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川柳的逍遥 人の世の一家言
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予言者はヒゲ蓄えて遠く見る  オカダキキ



   諸葛亮
         (画面をクリックすれば大きくなります)

勝利をもたらすために策を練り、主君に忠実に使え、

時に対等に意見する。

影で人臣を導く片腕の存在、それが「軍師」である。

官兵衛もまた有岡城救出後、人格が入れ替わったかのように、

天下人も恐れるほどの才知を駆使し、本物の軍師として歩き始めた。

その軍師の原点にいるのが、「諸葛亮」である

職人の頂点を知る鉋クズ  きゅういち

諸葛亮」

字は孔明。

劉備に仕えるまでその生活ぶりは晴耕雨読で目立つことはなかった。

        しばき
ただ友人の徐庶や司馬徽らがその才能を認め、
がりゅう
臥龍と呼んでいたように知る人ぞ知る賢人だった。

身長8尺の偉丈夫だった。

江戸時代の作家が竹中半兵衛を彼になぞらえるなど、

日本にも大きな影響を与えた人物である。

臥龍=目覚める前の龍。

時計は止められるが時は止められぬ  岡田陽一

「軍師のルーツ・諸葛孔明」



「饅頭で崇りをを鎮める」

遠征の帰り、荒れ狂う河を見て、生贄の風習をやめさせて

饅頭を作って代わりに供え、氾濫を鎮めた。


後漢時代まで、君主は軍師を文字通り「師」と仰ぎ、

進んで陣営に招いた。

諸国に名を知られる有能な人物を軍師として招くことだけでも、

一目置かれ、それはステータスにもなったのである。

それだけに、君主と軍師の関係は、主従関係ではなかった。

むしろ対等に知覚、時に軍師は賓客として遇されることもあった。

一寸の虫が瞬く千里眼  真鍋心平太



「三国志演義にみる孔明の活躍」

「三顧の礼」の折、孔明は劉備に対して天下を三つに分けて納める

「天下三分の計」を示した。劉備はこれに沿って蜀の国を占拠、

曹操、孫権と並び立ち「三国時代」の到来につながった。

しかし「三国志の時代」(184~280)になると、

君主と軍師は主従関係を結ぶようになる。

軍師は君主に対して忠節を尽くし、懸命に働くようになる者も現われた。

その代表格が 諸葛孔明 だ。

孔明は「三国」のひとつ、蜀を建国した劉備に仕えた軍師である。
            けいしゅう
西暦208年、劉備は荊州に住んでいた孔明を三度も訪ねた。

劉備は孔明より20歳も年上だが、彼を賢人と見込み、

自ら足を運んで誠意を見せたという。

孔明もそれを意気に感じて仕官を決意した。

これが故事に残る「三顧の礼」である。

本物は四季の心を持っている  徳山泰子



「草船で矢を借りる」

赤壁の戦いの折、霧の出た夜に藁束で覆った船団で敵陣に迫り、

敵が放った矢を船に満載して帰陣した。

孔明は以後、生涯をかけて劉備に尽くすが、

当初は専ら、劉備が外征に出る際にその留守を預かり、
へいたん
兵站など後方を支援する文官的な役割が目立った。

曹操が中国の北半分を制圧し、荊州に攻めてきたとき、

孔明は劉備軍の代表として、孫権のもとに派遣される。

孔明は外交官としての才覚を発揮し、孫権との同盟に成功。

連合を組んで曹操軍を撃退した。

これが「赤壁の戦い」である。

兵站=軍の後方にあって作戦に必要な物資の補給や整備・連絡などにあたる。

何故だろうあなたが来ると風が立つ  山野寿之



   「空城の計」

司馬懿の大軍が迫ったとき、わざと城門を開け放ち、

楼台で琴を奏でて待った。敵は伏兵を恐れて撤退した。

その後、孔明は劉備の勢力が大きくなるに従って重用されるようになり、

後に与えられた役職が「軍師中郎将」「軍師将軍」というものだった。

これは軍事・政治の両面を取りまとめるという重用なポスト。

彼にしかできないことだった。

劉備が蜀の国を得るために出陣した時、

孔明は荊州で留守を預かったが、劉備が危機に陥ると、

張飛趙雲を従えて援軍として赴き、主君の危機を救った。

仮処分の首と明日の手打ち蕎麦  山口ろっぱ



諸葛孔明が記した「出師表(すいしのひょう)

