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川柳的逍遥 人の世の一家言
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えび芋の素質を棒鱈にたくす  田中博造


  矢沢頼綱
真田幸隆の弟。甥・昌幸の補佐役として活躍し、合戦では別働隊を率いた。
名胡桃城(なぐるみじょう)攻め、小川城攻めにも参戦。
天正8年から沼田城城代を務め、天正壬午の乱では北条から守り抜いた。
また天正13年の第一次上田合戦では徳川家康が上田城を攻めた際、
まず上杉景勝に援軍を求めたのが頼綱であった。
なお子の頼康も後の大坂冬の陣で信之の息子を助けるなどの奮戦をした。

不器用な分だけひたむきに生きる  須磨活恵


虚空蔵山城跡(こくぞうさんじょう)

鎌倉初期、小県郡の海野氏を祖とする会田氏の城。
会田氏は、麓の会田殿村に居館を置き、虚空蔵山の中腹に中の陣城や
秋吉砦などを配し、山頂には物見の砦などを設け、要害城とした。
真田の六文銭の家紋はもともと、海野氏の家紋だった。


「天正11年から12年」

北条氏直は甲斐・信濃における徳川家康の優先権を認め、

上野の切り取りを10月末に得ることで徳川方と講和を結んだ。

ここに「天正壬午の乱」は幕を閉じたが、

真田昌幸の戦いはこれで終わったわけではない。

天正11年(1583)3月、昌幸は小県の西の入口にあたる「虚空蔵山」

上杉勢を攻め、翌月甲斐の甲府に在陣中の家康に出仕した。

そこで昌幸は、上杉防衛の重要さを訴えたと思われる。

上田城築城がはじまったのだ。

やって来るいちばんずるい角度から  八上桐子

4月13日、昌幸の上田築城を知った上杉景勝は、
           あまがふち
「真田、海土淵(尼ヶ淵)取り立つるの由に候条、追い払うべき」

と阻止命令を下す。

海土淵というのは、上田城の直下を流れる千曲川の河畔の名だが、

そこに大量の兵を集められる城を築くことこそ肝要、

と昌幸は家康を説得し築城の許可を得たのだろう。

当初の上田城は東に大手を向け単純な方形の本丸を一重の堀で囲み、

その周囲は河川や沼を自然の外堀とした単純なものだったが、

それでも大軍の集結には十分な広さを持ち、

とりあえず翌年には粗粗完成したという。

突然の軟化へ裏が読みきれぬ  有田晴子


    沼田城図

北条との手切れ後、昌幸は沼田城に入っていた北条勢を追い払って

城を取り戻していたが、6月7日、矢沢頼綱を沼田城守備につかせる。

真田氏は徳川傘下で上田と沼田二つの大城を東西に持つ大勢力となった。

散るために咲いてまた散るくり返し  安土里恵

天正12年3月、織田信雄・徳川家康の連合軍は羽柴秀吉
かんか
干戈を交えることとなる。

その際、家康は北条にも援軍を求めている。

この時に棚上げとなっていた沼田城問題が話し合われた。

西に大兵力を待機させねばならない家康は、

北条側から条件履行を迫られるとこれを拒否できなかった。

そして北条への譲歩として家康は昌幸に沼田割譲を内々に打診した。

しかし昌幸は、「沼田は自らの力で切り取った領地、

家康殿から北条へ渡せと指図されるいわれはない」と突っぱねた。

6月家康は、室賀正武に昌幸謀殺を命じる。

