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川柳的逍遥 人の世の一家言
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どなたにも言わないけれど根性悪  中野六助






         紫式部日記絵巻 彰子と紫式部  (藩蜂須賀家伝)

紫式部(手前)は中宮(奥)に『白氏文集』「新楽府」を講じているところ。
蔀戸の背後で語り合う女房たち(左側の絵)





             女房の紫式部 (女房36歌仙 鳥文斎栄之)
紫式部はびじんだったのか。肖像画と同じ方向を向いた紫式部。
紫式部は性格的に見ても、自分の容姿には自信がなかったようである。





「紫式部とは」
紫式部の性格は、引っ込み思案、自己が浮き彫りに現れる様な明るい人前に出
ることは苦手、多分に「内向的性格」であった、ことが自身の書いた「紫式部
日記」から伺いしることができる。
 例えば、公的行事や儀式において紫式部は、どのような態度でいたか?
宮廷の七日間の儀式で…只真っ白な部屋に行き交う人々の、容姿や色合いがは
っきり現われているのを見て、
『 いとどものはしたなくて(どっちつかずで)輝かしき心地すれば(はなやか
すぎて)昼はおさおさ(びびって)さし出でず(しゃしゃり出ず)のどやかに
東の対の局より、まうのぼる人々(有頂天の人々)を見れば…』尚更のこと。
又、
『十一日の暁、御堂へ渡らせ給ふ。お車には殿の上、人々は船に乗りてさし渡
 りけり。それには後れて、ようさり参る』
常に人の後ろから、陰からこっそりついていくという目立つことを嫌う式部で
なのである。




相槌を打つのはいつも三番目  銭谷まさひろ




だが反面、登場人物一人一人の服装から、細かく観察しているところを見ると、
相当に紫式部の人事に対する好奇心の、強い女性であったことがわかる。




しぼんだりふくらんだりで生きている  青木敏子







      紫式部の肖像画 (大津石山寺)

石山寺は紫式部が「源氏物語」の着想を得た場所として知られる。




式部ー「家を離れ、初めての宮仕え」





そんな付き合い下手な性格の紫式部が、宮中に出仕することになった。
紫式部の手紙----------家を離れ一条天皇の宮廷に、お仕えするようになりました
のは、夫であった藤原宣孝が死去してから、3年程たった後のことでした。
当時、宮廷でも、その権勢並ぶ者なしと謳われていたのは、関白・藤原道長殿
でした。
私のお仕えすることになりましたのが、その娘で、今は一条天皇の中宮であられ
彰子様でございます。
夫と死別の後は、里住み生活を送っておりました私が、華やかな宮仕えの身とな
りましたのも、そもそもは、目に入れても痛くないほど、かわいい中宮様にお仕
えする女房のひとりとして、「私を召し出そう」という、道長さまの強いご希望
があってのことでした。



ゲートインするなら原液のままで  酒井かがり




夫の死後に、ぼつぼつと書きためました「源氏の物語」が、そのころ世に知られ
はじめておりまして、その作者である私を、「中宮のお話し相手にでも」という
道長殿の親心があったようです。
当初、私は、あまりに派手やかな宮廷暮らしは、自分には馴染まないであろうと
尻込みしそうになっておりましたが、ようよう決心を致しましたのには、道長殿
が私の生家、とりわけ父の恩人でもございましたからであります。




虫の音が心にしみるきのう今日  奥山節子




私が娘のころ、父が10年ばかり官職に付けずにおりましたが、ようやく越
前の国司の職を得ましたのには、道長殿のお力添えがあってのことと、
伝え聞いております。
ともあれ、このようにして30代の初めごろという、すでに若くはない身で、
私は、はじめて家庭を離れ、公の場に出ることとなりました。
そこで目にしました美しく壮麗なお屋敷や、華麗に着飾った貴顕の方々、
そして、そうした方々のお出入りする宮廷の組織や社交の場……、
おかしなことに、自分で書き記した物語の世界を後になって追体験すること
になったのです。




蟹刺しのキレイな花に唾を呑む  津田幸三






             初出仕



「出仕」
紫式部は1005年(寛弘2)か翌年の年末には、藤原道長の娘・彰子の女房と
して出仕することになった。
当初、趣味の延長線として、身内や友人だけに読ませるために書き始めた初期の
『源氏物語』が、評判になり道長の目に止まったためである。
道長は、紫式部にとって、又従姉妹である母・倫子に頼み要請したと伝わる。
道長は知的女房によって、彰子後宮を彩り、いまだに懐妊をみない彰子と一条天
の仲を促したいと考えていた。
彼は最高権力者であり、父・為時の越前の主補任の際の恩人である。
女房勤めの資質も意欲もない紫式部だったが、拒むことはできなかった。




螺子少し緩めてこころ空っぽに  津田照子




だが紫式部の内心は、居所が後宮に変わろうとも、常に「身の憂さ」に囚われ
ていた。一方で、彰子つき女房たちは、見も知らぬ才女を警戒していた。
自分の殻に閉じこもる紫式部と、偏見によって彼女を毛嫌いする女房たちとは
そりが合うはずもなく、すぐに「いじめ」の対象となった。
いじめの理由とは、同僚の左衛門の内侍のいうところ、「紫式部は知識を鼻に
かけている」のが気にいらなかった、とか、源氏物語で注目を浴び、ちやほや
される式部への嫉妬などがあったという。
そのため、乗り気でなかった宮廷出仕の人間関係が嫌になり、職場を放棄。
実家に引きこもってしまった。
不出仕は、五ヵ月以上におよんだが、唯一の吐け口である「源氏物語」の執筆
は続けた。




地方には多分いい人ばかり居る  岸井ふさゑ






        藤原宣孝




「夫宣孝の面影」
「片つ方に文ども わざと置き重ねし 人も侍らずなりにし後 手触るる人も
ことなし」
この日記の中、たった一カ所だけふと漏らした宣孝への追慕である。
里に帰り、昔夫の触れた漢籍を静かにひもとく。
それは式部の理智がさせる一方、宣孝という一つの郷愁をも思わせ泌々とした
心の安らぎを覚えたのではないか。
親子ほども年令の違う宣孝との結婚ではあったが、学識を認め合い熟慮の末結
ばれたものであった以上、それがわずか二年間であったとはいえ、式部も諦め
きれないものがあったに違いない。
その亡き夫への追慕が『源氏物語』を生む動機となったのも事実である。





