川柳的逍遥 人の世の一家言
神前へ世界の無理が溜まってる 喜柳 「平和な江戸へ」(江戸川柳を楽しむ) 「千姫」(1597~1666) 猛火落城の際、家康は「千姫を救い出した者には、千姫をとらす」と大声 で叫び、孫の救助を求めました。誰もがたじろぐなかで、紅蓮の炎の中に 飛び込んだのが坂井出羽守。彼は全身にひどい火傷を負いながらも千姫を 救出しました。しかし家康は千姫を坂崎の顔が火傷で妖怪のようになった ただとき ことから与えず、伊勢・桑名城主の本多忠政の息子の忠刻に嫁がせました。 恨んだ坂崎は忠刻を待ち伏せして、斬り付けたため切腹させられました。 恨む相手は家康と思いますが、その忠刻も間もなく病死し、千姫は江戸番 町の吉田御殿に移りました。30そこそこで未亡人になり、以後、夫を持 たなかったので、男漁りの毎日とか、賞味した男はなぶり殺しにしたかと いう噂が立ち、 振り袖で天命をしる吉田町 ―振り袖は独身の証明。天命は男たちの天命。 千姫は狂死したとされていますが、実際は忠刻の死の直後に仏門に入り、 天樹院と号し、自家の持仏堂に最初の夫の秀頼、二番目の忠刻、自分の ために死んだ坂崎の位牌を安置して、静かな弔いの日々を過ごし、三代 将軍・家光の乳母の春日局のよき相談役になり、73歳まで生きました。 男漁りやなぶり殺しは「火のない所に煙はたたない」逆例でしょう。 吉田町皆雑兵の手にかかり ―この句、千姫を詠んだとしているが、千姫が雑兵では意味が通じない。 この吉田町は江戸・本所の吉田町。夜鷹の巣窟で、彼女たちが梅毒患者 だったことから雑兵は梅毒。 憂苦界花も楽しむものにせず 佃丸 「春日局」(1579~1643) 二代将軍・秀忠夫妻は、三代将軍は次男の家光にほぼ決まっていたのに、 寵愛する三男の忠長を就かせようと画策しました。驚いた家光の乳母の 春日局は、 駿河まで行くは大きな抜け参り ―抜け参りは家人に告げないお参り。 伊勢参りと称し春日局は密かに駿河の家康を訪ね、将軍を家光にするよう 頼み込みました。これが奏し、家光は大御所から正式に指名を受けました。 将軍になれなかった忠長は自暴自棄に陥り、やがて発狂して自殺。将軍で ない方が気楽で良いと思いますが、どんなものでしょう。 元和2年(1616)、家康は75歳で波乱に満ちた生涯を閉じ、江戸を守る 目的で、鬼門の日光に「東照大権現」として祀られました。 御祭礼四十九で三十六里也 ―例祭は4月と9月。江戸と日光間は36里(138キロ)。 家康の功績は、戦争のない時代を切り開いたことで、 泰平の世は兵法も腹ごなし 虫も利も食うは御代の鎧也 ―鎧を質に入れても利子がかかると。 家康は鯛の天ぷらを食べて腹を壊し、死んだとされていますが、淋病菌が 脳に回ったという説もあります。 西に入る 月を誘い 法をえて 今日で火宅を 逃れけるかな 春日局 湯豆腐は波うちぎわですくい上げ 松鱸 慶安の変 「由比正雪」(1605~1651) 三代将軍・家光は参勤交代制を実施しました。大名が幕府に刃向かえない よう、その妻子を江戸に住まわせて人質とし、大名には在府一年在国一年 の勤務体制を採り、その往来で多額の路銀を使わせ財力を消耗させました。 この制度が、徳川幕府を長続きさせた最大の理由でしょう。 大名は一年おきに角をもぎ ―どの大名も国元には側室がいるから、江戸の正室は嫉妬で角が生え、 そこで一年おきの江戸勤務では機嫌をとったと。 また幕府の権威を示すため、約60の大名を取り潰しました。これにより 禄を失ったリストラ失業武士が巷に溢れ社会不安が増大。そこで由比正雪 と丸橋忠弥が共謀して、浪人武士をあおり立て、世直しクーデターを企て たのが「慶安の変」です。 家光の死去を合図に正雪は駿府城を、忠弥は江戸城を乗っ取り、別派は大 坂と京都で騒乱を起こすという大規模な計画でした。 正雪は江戸・牛込の寺子屋で、旗本の子弟に軍学を教えていたお師匠さん。 牛込のがっそう肝の太い奴 ―がっそうは軍学師のトレードマークのオールバックの頭。 正雪は駿河由比の染物屋の息子で、南朝方忠臣の楠木正成の子孫と自称し、 クーデターのために準備万端整え、旗までも用意しましたが、 菊水もよくよく見れば手前染め ―菊水は楠木氏の旗印。手前染めは家業と正成の子孫に掛けて、 自称だからいい加減なものと。 手筈が整ったところで仲間内から密告され、 ふてい奴江戸と駿河で捕らえられ 忠弥は、同士とともに江戸で捕まり処刑。正雪は由比で捕らわれる寸前に 毒をあおって自害しました。玉川上水に毒液を流し、江戸市民を皆殺しに する計画だったと伝わっていますが、玉川上水の工事開始は、この事件の 3年後のこと。川柳子は浮説を信じてしまい、 玉川の鮎もちっとで皆殺し 「慶安の変」の反省から、大名の取り潰しは極端に少なくなり、また幕府 が失業武士の再就職に乗り出すなど、政策変更が行なわれました。 この例を見るように意外と江戸時代の政治は、今の時代に比べて学習効果 が高く対応性にも、融通性にも富んでいたようです。 人間万事さまざまな馬鹿をする 和風 PR |
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