孔明が皇帝の劉禅に上奏した文書。

弱小の蜀が魏に勝てるよう、


死ぬまで努力する決意を述べた名文として知られる。

223年、劉備が亡くなる間際、

「もしわが世継ぎの劉禅に才能がなければ、君が皇帝となりなさい」

と言われたが、

孔明はこれに感激し劉禅の手足となって働くことを決意する。

その後、劉備の遺志を継いで漢王朝復興をめざして戦い続け、

毎年のように自ら総司令官となって蜀軍を率い、魏に攻め込んだ。
                   しばい
魏への北伐は5度に及んだが、魏の名将・司馬懿に防がれて果たせず、

長年の無理がたたり、54歳で過労死した。

彼の存命中は毎年のように遠征を敢行しながらも国政を乱さず、

強国である魏を脅かし続けたが、その死から27年後、

蜀は衰退を続け、魏に滅ぼされてしまった。

決心はダイヤモンドの堅さほど  髙田美代子



「祈祷で寿命を延ばす」

晩年、自分の寿命が近いことを悟り、蝋燭を灯して祈りを捧げるが、

部下の魏延が誤って灯を倒してしまった。

孔明は、小説・「三国志演義」では、

神がかり的な能力を持った軍師として描かれるが、

史実における孔明は天才的な軍師としてより、

このように愚直なまでに、劉備や劉禅を補佐し続けた忠臣であった。
 
その後、「軍師」制度は時代が進むごとに形骸化し、

西晋では「軍司」という名前に転じた。

その役割も前線に出ている軍勢の監視役に留まり、

重要性が薄れ、やがて自然消滅したようである。

後世、軍師はその神秘性が誇張され「三国志演義」「水滸伝」

登場する神がかったような存在へと昇華してゆく。

それが日本にもたらされ、

今日イメージされる軍師像として定着するにたったのである。

そのモデルの代表格が、諸葛孔明なのである。

政治貧しく読み返す水滸伝   奥山晴生

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ゆさゆさと笑う豆腐を買いに行く  岩根彰子


   鳥取城石垣

鳥取は、砂丘ばかりが有名だが、名城100選にも選ばれている通り、

訪れて見れば、鳥取城の堅牢な勇姿も捨てたものではない。

鳥取の渇え殺し」

荒木村重が単身城を捨てて逃走したことで、

有岡城は落城して官兵衛は救い出された。

この頃になると三木城内の食糧事情はかなり悪化。

馬まで食べてしまっても、餓死者は後を絶たなかった。

そして天正8年(1580)正月、秀吉は三木城総攻撃を開始する。

「もはやこれまで」と悟った城主の別所長治は、
                      よしすけ
自分と弟の友之、強硬であった叔父の賀相の切腹と引き換えに、

城兵の助命を願いでた。

それを条件として三木城は開城、

約2年に亘る三木籠城戦は終止符を打った。

恐ろしいものを見すぎた月の暈  木本朱夏

秀吉は三木城を陥落させた後、4月に弟の秀長を但馬に派遣。

この地の毛利方武将を討伐させた。

東への境界を織田方に付いた宇喜多直家に抑えられている毛利輝元は、

その宇喜多領に侵入を繰り返すが、

本格的な戦闘へと発展させる意志は乏しかった。

その間に秀吉は西播磨も平定してしまった。

そして次の目標を因幡攻略に定めた。

パーフェクトに咲いて散れなくなりました  岩田多佳子



  鳥取城球面体石垣

石垣のたわみを防ぐため、この形を採用したという。

秀吉の的となる本拠地は山名豊国が守る「鳥取城」だ。

秀吉は5月には秀長とともに因幡に進軍し、

毛利方の城を次々に陥落させていった。

当初抵抗していた豊国は、9月には降伏して鳥取城を後にしている。

ところが、山名氏の老臣をはじめ城兵の多くは、

その後も籠城を続けたうえに、

毛利軍山陰方面総大将の吉川元春に城将の派遣を依頼した。

そこで元春は天正9年(1581)の3月、

一門の吉川経家に兵400を付けて、鳥取城に送り込んだ。

花筏踏んで戦車がやってくる  湊 圭史

秀吉は6月の末、2万の大軍とともに因幡を目指した。

この鳥取城攻略策も三木城と同じく兵糧攻めに決した。

そして、三木城のように時間をかけないように、

官兵衛が提案した二つの策を実行している。

一つは、戦闘が始まるよりも大分前から、

因幡国中の米穀を通常の倍の値段で買い占めること。

もう一つは、城攻めの前に近隣の村落を襲い、

領民たちが城内へ逃げ込むように仕向けたことである。

そうすれば兵糧の消耗もより早くなるからだ。
     かつえ
「鳥取の渇え殺し」の作戦開始である。

命中せぬと的の機嫌が悪くなる  寺川弘一

「この時官兵衛は?」

合戦開始7月以後、鳥取は戦闘のない籠城戦ということもあり、

官兵衛はこの戦闘から離れ、阿波・淡路に出兵したと伝わる。

「天正9年秋、信長は阿波・淡路を討つべきことを秀吉に命じた。

