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川柳的逍遥 人の世の一家言
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枯れてなおバラは掟の棘をもつ  佐藤美はる


  新双六淑女鑑 (小林清親画)   (拡大してご覧ください)

明治女性の「幸福な」一生をゲーム感覚で学ぶすごろく。
「夫定」のコマ(右)には必ず止まらなければならず、
夫婦円満で進むと「淑女」の上がりにたどり着くが、
道を踏み謝ると「娼妓」や「老朽」に落ちてしまう。

「家庭の確立」

明治期は「家庭」という単位が確立した時代である。

江戸時代は親族を含めた大家族や村民たちの互助で成り立つ、

「村落共同体」が社会と個人を支えていた。

近代国家である明治新政府は、

個人の権利や私的所有を前提としたが、実際の法制度の中では、

家が個人を直接管理することは難しく、

家庭が最小単位となった。

脚注は入れぬ想像に任せる  竹内ゆみこ

家庭という単位が確立すると、家庭内の役割も分化。

「父は外で働き、母は内で子育てをする。

   母親になることが女性の幸せ」

という考えが一般に広がった。

江戸時代までは、子どもの養育は大家族が皆で担っていたが、

明治になると子育てと基礎教育は家庭の役割、

もっぱらそれは、女性の仕事となった。

呪文唱えて金縛りにしてしまう  高島啓子

こうした家庭の確立と男女の役割分化制度的に定めたのが、

明治31年(1898)制定の民法の於て規定された「家制度」である。

この民法は夫が戸主となる、妻は夫と同居する、

妻の財産は夫が管理するなどを規定。

夫婦同姓の義務化も「家庭」強化の象徴となった。

離婚も妻から申し出るのは困難だった。

協議離婚は認められていたが、妻の姦通は離婚理由になる一方、

夫は姦淫罪によえる有罪で無い限り、

妻から離婚を訴えられないなど、不平等な制度だったのだ。

吊り橋が壊死そんなことだってある  高柳閑雲

この時代の女子教育は、

家庭を守る「良妻賢母」の育成が主であった。

作家で歌人の樋口一葉には、高等科で主席になりながらも、

「女子に長く学問をさせては、将来のためによくない」

という母の意見で退学し、

家事見習いや針仕事をしていたというエピソードもある。

女子の高等教育は不要どころか悪影響があるという意識が、

当時は一般的だったようだ。

交差点に棒をおいてはいけません  山口ろっぱ


  女礼式の図

右側で書道、左側で茶道の指導が行なわれている。
中央に立つのは教室を見張る教師。
女礼式とは女性が身につけるべき礼儀作法や習い事のこと。
明治中期から後期にかけて女礼式を描いた錦絵や双六が
啓蒙のため、
数多く制作された。

