忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[111] [112] [113] [114] [115] [116] [117] [118] [119] [120] [121]
揺るぎなく在りたいレ点返り点  美馬りゅうこ


  山口御屋形門
明治から大正初期まで県庁の正面玄関だった。
(敷地内には、今も当時の堀や土塁、石垣の一部、旧山口藩庁門が残り、
  攘夷、討幕へと揺れた萩藩の動乱の幕末期を伝えている)

「山口から萩へ」

萩藩主・毛利敬親は湯田温泉への日帰り湯治と称して,

幕末の政情に処するため、藩庁を萩から山口に移し、

今の県庁のところに政治堂を建てたのが、文久3年(1863)4月。

その時、この建物近くに「露山堂」という茶室を設け、

茶事にこと寄せて身分に関係なく敬親は、この一室に有志を集めて、

討幕王政復古の大業について密議を凝らしたという。

実際の藩主の目指す政治は、ここで行なわれていたのである。

ずっと青い空ではいられない事情  笠原道子


    露山堂


その翌年の元治元年10月、藩政の中枢となる山口御屋形が竣工する。

山口御屋形(山口城)は、天守閣がそびえる前時代的な城ではなく、

北と西の2つの山を天然の要害とし、

堀や土塁をめぐらし、その中に築かれた一部は二階建てで、

大砲を据え敵に備えるため、

八角形に近い敷地の西洋式城郭として築かれた。

弱点をとても大切にしている  雨森茂喜


    山口城

しかし、萩藩は「8月18日の政変」で京都から追放され、

さらに翌元治元年には「禁門の変」で敗れ、

幕府から「征討令」が下り、そうした窮地の中で、

御屋形は10月に竣工したが、翌11月、

幕府は征討中止の条件のひとつとして、

竣工したばかりの御屋形の破却を命じてきた。

こうして藩主・敬親及び元徳父子、正室の都美姫・銀姫、

奥の女中たち、家臣らは山口から萩城へ退去することとなった。

(御屋形は慶応2年5月、最築される)

