皆既月食もう蛹には戻れない 笠嶋恵美子
焼失前の岡山城天守(焼失前) 月見櫓
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「宇喜多直家の死」
天正9年
(1581)11月になると阿波・淡路から
官兵衛、
鳥取から
秀吉が姫路に帰着した。
官兵衛が阿波・淡路での委細を秀吉に報告している際、
秀吉がふと、
「備前の宇喜多が・・・」と呟き、
そのまま黙ってしまった。
岡山城に備前・美作を領する
宇喜多直家が、
重い病で臥せっているのだ。
この宇喜多直家という武将は、
戦国乱世の申し子といっても過言ではない、食わせ者であった。
尻尾揺らして薄ら笑いも嘘泣きも オカダキキ
権謀術数の限りを尽くし、その地位をつかみ取った男である。
そんな直家が亡くなれば、宇喜多家は中心を失う。
同時に、一族や家老がおのおの権力を言い立てかねない。
しし
また、嗣子である
八郎(秀家)はまだ幼く、
とても家中を纏めることなどできない。
ヘタをすれば、一族や家老の中からも、
毛利方に走る者が出るかも知れない。
秀吉はそれを危惧したのだ。
ラジオから見えなくなった空の色 くんじろう
直家の病状を聞いた官兵衛は、
「それ(直家の死)を機に」と切り出した。
「本営を岡山城に進めてはどうか」と提言したのだ。
そして、秀吉自身が八郎の後見役となり、
「その権威を利用して宇喜多家の指揮権を掌握してしまおう」
というのである。
そうなれば、岡山城が対毛利家の最前線基地となるだけでなく、
現地に城を持つ者が先鋒を務めるという、
織田家の軍法にも叶うことになるのだ。
仏飯とまるい会話をして生きる 岩根彰子
宇喜多氏築城時の石垣
まだ直家は死んでもいないのに、
秀吉と官兵衛は謀議を進めた。
間もなく直家は亡くなり、秀吉が八郎の後見役となった。
直家の死はしばらく秘匿され、
年があらたまった天正10年1月9日に、
その死が触れられている。
終点に着いたら降りるしかないか 清水すみれ
3月15日、気候がよくなったのを見計らい
秀吉率いる織田軍2万は、姫路を進発した。
そして4月5日、
宇喜多秀家が新しい主となった備前・岡山城へ入る。
こうして、本格的に毛利家との対決姿勢が整ったのだ。
一方、毛利家も指をくわえて見ていたわけではない。
毛利家の基本的な戦略思想は、草創者である
毛利元就の、
「版図を守り中央に討って出ることを望まない」
というもの。
この遺訓を時の総司令官である
小早川隆景は頑なに守っていた。
隆景の智略や合戦のかけ引きの妙、
采配の見事さは群を抜いている。
加えて、隆景の兄である
吉川元春が
多分に勇を好む性格であったのに対し、
隆景は勇に逸り無理をすることは、決してなかった。
引き出しが眼鏡市場になっている 合田留美子
小早川隆景
だがここに至って隆景のような慎重な人物も、
毛利軍の全力を挙げて、
織田軍と戦わなければならないことを決意したのである。
そして、備中に配された毛利方の7つの城を守る城主を、
自らの居城である備後の三原城に招いた。
そして、夏には織田の大軍が攻め寄せてくるであろうこと、
その際には、備前の宇喜多氏が先導を務めるであろうことを告げた。
「境目七城」=毛利方と宇喜多方との間にあるためこう呼ばれた。
(宮地山城・冠山城・高松城・鴨城・日幡城・松島城・撫川城)
ふとある日触れるや知れぬ非常ベル 美馬りゅうこ
隆景としては織田方に与されることは仕方がないと考えていた。
ただ、
「戦闘中に寝返られるのは全軍の士気にも関わるので、
きし
今のうちから旗幟を鮮明にして欲しい」
ということを確かめるための招集であった。
というのも備中・7城の城主たちは、
全員が毛利家譜代ではなかったからだ。
釣り糸の先に孤独をぶら下げる 荻野浩子
清水宗治
結果は、全員がこのまま毛利に従う、ということになった。
中でも7城の忠心となる備中・高松城を守る
清水宗治は、
典型的な外様でありながら、
最初から勝算は度外視して毛利方に与することを決めていた。
総大将の毛利家を筆頭にして、
中国勢にはこうした律義者が多かった。
投げつけた言葉が山彦でかえる 山本昌乃[5回]