時々は地方へ酸素吸いにゆく  鈴木栄子






        宮中の陰湿な人間関係




「嫌なこともあり 利点もあり」
女房の世界は、主家に住み込み主人への客に応対し、様々な儀式での役をこな
す。「里の女」とは全く異質のものである。
特に紫式部が激しい拒否感を抱いたのは、不特定多数の人に姿をさらすことや、
男性関係が華やかになりがちなことだった。
 一方で、紫式部は出仕によって『源氏物語』の舞台である宮廷生活の実際に
触れ、物語を書き続ける上での、経済的支援も受けることが出来るようになっ
た。
だが、式部にとって最大の利点は、言葉を交わすことはもおちろん、会ったこ
ともなかった様々な階層の人々に会い、貴賤を問わぬ人間洞察を深めたことだ。




悪縁が結びつけてる君と僕  前中一晃





和泉式部 (女房36歌仙 鳥文斎栄之)
赤染衛門 (女房36歌仙 鳥文斎栄之)
清少納言 (女房36歌仙 鳥文斎栄之)




「宮中における紫式部」
『紫式部日記』は、紫式部が1008年(寛弘5)秋から1010年(寛弘7)
正月までの宮中の様子を、日記と手紙で記した作品である。
『源氏物語』に対する世間の評判や、女房たちの人物評などがつづられ、
後輩の和泉式部には、私生活に苦言を呈しつつも、才能を評価し、先輩の赤染
衛門には、尊敬の思いをつづっている。
 ところが対面をしたこともない清少納言には、
「頭が良さそうに振る舞っているけれど、漢字の間違いも多く、大したことは
ない。こんな人の行く末に良いことがあるだろうか」
と、辛辣な悪口をつらつら並べている。
清少納言が枕草子のなかで、「紫式部の亡夫の衣装をけなした」ことが原因と
いわれるが、じつはそればかりではない。




覗き穴に貼られていたテープ  河村啓子




「続いても辛辣な清少納言評」
「あだになりぬる人のはて、いかでかはよく侍らむ」
薄命な定子皇后と共に、この宮廷社会から姿を消した清少納言に対し、
これほど鋭く衝く意図は何だったのだろうか。
実は、紫式部の登場そのものが、道長が十余年前兄・道隆の模倣を思い立つ
に及んでの、嵌め込まれた役であった。
道長の頭の中には、ともすれば、あの明朗闊達な少納言の面影が生きていたと
思う。
少納言を見下ろし得る漢才は持っていても、宮仕えに転身できなかった式部は
常に悩める存在であり、ひいては少納言というかつての存在を呪う、いわば、
まぼろしのライバルとしてみていたようである。




ライバルは起きているぞと稲光  新家完司





 敦成親王誕生第五夜の産養の日、紫式部は屏風を押し開け、
隣室に控える夜居の僧に中宮御前の様子を見せる。





「中宮彰子との関係」
なかでも彰子という人との出会いで得たものは大きかった。
彰子は道長という最高権力者の娘、一条天皇の中宮という貴人である。
だが彰子のその生涯は、少なくともこれまでは、ただ家の栄華のためにあった。
12歳で入内させられ、しかし、夫(天皇)にはもとからの最愛の妻・定子
いた。定子が亡くなると、夫はその妹を愛し、彰子を振り向きはしなかった。
彰子は、14歳から定子の遺児敦康の養母となったが、自身が懐妊することは
なかった。
おそらく、道長のデモンストレーションという政治的理由の御蔭で、ようやく
懐妊となったが、今度は男子を産まなくてはならない。
彰子こそが苦を抱え、逃げられぬ世を生きる人であった。




強くなりなさい一人で舞いなさい  竹内ゆみこ




だが彰子は、紫式部に乞うて自ら漢文を学び、天皇の心に寄り添おうとした。
晴れて男子を産み、内裏に戻る際には、天皇のために『源氏物語』の新本を作
って持ち帰った。
自分の力で少しづつ、人生を切り拓く彰子の手伝いができることは、紫式部の
喜びになった。 彰子は寛弘5年と6年に年子で2人の男子を産んだ。
寛弘7年正月15日には二男敦良親王の誕生50日の儀が催された。
「紫式部日記」巻末には、彰子と天皇の並ぶ様が、
「朝日の光をあびて、まばゆきまで恥ずかしげなる御前なり」
と記されている。




さす棹のしずくも花の香して  前中知栄




寛弘8年5月22日、一条天皇は病に倒れ、間もなく崩御した。
32歳の若さだった。後継は彰子が産んだ敦成親王と決まった。
紫式部は、中宮彰子とともに内裏を去った。
“ ありし世は夢に見なして涙さえ 止まらぬ宿ぞ悲しかりける ”
中宮に代わってその心を詠むかのように式部が詠った歌である。
紫式部は、一条天皇が没したあとも、しばらく彰子に仕えていたが、
1014年(長和3)頃に40歳くらいで死去したとされる。
(正確な没年や死因は不明)。
紫式部の宮廷生活は-------初出仕が寛弘二年末として『紫式部日記』
記述の寛弘五年秋までとすると、紫式部の宮仕え生活は、
わずか二年余りというものであった。




馬の名は教えず芸歴も言わず  くんじろう




” ふればかく憂さのみまさる世を知らで 荒れたる庭につもる初雪 ”
” いづくとも身をやるかたの知られねば 憂しと見つつも永らふるかな ”
「紫式部集」の巻末歌は、紫式部の心境を窺わせる。
「紫式部日記」にも描かれる「憂さ」は生涯消えることがなかった。
だがそれを抱えつつ、やがて憂さを受け入れ、憂さとともに生きる境地に達し
ていたのである。




