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川柳的逍遥 人の世の一家言
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句読点打てず暗転したドラマ  上田 仁


   お市の方

上の有名な肖像画も、実はお市の方の長女である茶々が、
母の七回忌を迎えた天正19年、お市の菩提を弔うために描かせたもの。
母の市は戦国一の美女と謳われた美女であったが、
桑田忠親は長女である淀殿は,、持明院所蔵の肖像画を見る限り,
父・長政の面影を受け継いでいたといえ、美女とは思えないとしている。



「茶々を検証する」

歴史は仮説を立てる事から始まる。

私たちが現在信じている歴史は、残された史料や古日記をベースに、

歴史学者が時代を考証したもので、説がいくつも生まれているように

過去におきた事件の真相や全容を、完全に証明できたものではない。

即ち、史料が、何時、誰が、何処で、どのようにと、5W1Hを念頭に、

細部にわたり考察しても、やはり各分析者の推察は入る。

そして歴史好きな私たちも、又、歴史の穴を探し推理する事に、

快感を覚える。


核心を突くと崩れていく積み木  原 洋志

NHK/大河ドラマ・「真田丸」で脚本を担当する三谷幸喜は、

「茶々の人生は作者の創作意欲をかき立てるほどドラマチックですね」

と言い、 茶々(淀殿)は、歴史では「徳川史観」で悪女にされ、

歌舞伎では、恐ろしい顔にされ、随筆では、淫乱女とされているが、

「そうとも言い切れないのではないか」と解釈を膨らませる。

三谷の目線の中にある茶々という人物は、
           こわく
実際は、無邪気で蠱惑的で小悪魔なのだ。


例えば、豊臣秀吉に警護員として仕えることになった信繁は、

実は前任者が茶々との仲を疑われ、井戸に落とされた死んだと知る。

それを茶々に聞かせると「残念ね」と軽く言ってのけ、

すぐに真田信繁に色目を使いはじめる、という具合に。

ペン先にもぐさを乗せているところ  瀬渡良子



信繁が大坂城へ人質として入ったのが、天正14年(1586)ころ、

信繁20の時である。

そして茶々ら三人姉妹が、大坂城で秀吉の保護を受け始めたのが、

天正11年、茶々15歳のとき。

信繁と茶々は二歳違いである。

それから4年後、
同じ大坂城の屋根の下で住んで二人が

顔を合わせていないことはない。


女好きの信繁と蠱惑の茶々の間に、恋が芽生えないはずがない。

歴史的にみれば、焼きもち焼きの秀吉にあてつけのように、

これ見よがしに、
次から次へといろんな人が好きになっていく茶々の行為は、

ありえない。


当時20歳の茶々にとって秀吉は、単なる32歳離れた叔父さん、

もしくはお爺さんに過ぎないのである。

実際、三谷幸喜もそう思っている。


このように脚本を描きあげる三谷には、三谷なりの根拠があるのだ。

どうしたら溜め息がつけるのだろう  森田律子

さてここから茶々の検証に入る。

茶々は、永禄12年(1569)近江国の戦国大名・浅井長政の娘。

母は織田信長の妹・で信長の姪にあたる。

と茶々に関する色々の書物は記している。

このように市は、通説では「信長の妹」であるが、

江戸時代の「織田系図」には信長の従兄弟・織田広良の娘と記され、

「いとこにておはせしを 妹と披露して長政卿におくられしにや」

と記述する文書(『以貴小伝』)も残る。

また信長の叔父・織田信光の娘との説もある。

内側は針穴からがよく見える  徳山泰子

また驚くことに『浅井氏家譜大成』を根拠として、一説には、

娘の茶々は正室のお市が嫁ぐ前に生まれたともいわれ、


長政の実子ではないという説がある。

また、お市は、信長の妹ではないという異説を根拠として、

長政へ嫁ぐ前に、信長の愛妾であって茶々は信長の娘という奇説もある。

又お市は、実は信長の愛人であり、同時に忍者であったという説もある。

乱世を終わらせ天下統一をめざした信長は、

その足掛かりとして、妹のお市の方を浅井長政に嫁がせた。

この政略結婚により永禄12年に生まれたのが茶々。

(そして茶々の1つ下に妹のお初が、4つ下にはお江が生まれた)