明治中期ころの女子中等教育は、

ごくわずかな師範学校やキリスト教系女学校を除くと、

ほとんどが夫人のたしなみや実技を教える家塾のような学校。

教わることも、ふすまの開け閉めや着物の着付けに始まり、

裁縫、書、琴、茶道、華道などが中心だった。

そうした状況下で、女児教育の普及に尽力した

楫取素彦美和の取り組みは先駆的だったといえる。

多くの一般女性が、

家庭での「役割分化」や「良妻賢母」の呪縛から

解放されるのは、戦後まで待たなければならないのである。

シンプルに生きると決めてから長い  佐藤美はる



「女子教育の事情」

女性たちが教育を受ける学校として明治初年には、

東京の跡見学校など、20校余りが開校し、

女子教育が行なわれるようになった。

こうした学校では現在の学校で学習するような地理や歴史、

英語などもあったが、

良家のお嬢様であればあるほど習字や裁縫、手芸など

従来から女性のたしなみとされる学科の成績が良かった。

こうしたお嬢様は卒業までに、

結婚が決まらないのは恥とされる傾向が強く、

お嬢様の結婚が本人の意志とは関係ないところで決められるのは、

江戸時代と変わりがなかった。

水が氷になるのを許すべきなのか  福尾圭司

では東京のお嬢様学校ではなく、一般庶民はどうかというと、

農家にとって子供は大切な労働力であったため、

子どもを学校にやる親は少なかった。

学校も初期のころは、

江戸時代の看板を付け替えたようなものだったこともあって、

親も子には学問よりも裁縫など実生活で役に立つ技術を

身につけさせたがっていた。

指六本あったらピアノ習うのに  杉山ひさゆき

女の子には女性の教員が教育に当たるべきという要望が強く、

女子教員の育成が急務となった。

当時、女性の職業は限られており、

教師はその代表的なものであったが、

働く女性は結婚できない、経済的に恵まれないなど、

常に「負のイメージ」が付きまとった。

また江戸時代には場合によっては、

女性にも財産相続が認められていたが、

前述のように、明治31年に民法における「家長制」が確立すると、

財産のすべてを実質上長男が相続することとなった。

明治の女性は、見方によっては、

それまでの時代よりも、社会進出を阻まれ、

「男性の付属品であることが求められるようになった」

といえるだろう。

こっち向く不幸とあっち向く幸と  清水すみれ

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向こう岸に渡してくれる太い腕  三村一子


 上毛かるた 「け」

「楫取の政治」

産業とインフラ整備に力を注いだのが群馬の県令・楫取素彦である。

熊谷県時代を含めると、楫取は群馬県令を約十年つとめた。

在任中は、「握り飯草履履き」で県内を隈無く視察し、

県民と困難をともにして、本県の基礎をつくった。

楫取は、県政の治術は産業と教育と心得て、この分野に力を注いだ。

蚕種・養蚕・製糸・織物の各熟練者を歴訪し、研究を奨励。

勧業は交通・治水などインフラ整備にも及んだ。

邪魔だから顔はおととい捨てました  清水すみれ

明治13年(1880)、日本鉄道株式会社が上野―高崎を結ぶ中山道線の

鉄道敷設計画を発表すると、

前橋までの延伸を下村善太郎とともに、井上勝鉄道局長に嘆願した。

井上局長は二人の至誠に感動し、二人も大株主になることを約束して、

明治17年5月高崎、7月前橋間がそれぞれ開業した。

これによって、それまで利根川の水運に頼っていた県内産の

生糸や織物などの輸送を、鉄道で横浜港まで運ぶことが可能となった。

近代社会において、

インフラの整備なしに産業の発展があり得ないことを、

楫取はよく心得ていた。

夕焼けの行方は父が知っている  中野六助


  上毛かるた 「い」

楫取は群馬県を日本一の蚕糸県に育て上げるとともに、

その技術を全国に広め、群馬県の知名度(ブランド力)を上げようとした。

つまり、群馬県で優れた技術を改良・発明させる。

その結果、群馬県の産業が発展する。

さらに、その技術を全国に伝えることで、

群馬県の名声があがるとともに、日本の国益になる。

楫取は前田正名のような国家的な使命感を以て県政を進めた。

これが、楫取政治の要諦であった。

がまん強くて屋根に抜擢されたとか  オカダキキ


  上毛かるた 「ろ」

「船津伝次平」

日本敗戦の翌々年の昭和22年12月、
国は荒れ果て、人々が悲嘆に暮れているとき群馬の浦野匡彦氏が、
「このように暗く、すさんだ世の中で育つ子どもたちに何か与えたい。
    明るく楽しく、そして希望のもてるものはないか」
と考え出来上がったのが上毛かるたである。
上毛とは群馬県の古称上毛かるたは44枚からなり、
群馬県の土地・人・出来事を読んでいる
「ろ」のかるたでは、船津伝次平がでてくる。
   でんじへい
船津伝次平を内務卿・大久保利通に推薦したのも楫取であった。

老農・船津伝次平は、天保3年(1832)10月、勢多郡原之郷に生まれる。

幼名市蔵。  (勢多郡原之郷は現在の富士見村にあたる。)

