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川柳的逍遥 人の世の一家言
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溜息と欠伸も骨壷に入れる  谷口 義



秀吉の中国方面進撃要図
                       (画像を拡大してご覧ください)

天正6年4月の上月城から始まり、同年6月からは三木城攻め、

天正9年6月からは鳥取城、

天正10年5月に備中・高松城と転戦を重ねた。

「境目7城」

毛利は備前美作の宇喜多直家が秀吉軍に寝返ったため、

最前線を備前・備中とせざるを得なくなっていた。

秀吉軍は宇喜多勢の1万を合わせたことで、

3万の大軍になっている。

毛利は武闘派の次男・吉川元春と戦略派の三男・小早川隆景

本家筋の輝元を支えている。

この危急に隆景は、

「備中こそ最前線。ここを一歩も引くわけにはいかない」

という不退転の決意を固めた。

備前と備中の国境には「境目7城」といわれる7つの城を、

毛利方の豪族が守っていた。

7城の中心は備中・高松城の清水宗治である。

どの角度から見られても怯まない  岡内智香



官兵衛の策は、

「先ず高松城を孤立させるために短期間で他の境目7城を落とす」

というものであった。

官兵衛は、秀吉の股肱の臣・蜂須賀正勝とともに、

「寄せ手」の将に任じられた。

寄せ手とは、攻め寄せる側のことを言う。

そして官兵衛が選んだのが、

無駄な犠牲を出すことがない「調略」であった。

戦などしないほんものの神さま  上嶋幸雀

官兵衛は、「冠山城」は宇喜多勢に任せ、「宮路山城」に向かった。

型通りの降伏勧告に、宮路山城主・野見七郎は当然ながら応じない。

しかし官兵衛とて、それはおり込み済みであり、

力攻めではなく、将兵の「追い出し作戦」を策した。

先ず、城の水の手を探し当て、断ち切る。

そうして城の正面から、鉄砲隊に激しい一斉射撃を行わせた。

さらに矢文を城内に打ち込み、

「三木城、鳥取城のような干殺し、渇え殺しの目にあいたいのか」 

と脅した。

そうか君は明日も生きてるおつもりか  居谷真理子

官兵衛の策は図に当たった。

一夜にして、宮路山城から将兵も城主の野見も消えた。

もちろん、官兵衛は城兵の逃げ道を空けておいた。

また官兵衛は「鴨城」「日幡山城」を続けて攻略。
               もとすけ
日幡山城は城主・上原元将の内応を誘ったことで、

戦わずして落ちた。

「松島城」「庭妹城」の落城も時間の問題。

一方、冠山城は、宇喜多勢の猛攻撃に全員討ち死にをしていた。

こうなると分ってました桜餅  河村啓子

「冠山城の戦い」

冠山城は、毛利氏が対織田氏のために設定した「七城」の1つで、

「高松城水攻め」の前哨戦がおこなわれ、激戦となった城である。

天正10年4月17日、城は織田・宇喜多勢3万に包囲された。

城主・林重真以下総勢3600人が籠城し、

織田・宇喜多勢に対峙した。

寄せ手の大将は杉原家次宇喜多忠家であったが攻めあぐねていた。

4月25日、城内から出火し、

この好機を逃さず加藤清正「一番槍」に攻撃を仕掛けたため、

さしもの重真も「もはやこれまで」と自決。

そして将兵139人も、自刃あるいは壮烈な討死を遂げた。

人数分の皿に盛られている死骸  たむらあきこ



本丸にある冠山城の戦いの戦死将兵慰霊碑。

この激戦の様子が記されている説明板もある。

「冠山合戦を偲ぶ」

『天正十年四月十七日冠山城は、織田軍二万、宇喜多勢一万に囲まれ、

下足守の山や谷は陣馬で埋まった。

守りは城主・林三郎左衛門、称屋七郎兵衛、松田左衛門尉、

鳥越左兵衛、三村三郎兵衛、竹井将監、舟木興五郎、難波惣四郎、

岩田多郎兵衛、権寂和尚、称屋興七郎、佐野和泉守、守屋真之丞、

称屋孫一郎、庄九郎、秋山新四郎など三百騎、総勢三千六百人で、

羽柴秀吉の旗本杉原七郎左衛門、宇喜多忠家らと戦った。

城内より打ち出す銃火ははげしく、

また城兵には豪の者多くめざましい働きにより、

寄せ手の犠牲は大きく、一時攻めあぐんだ。

四月二十五日不幸にして城内より出火し、

火は燃え広がり城中大混乱となった。

城主林三郎左衛門は最早これまでと城兵に別れを告げ自決した。

竹井将監、鳥越左兵衛、秋山新四郎、舟木興五郎、難波惣四郎、

権寂和尚など,将兵百三十九人は自刃或いは壮烈な討死を遂げた』

とあり、ともかく、

隆景との義を貫いた武士たちの勇ましい最後であった。

極太でざくざく編んでいる絆  合田留美子



そして官兵衛のひとり息子であり、黒田家を背負って立つ長政は、

この「冠山の戦い」が初陣となる。

「シナリオ」ー【シーンナンバー38】

 

ー初陣から帰ってきた長政と官兵衛のやりとり。


長政 「父上!秀吉様からお褒めの言葉をいただきました!