   秀吉は命を受けて、まず阿波を平定しようとして、

   その身は因幡にありながらも、名代として官兵衛を阿波へ派遣した。

   この時、官兵衛の父・職隆が病により危険な状態にあったが、

   命令なので断ることもできず、官兵衛は阿波へ向った」

とある。                                                             「黒田家譜」
                                                せんごくひでひさ
阿波は,秀吉の家臣である仙石秀久に任せ、
                                     あたかきよやす
官兵衛は、淡路の安宅清康に照準をあてた。

清康は、もともと信長側だったが、毛利側に寝返っていたからで、

裏切ることを嫌う官兵衛は、自分自身の手で清康を討ち取り、

城をあっけなく開城させている。

納得の目覚めを朝は待っている  斉尾くにこ

「人に歴史・城主に生き方あり」



「変わり身の早い城主」-山名豊国

山名豊国は、尼子の山中鹿助らと組んで毛利方・武田高信を滅ぼし、

鳥取城を奪い城主となるも、

毛利方の圧力が強まると尼子を捨て、毛利に帰順。

その後の信長の中国攻めには、毛利を捨て織田方に従おうとした。

それが家臣たちの反感を買い、鳥取城を追われる。

その後、秀吉の御伽衆となり、

関ヶ原の戦では、家康について但馬に所領を得ている。

死に方を考えるほど暇である  山本洵一        



「戦わずして名将の名を残した将」-吉川経家

秀吉に山名豊国が鳥取城で降伏しようとすると、

その家臣たちは、豊国を追い出して、

秀吉軍と徹底抗戦をする事を決意、毛利の吉川元春に支援を求めた。

そして元春が白羽の矢を当てたのが武勇に秀でた吉川経家である。

この時、経家は自身の首桶を持ち込んだといい、

死を覚悟した入城だった。

経家は入城すると、城内の防衛を整備し、籠城の準備をはじめた。

しかし、兵糧の備えは常備兵3ヶ月分しかなく、

4ヶ月間も籠城して耐えたが、餓死者が出始めたことで、

経家は自分の命と引き換えに、城兵の助命を条件として開城した。

秀吉は、経家の入城の経緯を知っていることもあり、

その武勇を惜しみ、自害を思い止るよう説得したという。

「古の仮の庵と住みかへて もとの都にかへりこそすれ」

串カツの二度漬けほどの罪だった  たむらあきこ 

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体内を流れる水母のようなもの  笠嶋恵美子



 秀吉三木城包囲図

「黒田の姓」

官兵衛の父、職隆はもともと黒田の姓をつかっていたが、

小寺氏の配下に組み込まれることにより、小寺姓を与えられて以後、

官兵衛も小寺姓を名乗っていた。

では官兵衛は、いつのころから黒田の姓に戻したのだろうか。

白鯨の腹に抜糸の疵がある  くんじろう



    御着城絵図

天正8年1月、秀吉が三木城主の別所氏を滅ぼすと、
         しそう
続く4月には宍粟郡の長水城主・宇野氏を滅亡に追い込んだ。

両氏を滅亡させたことにより、播磨の平定は完了した。

同年4月になると、破城が進められ、

小寺氏の居城である御着城以下、主要な城郭は破壊された。

御着城主、小寺政職は逃亡し、

子孫はのちに福岡藩主となった黒田長政に仕えたという。

これ以前から官兵衛は秀吉に従っていたので、

もはや、小寺氏とは関係ない。

ポリ袋にシーラカンスのエラのカス  山口ろっぱ



秀吉は禁制や百姓還住を進め都市、町、村の戦後復興を推し進めた。

その中で重要視されたのが姫路であった。

同年7月には、秀吉は官兵衛に対して、

姫路城の普請を申し付けている。

この時の宛名が「黒官兵」となっているので、

少なくとも、この時点で黒田姓に戻していたと考えられる。

以後、官兵衛が小寺姓を使った形跡はない。

つまり、

官兵衛は有岡城を脱出し、

小寺氏が没落してから、黒田姓に復したのである。

弁天さんの前で駱駝がロバになる  奥山晴生



「名の変遷」

官兵衛の名前は、孝高である。

しかし史料によっては違った名前が用いられている。

永禄10年(1567)12月13日付の正明寺文書に残る

「黒田孝高下地売券」には、姓と官職が「小寺官兵へ衛」とあり、

名は「祐隆」と記されている。

官兵衛の初名は、一般的には「孝高」と考えられているが、

「祐隆」である可能性がある。

同じく正明寺文書の中の「黒田黒田孝高借銭請取状」では、

姓と官職が「小官」とあり、名は「考隆」と記されている。

                 (永禄13年3月12日付)

