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川柳的逍遥 人の世の一家言
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独房に弁才天の膝まくら  井上一筒
  

   千 代

「杉家長女・千代と松陰」

松陰の妹・千代は天保3年(1832)年に誕生。

長州藩士・児玉祐之(初之進)の妻。 後、名を「芳」と改める。

松陰の妹たちの中で最年長者という自覚から

妹たちの代表となって、よく兄の教訓に応へたという。

また千代は、松陰とは年歳の差が2つで齢も近いということもあり、

妹中でもっとも親しい仲だった。

その為かたびたび松陰は、千代宛に手紙を書いている。

明日は晴れわたしの鼻が乾くから  吉田わたる

千代は、その思い出を次のように語っている。

『私は早く縁づきましたし、今の娘さんたちのように、

  どこに嫁いっても、

  いつでも構わず生家に往き来をするというような、

  そんな事は中々出来もせず、また自分でも好みませんから、

  生家に参るようなことは滅多にありませんので、

  兄はとても私を懐かしがってくれまして、

  時々便りをくれるときには、


  今度はいつ来るか、来られるときには前以って知らせてくれ、

  待っているからなどと申してまいりました』

絵の中にぽっかり月が出ましたら  蟹口和枝

千代の嫁ぎ先は、母の瀧子が結婚するにあたって、

杉家とのつりあいから養女となった児玉家であった。

舅となった太兵衛は、非常に厳しい人とされていたので、

松陰は、千代に嫁としての心得を諭した。

「あなたの家のおばさまもお亡くなりなったのだから、

   あなたもいろいろことに心がけていなくてはいけませんよ。

   ことにおじさまも年をとって、高齢でいらっしゃるので、

   とくに孝行を尽くしなさい」

その他、2人の子の母となった千代に母としての役割、

子どもへの教育の仕方など、折りあるごとに、

長い手紙を書いている。

絵日記のかあさんの眼が凄すぎる  河村啓子

松陰刑死後、さらに3人の子に恵まれ、

二男三女の母となった千代には、義弟の久坂玄瑞の戦死、

もう1人の義弟・小田村伊之助の入牢など、

つらい出来事が続いたが、松陰の諭しを胸に立派に対応している。

明治9年当時、明治政府の方針に不満を持つ士族たちが、

「萩の乱」といわれる叛乱を起こしたときのことである。

叔父の文之進が、弟子がこの乱に参加していた責任をとり、

祖先の墓地で自決した時、千代はなんとその場に立会い、

一刀をとって介錯をしたともいわれている。

また夜になって荒れ模様の天候の中、

千代が1人であとの処理をもしたというエピソードが残る。

平静をよそおっている無表情  吉岡 民

その後、長男万吉に死なれるという悲しみも味わうが、

吉田家を相続した次男・庫三が住む東京の家の隣に家を持ち、

穏やかな晩年を過ごした。

亡くなったのは大正13年、93歳の長寿を保ち、

兄弟姉妹を見送ってのちの大往生であった。

まだ続くひと針抜きの地平線  山本早苗

「生前の松陰についてー松陰の人となりが伝わってくる、

   千代77歳の時のインタビュー記事」

 『兄・松陰は、好んで酒を飲むということはなく、

     煙草も吸わず、


     いたって謹直な人でした。

     松下村塾を主宰していたころのことです。

     ある日、門人のなかに煙管を吸う方がいたので、それを注意して、

     煙管をもっている者は、自分の前に出させ、

     松陰はそれを紙で結んでつなぎ、

     天井から吊るしていたことがあります』

無いほうがましだと思う薄情け  森 廣子

  『もとより酒は口にしなかったので、

   甘いもの、餅などを好むなどということはなかったのか、

  ということですが、私には、よくわかりません。

     特別に〝これが好物だった〟というものをあげてほしい、

     と言われても、思い浮かびません。

      兄は、いつも大食することを、自分で戒めていました。

      ですから、今の人たちのように、

       特別に「食後の運動」などを心がけなくても、

       胃を害したり、腸を痛めたりするようなことは、

       ありませんでした』

千代さんは

「70余年前の昔が偲ばれ、私も子供の時に帰るようです」

と言って、さも昔を懐かしむように話し出された。

満を持し触れてみました温くかった  田口和代

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ボクが乗ると揺れるノアの方舟  田口和代


絹本着色吉田松陰自賛肖像 (画像は拡大してご覧下さい)