ブキッチョはブキッチョのまま終わります  合田瑠美子

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ていねいに拭いておく明日へのメガネ  山本昌乃





       「官女菅観菊図」 (岩佐又兵衛筆・山種美術館蔵)

牛車の簾をあけて、野の菊を眺める女房たち。
今でいう車でいく郊外への花見物というころか、
宮中で限られた生活をする女房にとって、こうした屋外への遠出は、
さぞかし楽しいものであったにちがいない。




約7年にわたり、藤原定子の教育係を務めた清少納言だったが、藤原定子の父
藤原道隆と覇権争いをしていた藤原道長が宮中で力を付けてくると、藤原道
長に内通している疑いを掛けられ、中宮の一家と対立し、容赦ない圧迫の手を
加える左大臣藤原道長方に内通している、とのうわさにいたたまれず,中宮の
そばを離れて長期の宿下がりに閉じこもった。
そして,たまたま中宮から賜った料紙に,「木草鳥虫の名や歌枕」などを思い
つくままに書き続けることによって気を紛らせた。












木よ花よお前も水がほしかろう  森光カナエ




これが《枕草子》「日記的章段」のはじまりである。
たまたま生まれたものとされているが,半ばは意識的に右近中将源経房の手を
経て、これが世人の目にとまり,意外な好評を受けて,次々と書きつづけた。
自然をおもいつくままに描いたもの以外に「日記的章段は」一条天皇藤原
定子を初めて間近に仰ぎ見た時のときめきや、初宮仕えの、不安を書き留めた
<宮に初めて参りたるころ>のことや、定子との穏やかな日々をはじめとして、
宮中の儀式や貴族達との交流が記され、藤原定子賛美をほぼ主題としている。




不可逆な時間のなかの無知無害  斉尾くにこ












式部ー枕草子 ・木の花・草の花




木の花は-------
木の花は梅、濃くも薄くも紅梅が好き。
 は、花びらが大きくて枝は細いのが好き。
藤の花、花房ながく、色うつくしいのがめでたい。
 卯の花は品格がややおとり、どうということはないけれど、咲く時節がおも
しろい。
 郭公が花の蔭に隠れているだろうと思うのも面白い。
 賀茂祭のかえり、紫野のあたり近いみすぼらしい賤の家垣根などに、
白く咲いているを目にするのも、情緒ある風情である。




ウメもも桜しっかり襷受け渡す  高橋太一郎






郭公 花橘はにほうとも 身を打つ花の垣根忘れな 西行





四月の末、五月はじめの頃のもいい。
葉が濃く青く、花はたいへん白く咲いているのなど、雨の早朝みると、
たぐいなくすばらしい。
花の中から黄金の玉のような実がのぞいてくっきりしているのは、
朝霧にぬれる桜のながめにも劣らない。
郭公が守ってくると思うから、よけいすばらしく見えるのかもしれない。




新しい出会い待ってる春四月  津田照子







    山紫陽花・楊貴妃

      梨の花




梨の花、世間では、色気のないもののたとえのようにいうけれど、
唐土(もろこし)では、この上ないもののようにいう花である。
楊貴妃の泣く顔の描写にも、「梨花一枝、春の雨を帯びたり」とある。
 よくみると、やはり梨の花は、花びらの端に、そこはかとなき匂いや
色気もなきにしもあらず、というところである。




どうしても白い涙が描けません  清水すみれ






      桐の花





桐の花の紫に咲いたのはいい。
葉のひろがり方はいやだが、なみの木と同じように考えられぬ。
尊い上品な木なのである。唐土では鳳凰がこの木に栖むという。
またこの木から琴ができるのだ。
そこもなみの木とちがう。




推敲の汗を重ねたほんまもん  柴辻踈星












草の花は---------
草の花は、なでしこ女郎花。ききょうの所々。色あせているの。
かるかや。りんどう
枝ぶりはぶこつだが、花やかな色合いで咲いているのがいい。
 萩は色濃く、枝もたわわに咲いているのが、朝霧にぬれて、
なよなよと伏しているのがいい。
牡鹿がたちならすというが、かくべつの風趣だ。 
八重山吹も好き。




脳ミソをシェイクマンネリを破る  宮原せつ





     すすきに一匹のキリギリス





「薄を入れないのはどうかとおもうわ」という人があるが、
ほんとにそう秋の野をおしなべて、いちばんの面白さはにある
と思われる。穂先の暗い赤色が、朝霧にぬれて、靡いているさま
のいい感じ、これはどんな、花にもない。




すすきの穂光る思い出置き去りに  藤本鈴菜












秋の終わりになると、これは見所がなくなる。
色とりどりに咲いていた花の、あとかたもなく散ったあと、
冬の末まで、
あたまの白く乱れ広がったのも知らず、昔を思い出顔に、
風に靡いてゆれうごいている、何だか人間に似ていること。
人によそえてみる心持のせいで、あわれな、と思うのだろう。




昔のロマン解いて裂いて織りあげる  太田のりこ





      マツムシ             スズムシ





虫は-------
虫は、鈴虫、松虫、はたおり、きりぎりす。
蝶。藻にすむ虫。かげろう。蛍
蓑虫はあわれな、しみじみした虫。
鬼が生んだので、親に似て恐ろしい心を持っているだろうと、親は粗末な衣
を着せ、「もうすぐ秋風が吹くようになったら、迎えにくるからね。待って
おいで」といって逃げていった。
それともしらず、蓑虫は風の音を聞いて秋になると、「ちちよ、ちちよ」
心細そうに鳴いている。 そんなあわれな言い伝えがある。




蟋蟀と鈴虫の音で終い風呂  宇都宮かずこ





      キリギリス           コウロギ





蜩(ひぐらし)。額づき虫
小さな虫のくせに道心をおこして、拝んでいるなんて、思いがけず、暗い所で
ことことと音をたててのを聞きつけたときは、面白く思われる。
 はにくらしいものだ。
いろんなものに止まり、顔などに濡れた足で止まったりして。
夏虫は面白く、かわいい。
 灯を近く寄せ、物語などをみているとき、本のうえを飛びあるくのも、ふっ
と楽しくて。
 はにくらしいものだけれど、身軽くて水の上まですいすいと
歩いているのが面白い。




