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川柳的逍遥 人の世の一家言
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透明な隙で黙祷いたします  山本早苗


    四阿山(あずまやさん)
日本百名山の一つ四阿山(標高2,354m)は長野県と群馬県の県境に跨る。

「修験者」

修験者とは何者なのか…。簡単に言えば、

険しい山を駆け上り、岩の上で法螺貝を吹く姿に象徴される通り、 

山岳修行で心身を鍛え、呪術的な霊力を得ようとする宗教家のことである。

背景にあるのは、山には霊気が宿るとする山岳信仰で、

ルーツを遡れば、
平安中期、密教が輸入されて以降のことになる。

山岳地帯である信州では、多くの修験者が山野で修行を積んでいた。

特に重要視されたのが、

真田の郷がある信濃と上野の境にある四阿山である。

真田氏が崇敬した山家神社も四阿山をご神体としている。

生き霊と死霊の話聞き分ける  井上一筒

そんな彼らを上手に利用したのが真田氏である。

例えば、天文20年、真田昌幸の父である幸隆「砥石城攻め」では、

内通者を出して内側から守りを崩したと伝わる。

それも砥石城の抜け道を熟知して城内への

情報伝達の攪乱を請け負った修験者の、支援があっての調略戦だった。

二等辺三角形からの誘い  蟹口和枝

時に修験者は、呪術で雨を降らせることが出来たとも言うが、それは即ち、

山暮らしの中で天気を先読みする能力を身に付けていたということ。

第一次上田神川合戦で、昌幸が、神川を堰き止めた上で決壊させ、

徳川軍勢いを殺いだと伝わる。

実は、神川は幅が狭く川底が深い。

一雨くれば、一気に3メートル近くも水嵩が増し濁流となる。

わざわざ堰き止めずとも、いつ雨が降るか予測できれば、

川が増水する時間に合わせて、徳川軍をおびき寄せるだけで事足りる。

天気予報を担ったのは、もちろん修験者だ。

予感的中ドアノブに静電気  村上てる

天正10年6月2日、京で「本能寺の変」勃発。

天下統一を目前にしていた織田信長は非業の死をとげた。

その知らせが350キロ離れた信濃国真田郷の昌幸に届いたのは、

いつ頃だっただろうか。

滝川一益が自主的に昌幸らに情報公開したという話もあるが、

北条氏直が変を知って、一益に問い合わせの書状を発したのが11日。

この以前に昌幸は変のことをを知っていた、動きをしている。

そこに修験者の情報があったからである。

そうだそうだこの手で行こう猫だまし 谷口 義


  ノノウの墓

「歩き巫女」

『信濃国小県郡禰津村が、江戸期三百年を通じて、

    我国で随一の巫女村である云々』

民俗学者・中山太郎「日本巫女史」でそう語る通り、
   ねず             とうみし   ねつ
小県郡禰津村、現在の長野県東御市祢津はかって、

「歩き巫女の里」
として知られ、現在も巫女たちの墓90基が残る。

歩き巫女はノノウ(ノノウ巫女)とも呼ばれ、全国各地を遍歴し、

祈祷や死者の言葉を伝える「口寄せ」「勧進」などを行なった。

ノノウとは、神様や先祖の霊を指す方言であるとも、

「のうのう」という呼びかけの声からそう呼ばれたともいう。

三日月のポーズでヒップ引き締める  合田瑠美子


 本屋の前の歩き巫女

信濃の巫女は各地で歓迎され、俗に千石取りに匹敵する物持ちで、

荷物は「荷持ち」と呼ばれる男性が運び、どこでも手形なしで歩ける。

全国を歩く彼女たちは、

修験者と同様に多くの噂や情報に接することになり、


保護する者に貴重な情報をもたらしたであろうことが、

容易に想像できる。


また時に彼女らは修験者と組んで行動し、口寄せの際、

憑依した霊に修験者が問いかけ、言葉を引き出す相方を務めたという。
                           あずまやさん
小県郡禰津は真田に隣接する地域であり、四阿山の修験者も多かった。

当然ながら、歩き巫女も真田氏の情報源としての役割を果たしていた。

信じてもよろしおすえ あぶらとり紙やから
                   山口ろっぱ


因みに、禰津が「歩き巫女の里」となった起源については一説に、

武田信玄望月千代「甲斐信濃二国巫女頭領」に任じて、

禰津に「歩き巫女を養成する場」を設けたことに始まるともいう。

望月千代は川中島合戦で討死した武田の将・望月盛時の未亡人で、

甲賀望月家の出身とされる。

甲賀望月家は忍術で知られるが、

もともとは信濃の滋野三家(望月氏、海野氏、禰津氏)の望月家の一族であった。

信玄が歩き巫女の養成を命じたのも、

彼女たちの情報収集活動を期待してということになるのだが、

とはいえ、望月盛時という人物は確認できず、

甲賀忍びの血をひくという千代についても確実な史料はない。

話には続きがあって船が出る  中村幸彦


 ノノウの説明板 (拡大すれば読めます)