幕府から杉家に、松陰を小伝馬町牢屋送りにするという

無情な報らせが届いたのは安政6(1859)年5月、

その知らせは、その日のうちに

松陰の兄・梅太郎から野山獄に収監中の松陰に伝えられた。

そしてその日から毎日のように梅太郎は松陰を励ましに通った。

一方、千代・寿・文の3人の妹は、萩を出ていく兄に、

二度会えないかも知れないという不安な思いを抱きつつ、

「心得になることを授けてほしい」と頼んだ。

それに応えて松陰が作った和歌が、
ならい
" こゝろあれや人の母たる人たちよ  かゝらん事ハ武士の習そ "

「武士の母となる妹たちよ、私のように公のために身を尽くして

   命を落とすことは武士にとって当たり前のことなのだから、

   動じないよう、心していなさい」 と言うのである。

言葉尻揺れて別れの予感する  原 洋志

まもなく、小田村伊之助久坂玄瑞は、江戸に旅発つ前に松陰を
                        ふくがわさいのすけ
実家に帰らせたいと野山獄の獄史・福川犀之助に嘆願する。

松陰の弟子でも会った犀之助は、早速、藩の奉行にかけあい、

出立の前日に一晩だけという条件で、「実家一泊」の許しが下りた。

その実家での最後の夜を、長女の千代が後にこう語っている。

「母が兄に向かって

  『江戸に行っても、どうかもう一度無事な顔を見せてくれよ』

  と申しますと、兄はにっこりとほほ笑みまして、

 『お母さん、見せましょうとも、

   必ず息災な顔をお見せ申しますから、
安心してお待ちください』 

   と事もなげに答えておりました」


隙間には春の序曲を詰めておく  松宮きらり


松陰が最後に入った杉家の風呂

続いて千代の記述である。

「父は申すまでもなく、母も気丈な人でしたから、

   心には定めし不安もあったのでしょうが、

 涙一滴こぼしもせず、


   私共に致しましても、たとえどんな事があっても、

   こういう場合に涙をこぼすということは、

   武士の家に生まれた身として、

   この上もない恥ずかしい女々しいことと考えておりますから……」

松陰の最後の夜における家族の心境を伺いしることができる。

ありふれた午後にひと駅のりすごす  山本昌乃                    


   涙松の石碑

千代が塾生らから聞いた話として、次のような話も伝わる。

獄に戻った松陰がいよいよ萩を出発し、

誰もが国との別れを惜しみ涙流したという「涙松」の峠に

さしかかったとき、松陰もまた、しみじみと故郷を振り返った。

「兄もそこまで参りますと、

  『かへらじと思ひ定めし旅なれば 一しほぬるる涙松かな』

  と詠んだというのです」

松陰が死を覚悟し、それでも実家では母を思い、

振る舞っていた姿が浮かんでくると松陰の心境をが述べている。

塩瀬の帯結んだり解いたり  森田律子


 松陰絶筆

その日松陰は、最も信頼する友であり、寿の夫である伊之助

『至誠にして動かざるは未(いま)だ之有らざるなり』

「自分は、この孟子の言葉を実践しに江戸へ行く。

   ただ幕府の取り調べを受けるのではなく、

   最上の誠の心を尽くして自分の考えを主張し、

   幕府を動かすのだ」

 と決意を述べている。

最上の誠の心を尽くせば、相手を動かすことができる、

そう信じたいと伊之助に伝えた松陰。

困難に何度直面しても、その考えを貫くことが出来たのは、

家族の至誠に一貫して、支えられ続けていたからかもしれない。

雨粒の音はあなたの鼻濁音  雨森茂喜


江戸に送られる松陰との別れの日

左から入江杉蔵、吉田栄太郎、松浦松洞、文、滝、富永有隣、松陰

「松浦亀太郎」

亀太郎は天保8年(1837)、長州藩内で魚屋を営む家に生まれ、

藩士・根来主馬に仕える。
                  むきゅう
号は松洞。名は温古(後・無窮)亀太郎は通称である。
                             はざませいがい
幼少期から絵を描くのが好きで、四条派の羽様西涯に師事。
                       かいせん
絵画を志して京都に赴くと、小田海僊から学んだ。