秋の蚊の罪を問うてはなりません  前中知栄




類聚的章段---------------
枕草子における「類聚的章段」は、一般的に「ものづくし」と称される
章段のこと。
「心ときめきするもの」「すさまじきもの」「山は」「歌の題は」といった
特定のテーマを掲げ、それに属する物事を羅列し、さらに清少納言の主観的な
解説が加えられている。 (類聚=同じ種類の事柄を集めること)






    河原でお祓いをする安倍晴明





気のはればれするもの------------
満足して気のはればれするもの。
 上手にかいてある絵巻物。
見物のかえり、女たちがいっぱい乗った牛車に、男たちが大ぜいつきそい、
牛をよく使う者が、車を心地よく走らせるなど。
 白く清らかな、みちのく紙に手紙を書いたの。
 川舟のくだるさま。
 お歯黒のきれいについたの。
 美しい糸をきちんとより合わせてあるもの。
 弁のある陰陽師にたのんで河原に出て呪詛の祓いをしたの。
 夜、寝起きに飲む水。
 ひとりつれづれと物思いのあるとき、特にしたくもないが、かくべつ疎くも
ないというお客が来て、世の中のあれこれ、おもしろいうこと、腹のたつこと、
公私ともども楽しそうに話してくれるのは、心がはれゆく思いがする。




薔薇園の話に付いていないノブ  みつ木もも花





         





当時のとは、小鳥一般のことをいった。
『枕草子』「胸がときめくもの」をはじめ、『源氏物語』にも、若紫の君が
飼っていた雀の子を逃がしてしまう場面がある。




胸がときめくもの-----------
胸がときめくもの、雀を飼うこと。
 幼い子を遊ばせているところの前を通るとき。
 舶来の鏡の、おもてがすこし曇っているのを見る気持。
 身分ある男の、牛車を家の前にとどめて、召し使いに取次を申し入れている
もの。
 上等の香をたいて一人横になり、物思いしている私。
 あたまを洗い化粧をして、香のしみた衣を着る。
そういうときは、誰も見る人なくても、心のうちははればれと、深いよろこび
がわいてくる。
 男を待つ夜。---------雨や風が戸を打つ音にも、はっと、こころときめきする
ものだ…。




百歳に備えて習う三味太鼓  坂上淳司





   納戸縮緬地千鳥歌文字模様小袖 (東京国立博物館蔵)

「胸がときめくもの」として頭を洗い化粧して、香のしみた衣を着ることが
挙げられている。 今も昔もおシャレをする気持ちは変わらない。




過ぎた昔が恋しいもの-----------
過ぎた昔が恋しいもの、人形ごっこの道具。
 二藍や葡萄染の布の切れはしが、押しつぶされて、綴じ本の中にあったのを
みつけたとき。
しみじみした昔の文を、雨のふるつれづれにさがし出して読んでいるの。
 枯れた葵。 去年の扇。 月のあかるい夜。




鴨川の飛び石美男子が手を貸してくれ  武内幸子

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一族の顔認証で開く襖  月波余生




        暁に帰らむ人は イメージ





枕草子における「随想的章段」は、清少納言が自然や人事を観察して思った
ことを自由に書いたパラグラフである。
たとえば「春はあけぼの」は、こちらに分類され、春夏秋冬それぞれに風情
を感じる瞬間について、独特な感性で鋭く表現している。
その他、別れ際における恋人のあるべき姿を描いた「暁に帰らむ人は」や、
他人の噂話や陰口を言う人への、痛快で新しい意見を述べた「人の上言ふを
腹立つ人こそ」のパラグラフなどがある。




とんがった耳はどこでもドア越えて  富山やよい




式部ー枕草子 「にくらしいもの」






          火鉢  (滴翠美術館蔵)
「にくらしいもの」では、火鉢の火にあたりながら手のひらを返し、シワを
のばしている人や、話ながら足までのせてこすっている人が挙げられている。




「にくらしいもの」
にくらしいもの。急用のあるときやってきて、長話をする客。
適当にあしらえる人なら、「あとで」といって帰ってもらえるけれど、
さすがみ気がおけて遠慮のある人は、そうも言えないのでにくらしくなる。
 硯に髪に毛の入って磨られているのなど。
 また、墨の中に石が入っていて、磨るときしきしと鳴るの…。
たいしたこともない平凡な人が、やたらとにこにこして盛んに喋っているの。
 火鉢の火や囲炉裏などに、手のひらをひっくり返しひっくり返し、手を押し
 のばしたりして、あぶっている者。
いったいいつ若い人などが、そんな見苦しいことをしたのだろうか。
年寄りじみた人に限って、火鉢のふちに足まで持ち上げて、話をしながら足を
こすったりなどするようだ。
そういう無作法者は、人の所にやって来て、座ろうとする所を、まず扇であち
こち扇ぎ散らして塵を掃き捨て、座る所も定まらないでふらふらして、狩衣の
前を膝の下に巻き込んで座るようだ。




先生あの娘片肌脱いでますよ  酒井かがり





         「にくらしいもの」として
急病人のためにようやく探しあてた験者にお祈りさせようとすると、
すぐに眠り声になることを挙げている。




急に病人が出たので、祈らせようと修験者を探すと、いつもいる所にはいない
ので、別の所を探していると、待ち遠しいほど長い時間が経ち、やっとのこと
で待ち迎えて、喜びながら加持をさせると、この頃、物の怪にかかわって疲れ
きってしまったのか、座るやいなや読経が眠り声なのは、ひどく憎らしい。




痛点にモーツアルトの子守歌    吉松澄子 





          彩絵花丸模様舞扇
「にくらしいもの」では、無作法な人が人の家に来て、自分の座る場所を扇で
ばたばたとやって、塵を払うことが評されている。




とりもなおさずお行儀の悪い人は、人の前にやってきて、座る場所をばたばた
と扇で払って塵をはき捨て、しどけない坐りようで、狩衣の前の垂れも、膝の
下へ巻き込んだりする。
こういうことは、とるに足らぬ身分の者がするのかと思っていたが、そうでも
なく、少しはましな身分の、式部太夫とか駿河の前司などという人々がやるん
だから、見るに堪えない。