次に4宮文書の中の「黒田孝高起請文」には、

姓と官職が「小寺官兵衛」、名は「孝隆」とあり、

いずれにしても「孝高」ではない。

                   (元亀3年9月13日付)

ところで黒田氏は、重隆、職隆のように、下に「隆」がつく。

ゆえに本来は「祐隆」「考隆」「孝隆」と名乗るのが自然なのだが、

敢えて「隆」を使わなかったのは、

どんな意味意識があったのだろうかー興味が尽きないところである。

漂流中もエビチリは食べていた  井上一筒

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仇討は済んだデンデンムシと鹿  井上一筒



本丸井戸(かんかん井戸)

この井戸は三木城本丸跡に残る唯一の井戸で、

口径3・6m、深さ約25mを測る大きなもの。

石を投げ込むと「カンカン」と音がすることから、

「かんかん井戸」とも呼ばれ、抜け道もあったと伝わる。

城内にある雲龍寺には、この井戸から出土したと伝えられる、
            あぶみ
城主・別所氏愛用の鐙が大切に保存されている。

さざなみが立つとニンニク二かけら  山本昌乃



秀吉、半兵衛を見舞う

「播磨平定」

竹中半兵衛がこの世を去ってから5ヶ月後、

荒木村重
が単身城を捨てて逃走したことで、

有岡城は落城して官兵衛は救い出された。

この頃になると、三木城内の食糧事情はかなり悪化。

馬まで食べてしまっても、餓死者は後を絶たなかった。

そして天正8年(1580)正月、秀吉は三木城総攻撃を指示した。

もはやこれ以上の抵抗は無意味と悟った城主の別所長治は、

自分と弟・友之、強硬な反織田派であった叔父の賀相の切腹を

引き換えに、城兵の助命を願いでた。

「今はただうらみもあらじ諸人の いのちにかわる我が身とおもへば」
                          〔別所長治辞世の句〕
雑念を綯えば悟りの色になる  今井弘之

