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川柳的逍遥 人の世の一家言
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褒めことば拡大コピーしておこう  新家完司  


    奢る秀吉 (醍醐の花見)

脇に5人の女を侍らせ三成に酒をつがせる秀吉。 
この頃、秀吉は何もかも三成の言うがままだった。

「秀吉の観兵衛観」          

秀吉は、お伽衆の前で、

「わしが死ねば誰がわしに代わって天下を保ったらよいと思うか。

  試みに、はばかることなく申してみよ」

と言った。

そこでお伽衆が、口ぐちにあげたのが、

徳川家康・前田利家・毛利輝元・宇喜多秀家・小早川隆景

と五大老の範囲内であった。

すると秀吉は頭をふって、

「いや、一人だけ天下を得る者がある。

   お前たちはそれを分からぬのか」

と言った。

年波に揺れるなぎさの枯れすすき  皆本 雅

一同は首を傾げ、「わかりませぬ」 と答えると。

秀吉は、「あのちんばが天下を得るだろう」

と言った。 一同は、

「あの人はわずか十万石です。どうして天下人になどなれましょうか」

と不思議がると。秀吉は

「お前たちは、あの男の恐ろしさをよく知らぬのだ。

  わしがかつて備中高松を攻めたとき、信長様の訃音が届いた。

 あの男はわしの耳元で囁きよったは、『殿の天下がまいりましたな』

 と、それで昼夜兼行で東上し、明智を伐ち滅ぼした」

握りつぶしたトマトからサンライズ  井上一筒

「以来、交戦大小数回にあった。

   わしは大切な場に臨んで、息がつまるような思いに迫られ、

   謀も、あれやこれやと決めかねることがあった。

  そういう時にあのちんばに尋ねると、たちどころに裁断して、

  考えることはいささか粗忽で荒っぽいが、

  ことどとく、わしが練りに練ったものと相通じていた。

  またある場合は、はるかに意表をつくものさえ数回あった。

  まあその心は剛健で、よく人に任せ、度量がひろく思慮がふかく、

  これは天下に比類がない。

  わしの在世中であっても、あの男がもし望めば、

  すぐに天下を得るであろう。


  わしがアレをみていると、諸大名中のつまらぬ者と親しみを結んで、

  あえて偉ぶった風を装うということがない」

線引きをするから視野が狭くなる  喜田准一

「また才智ある者に会えば、交わりを結び、
                   ひせん
   相手が卑賤な身分の者でも、礼儀を欠くことはない。

   ちょうどよい時をはかり、時乱に乗じて人に粉骨努力させる。

   また半ばを手に入れたとなると、

   それから先は猛然とのしかかっていって、

 一挙に手中に収めるというやり口は、

 あのちんばのもっとも勝れていることろだ」

卑賤=身分や地位が低く,貧しく、いやしいさま。

欲という魔物を追ってまだ生きる  森 廣子



お伽衆のひとり、山名禅高がこれを官兵衛に告げると、

「南無三宝、これはわが家の禍の基だ。
      かさたま
  わしは「痘頭の晒しもの」という目印がある。

  これが秀吉に狙われているのだな。

  そうと知っては、子孫のために将来の計をたてねばならぬ」

と言って、勘兵衛は髪を剃り落とした。

「いまの世に怖ろしいものは徳川と黒田だ。

  しかし徳川は温和な人である。

   黒田の瘡天窓は、どうも心を許しがたい人間だ」

秀吉はここまで官兵衛に対し、強烈な愛憎を抱ていた。

痘頭=頭にあるあばた(痣)

瘡天窓=梅毒で髪が抜けた頭

逆立ちで正しい位置に戻す臍  八上桐子

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隠し事はないよと足裏を見せる  竹内ゆみこ


   聚楽第図屏風 (三井記念美術館)