こみ入った話はあとで春の雲  合田留美子

この頃、茶々の運命が大きくうねり始める。

「姉川の戦い」で長政は信長と朝倉義景の間で板挟みとなっていた。

親交があり、六角氏との戦いにおいて恩がある朝倉氏につくべきか、

妻の兄であり、同盟相手の信長につくべきか迷っていた。

家臣たちは隠居した長政の父・久政を担ぎ出し朝倉につくよう説得。

結果、長政は朝倉家との義を重んじ、義兄・信長を裏切り、

織田軍を挟み撃ちにする策をとることに決する。

この決断の裏には、お市を挟んで信長への恨み、妬みがあったのかも。

その裏切りを察知した信長は、近江国から脱出、京都に撤退した。

相槌を打って迷路にはまり込む  高柳閑雲

朝倉軍は織田軍を追撃したが、織田軍の殿を率いた秀吉に迎撃され、

信長をはじめとする有力武将を取り逃がしてしまう。

信長が九死に一生を得たのは、お市の方が陣中見舞いと称して、

織田の軍が挟み撃ちにされることを、伝達したと言われている。

このため、浅井軍は信長に再挙の機会を与えることになってしまった。

天正元年(1573)、長政の裏切りに激怒した信長は小谷城を攻め落とし,

長政は自害に追い込まれる。

このとき陣頭指揮を執っていたのが秀吉であった。

一度だけ禁を破ったことがある  雨森茂樹

この時、5歳だった茶々は、母と妹たちとともに信長に引き取られる。

戦乱の中、平穏な日々を過ごしていた三姉妹だったが、

天正10年(1582)6月、本能寺の変で信長が非業の死を遂げる。

その直後から始まったのが、秀吉と柴田勝家との覇権争いだった。

そして翌天正11年、秀吉と勝家の間で「賤ヶ岳の戦い」が始まる。

お市の方は、その時、勝家と再婚していたが、

「賤ヶ岳の戦い」で夫が秀吉に敗れると、

お市の方も、夫と共に越前北ノ庄城内で自害したとされる。

15歳の茶々は、二度の落城で両親を亡くすという悲劇に見舞われた。

茶々にとって、この二度目の落城の指揮官も秀吉であった。

確実に時間は進むものと知る  竹内ゆみこ



三人の娘達の行く末を心配していた市は、北ノ庄城の落城の際、

『溪心院文』によれば、庇護を受ける秀吉に直筆の書状を送り、

三人の身柄の保障をもとめている。

市は秀吉のことを憎むどころか、
秀吉を信頼していた。

この市の遺言を守り秀吉は、茶々ら三人姉妹を庇護した。

この角度でみると、父・信長を裏切った長政を成敗した秀吉は、

茶々にとって恨み憎む相手ではなく、

また戦乱に巻き込まれた母の遺志を守った
恩人なのである。


※ お市の方は歴史の上では、勝家と共に自害したとされているが
        賤ヶ岳の戦いの最後、忍者仲間に助け出され、伊賀に逃げ延び、
       53歳までそこで余生を暮らしたという記録がある。
       現在の伊賀市阿山町下友田の稲増家の邸宅にお市の方の
        喉仏を収めたと言い伝えられる祠がある)

ここにこう立つとあの日がよく見える  八上桐子

時は移り、慶長3年(1598)8月18日、秀吉62歳の幕を閉じると

北政所は大坂城を出て夫・秀吉の菩提を弔うために京都の屋敷に移り、

淀の方は大坂城に残り、6歳の秀頼に代わって政治を司ることになる。

このとき淀の方は29歳、実質的な大坂城主となった淀の方は、

慣れない政治の世界に体調を崩すようになったという。

記録には、

「気うつの病にかかり、頭痛がひどく食事もとれなくなった」


と記されている。

彼女は決して歴史が示すような野心家ではなく、

結果的、必然的にそうなってしまったのである。


マネキンに舐められぬよう背を伸ばす 美馬りゅうこ

そんな淀の方の唯一の支えになったのが、秀頼の成長だった。

官位を上げるために朝廷に働きかけるなど息子のため、

豊臣家のために身を削り立ち働いた。

ただし、男世界というものは、思うほど容易いものではなかった。

たぬき家康は、淀を悪女に仕立てるという汚い情報戦を繰り出すなど、

権謀術策をもって、淀を、いわゆる豊臣家を滅ぼしたのである。

ともかく、茶々は伝説にあるような、悪意な女性ではなく、

彼女の優しさを語るエピソードはいくらでもある。

あれやこれや大きな耳が落ちている  佐藤正昭

拍手[3回]

