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川柳的逍遥 人の世の一家言
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時々水漏れする私の方程式  近藤真奈



「本能寺の変ー視点を変えてみる」

「本能寺の変前夜」の信長の兵団の分布図を見てみると。

「北陸」方面では、越中東部に於いて「魚津城の戦い」の真っ最中、

越前の柴田勝家、勝家の甥である加賀の佐久間盛政

能登の前田利家、越中の佐々木成政らは、越後の上杉軍と対峙し、

本拠の春日山城まであとわあずか、

魚津城を攻めとすところまで迫っていた。

「畿内」では、近江・坂本の明智光秀が丹後の細川藤孝

大和の筒井順慶を率い丹波を攻略後、

遊軍として各地の戦地に赴いていた。

「関東」では、相模の北条家と対峙する上野の滝川一益

ここは陣を組んで2ヶ月、兵団としての機能は出来ていなかった。

「四国」へは、信長の三男・信孝丹羽長秀長宗我部討伐に進駐。

「中国」では、羽柴秀吉が高松の清水宗治に降伏を迫り、

あとは毛利軍との最後の決戦をまつばかりになっていた。

二ツ目の角を曲がって鰓呼吸  酒井かがり



「本能寺の変」の前夜の状況は、柴田隊も羽柴隊も滝川隊も、

うかつには動けない。

それぞれ上杉、毛利、北条の反撃を受けて、

兵団が壊滅する恐れがあった。

事実、上野に入って日の浅かった滝川は、北条氏政の軍に完敗し、

旧領の伊勢長島に、ほうほうの体で逃げ帰っている。

また丹羽隊は編成の途中、信長の求心力なしでは、

満足に戦えない。

そして信長の同盟者・徳川家康は、

僅かな家来だけを連れて上洛していたから、

徳川領に帰り着く前に、落武者狩りの農民などに、

闇討ちされる可能性がある。

実際に、家康と同行していた穴山梅雪は別ルートをとって、

帰国の途についたが落武者狩りに襲われ、

木津河畔で殺害されている。

まさに、これらの兵団の状況を知った上での、

光秀の行動であった。

過ちの数だけ欲しい数珠である  山本芳男



   「兼見卿記」

「光秀の背後にいたとされる黒幕説を紐解く」

まずは、「朝廷黒幕説」である。

朝廷黒幕説には、「三職推任問題」が伏線にある。

貴族の日記・「晴豊公記」によると、本能寺の変の1っヶ月前、

朝廷は信長に対し、「太政大臣か関白か将軍に就任しないか」

と持ちかけ、信長は即答しなかったとある。

信長の意中の官職は何だったのか、それとも、

信長は既存の官職を不要とし、

天皇に並ぶような地位を欲していたのか。

天皇の家来という立場に自分を置きたくなかった節もある。

「三職推任工作」が天正10年5月に始まり、

そして、本能寺の変が6月。

この工作の失敗が、本能寺の変の原因 ではないかという見方である。

舞いこんできたのはとてつもない話  吉岡 民

黒幕容疑者の一人公家・吉田兼見は、朝廷に仕える公家。

朝廷と信長の交渉では中心的な役割だった。

三職推任の工作にもかかわっている。

信長は朝廷を保護する見返りに官位を受け権威を高めたが、

天下統一が目前になると、

朝廷が作った暦にケチつけたり、強行な態度を取り始めた。

それに危機感を抱いた兼見は、親しかった光秀に接触。

本能寺の変の前にも会っていた。

来客の辞して残していくドラマ  徳山泰子



兼見は、本能寺の変直後からの行動を日記に記録している。
かねみきょうき
「兼見卿記」である。

本能寺の変が起こった6月2日、信長を討ち果たした光秀が、

大津通りを近江へ下向することを知った兼見は、

粟田口までわざわざ馬で駆けつけ、

光秀に対面すると

「在所の儀、万端頼みいる」の由を申し入れている。