「はかりごとを以って真田を討つべし」

歯ぎしりが聞こえる鳴き砂を踏んで  和田洋子

正武は上田近くの国人領主で、かって昌幸に敵対したあと

随身した人物だったが、「昌幸暗殺計画」を知った昌幸は、

逆に正武をだまし上田城に招いて暗殺する。

「近いうちに家康とは手切れになるだろう」

先を読んだ昌幸は、上杉軍に備えるという名目で新築した上田城に

本拠を移し、徳川と敵対したのであった。

その髭に触れたらきっと感電死  安土里恵

かといって、単独では「徳川・北条同盟」に対決できない。

昌幸は一転して、それまで敵対していた上杉景勝を頼ることにした。

景勝にしてみれば、

信州進出ではたびたび苦杯をなめさせられた昌幸は
なんとも

小癪で目障りな存在だったが、服属してくれれば、逆に、

上杉方勢力が小県まで伸び、徳川方に突きつけた匕首となると考えた。

景勝は昌幸に「九か条の起請文」を与えた。

本領安堵のほか、佐久郡や甲州の一部を新地として与えることを

確約するとともに徳川や北条が攻めてきたら、

上田だけでなく沼田、吾妻まで援軍を送ると約束している。

虫好かぬ奴だが敵に回せない  上田 仁

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石投げて心に雨が降り止まぬ  上田 仁



「春日信達」

春日信達は、武田信玄を支えた重臣で信濃・梅津城の城代を務めた

香坂(高坂)弾正の二男。

兄が「長篠の戦い」で戦死したため、父亡きのち、家督を継ぐ。

主に上杉家との外交役で活躍し、上杉家と武田家の同盟に貢献。

武田家滅亡後、織田家家臣・森長可に仕える。

その後仕えた織田が信濃から撤退し、


途方にくれていた時に、上杉景勝に拾われて上杉家中となる。

景勝に恩義を感じているが、上杉家の処遇には不満があった。

その後、昌幸の意向を受けた真田信尹信繁の調略により、

北条方へ寝返るが、上杉家に発覚して誅殺される。

実際は誅殺というより、昌幸が信達を裏切り者に仕立てた謀殺であった。

信繁が良心の呵責を感じようと、謀略に加担したことに変わりはない。

信繁の心中には父・昌幸に対するわだかまりが残った。

七草に一つ足りない寒さかな  山本早苗



「直江兼続」

上杉景勝の実家・上田長尾家の家臣・樋口兼豊の長男。

景勝が家督を継いだのち、名門・直江家の婿養子となり家督を継ぎ、

与板城主となる。

景勝の重臣として内政・外交両面で辣腕をふるう。

織田信長の没後、各地で勢力争いが始まると、有力大名を天秤にかけて

生き残りを図る真田昌幸を警戒し、又人質として来た信繁の真意を測った。

彼は優れた武将であると同時に、詩歌や書物を好んだ文人であった。

さらに民政にも並々ならぬ才を発揮。 

まさに、知勇兼備の人であった。

梟は悟りの闇を直視する  有田一央

上杉家は、「関が原の戦い」で西軍敗北の報を受け、

撤退を余儀なくされたとき、
兼続は冷静に指揮をとり、

被害を最小限に抑えて次の手を講じた。


家康に歯向かった上杉家は、これまでの4分の1となる米沢30万石に

減封されたが、改易には至らず、減封だけで済んだ背景には、

兼続の政治工作があった。

兼続は一国の大名にひけをとらない知勇を持ちながら、

