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都市伝説ー東京タワー伝説

都市伝説ー東京タワー伝説






            増上寺の裏にたつ東京タワー

現在の東京タワーがある場所は、その昔は裏鬼門である増上寺の敷地内でした
が、戦後の区画整備等により、増上寺はその敷地の多くを手離し、当時墓地で
あった敷地は、関東一円に電波を送る東京タワーへと変わりました。



「東京タワーの鋼材」
午前零時、「ライトアップが消える瞬間を一緒に見たカップルは幸福になる」
という。ライトダウン伝説でも有名な東京タワーだが、鉄骨で組みあげた、
この鉄塔には重厚鋼材の風貌から想起させる「もう一つ」の都市伝説がある。
「東京タワーは戦車でできている」というのだ。
東京タワーの広報担当は「50数年前の建設当時は、良質な鋼材が不足してい
た、そこで活用されたのがそこで活用されたのが朝鮮戦争で廃車になった米軍
の戦車でした。大展望台より上の部分には、戦車を溶かして作った頑強な鋼材
が使われています。その都市伝説は本当です」「あと、設備工事の関係で午後
10時には消灯してしまいます。しかし、それでも幸福になれるはずです」






 芝の増上寺は関東における浄土宗の総本山で、徳川二代将軍その他
の霊廟があります。増上寺の背後一帯を芝公園と称し、上野、日比谷、
浅草と共に、東京市の四大公園の一つとして、古くから市民に親しま
れています。





          増上寺と東京タワー





「その他、東京タワーに関する都市伝説」
1)「墓地跡の建設にまつわる心霊現象」
  東京タワーの場所は、かつて増上寺の墓地敷地であり、非常階段での霊の
  目撃談や、西側の鉄脚が少しずつ地中に沈んでいるという。
2)「フリーメイソンとの関係」
  東京タワーのすぐ近くに日本グランドロッジ(フリーメイソンの日本本部)
  があることから、建設や運営に秘密結社が関わっている。という説。
(フリーメイソン=18世紀ころから続く悪魔崇拝している秘密結社)
「東京タワーの都市伝説の始まり」
江戸幕府と平将門の関係から始まります。京の都に反旗を翻し、関東で挙兵した
平将門は、不死身とも言われた強靭な肉体を持っていましたが、急所を狙われて
即死し、その首は京都へと運ばれました。しかし将門の首は死してもなおパワー
を持ち続け、刑場から空へと舞いあがりそのまま東へ向けて飛び、関東平野へと
落ちた。そして、死してもなお続く、将門の怨霊パワーを味方につけたのが、
その後の江戸幕府でした。江戸幕府は、将門に縁のある神社を、江戸城下に効果
的に配置し、将門のパワーを江戸城下を守るための結界としました。






増上寺では、毎年、夏から秋にかけて、通常は一般公開されていない「光摂殿大
広間」を会場とした人気の怪談イベント『不可思議話会』が開催されています。


1)光摂殿の怪奇エピソード
会場となる増上寺の建物や地下・管理スペース等では、不可解な濡れた子供の
裸足の足跡や誰もいないのに耳元で聞こえる笑い声といった体験談が、出演者
や関係者によって語られています。
2)歴史的伝承
江戸時代、芝・増上寺の法主を務めた高僧・祐天上人が、法力や念仏によって、
女性の怨霊を成仏させたという古い伝話を話されました。
(今年は9月26日に開催されました)





         100万人のキャンドルナイト




100万人のキャンドルナイトは “でんきを消して スローな夜を” を合言葉に、
2003年にスタートした野外イベント。夏至と冬至の20:00から22:00までの2
時間、電気を消してキャンドルの灯りの下、ひとりひとりが思い思いの時間
を過ごすことができる。(今年は9月12日に開催されました)