いちびりの成れの果てです蒟蒻は  新川弘子
 




        「 絵 師 草 子 」(宮内庁三の丸丸尚蔵)





酒を飲んでわめく人。
口の中へ指を入れて、歯をほじくったり、髯のある人はそれを撫でたり、
杯を人にやって酒をついだりするようす、まことににくらしい。
口をへの字にしたり、苦しがりながら、「もっと飲め」などと杯をさし、子供
たちが歌を歌う時のように体をゆさぶり、ほんとに酒飲みってにくらしい。
身分の高い人が、こんなことをなさるのを目撃したので、よけい、いとわしく
思うのである。




友が来てギンナン焼いて沁む地酒  川西則子




人のことを羨ましがり、自分の身の上をこぼし、人の噂をあれこれ言い、ちょ
っとしたことも知りたがり聞きたがって、喋らないでいると、恨んだり悪口を
言ったりし、また、ほんの少し聞きかじったことを、自分は前からよく知って
いたように、いい気になって人に吹聴する、そんな人もにくらしい。
 物を聞こうと思う時に泣く赤ん坊。
 烏が集まりやかましく鳴きかわして飛んでいるの。
こっそり忍んでくる男を見知って吠える犬は、打ち殺したいほどである。




蛭は背を百足ゲジゲジ脛を這う  井上一筒





ブーンと唸って顔の周りを飛ぶ蚊





無理な場所に、いたしかたなく隠して寝かせておいた男が、鼾をたてているの。
 また忍んできて、長烏帽子がものにつきあたり、ガサッと鳴ったりするの。
 また引き戸を荒々しく開けるのもにくらしい。
少し持ち上げるようにして開けたら鳴らないのに…。
 眠たいと思って臥しているときに、蚊が細い声でかすかにブーンと唸って顔
のまわりに飛びまわる。その羽風が蚊の体相応にあるのもにくらしい。




襖から野太い声が出られない  石橋芳山
 




        ギシギシザワザワとうるさい牛車





牛車
乗り物として、実用とともに、外観の装飾を華美にすることを競った。
普通は四人乗りで、二人乗りや六人乗りの場合もある。
悪い牛車はぎしぎし音をたて、うるさかったのだろう。(栄花物語)




ぎしぎしという牛車に乗っていく人。自分は聞こえないのかしらとにくらしい。
 また世間話をしているとき、さきくぐりして喋る人。
 出しゃばりは、大人も子供もにくらしい。
ちょっと遊びに来た子供を、可愛がって相手になり、いろんなものをおもちゃ
にやると、それに慣れて、しじゅうやって来て、家具など散らかしたりするの
もにくらしい。
 自宅でも宮仕えしている所でも、会わずにおこうと思う人が来た時、しって
狸寝入りなぞしている。それを侍女たちがわざわざお起こしにきて「寝坊な」
と言い、顔にゆすぶったりするのはにくらしい。




背は縮む耳は騒ぐし眼はかすむ  宮井元伸




新参者が、古参をさしおいて、物知り顔に指図するようなことをいうのも、
たいへんにくらしい。
 恋人の男が、昔の女のことなどを褒めたりするのも、過去のことだけれど、
やっぱりにくらしい。まして現在のことなら、どんなに嫉妬されることだろう。
しかしまた考えると、現在のことの方が、却ってそれほどでもないかも知れぬ。
 くしゃみしてまじないを唱える人もにくらしい。
総じて一家の男あるじでなくては、高らかにくしゃみなどするのはにくらしい。
 蚤もたいへんにくらしい。衣の下をはねまわって、もちあげるようにする。
 犬が声を合わせ、長々と吠えているのも不吉でにくらしい。
 開けて出た戸を、あと、閉めない人も……。
「ねーちょっと! 自分の開けた戸ぐらい閉めていきなさいよ!」




どや顔の犬とポーカーフェイスの猫  森田律子






   何か面白いことはないかしらと・清少納言 (谷文晁画)




「人の上言ふを腹立つ人こそ」
清少納言のまことを見るには、「人の上言ふを腹立つ人こそ」の段だろう
これは清少納言が、「人の悪口は楽しくってやめられないわ-」と叫んでいる
パラグラフである。
そして、悪口を言う人に腹を立てている人に対しては、「いい人ぶっててわけ
わかんない」と、ムカついてもいる。
おしまいには、親しい人の場合には、かわいそうだから我慢して悪口言わない
けど、「ほんとは言えたらめっちゃ笑えるのに」と本音もこっそり認めている。




生も死も喜怒哀楽も飲むティッシュ  金瀬達雄




「暁に帰らむ人は」
夜更けの頃に帰ってく人は、服装なんかはそんなにきちっとキレイにしたり、
烏帽子の紐をしっかり結んだりしなくってもいいと思うのよね。
だらしなく、みっともなく、直衣・狩衣などがゆがんでいるとしても、
誰がそれに気付いて、笑ったりけなしたりもするだろうか…。
誰も見ている人なんかいないわよね。やはり男は、暁の様子こそ素敵で、
ゆうゆうぜんとしていなくてはいけない、と認めているパラグラである。




おしりで塞ぐバスタブの底の穴  河村啓子

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モノクロの顔で耐えてる生きている  北山恵一





            四足門(よつあしもん) (年中行事絵巻)

平生昌は本来なら中宮を迎えるなど考えられない身分の低い者であった。
中宮定子がお産で滞在するために、東の門を「四足門」に作り替えた。




式部ー平生昌




大進の平生昌(たいらなりまさ)の家に、私のお仕えする中宮さまが、
お産のためいらしたときのことである。
大進は、中宮職の役人で、そんなに身分は高くないから、邸の門は四本柱に
できない。でも中宮さまの「行啓」というので、とくに改造して四本柱にし、
その門から中宮さまの御輿はお入りになった。
われわれ女房たちの牛車は、北の門から入れるつもりだった。
警護の者の詰所にも人は居るまいし、どうせ車はそのまま、たてものに横付
けするだろうしと、たかをくくって、ろくに身なりもかまわないでいたら、
なんと門が小さくて檳榔毛(びろうげ)の牛車など入らない。
しかたなく車を下り、邸まで敷物を長々と敷いて歩かねばならなくて腹立た
しかった。それをまた、殿上人や地下の役人たち男性が見ているのだ。
いまいましいったらなかった。