上杉景勝を生涯ただ一人の君主とし、政治経済、軍事すべての面で支え、

己の人生を捧げた。

焦げても焦げても紅鮭のムニエル  井上一筒

 
  太鼓門(本丸への正門)    水堀と本丸南東端櫓台


「海津城~松代城」

甲州流築城の模範になったといわれる名城・梅津城は、

永禄3年(1560)武田信玄によって築かれ、

高坂昌信(春日虎綱)を城代とした。

この虎綱の次男として生まれたのが信達である。

川中島平全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、

三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を利用

激戦となった第4回川中島合戦では、信玄がここを基地として出撃する。

『甲陽軍鑑』によると、上杉謙信との合戦に備えて信玄は築城を急ぎ、

山本勘助80日で普請したという。

戦争を直訳すれば人殺し  三村 舞

天正10年、武田氏滅亡後に森長可が城主となったが、

信長が本能寺に斃れると上杉景勝の支配するところなり、

天正12年に須田満親が城代となった。

慶長3年、上杉景勝の会津移封によりこの地は秀吉直轄地となるが、

慶長5年の「関ヶ原の合戦」前に森忠政が城主となった。 

忠政は、関ヶ原の戦功により美作津山に移り、

慶長8年に家康の六男・松平忠輝が城主となった。 

松平忠輝改易後、甥の松平忠昌が城主となるが、

元和5年に越後高田へ移り、交替に酒井忠勝が10万石で入封する。

とつとつと雨にどうでもよい話  前中知栄

それから3年、元和8年(1622)10月、

真田信之は信州上田から江戸に呼び出されて


松代(梅津)へのを転封を命じられる。

突然の命令である。

信之には意外以上に不満であった。

上田は父祖伝来の地である。

しかも上田城は父・昌幸の作品でもある。

大阪の陣の結末以後からずっと、城代として信之が守る城である。


家臣団も不満を顕にした。

だが幕府の命令には従わねばならない。

黙祷の体が少し揺れている  青砥たかこ

転封といっても松代は、上田から峠ひとつ越えただけの隣藩。

「善光寺や姥捨といった名所も領内にあり、

   信濃の中心地である場所を
所領としたのだ」

と前向きに捉えるように、と家臣団に諭した。


しかも松代の前身は、武田信玄山本勘助に築かせ、

「川中島合戦」の主要地でもあった「海津城」である。

こうした経過から実は幕府は、松代はきわめて重要な場所としていた。

そこで3万5千石を加増され、これで信之は13万石になった。

この後、真田家は明治まで松代を支配しつづける。

なんでやねん手の平が少し湿っている  酒井かがり

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ブリキで固めた嘘は立方体  山本早苗


北条・上杉・徳川と真田家をめぐる情勢

織田政権崩壊後、東国の支配秩序は流動的になり、
北条、上杉、徳川による勢力拡大の場と化した。
この「天正壬午の乱」とよばれる混乱の中、昌幸は巧みな動きをみせる。
昌幸は小県郡争奪争いの有力大名には逆らわず、主家を上杉氏、
北条氏と替え、身の安全に徹しながら、甲斐に徳川氏が現れると、
徳川に従属して生き残りを策したのである。