首を三つ差し出す条件として三木城を開城。

約2年にわたる三木籠城戦に終止符が打たれた。

これにより西播磨の平定がようやく成ったのである。

秀吉は三木城を陥落させた後、4月に弟の秀長を但馬に派遣。

この地の毛利方武将を討伐させた。

東への境界を織田方に付いた宇喜多直家に抑えられている毛利輝元は、

その宇喜多領に侵入を繰り返すが、

本格的な戦闘へと発展させる意思は乏しかった。

その間に秀吉は西播磨も平定してしまったのだ。

そして次の目標を因幡攻略に定めた。

その向う先は、山名豊国が守る鳥取城である。

滲む汗闇が途切れることはない  上田 仁



長政(松寿丸)と重門(半兵衛の子)の墓

「松寿丸」

永禄11年(1568)12月3日、黒田長政官兵衛の嫡男として、

播磨姫路城に生まれる。

幼名は松寿丸。

天正5年(1577)から信長への人質として秀吉に預けられ、

その居城・長浜城で秀吉夫婦に実子のように可愛がられて過ごした。

天正6年、信長に一度降伏した荒木村重が反旗を翻した時、

父の官兵衛は、

親友でもあった村重を翻意させるために有岡城へ乗り込んだ。

しかし、村重の意思は頑なで、

官兵衛はそのまま入牢させられてしまう。

私の影にスポッと杭を抜いた跡  八木侑子



この時、いつまで経っても戻らぬ官兵衛を、

村重方に寝返ったと見なした信長は、「松寿丸を処刑せよ」と、

秀吉に命じた。

ところが官兵衛の親友の半兵衛が密かに自身の館・岩手山城に匿い、

信長に処刑したと虚偽の報告をするという機転を効かせた。

これにより、松寿丸はからくも一命を助けられている。

やがて有岡城の陥落後、救出された父と共に姫路へ帰郷した。


プラシーボを知ってしまった月夜茸  桜 風子
 
  
  竹中半兵衛の書状     松寿と涙の文字が見える
                      
竹中陣屋跡の東南方向約1kmのところで、現在は
ごみょう
五明稲荷神社になっているが、

かっては家臣の屋敷があったこの場所に、

半兵衛は、信長より斬首の命が下りていた松寿丸を匿った。

半兵衛の書状には「松寿丸から便りが来たことで涙した」

とつづられている。

匿ってくれたお礼として松寿丸が植えたと伝わる銀杏が、

今も残る。

それからおよそ20年後、松寿丸は黒田長政と名乗り、

関ケ原に出陣。

共に陣を張り戦ったのは半兵衛の子・重門であった。。

官兵衛と半兵衛の絆は、息子たちにも受け継がれていったのである。

七色でまわる回想糸車  三村一子

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寝転んで空を見ているだけの旅  田村ひろ子  



         半兵衛の墓

三木城攻防戦では、秀吉は三木盆地を一望できる平井山に

本陣を設けて、「兵糧攻め」という長期戦を展開し、

初めての茶会も開催した。

戦いが佳境に入ったころ、以前から胸を病んでいた竹中半兵衛は、

秀吉のすすめで京都に移って療養する。

しかし、はかばかしく進展しない戦況を案じて戦場へ戻り、

戦いのさなかに平井山の陣中で病死する。

官兵衛が幽閉の地下牢から救出されるわずか5ヶ月前のことである。

現在、秀吉の本陣があった平井山の山頂には。

「三木合戦 羽柴秀吉 平井本陣跡」の説明板があり、

その南西側の山麓のブドウ畑のなかに白い練り塀に囲まれて、

「半兵衛の墓」がある。

影踏みは終わらせようか友の墓  くんじろう

「官兵衛療養」

有岡城の劣悪な地下牢に一年以上も押し込められ、

半死半生で救出された官兵衛は、髪は抜け落ち、皮膚は干からび、

足腰はこわばったままという変わり果てた姿になっていた。

満身創痍となった官兵衛は「有馬温泉」でその傷を癒した。

そこで、秀吉と半兵衛の命がけの計らいで、

息子の松寿丸が無事であることを知る。

しかしその恩人の半兵衛は、

有岡城が落城する半年ほど前に世をさっていた。

 美しい会釈ですっと席を立つ  山本昌乃

官兵衛は半兵衛に深く感謝し、その死を悼みながら、

「この世には裏切る人間がいる。一方、信じられる人間もいる」

ことを確信し、

「自分は人を裏切ることはすまい」

という思いを新たにした。

その後、官兵衛は姫路城へ帰り、一族と数日過ごした後、

湯治の効果で体力は回復したが、後遺症の残る片足を引き摺りつつ、

秀吉の元へ向った。

一八〇度の転身をして返り咲く  清水久美子

そこで秀吉は、

「命を省みず、敵の城に乗り込むことは、誠に忠義の到りである。

   獄中の生活は苦しかっただろうが、

   こうして再会できた事は嬉しい限りである」

と涙を流して喜んだ。

そのまま官兵衛は秀吉の参謀役に復帰する。

一方、官兵衛の詳細を聞き知った信長は、

「人質の松寿丸を処刑したことは後悔の至りだ。

   官兵衛に合わせる顔が無い」

と後悔した。

しかし、半兵衛の機転で、松寿丸の存命のことを聞くと

珍しく信長は半兵衛に感謝し、安堵の顔をみせたという。

満面の笑顔よかったなと思う  河村啓子



  有馬温泉ーねねの橋    太閤の湯船の遺構

「有馬温泉の歴史」
                       おおなむちのみこと すくなひこなのみこと
有馬温泉の歴史は古く、神代の昔、大己貴命少彦名命の二神が、

三羽の傷ついた烏が、湧き出した泉で傷を癒しているのを見つけて、

温泉を発見したのが始まりだといわれる。
          じょめい
【日本書紀】舒明天皇「631年に孝徳天皇が647年に御幸した」

との記述があることから、日本最古の温泉といわれている。

また有馬温泉が世に広く知られるようになったのは、

奈良時代に行基菩薩が温泉寺を建立し、

また鎌倉時代には、仁西上人が十二の宿坊を建ててからといわれる。



さらに秀吉が、湯治のためにたびたび有馬を訪れ、

戦さの傷を癒すと同時に、

戦乱や大火で衰退した有馬の改修を行い、湯山御殿を建てた。

江戸時代になってからは、その効能の評判により、

全国から多くの人々が訪れるようになる。

白浜温泉、道後温泉と並ぶ、日本三古泉のひとつに数えられる

湯山御殿=太閤の湯殿館に湯船の遺構が現存する。

的外し人間らしさ取り戻す  合田瑠美子

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