靴ひもの結び直しのような家  はるのあきこ





   お産の祷り (安田靫彦筆)(東京国立博物館蔵)

安産祈祷のなかで 出産する女性を描いている。
半裸の女性は物の怪をのりうつらせる憑坐(よりまし)である。
清少納言が仕えた中宮定子は、一条天皇との間に3人の子をもうけたが、
3人目の出産の際、25歳の若さで世を去り、これを機に、清少納言の
宮仕え生活も終った。




中宮さまの御前に参上して、先刻の有様を申し上げると、
「ここでも、人は見ないものではないのに、どうしてそう気をゆるしたの」
とお笑いになる。
「ですが、まあそれは見慣れているでしょうから、あまり綺麗にしていたら
 かえってびっくりする人もおりましょう。
 それより、これほどの家に車も入らぬような門があるものでしょうか。
 生昌が現われたら、笑ってやりましょう」
などという内に<これをさしあげましょう>と生昌がやってきて、中宮さま
のお手回り品------御硯やら何やら持ってきて御簾の下からさし出した。




顔認証ときどき家に入れない  吉田吹喜





生昌は五十あまりの実直な男性である。
「ねえ、ほんとにあなたってお人が悪いわ、どうしてお邸の門を狭く造って
 らっしゃるの」
と私がいうと、生昌は笑って、
「家の格や身分に合わせたのでございます」
と答える。
「でも、門だけを高く造った人もあったて聞きますわよ」
というと、
「やや、これはまいりました!」
と生昌はびっくりして感に堪えぬごとく、
「よくそんなことを御存知で。
 それは漢の于定国(うていこく)の故事でございましょう。
 門を大きく造ったために子孫が栄えたという…。
 年功を積んだ進士でもございませんと、おっしゃることがわかりますまい。
 私はたまたま、この道を専攻しておりましたから、それと察せられたので
 ございますが…」
(進士=学問を修め、役所の試験に合格した者)




口下手を美点に変えて聞き上手   廣渡憲峰




「さあ、その道もいいかげんなものよ。敷物をしいてあったけれど、
    穴ぼこに落ち込んだりして、みな大さわぎでしたわ」
というと、
「雨が降りましたから、さもありましたろう。
 いやもう、あなたさまが 何かいわれるとこちらは閉口頓首です。
 失礼いたします」
といって、あわてて立ち去った。 中宮さま
「どうしたの、生昌がやりこめられていたようだったけれど」
と仰せられる。
「何でもございません。車が入らなかったことを申しておりました」
と申し上げて、局にさがった。




抽斗の把手にもある黙秘権  笠嶋恵美子





        国宝・高燈台(たかとうだい) (東京国立博物館蔵)

光を得るための必需品。灯明皿をのせて用いる。



その夜は同室の若い女房たちと共に、何もおぼえずぐっすり眠ってしまった。
東の対の西の廂……北側のふすまには掛金もなかったが、それも調べないで
そのままだった。
生昌は、家の主だからよく知っていて、そこをあけたのである。
変にしゃがれた声で、
「そこへうかがってもかまいませんか、いかがでしょうか」
と何度もいう声に目がさめた。
見ると几帳のうしろに立ててある燈台の光は、あかあかとして、
何もかもよく見える。 ふすまを五寸ほどあけていうのである。
おかしくってたまらない。
女の部屋に、夜中しのんでくる、というようなことは夢にもしない人だが、
中宮さまが、わが家に行啓されているというので、心おごっていい気になって
いるのかもしれない、などと思うのもおかしい。




怪しさはお互いさまの夕間暮れ   新家完司





私はそばに寝ている若い人を起こして、
「あれごらんなさいよ、なんだかうさんくさい人がいるわ」
というと、
彼女は頭をもたげ、それとみとめて、誰なの、そんなとこあけっ放してと、
ひどく笑った。生昌は、
「いや、何でもございませんが、家あるじと、この局のあるじの方と、ご相談
したいことがございまして」
「門のことは申し上げましたけれど、襖をおあけ下さいとは申しませんわよ」
と私がいうと生昌は、
「さ、そのことをいろいろお話し申したい、おそばへまいってもかまいません
 かな」
といった。 さあ、若い女房のおかしがること、
「まあ、みっともない。いまさら了解をもとめて入ってくるなんて、呆れたわ」
と吹き出すのである。
「いやはやこれは…。お若い方々もおいででしたか」
と生昌はあきらめてふすまを閉めて去った。
そのあとでみんなは、おなかを抱えて笑ったのである。




襖からぬっと毛脛がのびてくる  笠嶋恵美子





男だったら、女の部屋をあけた以上は、四の五のいわず入ってくればいいのだ。
入ってもかまいませんか、と男にいわれて、どうして女が、<はいどうぞ>、
といえよう。
おかしくて翌朝、中宮さまの御前に上ったときにお話し申し上げると、
「そんな色めいた噂を聞かぬ人だったのに…ゆうべの門の話に感心して、心ひか
 れて忍んできたのでしょうね。まあ、あの人をそう手ひどくやりこめたなんて
 かわいそうよ」
とお笑いになった。




疎んでも疎んでもカメムシの残り香  山口ろっぱ





     紫式部日記 絵詞(若宮の成長をよろこぶ)(東京国立博物館蔵)

若宮が生れて50日目には、祝いの食膳が据えられて宴が催される。
清少納言が仕えた中宮定子は3人の子を産んだが、天皇の母に
なることはなかった。
紫式部が仕えた中宮彰子が産んだ2人の子は、後一条天皇、
後朱雀天皇として即位している。