そして吉田松陰の肖像画を残した画伯となる。

商人の息子ながら政治や世界情勢に感心が高く、

20歳の時、松下村塾に入門。

当時の画家は「漢詩」を勉強する必要があった為に、

松下村塾に学んだが、亀太郎は画家になるよりも、

「尊王攘夷運動」にも参加する志士となった。

五言絶句は歯間ブラシも通さない  上嶋幸雀


奥の町人風が亀太郎

安政5年(1858)江戸に出ると儒学者・吉野金陵の塾で学び、

江戸の情勢を松陰に報告もしている。

9月になると幕吏に従いアメリカへの渡航を試みたが、

叶わず翌年2月に帰国。

安政6年の「安政の大獄」により、

松陰の江戸護送が決定すると、

小田村伊之助の勧めで、松陰の肖像画を描いた。

松陰は複数あった肖像画に、

賛文を書き入れて江戸へ向かったという。

松陰は亀太郎を、

「才能があって気概もあり、普通とは違う優れた男子だ」

と褒め言葉を残している。

背もたれがときどき欲しくなる此の世  桑原伸吉


絹本着色吉田松陰自賛肖像

久坂玄瑞が高杉晋作に充てた手紙では

「僕は獄におられる先生をのぞき見た。

   からだは痩せて棘々しく、髪が乱れて顔を覆っていた」 

と心配している。

しかし、亀太郎が描いた吉田松陰の肖像画は、

やつれておらず、師への尊敬の念が見受けられる。

このように制作された「吉田松陰自賛肖像」は、

形見として門下生や松陰の家族の元に届けられた。

文久2年(1862)亀太郎は、久坂玄瑞・前原一誠らと上洛し、

公武合体・開国派であった長州藩士・長井雅楽を暗殺計画に参加。

しかし、ある人から翻意を促され、京都粟田山にて切腹して果てる。

同年4月13日、松下村塾で最初の殉難となった。

享年26歳。

髭が動いたじいさまの肖像画  井上一筒 

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一升瓶並べて輪投げでもするか  新家完司


  参勤交代の図   (画像は拡大してご覧下さい)

長州藩の参勤交代による江戸入府を描いた浮世絵。
吉田松陰や高杉晋作も、この大名行列に従って江戸へ出ている。

「尊皇攘夷」

和親条約の締結から2年後の安政3年(1856)

改めて自由通商の交渉を行なうべく、

タウンゼント・ハリスが総領事として日本へ派遣されてきた。

幕府は正式な「開国」を拒否しようと、返答を先延ばすが、

ハリスは粘り強い交渉によって江戸城への登城、

新将軍・徳川13代・徳川家定との謁見にも成功。

そして安政5年、幕府は朝廷からの許しを待たずに、

「日米修好通商条約」を締結した。

共犯になるかも知れぬ耳を貸す  原 洋志               

これを皮切りに幕府は、同様の条約を英・仏・蘭・露とも結んでいく。

これに対し世論が爆発した。

「外国との戦争になっては日本の危機だ。開国はやむを得ない」

と賛同する声に対し、

「孝明天皇が攘夷を望んでいるのに、

   幕府は朝廷の許しもなく開国した」

と騒ぎ出したのは水戸藩・長州藩・薩摩藩を忠心とする

「尊皇攘夷派」の知識人であり、

それに影響を受けた若者たちであった。

これ以降、藩という枠組みに関係なく活動する若者らを指す

「志士」という存在が現れたのである。

春の熱出して罪状増えている  竹井紫乙   


二大字「尊攘」 (画像は拡大してご覧下さい)