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花のした流れる首は浮いたまま  八上桐子


  若き日の幸村

「幸村?信繁か?」

真田幸村は本当の名前でなく、実際は「信繁」だった。

信繁は永禄10年(1567)真田昌幸の次男として生まれる。

幼名は弁丸。


当時、昌幸は武田信玄の母・大井氏の流れを汲む武藤家の養子に

入っていたため「武藤喜兵衛と名乗っていたころである。

住まいも信州ではなく甲斐の武田氏館周辺であり、

弁丸もおそらくそこで生まれ幼少期を過ごしたと思われる。

この場所で生きろと風がやわらかい  清水すみれ

弁丸が9歳の頃、父の兄・信綱・昌輝が二人とも長篠の戦いで戦死する。

そのため父は武藤家を出て信州へ帰り、

真田家の家督を継いで「真田昌幸」と名乗った。

この時に弁丸も、武藤から真田に姓が変わっている。

長男の信幸は真田の跡取りのため真田家に居続けたが、

次男である弁丸はその後、上杉家や豊臣家に人質に出され、

他家で過ごすことが多くなる。

そうした中で元服するにあたり、通称の「源次郎」のほか、

「信繁」という名を父から与えられたとみられる。

※ 信繁の名は昌幸が仕えていた武田信玄の弟・武田信繁と同名である。
        武田の信繁は文武両道名称として知られたが、
       上杉謙信との激闘で知られる「第4次川中島の戦い」で討死した。
        この合戦に祖父・幸隆と昌幸も参加していた。
        この時の信繁の武勇にあやかって、弁丸に付けたものとされる。