そもそも信玄の声がかりで禰津が「歩き巫女の里」になったのではなく、

それより以前から歩き巫女は、この地を拠点に活動していたと見る方が、

自然だろう。

いずれにせよ禰津の古御館には、明治に至るまで数十戸のノノウ宿があり、

女性は巫女としと呪術を行なっていた。

戦国期の彼女たちが真田氏の保護のもとに活動し、

修験者とともに各地の
情報をもたらしていたことは、間違いないだろう。

「各地の情報をもたらした歩き巫女」・(歴史街道より)

酢で締める昆布も永遠も  山田ゆみ葉  

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墓標にはこんなもんじゃと書いてくれ くんじろう


   本能寺の変

「松はここで死んでしまうのか」

「本能寺の変」から2日たち、安土城下は明智の軍勢に占拠された。

信繁たちは琵琶湖近くの農具小屋に身を潜め、

安土から脱出する機会をうかがっていた。

「明智の兵がうろうろしています」  信繁が周辺を探ってきた。

そのとき、人質の子どもが泣きだし、明智の兵に見つかってしまう。

信繁たちが敵兵を引き付けて必死で戦い、松たち人質は捕まらないように

四方に散らばって逃げた。  

明智の兵は松を執拗に追いかける。


佐助が助勢に駆けつけ、一度は敵兵の手を逃れたが、

とうとう断崖まで追い詰められた松は、

琵琶湖が満々と水をたたえる崖下へと身を躍らせた。

ドラマ「真田丸」6話はこのように始まる。


はたして松は、本当にここで死んでしまうのだろうか。

マスキングだれか剥がしてくださいな  岡谷 樹

歴史ではこうなってます。

「村松殿」

松こと、村松殿は、永禄8年(1565)真田昌幸の長女として誕生。

真田信之・信繁の姉で、名は於国。

17歳のころ、真田家家臣の小山田茂誠に嫁ぐ。

しばらくして、茂誠が昌幸から小県郡村松を領地として与えられ、

知行地としたことから、「村松殿」と呼ばれた。

因みに茂誠の父は、甲斐国都留郡の国衆・小山田有誠

なお、天正10年に武田家が滅亡した後、織田信長に臣従した際に、

昌幸は人質を安土城へ送っているが、それが村松殿であったといわれる。

松は茂誠との間に、男児ひとり(小山田之知)を儲けている。

湯葉シュッとすくう寿色になる  田中博造
                 いぬぶし
慶長5年(1600)下野国犬伏で真田一族は、東軍につくか西軍につくか

去就を決断するための協議を持った。

信幸「徳川への恩」昌幸・信繁「豊臣の義」と三成への友情を主張。

いわゆる、真田存続の策ともいわれる「犬伏の別れ」である。

この時、    村松殿、夫・有誠、長男・之知らは、信幸に帯同。

慶長11年3月13日には、之知は信幸から知行を与えられている。

慶長19年(1614)からの「大坂の陣」では、

病床にあった信之の名代の信吉・信政兄弟に従い、子・之知と共に従軍。

茂誠は信繁とも親交があり、信繁から茂誠宛に出した近況を伝える手紙は、

信繁が最後に出した手紙であったという。

仮面から仮面に届くクール便  荒井慶子

「大坂・冬の陣」が講和休戦となったあとの慶長20年(1615)正月24日、

大阪城中から信繁は、『お便りいただきましたので、一筆したためます』

の書き出しで、姉(村松殿)に対して書状を送っている。

『お伝えしたいことがございましたので、一筆申し上げます。

   さてさて今度、思わぬことから合戦となり、

   わたしたちもこちらへまいりました。


   おかしなことと思われたことでしょう。

   しかし、まずまず無事にすみ、わたしたちも死なないですみました。

    お目にかかって申し上げたいと思います。

 明日はどうなるかわからない情況ですが、いまは何事もありません。

   主膳殿(村松殿の長男・小山田之知)にも時々、お会いしますが、

   こちらがとりこみ忙しがっていますので、

   ゆっくりとお話もできませんでした。


   こちらはかわったこともありませんので、ご安心ください。

   くわしく書きたいのですが、この者が急いでいますので、

   あわてて書きました。     
またお手紙をさし上げます。

                                                                                                    かしく