「信濃混沌」

天正10年6月20日、滝川一益は上野を去る際、

真田昌幸に沼田城を返還していたが、昌幸は叔父の矢沢頼綱

沼田城代を命じ、湯本三郎に岩櫃城の守備を指揮する。

上田から鳥居峠を越え岩櫃、名胡桃、沼田と連絡路を固めようというのだ。

そして沼田城に入った頼綱は、早速部下に命じ、

10キロほども南に下った津久田城を攻撃させる。

この城は北条方の長尾憲景の属城だったのだが、攻撃は失敗してしまった。

北条方は勢いに乗り、岩櫃城と沼田城を分断すべく長尾憲景に指示して、

その間の中山城を攻め落とさせ、さらに中山新城を築かせた。

岩櫃と沼田の連絡路が遮断されると、昌幸としては分が悪い。

綱わたりクシャミをしてはいけません  阪本こみち

実は、昌幸はすでに3月、

武田氏が危急存亡のときを迎えている間に
憲景を通じ、

二度にわたって北条氏への帰順を打診していた。


そして武田勝頼が自刃した翌12日には、

北条氏邦から昌幸の申し入れを歓迎する旨、書状が寄せられえている。

この交渉窓口はまだ生きており、憲景は昌幸に圧力を加えながら、

外交チャンネルを活かして帰順を促していたのだろう。
               ひき
その実務を担ったのは日置五左衛門という人物だった。

五左衛門は昌幸の命令を受けて北条氏の陣に赴き、

「麾下に属すべき由」を申し入れた。

北条氏直がどれほど喜んだかは、

彼がこの五左衛門に西上野の小島郷を与えたことでも分かる。

さざ波にうすら笑いがしみている  嶋沢喜八郎

26日、昌幸は北条氏に人質を提出する。

ここでも北条氏は大いに喜び、窓口の頼綱に千貫文の土地を与えている。

しかし昌幸の目は、常に周囲を油断なく観察していた。

信濃は北条氏だけではなく徳川家康も狙っており、
          のぶしげ
武田旧臣の依田信蕃を派遣して、国人衆の切り崩しをはじめさせている。

信蕃は碓氷峠の玄関口にある小諸城に入っていたが、

12日侵攻してきた北条軍によって追われてしまった。

さらに北からは上杉景勝がすでに6月16日に川中島へ兵を出し、

7月29日には、景勝みずからも川中島に出陣する。

階段の隙間で息をしています  笠嶋恵美子



昌幸は北条軍の先鋒として、この川中島の上杉軍に対峙し、

防波堤役を務めることとなった。

だが、景勝と氏直が、「北信濃を上杉、その他を北条が支配する」という

条件で講和すると、氏直は南下し8月10日から甲斐・若神子で、

徳川家康の軍勢とにらみ合いに入る。

ところが、5万以上の大軍にも拘らず、

1万の徳川軍に決戦を挑みもせず、


それどころか局地戦では敗北を喫した氏直は、

信濃の国人衆の評価を大きく下げてしまう。

「勢い、空気というものが肝心よ。いまの北条のていたらくでは、

   この先安心して身を寄せることは思いも寄らぬわ」

ボクが乗ると揺れるノアの箱舟  田口和代

折も折り、徳川方の勧誘の手は昌幸にも及んできていた。

「なにとぞ才覚をめぐらして、真田を引き付け給え」

依頼された依田信蕃、それに北条から徳川に転任していた真田信尹

もうひとり日置五左衛門がその交渉ルートだった。

9月28日付けで家康への寝返りが決定し、家康は、

「本領安堵のうえ上野国の箕輪と甲斐国内で計2千貫文の土地、
                     あてがいじょう
     さらに信濃諏訪郡を与える」 と宛行状を発給した。