市蔵は隣村の村塾において手習、素読を学ぶ。

又18歳で、最上流の和算を学び、関流の和算の免許皆伝を受けた。

安政4年(1857)家督を継ぎ、伝次平を襲名。

維新後養蚕業の振興につとめ、明治元年(1868)前橋藩から原之郷ほか

35カ村の大総代を任された。

健さんは死に欣也は犬になった  奥山晴生


  上毛かるた 「は」

伝次平が生まれた船津家には、

「田畑は多く所有すべからず、又多く作るべからず」

という家訓があり、養蚕を軸とした商業的農業を営むなかで、

明治8年、熊谷権令・揖取素彦から農事に精通する者として、

内務卿・大久保利通に推挙される。

からまって虹まで届く豆の蔓  本多洋子


 上毛かるた 「に」

伝次平と会った大久保内務卿は、

すっかり彼にほれ込み農民としてただ一人、

伝次平46歳のとき、東京駒場農学校の教師に採用される。

駒場農学校では、西洋農法と日本農法のよいところを併せ持つ

混同農法を生み出し、さらに、その後、農事試験場技師に就任し、

全国を駆け巡りながら新しい農法の普及につとめ、

「日本三老農の最高峰」と称されるに至る。

伝次平は中央に出ると、品川弥二郎(農商務大臣などを歴任)と行動を共にする。

奇しくも品川は吉田松陰の門下生(松下村塾生)であった。

伝次平の農事改良の精神や技術が、

群馬県ばかりでなく我が国の農業の近代化に多大な貢献をした。

身に余る依頼へ足の裏凍る  青砥たかこ

ところが明治中頃、農商務大臣・井上馨が外国を視察して帰り、

欧米の大農法をわが国にも取り入れようと考え、

新式の大農機具を盛んにアメリカから輸入し、

それを、まず、駒場農学校で実用するように命じた。

しかし伝次平は、

「日本は、耕地が少ないうえ、

   山国で高いところから低いところまであり、

   しかも気候の変化も激しいという、

   欧米とは違った土地と気候である。

   だから日本の農業は、大農法に向いていない。

   狭い土地をていねいに耕し、多くの収穫を上げていくのが、

   日本の農業である」

と反論している。

反論をいれたポストが燃えている  岡田幸子


富士見村原之郷にある船津伝次平の墓(県指定史跡)

その後、伝次平は、駒場農学校に辞表を出して去り、

著書・『稲作小言』で大農論者に反対を訴え続け、

それを八八調の文章にしてチョボクレ節で歌って広めた。

明治31年(1898)6月15日、郷里にて死去。

享年66歳。

墓で遭い甘味処でまた遇うた  井上一筒

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ほんものは四季の心を持っている  徳山泰子



「桂小五郎」

桂小五郎は身長が1㍍74あったとされ、当時としては大柄だった。

残された写真を見てもわかる通り、男前で、鼻筋が通り、

眼もと涼しい、苦みばしった美男と司馬遼太郎は書いている。

小五郎の女遍歴・・・あんまりな・・・男でもある。

小五郎は、坂本龍馬をはじめ、多くの維新志士と交友したが、

女性関係も派手だった。

美形で、弁舌さわやかな小五郎は、女性受けの良い男だったのだ。

小五郎の最初の結婚は、27歳のときだが、

わずか3ヶ月で離縁している。

この妻との間に、子どもがいたものの早世。

小五郎は、江戸に上って志士活動を開始することになる。

にんべんを繕いコスモス揺れている  嶋沢喜八郎

その後、江戸で斉藤弥九郎道場の塾頭を務めた小五郎は、

隣家の娘・千鳥と知り合う。

小五郎は、彼女に手を出したものの、ほどなく千鳥を放り出して、

志士活動のため上洛。

千鳥は、小五郎の出立後に妊娠が判明し、

乳飲み子を抱えたまま、京都へ向かった際に、

「蛤御門の変」の混乱に巻き込まれ、会津藩兵に斬り殺された。

(子どもは、後に会津で養育されたと伝えられる)

