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川柳的逍遥 人の世の一家言
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TAXI に乗ってきた高山右近  井上一筒

「こんな近くにある歴史」

高槻は阪急電車で大阪梅田から京都へ向かって15分、
NHK大河に出演中の高槻城城主・高山右近氏がこんな近くにおりました。


  高山右近記念聖堂

キリシタン墓地は「高山右近記念聖堂」から西北西へ
約100m程離れた場所にある。
大人や子供の墓が整然と配置され、
高山右近記念聖堂「二支十字を描いた木棺」などが見つかる。


二支十字を描いた木棺の蓋の墨書


高槻カトリック教会の前庭にあるユスト高山右近之像
これはイタリアの彫刻家ニコラ・アルギイによって彫られた。

テロップが流れ忘れた傘さがす  中川隆充


    野見神社

高山右近は、天正元年(1573)、父・飛騨守とともに「高槻城」に入り、
城の拡張などを行う一方、「キリスト教」を厚く保護。
家臣や領民へ布教を進め、一時、高槻は、
京都・堺と並ぶ近畿でのキリスト教布教の中心であった。
その拠点となったのが天正2年(1574)
城内の現・「野見神社」付近に飛騨守が建てた「天主教会堂」である。

宣教師・ルイス・フロイスの記録によれば、
大きな木造の教会堂と宣教師の宿舎を備え、
池のある美しい庭園の一角には、大十字架が建てられていたという。
神社東方の発掘調査では、教会に隣接していたキリシタン墓地が、
江戸時代の厚さ2メートルに及ぶ盛土の下から発見され。
棺の蓋板に墨書された二支十字や死者にそえられた木製のロザリオは、
発掘資料としては日本最古ものといわれる。