慎重居士の家康も「誠にもって祝着」と喜びを爆発させている。

北条氏は昌幸をいったん服属させることに成功したが、

昌幸はその間、沼田、吾妻領を着々と我が物にしたうえに、

一転して家康に服属してしまい、北条氏は一杯食わされたのである。

今や昌幸の存在は、信濃支配のキーマンとして唯一無二のものとなった。

まずは取り皿へフクロウらしき舌  山口ろっぱ

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黄昏て三行目から黴てゆく  山口ろっぱ
 

汁かけご飯を食べる氏政

北条氏4代目・北条氏政に関して、こんな逸話が残っている。

食事の時、ご飯に味噌汁をかけたが その量が少なく もう一度汁をかけた。

それを見た父の氏康は、「毎日の食事であるにも関わらず、

ご飯にかける汁の量が分からないとは、北条家も終わりだな・・・」

と嘆いたという。

「プライドばかりの北条氏政」


息子・氏直とも他の大名とも「笏」(しゃく)置く位置が違う。

北条は北条早雲に始まり氏綱・氏康へと続くおよそ100年もの間、

関東に君臨し続けた戦国大名。

その4代目が氏康の嫡男・北条氏政である。

武田信玄の娘と結婚するが、信玄と対立。

弟の三郎(景虎)上杉謙信の養子に出し武田家を牽制する。

その後、謙信との関係が悪化すると信玄と和睦。

信玄没後、勝頼が景虎支援の約束を反故にしたため、勝頼との同盟を破棄。

武田勢に苦戦すると信長に従属を表明し、武田領の挟撃を図る。

長男・氏直に家督を譲っても発言権を保持した。

仏壇も家紋も背後霊だろう  美馬りゅうこ

信長の死後、氏政は、空白地帯となった信濃を手に入れようと、

氏直と氏邦に命じ大軍を上野に侵攻、滝川一益と対峙した。

この戦いは、たった2日、一益の惨敗をもって決着。

その足で北条軍は、碓氷峠から信濃に進出、真田昌幸・木曾義昌

諏訪頼忠などを取り込み、信濃東部と中部を占領下に置く。

その後、北条軍は甲斐に侵攻してきた徳川家康と対峙する。

長期戦となった家康との戦いは、秀吉の関東統一を睨む動向と

真田昌幸が徳川方についたことで風船が縮むように沈静化、

家康の娘・督姫を長男・氏直の嫁に向かい入れて和睦と同盟を結び、

合意の条項に甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とすることが含まれる。

昌幸とって沼田城を北条に明け渡すことは、断固として譲れなかった。

家康に不審を抱いた昌幸は、徳川を離れ上杉景勝に従属、

上田・沼田城にて、
徳川・北条と抗戦することとなる。

相槌がインプラントを逆撫でる  岩根彰子



これらの懸案が後の「沼田問題」さらに「名胡桃事件」の伏線となる。

「小田原北条征伐」の導火線がそこにあった。

秀吉が時の権力者となると、北条氏政と北条氏直に上洛するように

求められたが、成り上がりの秀吉に対して、

北条氏政は
弟・北条氏照北条氏邦と共に、

空気読めない強硬姿勢をとりはじめ、


空気を読める北条氏直北条氏規との間で意見がまとまらなかった。

事ここに至って、秀吉は小田原征伐を決定して宣戦布告したのである。

対し北条氏政は、籠城を決め徹底抗戦を決めた。

100年にわたる戦国大名・北条氏による関東支配の終焉とも知らず。

正解を失くしてからの猛吹雪  中野六助


「北条記」につぎのような言葉が残る。

「四世の氏政は愚か者で、老臣の松田入道の悪いたくらみにまどわされ、

    国政を乱したけれども、まだ父氏康君の武徳のおかげがあって、

    どうやら無事であった」

オルガンのファ~の音から出られない  蟹口和枝


氏直は「笏」胸前に持つ

「虚弱な北条氏直」

北条氏政の次男。

母親は武田信玄の娘である黄梅院。幼名は国王丸。


武田・北条・今川のいわゆる「三国同盟」から生まれた子供であった。

15歳で元服し、里見義弘との抗争で初陣を飾る。

天正8年(1580)、父・氏政から家督を譲り受けるもお飾りの当主で、

実権は依然として氏政が握って離さなかった。

「本能寺の変」後、上野を攻め滝川一益の軍を「神流川の戦い」で破る。

その後、信濃から甲斐に侵攻し徳川家と対抗するが、和睦に至り、

家康の娘・督姫を娶る。

頭陀袋の中で柵笑ってる  中川隆充

北条と徳川との和睦の条件の一つであった沼田領統治をめぐり、

真田家とは幾度となく争うが、決着がつかなかった。

そして、天正17年(1589)豊臣秀吉が仲介に入り、

昌幸が占拠していた沼田3万石のうち2万石が氏政に返還、

残った1万石の「名胡桃城」は、

昌幸が「ここは先祖の墓がある土地なので」 
と主張し

引き続き昌幸のものとして残る。


また、昌幸が失った2万石は家康が自領から分け与えることとなる。

歯車の歯は欠け欠けて稼働中  藤井孝作
                                    いのまたくにのり
これで一件落着かと思われた矢先、北条配下の沼田城主・猪俣邦憲が、