艶艶の玉子抱いてる真暗がり  森 廣子    

一方、そんな事情を知らない小五郎は、

京都で三本木の芸妓・幾松に惚れ込み、

大金を払って彼女を落籍する。

すでに志士として、名を知られていた小五郎は、

常に命を狙われる毎日だったが、幾松の存在は彼の心を和ませた。

次のような有名な話が残っている。

新撰組が、料亭に踏み込んだ時、

舞を踊りつつすばやく小五郎を逃がしたり、

蛤御門の変以降、小五郎がお尋ね者になって窮すと、

加茂川大橋付近で潜伏する小五郎に、食料や水を運んで助けた話。

ときに幾松は、派手な着物をきたまま、桂の元を訪ねるなど、

騒動を起こすも、奔放な彼女の性格を小五郎は、好きだった.

右左迷った時は賽を振る  高島啓子


幾松が小五郎に送った手紙 (文字に幾松のセンスが伺える)

小五郎は幾松と知り合ってからも、多くの女性に手を出しているが、

幾松が、浮気に寛容だったことも、

二人の仲が、うまくいった理由かもしれない。

命をものともせず、小五郎に尽くした幾松の想いは、本物だった。

のちに長州に落ちのびた幾松は、潜伏中の小五郎に、

高杉晋作の「藩政クーデター」の成功を伝えるために、

単身で但馬へ向かうなど、小五郎を最大限に支えている。

馬鹿なことやめたらきっとお死ぬでしょう 中野六助


出石では荒物屋を営み身を隠した

一方で逃亡中の小五郎は、但馬の娘と偽装結婚したり、

城崎の宿屋の娘を妊娠させたりしていたが、幾松は意に介さなかった。

幕末当時の「献身と浮気への寛容」さから、

小五郎は、幾松に頭が上がらなくなった。

維新後に、木戸孝允と改名した彼は、

幾松を正妻に迎え、松子と名乗らせる。

幾松は買い物と芝居が大好きで、贅沢をしたが、

木戸(小五郎)としては、文句をいえない。

”うめと桜と一時に咲し さきし花中のその苦労” (木戸孝允)