系図から水琴窟になりました  岩根彰子


 幸村大坂城出仕の頃

それ以降、彼は「真田源次郎信繁」

あるいは豊臣秀吉を通じて与えられた「真田左衛門佐信繁」として過ごした。

「左衛門佐」とは武家の官位のことで、

当時は公の場では名前よりも、
こちらを使うことが多かった。

信繁最後の書状からも見る通り、死の一ヶ月前まで信繁を名乗っている。

それがなぜ、「幸村」となり今に伝わっているのだろうか。

ひろく知られた書物で見る限り、「幸村」という名は、

寛文12年(1672)成立の
軍記物語り・『難波戦記』が初出とされる。

これが絶大な人気を博して広まったため、以降の軍記物や講談などで、

幸村の名が使われるようになり、信繁はしだいに忘れられていった。

『難波戦記』「幸村」と記されたのは、

徳川幕府の支配が強い江戸時代初期の
ため、

著者が「大阪の陣」で徳川を最も苦しめた信繁の名を

「幸村」に差し替えた
というのが通説である。

涎だとカミングアウトした雫  くんじろう

しかし何故、信繁だけが名を変えられ、

他の大阪方武将は偽名にならなかったのか。

そもそも幸村の名はどこから来たのか。

そこで真田家に仕えた松代藩士・馬場政常が寛政7年(1795)に編纂した

「滋野通記」幸村の兄であ真田家の祖・真田信幸が弟について、

近習に語った聞き書きが残されている。

その部分を要約すると

「我が弟は武田信玄公の弟と同じ信繁を名乗っていたが、

   高野山に蟄居させられた際に幸村に改めたと聞いている」

と信幸は家臣に証言している。

雑音も受け入れA案をとおす  山本昌乃
                つげそうたつ
さらに、松代真田藩士の柘植宗辰が享保16年(1731)に編纂した

『真武内伝・付録』には、

「幸村公書簡之写」とする幸村の手紙の
写しが記されている。

これは幸村が大阪城内から高野山蓮華定院に宛てた書状であり、

「城は4~5日のうちに落ちるでしょう」

と記した内容の書状に彼の愛刀・正宗が添えられ、

5月2日の日付および、
「左衛門佐」の名に幸村の花押が入っていたとある。

揉み手してひょっこり顔をだす昔  合田瑠美子

信州上田観光大使で真田家の歴史に詳しい早川知佐さんは、

「大坂の陣」開戦前に改名したと分析する。

「いざ大坂城へ戦いに赴くにあたり、心情として兄と同じ「信」の字を

    名乗り続けることに抵抗があったと思うんです。

    徳川軍には信幸の子、信吉・信政たちもいました。

    それで父と同じ先祖伝来の『幸』の字を受け継ぎ、

     真田の力を天下に示したいといもあったのではないでしょうか。

     私はどちらでも良いと考えますが、敢えて分けるとすれば、

     前半生は信繁、晩年は幸村と呼ぶのが妥当ではないかと考えます」

流されることにも馴れた紙の舟  佐藤美はる


様子御使可申候。当年中も静かに御座候者、何とぞ仕、以面申承度存候。
御床敷事山々にて候。さだめなき浮世に候へ者、一日さきは不知事候。
我々事などは、浮世にあるものとおぼしめし候まじく候。恐々勤言

あくまで仮説だが、幸村と信幸には村松殿という姉がいる。

「村」は彼女の一字を取ったのではないだろうか。
                                 しげまさ
幸村の姉は本名を於国といい、昌幸の家臣・小山田茂誠に嫁いだ。

夫婦は小県村松の地に住んだことから村松殿と呼ばれた。

幸村は高野山や大坂城内から、姉夫婦に近況を伝える手紙を出しており、

非情に慕っていた形跡が見られる。

父を亡くし、兄とも敵対し天涯孤独に等しくなった幸村、

せめて身内である姉の一字を拝領しようと考えたのではないだろうか。

三枚のおろされ名前忘れられ  河村啓子

拍手[3回]

爪ひとつなくし半値になった蟹  橋倉久美子


   秀吉時代の大坂城

「真田昌幸ー大坂城出仕」

真幸秀吉の上洛要請に対し、本来なら天正14年(1588)6月14日

に大坂城で秀吉に謁見した上杉景勝と行動をともにする予定だった。

しかし昌幸には、行くに行けない事情があった。

信濃で徳川、上野で北条と緊張関係が続いていたからだ。

だが、業を煮やした秀吉は家康に「昌幸討伐」を命じた。

家康は秀吉の妹の旭姫を正室に迎えたこともあり、

7月には駿府を経て甲府へ出陣した。

台風はふくらはぎあたりを通過中  笠嶋恵美子



というのも秀吉と景勝は、家康が秀吉に臣従したら、
                       よりき
家康から離反した信濃国衆を家康の寄騎(与力)とすると取り決めていた。
              よりおや
それで昌幸の討伐は、寄親となる家康が行なうのが筋とされたのだった。

しかし、8月7日に秀吉の調停を受けて、家康は真田攻め延期を決めた。

秀吉は家康の出仕を優先して「昌幸討伐」を停止したが、

なおも出仕しない昌幸に対し「真田成敗専一」と怒りを露わにした。

(8月3日付けの石田三成増田長盛から上杉景勝への書状で昌幸を、
「表裏比興の者」と断じ成敗を加えるので一切支援は無用だと伝えている)