感動のフィナーレ辛子明太子  くんじろう           



「城替え」

奥の一日は、「総触れ」と呼ばれる朝の挨拶から始まる。

美和(文)は廊下の末席に座した。

都美姫銀姫が互いにぴりぴり牽制し合っている。

奥の女たちは、皆、その様子にハラハラしている。

藩主・敬親元徳も、そんな2人に少々手を焼いている。

美和の席から、おもしろくも悲しくもすべてが見通せた。

やがて敬親の朝の一言が始まった。

「互いによきところを敬い、力を合わせ奥を盛りたてよ。

   長州はこれより、いささか険しい道を辿ることになるゆえ」

サボテンとバラがすったもんだする  黒田忠昭

やがて美和は奥総取締り役・園山から呼び出され、

山口から萩への「城替え」の話を聞かされる。

200名もの女たちが、住まいを替えることになるのだ。

この数は萩の部屋には収まりきれない。

ゆえに女中たちの人員を削減をするというのである。

「暇乞いさせる女中たちの名簿をつくるように」

と園山は美和にその任を与えた。

美和は思うところがあってこの仕事を引き受けることにした。

まずは右筆の女中から、奥のすべての者の名前と

お役目が記されている帳面をもらう。

美和は勢い込んだが女中の誰もが、協力を拒んだ。

ギブアンドテイクですかいけにえですか 藤井孝作 

簡単な仕事ではない。

そこで奥に務めて50年になるお蔵番の国島に協力を求めた。

しかし国島は、

「奥で生きた者の歳月は、そこに暮らしたものにしか分からぬ

   奥で生きた誇りは誰にも誰にも手放せぬ」

と一蹴されるが、姉・寿の励ましもあり美和は諦めなかった。

「私は、これまでのすべてを捨て、ここに参ったのです。

   どんなに非情と責められようと、臆せず誇りを見極めて、

   お役目を果たしとうございます」

この強い美和の覚悟は、国島を動かした。

弱点は弱点のまま餅になる  和田洋子



美和は次の策として都美姫銀姫に、

納戸にある2人の道具を、出来る限り売りたいと申し出る。

女中たちが唖然とする中で、美和は熱弁をふるう。

「病の者、老いた者、萩へ移動するのが難儀な者たちに、

   すべて与え、相応の屋敷と人を 配して、山口に残す。

   手厚く遇された者たちは、生涯毛利家に尽くすだろう、

   毎日手入れをされるだけで使われていなかった品々も、

   日の下でまた大勢の者の目を楽しませるだろう。

   真心を尽くし、誠を貫けば必ずや人の心は動きます。

   お家の繁栄は至誠の先にあると、そう信じるものにございます」

滔々と述べた美和の熱弁に対し、意外にも銀姫が

積極的に女中削減と道具売却の件を許すと口を開いた。

そして都美姫もこれに追随するという。

こうして美和は役目を消化していく。

喜怒哀楽使い果たして点になる  古田祐子


    萩の城

やがて奥御殿の者たちが「萩城」に移ってきた。

そこには若く美しい女たちが、にこやかに控えている。

銀姫は瞠目して絶句した。

美和も同じだ。

女中に暇乞いをさせたのは、

なかなか世継ぎの出来ない銀姫の代わりとなる

側室を城に招きいれるためだったのだ。

美和は都美姫に理由を尋ねた。

「我らが何のために萩へ参ったと思う。

   この長州の危機を生き延びるためじゃ。

   表では、毛利家を残すために、

   藩主はじめ多くの家臣が身を削り働いている。

   われらも又同じ、お世継ぎを産み育て、毛利家を守らねばならぬ。

都美姫はきっぱりと美和に言い放った。

彼女が言うなら蜜柑は四角です  奥山晴生

拍手[5回]

PR
雲一つない空は無理をしている  日野 愿


  毛利 都美子肖像        (各写真は拡大してご覧下さい)    

「毛利 都美子」

天保4年(1833年)、江戸桜田の長州藩上屋敷にて生まれる。

母は側室・本多氏。

長州藩12代・毛利斉広の娘。

父・斉広は、都美姫が幼い頃に死去、男子がなかったため、

その養子で第11代藩主・毛利斉元の長男・慶親が家督を継いで、

13代藩主となり、

斉元の生前の意向により、都美姫がその正室となった。

自販機の青い文字から夏に入る  河村啓子

嘉永3年(1850)7月、都美姫は女子・万世姫を出産する。

しかし万世姫は、生後4か月で夭折。

以後、都美姫は子供に恵まれなかった。

そのため、敬親は早くから国許の萩城に花里という側室を置き、

その間に1男2女が生まれたが、いずれも夭折している。

このため、長州藩支藩の徳山藩8代藩主・毛利広鎮の10男・元徳
                         もとゆき
同じく支藩の長府藩12代藩主・毛利元運の娘・銀姫(安子)

養子夫婦として迎えた。

(その長子・興丸〔15代藩主・元昭の養育係に文が抜擢される)