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都市伝説ー議事堂・開かずの間と主役不在の台座

都市伝説ー国会議事堂・「開かずの間」と「主役不在の台座」



         中 央 塔 屋 八 階 ホ ー ル





「開かずの間」
中央投屋8階ホールーふだんは、4階止まりのエレベーターで7階に向かい、
階段で8階に上がったところにあるホールだ。広さは270平方㍍。
東京スカイツリーは、高さ634メートルで日本一高い建物だが、戦後しばらく
日本一の高さを誇ったのが、高さ65メートル余りの国会議事堂である。
ランドマークになっているピラミッド型の屋根がある部分は中央塔と呼ばれ、
ここに国会議員も特別な機会にしか入れない「開かずの間」がある。
(5階から7階は、吹き抜けになっているがなぜか階数がつけられている。
9階は展望台になっている)






「主役不在の台座」
中央広間の銅像。四隅の内、一か所だけ空いている理由は、人選が難航
したから「政治は常に未完である」ことを意味する。




「なにがあった?」
国会議事堂中央塔やは、9階建てだが、5階より上は、議員も入れない。
「開かずの間」だ。その理由は、かつてダンス練習場だった8階の窓から失恋
した若い女性が飛び降り自殺をしたからだと言われる。
また、中央広間の広間には、板垣退助などの銅像が置かれているが、北側の一
ヶ所かだけが空いている。
像の尻が皇居に向くのでこの位置を避けたとも。
二つの伝説について参議院広報担当は「自殺の記録はありません。
防災上の理由で非公開なだけ。銅像の件は、真偽不明と返答しているが…。






     板垣退助    大隈重信    伊藤博文




 ※ 「主役不在」の台座が空席の理由としての3つの説。
 その ① 「政治に完成はない」説
 「政治は未完成であり、完成を目指してこれからも発展し続ける」
  という「未来への戒め」とする説。
 その ② 人選の持ち越し説
 当時、4人目にふさわしい政治家を誰にするか決めかねたため、将来
 へ先送りしたという現実的な説。
 その ③ 議員への激励・国民の席説
 「将来ここに並ぶほどの偉大な政治家を目指しなさい」という現役議
 員への激励、あるいは「主役は主権者である国民である」とする解釈

「開かずの間が開くとき」
開くのは、次の3つの機会に限られている。
1. 衆議院総選挙、または参議院通常選挙の後に召集される国会で、議員が初
 登院するとき。
2. 天皇陛下を議事堂にお迎えするとき
3. 外国の国賓(大統領や国王など)を議事堂に招くとき。





        国 会 議 事 堂 玄 関 大 広 間





「設置されている銅像の3人とは」
昭和13年(1938)大日本帝国憲法発布50周年を記念して、日本の議会政治
の基礎作りに多大な功績のあった3人のブロンズ像が建てられた。
1、板垣退助
 自由民権運動を起こし、日本初の政党である自由党の党首となった物。
1、大隈重信
 日本初の政党内閣の総理大臣となり、立憲改進党の党首として活躍した
1,伊藤博文
 初代内閣総理大臣であり、大日本帝国憲法の起草の中心となった。

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都市伝説ー千駄ヶ谷トンネルの亡霊

都市伝説ー千駄ヶ谷トンネルの亡霊





       千 駄 ヶ 谷 ト ン ネ ル




千駄ヶ谷トンネルは、かつて付近に広大なお寺の墓地(仙寿院墓地)
があったことから、数々の心霊現象や亡霊の噂で有名なスポット。
 このトンネルは、全長約300mの都市型トンネルで。1964年の東
京オリンピック開催に伴う都市整備の一環で建設され、仙寿院墓地
の下を通るという特殊な構造を持つため、心霊スポットとしても有
名「心霊現象」の噂や都市伝説が多く語られる。近年では、アニメ
「呪術廻戦」の聖地のひとつとしても注目され、全国から多くの訪
問者が足を運ぶ場所となっている。