また変後、朝廷では光秀との折衝に兼見をあてている。

6日、兼見は、誠仁親王より、光秀への使者を命じられ、

翌日、近江安土城に光秀を訪問したが、

その際、光秀が兼見に向かって、

「この度、謀反の存分を雑談」したとある。

壁のなかで一度光った風景画  前田一石



そして9日に光秀が上洛すると、兼見自ら白川まで迎えに出向いた。

その後光秀は兼見の屋敷を訪問し、

朝廷よりの使者の礼に来た旨を述べ、

朝廷に銀子五百枚、五山と大徳寺にも、各百枚ずつ、

さらに吉田神社修理の名目で兼見にも五十枚を献上、

それを兼見に託している。

光秀はその日の夕食を兼見邸で振舞われている。

だませそうな指とゆびきりをした誤算  岡田幸子

また、本能寺の変の一級史料である「兼見卿記」の原本内容が、

「本能寺の変」の前後1か月について欠けており、

天正10年の項目は、「新たに書き直していた」 という点も、

「朝廷黒幕説」を支える根拠とされている。

この日記の不審なところは、天正10年の分が、

2分割され1冊目は、

光秀が山崎で斃れた6月12日で終わっていること。

その時刻には沈黙を手向ける  居谷真理子

天正10年6月13日、山崎の戦いで光秀軍が秀吉軍に敗北した。

すると兼見は、

光秀が敗れる前日6月12日まで書いた日記を脇に置き、

この年の正月からもう一度新しく日記を書き始めた。

新しい日記は、光秀と会ったことなどをすべて書き換えられていた。

そこでは本能寺の変、当日の午後、「在所の儀」を頼んだことや、

6月7日に安土城で光秀が兼見に「謀反の存分」を語った

というような、二人の親しい交流を示す部分は裏帳にしているのだ。

しかし、なぜ兼見は、

光秀との親密な関係が書かれた古い日記を残したのか。

月明り背にしてこころ隠しきる  石橋能里子



「2013年1月4日の読売新聞夕刊 」ー「兼見卿記」

戦国時代・吉田兼見の日記「兼見卿記」のうち、

これまで知られていなかった文書(筆写)69点が、

東京大学史料編纂所で「発見」された。

2011年に編纂所の中で、

「兼見紙背」と書かれた茶封筒を見つかり、

中には、原本を写した原稿用紙がたくさん入っていた。

編纂所の金子拓助教、遠藤珠紀助教が調べたところ、

「兼見卿記」の紙の裏に書かれた文書を写したものとわかった。

そこにいたでしょう見つめていたでしょう  八上桐子

古い日記は、本能寺の変の前年天正9年から書き始められ、

9月17日まで書かれている。

兼見は紙を節約するため残りのページに、

天正10年の日記を書き、

紙切れで光秀が敗北の前日6月12日までで終わっている。

書き換えの理由は紙切れ、光秀に関する部分以外にも、

30ヶ所以上内容が変更されているのが明らかになった。

2つの日記の違いは書き写すとき、

内容を整理する中で生まれた誤差ではないかとされている。

寝返りを打って矛盾を裏がえす  松本征子

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日の丸が揺れたからとてめし茶碗  壷内半酔



 本能寺ー光秀の急襲

「信長・本能寺に斃れる」

天正10年(1582)6月2日未明、信長に命じられ、

一足先に中国戦線へ赴くはずだった光秀の軍が、

京の本能寺を急襲した。

世に言う「本能寺の変」である。

わずかな供回りしか連れていなかった信長は、

当初は自ら弓や槍を持って奮戦したが、

やがて居間に戻ると、自ら館に火を放ち自刃した。

妙覚寺に滞在していた嫡男の信忠は、

防戦のために、二条御所に移った。

だが、「衆寡敵せず」で、信忠も自刃して果てた。

※ 衆寡敵せず=少人数では、多人数にとても勝てない。

持逃げされた向日葵の首一つ  井上一筒


 本能寺信長(国芳絵)