かなしみが白いたまごのようで 抱く  八上桐子



都美子が使用した甲冑

文久2年(1862)に大名妻子の国許居住を許可されたため、

翌文久3年の春、江戸から国許の長州に下り、山口の居館に入った。

江戸生まれの姫には、初めての領国入りであった。

都美姫は藩政改革に取り組む敬親を支え、

奥座敷の主として質素倹約に腐心する。

また、長州藩は下関戦争・禁門の変・長州征伐など、

幕末の激しい世情に飲まれ、都美姫は藩主正室として、

銃後の守りを担った。

明治維新から程なくして、明治2年(1869)に敬親は隠居し、

明治4年、敬親が没すると、都美姫は落飾して「妙好」と称した。

大正2年(1913)に逝去、享年81歳であった。

傾いた影を気合いで元通り  青砥たかこ


時世粧載寛政年間奥向之図

左上の「踊師匠」に「中老」「側女中」らが、
琴や三味線を習う光景が描かれている。


「銀 姫」
                          もとゆき
長州藩支藩の長府藩12代藩主・毛利元運の次女。

9歳で宗家長州藩主・毛利敬親の養女となる。

24歳の時、敬親の養子となっていた定広(元徳)の正室となる。

文久2年(1862)の禁制緩和を得て、

都美姫と共に江戸から長州に下る。

幕末の激動期に於て、長州藩政の難局と向き合う敬親・元徳を支え、

藩の混乱にもめげず、先頭に立って家内を盛り立てた。

「禁門の変」により長州藩は朝敵となり、幕府による征長の翌年の

元治2年(1865)2月、第1子の長男・元昭を出産。

なかなか恵まれなかった男子(結婚8年目)であったため、

喜び子の入浴まで自ら行い、信頼する養育係・文と愛育したという。

息吐いて大きく吸ってこれからも  田口和代        

慶応3年(1867)、長州藩は「朝敵」から一転して「朝廷側」となり、

敬親と元徳の官位も回復。

養父と夫がともに京や江戸に赴き、国許を留守にすることが多い中、

国許に知らせが届くと、率先して安子が応対した。

維新後、敬親の隠居により元徳は、14代長州藩主となり、

版籍奉還後は山口藩知事に就任、安子はその務めを支えた。

廃藩置県によって華族となり東京に移住した後は、

婦人教育や慈善活動に力を注ぎ、大日本婦人教育協会会長を務め、

日本赤十字社の要職も務めた。

大正14年(1925)に逝去、享年83歳であった。

美しい耳だねよそ行きの耳だ  井上一筒


山口御屋形の正面玄関。
明治から大正初期まで県庁の正面玄関だった。

「園山」

園山は、毛利敬親・都美姫への忠誠心厚く、

毛利家奥御殿総取締役として毛利家の諸事を取り仕切る。

海岸を守る台場の築造を進めた際は、

普段は表に出ない奥御殿の女性たちも築造作業に汗を流した。

園山も藩の一大事を聞き、奥女中を従えて台場造りに参加した。

敬親の養子夫妻である元徳・銀姫にも献身的に仕え、

銀姫の長男の養育係となった美和のことも、

総取締り役の目で指導怠りなかった。

褒められてスパンコールになりました  美馬りゅうこ


「宝印御右筆間」御日記
毛利藩・奥の日常が書かれた日記。
右ページには改名した美和(文)の名も記されている。


「国島」

国島は、50年以上にわたり毛利家の奥に仕えた御蔵番

都美姫や、銀姫の豪華な道具箱を管理する仕事を誇りとしていたが、

年老いてから病勝ちになる。

藩主・毛利敬親が、山口城から萩城に移る際、

奥女中たちの人員削減が決まると、

その候補の中のひとりに指名される。

国島も最初はこれに抵抗したが、後、

人員削減の差配にあたる美和文)を助け、自らも城を去った。

電池みな入れ替えましたけれど雨  山本早苗

「鞠」
まり
は奥に入った美和の亡夫が、

藩を朝敵に追いやった久坂玄瑞であったため、

総取締役・園山から文を見張るよう命じられる。

自立心が強い鞠は、出世欲もあり、忠実に命令を守った。

連合艦隊との「講和交渉」に臨む高杉晋作に、

儀礼の装束を届ける美和に同行した際に、

奇兵隊隊士らに対する美和の気丈な態度を見て、美和を見直す。

それを園山に報告後、

美和は毛利元徳の正室・銀姫に仕えることが許される。

今日のこと今日でおしまい髪洗う  新川弘子

「潮」

は、勝気な銀姫のそばで忠実に仕えた。

銀姫に仕えるようになった美和を快く思わず厳しく教育した。

たびたび、銀姫に接する美和の態度をたしなめたり、

奥女中の人員削減が、若く美しい女中を新たに増やし、

元徳の世継ぎをもうけるためだったことを知った時は、

人員削減の差配を任されていた美和を責めた。

しかし、やがて美和の気性を知り、銀姫とともに潮も美和を認めた。

いましがた値押しの月がぽってりと  酒井かがり

拍手[4回]

