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川柳的逍遥 人の世の一家言
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つよ気とよわ気はしる稲妻もて余す  桜 風子

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     源 義朝

「源為義、義朝親子は、なぜ敵味方に分かれたのか?」

義朝は、少年期に父・為義と別れ、

東国の源氏一族の庇護を受けて成長した。

東国に下った理由は、定かではないが、

廃嫡同然に、勘当されたためではないかといわれる。

あれこれを月の光の所為にする  河村啓子

父の愛情を知らずに長じた義朝だが、

源氏の棟梁の嫡男として、

東国の豪族を傘下に収め、

鎌倉を中心にして、勢力を伸ばした。

東国に基盤を固めた義朝は、

やがて上洛し、鳥羽上皇に接近する。

新しい一歩の靴をはきかえる  山口美千代

一方、父・為義は、

天仁2年(1109)検非違使に任じられたものの、

さして振るわなかった。

摂関家の内紛に、

「悪左府」といわれた藤原頼長を有望とみて、

主従関係を結ぶ。

だが、やがて頼長は、鳥羽法皇に疎まれ、

同じく法皇に嫌われた崇徳上皇に接近する。

この上皇方が、乱の敗者となる。

何回も越えたつもりのバカの壁  佐藤狂四朗

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為義は一族の内紛を、収めることも出来ず、

源氏の棟梁としての、才覚を疑われていた。

八男・為朝が西国で、

狼藉を働いたことの、責任を問われる形で、

家督を義朝に譲りわたすと、

一族の多くが、若き頭首義朝になびく。

逆へ逆へと魚群探知機の渦  くんじろう

親子はこうして、対立を深め、

「保元の乱」では、

子が父を斬首する結果に終わった。

「父を切る子、子に切らるる父。

  切るも切らるるも宿執(しゅくじゅう-宿縁)の拙き事。

  恥ずべし恥ずべし、恨むべし恨むべし」
 (保元物語)

61の齢を重ねた、為義の「辞世の言葉」である。

錆色になって明日に拾われる  酒井かがり

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「保元の乱の後始末」

敵方の処罰は、勝者である清盛義朝にとっても、

つらいものになった。

清盛が叔父・忠正とその息子たちを、

六波羅の近くで斬首したのに続き、

その二日後、

義朝も自らの手で、父・為義と5人の弟を処刑した。

このとき、為朝は一人逃亡中であったが、

のちに捕らえられて、伊豆大島に流される。

定位置をかえても葬儀屋が見える  都司 豊

さして仲のよくない叔父一族を斬った清盛に比べて、

実の父や年若い弟たちに手をかけた、

義朝の心痛は大きかったはずだ。

『保元物語』によると、

清盛が忠正を斬ったならば、義朝も

「為義たちを斬らざるを得なくなる」ことを見越して、

進んで叔父の処刑に踏み切ったという。

それが、義朝に刑の執行を、

決断させることに、なったのかもしれない。

多情多恨誰も責めてはおりませぬ  山口ろっぱ

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注射針から噴き出したカーニバル  井上一筒

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義親を追討する正盛(大山寺絵巻)

 

出雲国のも目代を殺害した義親(左上・洞窟に座す)の、

追討を命じられた正盛(右方・舟上の指揮者)は、

討伐に向かった。

この勝利は、平氏の拡大のきっかけともなる。

薄氷の差だねと惜しみない拍手  青砥たかこ

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「平氏伸張のはじまり」

「朝敵追討は、源氏に限らぬこと、よう分った」

八幡太郎義家の嫡男・義親の討伐を、

見事成し遂げた、清盛の祖父・正盛を、

白河法皇は、頬を綻ばせ賞揚した。

ともあれ、この一件以来、

白河院は正盛を信愛し、
近臣として重用した。 

滾る血はひと色にんげんの鎖  鶴本むねお

 