この知らせが秀吉の元に届いたのは、翌3日の夜であった。

光秀の密使が秀吉の陣迷い込んだとも、

京にいた信長の茶道相手である長谷川宗仁が、

いち早く、秀吉に知らせたとも言われている。

いずれにしても、

京での変事を毛利よりも早く知ることができたのは、

まさに天運というべきだろう。

ただし、この一報に触れた秀吉は激しく動揺し、取り乱した。

主君・信長が明智光秀に討たれたことも衝撃だが、

同時に、織田の援軍10万はなくなり、

もし毛利方がこの事実を知れば、

和睦どころか攻勢に転じる可能性さえある。

秀吉はまさに絶体絶命の淵に立たされたのである。

梟の目など信じたけれど夢  山本早苗



衝撃と困惑­­­ー当然、この事実を知った官兵衛もそれに襲われた。

しかし、有岡城で死地を切り抜けて来ただけに

「肝」は据わっていた。

最も大事なことは、

取り乱している秀吉を落ち着かせること、

人間とはいかなる生き物かを、

その体験から誰よりも知っている官兵衛は、

秀吉の耳元で信じられない言葉を囁いた。
                      まま
「さても天のご加護を得させ給い、もはや御心の儘なりたり」

" 殿には武将としての御武運が巡ってきました。

   ここを切り抜けた後に待っている大事に、懸けようではありませんか、

 信長が殺されたことを「奇貨」とし、

  あるいは「ポスト信長」の一番手となって、

  この後に対処したらどうか・・・"