竹に節私に意地があるように  八田灯子 



下関戦争の後、イギリスのキング提督との会談に臨んだ毛利敬親(左)
元徳(右)父子。
さらにこの後、毛利家父子は征長軍との講和条件に従い
萩城外で
蟄居することになる。 


「文の女中務め」       

元治元年(1864)久坂玄瑞自刃の悲報を、

文は萩の実家で静かに受けとった。

父・百合之助から常々「武士の妻たる心得」を説かれていたからか、

格別取り乱すことはなかったが、心中の悲嘆は推し量るべくもない。

離れ離れになってからも、ずっと、2人は心を通わせてきた。

わずか7年で愛する夫を失った文は、

その後しばらく、臥せって何も手につかなかったという。

悲しみの隙間は狙わないように  安土理恵

しかしその翌年の慶応元年、転機が訪れる。

ようよう回復した文は、毛利定広の正室・安子の女中に登用される。

定広は、時の藩主・敬親の後継ぎである。

その夫人たる安子に仕えたということは、

文はそれだけ高い教養を備えた人物だと、評価されてのことである。
                               つまび
文が具体的にどのような働きをしていたのかは詳らかでないが、

安子の長男・興丸(のちの毛利元昭)が生まれると、守役を務めた。

その頃に名を"美和子"に改めたともいう。

箸置きも枕もあすを言いたがる  奥山晴生


 毛利安子

元治2年(1865)2月、安子は第1子の長男・元昭を出産。
結婚8年目で生まれた男子のため、元昭の入浴まで自ら行い、
愛育した。


この時、文23歳、

まさに松陰が求めていた通りの才女に成長していたのである。

実は、文の「女中づとめ」は長らく謎に包まれていた。

「毛利安子のもとで働いていたらしい」

という漠たる浮説は伝わっていたものの、

資料に乏しく確証はなかった。

しかし、近年『〔宝印御右筆間〕御日記』(山口県文書館所蔵)の中に、

決定的な記述が見つかった。

同じく安子付きだった女中によって、

文久2年(1862)~大正14年(1925)まで綴られたこの日記の、

慶応元年(1865)9月25日の項には、次のように記されている。

「一、御方へ今日より召し出され候御次女中 久坂美和」

本心を少し隠して丸くなる  前田孝亮

「御方」とは一般に高貴な女性を指し、ここでは毛利安子のこと。

「御次」とは貴人の居室の次の間、すなわち奥のことをいう。

それにしても、松陰玄瑞の縁者である文が、

毛利家での仕事を任されたというのは、一見不可解かもしれない。

松陰は安政の大獄で刑された「危険人物」であり、

玄瑞は禁門の変を主導し、結果的に、

長州が「朝敵」と目される要因をつくった。

水仙が咲いた何とかなるだろう 竹井紫乙

だが禁門の変から1年の間に、藩の情勢はだいぶ変化していた。

高杉晋作の「功山寺決起」によって、

藩政から幕府恭順派が駆逐され、

さらに桂小五郎が政権を担ったことで、長州は再び、

松陰や久坂が主張していたような反幕路線に返っていったのである。

こうした時流のなか、文は明治初期まで山口の毛利家に仕えた後、

一旦、実家に戻った。

息子・久米次郎のことが気がかりだったのかもしれない。

人偏をつけて人間へと戻る  竹内ゆみこ


  梅太郎

文は玄瑞との間に子はなかったため、

姉夫婦(楫取素彦・寿)の子久米次郎を養子とし、慈しんでいた。

しかし、秀次郎(玄瑞と辰路の間に出来た子)の存在が発覚したため、

親族が協議し、久米次郎を楫取家に戻して、

秀次郎を久坂家の籍にいれることになる。

文は亡父のへの複雑な思いと、

息子を奪われる悲しみを奪われることになった。

それでも文は実家杉家で、兄・梅太郎の厄介になりつつ、

かいがいしく老母・の面倒を見ている。

満月の裏は涙の海だろう  杉浦多津子 

拍手[5回]

