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川柳的逍遥 人の世の一家言
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故郷にあだ名を付けた山がある  井上恵津子






                                         「堪忍袋緒〆善玉」 国立国会図書館
絵師であり、後に戯作者としても名声を得た山東京伝(左)のもとを執筆
依頼に訪れた蔦谷重三郎(右)の様子。




                          蔦 屋 茂 三 郎



✦「ありがたやま」
18世紀の末、天明期と寛政期の江戸は、浮世絵の黄表紙・洒落本・狂歌な
どの大衆文化が一頂点を極めた時であった。そうした中でこれらの出版文化
の創造に貢献し「江戸文化の演出者」と称すべき役割を演じたのが版元・蔦
谷重三郎である。その人となりは「功智妙算」と称賛され、作品の企画力や
経営手腕、そして人の能力を見抜く眼力に人並外れた才能を発揮する稀にみ
る逸材だった。




僕がまだ道頓堀だった頃の  雨森茂樹






          『身 体 開 帳 略 縁 起』




✦「蔦谷重三郎自作の黄表紙」
蔦谷重三郎(蔦唐丸)の黄表紙が三点ある。
うち一点の寛政10年(1798)年刊『賽山伏狐終怨』(にたやまぶしきつねの
しかえし)は、蔦重死後に刊行されたもので、蔦重作らしく装ってはいるが、
曲亭馬琴の代作である。おそらくは、蔦重の遺作と見せかけて、初代が築き
上げてきた蔦屋のイメージを保持しようとしたものであろう。
それを除く『本樹真猿浮気話』『身体開帳略縁起』の二点の黄表紙にはとも
にご丁寧に「蔦唐丸自作」という署名が巻末に座る。
「自作」の文言を戯作の署名に見ることは稀である。
これらの作品はこの版元の趣味の産物ではない。




騙された振りをするのも良しとする  東 定生




蔦屋の店のカラーを定着すべく図った、極めて戦略的な経営方法の産物とい
った方がよいだろう。
(近年でも文壇・論壇に登場し、さらにはテレビコマーシャルにも起用され
て文化の主導者的なイメージを定着させた書店主もいた。
また俳句の世界で名を上げ、さらには映画監督としてメガホンを握ることに
よって自社の名を世間に周知せしめた版元もいた)
蔦重にしても、黄表紙を「自作」するような、前衛を地でいく版元という印
象を世間に定着させようとしているのである。
「黄表紙」というメディア自体が備える宣伝・広告効果は大きく、蔦重はそ
れを巧みに利用しているのである。




裏も表も舌の根までも見せている  大場美千代






蔦屋重三郎(蔦唐丸)の自画像。蔦重の家紋がみえる。






蔦谷重三郎ー蔦重としての第三期・四期 & 終焉





喜多川歌麿の最初期、作品出版の機会を彼に与えたのは、江戸版元界の老舗
西村屋与八だったが、ここには歌麿より一歳年上の鳥井清長がいた。
清長は早熟の天才画家で、早くから希望の星として二村屋の熱い期待を集め
ており、歌麿は、自然とその後塵を拝する形とならざるを得なかったようで
ある。そんな失意の青年に手を差し伸べたのが蔦谷重三郎である。
重三郎の炯眼は歌麿の天分と将来性を透視したようで、彼の才能が大輪の花
を咲かせるまで時間をかけて育てるという方針をとる。
天明期に全盛を迎えていた清長の美人画と、未完の段階にある歌麿を重三郎
はあえて競わせようとはせず、狂歌絵本の挿絵という別の世界でその非凡な
天性を生き生きと飛翔させるのである。