水戸藩の藩校だった弘道館に残る書。
安政3年、水戸藩の9代藩主・徳川斉昭の命により、
水戸藩医で能書家として知られていた松延年が書いたもの。   

黒船来航以後。

「日本を外国の侵略から守れ」という思想は急激に高まっていた。

『尊王攘夷』 をスローガンに京都へ集結し、

開国派・佐幕派の者とみれば、「天誅」と叫んで、片っ端から、

斬り捨てるという過激な行動に出る者たちが現れるようになる。

尊王は「王を尊ぶ」

攘夷は「夷を打ち払う」という意味が込められている。

日本の「王」とは天皇のこと、「夷」とは外敵。

つまり外国人のことだ。

これに対し、幕府を補佐するという思想の「佐幕派」

開国すべきであるという「開国派」の思想と対立する形になった。

凹凸を約してからの不眠症  山本早苗

この思想の総本山は徳川御三家のひとつ、「水戸藩」だった。

水戸藩は江戸時代のはじめに家康の11男・徳川頼房によって

立藩した親藩である。

二代目藩主は「水戸黄門」として知られる徳川光圀で、

彼は儒学を発展させた「水戸学」を藩士たちに奨励した。

幕末において、幕政に大きく関わった徳川斉昭や、

その息子・徳川慶喜も影響を受けていた。

当の幕府内にも、佐幕ばかりとは限らず、

「尊皇攘夷」の思想を持つものが多く、

幕府存亡の危機を迎えるに当り、議論が沸騰していくことになる。

ミミズクの瞼の母は飛び去った  井上一筒

そもそも「尊王」というのは、幕末に突然生じた思想ではなく、

江戸前期から、幕府も公認の「武士の常識」だった。

幕府の将軍を任命するのは、天皇であり、

その存在を"尊い"と認めなければ、幕府にとっても都合が悪くなる。

また本居宣長平田篤胤らが確立した「国学」の普及も、

尊王思想の広がりを後押しした。

国学というのは、仏教や儒教が流入する前の、

[古来の日本人の考え方を明らかにしようとする学問] のこと。

特に豪農の間では、国学に傾倒して、

「記紀」「神道」の研究が盛んとなり、

その過程で天皇や朝廷という存在の重要性が認識されていった。

するめいか焙るとスルメ起き上がる  泉水冴子         

「攘夷」という言葉も儒学に由来する。
               いてき
周辺の野蛮な異民族(夷狄)が中国領内に侵入してきたなら、

迎え撃って追いはらうー。

この攘夷が、幕末の日本において、

「日本の独立を脅かす列強を打ち払う」

という考えに変換されたのである。

この言葉の流布にも、水戸藩が大きく関わっている。

地動説ボクは乗り物酔いをする  岡田陽一

きっかけは文政7年、水戸藩領・大津浜に英国人が上陸した事件。

これを目の当たりにした水戸藩の儒学者・会沢正志斎は、

強い衝撃を受け、

今まで別個の概念であった「尊王」と「攘夷」を併せた

「尊皇攘夷思想」を打ち出しはじめた。

異国の侵略から日本を守るため、幕府を筆頭に日本人は今こそ、

「由緒正しき天皇の下に結集して夷狄を追い払うべし」 

「天皇の国、神国である日本を異国人に汚されてはならない」

という民族意識を高める意味でも、重要な言葉であった。

虚をつかれ男拙い芸をする  上田 仁

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湯豆腐の脇をくすぐる冬の底  岩根彰子
  

   松下村塾

「松下村塾の存亡」

安政5年(1858)松陰再投獄の命令が下る。

小田村はそれを阻止しようと運動するが、覆すことは出来なかった。

(ドラマでは小田村の苦渋の厚意で松陰を投獄したとしている)