炎天をシャキシャキ崩すかき氷  美馬りゅうこ


  高山右近

「高山右近の生涯」

高山右近は、F・ザビエルによってキリスト教が日本へ伝えられた

3年後の天文21年(1552)に生まれた。

当時は戦国時代のまっただなかで、

右近の父親も小さな領主として戦いに明け暮れていた。

そんな時、彼の父はキリスト教に出会い信仰するようになる。

そして、摂津高山に生まれた右近は、12歳で洗礼を受け、

ジュスト(義人の意)の霊名を受けた。

この洗礼は父、高山飛騨守の意向によるものであった。

飾りボタンは校則が嫌いです  森田律子

この信仰に領主でもある右近に厳しい試練が訪れる。

天正6年(1578)荒木村重信長に謀反を起こすと、

右近は当時主君であった村重への忠誠を示すために、

妹と長男を人質に出して、これを翻意させようと尽力するが、

失敗する。右近26歳のときであった。

一方、信長は右近が自分に降下しなければ、

「宣教師とキリシタンを皆殺しにする」

と脅してきたのである。

悩む右近は城内にあった聖堂に籠り、祈り、

最後は武士を捨てる決心をし、

着物の下に着込んでいた紙の衣一枚で信長の前に下りた。

青に青重ねて深海魚になる  中野六助

こうして信長の下に全てを捨てた右近だったが、事態は好転する。

信長の気まぐれな気分で人質は解放され、

 再び高槻城主として活躍する場が信長によって与えられたのである。

この後、約10年間ほどはキリシタン大名として名実ともに活躍した。

安土城下でセミナリオ(神学校)の設立に尽力し、

高槻の領民の教化に務め、 貧しい人の葬儀の先頭に立つなどして、

キリスト教精神の「愛」を実践した結果、

領民の7割がキリシタンになっていた。

のり代をたっぷりとって受けとめる  笠嶋恵美子

その後、天正15年(1587)7月、突如、

秀吉より「バテレン追放令」が発布される。

棄教を迫られた右近は、

「現世においてはいかなる立場に置かれようと、

   キリシタンをやめはしない。

   霊魂の救済のためには、たとえ乞食となり、

   司祭たちのように追放に処せられようとも、なんら悔いはない」

と答えたため、領土を剥奪され、追放され、流浪の身となる。

ごっくんと飲み干す哀しみの記憶  山口ろっぱ

翌天正16年、加賀の前田利家の招きにより金沢に身を預け、

「南坊」の名で茶道と宣教に没頭した。

慶長17年(1612)、徳川幕府が「キリシタン禁教令」を発布、

続き慶長19年にキリシタン・「国外追放令」が出され、

右近は前田家に迷惑がかかるとし、極寒の中、

京都、坂本、大坂へと歩き、そこから船で長崎に入る。

そこからマニラへ向かい、43日後に到着、

マニラでは、ルソン総督らから大歓迎を受けたが、

苦難の道中と不慣れな南国の風土・食物のために身体を弱め、

到着後40日ほどで熱病にかかり、慶長20年2月3日、

63歳の生涯を閉じた。

野たれ死にしても笑っているつもり  和田洋子


    現代劇場

現代劇場の大ホールはセミナリヨ跡、文化ホールは司祭館跡。

この現代劇場では、毎月の第三木曜日、結社「卯の花」主催の句会が
催されている。ここに参加されている川柳人の皆様は、
「こんな近くにある歴史」を見ましたか。
これより歴史公園に入ってみましょう。

    
公園の入口手前に立つ高槻城に関する説明板と高槻城跡石碑

1573年には高山氏が町屋をも堀で囲いこんだ堅固な城を築城した。
現在の「槻の木高校あたりが高槻城の本丸があった」ところとされ、
槻の木高校の敷地に隣接して「高槻城址」の石碑が建てられている。
その東側の城跡は現在「高槻城跡公園」となっており、
歴史資料館なども整備されている。


   右近説明板

まず、しっかり読んで右近になじみましょう。


    右近像

キリシタン大名の姿で立っている。


城跡公園内の池と復興された天守台

天守があったのはこの場所ではなく、隣接の高校の敷地内にあった。

「城跡公園へ」



城跡公園の奥には日本庭園的な空間がある。
尚、城跡公園横の高校グラウンドは、
戦時中は陸軍工兵第四聯隊の駐屯地だったとのこと。
記念碑が立っている。




高槻城詳細マップに描かれている御殿・天守・門・櫓・堀などは、
残っていないが、「八幡宮」「野見神社」「本行寺」は現存する。


 しろあと歴史館   (入場無料)

歴史観の主な展示品


 高槻城の石垣基礎  右下の3つのみが実際に発掘された石垣石。

その他
キリシタンの遺骸とロザリオ
発掘された鯱瓦
伝右近のチョッキ    
伝右近の笠
高山右近書状    
高山右近手製の茶杓
田原レイマンの墓碑
江戸時代の火縄銃や銃弾
鎌倉時代の刀工「了戒」作と言われる日本刀。
江戸時代のものと思われる兜
                           などなど

 キリシタン墓地跡

高槻商工会議所の敷地内に「天主堂跡」の碑が建てられている。
ここが実際のキリシタンの墓地があった所で、
ここで発掘されたキリシタンの遺骨ロザリオなどは、
城跡公園北側・「しろあと歴史館」で見ることができる。