姫宮はことし四歳におなりである。
おつきの童女たちの装束を作らせるようにという中宮さまのおいいつけに対し、
生昌は、
「童の衵(あこめ)のうわおそいは何色にいたしましょう」
と申し上げるのを、また女房たちは大笑いした。
汗衫(かざみ)といえばすむものを、物々しい古風な言葉で、<うわおそい>
などというから、若い人々はふき出すのだ。また、
「姫宮のお膳は、ふつうのものではにくげでございましょう。
 ちゅうせい折敷(おしき=ふちのあるお盆)、ちゅうせい高坏(たかつき)
 が よろしゅうございましょう」
この人、言葉や発言に独特のものがある。
ちいさい、といえばいいのに、<ちゅうせい>、だなんて…。




温かな言葉で防ぐ隙間風  掛川徹明




「それでこそ、<うわおそい>を着けた童女も、おそばへまいりやすいこと
 でしょう」
とからかうと、中宮さまは、
「世間の人のように、からかわないでおきなさい。
 まじめで、りちぎな人なのよ、かわいそうに」
と制せられるのもおかしい。
ちょっと手すきのとき<大進がお話し申し上げたいと申しております>と人が
私にいうのを中宮さまはお聞きになって、
「また、どんなことをいって笑われようとするのでしょう」
と仰せられるのも面白かった。





哲学の道で一をゼロとした  野口 裕





「行って話を聞いてらっしゃい」
と仰せになるので、わざわざ出かけて行ったら、生昌は、
「先日の門の話を、私の兄の中納言に話しましたらたいへん感心いたしまして、
 どうかして適当な折に、<お目にかかってお話を伺いたい>、と申しており
 ました」
というので、なんのこともなかった。
先夜、忍んできたときのことを恨むのかしら、と、ちょっと胸がとどろいたが、
そうでもなく、
「そのうち、ゆっくりお部屋に伺いまして」
と去ってゆく。
帰ると<何だったの>中宮さまが仰せられるので、これこれと生昌の言葉を
申し上げると、またみんなおかしがった。





ひと呼吸置けばふっくらする言葉  靏田寿子




「わざわざ呼び出していうほどのことことでもないじゃありませんか、
 ついでの時に部屋にでも来て言えばすむのに、ねえ」
と笑うと、中宮さまは、
「生昌はよっぽど兄を尊敬しているのよ…自分の尊敬している兄が褒めたと
 いうことを、あなたに聞かせたら、どんなにあなたが喜ぶかと思って、
 わざわざ知らせたのよ、優しい人じゃないの」
とおとりなしになるのである。
そう仰せられる中宮さまこそ、なんとお優しいお心であろう。
なんとすばらしいお方であろう。



気を付けて生きねばならぬ歳になり  谷口 義

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春はあけぼのくらくらしてはおれませぬ  山本昌乃






「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」の一文を踏まえ庭の雪を見るために
 御簾をまく清少納言。





9世紀後半の宮廷では、歌合わせや管絃といった遊芸が盛んになり、
後宮の妃たちにも、和歌や琴などの教養が必須となった。
10世紀の摂関時代には、こうした傾向が高まり、妃を中心に
「文化サロン」が生まれた。
そのため女房には世話係のみならず、中宮の教育係としての役割も
求められ、藤原定子清少納言に、藤原彰子紫式部にと、高い教養
を持つ女性が抜擢された。 例えば、藤原定子は、女房の清少納言に
「香炉峰の雪はどんなであろうか」という問いをした際、
清少納言は漢詩の知識を生かして、『白氏文集』白居易)にある
「香炉峰の雪は簾をかかげて看る」という一文を踏まえ、
簾をかかげて庭の雪を見せられたという。





彩りに笑顔挟んでおきました  川畑まゆみ





式部ー藤原定子





           儀 同 三 司 母

定子は才媛の母高階貴子の娘として生まれた。






藤原定子は、976年(貞元元)父・藤原道隆・母・高階貴子の間に
長女として誕生した。
父・道隆は、藤原道長の兄で、高い身分にもかかわらず冗談好きの
気さくな人柄で、美男子としても評判の人だった。
母・高階貴子は、高才と謳われた学者・高階成忠の娘である。
貴子自身も漢詩文に造詣の深い才媛であり、円融天皇に仕えた。
(赤染衛門の『栄花物語』・「さまざまのよろこび」には、高階貴子を
『女性ではあるが、漢字などを実に見事に書いたので、内侍に任命され、
 高内侍と呼ばれた』と、記されている)
また、儀同三司母(ぎどうさんしのはは)の名で、小倉百人一首でもし
られる。
”  忘れじの行く末まではかたければ 今日をかぎりの命ともがな "
(「いつまでも忘れはしない」と、おっしゃるあなたのお言葉が、将来
 いつまでも期待できるものとは、思えませんから、今日を最後の命と
 したいと思います)
この母から高度な教育と優れた血を受け継いだのが藤原定子である。




まだ誰も見たことのない色で咲く  河村啓子





989年(永祚元年)10月に着裳(成人式)をすませた翌年、一条天
皇へ入内する。この時、定子は15歳であった。
一条天皇は、円融天皇藤原詮子を両親に980年(天元3)6月に生
まれ、花山天皇を継嗣して7歳で即位している。
990年(正暦元年)、14歳で3歳年下の一条天皇に入内。
因みに一条天皇の生母・詮子は、藤原兼家の長女であり、
定子の父である道隆は、兼家の長男である。
いわゆる一条天皇と定子は、従姉弟の関係になる。





レシピからはみ出す朝の作り方  中野六助






       仲睦まじい一条天皇と中宮定子





990年(正暦元年)正月5日一条天皇が、11歳で元服すると25日
定子は、15歳歳で入内、翌月11日に女御の宣旨を受ける。
同年、藤原兼家は、定子の入内から4ヶ月後に、関白となったが、
病のため出家し、7月2日に62歳で没した。
兼家のあとを継いだ兼家の長子・藤原道隆は、権力基盤を固めるため、
父の喪中にもかかわらず、娘の定子の立后を急いだ。
当時「中宮」とは皇后の別称であり、円融の中宮・藤原遵子(じゅんし)
がいたが、道隆は遵子を皇后とし、定子を中宮とするという、前代未聞
の手段を強行した。(「一帝二后」のルールが突如としてできあがる)