というのである。

※ 奇貨=利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会。

ほぐされってジキルとハイド入れ替わる  早泉早人


           しお
このひと言で、萎れていた秀吉の心に「希望」が甦った。

さらに、官兵衛の言葉は、

本能寺の変で、絶望の淵に追い詰められた秀吉軍の将兵にも、

「この死地を脱すれば、我らが殿が天下人になる」

という、夢を与えることにもなあった。

官兵衛は秀吉の命を受けて恵瓊を呼び、和睦を急いだ。

信長の横死を恵瓊に知られず、

        かつ、拙速ではない和睦が求められた。

仏飯とまるい会話をして生きる  岩根彰子

「毛利方を欺き通し和睦して上方に急反転して信長様の仇を討つ」

これが、官兵衛の瀬戸際外交の骨子であった。

そして、信長の死の二日後の6月4日、

正式に和睦が成立し、清水宗治が切腹して果てた。

官兵衛の和平交渉が実を結んだのだった。

あとは上方に向けて大軍を移動するだけだ。
         しんがり
官兵衛は自ら殿軍を申し出て、

毛利勢が前線を引くのを確認してから、堤防を切り落とした。

戦国史上に名高い『中国大返し』と呼ばれる秀吉軍の

大移動が開始されたのは、6月6日のことだった。

生き死にの話はご飯食べてから  谷口 義

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跨いでいくしかない凡庸なオトコ  山口ろっぱ



 新史料「長宗我部元親、恭順の書状」発見を伝える6/23日の新聞

「本能寺の変・光秀の真実」

「本能寺の変」の原因に、織田信長が四国の当地方針を変え、

面目を潰された明智光秀が謀反を起こしたとする「四国説」がある。

その説の空白を少し埋める「書状」が、
           いしがい
林原美術館が所蔵する「石谷家文書」から発見され、

歴史学者ら関係者が驚きに湧いている。
        ちょうそかべもとちか
四国の雄・長宗我部元親が光秀の重臣・斉藤利三宛に記した文書で

日付は5月21日、「本能寺の変」の10日前である。

※「石谷家文書」は美濃国の武将・石谷光政、頼辰父子の書状などで構成され、

  天正年間を中心とした3巻47通

皮剥いた玉ねぎとして朝が来る  みつ木もも花



長宗我部元親が斉藤利三に宛てた書状

信長に従う旨が記されている。

左下元親の花押と「5月21日」「利三」の文字がみえる。

当時の長宗我部元親は四国統一の途上。 

ところが大坂本願寺との和睦が成立したことなどから、

信長は、当初の友好関係を転換し、

長宗我部側に土佐以外の占領地からの撤退を要求していた。

今回発見されたうち、

6月2日の変の約5ヶ月前にあたる1月11日書状では、

利三が元親に

「要求に従うのが長宗我部のためになるし、光秀も努力している」 

と助言をしている。 

これに対し、元親は5月21日付で、

「長宗我部のために働いてくれてありがたい。

  信長殿の朱印状へ返答をいままで延ばしたのは申し訳ない。

  一宮城はじめ阿波国の諸城からは命令通り退いたことを、

  信長殿に伝えて欲しい」

と返答。

カピパラが揃って西を向く答え  酒井かがり

続いて元親は、

  「しかし中心部の城は撤去するが、

  土佐に近い南部の海部城と西部の大西城の両城は手放したくない。

  長年にわたって尽くしてきたのにこうなって残念で、納得いかない。

  戦争をしたいのではない。

  何とかならないか。委細は頼辰に聞いてほしい」

と切々と訴えている。

信長の命に従うことで、衝突を避けようとしていたことが分る。

しかし、元親が譲歩したといっても、

信長は阿波を取り上げる方針を決めており、

利三としては、とても報告できる内容ではなかった。

寝返りを考えている涅槃像  河村啓子 

               
      もうしつぎ
信長は元親との申次(交渉役)を光秀に任せていた。

元親の妻が光秀の重臣・斉藤利三の妹という縁もあり、

効果的と考えてのことだったのだろう。

光秀は、この付託によく応え、元親との交渉ルートを確保していた。

織田と長宗我部の融和、

さらには、長宗我部の帰順までを視野に入れていた。

ところが信長は、急に方針を転換してきたのだ。

自分の家臣に与えるために、新しい領地が欲しくなったのだろう。

信長は、融和ではなく武力衝突、

問答無用の四国討伐に着手したのである。

おしるしに月をスライスして渡す  赤松螢子               

そして6月2日、四国攻めは信長の三男・信孝を総大将に、

大坂住吉から出陣することとなった。

長年、長宗我部との申次ぎにあたってきた光秀は、

面目を踏みにじられられ、
                    くだ
また長宗我部が織田の軍門に降ってきたときに、

得られるはずだった莫大な武功も、水泡に帰してしまう。

これに遺恨を抱いた光秀は、「四国攻めを何とか阻止してほしい」

という元親の必死の願いとあいまって。

それらが謀反に突き動かしたのではないかといわれるのである。

心頭を滅却しても火は熱い  筒井祥文

石谷家文書に対する「渡部裕明氏の見解」

『光秀はなぜ、信長を襲ったのか。

「本能寺の変」の動機は、邪馬台国の所持地論争と並んで、

日本史最大の謎とされている。

さまざまな説が出されてきたが、

今回の「石谷家文書」は謎解きの大発見といえる。

変を考える主な史料は、「信長公記」のほか、

関係者の間で交わされた書簡や当時の公家の日記、

さらには「川角太閤記」などの編纂物がある。

編纂物は面白いのだが、

光秀が安土城での徳川家康の接待をしくじった話や、

領国を取り上げられた話など、

後世に作り上げられたフィクションが多い。

その点、「石谷家文書」は、変の直近の史料であること、

しかも出したのは長宗我部元親、受け取ったのも斉藤利三と、

四国攻め交渉をめぐる当事者であり、史料価値は高い。

書状からは、信長の四国政策の突然の方針変更に対する長宗我部側の、

率直な戸惑いと反発、そしてあきらめの心情も生々しく伝わってくる』 

どのイスもいつでも被告席 以上  むさし

 信長の光秀いじめ

「その他、本能寺の変の諸説」

「野望説」
室町後期から戦国時代の通年は「下克上」である。
強いものが正義。
いざとなれば主人も家来もなく、裏切りですら恥ではない。
天下をとろうとの「野望」を光秀が持ったとしても、何の不思議はない。