       昼 間 の千 駄 ヶ 谷 ト ン ネ ル 



①  怪奇現象窓ガラスの手形
  車でトンネルを通過すると、窓ガラスにびっしりと手形がつく。
②  天井からぶら下がる女
  トンネルの天井から女性がぶら下がっている目撃談がある。
 オリンピック道路(都市計画道路)の建設・拡張の際、墓地の一部
 を切り崩してトンネルが作られたという由来の背景がある。
③  心霊ファンらの実体験から
  千駄ヶ谷トンネルを訪れた人々からは、「深夜に人影を見た」
 「突然背後から誰かの気配を感じた」「通行中に白い服の女性が現
 れてすぐ消える」「足音だけがく」などの体験談が寄せられている。
④  SNSや写真投稿サイトから
 「トンネル内部で撮影された写真に不明な影が写っていた」という
  報告も複数見られ。夜間は霧が発生しやすく、照明も少ないため、                          怪奇な雰囲気をさらに強調している。
⑤ その他の体験談
 「トンネルの真ん中で突然寒気がした」
 「誰もいないはずなのに、背後から話しかけられた」
  「動画を再生したら、女性の声が入っていた」

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都市伝説ー国立感染症研究所の真実

都市伝説ー国立感染症研究所






                                        国 立 感 染 症 研 究 所

研究所周辺で、深夜白い人影が動くのを見た。咽び泣く声を聞いた。 
など心霊の体験談がたえない。




軍の秘密研究機関「731部隊があった。
戦時中、細菌兵器や毒物兵器の人体実験を行っていたとされる、軍の化学研究
機関「731部隊」。正式名称は、関東軍防疫給水部(関東軍防疫部から改称)
現在「国立感染症研究所」が建つ。その地には、かつて旧陸軍医学校があり、
「731部隊」の本部が置かれていたという噂がある。





        「四 方 楼」

ロ字型の建物で15,000㎡ある細菌実験、生産の主要的建築があった場所で、
1945年8月に日本軍により爆破され、地下基礎部分のみ現存する






    二つの穴がみられる頭蓋骨





噂の根拠は、'89年に感染症研究所の建築工事が始まった際に、ドリルで穴を開
けた頭蓋骨や、銃創のような傷のある人骨などが、百体以上見つかったこと。
厚労省の厚生化学課の担当者は、「専門家を招き、広範囲にわたり調査をしま
したが、「731部隊」の本部がここに存在した、という確かな証拠は出てきて
いません」と肯定も否定もできないと返答。
人骨は、今も研究所の敷地内に建てられた納骨堂で、出自不明のまま眠り続け
ている。





           心 霊 スポ ッ ト




「戸山人骨 (発掘された骨の呼称)」
1989年7月、戦後40年以上を経て突然、人骨が建設現場から発見されたのは、
石井四郎が教官をしていた、陸軍軍医学校の八角講堂があったすぐ近くだった。
「大都会の真ん中から、突如現れた骨はいったい誰の骨なのだろう」
と大騒ぎになった。しかも銃創が残る。旧満州のハルビンで「731部隊」を
率いていた石井四郎中将による石井機関の中枢が「陸軍軍医学校防疫研究所」
であったため、「これらの人骨が、731部隊と何らかの関係があるのではな
いか」と疑いも持たれた。






     感染症の歴史 黒死病 ナポレオン戦争





七三一部隊の石井四郎中将は、若松河田駅近くの二階建ての住宅を住いとした。
教官をしていた陸軍軍医学校までは歩いて数分、いまで言うところの職住近接
である。陸軍軍医だった石井四郎は、ノモンハン事件で関東軍防疫部長として
その手腕を評価され、その後、関東軍防疫給水部「石井部隊」を率いた。ハル
ビンの「満州第七三一部隊」で中国人、ロシア人などの捕虜に対して数多くの
「生体実験」を行ったり、中国での細菌戦を試みたことで知られている。
当時の国内最高レベルの医学が、軍事作戦に利用され、そのネットワークの頂
点にいたのが石井四郎だった。
 戦後、石井らは東京裁判で戦犯容疑を問われたが、実験の資料などをアメリ
カに提出することによって、戦争犯罪を免責された。
このアメリカとの裏取引が、日本政府も日本人も、戦争の重大な加害責任に向
き合う機会を失わせたと言えるかもしれない。