※ わたしたちとは=信繁・大助父子と一族郎党。
※ こちらへとは=九度山から大坂城・秀頼に出仕したこと。

割り算の余りがとても愛しい  雨森茂樹

【原文】
(たより御さ候まま一筆申あけ候、さてもさてもこんとふりよの事ニて、
御とりあひニ成申、われわれここもとへまいり申候、
きつかいとも御すいりやう候へく候、たたし、まつまつひすミ、
われわれもしに申さす候、御けさんニて申たく候、
あすにかハり候ハんハしらす候へとも、なに事なく候、
しゆせんとのニもさいさいあひ申候へとも、ここもととりこミい申候まま、
心しつかに申うけたまわらす候、ここもとなに事もなく候まま、
御心やすく候へく候、くハしく申たく候へとも、
此ものいそきたちなから申入候ままさうさう申候、かさねて申入候へく候、
                                                                                          かしく、
正月廿四日     さへもんのすけ
                         むらまつへまいる

                                                                     (真田一族の史実とロマン 東信史学会)

うっすらと血を通わせて空動く  岩田多佳子

村松殿からの見舞いに対して返信する信繁の、

姉に対する親愛の情が感じられる。


彼はこの中で村松殿の夫・有誠や子息・之知のことにも、触れているが、

「大阪の陣」に参加した有誠も、休戦中、何度か信繁を訪ねたのだろう。

夫婦ともに、信繁の身の上を心配していたのだ。

村松殿は寛永7年(1630)6月、死去。 

享年65歳。


ドラマの死より、47年長生きしている。 法名は宝寿院殿残窓庭夢大姉

ぬらりひょんから人間の取り扱い書  前中知栄

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天かすになり天麩羅を離脱した  井上一筒


  真田信尹

「真田生き残りの陰の立役者」

北条・徳川・上杉という三大勢力がせめぎあった「天正壬午の乱」に於て、

巧みに陣営を替えつつ、自らの所領を守りぬいた真田昌幸

その鮮やかな手腕を影で支援した人物がいる。

昌幸の実弟・加津野昌春信尹)である。

昌春は昌幸同様、幼くして武田家の人質となり、

信玄の命で甲斐の名族・加津野氏の名跡を継承。

槍奉行を務め、武田家臣団の一翼を担う存在であった。

そして、武田家滅亡後は兄・昌幸と別行動をとりつつ、

昌幸の意を汲んで、真田本家のために暗躍するのである。

暗雲にそなえ寝息を溜めている  清水すみれ

本能寺の変後、上野の滝川一益が北条氏に追われると、

昌幸は一時的に上杉景勝に従属し、北条氏直の信濃侵攻を前に、

北条に鞍替えした。

この時、上杉陣営に残り、北条に与する兄のために、

上杉方将士へ調略を仕掛けたのが、昌春である。

おそらくそれは昌幸の指示であったろう。

しかし調略が露見すると、昌春は上杉領から退去した。

三分間のアリバイがないのです  森田律子

ほどなく北条と徳川の対立が信濃・甲斐で始まると、

昌春は次に徳川家に身を投じる。

これもまた、昌幸の指示であった可能性が高い。

そして昌春の存在が、昌幸の運命に大きく影響する。

北条の大軍を前に苦境に立つ徳川家康は、
       よだのぶしげ
武田旧臣・依田信蕃らの進言もあり、

北条に与する昌幸を陣営に迎えることを望んだ。

この時、そのパイプ役を果たしたのが、昌春であった。

善悪の手前に損得があって  中村幸彦



その後、昌幸は、徳川と手を切るが、昌春は残留。

紆余曲折を経て、その子孫は徳川の旗本となった。

なお大阪の陣の折、信繁に徳川につくことを誘ったという。

                         参照・平山優『天正壬午の乱』

手を打って鬼に知らせる鬼ごっこ  青砥たかこ

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隙間の件でよせてもろてもいいですか 竹内ゆみこ


天正壬午の乱勢力図  (画像は拡大してご覧ください)