点描の一つひとつにある宇宙  嶋澤喜八郎

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不条理を問えば天から降る霰  森 廣子


フランシスコ・ザビエル

「官兵衛とキリスト教」

日本にポルトガルから「キリスト教」がもたらされたのは、

天文18年(1549)のことである。

イエズス会の宣教師であるフランシスコ・ザビエルは、

大友宗麟の庇護を受けて、キリスト教の布教に努めた。

その甲斐があってキリスト教は九州を端緒として日本各地に広まった。

ザビエル自身は、布教のための道を開いた段階で日本を去ったが、

そのあと来日したパードレ(司祭)、すなわちバテレン(伴天連)、

イルマン(修道士)たちによって、

キリスト教は着実に根を下ろしていった。

乾いた梅雨にやっとお湿り  武智三成

こうして天正10年には、都で2万5千人、豊後で1万人、

九州で11万5千人、合計で15万人のキリスト教徒が生まれた。

そして、キリスト教の信仰は戦国大名の間にも広がりをみせていく。

そうした中、

イエズス会・宣教師のルイス・フロイス「日本史」には、

官兵衛のことが記されている。

根を張った幹が世界を左右する  神野節子

「受洗した者のうちには、関白の顧問を勤める一人の貴人がいた。

   彼は優れた才能の持ち主であり、

  それがために万人の尊敬を集めていた。

   関白(秀吉)と山口の国主(毛利輝元)との間の和平は、

   この人物を通じて成立したのであり、

   彼は播磨の国に非常に多くの封禄を有している。     

   彼の心を動かしたのは、ジュスト(高山右近)であり、       

  アゴステイノ(小西行長)が彼を受洗へ導いたのであった。

  この貴人は,小寺シメアン(官兵衛)と称した」 

ちなみに高山右近は、飛騨の蒲生氏郷も受洗へ導いている。

ステップの向こうに夢が続いてる  菱木 誠


             洗礼儀式

上述のごとく官兵衛がキリシタンであったことはよく知られている。

官兵衛が入信したのは、天正11年(1583)頃とされ、

毛利氏との領土確定問題や、大坂城普請などに奔走していた時期だ。

大阪あたりで小西行長、蒲生氏郷、高山右近らの誘いを受けた,

と考えれば、フロイスの記述とも一致する。

洗礼名はドン・シメオン(Simeon josui)という

ローマ字印を用いた。

シメオンとは「聞く、耳を傾ける」という意味であり、

「josui」は出家後の号である「如水をローマ字にしたもの」

である。

(このローマ字印を押した書状が今も残っている)

ゴキブリに名前を付けて満ちている  藤本秋声

ちなみに天正6年、官兵衛が荒木村重の説得のために単身、

有岡城に赴いたのは、二人がキリシタン同士であったからだ、

という説が存在したが、官兵衛が入信するのはその5年後であり、

また最近では、村重がキリシタンであったことが疑われている。

官兵衛は家臣や領民に対し、キリスト教を熱心に勧めたという。

彼がキリスト教の何に強く惹かれたのかは、わからないが、

あるいは有岡城での幽閉体験が影響していたのかも知れない。

こだわりは愛偏屈は葬ろう  伊東志乃

天正15年には息子の長政(ダミアン)