「怨恨説」・「いじめ説」・「将来悲観説」
 怨恨説は光秀が信長を恨んでいたというもの。
よく知られたところで、母親が殺されたというのがある。

 型破りな信長と実直な光秀は相性があわない。
光秀の顔を見るだけでムカムカした信長は、
家臣の居並ぶ前で恥をかかせたりといじめを繰り返した。
このいじめに加担したのが森蘭丸といわれている。

 秀吉のようにおべっかを使えない光秀は、
日本統一事業が完成した後のことを思うと、
いずれ自分は佐久間信盛のように追放されるだろうと考えたのである。

「黒幕説」
光秀の単独犯ではなく、背後に黒幕がいたとの考え。
① 足利義明 ② 朝廷説 ③ 秀吉説 などが黒幕にあげられている。

『四国説』
上に述べた通り。

まっすぐの鉄条網はありえない  森田律子

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本日は晴天なりで幕が開く  橋倉久美子


赤松乃城水責乃図 (歌川国芳)

「運命の交渉」
    かわずがはな
本陣を蛙ヶ鼻に移していた秀吉が、手を叩いて喜んだ。

するとその5日後は激しい雨が降り出して、

渦を巻きながら奔流が城に向かって流れ出した。

すぐに高松城は孤立無援の存在となってしまった。

高松城の窮状を知った毛利方は、

吉川元春小早川隆景が先鋒として出陣。

吉川元春は岩崎山、小早川隆景は日差山に布陣。

総帥の毛利輝元も大軍を率いて、猿掛城まで進軍してきた。

ようやく毛利勢4万が備中に到着したものの、

この惨状には打つ手がない。

しかも秀吉は関船を川にいれて、船から城を砲撃した。

城兵の士気を下げるためだ。

食糧も水補給できない上に砲撃である。

毛利方はついに、和睦しか考えられない状況に追い込まれた。

雨を描く恵みの雨になるように  籠島恵子

そんな中、毛利側は策を講じた。

もともと先代の毛利元就は統括した中国地方だけを安泰にし、

天下統一を狙わぬと標榜、遺言としても残した。

水浸しにされた城内に留まっていれば、

次々と織田方の援軍が来るであろう。

考えあぐねた結果、毛利側は外交僧の安国寺恵瓊を通じて、

「講和交渉」を提案することと決めた。

秀吉側の交渉人は官兵衛である。

官兵衛は難敵武田氏を打ち破り、勢いに乗る信長の援軍が

次々とこの地に赴くことを匂わせながら交渉を進めた。

人生はうさぎとかめのシャレコウベ  柴田園江

       

蛙ヶ鼻の2築堤跡      首塚      胴塚

(堤は基部20m、頂上部6m、高さ7m)
(本丸跡にある宗治の首塚と
 首のない胴体は切腹をした小船に乗りそのまま本丸に流れついた)