熱い鉄打ち損ねても子は育つ  ふじのひろし

昌幸は秀吉に見捨てられ、窮地におちいった。

それでも昌幸は景勝を通じ、昌幸と北条・徳川間でくすぶる

「沼田領問題」
の解決を秀吉に迫るのである。

領土争いには、上使を派遣して裁定し、従わないものを討伐する

「関東惣無事」を標榜する秀吉が、この問題を解決しないまま

景勝の従属下にあった昌幸を討てば、景勝の面目が立たなくなるからだ。

窮すると男は過去を捻じらせる  上田 仁



8月7日、秀吉は家康に討伐を延期させた揚句、中止を命じた。

秀吉は家康にも昌幸にもよい顔をみせながら、

10月には生母・大政所なかを
家康に送り、

引換えに家康を秀吉政権下の一大名にしてしまった。


そして家康が家康が大坂城に出仕した後、昌幸のもとに朱印状が届く。

「家康とはいろいろあるだろうが言い分を聞く。

    この度のことは許すので上洛せよ」


天正15年1月、昌幸は信之とともに大坂城で秀吉に謁見。

正式に臣従が認められた。

昌幸41歳の大きな転機だった。

下顎の骨を入れ替えてもらった  井上一筒



秀吉が昌幸と謁見した大坂城の大広間

さて昌幸は初めて秀吉に対面したとき、どんな言葉を交わしたのだろう。

「関東惣無事」の実現の為、関東御出陣の大義名分を差し上げましょう」

と昌幸流の大見得を切ったか。

それは北条に臣従の圧力をかける秘策だった。

「北条は上の一国の領有を主張していますが、

  真田はそれほど欲深くありません。

  もう一方の当事者である徳川様から相応の替地を頂ければそれで結構。

  ただし名胡桃城は必ずや真田にお与えください」

とまで言ったかどうかは後世の推測だが、

この秀吉との謁見を契機に昌幸は、独立大名として歩みだすこととなった。

お茶室でニンニクの香とばすなんて  山本昌乃



秀吉との謁見の帰路、秀吉の命令で家康の寄騎(与力)となった昌幸は、

3月18日家康へ出仕挨拶の為、小笠原貞慶と共に駿府に立ち寄っている。

天正17年2月になると、昌幸は信之を駿府の家康に「人質出仕」させ、

自らは信繁とともに大坂の秀吉のお側にあった。

信之を家康に人質出仕させた昌幸の思惑は、

父子で秀吉と家康に仕えて
いれば、秀吉は家康より5歳年上であり、

行く末天下の情勢が逆転しても、
真田家にとっては、

得策と判断してのことだろう。


盃を的にするとは粋な月  小林満寿夫

【補足】 
 この時代の「人質」とは、裏切らせないための保証人ではあるが、
         同時に身近に置いて教育する「武将見習い」的意味合いもあった。
   人質の多くは、大名や将軍の身辺の雑務を世話する小姓となった。

※     昌幸は景勝を介して豊臣の大名を遂げたのではなく、
        景勝には、昌幸を独立大名にする意志はなかったため、
        昌幸が独力で交渉窓口を切り開いたのである