八重で濃いめで道端に咲くつもり  古田祐子

  (拡大してご覧下さい)
京都御所御門見取図

「雑学ー禁門の変」

古来、天皇の住まいの御所は侵してはいけないという意味の

「禁」を用いて、「禁中」あるいは「禁裏」と呼ばれた。

御所の門も同時に「禁門」と呼ばれた。

京都御所は築地に囲まれた地域で、建礼門などの6つの門がある。

その外側に、9つの門を設けた塀に囲まれた「京都御苑」がある。

京と御苑の地域は、もと宮家や公家の屋敷があったところで、

明治維新で皇居が東京に移ったとき、

公家なども移転したため空き地になり、公園として整備された。

追伸に渋い助言が添えてある  原 洋志

「禁門の変」とは、

戦いがその門をめぐって行なわれたことによる通称である。

久坂玄瑞率いる部隊は、越前藩の守る「堺町御門」から攻め入った。

しかし門の防御は固く、玄瑞や寺島忠三郎は鷹司邸に入って自刃。

「下立売門」では、長州藩の児玉隊と桑名藩が戦った。
                             くにし
築前藩が警護していた「中立売御門」は、国司・福原隊が破った。

「乾御門」を攻撃した長州藩は、薩摩藩に敗れた。

三途とは気付かず船賃を払う  杉山ひさゆき

禁門の変の主舞台になった「蛤御門」は、

当初、長州藩の来島隊と会津・桑名藩とが激突した。

その後、各門で勝利した児玉隊と国司隊、

薩摩藩が、それぞれ蛤御門の援軍に駆けつけ、

敗北した長州藩は「寺町御門」から退却した。

本当のさよならだった帰り道  八田灯子


瓦版ー禁門の変よる京都大火災

「その後をかいつまむ」

結局、御所を舞台にした「禁門の変」に敗れた長州藩は、

「朝敵」の汚名を着せられてしまう。

さらに幕府軍による征討軍が編成され、

長州領内への進撃準備を整えていた。(第一次長州征伐)

さらに同時期に英米仏蘭の「四国連合艦隊」による、

下関への攻撃を受けるという、絶体絶命の危機に陥ってしまう。

水をクダサイと地下から声がする  橋倉久美子

もしも幕府の力が磐石であったなら、

長州藩はこの前後で跡形もなく消えていたであろう。

しかし禁門の変を主導した三人の家老を切腹させたことで、

ひとまず征討軍は矛を収めた。

それだけ幕府も弱体化していたのである。

紫を使い尽くしたカメレオン  赤松螢子

生き残ることの出来た長州藩は一時的に幕府恭順派が実権を握るが、

すぐに高杉晋作のクーデターにより、藩論を「倒幕」へ統一。

ただ以前のように闇雲に尊皇攘夷を進めるのではなく、

密かに軍備を整えていった。

それを可能にしたのが、「薩長同盟」締結であった。

薩摩が長州の代わりに武器を調達し、

長州の軍備は近代化することができた。

いわゆる討幕への準備が整ったのである。

これがその足踏み式の回る寿司  井上一筒

だが将軍・徳川慶喜「大政奉還」を行い、実験を朝廷に返上し、

倒幕派の大義名分を失わせる策に出た。

しかしこれを見抜いた岩倉具視らが、「王政復古」の大号令を行う。

この段階で薩長らの目的は、

「倒幕」から「討幕」へと変わっていくのである。

有為転変いろはにほへと散りぬるを  岡田陽一

「瓦版ー記事」

元治元年子七月十九日辰刻頃 河原町二条より出火仕少し鎮方相成候所
已刻より堺町丸太町辺より又候 出火仕候折節北東風つよく相成  
丸太町通を寺町へ焼出革堂 残る夷川を河原町にて火留る西ハ  
烏丸通を上長者町又下立売は 新町椹木町西洞院丸太町 
東ほり川下ハ野原まて焼ぬけ 西堀川通別条なし

並本国寺又西本願寺御堂別条なし 東本願寺ハミなミな焼失不動堂にて
火留る
又東は加茂川通り突抜寺町木や町等ハことことく焼失併
祇園御旅道場ハ別条な
く東辺も同断依て東ハ河原町上ハ 
下立売下ハ九条西ハ堀川まて焼失仕候 
凡家数 二万五千計 かまと数  
四万七千計 土蔵落 千五百ケ所  
神社仏閣  五百ケ所

