かがり


京へ戻った長明が、建暦2年(1212)3月、自らの生涯を顧み乍ら、
草庵での暮らしぶりを書いたのが『方丈記』なのである。
方丈記の前半は、長明が体験したさまざまな災害が簡潔で迫力に満ちた
文体で語られている。
そして後半では、自らの半生と日野山に庵を結んだ経緯と、
そして庵の形態や日々の暮らしぶりが綴られ、長明の院政生活を垣間見
ることができる。
長明がたどり着いた終の栖とは、どんなものだったのだろうか。


 あるときはナマコあるときはイタチ  笠嶋恵美子


長明「方丈の庵」は、組み立て式で、いつでも何処へでも運んでいけ
るつくりになっていた。
土台を組み、簡単な屋根をつくり、木と木のつなぎ目ごとにつなぎ留め
の金具をかけて固定した。
これは、その土地が気に入らなくなれば、手軽にほかの場所へ家を移動
させるためで、いわば、モンゴルの遊牧民の住居である「包(ばお)」
と同じである。
当然、家具もいたって少なく、わずかな所持品をおく棚、阿弥陀仏や菩
薩の画像、文机、炊事用の竈など、全部でも、荷車2台分しかない。
また寝床は、わらびの穂を入れた敷物を布団の代りにしていた。


八月はキャットタワーを塒とす  山本早苗
 




庵の周辺は南に懸樋(かけひ)があり、岩を組み立てて水が溜まるよう
にしている。
近くには林があるので、薪にする小枝には不自由しない。
念仏・読経に身が入らないときは、散策に出かけ、山草を摘んだり、
山芋を採ったり、時には、麓の田圃に行って落穂拾いなどもする。
所有欲を捨てた、まさに隠者のシンプルライフである。


『よどみに浮ぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、
 久しくとゞまりたるためしなし。
 世中にある、人と栖(すみか)と、又かくのごとし』


思いっきりここで泣いてもいいんだよ  蟹口和枝


『たましきの都のうちに、棟(むね)を並べ、甍を争へる、
 高き、いやしき人の住ひは、世々を経て、尽きせぬ物なれど、
 是をまことかと尋れば、昔しありし家は稀なり。
 或は去年焼けて今年つくれり。
 或は大家(おほいへ)ほろびて小家(こいへ)となる。
 住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、
 いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。 
 朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似りける』


欠点をさらすと楽になる余生  靏田寿子


『不知、生れ死ぬる人、何方より来たりて、何方へか去る。
 又不知、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか
 目を喜ばしむる。
 その、主と栖と、無常を争ふさま、いはゞあさがほの露に
 異ならず。或は露落ちて花残れり。
 残るといへども、朝日に枯れぬ。
 或は花しぼみて露なほ消えず。
 消えずといへども、夕を待つ事なし』


耳に落つ涙は海になってゆく  平井美智子


家を、人と世の無常の象徴としてとらえ、晩年に住んだ「方丈の庵」
思いを託した鴨長明の「方丈記」は、俗世間の煩わしさから解放された
隠者として生きることの宣言でもあった。

枕とていづれの草に契ちぎるらむ行くをかぎりの野辺の夕暮
(今夜は枕として、どこの草と縁を結んで寝れば良いのだろう)

見ればまづいとど涙ぞもろかづらいかに契りてかけはなれけん
(前世で結んだ契りのせいで、賀茂社と縁が切れてしまったのだろうか)


無印で生きて笑顔を友とする  柴辻踈星


   
    後鳥羽院             鎌倉右大臣実朝


「後鳥羽上皇の『古今和歌集』への熱意」


後鳥羽上皇が和歌に熱中し始めたのは、譲位の直後、「六百番歌合」
「花月百首」など、当代の天才秀才たちの作品に触れてからだった。
和歌は帝王学の基本の一つとして、元服以前から専門家の教育を受けて
きたが、そのような義務的な親しみ方の時には鬱陶しいばかりであった。
それが上皇となって、ゆったりとそれらの作品を味わうようになると、
たちまち興味を惹かれたのである。


人になる準備句集抱きしめる  藤本鈴菜


やがて、才気渙発な上皇は、正治2年(1200)7月、新しい勅撰集
『新古今和歌集』の編纂を思い立つ。
建仁元年(1201)には、和歌所を置いて、宮廷貴族の中の指折りの
和歌の名手たちに、何度も百首歌を詠進させた
後鳥羽上皇は、そこから二千余首の候補作を選び、何度も選考を重ねて
いった。
藤原定家など撰者に任命された者たちは、その作業の大変さに疲労困憊
したが、院はますます熱中するばかりだった。
「新古今和歌集」頼朝の和歌を採ったのも、幕府を傘下におさめよう
とする上皇の政治思想によるものであろう。
こうして元久2年(1205)、一応の完成を見た。
その序文には、
「歌は世を治め、民を和らぐる道とセリ」とある。
実朝はこの「新古今和歌集」をきっかけに、民のために政を行った朝廷
政治を学んだ。
そしてそれを将軍としての理想とするようになっていったのである。


君を見る丸い水晶体を持つ  河村啓子

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