天正の事件簿・ 「聚楽第落書事件」

天正17年3月、何者かによって聚楽第南の鉄門に、

関白秀吉を中傷する落首が大書されるという事件が起きた。

その内容は不明だが、二年後にも京の市中で

『末世とは 別にはあらじ木下の 猿関白を見るにつけても』とか

『押し付けていえあばいわるる十楽(聚楽)の内は一楽もなし』

などと言った秀吉誹謗の落首が出回ったことがある。

激怒した秀吉は、

「警護の番士たちが気付かぬはずがない、知っていて見逃したのだろう」

と激しく警護の番士を詮議したあげく、

鼻を削ぎ、耳を削ぎ、逆さ磔に処した。

さらに、秀吉は犯人たちを徹底的に追及し、

石山本願寺に隠れていた一味を捕らえ、京都六条河原で磔にした。

五分でバレるこめかみのこんたん  酒井かがり


銀箔押一の谷形兜をかぶった長政(福岡博物館)

「官兵衛・隠居」

「聚楽第落首事件」が起きた同年の天正17年(1589)5月、

官兵衛秀吉に隠居願いを申し出た。

官兵衛44歳のとき、長政に家督を譲るというのである。

「人間五十年」といわれた時代とはいえ、

まだ官兵衛には、活躍の余地が十分にあった齢である。

その背景について、『黒田家譜』は、

「(官兵衛が)早くから引退を決めたことは、

       利欲が薄くその心の広さを示す」 とする。

しかし、これは表面的な理由で、実際には別に事情があった。

秀吉やその家臣が官兵衛の巧妙や英才を恐れ、妬むものが多かった。

そこで官兵衛はその災いを避けるため、敢えて引退の道を選んだ、

ものと考えられている。

後はただ月に戻っていく戦士  森 茂俊

現実的に考えた場合、わずか12万石の所領しか持たない官兵衛が、

天下を差配する可能性があったのだろうか。

当時、大禄を食んでいたのは、

家康・毛利輝元・島津義久らの面々である。

彼らが叛旗を翻すなら、妥当性があるものの、

官兵衛にそこまでの力があったかは疑問である。

たしかに、官兵衛の功績は特筆すべきものがあるが、

秀吉に叛旗を翻すには、規模は小さすぎるのである。

五頭身あればあさってが見える  清水すみれ

秀吉に家督譲与を願い出た官兵衛は、当初、許可されなかった。

小田原に北条がという目の上の瘤もあり、

天下統一のまだ途上である。

今後も官兵衛を頼りにしたい秀吉にとっては、当然のことだった。

そこで官兵衛は、秀吉の妻・北政所に口添えを願った。

こうしてようやく官兵衛は、長政への家督譲与を認められたのである。

しかし、秀吉は家督譲与を認めたものの、

楽隠居は許さなかった。

嬉しくて光り悲しくても光  嶋澤喜八郎       

一般的に家督譲与の契機は、当主の死、病、出家等々による。

官兵衛が引退を決意したのは、荒木村重に有岡城で幽閉された際に、

身体が不自由になったことも理由の一つだったのかもしれない。

理由は何であれ、官兵衛は領国支配の実権を長政に譲り、

自身は後見人的な立場に退いたのである。

同年、官兵衛は出家して「如水軒」と号した。

翌天正18年6月に、23歳の長政が従五位下甲斐守に叙された。

二条駅スライスポテトの厚みかな  岩田多佳子
                    すて
この天正17年には、淀君が秀吉の嫡子となる(鶴松)を産んでいる。

この出産を喜んだ秀吉から、淀君は山城国淀城を賜り、

以後「淀の方」と呼ばれるようになった。

しかし、鶴松は天正19年に死亡する。

このころから、秀吉の行動は益々常軌を逸するようになり、

そのとばっちりの先にあったのが、

「聚楽第落書事件」の八つ当たりであった。

シェアハウスの壁から歩く道標  高橋 蘭

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涙こぼれます天地無用に願います  美馬りゅうこ
  

        晩年の秀吉像

「官兵衛を恐れた秀吉」

「お前は弟の小一郎(秀長)と同じように心安く思っている」

これは天正5年7月に官兵衛に宛てた秀吉の手紙である。

この時点では、秀吉と官兵衛の仲は順風満帆だった。

しかし5年後には、官兵衛に対する気持ちが一転する。

天正10年(1582)「本能寺で信長死す」の報が入ると、

陣中にあった秀吉は激しく動揺し、取り乱した。

あまりに急な事態に、どうしていいか分からない秀吉に対し、

官兵衛は「御運が開かれる機会が参りましたな」と耳打ちをした。 