※ 寄騎=戦国大名が家臣とした在地の土豪などを、
       有力な家臣の配下としてつけること。

謝罪文のいろいろとある玩具箱  桑原伸吉

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うめぼしと呼べばくるぶしハイと言う  井上一筒


  真田幸村生存説

「知将の横顔」

大坂城での真田信繁の人質時代、豊臣秀吉、大谷吉継、石田三成の厚遇を

得た信繁は、
秀吉政権の武将や官僚たちとの交友にも恵まれることになる。

信州上田にいたら決して、経験し得ない大名などからも声をかけられた。

これらは信繁が武人としても、人間としても大きく成長する糧になった。

そして、直江兼続に教えられ、吉継や三成からも学んだ「義」について

考えるうちに
父・昌幸「義」を思うようになった。

冬という茶鼠色の父のこと 河村啓子

この時点での昌幸の生き方は、

「真田を如何に生き長らえさせるか」

にあって、そのために徳川・北条・上杉、さらには豊臣に、

と猫の目のように臣従先を替えている。

およそ義からは遠い位置にいるのではないか、と考えたこともあった。

しかし吉継や三成の義を知って、

「父は、武田信玄・勝頼という二代に仕えることで、義を全うした。

  今は、真田を守ることが、祖父・幸隆への義と捉えているのだはないか」

と思い至る。

生臭い我が右の手を煮沸する  嶋沢喜八郎

考えてみれば、昌幸ほど、武田への義に生き抜いた武将はいなかった。

それが、

「大勢力に屈せずに、智謀を駆使して真田の生き残りを懸けているのだ。

   それこそが真田の六文銭の誇りであり、

   私を人質にした理由であったのだ」


と信繁には理解できた。

信繁は越後、大坂という外側から、真田家と父親の昌幸を眺めることで、

上田にいたのでは絶対に気付かない多くのことを悟った。

武人としては何よりも「「義」が大事であり、また「真田の家」こそ、

守るべき誇りであることに、信繁は気付かされたといってもいい。

止めてくれどんどん人が好きになる  むさし    


   日本の伝説


「信繁逸話・伝説」

直江兼続、大谷吉継、石田三成。

信繁は人質時代、彼らと親しく接したと伝わるが、

その背景には将才とともに、誰からも愛される人柄もあったようだ。

信繁の人となりを伝える逸話はいくつか残る。

主家・武田氏が滅亡した折、信繁は兄・信之とともに甲斐・新府城から

上野岩櫃城へと脱出を図るが、途中、難所の雁ヶ沢にさしかかった。

深い谷に信繁は「これは落ちたら命はない」と驚くが、

信之と「どちらが飛び降りるか」とふざけ合い、

さらに「飛び降りる勇気なあるものはいるか?」

と家臣たちに冗談で声をかけた。

命からがら逃げている最中とは思えない、信繁の陽気な一面が窺える。

踝に無理難題を強いている  三村一子

しかし問題はこの後で、

なんと家臣の一人、赤沢嘉兵衛が冗談を真に受けて

本当に飛び降りてしまったのだ。

幸い赤沢は無事だったが、必要もないのに家臣を危険にさらしたことで、

信繁が後に父・昌幸から酷く叱られたのは言うまでもない。

真っ青な心の空を遺産とす  本多洋子



薩摩半島頴娃の伝真田幸村の墓

「幸村、秀頼・の薩摩落ち伝説」

戦国時代、不遇の死を遂げた人物にまつわる噂として囁かれる「生存説」

明智光秀=天界説をはじめ、現在も語り継がれる歴史ロマンのひとつに、

真田幸村豊臣秀頼「薩摩落ち伝説」というものがある。

この説は大坂の陣の際、秀頼の焼死体が本人のと確認できなかったことと

幸村には7人もの影武者があり、首実験をした幸村の叔父でも、

それが本人だと断定できなかったことに付随する。

歴史的にもっともらしいのは、

信繁の家臣の1人が「幸村の7つの首」
中の一つを抱きしめ涙を流し、

その首を葬った後に腹を切って果てたので、


家康はそれが本物のものとして納得したというものである。

しらばくれてる塩つぼ砂糖つぼ  美馬りゅうこ

「幸村は合戦で死なず、山伏になり秀頼·重成を伴い薩摩に逃げた」

その後、大坂の陣の一ヶ月後には、

「秀頼が重臣を引き連れ薩摩で暮らしている」

との噂が流れるようになり、


揚句の果てには、 幸村・秀頼のものとされる墓まで存在する。

「花のようなる秀頼様を鬼のようなる真田が連れて、

    退きも退いたり鹿児島へ」


このようなわらべ歌が実しやかに流行ったという。

おもしろいことにNHKの「歴史秘話ヒストリア」まで、

「幸村と秀頼のお墓」、
「わらべ歌」をとりあげ、放映している。

何はともあれ、偉人たちの生存説に笑顔で耳を傾けるのも一興ではないか。

やや開きすぎた嫌いはありますが  雨森茂樹



信長・三成・光秀・島(上左より時計回りで)

「生存説ーあの人も実は生きていた」

「織田信長の場合」
信長も本能寺の変の際、その死を確認した者がなく、
遺体も見つからなかったことから、生存説が主張されているのだ。
森蘭丸と共に薩摩に落ち延びたが、
本能寺の変で負った傷が深くまもなく死亡した。という。


生き延びた先がどうして薩摩が多いのか、それは関が原の戦いのあと、

実際に薩摩に落ち延びた宇喜多秀家の存在が影響しているのではないか、

秀家は落ち延びて数年で家康に見つかるも、死罪は免れ83歳まで生きた。

「明智光秀の場合」
小栗栖で死なず、のちの家康の幕僚・南光坊天界になった。
1.日光東照宮になぜか明智家の家紋である桔梗紋がある。
2.日光の明智平という地名が、天海によって名付けられている。
3.徳川将軍2代・秀忠・3代・家光、2人あわせると光秀になる。
これらが、光秀が生存している理由になっている。

「石田三成の場合」
処刑されたのは影武者で親密だった佐竹義宣に匿われた。
義宣は城外の八幡村に帰命寺を立てて三成を住まわせ、
京の知恩院から名僧を招いたとした。
その後、三成を慕った石田の残党が秋田を次々と訪れ。
その数100名を越すようになり、三成再挙の噂が立ち、
徳川が疑いの目を向けると、
佐竹は、「帰命寺の主僧は入寂した」と宣伝。
「帰命寺の開祖・長音上人は石田三成の弟でございましたが、
ある事情のために僧になった人で義宣に招かれて当地に参りました。
不審の点は少しもございませぬ」と佐竹家の調書に残る。