天正10年6月2日、京で「本能寺の変」勃発。

天下統一を目前にしていた織田信長の死を千載一遇の好機とみて、

上杉景勝、北条氏政、氏直父子、さらに徳川家康が甲信・上野などの
     さんだつ
旧武田領簒奪に向けて動き始めた。

「天正壬午の乱」と呼ばれる争乱の始まりで、

信濃・上野に拠点を持つ真田氏は、大大名たちの侵攻に直面する。

こうした混乱の中で真田昌幸は、自身を取り巻く情勢を的確に読み、

大大名たちを次々に手玉にとって、独立大名として生き残っていく。

それはまさに神業だった。

煽てたら行進曲になりました  美馬りゅうこ  


   岩 櫃 城


「天正壬午の乱ー概略」

『天正10年6月末~7月中旬』

上野を領する滝川一益は北条氏に追われた。

滝川に帰属していた真田昌幸は沼田城・岩櫃城を取り戻す。

沼田・吾妻領を固めた昌幸は、北信濃を窺う上杉に従属するが、

7月中旬に北条の大軍が信濃に侵攻してくると、

上杉から離れて北条に従う

善人の貌へ修正液こぼす  笠嶋恵美子

矛先を変え、碓氷峠を越えて信濃に入った北条軍2万は、

川中島まで進み、
海津城に入っていた上杉景勝軍8千と対峙。

しかし海津城の内通工作に失敗した北条氏直は、

徳川家康が進出中の甲斐に転進する。

昌幸は上杉への備えを主張して、小県に残留。

一見、北条の後顧の憂いを除く提案である。

しかし、昌幸の思惑は別にあった。

すなわち昌幸は独立に向けて、自然な形で北条と距離を置いたのである。

この辺で飛んでみなはれ運だめし  前中知栄

『7月下旬~10月末』

甲斐に入った北条氏直は、若神子城に拠り、新府城の家康と対峙。

一方、北条軍別働隊が御坂城に入り、家康の腹背を衝く構えを見せた。
                   きか
劣勢の家康は、昌幸の存在を奇貨として陣営に誘うと、昌幸はこれを受けて、

