もう少し離れて歩け夜が明ける 森田律子
雲浜の墓
「君が世をおもふこころの一すじにわが身ありともおもはざりけり」
〔雲浜・辞世の句〕
「梅田雲浜」
よしちか
雲浜は、文化12年(1815)6月、小浜藩
矢部義比の次男として誕生。
よしもと
名は
義質のち定明。
のちに矢部家を出て独立し姓を梅田とする。
そして古来より雲の浜と呼ばれた小浜の浜に因み
「雲浜」を号とした。
8歳のときに藩校である
「順造館」に入る。
きもん
15歳で
「崎門学」を学んだ。
崎門学は、朱子学の一派であり、尊王思想を内容とした。
16歳で江戸遊学。
江戸の藩校で崎門学を受け継いだ
山口菅山に学ぶ。
ドロップの缶を抜け出したいのです 山本早苗
順造館
26歳で江戸の遊学を終え一旦、小浜に帰る。
矢部家から独立し梅田の姓にしたのはこの頃のことである。
その後、祖父の家系である梅田氏を継ぎ、
大津に
「湖南塾」を開いて子供を教育。
天保14年
(1843)京に上り藩の名門
「望楠軒」の講師となる。
これによって雲浜の名は、崎門学者として広く知られるようになった。
しかし雲浜の講学の目的はもっぱら「経世済民」にあり、
海防を初め藩政の問題点を藩主・
酒井忠義に建言したことから、
かえって酒
井の忌憚に触れ、
38歳で士籍を除かれ浪人となってしまう。
自分の顔だけしっかり塗り潰す 皆本 雅
旅姿の雲浜像 (小浜市立雲浜小学校内)
嘉永6年
(1853)の
ペリー来航後、江戸で
松陰らと交流する中に、
雲浜は条約反対を訴え
「尊皇攘夷」を求める志士たちの先鋒となり、
幕政を厳しく批判するようになる。
安政3年
(1856)には長州に赴き、
坪井九右衛門、来原良蔵らに
自説を説き、長州藩を動かすことに成功する。
(このとき松陰と再会し、松下村塾の額面「松下邨塾」を書いている)
雲浜は長州滞在中に交易業を営んだ。
これは将軍に
一橋慶喜擁立のための資金集めだったとも言われている。
雨粒の音はあなたの鼻濁音 雨森茂喜
そして将軍継嗣問題が起こると、
南紀派である大老・
井伊直弼の謀臣・
長野主膳の知るところとなり、
安政5年9月7日、
「安政の大獄」で摘発される。
捕縛後は京都から江戸に送られ、小倉藩小笠原邸に預けられるが、
安政6年9月14日、獄中で脚気を悪化させて死亡する。
脚気の悪化は拷問によるもので、一週間続いた拷問で雲浜は、
固く口を閉ざし、
「攘夷の大儀」としか言わなかったという。
山吹が咲いて濡れてゆくガーゼ 河村啓子
赤禰の故郷・柱島の墓
「真は誠に偽りに似、偽りは以て真に似たり」
赤禰武人の辞世
「裏切り者」とされた心境を、着用していた獄衣に記したとされる。
「赤禰武人」
あかねたけと
赤禰武人は天保9年
(1838)岩国柱島の百姓医の子供として誕生。
安政4年(1857)、長州藩士浦家の家老・
赤禰雅平の養子となる。
15歳の時に尊皇攘夷派の僧侶・
月性に学び、
うらゆきえ
月性の紹介で
浦靱負の
「克己堂」で学ぶ。
安政3年克己堂で学んだのち、
「松下村塾」開校時に入門する。
同年、萩での
梅田雲浜の教議に感銘し翌年、雲浜の
「望南塾」に入る。
安政5年9月、雲浜が
「安政の大獄」で幕府に捕らえられたとき、
幕吏は雲浜の家宅捜索を行ったが、 武人は関係書類をすべてを焼却し、
その他の同志に累が及ぶことを防いだ。
菜の花の畑に置いてきた時間 立蔵信子
赤禰武人
赤禰もまた安政の大獄で逮捕されるが、微罪で釈放されている。
その後、
松陰らに相談し、江戸において雲浜の救出を試みる、
が失敗、藩から謹慎処分を受ける。
文久2年
(1862)4月、謹慎が解かれると江戸に赴いて
尊王攘夷結社、高杉晋作らの
「御楯組」に加盟。
同年12月12日、
赤祢、高杉、伊藤、久坂、井上を含め13名と、
攘夷の名のもと江戸品川御殿山の英国公使館の焼き討ちを行った。
「イギリス公使館焼討事件」である。
文久3年5月、長州藩は関門海峡を通過 する諸外国の商船を砲撃。
この
「下関戦争」で手痛い反撃を受けるが、
長州はこれを契機として、攘夷から開国へと急展開してゆく。
そして赤禰は同年10月、
「奇兵隊」の第三代総管に就任した。
これからを占うように髪を梳く 桑原伸吉
元治元年
(1864)の
「第一次長州征伐」の後のこと、
赤禰は当時、藩政を主導していた俗論派と正義派の調停を図るが、
そのことが同志に二重スパイとして疑われる契機となる。
さらに、
高杉晋作が武力により藩論の統一を図ると、
幕府の攻囲を前に、
「内輪もめをしている場合でない」と、
赤禰はこれに反対し高杉と対立する。
元治元年12月、高杉による
「功山寺挙兵」が成功すると、
藩内での立場を失い、出奔して上方へ脱走し、
新選組の
伊藤甲子太郎のもとに身を寄せる。
隠し事はないよと足裏を見せる 竹内ゆみこ
その後、幕府方に身を寄せてた赤禰を、
幕府大目付・
永井尚志や伊東甲子太郎らは、
長州藩の非戦工作に利用することを画策。
赤禰は長州尋問のために下向する永井の随員となった。
これも、赤禰が更に
「裏切り者」の汚名を着る原因となった。
幕府による長州攻撃から藩を救おうと考えた赤禰は、
広島から長州に潜入し、かつての同志らと接触して、
主戦論の転換を図るが、「裏切り者」と認識されていた赤禰の言は、
全く受け入れられなかった。
そして逆賊の名のもと捕縛され、
一切の取調べもなく、
慶応2年1月、赤禰は、山口の鍔石で処刑された。 享年28。
十五年通って躓いた段差 松谷大気[2回]