「島左近の場合」
関が原から落ち延び、追っ手から逃れて琵琶湖の竹生島に潜伏した。
また岩手県に落ち延びたという説がある。
「偉人浜田甚兵衛、石田三成の謀臣島左近の偽名なり。
・・・関ヶ原の戦いに敗れ、流路、米崎村に至り、村童を集めて句読を授け、
   静かに余生を送る。 正保5年(1648)死す。享年86歳」
『気仙郡誌』にはこう記されているという。

死神よまだロウソクは燃え尽きず  くんじろう

拍手[2回]

飯の種ですとピエロの服を着る  片山かずお


ややこ踊りをする阿国(桃山時代の作だとされる)

「出雲の阿国」

出雲阿国が生まれた時期は、定かではないが、

元亀3年(1572)に生まれたのではないかと言われている。

安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍。

出雲大社近くの鍛冶職人・中村三右衛門の娘ともいわれ、

文禄年間(1592~96年)「本殿修理費勧進」のため、

諸国を巡り、
京では念仏踊などを興行したという。

当時の古記録に「ややこ踊り」を披露したという記事が見られ、

その踊りが各地で評判になったといわれている。

はてさてどうしよう凭れかかられて  雨森茂樹

お国に関する史料には次のようなものがある。

『多聞院日記』ー天正10年(1582)5月「加賀国八歳十一歳の童」

が、春日大社で「ややこ踊り」を行ったという記事がある。

それは『於若宮拜屋加賀國 八歳十一歳ノヤヤコヲトリト云法樂在之カヽ

ヲトリトモ云一段イタヰケニ面白云々各群集了』 というもの。

これを8歳の加賀、11歳の国という2人の名前と解釈し、

逆算して国を、元亀3年生まれとするのが通説化している。

しかし、加賀出身の8歳・11歳の娘という解釈もある。

意のままにならぬ自分という器  上山堅坊


   念仏踊り

阿国は娯楽としての念仏踊りをかぶき踊りのなかで踊った。

阿国がいつから「おクニ」として世間に知られるようになったのか。

それを指す可能性のある確実な資料として、『時慶卿記』に、

「慶長5年(1600)7月1日に京都近衛殿や御所で


 雲州(出雲)のクニと菊の2人がややこ踊り演じた」

という記録があり、
ここで「クニ」と名乗っていたことがわかる。

 そして、時慶卿記より遡るものとして次の記録があり、

天正9年(1581)9月御所で「ややこ踊り」が演じられた。『御湯殿の上日記』

天正15年(1583)2月「出雲大社の巫女」が京都で踊った。『言経卿記』

「ややこ踊り」「出雲大社の巫女」で阿国のことであることが確認される。

放電をしなさい灰になりますよ  森田律子



お国が「歌舞伎の始祖」といわれるのは、多くの人が知るところである。

「阿国歌舞伎」とは、言っても後の歌舞伎とは違い、

お囃子・三味線などの伴奏はなく、笛・太鼓に合わせて踊るだけだった。

しかし、彼女の面白いところは、ただ単に踊りを披露したのではなく、

トップの絵でも解る通り、女のお国が男装をして、

茶屋の女と戯れる様子を演じて見せたのである。
                 かぶく
これが、当時の都人から「傾く」(常識離れ)女として大好評を得、

この「かぶく」から「歌舞伎」の名称もうまれたとされている。

絶頂のライトを浴びていて寂し 八木侑子

(拡大してご覧ください)

当時多くの芸能は、河原や寺社の境内などに作られた

仮設の舞台で演じられ、興行が終わると舞台は取り壊された。

しかし阿国は、「かぶき踊り」で人気が出た頃には、

京都の北野神社の境内に自分専用の舞台を作って踊った。

その昔、北野天満宮のあたりは、平安京外で下の森といわれ 

鬱蒼と木々が繁っており鬱蒼とした所であった。

阿国は、この森の中と鴨川の五条河原に小屋掛けをして、
 かぶき
「傾奇踊り」を始めたのである。

幸せな足音だけを拾う耳  靍田寿子

 