          再 建 さ れ た 731 部 隊





「若松河田駅界隈」
「江戸時代には、尾張徳川家の上・中・下屋敷が市ヶ谷から、この一帯までを
拝領していました。明治時代に上屋敷跡には「陸軍士官学校」が中屋敷跡には
「陸軍経理学校」が、下屋敷跡があった現在の戸山公園には『箱根山』と呼ば
れた築山を含む「陸軍戸山学校」そして「東京陸軍幼年学校」も設立されまし
た」さらに1929年には、麹町にあった「陸軍軍医学校」が、現在「国立感染症
研究所」がある場所に移転してきました。
「陸軍軍医学校」のそばには「東京陸軍第一病院」(国立国際医療研究センタ
ー)と、軍の主要な施設で固められていた。

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「都市伝説」ー東京競馬場の「大欅」伝説

「都市伝説」ー東京競馬場の「大欅」伝説

                        「切ろうとすると怪死を遂げる謎の木」
東京競馬場の第3~4コーナーの間に立つ〔大欅〕。




観戦の邪魔となるような場所なのに今でも切られていないのは、
「切ろうとした人が、亡くなった」という言い伝えがあるからだという。
真偽を探したところ「誰かがなくなった」という事実を証明できないが、
そんな昔話も聞いているので、「誰も切りたがらない」そうだ…。
(ちなみに、この木は欅ではなく榎。大欅もあったが、十数年前に落雷で折れ
て小さくなり、今は榎の後ろに隠れてしまった。代わって榎が大欅と呼ばれる
ようになった)

        馬 頭 観 音
大欅のそばには、馬頭観音がある。このあたりで多くの馬が事故で亡くなる為
74年に建立された。
「ちょっと解説」
東京競馬場名物の1つが、3、4コーナー内側の〔大ケヤキ〕。
(このコーナーは競走馬が、一瞬見えなくなる目印としてお馴染みで、ファン
の間やレース実況でも今や「大欅」の愛称で親しまれている)
その下には井田一族の墓があり、ケヤキは井田家ゆかりのご神木とされている。
井田一族のうち最も有名なのが、1600年頃(安土桃山時代~江戸時代)にかけ
て、この地を開拓し、村の礎を築いた井田是政だ。
今もなお、この付近の地名や西武多摩川線の駅名に、その名を残す人物である。
 現在のところ、特別な異常や伐採の予定などはなく、府中コースの歴史を見守
る守り神として大切に維持されている…が。 





            東京競馬場博物館




「一時は…‼」
東京競馬場を建設するにあたり、この墓をどうするかが大問題になった。
『府中市史』には、問題解決へ向けての経緯が記されている。
 1929(昭和4)年10月、墓地を東京府(当時)指定の史蹟として永久保存し、
井田家による墓参は、競馬倶楽部の事業に差支えない限りいつでも自由にできる
との覚書が、競馬倶楽部と井田家との間で取り交わされた。
つまり、墓地は競馬場内に永久に残すことになったわけだ。
 ところが、翌11月になって倶楽部側はこれをひっくり返す。
墓地を無償で近所の寺に移し、樹木は伐採すると申し出た。
〔ちゃぶ台返し〕と言ってもいいこの提案に対し、井田家側は当然ながら猛反発、
倶楽部は、再考を余儀なくされる。
結局、1931(昭和6)年に当初の覚書どおり、墓地を永久保存するという証書が
改めて作成され、墓地問題は決着。新競馬場は1932(昭和7)年に着工の運びと
なった。

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