それでも二人の夫婦仲は良く、

幾松は、夫の死後は尼になって、生涯を終えている。

ショッツルにしばらく漬けてあるあなた 井上一筒  



「逃げの小五郎」

変幻自在で多彩、そうしたイメージからる桂小五郎.は、
鞍馬天狗のモデルだともいわれる。

小五郎は長州の藩医の子に生まれ、

禄高150石の桂家の養子になった。

学問を好み、藩校・明倫館で吉田松陰に兵学を学び、

「事をなすに才あり」と評価された。

松下村塾の門下ではなかったが、塾にはよく顔を出し、

塾生の高杉晋作久坂玄瑞らとも親しく、

ともに尊攘運動をリードした。

龍馬が姉の乙女らに宛てた1865年(慶応元年)の手紙には、

「長州に人物なしといえども、桂小五郎なる者あり」

と褒めちぎっている。

コンパスで描いた円はつまらない  竹内ゆみこ

西郷隆盛、大久保利通、と並ぶ維新の三傑・桂小五郎には、

「逃げの小五郎」という異名があった。

長州が「朝敵」として孤立、苦境に陥っていた頃である。

京都留守居役として藩の外交を任された桂は、

京都に残って情報収集に努め、

潜伏しつつ再起の道を見つけようとする。

長州藩の討幕運動を進めるリーダーとして、幕府側から命を狙われ、

危険を察知すると、戦わず逃げることに徹したからだ。

京都三条大橋の下に隠れていたという、英雄らしくない逸話も残る。

サイダーを飲んでくるりと裏返る  石橋能里子

それにしても、三条大橋は江戸に繋がる東海道の終点、

橋に繋がる三条通りは、当時の京都のメインストリートだ。

血眼になって捜す新撰組ら追っ手を警戒していた桂が、

なぜそんな危険と思しき場所に隠れたのか。

整備された今の鴨川と当時の鴨川は、まるっきり景色が違う。

河川敷が整備された今と違い、当時は川幅が中州がいくつもあった。

そこに掘っ立て小屋を建てて住む人や友禅染の水洗いする人もいて、

紛れることが出来た。

また市街の3分の2を焼いた「禁門の変」の後で、

避難民も河川敷に多くいたのも利点になった。

交通の要衝なので各地の情報を得るには格好の場所。

そこで情報を探っていたとも考えられる。

路地裏をうまく泳いでいるルパン  岡内知香

変装し名前を変え、身分も偽って、桂は逃げることに徹した。

自らの剣で人を殺しいたことがないと伝わる。

弱かったからではない。

19歳で江戸に出た小五郎は練兵館(三大道場の一つ)斉藤弥九郎から

神道無念流を学び、道場の塾頭を務めるまでになった。

剣の達人だったのだ。

「出来れば逃げよ」

というのが、殺人否定に徹底した師・斉藤弥九郎の教えであった。

靴紐を結びなおして生きて行く  吉崎柳歩

自然、斉藤の愛弟子だった桂は、剣で習得したすべてを、

「逃げることに」集中した。

「生きてこそ忠義を尽くせるという思いが強かった。

 時流を読むことに優れ、生き延びたからこそ、

 新しい時代をつくることができた」 (司馬遼太郎)

「革命家でありながら長州人に多い思想への陶酔体質は持っておらず、

   ごく常識的な現実認識家である面が強い」

とも司馬遼太郎は小五郎を分析している。

世の中は桜も月も涙かな  桂小五郎  

一草も月日のむらはなかりけり  桂小五郎

時どきの定形外が面白い  小谷小雪

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美しく書き足してあるエピローグ  新川弘子


斬髪を率先した時の写真

「長州に人物なしと雖も、桂小五郎なるものあり」

坂本龍馬は、桂小五郎(木戸孝允)を評した。

「木戸孝允」 天保4年(1833)~明治10年(1877)

木戸孝允は、かねてから重病化していた「脳発作」が悪化し、

明治天皇の見舞いも受けるが、明治10年5月26日、

朦朧状態の中、大久保利通の手を握り締め、

「西郷もまた大抵にせんか、予今自ら赴きて之を説論すべし」

と、明治政府と西郷隆盛の両方を案じる言葉を発したのを最後に

この世を去った。

死因は「心血管障害」とされている。享年45歳。

※ 心血管障害病とは、心臓や血管などの循環器の障害で、
特徴的な痛み、息切れ、疲労感、動悸、ふらつき、失神、脚や足首、
足の腫れ
などの症状から心臓発作、脳卒中を起こし死に至る病である。


海底に夢の欠片を取りに行く  松原未湖


木戸の覚悟を書いた手紙

『木戸を評する言葉』を読めば木戸の凄さが見えてくる。

「松平春嶽、前福井藩主」

木戸は至って懇意なり。

練熟家にして、威望といい、徳望といい、

勤皇の志厚きことも衆人の知るところなり。

帝王を補助し奉り、内閣の参議を統御して、

衆人の異論なからしむるは、

大久保といえども及びがたし。

木戸の功は大久保の如く顕然せざれど、

かえって大久保に超過する功多し。

いわゆる天下の棟梁というべし。

謳歌しなきゃ愚痴ばかりではもったいない 伊東志乃

   

「大隈重信、政治家」

木戸は創業の人なり。大久保は守成の人なり。

木戸は自動的の人なり。

大久保は他動的の人なり。

木戸は慧敏闊達の人なり。

大久保は沈黙重厚の人なり。

もし、主義をもって判別せば、木戸は進歩主義を執る者にして、

大久保は保守主義を奉ずる者なり。
             きゅうぶつ
是をもって、木戸は舊物を破壊して、百事を改革せんとする。
                                    (舊物=ふるいもの)
王政維新の論を執り、大久保はこれに反抗して、