官兵衛は先ず二つの条件を毛利側に提示した。

一つは、

「城主・清水宗治以下、城兵の命を助けてくれるならば、

    毛利十カ国のうち五カ国を割譲する」 こと。

又一つは、

「城兵の命は助けるとしても城主の宗治の責任は問わねばならぬ」

ことだった。

しかし、恵瓊もそう簡単には条件を飲まない。

少しでも官兵衛が提示する条件を緩和すべく、

交渉は幾度となく回を重ねた。

秀吉もこの条件を一歩も譲歩つもりのないことが、

言葉の節々から伝わってくる。

薬師如来の駆け出しそうな裾裁き  岩根彰子

官兵衛は、「秀吉は決戦を先に延ばそうとしている」

と感じていた。

籠城している味方を助けるために、

後詰めにやってきた本隊と決戦に持ち込むのが、

いわば、この時代の戦いのセオリーであった。

高松城が湖上に孤立し、毛利本隊が後詰めに来たことで、

条件はすべて揃った。

にもかかわらず、秀吉は積極的に動かない。

それどころか毛利方が仕掛けてくることも、歓迎していなかった。

順風満帆夢をみているのだろうか  柏原夕胡

かっては信長など足下にも及ばないほどの大勢力を誇っていた、

毛利氏を、自分ひとりの力で屈服させてしまうと、

必ず主君から疎まれるし、

そうでなくても、同僚の反感を買う。

秀吉はそう考えていた。

そこで攻略の手はずを9割方済ましたうえで、

仕上げは信長の手で行う。

そうした算段で秀吉は、信長に出馬を願ったのだ。

そのため、決着は信長着陣以降でなければならない。

満潮の時も鼻だけ沈めない  寺川弘一



           安土城

その信長は3月に甲斐の武田勝頼を攻め滅ぼしたことで、

「安土城」家康を招いて長年の老をねぎらっていた。

秀吉から出馬の要請が届いたとき、

信長は、

「はげ鼠も、存外頼りにならぬものよ」と、

周囲の者に上機嫌で話していたという。

ともあれ、信長自身の出馬は決まったが、

それに先駆けて、明智光秀を秀吉の元に派遣することにした。

そんなことで、両者の主張は食い違い和議成立に至らぬまま、

運命の6月2日深夜がやってくる。

手のひらで遊ばせている天道虫  河村啓子

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まっ先に鳥のまぶたにふれる夜  八上桐子



         高松城跡公園

高松城の跡地に作られた自然公園。

周辺に見える青々とした風景は水攻めにより全て水没した。

「高松城の運命」

天正10年(1582)4月、

秀吉と官兵衛は5千の兵が籠もる「高松城」を前にした。

秀吉は本陣を高松城が見下ろせる龍王山に敷いた。

高松城は土塁によって築かれた平城である。

しかし、「何と、ここは湿地帯ではないか」 

秀吉は嘆息して続けた。

「周囲を田が囲み、沼や池も多い。

  まるで天然の堀だ。 しかも足守川が城を守る。

  いかに平城でもこれでは容易に落とせまい」

なおかつ大手門の道は一本で、

騎馬が一騎駆け抜けられるほどの狭さである。

攻撃側にすれば、城から鉄砲で狙われやすく、

湿地帯に入り込めば、動けなくなるなど様々なリスクがあった。

秀吉は力攻めを試みたが、攻め立てた宇喜多勢が犠牲になった。

洞穴の中にあったよ登山道  関 よしみ

官兵衛も秀吉同様の印象を持っていた。

しかし、時間を無駄にする訳にはいかない。

ぐずぐずすれば、毛利の援軍4万が来るのは明白だったからだ。

焦る秀吉、官兵衛はそんな主君にある策を進言した。

「兵は詭道なりと申します。

   この低湿地と足守川を逆手にとりましょう。

   高松城が誇る難攻不落の鍵を逆利用するのです」

水攻め・・・である。

秀吉には、その策がすぐに理解できた。

「奇策だが、面白い。だがどうやって城を水没させるつもりじゃ」

季節はちょうど梅雨時

官兵衛の計算では、この策は成功するはずであった。