こうした間にあって、正盛は悟るところがあった。 

「源氏のように武辺一点張りでは、武士は

  公家の頣使(しんし)するままに甘んじなければならぬ」
 

と。

そこで正盛は、嫡男・忠盛を当代一流の師につけ、

武術はもとより、和歌、舞など、公家の子弟に劣らぬまで、

徹底的に仕込んだ。

飛ぶために大きい荷物から捨てる  西山春日子

正盛は、「公家の青瓢箪に負くるな」 と叱咤し、

忠盛はこれに応えて、よく励んだため、

公家の子弟に劣らぬ、教養深き若者に成人した。

そして、正盛の目論みは、見事に成功した。

公家の中でも、良家の子弟しかなれぬ、

賀茂臨時大祭の「舞人」に選抜され、

華やかに、舞おさめたのだ。

人生の大きい無駄を温める  足立 暁

忠盛もまた、正盛の意思を受け継ぎ、

子どもたちに和歌・舞など、宮廷的教養を身につけさせた。

中には、和歌に秀逸ぶりをみせた、

忠盛の末子・忠度(ただのり)や、

後白河法皇五十歳を祝う賀宴で、

春の夕明かりの中、

雅に舞った清盛の孫・維盛がでている。

負けてたまるか階段を駆け上がる  新家完司

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「清盛、平氏の棟梁となって」ーあらすじ

平忠盛がこの世を去り、

正式に平氏の棟梁となった清盛に、

頭の痛い訪問者がくる。

平氏と親交の深い藤原家成が訪ねて来て、

自身の別邸で催す歌会で、清盛に、

「一首詠んでほしい」と依頼してきたのだ。

清盛が、父・忠盛の英才教育を無視し続けた。

そのツケが回ってきた。

落とし穴の中から聞えてくる鼾  笠嶋惠美子

清盛は、しぶしぶ覚悟を決めるが、

歌会の日が間近に迫っても、

一向に歌ができる気配はない。

歌詠みの宿題に困り果てた清盛は、

信西を頼るが、あっけなく断られる。

そのうえ、歌会での振る舞いが、

「平氏一門の未来を左右する」

と言われ、清盛は重責を感じる。

落とし穴の中から聞えてくる鼾  笠嶋惠美子

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一方、棟梁の妻となった時子といえば、

宴で振る舞う膳の数を、誤ったうえ、

名誉挽回にと請われた琵琶も、弾けないと辞退。

そんな彼女に清盛は、 

「それでも棟梁の妻か!」」とどなる。

焦る清盛、右往左往の時子と、

新しい棟梁の誕生は、

あたふた、ごたごたの家庭ドラマを生む。

ここで泣くここで笑うと言われても  合田瑠美子

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清盛の棟梁就任祝いにかけつけた常盤義朝

いざ、棟梁となって、 

「亡き父上の固き意志を継ぎ、武士の世を目指す!」

 

と、清盛は一同に宣言するものの、

実務を引き継いでみると、実に多忙。

清盛は父・忠盛の有能ぶりを、

改めて、痛感するのだった。

真っ直ぐに歩く心の叫ぶまま  佐藤后子

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「清盛が詠ったと思われる和歌」
 
久安3年(1147)平家一門の新しく棟梁となった清盛は、

 「そもそも、平家かやうに繁昌せられけることを、

   いかにといふに、熊野権現の御利生にてぞありける」


と伊勢の津港から、熊野にお礼参りに向った。

その航海中、大きな鱸が船中へ飛び込んできた。

今日がもう始まっている海の音  加納美津子

 
それを見た清盛は、

「昔、周の武王の船に白魚が躍り込み、

  やがて、天下を制する事になったと云う吉兆がある。

  精進潔済の旅ではあるが、これも権現様の神意とあれば、

  辱けなく頂戴してそなたらにもお裾分けをしよう」


と刺身に作り、家貞ら郎党たちにも食べさせて、

大いに、前途を祝したという。


手の届く高さに夢とあんぱんと  嶋澤喜八郎

和泉国大鳥大社に歌碑として残っている清盛の句

"かよひこぞよ帰りはてなば飛びかけり  育み立てよ大鳥の神 "

(平氏の旗印の蝶をなぞらえ、幼虫が成虫となり羽ばたくように、

  平氏もますます栄えありますことを・・大鳥の神)


清盛重盛が熊野詣での途中、

源義朝が、反乱を起こしたことを知り、

二人は、とってかえして京に戻る。

その途上、文武の神様が祭られている、

大鳥大社(和泉/堺)に立ちより


戦勝を祈願したとされる。

天上天下桜の下の御釈迦様  森 廣子

「ほか、二首」

"又も来ぬ秋を待つべき七夕の 別るゝだにもいとゞ悲しき"

"雲居より只洩り来る月なれば 朧気にては云わじとぞ想う"