このように、松陰のために寸暇を惜しんで活動した結果、

ままならないことも多く悩みは深かった小田村だが、

松陰は、江戸に送られる前、彼の働きに、

「三度の罪を犯したときは、すべて周旋にあたってくれた。

   今度ばかりは萩へ帰る見込みもなく、何か言い残したいが、

   いろいろ思いがこみあげてどうにもならない。

   生まれた甥の端午の祝いの詩を書いて別れの言葉にしたい」

と、感謝する言葉を遺している。

小田村としても、報いられる思いがしたであろう。

耳垢がごっそり取れて春うらら  合田瑠美子



そんな小田村に松陰は、

「松下村塾のことだが」と話しかけ、

「今は閉鎖の命を受けておるが、いずれは許されよう。

   再開されれば骨折ってやってください」

と頼んでいる。さらに松陰は、

「至誠にして動かざる者、未だ之有らざるなり」 

という孟子の言葉を使って、

至誠をもって、幕府に対決する決意を吐露した書を託している。

「江戸へ行ったら、誠を尽くして話そうと思う、

   もしそれが功を奏したら、

  これを世に伝え、うまくいかなかったら焼き捨てて欲しい」

と依頼している。

もろもろの傷やがて根っこに翼にも  小林すみえ

松陰は、誠を尽くして話したにもかかわらず、

刑死してしまうわけだが、

小田村は後世に残したいと考えたのだろう。

その後、松陰の誠は弟子たちに伝えられていったのだから、

小田村の判断は正しかったということになる。

志士としての情熱には物足りないものを感じ、

「小田村の論では、なかなか納得ものではない…」
                いぬころ
「伊之助その他 政府の狗子などと言ったことはあったが」

むしろそれゆえに後を託すにふさわしいと考えたのである。

正夢にしたい素敵な夢だった  吉岡 民



安政6年(1859)松陰が再び野山獄に投じられ、

補助役の富永有隣も故郷に去ると、松下村塾は立ち行かなくなる。

事ここに及び、小田村は明倫館での仕事の一部を捨てる覚悟を決め、

松下村塾での教育にあたった。

松陰は江戸に護送される際、

小田村に塾のことを頼み、塾生たちは今後、

後のことは小田村に従うよう言い残している。

エンディングノートは多色刷にする  本多洋子

しかし、松陰の刑死に前後して有能で知られた小田村は、

藩主の側近にとりたてられ、長州藩政に深く関わることとなり、

もはや、松下村塾での教育から退かざるをえなくなる。
                                   まじまほせん
それから後、弟子たちの中でも、学問を評価された馬島甫仙

慶応元年(1865)に塾を再開させるが長続きせず、

明治にお入ると玉木文之進が再び教育にあたり、

最終的には松陰の兄・梅太郎が明治13年から、

日清戦争の前ごろまで「松下村塾」を続けた。

逆立ちをする充電をするために  前岡由美子               


 稔麿への情報依頼文

「飛耳長目」

「耳を飛ばして遠くのことを聞き、目を長くして遠くのものを見る」

ことを飛耳長目という。

つまり情報収集のことである。

松陰は兵学者として「情報」を非常に重視した。

全国を行脚し、ついには海外渡航を目論んだのも、

ひとえに情報を得るためだった。

そうして得た情報で、日本の採るべき道を模索しつづけたのである。

松下村塾では、塾生をはじめとする仲間から集まった情報をまとめ、

「飛耳長目帳」と題した。

窓口は三つ醤油味にする  山本早苗

単に情報を待つだけではなく、公用や遊学で藩外に出る仲間に

情報収集を依頼し、会うべき人物を教え、

飛脚を使う渡していたという。

『孫子』には情報の大切さを説かれているが、

自分で独自の情報ネットワークを築くことは、

今日でもなかなかできない。

力を注いだ甲斐あって松陰の情報入手の早さは、

時に藩政府をも上回っていた。

イヤホンの片方かりる待合室  河村啓子

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もう少し離れて歩け夜が明ける  森田律子


    雲浜の墓

「君が世をおもふこころの一すじにわが身ありともおもはざりけり」
                                                                          〔雲浜・辞世の句〕

「梅田雲浜」
                              よしちか
雲浜は、文化12年(1815)6月、小浜藩矢部義比の次男として誕生。
よしもと
名は義質のち定明。 

のちに矢部家を出て独立し姓を梅田とする。

そして古来より雲の浜と呼ばれた小浜の浜に因み「雲浜」を号とした。

8歳のときに藩校である「順造館」に入る。
        きもん
15歳で「崎門学」を学んだ。

崎門学は、朱子学の一派であり、尊王思想を内容とした。

16歳で江戸遊学。

江戸の藩校で崎門学を受け継いだ山口菅山に学ぶ。

ドロップの缶を抜け出したいのです  山本早苗
 
 
    順造館                

26歳で江戸の遊学を終え一旦、小浜に帰る。

矢部家から独立し梅田の姓にしたのはこの頃のことである。

その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、

大津に「湖南塾」を開いて子供を教育。

天保14年(1843)京に上り藩の名門「望楠軒」の講師となる。

これによって雲浜の名は、崎門学者として広く知られるようになった。

しかし雲浜の講学の目的はもっぱら「経世済民」にあり、

海防を初め藩政の問題点を藩主・酒井忠義に建言したことから、

かえって酒井の忌憚に触れ、

38歳で士籍を除かれ浪人となってしまう。


自分の顔だけしっかり塗り潰す  皆本 雅                      


 旅姿の雲浜像 (小浜市立雲浜小学校内)  

嘉永6年(1853)ペリー来航後、江戸で松陰らと交流する中に、

雲浜は条約反対を訴え「尊皇攘夷」を求める志士たちの先鋒となり、

幕政を厳しく批判するようになる。

安政3年(1856)には長州に赴き、坪井九右衛門、来原良蔵らに

自説を説き、長州藩を動かすことに成功する。

(このとき松陰と再会し、松下村塾の額面「松下邨塾」を書いている)