この一言で秀吉は、自分が何をすべきかに気付き、

落ち着きを取り戻して「中国大返し」を敢行した。

瘡蓋がはがれるまでのノーサイド  寺川弘一

しかし、これを機に秀吉は、官兵衛の知謀を恐れ、

警戒するようになる。

官兵衛は秀吉のもとで、さまざまな功績を立てたが、

最大で12万石しか与えられなかった。

周囲の物が秀吉にとりなすと、

秀吉は、

「ちんば(官兵衛)に高禄をやれば天下を取りよるわい」

と苦々しく言ったという。

これが顕著な秀吉の官兵衛観である。

疑問符が刺さったままの喉仏  山野寿之  
              

  秀吉の腰掛椅子

ここから秀吉の天下人への道がひろがっていったとされる幸運な石。

あるとき官兵衛は、秀吉のお伽衆のひとり、山名禅高から秀吉が、

「自分の死後、天下を狙う者は官兵衛である」

と言ったことを聞かされ。(故郷物語)

さらに有名なところでは、秀吉が、

「わし代わって、次に天下を治めるのは誰であろうか」

と、家臣に尋ねたことがあった。

家臣たちは即座に家康前田利家の名を挙げた。

しかし秀吉は、

「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」

と官兵衛の名を挙げたという。

骨切りの音もかすかに東入る  山本早苗

さらに、家臣たちが官兵衛が小身の大名に過ぎないと述べたところ、

秀吉は、

「官兵衛に百万石を与えたらすぐにでも天下を奪ってしまうだろう」

と答えている。(名将言行録)

いかに秀吉が官兵衛を警戒していたかが伺える。

名将言行録を続けて開くと、

「秀吉が言うには、常に恐ろしいのは家康と官兵衛である。

   しかし、家康は温和な人物である。

   黒田の瘡天窓は何とも心を許しがたい男である」

と記されている。

直視するには痛いひかりである妬心  たむらあきこ  
      
このような才覚を持つ官兵衛に対し、小早川隆景

「貴殿はあまりに頭が良く、物事を即断即決してしまうから、

   後悔することも多い。

   私は貴殿ほど切れ者ではないから、

   十分に時間をかけたうえで判断するので後悔することが少ない」

と指摘したことがある。

これには官兵衛も感心したようで、2人は親交を深めた。

関ヶ原の3年前に隆景が死んだ時は、

「これで日本に賢人はいなくなった」

と官兵衛は嘆いたという。 

黒い目が目立ち過ぎてる白い魚  ふじのひろし


   蒲生氏郷

官兵衛と同じく秀吉に才覚を恐れられたと伝わるのが、

蒲生氏郷である。

氏郷は信長も、その聡明さを認めた人物で、

秀吉は彼に会津92万石を与えたが、

「氏郷を上方に置いておくわけにはかぬ」

と側近に漏らしたという。
 
「三国志」の英雄、曹操楊修という参謀が、

自分が撤退命令を下す前に撤退の支度をするなど、

ことごとく先を読んだ言動をしたので、

ついに処刑してしまったとされる。

古今、権力者が自分より優れた人物を警戒するのは、

道理かもしれない。

理由など誰かが後で考える  小嶋あきら

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エキストラが居て官兵衛が光って  徳山泰子


 中津城下絵図

図は幕末の城下町の様子が詳しく描かれているが、
城下町の基礎は官兵衛の時代に造られたとされる。

「黒田石垣」

築城技術が頂点を極めた戦国時代、

「築城名人」といわれた三人の人物がいる。

加藤清正・藤堂高虎・黒田官兵衛である。

石垣を「武者返し」と呼ばれる曲線状に積み上げた熊本城は、

名古屋城とともに清正の立てたものである。

宇和島城・今治城・篠山城・津城・伊賀上野城・膳所城は、

高虎の建てたもので、積み上げた石垣の高さは日本一と言われる。

そして官兵衛は、居住した中津城福岡城のほか、

大坂城・高松城・名護屋城・広島城などの縄張りを担当したり、

助言したりといった形で携わった。

ひとことも自慢を言わぬ凄い人  新家完司

最初に携わったと思われるのが、秀吉時代の大坂城だ。

平地に築かれた日本最初の本格的な「総石垣の城」であり、

石垣が三段にわたって組まれていた。

信長の安土城をも上回る壮麗な天守もあった。

その威容をみた大友宗麟「三国無双」と感心して称えたという。

(大坂城については後述予定)