見逃してくれる桜も青空も  清水すみれ

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生涯を独活まで来たる思いかな  大西泰世

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      公 卿

仁平3年(1153)1月、平忠盛が58歳で亡くなった。

武士として、初めて、「内昇殿」を許され、

大国の受領を歴任し、

受領としては、最高クラスの「播磨守」も経験した。

また、死の2年前には、「刑部卿」に就任しており、

位も「正四位上」と四位の最上位に達していた。

その上は三位、すなわち「公卿」である。 

紙ふぶきこぼしてて恋を終わらせる  笠原道子

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国政に携わるのも、

夢ではないところまできていただけに、

まことに惜しい死であった。

「祇園社乱闘事件」では、

忠盛・清盛父子の刑を主張した、

「悪左府」藤原頼長でさえ、

忠盛の死にあたって、次のように日記に記している。 

「数国の吏を経て、富は巨万を累ね、

  奴僕は国に満ち、武威は人にすぐる。

  然るに人となり恭倹にして、未だかつて、奢侈の行あらず。

  時の人、これを惜しむ」

 

(巨万の富と多くの家人をもち、人に勝る武威を身につけながら、

  性格はあくまで慎み深く、ぜいたくな振る舞いはなかった)

バネだけになってしまったバネ秤  筒井祥文

もっとも、「正四位上」というのは、

通例では、あまり、"与えられる者のない位階" である。

公卿になる人は、これを飛び越えて、

三位になることが、ほとんどであったのだ。

忠盛が、異例の正四位上についたのは、 

「何としても平家を公卿にしてはならない」

 

という政治的な力が働いた結果なのだろう。 

さっきの出血は赤ペンキでした  井上一筒

 

いかに富を蓄え、武力を持ち、

宮廷人としての、素養を身につけても、

武士が公卿にのぼる道は、

依然として険しかったのである。

だが、その道は、決して遠いものではなかった。

武士の地位、そして、

平家に飛躍をもたらす「保元・平治の乱」

すぐそこまで、迫っていたのである。 

海に出る覚悟を決めた冷奴  清水すみれ

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ときに、清盛36歳。

平家の棟梁となった清盛は、

いよいよ、

歴史の表舞台へ飛び出していく。

哀しみはマスクの中に閉じ込める  合田瑠美子

 

『余談』

忠盛が命じられた「高野山大塔」の造営事業は、

仁平3年(1153)の忠盛の死後は、

清盛に引き継がれ、

保元元年(1156)に竣工した。

厳島との関係が生まれたのは、この間のことである。 

いつの世も飽かず求める開け胡麻  下谷憲子

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鎌倉初期に生まれた説話集・『古事談』によると、

清盛が高野山の大塔を造営していたとき、

自ら材木を運んでいると、

弘法大師の化身である僧が現れて、

厳島に奉仕するよう勧めたという。

平家納経の「願文」に、 

「夢感誤り無く、早く子弟の栄華を験す」

 

(夢のお告げどおり、一門に栄華がもたらされた)

と述べられている。 

春嵐ゆっくり足を組みなおす  森田律子

 

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いま私積乱雲の中にいる  ふじのひろし

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"ならびおるふたつの黒き蝶々の舞い  いずれや高くのぼりけるらむ" 

これは、鳥羽の皇女・統子(むねこ)が詠った歌である。

ふたりの黒い蝶とは、藤原忠通頼長をさしている。

 

X と Y ひとすじなわでゆかぬ線  片岡加代

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「保元の乱への序章」

事の起こりは、天皇家と摂関家の内紛にあった。

摂関家の内部対立は、摂政の藤原忠通と、

その弟・頼長の主導権争いである。

「日本第一の大学生」 といわれた頼長は、

摂関となって、自ら政治を執り行うことを願っていた。

二分咲きは希望五分咲きは願望  立蔵信子

父の忠実も頼長を偏愛し、摂関の地位を譲るよう、

忠通にたびたび、圧力をかけたが、 

「実子の基実に継がせたい」

 

と考えていた忠通は、これを拒み続けた。

業を煮やした忠実は、忠通と絶縁し、

鳥羽法皇に懇請して、頼長を「内覧」につかせた。 

内覧=天皇の決定を補佐する役で、通常は摂政関白がこの任にあたる。

 