弟の直之(パウロ)も洗礼を受けた。

官兵衛のキリシタンとしての心構えを、

フロイスは次のように記している。

「そなたが予を父と思い、とりわけ何事かにおいて、

   予を喜ばせようと欲するならば、

   そなた、ただちにキリシタンの説教を聴いてもらいたい。

   だが、そなたをキリシタンになることを,

   強制しようとは思っていない。


   それは、我らの主なるデウス様がそなたに与え給うはずの御恵みと、

   聴聞した教えについての理解のほどに待つべきことだからである」

官兵衛は長政にキリスト教の入信を強要せず、

その自主性に任せている。

しかし、結果的に長政は,キリスト教を信仰するに至っている。

淋しくていつも誰かを愛してる  中村幸彦

(画面を拡大してお読み下さい)
官兵衛の信仰の心

「秀吉とキリスト教」

奇しくも長政らがキリスト教に入信した天正15年6月、

秀吉は突如「バテレン追放令」を発布した。

これにより官兵衛は直ちに棄教したが、

高山右近のように信仰を捨てない者もあった。

最終的に右近は、迫害を避けるためフィリピンのマニラに逃れた。

人という合せ鏡にある迷路  次井義泰

官兵衛は信仰を捨てたものの、

キリシタン大名の小西行長の遺臣らを保護し、

また遺言では、博多の教会への寄付を命じている。

さらに弟の直之は、秋月の領地を拝領しても、

キリスト教を保護し、領内にレジデンス(司祭館)を建設するなど、

生涯、キリシタンを通した。

「汝の敵を愛せよ」はキリスト教の基本的教え。

向日葵も夜には雫するのです  杉浦多津子

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福助の耳の埃は拭かぬよう  くんじろう


   豊臣秀吉

「関白・豊臣秀吉」

本能寺の変後、明智光秀を討ったのは羽柴秀吉である。

秀吉は、「山崎の戦い」で光秀を討ち、さらに翌天正11年4月、

「賤ヶ岳の戦い」で対抗馬の柴田勝家を倒し、

信長の後継者としての地歩を固めた。
               のぶかつ
その後、信長の遺児・信雄と結んだ家康と小牧・長久手で

戦うことになるが、秀吉の天下統一の方向で進んでいった。

宝石箱を満たす足りないものは何 前岡由美子

事実、「小牧・長久手の戦い」の直後、

秀吉は従三位、権大納言となっている。

秀吉は朝廷内の官位でほかの大名たちの上に立とうとした。

そして、天正13年7月、従一位に叙され、

「関白」に任官したのである。

それまで、藤原氏以外の人間が関白になったことはない。
       ゆうし
近衛前久の猶子となって便宜的に藤原氏となり、

「藤原秀吉」ととして関白になったのだ。

しかし、その直後、秀吉は新たに豊臣の姓を与えられ、

「豊臣秀吉」として関白政権をスタートさせた。

心が動く時的だって動く  杉山太郎         


   聚楽第行幸

関白・秀吉政権の施策の特徴は、一つは官位による大名編成である。

天正16年4月の後陽成天皇の聚楽第行幸は、

そのピークをなすものである。

諸大名たちは後陽成天皇の前で、関白秀吉への臣従を誓わせられた。

秀吉が従一位関白で、以下、信雄が正二位内大臣、

家康が従二位権大納言というように、

官位によってランクづけがなされ、

秀吉をトップとする大名編成の原則がうちたてられた。

青い空どんな夢でも描けそうだ 河村啓子 
                   おくりょうごくそうぶじれい
もう一つの特徴は、「関東・奥両国惣無事令」の発布に典型的な、