     初陣の働き、あっぱれであったと」

長政、喜色満面で官兵衛と対面する。



官兵衛 「お前はいずれ黒田家を継ぐ身。

                大将が猪のごとく突っ走ったどうする? 考えて動け!」

官兵衛、厳しい口調で長政を諭す。 長政、ムッとして。 

長政 「私は武士です。

               調略より、武士らしく職場で働きとうございます」

長政、不満をつのらせて、官兵衛に歯向かう。

長政 「父を助けよ!それが半兵衛様の遺言でございました。

             私はその言葉を胸に誓って、戦ったまで・・・」

・・・父上は、何ゆえ自分を認めてくれぬのか・・・

長政の顔にそう書いてある。



官兵衛 「お前は半兵衛殿の言葉をはき違えておる。

              黒田の家紋を思い出せ。生き残る戦い方を覚えよ」

納得のいかない思いを抱きながら 長政は官兵衛の部屋を出て行く。

ひらがなのように男がやってくる  大西泰世

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皆既月食もう蛹には戻れない 笠嶋恵美子



焼失前の岡山城天守(焼失前)   月見櫓
                (全て画像は画面をクリックしてご覧下さい)
「宇喜多直家の死」

天正9年(1581)11月になると阿波・淡路から官兵衛

鳥取から秀吉が姫路に帰着した。

官兵衛が阿波・淡路での委細を秀吉に報告している際、

秀吉がふと、「備前の宇喜多が・・・」と呟き、

そのまま黙ってしまった。

岡山城に備前・美作を領する宇喜多直家が、

重い病で臥せっているのだ。

この宇喜多直家という武将は、

戦国乱世の申し子といっても過言ではない、食わせ者であった。

尻尾揺らして薄ら笑いも嘘泣きも  オカダキキ
 

                                              権謀術数の限りを尽くし、その地位をつかみ取った男である。

そんな直家が亡くなれば、宇喜多家は中心を失う。

同時に、一族や家老がおのおの権力を言い立てかねない。
     しし
また、嗣子である八郎(秀家)はまだ幼く、

とても家中を纏めることなどできない。

ヘタをすれば、一族や家老の中からも、

毛利方に走る者が出るかも知れない。

秀吉はそれを危惧したのだ。

ラジオから見えなくなった空の色  くんじろう

直家の病状を聞いた官兵衛は、

「それ(直家の死)を機に」と切り出した。

「本営を岡山城に進めてはどうか」と提言したのだ。

そして、秀吉自身が八郎の後見役となり、

「その権威を利用して宇喜多家の指揮権を掌握してしまおう」

というのである。

そうなれば、岡山城が対毛利家の最前線基地となるだけでなく、

現地に城を持つ者が先鋒を務めるという、

織田家の軍法にも叶うことになるのだ。

仏飯とまるい会話をして生きる  岩根彰子



宇喜多氏築城時の石垣

まだ直家は死んでもいないのに、

秀吉と官兵衛は謀議を進めた。

間もなく直家は亡くなり、秀吉が八郎の後見役となった。

直家の死はしばらく秘匿され、

年があらたまった天正10年1月9日に、

その死が触れられている。

終点に着いたら降りるしかないか  清水すみれ

3月15日、気候がよくなったのを見計らい

秀吉率いる織田軍2万は、姫路を進発した。

そして4月5日、

宇喜多秀家が新しい主となった備前・岡山城へ入る。

こうして、本格的に毛利家との対決姿勢が整ったのだ。

一方、毛利家も指をくわえて見ていたわけではない。

毛利家の基本的な戦略思想は、草創者である毛利元就の、

「版図を守り中央に討って出ることを望まない」

というもの。

この遺訓を時の総司令官である小早川隆景は頑なに守っていた。

隆景の智略や合戦のかけ引きの妙、

采配の見事さは群を抜いている。

加えて、隆景の兄である吉川元春

多分に勇を好む性格であったのに対し、

隆景は勇に逸り無理をすることは、決してなかった。

引き出しが眼鏡市場になっている 合田留美子



 小早川隆景

だがここに至って隆景のような慎重な人物も、

毛利軍の全力を挙げて、

織田軍と戦わなければならないことを決意したのである。

そして、備中に配された毛利方の7つの城を守る城主を、

自らの居城である備後の三原城に招いた。

そして、夏には織田の大軍が攻め寄せてくるであろうこと、

その際には、備前の宇喜多氏が先導を務めるであろうことを告げた。

境目七城」毛利方と宇喜多方との間にあるためこう呼ばれた。
  (宮地山城・冠山城・高松城・鴨城・日幡城・松島城・撫川城)