失敗の末に卵が立っている  松本としこ



蛙ヶ鼻の築堤跡を深く掘り起こした土地断面 

手前は当時の土留め杭 

そのむこうにある穴が当時の堰き止め土俵跡、そばに当時の骨があった。

官兵衛は心の中で呟いた。

 ―窮地に置かれているのは、毛利とて同じこと―

必ず水攻めは成功する。

戦わずして落城させる、これが双方最善の策なのだ。

そこで官兵衛は、周辺に住む者たちを大量に雇い入れ、

また兵には刀槍を土木用具に持ち替えさせて、

堤防作りをさせた。

目の上の瘤はやんわり咬んでおく  本多洋子

堤は高松城の周囲に高さ7メートル、

底の部分で21メートル、

流れの部分10メートルという幅を持ち、

総延長は、約3キロにも及ぶ。

工事は5月8日に始まり、

わずか12日で完成させてしまったのである。

そしてすぐさま足守川を堰き止めて、流れを堤防に誘った。

堰き止めるためには、

いくつもの大船に大小の石を積み込んで沈めるという方法を取った。

階段が「かかって来い!」と聳え立つ  新家完司


    清水宗治

「清水宗治」

清水宗治、天文6年(1537)備中・清水村に誕生。幼名は才太郎。

備中の清水城城主として高松城主・石川久孝の娘を娶り、

その幕下に属した。

久孝没後、嗣子も相ついで没し、

幕下の重臣たちの跡目争いに勝利し、高松城城主に収まった。

そのころ備中には、西の毛利、東の織田、二勢力が圧迫してきた、

が、宗治は毛利方・小早川隆景に属する道を選択した。

毛利氏の家臣となって以後は隆景の配下として、

毛利氏の中国地方の平定に従軍し、忠誠心厚く精励し、

隆景をはじめとする毛利氏の首脳陣から深く信頼された。

広がってゆくほころびをさてどうします  山本昌乃

宗治着用の甲冑(古風なデザインが宗治らしさを表している)

天正10年4月、秀吉による高松城攻撃の直前、信長の命を受け、

秀吉は調略の使者として蜂須賀家政と官兵衛を城に向かわせた。

備中・備後2カ国を与えることを条件に「味方になれ」と誘ったが、

宗治はその誘いを断わり、使者が帰ったあと、

信長からの誓詞をそのまま、輝元のもとに届けたという。

宗治の義理堅い一面である。

結果、秀吉は官兵衛の脚本に沿って、高松城水没作戦を決行。

身動きが取れなくなった高松城の命運が尽きてきたとき、

官兵衛安国寺恵瓊との間で、和議の話し合いが持たれた。

水掛論きっと下着は濡れている  皆本 雅



  宗治自刃の図

明治時代に発行された太閤記に描かれている宗治の最期。
秀吉が差し入れしてくれた酒で喉を潤し、
船の上で舞を舞った後に切腹した。


二つあった条件の、一つは、「宗治の切腹」である。

宗治は毛利としては、絶対失いたくない武将である。

毛利は手離さないだろうと読んだ秀吉が難題をなげつけた。

いわゆる結論をだらだら長引かせ、

大将・信長の備中到着を待ち、

締めくくりは殿がという考えである。

しかし、そんなところへ思いがけない「本能寺事件」が舞い込む。

信長悲報を聞いた秀吉は取り乱した。

しかし、官兵衛に促され考えをあらためて秀吉は、

信長の死を秘匿したまま、宗治の切腹を急かせた。

泣いてなんかいません葱がしみただけ  藤本鈴菜



宗治辞世の碑

そして、切腹の日、宗治は戦時に乱れた髪をピッチリと整え、

水上に舟を漕ぎ出し、船上でひとさし舞った。

その後に切腹の儀式に入った。

秀吉は、明智光秀がいる京へ一刻も早く戻りたいところであったが、

「名将の最期を見届けるまでは」 

と切腹を見届けるまで、その場に居た。

後日、隆景に会った秀吉は、

「宗治は武士の鑑であった」と絶賛したという。

清水宗治の辞世の句

"浮世をば今こそ渡れ武士の名を 高松の苔に残して"

じゃこにだってじゃこの一分がございます  前田咲二

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