斜めから吹く風斜めから躱す  岸井ふさゑ






          定 子 サ ロ ン





強引な立后であったが、一条天皇中宮定子を厚く寵愛された。
二人の睦まじい様子は、清少納言「枕草子」の中で、うるさく証明
している。
姉さん女房であり、才女が好きな天皇は、定子の下に清少納言以下才女
を集め、文化的な「定子サロン」を開かせた。
また道隆は、嫡男・藤原伊周(定子の兄)を内大臣に任じるなど、
定子を取り巻く環境は、まさに絶頂期を迎えた。





神様が総出と思う日本晴  山口文生






           藤原道隆  (前賢故実)

摂関家の定例行事賀茂詣のときの事、土器に注がれた御神酒を三杯
飲むのが通例のところ、酒好きの道隆は7,8空けたという。
この酒が道隆の命を縮める原因となった。





ところが、その5年後の長徳元年4月10日、糖尿病という病の悪化に
よって死没する。道隆が没すると4月27日、道隆の弟・藤原道兼
関白を継いだ。が、その道兼も関白就任から間もない5月8日流行り
病に倒れ、あえなく没してしまう。
突如、高貴な後ろ盾の父を失った定子の周辺は、一条天皇の威光を
頼むことなく、揺るぎ始める。
その間に。定子の叔父・藤原道長「内覧」に任じられ、政権の中心に
躍り出る。 道長の姉で一条天皇の母・藤原詮子の意向だった。





四拍子ハミングしつつ杖をつく  岸田万彩





996年(長徳2)正月、定子の兄・藤原伊周が弟の隆家に命じて、
花山院に射かけたことにはじまる「長徳事件」が勃発する。
事件は関白の座を巡って伊周と叔父の藤原道長との対立に端を発した
ものだったが、定子は、内裏を出て「二条北宮」と称される、定子が
里邸としていた邸宅に退出した。
兄と弟が不祥事を起こしたことによる、自主的な謹慎であった。
事件を重くみた一条天皇は、伊周と隆家は、二条北宮の定子のもとに
身を寄せていた為、同年5月1日、懐妊中であった定子を牛車に移した
うえで、検非違使を二条北宮に突入させた。
隆家は捕らえられ、伊周もいったんは逃げたものの、やがて捕まり、
(伊周を)太宰権帥に、(隆家を)出雲権守として左遷し、事実上の
流罪とすることを裁決した。





兄ちゃんがティッシュ抱えて泣いている  宮井いずみ





         吾 子 を 抱 く 中 宮 定 子





このとき、定子は自ら髪を切り落とし出家をした。
『小右記』は定子が出家したことを記している。
『栄花物語』にも「浦々の別れ」として綴られている。
長徳事件の年には、定子は懐妊しており、一条天皇が見放すわけもなく、
その12月16日、定子は、一条天皇の第一皇女となる
脩子内親王を出産している。
その後も一条天皇は、出家しても定子を愛し続け。
999年(長保元年)11月7日、定子は一条天皇の第一皇子となる
敦康親王を出産している。





居心地のよい椅子一つあればよい  佐藤 瞳





このとき、何を思ったか道長は、同じ長保元年11月1日に娘の彰子
入内させ、1000年(長保2)彰子の立后を決行し、定子を皇后に、
彰子を中宮とする、『一帝二后』(一人の天皇に正妻が二人)を現出さ
せた。ところが、それでも一条天皇の定子への寵愛は変わらなかった。
まもなく、定子は、第三子を懐妊する。
だが12月15日朝、定子は子内親王を出産する、も、後産が下りず、
この世を去ってしまう。25歳の若さだった。





水平線が傾く神は死んだのか  上島幸雀





定子はいつごろのことか自分の死を悟り、寝室の御帳台の紐に、天皇
思いを寄せた辞世の句・3句結びつけてあった。
" 夜もすがら契りしことを忘れずは 恋いむ涙の色ぞゆかしき "
(―夜通し愛を誓ったことを忘れていなければ、恋しいと血の涙を流し
 てくれるでしょうか。 あなたの涙の色が知りたいのです)
                       (『後拾遺和歌集』)
定子の葬儀は、親しかった人々の姿すらない、寂しいものだったという。
一条天皇は身分の高さゆえに、葬儀に参列することができなかった…、
そこで天皇は葬送の時刻に喪服を纏い、返歌を詠んだと伝えられている。
" 野辺までに心ひとつは通へども 我が行幸とは知らずやあるらん "
(あなたが葬られる野辺まで付き添うことはできないけれど、心だけは
 雪のなかを一緒に歩いてゆきます。けれどあなたはもう、私が一緒に
 いると知ることすらないのでしょう)
                       (『後拾遺和歌集』)





人生を迷い続ける春霞  靏田寿子






 




「定子辞世 2句」
” 知る人もなき別れ路に今はとて  心細くも急ぎたつかな "
(誰も知る人のない死出の旅路に今はこれまでと、心細くも急ぎ出で
 立つことです)
" 煙とも雲ともならぬ身なりとも  草葉の露をそれとながめよ "
(煙や煙となって空に漂う身ではなくても、草葉の露を私と思って、
 眺めてください)
これらすべて一条天皇に手向けたうたである。





雲間から別離の序曲合わせ貝  通利一遍





       笑いの絶えない中宮定子のサロン





枕草子
清少納言定子に仕えた約7年間の出来事などが綴られている。
「笑ひ給ふ」という言葉が頻繁に出てくるのは、定子が主催する宮廷
サロンが、いつも「笑顔にあふれていたこと」を物語っている。
実は、清少納言が枕草子が書いたのは、藤原道長が台頭し、藤原定子が、
宮廷で孤立しはじめてからのこと。
だが枕草子には、定子の苦境や実家の没落については一切触れていない。
それどころか、定子を賛美する言葉があふれ、明るく楽しかった思い出
だけが書き連ねられているのである。
定子が亡くなるその日まで。





にっこりとできるあなたがいるだけで  掛川徹明

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