ペン胼胝の先にはなしが引っかかる  藤井孝作

拍手[3回]

焼け石にまけたくないという水だ  立蔵信子 


         蛤 御 門

蛤御門は、本来の名前を「新在家御門」という。
天明の大火の際、滅多に開かないこの門が火に焙られ開いたことから、
つけられた。この門の周辺が最も激戦だったことから、
「蛤御門の変」とも呼ばれる。

「玄瑞辞世の句」              
           しこわざ
「ちはやぶる人の醜業かかるかと 思えば我も髪逆立ちぬ」

玄瑞最期のとき入江は「乱れた髪を直せ」と笑顔で鏡を渡したという。

「禁門の変」(蛤御門の変)

(拡大してご覧下さい)
「蛤御門合戦図六尺六曲一隻屏風」 (会津若松市蔵)

完全に政局の中心から追いやられてしまった尊攘派の志士たちは、

肥後脱藩の宮部鼎蔵らを中心に、起死回生の秘策を計画した。

それは「風の強い日に京の町に火を放ち、

その混乱に乗じて公武合体派を暗殺。

さらに孝明天皇を長州へとお連れする」 というものだった。

ところがこの計画は、

洛中の治安維持を担当していた新撰組のしるところとなり、

元治元年(1864)6月5日、尊攘派志士の古高俊太郎を捕縛。

拷問にかけた結果、企みの全貌が明らかになった。

溝板を踏んでひりひりと迂闊  酒井かがり

「8月18日の政変」以降、長州藩内には、

「兵を京へ繰り出し、一気に失地回復を図る」

という強硬論が叫ばれるようになっていた。

そこへ、この池田屋の悲報がもたらされた。

何の詮議もなく、多くの同志を殺されたことで、

幕府への怒りは沸点に達する。

来島又兵衛などは、思想的なことよりも、

毛利家が受けた恥辱を晴らすため、強硬に出兵を促がした。

シャープさを競えば狂になっていく  古田祐子        


    天王山

こうなると桂小五郎の冷静な見解や、

久坂玄瑞の藩兵の上洛は反対という意見は、押しやられる。

おまけに玄瑞は、指揮官のひとりに据えられてしまう。

こうして京都制圧論が現実のものとなる。

元治元年6月15日、来島又兵衛は遊撃隊300人を率いて先発し、

16日には家老・福原越後の460人と真木和泉、入江九一、

玄瑞が続いて出発した。

後からは、世子・定弘が本隊を率いて京へ上ることになっている。

21日、玄瑞は大坂に到着、300を率いて淀川を遡り、

京都の入口山崎・天王山を本営とし他の隊は伏見・嵯峨などに布陣。

下旬には長州藩兵約2000が、

京を南と西から攻撃できる態勢を整えた。

竹の皮に包んでおく喧嘩状  井上一筒           

しかし玄瑞は戦に逸っていたわけではない。

武力を背景にして、長州藩の冤罪を訴えるのが目的だった。

ゆえに朝廷、幕府、在京諸藩主に「嘆願書」を差し出した。

しかし、孝明天皇は長州が武力を御所へ向けたことに不快感を示し、

堺町御門、下立売御門、蛤御門、中立売御門、乾御門に、それぞれ

越前、会津、桑名、薩摩藩を警護に配置させた。

孝明天皇の心はすでに戦闘への構えであった。

一言の誤解会話が時化になる  上田 仁           


  来島又兵衛

7月18日、玄瑞らは家老・益田右衛門介の陣・男山で軍義を開いた。

即決戦を主張する来島らに、

玄瑞は 「一旦兵庫まで兵を退いて世子の到着を待ち、

             大軍を擁して京都に入るべきである」 宥める。

この時点での玄瑞の目的は、「あくまで長州藩の失地回復であり、

その上で異国の脅威を退ける日本をつくろう」

との決意を抱いていた。

しかし、来島は容れず「臆病者!」と罵倒する。

藩主・敬親からは「先に手を出すな」と強く命じられていたが、