沼田城・岩櫃城に固執する氏直を見限って、10月下旬に手切れを通告。

徳川に与する。

氏直は昌幸を牽制すべく、配下に岩櫃城攻撃を命じるが、
    よだ のぶしげ
昌幸は依田信蕃とともに碓氷峠を占領。

北条軍の補給路と人馬の往来を遮断した。

氏直にすれば見事に昌幸に急所を衝かれた格好で、

結果、形勢不利となった氏直は、信濃から撤退、

同時に家康と和解し、
徳川・北条同盟が結ばれる。

指切りの指落ちつかず長い夜  藤原邦栄

『閏12月~天正12年6月』

巧みに真田を取り込んだと思われた家康ですら、

実は、昌幸の掌の上で転がされているに過ぎなかった。

北条が信濃より去ると、昌幸は小県を完全掌握するとともに、

家康に上杉の脅威を訴え、

徳川の支援を得て尼ヶ淵に新城を築く。


上田城であった。

押さえられなくて踊っているハミング  畑 照代


 尼ヶ淵から見た上田城

ところが問題が起きる。

家康が北条との和睦を結ぶ際に、

家康は真田の沼田・吾妻領の北条への引渡しを条件にしていた。

しかし、昌幸は断固としてこれを拒否。

家康は自分に従わぬ昌幸を亡き者にすべく、天正12年6月、

信濃の国衆・室賀正武を使って暗殺を画策するが失敗し、

真田と徳川の関係は悪化する。

昌幸は家康との断交を視野に、

新たな帰属先に選んだのが上杉景勝であった。

つついてもつついても沈まない箱  森田律子

『天正13年7月』

天正13年4月、昌幸は家康からの正式の使者に対し、

「沼田は徳川や北条からいただいた領地ではない。

    自分の武功によって得たものを、北条に渡せるものか」

と大見得を切って見せた。

言うまでもなくその背景には、上杉という「保障」がある。

徳川と決裂した昌幸は正式に、上杉への帰属を申し入れ、

7月15日に寝返りが決定する。

景勝は昌幸に対し小県・沼田・吾妻への援軍派遣を保障し、

大幅な加増も約束していた。

昌幸側からは、二男の信繁が人質に出され、

閏8月2日、「第一次上田合戦」が始まる。

犬の小便ごときに負けぬタンポポ  雨森茂喜

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踊り場はあんたの脳の表面積  河村啓子


    真 田 丸
信繁は大坂城南東の惣構外側に、のちに真田丸と呼ばれる出城を築いて
徳川家康と対峙した。


大河ドラマ「真田丸」で脚本家・三谷幸喜が意図としていること、

何を思い、
何を見て欲しい、何を見せたいかを知って、

ドラマに接すれば、
一層、面白くこのドラマを見ることが出来る。



「真田丸の脚本家・三谷幸喜が語る真田丸」

物語りの序盤は、そこに至るまでの戦国版「三国志」と言うべき、

「天正壬午の乱」を丹念に描きます。

全く先が読めない、緊張の連続。

視聴者の皆さんも、アドレナリン出まくりだと思いますよ。

物語りの前半は信繁と兄・信幸が、強烈な個性の父・昌幸を見て、

何を感じ、
何を学んでいくのかが、主題になってきます。

哲学と神話はきっと紙一重  岡田陽一



大河ドラマでは主人公の父親は、

とても大事な役割として描かれることが
多いですが、

昌幸は歴代父親の中でも、桁外れなキャラです。


息子たちにとって、恩師でもあり反面教師でもある。

しかしどこか「俺は俺の道を行く、お前らは勝手にしろ」

と突き放している
ようにも思えるし、

とても温かく息子たちに接している風でもある。


とにかく、枠にはまらない父親像です。

発想の転換はせぬ唐辛子  皆本 雅



一方、息子たちですが信繁の影に隠れがちな兄・信幸も、

今回はきちんと描きたい。

真面目で堅物で信繁に比べると、地味なイメージがありますけれど、

彼には彼のドラマがある。

父親に翻弄され、父親の破天荒なところを受け継いだ弟に振り回され、

さらには、徳川側の猛将・本多忠勝の娘・小松姫を妻にもらう。

それはもうストレス抱えまくりの人生です。

耐えに耐えたその先に、彼が見つけたものは何だったのか。

それを僕もこれから探っていこうと思います。

そして彼は、そうやって学んだことを糧とし、

やがては天下一の知将となっていくのです。

歳月や埃にだってある誇り  徳山泰子



信繁が積極的に関わってくるのは「大阪の陣」から。

それまでは信繁が体験していないこと、見ていないことは、

どんなに大きな歴史上の事柄でも、極力描かないようにするつもり。

その分、信繁が見たであろう出来事は細かく描きます。

ですから、秀吉、北政所、茶々(淀)といった大坂城の人々も、

信繁の目線から見た人間像という、今までにない描き方になると思います。

また若き信繁が出会う石田三成大谷行部加藤清正といった人たちが、

「関が原」以前のなんでもない日常の中で、

何を考え生きていたのかも、
ポイントです。


そこで信繁が見聞きし感じたことが、後年、「大阪の陣」で、

なぜ、命を懸けてまで
大坂城を守ろうとしたのか、

その答えにつながっていくと思うからです。


六のとき七になるのを待っている  福尾圭司



敗者に惹かれると言いましたが、

「滅びの美学」はあまり好きではありません。


信繁は、死に花を咲かせるためではなく、

あくまでも勝つつもりで大坂城に入ったと思いたい。

彼がどんな思いで兵を動かして、家康を追い詰めていったのか、

考えただけでワクワクして眠れなくなります。

ひょっとしたら今回の「夏の陣」は、豊臣方が勝つんじゃないか

と思ってしまうような、それぐらい希望に満ちたクライマックスを

描きたいと思っているんです。

私以外立入禁止の道を往く  下谷憲子



また最終回に至るまで、

信繁の家族に対する思いは、決して薄まることはありません。

無念のうちに死んでいった父への思い、

最後まで自分についてきた、妻や子に対する思い。

そして今は敵となった兄・信幸への思い。

たとえ喧嘩をしても一緒にいなくても、家族というのは切れないものです。

真田家の面々も「家族」を常に心の隅に抱えて生きていくことになります。

タイトルの「真田丸」「大阪の陣」のときに信繁が守った出城のこと

ですが、
同時に一族を「船」に例えたものであります。

家族については、名前すら残っていない女性たちを含め、

一人ひとりのドラマをきちんと作っていくつもりです。

チャレンジを続けることに意義がある  吉岡 民



「真田丸」は信繁が主人公ではありますが、同時に偶像劇です。

信繁と家族、信繁と「天正壬午の乱」に関わる武将たち、

信繁と秀吉を取り囲む人々、信繁と大坂城に籠もった牢人たちと、

物語りが進むにつれ、

偶像劇の「偶像」は次々とメンバーが入れ替わります。


また信繁もそうですが、武田勝頼、上杉景勝、豊臣秀次といった、

偉大なる先代の跡を引き継いだ「ジュニア」の悲喜劇も、

しっかりと描きたいところ。


描きたいものが多すぎますね。

でもそれが描けてしまうのが、大河ドラマの醍醐味。

一年間、毎週リアルタイムで見る人だけが味わえる楽しさを、

ちゃんと届けられるドラマにしたい。

いよいよ「天正壬午の乱」が佳境にはいります。どうぞお楽しみに。

らくがきとはこんなに愉しいことなのか  庄田潤子

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