エキストラが居て官兵衛が光って 徳山泰子
中津城下絵図
図は幕末の城下町の様子が詳しく描かれているが、
城下町の基礎は官兵衛の時代に造られたとされる。
「黒田石垣」
築城技術が頂点を極めた戦国時代、
「築城名人」といわれた三人の人物がいる。
加藤清正・藤堂高虎・黒田官兵衛である。
石垣を
「武者返し」と呼ばれる曲線状に積み上げた
熊本城は、
名古屋城とともに清正の立てたものである。
宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城は、
高虎の建てたもので、積み上げた石垣の高さは日本一と言われる。
そして官兵衛は、居住した
中津城や
福岡城のほか、
大坂城・高松城・名護屋城・広島城などの縄張りを担当したり、
助言したりといった形で携わった。
ひとことも自慢を言わぬ凄い人 新家完司
最初に携わったと思われるのが、秀吉時代の
大坂城だ。
平地に築かれた日本最初の本格的な
「総石垣の城」であり、
石垣が三段にわたって組まれていた。
信長の安土城をも上回る壮麗な天守もあった。
その威容をみた
大友宗麟が
「三国無双」と感心して称えたという。
(大坂城については後述予定)
神様が発見される日も近い 栃尾泰子
中津城石垣
中津城石垣調査によって、築城当時の石垣が現存することが判明。
興味深いのは黒田時代の石垣と、次の細川時代の石垣が重なっていたこと。
「中津城-黒田の石垣」
秀吉の命により6郡12万石の領主として入国した豊前国中津。
官兵衛が初めての城主となった地でもあった。
それは、幾重にも堆積した土と、鬱蒼と生い茂る草木の中に
ひっそりと息を潜めていた。
そこに石垣があることは知られていたが、
いつの頃からか、下半分は土に埋まり、
上部は荒れた樹木の中でよく見えず、
石垣の前も水が溜まって人が近づける状態ではなかった。
しかし近年、市が観光に役立てようと、
埋まっていた堀を掘り下げて水を流したところ、石垣の全貌が出現。
何とその時初めて、官兵衛時代の石垣が残っていたことが判明する。
ほんものは静かに話しかけてくる 高島啓子
そして石垣は、さらなる面白い様相を見せていた。
それは、この石垣が歴史の層を成していることだった。
初代の官兵衛時代の石垣と、
次の細川忠興時代の石垣が重なっていたのである。
下方は花崗岩の自然石を積み上げた黒田時代のもの。
上部約1・2mには加工された細川時代の石垣が継ぎ足されていた。
公園の土に埋もれた蒙古班 山本早苗
右ー本丸北側のY状の目地が通る石垣
左ー川沿いの石垣には、唐原山城から運び込んだ石が使われた。
ノミなどを使わない自然石を生かした積み方は、
あのうづみ
当時最も高度とされた穴太積技法。
発掘された石垣の状態は良好で、黒田時代のものは、
九州最古の近世城郭の形を今に伝える城跡となった。
黒田と細川を対比できる石垣は、
本丸北側にある石垣のY状の目地も、以前から知られているが、
こちらは何故か、自然石の方が細川時代のものだという。
土下座なされて目ン玉からウロコ 山口ろっぱ
未加工の自然石を使う黒田時代の基本から矛盾しているが、
官兵衛は中津城築城の際、
横を流れる中瀬川上流にあった
とうばる
唐原山城の石垣も使ったという事らしい。
早く、効率的にという官兵衛ならではの知恵である。
川沿いの石垣を見ればよく分かる。
積まれているのはL字型の切り跡がある大きな石。
運んできた多くの石は川側に積まれている。
あちこちに私の串を尖らせる 小谷小雪
中津城出土遺物
秀吉との親密な関係を表す、豊臣家の家紋を象った瓦。
官兵衛が携わった城に共通するのは、まず立地にある。
海に近い場所を選び、城域に水を引いて堀として利用した点である。
中枢部の周りには、石垣を幾重にも重ねて曲輪を巡らせ、
複雑な造りとした。
官兵衛の実戦経験に基づいた縄張りは、評価が高く、
とくに官兵衛が晩年に築いた福岡城を見た加藤清正が、
「わしの城は数日で落ちるが、黒田殿の城は数十日は落ちない」
とまで言ったとする逸話も残っている。
しかし、残念ながら大坂城や姫路城などは、
官兵衛時代のものと大きく様変わりしており、
当時の情景を知ることは出来なくなっている。
吊皮に揺れているのは哲学者 西内朋月[3回]