関白の忠通と、内覧の頼長というふたりの執政が、

並び立つ異常事態が、生まれたのである。 

かなたも寒いこなたも寒い爪のともしび  山口ろっぱ

 

しかし、「祇園社乱闘事件」にもみられるとおり、

厳しい処罰を伴う頼長の、厳格な政治姿勢は、

多くの貴族の反感を買う。

さらに、久寿2年(1155)近衛天皇が崩御すると、

「天皇を呪い殺した」 という噂をたてられ、

鳥羽法皇の信任を失うのである。

ゆれる灯は終着駅か狐火か  新家完司

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天皇家の内紛は、さらに複雑だった。

崇徳と鳥羽の仲の悪さは、すでに述べたとおりりだが、

保延5年(1139)鳥羽の寵愛する藤原得子が、

体仁親王(なりひとー近衛)を産むと、

無理やり崇徳を退位させ、

近衛に天皇位を継がせた。

過去ひとつ引き摺るじゅんさいのぬめり  たむらあきこ

その近衛が皇子のないまま、

17歳で崩御すると、

崇徳は、我が子の重仁親王(しげひと)が即位し自身が

「治天の君」 となって院政を行なうことを期待した。

しかし、皇位を継いだのは、

同母弟の雅仁親王(まさひとー後白河)であり、

崇徳が院政を行なう望みは、完全に絶たれた。 

限りなく下まで落ちる立ち泳ぎ  森 廣子

 

今様に熱中し父の鳥羽法皇でさえ、 

「天皇の器にあらず」

 

とみなしていた後白河が、

にわかに皇位継承者として、浮上した背後には、

次のような理由があった。

ピリオドのために踏み出す第一歩  上田斗酒

鳥羽亡き後も、権勢を保ちたいと考えた美福門院は、

関白・忠通と組んで、

養子としていた雅仁の、

第一皇子・守仁親王
(もりひとー二条天皇)を、

皇位につけようと画策し、鳥羽もそれを支持していた。

しかし、父が天皇を経験していないにもかかわらず、

その皇子が、皇位についた例はない。

そこで、いったん後白河を即位させ、

そのうえで、守仁に譲位させることにしたのである。

政権から締め出された崇徳頼長が、

接近するのは、時間の問題だった。 

メデューサの口は形も見えぬまま  井上一筒

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       為 朝

【薀蓄】ー「源為朝の夜襲計画」

保元の乱が、まさに勃発しようとする直前、

父・為義とともに、崇徳側についた為朝は、 

「夜討ちに勝る策はありません。

  後白河天皇の本陣である高松殿にただちに攻め寄せ、

  火を放てば、容易に勝てましょう」

 

と軍議で述べた。

三日月に炎の一字を引っかける  谷垣郁郎

しかし、崇徳側の大将である藤原頼長は、

「夜討ちは武士同士で行なう野蛮な行為。

  このたびは天皇と上皇の戦いだから、卑怯な策はとれない」

と述べて、為朝の提案を退けた。

公家の発想からの決断である。 

捨てられたバナナの皮の声だった  夏瀬佐知子

 

13歳のとき、父・為義に勘当されて、

九州に追放された為朝は、

自在に暴れ回って、九州を平定するという、

豊富な実戦経験をふまえて、

「夜討ちが効果的である」 と確信していた。

また、兄・義朝が夜討ちを仕掛けてくることを危惧していた。

雲だった昨日小雨になる明日  中野六助

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「先手必勝」 が戦いの常識だが、

頼長はそれを「よし」としなかった。

そして、為朝の予想通り、

兄・義朝は、夜討ちを仕掛けてきたのだった。

もし、為朝の夜襲策が採用されていたら、

勝敗は逆転していたかも知れない。

いや、兵力に劣る上皇側こそ、

勝つためには、夜討ちが必要だった。

地獄の門までの赤い鈴である  森田律子

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義朝の夜討ちを受け入れた信西と、

為朝の夜討ち策を拒否した、頼長の戦略観の差が、

勝敗を左右したといえよう。

天皇側は、義朝の放火策も認め、

なりふりかまわない攻撃で、勝利を手にしたのだった。

眼下には桜まなうらに死者の数  井上恵津子

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「源為朝」

為義の八男。2メートルの巨漢とつたわる。

13歳の時に、父の不興を買って九州に追放され、

「鎮西八郎」 と号して暴れまわった。

訴えによると朝廷の召還にも、応じなかったが、

やむなく上洛したところ、

保元の乱に遭遇し、崇徳上皇方に立って参戦。

「夜討ち」を主張したが受け入れられず、

白河殿の防御にあたった。

この時、強弓をもって、清盛軍を撃退するなど活躍した。

思い出ほろほろニトログリセリン  酒井かがり

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梅干しの赤は生涯母の彩  森中惠美子

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      家盛と桜        

"吉野山こずゑの花を見し日より  心は身にもそわずなりにき"