名胡桃城の家臣を買収して工作し、

城を乗っ取ってしまうという事案が発生。


これを聞いた秀吉は、大名同士の私闘を禁じた「惣無事令違反」だと激怒。

しかも再度上洛を要請しているにも関らず、

未だに上洛する気配のない氏政に愛想を尽かした秀吉は、


武力で北条一族を討伐する意志を固めたのである。

失望というな名の船が打ち寄せる  高橋謡々

北条を滅ぼす大義名分(口実)を得た秀吉は、

20万という
未曽有の大軍を率いて小田原に乗り込んできた。

小田原合戦の幕開けである。

一夜城、調略、兵糧攻めなど、秀吉が得意とする持久戦に持ち込むと、

さすがに難攻不落の小田原城も内部からも崩壊していき、

5ヶ月の長期戦の末、降伏を余儀なくされる。

夕暮れにラッキョウの声になっている  河村啓子



戦後処理は、城兵を助命するという条件と引換えに責任者の処罰。

氏政氏照とともに弟・北条氏規の介錯をうけ切腹。

氏政は享年53歳であった。


また氏直は助命、北条氏規らとともに出家して高野山に入る。

翌年、氏直は秀吉によって赦免され、大坂の織田信雄の屋敷で暮らす。

その後 秀吉から河内国に1万石の領地を与えられたが、

現地に赴く前に死去。

享年30歳であった。


運命と貧乏神に尽くし抜く  森吉留里恵

父の言われるがまま30年を生きた氏直を評価する、

「北条記」によると、


「五世の氏直君は、ずいぶん判断力に富んでいたが、

    惜しいかな虚弱な体質であったために みずから裁決せず、

    人まかせにするあやまちをおかしたために、

    ついにその家を失うことになった」


「4代・北条氏政が実権を握り続けたことから、北条家は滅亡した」

と巷では囁かれている。

気がかりを形にすれば干しぶどう  嶋沢喜八郎

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鉄分が脳に回って錆びてくる  ふじのひろし


  滝川一益

「滝川一益の波乱万丈」

滝川一益は、柴田勝家、丹羽長秀、明智光秀と並ぶ織田四天王の一人。

甲賀出身ゆえ、忍者説もある。 特技は鉄砲。

30歳頃に織田信長の家臣になる。  

一益は徳川家康との同盟に知略を発揮する一方で、

長島一向一揆、石山本願寺合戦、雑賀攻めなどに参陣し武功を挙げた。

この時、東国支配の重要性から、信濃二郡と上野国主を与えられたが、

「領地ではなく茶器・珠光小茄子が欲しい」 と言った話は有名。

また、信長は58歳になる一益を草深い遠国に送る事を気の毒に思い、

秘蔵の馬を一益に贈り「この馬で入国せよ」 と気遣いを示したというほど、

信長から厚く信任された重臣の一人でもあった。

お人柄なんざぁ眉にでてますなぁ  くんじろう

ところが、関東を任されてから三ヶ月。

天正10年(1582)6月2日、信長非業の死から間もない18日に、

「天正壬午の乱」のとっかかりで、一益は北条氏直と戦闘状態に入る。

敵対行動をとるように なった北条氏政に対し、

一益は上野衆の応援を得て倉賀野へ出陣、

神流川にて北条氏邦の軍を破った。

しかし続く19日の戦いでは、一益方1万8千は、5万の氏直勢に完敗。

一益は箕輪から小諸、木曽を経て本領の伊勢長島へ逃げ帰ってしまった。

滑り台の途中にあった信号機  嶋沢喜八郎
             まやばし
この最中真田昌幸は、厩橋で一益との酒宴に参加し、

一益に護衛をつけて、木曽路まで送らせたという。

そして一益を見送る一方で、昌幸は小県・上野の国衆たちに対する

所領宛がいを矢継ぎ早に実行しはじめた。

「信長も一益も、我が頭上から命令する者はいなくなった。

    今のうちに皆を糾合して、動乱に対応できるようにせなばならぬ」

信長の死によって旧武田領国の甲斐・信濃・上野が無主の地となり、