何事を為さんと飯を食っている  新家完司






                『婦人相学10躰』 喜多川歌麿




寛政3 (1791) 年、山東京伝作の洒落本三部作が幕府の出版禁止令に抵触し
重三郎は財産の半分を没収され、順風満帆だった蔦屋の看板にも翳りが現
れ始める。これを乗り越えるべく彼は浮世絵出版の比重を高めていくのだが
この熱意に応えて『婦人相学10躰』『歌撰恋之部』など、従来の美人画の
粋を次々と生み出し、あらためて版元・蔦谷重三郎の名前を人々に知らしめ
たのが歌麿である。美人画家としての歌麿の名声は、これらの作品によって
一挙に高まり名実ともに浮世絵界の第一人者として君臨するすることになる
のである。一方、重三郎も歌麿美人画の大成功によって財産没収の痛手から
ある程度回復できたのと同時に、歌麿を擁する立場から美人画出版界の覇権
も手中にする。




プロテインが育てた蛙の太もも  通利一遍




        「市川蝦蔵の竹村定之進」 (東洲斎写楽)

役を演じる役者の化粧の奥にある素顔までを描き出そうとした写楽の役者絵
は、江戸の人々に大きな衝撃を与えた。これは第一期の作品




✦「歌麿から写楽へ」
しかし、人間の欲望には限りがない。美人画出版で大当たりをとった重三郎
が、浮世絵界で美人画と並ぶ代表的なジャンルの役者絵を次の目標に定め、
その野心を強めていったのは当然なのかも知れない。
ちょうどこの寛政初期は役者絵界で新旧交代の動きが強まっていた時だった。
大衆はそれまでの勝川派の役者絵に代わる新しい作品の描ける絵師を求めて
おり、その動きを感じ取った版元たちは、新進歌川豊国をめぐる争奪戦を
繰り広げていた。これに対して、蔦谷重三郎は豊国にあまり関心を示す様子
はなく、別の役者絵師を探すことに熱心になっていた。
そして寛政五年ごろ、重三郎はついにその眼に適う人物に出会うことになる
のである。それが東洲斎写楽である。





何事を為さんと飯を食っている  新家完司






   『当 時 全 盛 美 人 揃』




早速、重三郎は写楽による画期的な役者絵出版の準備にとりかかった。
この企画は第一回は28点、二回目は38点の作品を、一挙に売り出そうと
いう内容で、歌麿の場合を大きく上回る模様だった。
こうなると収まらないのは歌麿である。長年にわたり重三郎とパートナーと
しての信頼関係を築き、さらには先のようにその作品の大成功により美人画
界の帝王の地位を獲得して、蔦屋の経営にも多大な貢献ができたということ
に強い自負心と誇りを抱いていた歌麿からすれば、自分以上の存在が蔦屋に
あることなど絶対に容認できなかっただろう。
ましてや、それが新人の絵師ときては、こうして、二人の間には冷たい風が
吹きはじめ、ついには、歌麿は写楽と蔦屋による役者絵出版に対する対抗心
を剥き出しにしながら、他の版元と提携して『当時全盛美人揃』(若狭屋版)
などの力作を発表することになるのである。



たかの爪たくさんいれておきました  西澤知子




「大腹中の男子」と称され、ものに動じない性格の重三郎であれば、歌麿
大人げない行動にも、おそらくは冷静に対処し、新たな企画の実現に向け着
々と段取りを進めていたと思われる。
寛政六年五月から翌年正月までの間に四回にわたって発表された写楽の役者
絵作品は、その意外性に満ちた前衛的表現によって、江戸市民に賛否両論の
大きな渦を巻き起こすことになった。このうち第一期の大首絵、第二期の全
身像作品では、浮世絵史上を代表する多数の名作が、綺羅星のように輝いて
おり、まさに圧巻である。
(しかし、第三・四期に入ると用様相は一変する。
ここには第一・二期作品であれだけ精彩を放っていた画家の魂は光を失い、
抜け殻としての写楽の姿を見るだけである)




だとしても固定電話はダリの髭  安い紀代子





              「山姥と金太郎 耳そうじ」(喜多川歌麿)