漸次、大寳令の往時に復せんとする、王政復古の説に傾けり。

諸般の事物に対しては、その意見議論、まったく衝突し、
       おのず
その衝突は自から、二人の代表せる薩長の軋轢となり、

その軋轢は延いて、進歩主義と保守主義との一消一長を為し、

ついには維新革命の事業より、立憲政制の端をも開くに至れり。

稜線を一気に越えたかたつむり  合田瑠美子



「田中惣五郎 著作家」

明治新政府の閣僚の中、側近の力をかり、

ブレーンの力をかりることなくして、

すぐれたる見識を持ち得たものは、木戸をもって第一とするであろう。

維新後の民主的なものであって、

木戸の関与しないものは殆どない といっても過言ではない。

木戸の性格は極めて篤厚であり、長者風であった。

木戸が人に立てられるのは、その頭脳もさることながら、

より城府を設けぬ態度と、堂々たる風貌にあった。

そしてこの風貌と態度の示すごとく、彼は温厚の大人風であり、

平和裡に事を処理することを好んだ。

ひとことも自慢を言わぬ凄い人  新家完司

「三浦梧楼、陸軍中将」

情実の打破は木戸の生命である。

朝にあってもその矯正を計り、野にあってもその矯正を力め、
                             ばんこく     もた
病に臥してもなおその矯正を思い、ついに万斛の憂愁を齎らして、

泉下の客となった。
                       てんめん
かくのごとく木戸がいかに情実の纒綿を苦慮したかは、
                                  (纒綿=からみつくこと)
和歌の表にも露われている。

書状の上にも現れている。

遺言の上にも顕われている。

この遺志を継いでその矯正を計るものは、我輩をおいてはたれかある。

木戸の精神は我輩の精神である。

我輩の意志はすなわち木戸の意志に他ならぬのである。

木戸逝いて後、

またともに我が志を談ずべき友がいなくなってしまった。

我輩の情実打破のために孤軍奮闘するに至ったのは、

まったくこれがためである。

人間の樹海に足を踏み入れる  青砥たかこ  


  木戸孝允の勅撰碑明治天皇の命で建てられた)

「ミットフォード 英国人通訳」

(木戸孝允)は背が高く、その態度は不思議に人を惹きつけ、

気立てがやさしかった。

そして、教養豊かな学者で、生まれながらにして、

指導者としての力を備えていた。

彼は長州の藩士で、1868年の維新当時、

最も有名だった5~6人の中の一人であった。

神の寵愛を受ける者は、若くして死ぬ。

しかし、彼は自分の仕事が成功したのを見届け、

偉大な日本の基礎を築くのに協力するのに、

十分間に合うほどの長生きはしたのである。

私がある日本の友人に、

「これから木戸侯爵の墓に詣でるところだ」 

と話すと、彼は

「木戸侯爵はあなたにお会いするのを喜ぶでしょう」 

と答えた。私が

「侯爵はもう亡くなっているので、私に会うことはできないでしょう」 

と言うと、その友人は、

「彼の霊がそこにいるはずです」と重々しく私に反駁した。

もし本当に彼の霊がそこにいて、

葬られた場所によくあらわれるとすれば、

つい最近まで過去何世紀もの間、神秘に包まれ、

今は解放されているが、当時は下界とは遮断された聖域であった

この大きな都を見下ろし、彼があれほど勇敢に、

その一役を果たした驚くべき変革を、誇らしく思うことだろう。

虹はお空のフレスコ俯瞰図に置く  山口ろっぱ


  木戸孝允の俳句

「木戸の功績」

龍馬の斡旋で薩摩藩士・小松帯刀、西郷隆盛らと薩長同盟を結ぶ。

"うめと桜と一時に咲きし さきし花中のその苦労"
                   薩長同盟を詠った歌。(梅は長州、さくらは薩摩)