神様が発見される日も近い  栃尾泰子


中津城石垣

中津城石垣調査によって、築城当時の石垣が現存することが判明。
興味深いのは黒田時代の石垣と、次の細川時代の石垣が重なっていたこと。

「中津城-黒田の石垣」

秀吉の命により6郡12万石の領主として入国した豊前国中津。

官兵衛が初めての城主となった地でもあった。

それは、幾重にも堆積した土と、鬱蒼と生い茂る草木の中に

ひっそりと息を潜めていた。

そこに石垣があることは知られていたが、

いつの頃からか、下半分は土に埋まり、

上部は荒れた樹木の中でよく見えず、

石垣の前も水が溜まって人が近づける状態ではなかった。

しかし近年、市が観光に役立てようと、

埋まっていた堀を掘り下げて水を流したところ、石垣の全貌が出現。

何とその時初めて、官兵衛時代の石垣が残っていたことが判明する。

ほんものは静かに話しかけてくる  高島啓子

そして石垣は、さらなる面白い様相を見せていた。

それは、この石垣が歴史の層を成していることだった。

初代の官兵衛時代の石垣と、

次の細川忠興時代の石垣が重なっていたのである。

下方は花崗岩の自然石を積み上げた黒田時代のもの。

上部約1・2mには加工された細川時代の石垣が継ぎ足されていた。

公園の土に埋もれた蒙古班  山本早苗




右ー本丸北側のY状の目地が通る石垣
左ー川沿いの石垣には、唐原山城から運び込んだ石が使われた。

ノミなどを使わない自然石を生かした積み方は、
              あのうづみ
当時最も高度とされた穴太積技法。

発掘された石垣の状態は良好で、黒田時代のものは、

九州最古の近世城郭の形を今に伝える城跡となった。

黒田と細川を対比できる石垣は、

本丸北側にある石垣のY状の目地も、以前から知られているが、

こちらは何故か、自然石の方が細川時代のものだという。

土下座なされて目ン玉からウロコ  山口ろっぱ

未加工の自然石を使う黒田時代の基本から矛盾しているが、

官兵衛は中津城築城の際、横を流れる中瀬川上流にあった
とうばる
唐原山城の石垣も使ったという事らしい。

早く、効率的にという官兵衛ならではの知恵である。

川沿いの石垣を見ればよく分かる。

積まれているのはL字型の切り跡がある大きな石。

運んできた多くの石は川側に積まれている。

あちこちに私の串を尖らせる  小谷小雪


  中津城出土遺物

秀吉との親密な関係を表す、豊臣家の家紋を象った瓦。

官兵衛が携わった城に共通するのは、まず立地にある。

海に近い場所を選び、城域に水を引いて堀として利用した点である。

中枢部の周りには、石垣を幾重にも重ねて曲輪を巡らせ、

複雑な造りとした。

官兵衛の実戦経験に基づいた縄張りは、評価が高く、

とくに官兵衛が晩年に築いた福岡城を見た加藤清正が、

「わしの城は数日で落ちるが、黒田殿の城は数十日は落ちない」

とまで言ったとする逸話も残っている。

しかし、残念ながら大坂城や姫路城などは、

官兵衛時代のものと大きく様変わりしており、

当時の情景を知ることは出来なくなっている。

吊皮に揺れているのは哲学者  西内朋月

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どう畳んでも右足が入らない  森田律子

 
          城井谷j絵図 (築上町教育委員会蔵)