「天正壬午の乱」と呼ばれた大風が吹き荒れ始める。

昌幸の闘士はこの風に煽られ激しく燃えあがった。

追い込まれてからの男のジャンプ 美馬りゅうこ

そんな中、信長の死を知った羽柴秀吉は、

中国毛利攻めの真っ只中
にも関らず、毛利と和議を結び、

主君の「弔い合戦」の大義名分の元に、


神戸信孝・丹羽長秀・池田恒興・中川清秀・ 高山右近らを率いて、

明智光秀との「山崎の戦い」に臨んだ。

そして本能寺の変から、わずか10日あまりで仇討ちを果たした。

信長からは一番に信頼されていた一益が、どうして、

伊勢へと逃げる足を、主君の敵討ち・明智討伐に向けなかったのか。

伊勢に逃げ帰った一益の行為は、その後の彼の一生を決めることになる。

信長の後継者を決める「清洲会議」に間には合わず、

織田家宿老の立場からも外されてしまう。

運勢もやっぱり渦を巻いていた  森田律子



天正10年6月27日、尾張の清洲城で織田の重臣を集め開かれる。

「清須会議」の目的は「信長の後継者問題」「遺領の配分」である。

集まった重臣は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉、池田恒興の宿老4人。

いわゆる一益はこの場には、不在したのである。

遺領の配分は後述のこととして、信長の後継者問題では、

信長の三男・織田信孝を推す勝家と、


信長の嫡孫にあたる信忠の嫡男・三法師(織田秀信)を推す秀吉が対立。

そこで三法師をたてるにあたり、秀吉は「長男後継の筋目」を主張。

この秀吉の意見には、信孝を推す勝家は、強硬に反対したであろうが、

丹羽長秀「筋目論」に同調し、多数決をもって秀吉の主張が通り、

三法師が後継者となったのである。

ここで三法師後見人の立場をも秀吉が握る。

ザクロ弾けて相性なんてこんなもの  山本昌乃

その後、羽柴秀吉と柴田勝家の対立が激化、

秀吉は勝家と結ぶ織田信孝を討ち、着実に勢力を拡大していった。

このとき、一益は柴田勝家に与して、長島城に拠り秀吉と対峙した。

そして折りから家督相続争いで紛糾していた関氏の亀山城を奪うと

腹心の佐治新介を入れ、峰城には甥の滝川儀大夫を城将とし、

秀吉の来襲に備えたのである。

対する秀吉は、弟の秀長を美濃土岐多羅口から、

甥の三好孫七郎を近江君畑越から、

そして、みずからは近江安楽越から長島城へと迫った。

一益はよく持ち応えたが、恃みの柴田勝家が「賤ヶ岳の合戦」で大敗、

越前北ノ庄城で滅亡すると万事窮してしまった。

結局、一益奮戦も空しく、降伏開城して秀吉の軍門に降った。

坂うねりうねりつ坂は7合目  筒井祥文

秀吉と織田信雄・家康連合軍との間で小牧・長久手の戦いが始まると、

一益は秀吉に味方して参戦した。

そして、蟹江城の留守を守備する前田種利と前田城の前田長種らを

調略することに成功すると、嫡子・一忠とともに蟹江城に入った。

ところが、信雄・家康連合軍の猛攻撃を支えきれず降伏。

あろうことか種利の首の差し出せという条件を呑んでの投降であった。

一益の行動は諸将の非難を浴び、秀吉からも愛想を突かされ、

栄光に彩られた武将人生は、晩節を汚す格好で幕を閉じたのであった。

夕暮れを歌うと棒になってゆく  富山やよい



とはいえ、秀吉から越前国大野に三千石の捨扶持を与えられ、

子の一時には1万2千石の地が与えられた。

しかし、みずからの行為を深く愧じた一益は京都妙心寺で出家すると、

丹羽長秀を頼って越前に流れていった。

流れ流れて、自らの才覚と腕一本で大名に出世しながら、

肝心のところで齟齬をきたした一益は、

天正14年、越前大野で死去。


享年62歳であった。

甲冑を脱ぐと人情交叉する  上田 仁

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