王政復古後は五箇条の御誓文の草案の作成に関与。

薩摩・長州・土佐・肥前の四藩が版籍奉還の建白書を提出したが、
その実現に木戸が一役買った。

廃藩置県でも西郷と並ぶ参議として重責を担った。

大久保利通、板垣退助らと大阪会議(明治8年)を開き、
立憲制を布くとの方針を定める。

西南戦争では事変処理にあたった。が、途中病死した。

"さつきやみあやめわかたぬ浮世の中になくは私しとほととぎす" 
                                                         (木戸孝允 辞世)
(雨雲におおわれ、雨が降り続ける梅雨の夜のように暗く、何が正しく、
    何が邪(よこしま)なのか、区別すら付けられないような、この浮世)

渦巻き線香をゆく明らかな順路  山本早苗

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化石をほぐすとこぼれ出すロマン  和田洋子



「木戸松子」 (天保14年(1843)~明治19年(1886))

〔一途に尽くして諜報活動した美貌の芸妓〕

明治維新の立て役者・木戸孝允の妻・松子は、

若狭国小浜藩士・木崎(生咲)市兵衛の二女。

母は小浜藩医・細川益庵の娘で、4男3女があったが、

父が上役の罷免に連座して閉門とされたのち、出奔したため、

母の実家で妹とともに幼少期を過ごした。

その後、父が京都にいることがわかり、再開して4人で暮らすが、
               しょだいぶ
父の病で松子は九条家諸大夫難波恒次郎の養女とされた。

引き算を重ねこころを無に保つ  高浜広川

そして恒次郎の妻が幾松を名乗った三本木の元芸妓であったこから、

舞妓に出て、14歳で二代目幾松を襲名する。

やがて三本木の名妓となった幾松は、

長州藩士・桂小五郎(木戸孝允)と出会うこととなるが、

幾松を身請け(落籍)せるおり、桂はずいぶんお金を使い、

伊藤俊輔(博文)に周旋させたとの話がある。

恋猫の雨の滴を拭いてやる  合田瑠美子



幾松は芸妓を続けながら、桂のために外交や密談の場となる宴席で、

情報収集に務める。

さらに元治元年(1864)7月の禁門の変後、探索から逃れるため、

三条大橋の下に避難した禁門の変の戦災者たちに紛れて

潜伏する桂に、幾松が握り飯を運ぶ話は有名だ。

彼女は、桂がいかなる状態になろうと献身的に庇護しつくすのである。

禁門の変後、桂が但馬国出石へ潜伏したときは、

幾松も対馬の同志にかくまわれる。

そして下関へ向うが、桂が出石にいることを知って再開を果たした。

幾松はこのおり、情報伝達の役目も担った。

平穏はいつまで菊を根分けする  高島啓子



維新の世となる、木戸は功労者の一人となった。

その木戸の正式な妻となった幾松は、松子と改名した。

そして明治2年、東京に転居する。

かって京都の名妓であった松子は美しいだけでなく、頭もよく、

心配りのできた女性で明治政府の参議となった夫をよく支えた。

また松子はもともと丈夫でなかった孝允の体調管理にも心を砕いたが、

明治10年5月、天皇に供奉して京都にいた孝允の病が再発する。

松子は看病に駆けつけるが、夫を看取ることとなり、

剃髪し翠香院と号した。

そして京都に移り住み、夫の墓守をして、44歳で病没した。

かけられた声は天啓かもしれぬ  竹内いそこ



「江良加代」 (文久2年(1862)~大正5年(1916))