容貌美麗で才能にあふれる阿国は、男装して刀を差しながら歌い踊る。
             かぶ
という今までにない傾いた演出で人気を博し、

かぶき踊りを創始して名を馳せた。

「踊り」は当時の流行唄や狂言小歌を入れて筋のあるものとなっていき、

阿国の男装が評判を呼び、織田信長にも、公卿たちにも招かれている。

そして記録にはないが、派手なことが好きで、好奇心の強い豊臣秀吉が、

阿国の踊りを見ていない訳がないと考えたのが、

大河ドラマ「真田丸」を演出する三谷幸喜氏である。


唯、崖から転落して意識を失ったものの命拾いした真田信繁の姉・

記憶喪失の女として、阿国一座に持ってくるのは遊びすぎではないか。

消しゴムで消せることばを考える  畑 照代


  阿国の像

出雲の阿国の像が立っている辺りに、南座が建っている。
阿国が四条河原町付近の小屋で、舞っていたことを想像すると、
京都南座も違った角度でみる楽しみがあるというもの。

お国の凄いところは、彼女はいつも主役の男役を演じ、

企画・構成・演出まで一人でやってのけたことだろう。

舞台も桃山風の小袖をしどけなく纏い、少しはだけた胸から、

キリシタンの十字架が見せるといった、大胆で斬新奇抜なもので、

踊りや芝居も、エロチックな、かなり際どいものだったようだ。

いわゆる女の歌舞伎というより、「タカラズカ」という方が当っている。

人気が高くなると、ごひいき筋の客種がよくなるのは今も昔も同様で、

お国は方々から引っ張りだこになった。

そして、諸大名や将軍家、果ては宮中にも招かれたという。

「此頃カフキ踊ト云事有 出雲國神子女名ハ國 <但非好女>出仕京都ヘ
上ル縱ハ 異風ナル男ノマネヲシテ  刀脇差衣裝以下殊異相也彼男茶屋ノ
女ト戲ル體有難クシタリ  京中ノ上下賞翫スル事不斜伏見城ヘモ參上シ
度々躍ル  其後學之カブキノ座イクラモ有テ諸國エ下ル江戸右大將秀忠公
ハ不見給」とある。『当代記』(慶長8年4月)

ハバネロをたっぷり塗った天使の矢   くんじろう



慶長8年(1603年)5月には、御所で披露し、

慶長12年(1607))には、江戸城で一座が踊ったという記録も残る。

しかし、この慶長12年の江戸城にての歌舞伎を最後に、

阿国は表舞台から姿を消してしまう。

理由は、阿国が年頃になって「ややこ踊り」が踊れなくなった為か、

阿国が評判になると多くの模倣者が現れたためか。

当初はカブキが「歌舞妓」 と書かれたように、

当時は女性のみによって行われていた。
  
しかし、彼女たちが遊女のような行為もした為、風紀を乱すとして
  
幕府の取締りに遭い、女歌舞伎 は寛永6年(1629)禁止されたのである。

ひと粒の涙にうねる乱れ髪  上田 仁



「その後」

阿国は慶長12年、江戸城で勧進歌舞伎を上演した後、消息が途絶えた。

その後、慶長18年(1613)頃、小田原で67歳で没したとも、

出雲へ帰り剃髪して87歳で没したとも、諸説があるが。

慶長17年(1612)4月に御所で、かぶきが演じられたことがあり、

阿国の一座によるものとする説もある。

他には、出雲へ戻った阿国は、尼僧・「智月」となり、

読経と連歌に興じて余生を「連歌庵」で過ごしたとも伝わる。

阿国の
没年は慶長18年(1613)、正保元年(1644)、万治元年(1658)など、

はっきりしない。

くちなしの白をふやして雨静か  山本昌乃


阿国の墓

墓石は舞台のような平たい伏せ石になっている。


連歌庵から歩いて数分、小高い丘の上に「出雲阿国の墓」がある。

石柵の囲いの中央にある平たい大きな自然石が「阿国の墓石」である。

有吉佐和子さんの小説・「出雲の阿国」では、

この墓石が阿国の命を奪った石として描かれている。

作中で、病に冒された阿国は冬の斐伊川を上る途中、

落石により命を落とした。

この落石を墓石として祀ったのが、阿国の墓だと小説では描かれている。

また、京都大徳寺の高桐院にも阿国のものといわれる墓がある。

なお、どこからそうなったのか4月15日が「阿国忌」である。

入ったら最後あなたは自由です  蟹口和枝

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