「官兵衛の人生で唯一、残虐な謀略」

天正15年(1587)官兵衛秀吉から「九州征伐」の功績として、

豊前六郡12万石を拝領することとなった。

大きな功績にもかかわらず、恩賞はあまりにも小さかった。

やはり秀吉は、

「自分に対して恐れを抱いており、力を与えようとはしない・・・」

官兵衛がそう感じるのも無理はなかったであろう。

ともかくも、官兵衛は九州の新天地へと辿り着いた。

そして豊後国下毛郡中津川に、中津城を築城し居とする。

疑問符が備考欄から叫んでる  山本昌乃

息子・長政もまだ未熟ながら、侍として成長著しい。

秀吉の軍師となってから15年、

家臣として務めが終わったことを感じ始めるようになった。

しかし、それを許さぬ事態が発生した。

秀吉から拝領した佐々成政の強引な押さえつけに、
      くまべちかなが
反発した隈部親永を中心とする地侍たちが決起し、

一揆を起こしたのである。

秀吉の許可を受け、鎮圧の一翼を担うこととなった官兵衛は、

他の鎮圧軍と筑前で合流する。

寝袋を出て寝袋を風に干す  井上一筒


   城井城上の門

人ひとりしか通ることが出来ない狭い門。
この狭さに官兵衛は打つ手もなく苦戦を強いられる。

ところがそこに、さらなる驚きの一報が入ってきた。

官兵衛のおひざ元、豊前でも反乱が勃発したというのだ。
                       きいだに
蜂起の中心人物は、400年来、城井谷を拠点としてきた
         しげふさ
国人の宇都宮鎮房である。

本領安堵を望む鎮房に、秀吉が伊予国移封を下したことが原因だった。

さすがの官兵衛も青くなり、すぐ豊前へと引き返す。

オクラほどの粘りが性に合っている  下谷憲子


宇都宮鎮房の兜

地元の名門の子孫である鎮房は、足軽から身を起こした秀吉に

従うことを執拗に拒んだ。

そして「城井谷城」に挙兵する。

負けじと長政も挙兵し戦おうとするが、

鎮房は奇岩に囲まれた狭い谷に鎮座する城井ノ上城へ立てこもり、

頑強に抵抗を続けた。

長政の軍勢は押し返され、長政自身も傷を負った。

官兵衛は、「弱敵と侮るな。油断が敗北を招く」

と長政を諭し、「勝つこと考えろ」 と檄をとばす。

父という大きな無言立っている  和田洋子

難攻不落の要害に官兵衛は討伐を断念し

秀吉に使者を派遣し、秀吉が仲裁役とし、偽装の講和を提案する。

それは、鎮房の娘・舞姫が長政に嫁げば、黒田家の親族となるので、

「宇都宮氏の旧領は安堵する」 

という条件であった。

しかし官兵衛は講和での事態解決をよしとしていなかった。

領国経営のためにあえて、非情な措置をとったのである。

玉葱の薄皮ほどのせめてです  新川弘子


    合元寺 (朱色の壁の下には血痕が残る)

天正16年(1588)官兵衛は、

わずかな家臣を連れ、婚儀の祝宴に中津城を訪れていた鎮房を、

長政に謀殺させたのである。
         ごうがんじ
中津城近くの合元寺に待機させられた鎮房の家臣たちも惨殺される。

その時に飛び散った血が、門前の壁を赤く染め、

以後、何回塗り替えても、

血痕が浮き出てくるという怪現象が絶えないので、

合元寺では、壁を朱色にしたといわれている。

耳の日の壁へ交響曲「ヒロシマ」  八上桐子

天下平定にあたって転封や国替えは避け難く、

従わない勢力は断固取り除く。

秀吉とともに各地を平定した官兵衛には、

どんな手段をつかってでも、

それを果たすという凄みが染みついていた。

これも先々の領国経営を考えて、叛乱の種は残さないという、

官兵衛の意思表示でもあった。

反面この事実は、官兵衛のわだかまりになっていた事が

晩年の言葉に中に残る。 (この言葉は後述、名言集へ)

研ぎ上げた刃先に映る悔いひとつ  桑原伸吉

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