✦「きり札を失った焦り」
第一・二期の出版を通じて重三郎は、江戸の人々からある程度の手応えを
感じていたのだろう。彼はこの判断をもとにしながら第三期の企画を立案
したが、それは一度に約70点にも及ぶ作品を出版するという常識を超え
た内容で、このすべてが、写楽に依頼されることになったわけである。
第三期の大胆な企画には、圧倒的多数の写楽作品によって、役者絵市場を
一挙に独占・支配してしまおうという狙いがあったと推察されるが、重三
郎の焦りにも似た気持ちが強く作用したことは否定できない。
さらに重三郎のあまりの性急さは、写楽にとっては過剰な負担以外の何物
でもなかった。それはプレッシャーとなって、彼の創造意識を削ぎ取り作
品の、作品の芸術性も喪失させる結果を招いてしまったのである。
結局、写楽はもとの武士の生活に逃げてしまい、蔦重との蜜月期間は10ヵ
月という短い月日で終局となった。




優しさは日持ちをしない内緒だよ  柴田比呂志





一方の歌麿は、蔦重と組んだ作品によって一躍、時代の寵児となってもて
はやされ、次第に蔦重との距離を保つように
なってゆく。鼻っ柱の強い歌麿にとって、恩は御、内容に関わらず「歌麿」
の名で作品が売れるようになったからには、蔦重の傘の下にいるだけで満
足できるはずもない。また蔦重とて歌麿ひとりにオンブしていると見られ
るのは、片腹痛いことであったのだろう。
その結果、重三郎は、歌麿のみならず、写楽までも失い、美人画と役者絵
出版の覇権を同時に獲得するという夢も、泡のように消えてしまったので
ある。




非通知で過去から石を投げられる  中林典子





      歌麿が描いた山東京伝



✦「蔦谷重三郎ー寛政元年~終焉まで」
寛政元 (1789) 年 (39歳)
「寛政改革」始まる。
歌麿『潮干のつと』。恋川春町『黄表紙・鸚鵡返文武二道』刊行。
寛政2 (1790) 年(40歳)
蔦唐丸(蔦重)による黄表紙の初作「本樹真猿浮気噺」(もとき
にまさるうわきばなし)刊行。
恋川春町画作『無益委記』が創始した未来記形式の趣向を踏襲する。
歌麿の美人画大首絵大ヒット。
寛政3(1791)年(41歳)
・洒落本の出版点数20点。
山東京伝の洒落本出版により、身上半滅・手鎖50日の刑を受ける。
葛飾北斎、絵師・勝川春朗として耕書堂の挿絵を描く。
寛政4 (1792) 年 (42歳)
曲亭馬琴が番頭として蔦屋で働き始める。




のらという大きな虹をしょっている  酒井かがり





  十返舎一九 〈奥) 蔦屋に寄宿して笑いをふりまく舎一九



寛政5 (1793) 年(43歳)
・浮世絵界の美人画ブームがピーク。
・相撲絵、役者絵に進出。
寛政6 (1794) 年(44歳)
写楽の大首絵出版。
十返舎一九が蔦屋に寄宿。
・結婚を機に曲亭馬琴が独立。
寛政7 (1795) 年(45歳)
本居宣長を訪問し「手まくら」江戸売出版。
・版元・蔦重として確認されている最後の錦絵(東洲斎写楽)刊行。
寛政8 (1798) 年 (46歳) この秋ごろより体調を崩す。
・この直前まで、新人浮世絵師のプロデュースを計画しており、
病に倒れるまでは財を蓄えつつ、再び浮世絵界を牽引しようとした。
寛政9 (1797) 年(47歳)
・3月危篤。5月6日、死没、死因は脚気。正法寺に葬られる。
(蔦重の妻は、文政8(1825)年10月11日に亡くなったとされ、戒名
は錬心妙貞日義信女。 ドラマの役名である「てい」は、この妙「貞」
から採ったものと思われる。



香典の袋の番号がさむい  井上裕二

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