もはや止めようがなかった。

痙攣をする左目のキリギリス  くんじろう


 幕末の京都御所

同日夜、長州勢は伏見、嵯峨、山崎の三方から進撃を開始。

来島、国司らの部隊は御所「中立売御門」「蛤御門」に向かった。

玄瑞真木の500は、天王山から進発し、

桂川を渡りきって「堺町御門」に達し、門から突入した。

正面が見知った鷹司邸だ。
               すけひろ
参内しようとしていた関白・鷹司輔煕を見るや否や、

玄瑞は嘆願を口にした。

「天子様にこの書状をっ! お願いいたします!」

「ならん! 何故兵を挙げた? なぜ御所を戦場にした!? 

   巻き添えはごめんじゃ!!」

「何とぞ長州をお救いくださいっ!」

去ろうとする鷹司にすがりつき、玄瑞は必死に哀願する。

その玄瑞の目から涙が零れ落ちた。

「そなたらは、天子様に刃を向けたのだぞっ!

   もはや御所にはそなたらの声を聞く者など、おらん」

鷹司は怒りをこめて玄瑞を振り切って去っていく。

切り口の朱色が哀しすぎますね  合田瑠美子       

ほどなくして、鷹司邸では死闘が展開された。

薩摩、会津、桑名などの兵に囲まれて、邸内に大砲が撃ち込まれた。

銃弾が飛び交い、屋敷に火が回った。

玄瑞は、右足に火のような痛みを覚えた。

流れ弾が玄瑞の脛の部分を貫いていた。

足を引きずりながら玄関に出た。

村塾の同輩・河北義次郎に会った玄瑞は、

「俺はもう動けない。お前は囲みを突破して、

   途中まで来ているはずの世子に注進せよ」

と哀願した。

仏壇に飾るアリガトウを飾る  田口和代           

この戦いは最初から長州に勝ち目はなかった。

御所を守る会津、薩摩などの藩兵は数の上で勝っていただけでなく、

長州側には、「御所に向かって発砲する」 という

後ろめたさが付いて回ったからだ。

おまけにきちんと作戦計画を立てていたわけではなかったので、

戦いはわずか一日で決着が付いてしまう。

久坂は、「すべて俺が負うべき責め、お殿様にお詫びを、

    長州の…萩の皆にも俺は腹を切る」

「自分も」と言う入江の言葉を遮って玄瑞は、

「ここを抜け出して元徳の入京を止め、高杉を支えてくれ」

と後事を託したのち、

玄瑞は、胴巻きに入っていた軍資金を取り出して三宝に載せ、

鷹司の用人に、「些少なる、邸内を擾乱させた罪を謝したい」

と語りかけたという。 

この後、玄瑞と







寺島忠三郎
は鷹司邸内で刺し違え、自決。

玄瑞、25歳、忠三郎、22歳であった。

田舎芝居の赤城の山に月がない  奥山晴生        


   どんど焼き

敗れた長州勢は長州屋敷に火を放って逃走。
戦闘そのものは一日で終わったが市街はその後大火に見舞われた。

「結末」

来島又兵衛は、馬上で戦闘を指揮している最中に狙撃され戦死。

その他、真木和泉ら17人が敗走途中、山崎の天王山で自刃。

失地回復のための乾坤一擲の勝負が完全敗北に帰した結果、

長州藩は朝敵の汚名を着せられることになった。

尚、戦闘は一日で終わったものの、京都の町は、

21日まで火災に見舞われ、多くが灰燼に帰した。

さらに、今回の責めを負って久坂家は断絶。

よって養子縁組は取り消し、久米次郎は小田村に帰される。

藩主・毛利敬親と世継ぎ元徳の父子は、「朝敵」として処罰される。

鷹司家は長州藩と気脈を通じているとの嫌疑をかけられ、

輔煕は参朝を停止され謹慎処分となる。

雲間から一部始終を見てた月  藤井孝作

拍手[4回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開