関白としての論理を前面にだした大名支配である。

「関東・奥両国惣無事令」というのは、現存する文書からすると、

天正15年12月3日に出されている。

「惣無事」とは、戦いのないという意味で、

私戦停止令として位置づけられている。

つまり秀吉が、

「関白としての権限において、

関東と出羽・陸奥においては、今後、私戦を禁止する」

としたものである。

秀吉が、関白の論理で全国支配に乗り出したことを物語る。

もぐら叩きかだるま落としか決まらない 大沼和子

ほか、秀吉の施策で代表的なものに、

「太閤検地」と「身分固定化」がある。

太閤検地で秀吉は、ただ土地の面積と収穫量を調査しただけでなく、

検地帳に登録された耕作者を百姓とし、それを年貢負担者と定めた。

続いて秀吉は、身分統制令を出している。

これは、侍・中間・小者などが新たに農民や町民になること、

逆に農民が耕作を放棄して、商人になることなどを、

禁止したものである。

これが、江戸時代の士農工商の身分の原点になる。

竹串がスッと通れば春ですね  米山明日歌

秀吉自身は周知のように貧しい農民の子から身をおこし、

ついには、関白にまでなったわけであるが、

自らが天下統一を成し遂げると、

再び自分と同じような人間が生まれる可能性を否定した。

秀吉は、自分が下克上でのしあがりながら、

下克上の社会を否定したことになる。

これらの政令以前に秀吉は、「刀狩り令」を出している。

これもまた、いつまた下克上の嵐が吹き荒れるかもしれないという、

秀吉の不安感を持っていた現れとされる。

じゃこ食って骨と根性太くする  新家完司

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尺骨を弾けば六段の調べ  井上一筒


                       ごうすなりかぶと
 官兵衛とともに歴戦を戦い抜いてきた合子形兜

稀代の軍師・官兵衛が人並み外れて優れていたのは、

戦略や城下町づくりだけではなく、人心掌握術に長けていたことが、

黒田家譜や名将言行録によって伺い知ることができる。

「官兵衛の名言」

官兵衛と唯一の妻であるの間に生まれた嫡男・長政

幼少期を人質として過ごし、数々の武功をあげる武将へと成長した。

官兵衛は、そんな長政を頼もしく思いながら、

折にふれて、その猪突猛進な戦いぶりを窘めている。

悪口にぐっしょり濡れるのも修行  新家完司

官兵衛が長政に残した教えの一つに、

【大将たる人は、威と云うものなくては万人の押さへ成り難し】

というものがある。

これは、大将に威厳がなければ多くの人を統率することはできない。

というリーダーに必要な能力を明確に言っている。

さらに、
 こしらえ
【拵え事で、いかにも威を身につけたようにふるまってみても、

   それはかえって大きな害になるものだ】

と続く、他人から恐れられることが、威厳だと勘違いすると、

誰に対しても威張りちらすようになり、

誰も忠義を尽くそうとしなくなる。

と官兵衛は考えていた。

私のノートだどうだ重いだろう  居谷真理子

なお官兵衛は、本当の威厳とは、

【自分の行状を正しくし、理非賞罰をはっきりさせれば、

   叱ったり脅したりしなくても家臣は自然に自分を敬うようになり、

   法を軽んじるものもいなくなる。

   故に、自然と威厳が備わるもの】

と考えていた。

積み上げたノートがわたくしの地層  勝又恭子


長政が愛用した黒漆塗桃形大水牛脇立兜
        ひでり
【夏の火鉢、旱の傘ということを 能々味はい堪忍を守らざれば、

   士の我に服せぬものぞ】

暑い夏に火鉢は役に立たず。

同様に旱のときは傘はいらない。

しかし、必ずそれが必要になるときがくる。

家臣も同じで、そこをよく考え、無駄だと思えることも、

続ける忍耐力がなければ、人はついてこない。

夏の火鉢、旱の傘ということを 

よく味い堪忍を守らなければ、士は自分に従いてこないものだ。

真っ直ぐに歩いた路を子に残す  西田百合子      

官兵衛の民政は、

【神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下百姓の罰】

という考えを基本にしている。

主君への忠節が一番だった武士の世の中で、

官兵衛は神や主君罰以上に、臣下や百姓の罰は、

恐ろしいものだと言っている。

神や主君の罰は、功績と引き換えに許されるかもしれない。

しかし、為政者が間違った判断や政治を続ければ、

人々の心は次第に離れる。 

家臣や民の心が離れていくことが何よりも恐ろしいこと、

慈しみ気配りを忘れるな、とこれもまた、長政に説いた言葉である。

(官兵衛の名言まだまだあります。続きは後日に)

流れる雲と反省会をしています  西澤知子  

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しがらみを解いて手毬がよく弾む  土屋紀世子

「清洲会議における丹羽長秀の立場」

清洲会議の出席者は柴田勝家、羽柴秀吉、丹羽長秀、池田恒興の4人。

秀吉 対 勝家の主導権争いという形となる。
                      のぶかつ
後継者の資格では、信長の次男の信雄と三男の信孝

どちらも凡庸な人物で、多少ましな信孝を後継者に、勝家は指名。

対して、秀吉は信長の嫡男・信忠の子、三法師を推す。

滝川一益が欠席なので、3票とれば勝ちとなる。

思うこと誰も同じか穴子ずし  原 洋志

恒興の票は、諸々の絆から秀吉にいくものとほぼ確定している。

ここで、丹羽長秀の意見が重要となってくるのである。

この会議の前、長秀はすでに秀吉から内々に話を受けており、

秀吉につく内諾をしていた。

この約束にもとづいて、長秀は秀吉の主張を推し、

反論しようとする勝家に

「明智を討ったのは秀吉である」

と痛烈な一言を浴びせて、勝家を面破した。

みくびった雑魚に根幹握られる  上田 仁


  丹羽長秀

常識で判断すれば、成り上がり者の秀吉の下風に立つよりも、

長い間共に織田家に仕えていた譜代の勝家に協力するのが自然な形。

ところが、長秀は秀吉の内応依頼を簡単に承諾している。

長秀は何を思って秀吉に協力したのだろうか。

同じ譜代の家老でも、勝家は武力に優れた武将である一方、

長秀はあまり武に秀でた才はない。

数々の武功をたて、勝家の周りには、

佐久間盛政・佐々成政・滝川一益らが彼を慕って、

集団を形成している。

対して、各地の戦地において大きな手柄のない長秀は

信長の晩年は、手伝い戦や政治的用向きがほとんどであった。

手の皺に見つけた過去の深呼吸  山下和之

そして、明智軍との戦いでは秀吉の才能を間近で見て、

武力、知力、人徳といった秀吉の器量を身をもって感じたのだろう。

さらに、こうした周辺事情を考えあわせれば・・・。

勝家が実権を握った場合、

彼が率いていた北陸方面軍の佐々成政・佐久間盛政・前田利家や、

勝家を慕う滝川一益らが政権を握るようになり、

自分の出る幕はない。

一方、秀吉の性格から、秀吉に実権を握らせてやれば、

山崎の合戦に従軍したことや、

清洲会議で秀吉を推してやったことなどから、

決して悪いようには扱わないだろうし、

相談役として重く用いられるだろう。

長秀はそう考えたのではないだろうか。

八転びしても明日を信じたい  嶋澤喜八郎

「清須会議のもう一つの争点」-領地配分

信長死後の領地の配分おいて、

柴田勝家は、越前と近江・長浜を手に入れ、

秀吉は、播磨・山城・河内・丹波を所領に。

丹羽長秀は、若狭に加えて近江二郡を得、

池田恒興は、摂津の池田・有岡(伊丹)に加えて、

大坂・尼崎・兵庫といった摂津・河内の大半を獲得。

織田信孝は、美濃国全域を所領し、織田信雄は伊勢に尾張を加えた。

三法師の守役を務める 重臣の堀秀政も、

丹羽長秀の本領から、20万石を貰いうけ近江坂田郡も手にした。

ドクダミの白は秘策を抱いている  美馬りゅうこ

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