〔数々の志士をとりこにした祇園一の美妓〕
                   かちょうのみや
加代は文久2年3月、京都・華頂宮家に仕える江良千尋の娘として、

祇園社のそばに生まれた。

父の千尋は、大和大路四条に道場を構え子弟に武道を教授していた。

加代は家柄ゆえか、気品に富む美貌を持ち、

また家が花街に近かったことで、

その世界に親しみ、歌舞にも優れていたという。

維新後母によって舞妓とされた加代は、

牡丹や百合の花の妍を奪うほどと評され、

祇園井筒屋の名妓・加代の名は、たちまち京洛に広まったのである。

いい線行っているなどと他人のいいかげん
                  青砥たかこ


加代にご執心となった男たちは数多いというが、
                    さいおんじきんもち
その中に、後の首相になった西園寺公望がいる。

公望は加代を正妻にしたいと、東京へ連れて行ったという。が、

西園寺家には代々正妻を迎えないとする家訓があった。

西園寺家は琵琶の宗家の家柄で、

琵琶の本尊・弁財天の嫉妬を恐れたからであった。

美しく書き足してあるエピローグ  新川弘子



加代は公望と破局したが、

豪華な着物、調度品や莫大な手切れ金とともに京都へ戻ってきた。

昭和13年のことという。

これを加代が13歳、公望26歳の時とする話もあるが、

それなら明治7,8年の頃の出来事になる。

しかし、公望は明治3年12月から同13年10月まで、

フランスに留学しているので、洋行後のことになるだろう。

美しい嘘だな永久保存する  山本昌乃

また、やはり初代首相の伊藤博文がぞっこんになり、

加代を妾にしたという話もある。

加代はそれ以前に木戸孝允と深い仲になり、

木戸夫人になれると思っていたが、木戸は明治10年病死してしまう。

木戸に代わってお金を出したのが伊藤博文だった。

加代は伊藤の金で奥女中風の衣装に、

当時は珍しかった洋犬を引いて練り歩いた、が、

2人の仲は3年もたなかったという。

人形の顔で見ていることがある  赤松ますみ



加代が伊藤博文に三行半を突きつけたのは、金の問題があったらしい。

加代は豪商・三井源右衛門に身請けされたのだ。

加代は源右衛門の妾といっても正妻と変わらぬ扱いで、

加代もまた貞淑に源右衛門に仕え、4男2女を産み、

幸せに暮らしたという。

大正5年1月に病没。三井家の墓所に葬られた。

歌舞伎役者の5代目・中村歌右衛門は、

「子どもの時に見た京都のお加代という芸者さんほど、

  美人だなぁと思った人はございません」

と語り遺している。

ワコールを外すとわたしクラゲです  美馬りゅうこ



「山川捨松」 (安政7年(1860)~大正8年(1919)

〔留学を経て仇敵に嫁いだ鹿鳴館の貴婦人〕

見合い結婚やいいなづけの存在が一般的だった時代、

周囲の反対を押し切って恋愛結婚をした人物に、

会津藩出身の山川捨松がいる。

会津戦争時は9歳、籠城戦では弾薬運びをした。

幼名は咲子であるが、岩倉使節団に随行して渡米、

このアメリカ留学時に捨松(捨てたつもりで待つ)と改名。

宣教師・レオナルド・ベーコン夫妻のもとで勉学に励んだ。

同時期に兄・健次郎もエール大学に留学中であった。

ヴァッサー大学に進学すると

「日本に対する英国の外交対策」と題し英語で講演。

卒業後は、看護学を学んだ。

何よりもまずあ行からリアリズム  柴田園江



明治15年、津田梅子と11年間のアメリカ留学から帰国した捨松は、

1年早く帰国していた永井繁子の結婚式で陸軍大臣・大山巌と出会い、

恋に落ちる。

2人は言葉の訛りが強く初めは会話にならなかったが、

英語で話すとすぐに打ち解けたという。

交際3カ月で結婚を約束した2人だったが、

巌の出身地は戊辰戦争で会津と敵対した薩摩藩。

当然、捨松の家族や周囲の友人は猛反対した。

しかし捨松の決意は固く、周囲を説得し、

鹿鳴館で盛大な結婚披露宴を開いたのである。

コバンザメそんな生き方だってある  竹内ゆみこ

こうして大山の後妻につくと3人の子宝に恵まれ、

前妻の子も含め6人の子を育て上げた。

継母が継子を虐める徳富蘆花『不如帰』のモデルであると

中傷される時期もあったが、優しい良妻賢母であった。

鹿鳴館では西洋式の礼儀作法を教え、

催されたバザーの収益金で看護婦学校を設立。

また篤志看護婦人会を発足させ、社会福祉事業に邁進した。

晩年は、梅子の津田英学塾を支援していたが、中途に死去する。

生きている過去をベタベタ貼り付けて  米山明日歌

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