 

(吉野の桜を見た日から心が体から離れてしまったようだ 西行)

「池禅尼」

池禅尼は、藤原宗兼の娘で俗名は宗子

清盛の母が死んだあと忠盛に嫁いだ。

従兄弟に鳥羽上皇の寵臣であった藤原家成がおり、

家成のそのまた従姉妹には、

鳥羽の寵姫・美福門院がいた。

宗子は正室の立場とともに、こうした人脈によって、

平家一門のなかでも、とくに重んぜられた。 

雪は消えても消せぬ名前があるのです  池田 勇

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宗子には、忠盛との間に2人の子がいる。

保安4年(1123)ごろに生まれた家盛と、

長承2年(1133)に生まれた頼盛である。

このうち、年長の家盛は、

長承3年の蔵人(くろうど)に任じられているが、

蔵人は、天皇の側近く仕える役職であり、

待遇としては、

清盛の院非蔵人(いんのひくろうど)よりも上である。  

確信は空が青いという事実  山口美千代

  

その後、家盛がいつ、従五位下に昇進したかは、

不明であるが、

康治2年(1143)に従五位上、

久安3年(1147)に正五位下、

久安4年(1148)に従四位下 と順調に昇進を果した。

清盛の方が年長で昇進が早く、

しかも、白河院の落胤であるとはいえ、

家盛は、正室の子であり、

鳥羽院の近臣の筆頭である藤原家成との、

血縁を持つという要素も大きい。 

鯛なのかほんとにおまえは鯛なのか  石橋能里子

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このままいくと、家盛清盛の有力な、

ライバルとなる可能性は十分あった。

それが可能性のまま終わった理由は、

家盛が久安5年に、急死したからである。

これによって、忠盛の子どもたち間で、

嫡流をめぐる争いが起こることは回避され、

清盛は嫡男としての立場を、

確固たるものにしたのである。 

抽象画吊るす迷路の入り口に  嶋澤喜八郎

 

家盛の死後、清盛が19歳年下の頼盛を尊重したのは、

本来は、頼盛が平家の正嫡であるという、

ひけ目のようなものが、あったからかもしれない。

それはとりもなおさず、

頼盛の母・池禅尼を尊重しようとする

気持ちの表れでもあった。 

押し売りが悲しき猫を置いてゆく  蟹口和枝 

 

宗子忠盛の後妻になったのは、

保延2年(1136)頃といわれており、

清盛19歳の時である。

まだ若かった清盛は、

何かと、この継母の世話になることも多かったであろう。

何よりも、宗子はすぐれた政治センスをもっていた。

「保元の乱(1156)が勃発し、朝廷の勢力が、

崇徳上皇、後白河天皇の両陣営に別れたとき、

清盛は微妙な立場に立たされた。

清盛自身は、

後白河の即位を認めた鳥羽法皇の近臣である一方、

継母の宗子が、

崇徳の皇子重仁の乳母だったからだ。  

転がったリンゴ泣きべそかいている  泉水冴子  

 

おそらく清盛も、崇徳方に勝ち目はないことを察知し、

「後白河陣営に参じたい」 と思っていただろう。

しかし、性急に動けば、

源氏のように、一門が分裂しかねず、

旗色を鮮明にすることがためらわれた。

板挟みとなった清盛を救ったのが、

宗子の判断だった。 

わが消す灯母がともす灯明易き  大西泰世

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『愚管抄』によると、宗子は頼盛に、 

「このたびの合戦では、きっと新院(崇徳)方が負けるでしょう。

  あなたはぴったり兄についていきなさい」
 
と教えたという。

この指示によって、平家はほとんど一門が、

分裂することなく、

保元の乱の
勝利者となることができたのである。 

槍を父浅間を母として仰ぐ  井上一筒

 

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