花屋から鳴るあと一周のゴング 山本早苗
小田原評定(又は小田原談合,小田原咄)
北条氏政、氏直、氏政の弟・氏照、重臣・伊勢貞運、伊勢定宗
秀吉が,北条氏を小田原城に攻めたとき,
城内の評定で対策が評議されたが,空しく日を過ごすのみであった。
そういう故事から小田原評定のことを、
一般にいつまでもまとまらない会議、相談を指すようになった。
『北条氏直愚将にして物に決断なく,群臣をして評議せしむれど,
空しく座談のみにて,其実に用る事能はず,遂に廃滅せり,
世にこれをとりて不成の評議を小田原評定と云へり』 (関八州古戦録)
忘れたのは昨日見えないのは明日 くんじろう
「小田原評定」
天下統一の総仕上げとして
秀吉が小田原城を包囲したときのこと、
官兵衛はその前年に
「如水」と号して隠居をしていたが、
秀吉に命じられて小田原に参陣する。
3月29日の相模山中城攻めで幕を開いた戦役は、20万を擁する
豊臣軍の一方的攻勢で推移し、
6月までに北条方の支城群は各個撃破された。
むさしおしじょう
残るは、武蔵忍城のみになった。
しかし、
上杉謙信や武田信玄も攻めあぐねた堅城は、
大軍の包囲を受けても簡単には落ちず、
焦る秀吉は、力攻めをあきらめ、和睦交渉に切り替える。
蛇行する十二指腸にビフィズス菌 岩根彰子
笠懸山の遺構からイメージした一夜城の絵と笠懸山遺構
石垣山は旧姓ー笠懸山。
石垣山は、小田原城の南西約2.8キロメートル地点に所在し、
秀吉が北条氏の小田原城攻略の際、築いた本陣のあったところであり、
その名称は城壁の石垣に由来している。
そこで秀吉は、
「石垣山一夜城」を築き、
小田原城にプレッシャーを、かける一方で、
積極的和睦交渉一本に切り替えた。
秀吉と官兵衛は、もともと無血開城を望んでおり、
かねてより和睦交渉を進めていた。
最初の使者は
宇喜多秀家。
北条氏が降伏すれば武蔵と相模の二ヶ所を安堵するという条件だった、
が、
北条氏政・氏直親子は、
「わずか二ヶ国を領するよりは、この城で死ぬ」 と拒んだ。
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次いで、
堀秀政が密使となり、相模一国を与える約束で、
北条氏重臣の
松田憲秀の内応を取り付けた。
だが密謀は露見して、憲秀は監禁されてしまう。
思案する秀吉は官兵衛に相談した。
官兵衛は
家康を推した。
氏直の正室は家康次女の
督姫であり、両家は姻戚関係にあるので、
「北条方も和議に応じるのではないか」
と官兵衛は考えたのである。
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家康はしかし、固辞した。
姻戚なるがゆえに、北条側から条件緩和を懇願されかねないこと。
かって北条氏と盟約を結びながら、今は、豊臣軍に加わり、
北条氏の恨みを買っていること。
かりに和議がなっても 家康と北条氏との間で、
何らかの密約が交わされたのではないかと疑われかねないこと。
などが辞退の理由だった。
「大納言殿は用心深いご仁なれば・・・」
そして、官兵衛が代わりの使者に指名されることになる。
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おくび
「こうなっては、噯の使者はやはりそなたに頼むほかはなそうじゃ。
受けてくれぬか」
「承知つかまつりました」
「大納言殿もお主が適任じゃと申しておるでな・・・」
首を縦に振った官兵衛はまず、
従臣の
井上九郎右衛門を使者に立て、陣中見舞いと称して、
かすづ ほうぼう
氏政・氏直親子に酒二樽と粕漬けの鋒鋩10匹を届けさせた。
父子は返礼として鉛一貫、玉薬十貫を贈った。
矢玉は不足していないという誇示だが、対話の糸口を得た官兵衛は、
答礼と称して小田原城へ乗り込んだ。
単身で、肩衣に袴を着し、身には寸鉄も帯びていない。
この道を渡るしかないから渡る 嶋澤喜八郎
おとこぎ
無謀とも思える剛胆ぶりに侠気を感取したのか、
氏政・氏直は面会に応じた。
「20余万の大軍勢を相手に、すでに百日を超える籠城。
そううん
さすがは早雲公以来五代百年にわたって、
関東に雄視してきた北条家の武名を辱めぬことと、
関白殿下も激賞してござる」
氏政・氏直の自尊心をくすぐる褒め言葉から切り出した官兵衛は、
じゅんじゅん
熱誠をこめ、武力抵抗による流血の無益を諄々と説いて、
降伏・開城を勧めた。
ささやきに迷い微熱が取れぬ耳 靏田寿子
日光一文字と北条白貝
氏政・氏直はその場での回答はしなかったものの、
官兵衛の仲介の労に
「日光一文字」の太刀と
「北条白貝」という法螺貝、
歴史書・
『吾妻鏡』 を謝礼として贈った。
徹底抗戦か、それとも降伏・開城か意見は二つに分かれて、
いわゆる
「小田原評定」へつづく。
氏政は徹底抗戦を主張して譲らなかったが、
当主の氏直は官兵衛の説得を受け入れ、
7月5日、氏政は無言で義父の家康を頼って、降伏を申し出る。
こうして小田原城は
氏政と弟・
氏照の切腹と家名存続、
城兵の命を保証することを条件に、開城された。
氏政は53歳、氏照は50歳。
くもの巣のピリリピリピリ雨上がり 斉藤和子
日光一文字 北条氏の法螺貝
『小田原城後始末』
まさたか
氏政の家臣・
松田憲秀は長男の
笠原政堯とともに、
豊臣軍への内応を、密かに約束したものの、
憲秀次男の直秀は同意せず、氏政・氏直父子に密告したため、
憲秀と政堯は城中に監禁されたまま、開城の日を迎えた。
「直秀は内応を拒んだばかりか、父を密告した親不孝ものだ。
成敗せい」
と秀吉は官兵衛に命じた。
が、官兵衛は直秀ではなく、政堯の方を斬刑に処した。
黎明の湖畔にポンと蓮の花 岡田幸男
それを知った秀吉は、官兵衛を呼んで怒声を放った。
「何ゆえに政堯を斬った!政堯はわが軍に誼を通じた者ぞ。
わしは直秀を誅せと申し付けたはずだ!」
「やや、これはとんだ聞き違いをしたようで申し訳ござりませぬ」
官兵衛は、わざと聞き間違えたふりをして、
開城前に主君を見限った政堯を斬除し、
忠義を貫き通した直秀を生かすことで、
士道の何たるかを天下に示したのである。
(老人雑話)
それは雲それは陽炎それは夢 森田律子[4回]