雲浜は長州滞在中に交易業を営んだ。

これは将軍に一橋慶喜擁立のための資金集めだったとも言われている。

雨粒の音はあなたの鼻濁音  雨森茂喜

そして将軍継嗣問題が起こると、

南紀派である大老・井伊直弼の謀臣・長野主膳の知るところとなり、

安政5年9月7日、「安政の大獄」で摘発される。

捕縛後は京都から江戸に送られ、小倉藩小笠原邸に預けられるが、

安政6年9月14日、獄中で脚気を悪化させて死亡する。

脚気の悪化は拷問によるもので、一週間続いた拷問で雲浜は、

固く口を閉ざし、「攘夷の大儀」としか言わなかったという。

山吹が咲いて濡れてゆくガーゼ  河村啓子


赤禰の故郷・柱島の墓

「真は誠に偽りに似、偽りは以て真に似たり」
                       赤禰武人の辞世

「裏切り者」とされた心境を、着用していた獄衣に記したとされる。

「赤禰武人」
あかねたけと
赤禰武人は天保9年(1838)岩国柱島の百姓医の子供として誕生。

安政4年(1857)、長州藩士浦家の家老・赤禰雅平の養子となる。

15歳の時に尊皇攘夷派の僧侶・月性に学び、
         うらゆきえ
月性の紹介で浦靱負「克己堂」で学ぶ。

安政3年克己堂で学んだのち、「松下村塾」開校時に入門する。

同年、萩での梅田雲浜の教議に感銘し翌年、雲浜の「望南塾」に入る。

安政5年9月、雲浜が 「安政の大獄」で幕府に捕らえられたとき、

幕吏は雲浜の家宅捜索を行ったが、 武人は関係書類をすべてを焼却し、

その他の同志に累が及ぶことを防いだ。
 
菜の花の畑に置いてきた時間  立蔵信子


   赤禰武人

赤禰もまた安政の大獄で逮捕されるが、微罪で釈放されている。

その後、松陰らに相談し、江戸において雲浜の救出を試みる、

が失敗、藩から謹慎処分を受ける。

文久2年(1862)4月、謹慎が解かれると江戸に赴いて

尊王攘夷結社、高杉晋作らの「御楯組」に加盟。

同年12月12日、赤祢、高杉、伊藤、久坂、井上を含め13名と、

攘夷の名のもと江戸品川御殿山の英国公使館の焼き討ちを行った。

「イギリス公使館焼討事件」である。

文久3年5月、長州藩は関門海峡を通過 する諸外国の商船を砲撃。

この「下関戦争」で手痛い反撃を受けるが、

長州はこれを契機として、攘夷から開国へと急展開してゆく。

そして赤禰は同年10月、「奇兵隊」の第三代総管に就任した。

これからを占うように髪を梳く  桑原伸吉

元治元年(1864)「第一次長州征伐」の後のこと、

赤禰は当時、藩政を主導していた俗論派と正義派の調停を図るが、

そのことが同志に二重スパイとして疑われる契機となる。

さらに、高杉晋作が武力により藩論の統一を図ると、

幕府の攻囲を前に、「内輪もめをしている場合でない」と、

赤禰はこれに反対し高杉と対立する。

元治元年12月、高杉による「功山寺挙兵」が成功すると、

藩内での立場を失い、出奔して上方へ脱走し、

新選組の伊藤甲子太郎のもとに身を寄せる。

隠し事はないよと足裏を見せる  竹内ゆみこ

その後、幕府方に身を寄せてた赤禰を、

幕府大目付・永井尚志や伊東甲子太郎らは、

長州藩の非戦工作に利用することを画策。

赤禰は長州尋問のために下向する永井の随員となった。

これも、赤禰が更に「裏切り者」の汚名を着る原因となった。

幕府による長州攻撃から藩を救おうと考えた赤禰は、

広島から長州に潜入し、かつての同志らと接触して、

主戦論の転換を図るが、「裏切り者」と認識されていた赤禰の言は、

全く受け入れられなかった。

そして逆賊の名のもと捕縛され、一切の取調べもなく、

慶応2年1月、赤禰は、
山口の鍔石で処刑された。 享年28。

十五年通って躓いた段差  松谷大気

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