ふとある日触れるや知れぬ非常ベル  美馬りゅうこ

隆景としては織田方に与されることは仕方がないと考えていた。

ただ、
「戦闘中に寝返られるのは全軍の士気にも関わるので、
        きし
 今のうちから旗幟を鮮明にして欲しい」

ということを確かめるための招集であった。

というのも備中・7城の城主たちは、

全員が毛利家譜代ではなかったからだ。

釣り糸の先に孤独をぶら下げる  荻野浩子



  清水宗治

結果は、全員がこのまま毛利に従う、ということになった。

中でも7城の忠心となる備中・高松城を守る清水宗治は、

典型的な外様でありながら、

最初から勝算は度外視して毛利方に与することを決めていた。

総大将の毛利家を筆頭にして、

中国勢にはこうした律義者が多かった。

投げつけた言葉が山彦でかえる  山本昌乃

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戦前のキツネ戦後のきつね汁  井上一筒



  最後の酒宴

「絵本太閤記」で描かれた鳥取城落城。

城兵の命と引き換えに吉川経家の切腹が決まり、

秀吉から贈られた酒肴で別れの宴を催す。

「鳥取城の戦い」

鳥取城の開戦の前年の秋、鳥取城の周辺には

官兵衛に派遣された若狭国の商人などが頻繁に姿をみせ、

収穫したばかりの米や穀物を時価の数倍の高値で買い取っていた。

このとき金に目が眩み、

城内の備蓄まで売ってしまう不届き者がいたという。

それこそが官兵衛のねらいでもあった。

さらに官兵衛は、鳥取城を包囲する直前に念をいれて、

付近の農村を襲って、ことごとく焼き払い、

自宅を失った農民たちが城内に逃げ込むように誘導した。

削除キー押しても眼裏に残る  上嶋幸雀



   鳥取城城門

官兵衛は秀吉陣営に復帰すると、

天正9年(1581)6月には因幡・鳥取城攻めに加わった。

鳥取城城主は吉川経家で、約2千が立て籠もった。

この時、官兵衛の脳裏には、

死の恐怖と共にあった幽閉から生還した思い、

すなわち命の尊さが甦った。

「敵味方ともに、命を無駄にしない戦い方はないものであろうか」

およそ戦国武将らしくない官兵衛の胸の裡は理解し難い。

だが官兵衛は、「力と力衝突するという合戦の常識を破る」

ことが必要だと信じたのである。

本当のわたしに出会うまで歩く  阪本こみち

武器や将兵の数にたのむのではなく、敵を弱らせて落城させる。

結果的に双方の損害は少なく戦を終えられ、

合理的だと秀吉に進言した。

「因幡六郡の米を、古来、新米を問わず買い占めてくだされ」

兵糧攻めだ。

周辺の米を2倍3倍の値で買うことで、

「容易に買占めは成功する」と付け加えた。

米は、鳥取城には入らなくなった。

そればかりか、周辺の農民なども城に逃げ込み、

城内の人数は膨れ上がった。

第二章白いうぶ毛の乱反射  山口ろっぱ



   鳥取城古写真 (鳥取城フォーラム2013 シンポジウム)

『因幡国鳥取郡の一郡の男女は、

   悉く鳥取城中へ逃げ入って立て籠もった。

   下々の百姓以下は、長期戦の心構えがなかったので、

   即時に餓死してしまった。

   はじめは5日に一度か3日に一度鐘を衝くと、

   それを合図に雑兵が城柵まで出てきて、

   木や草の葉を取り、中には稲の根っこを上々の食糧とした』
                                                                      
時間の経過とともに悲惨さは,さらに増した。

餓死するものは止まるところを知らず、

痩せ衰えた男女は、柵際でもだえ苦しんだという。
                                                                         ([鳥取城地獄絵図」-【石見吉川家文書】)
水中花火に泡だったよと告げる  蟹口和枝


吉川経家
             あずさゆみ         すみか
”武士の 取り伝えたる梓弓  かえるやもとの 栖なるら”                                                                 (吉川経家ー辞世の句
まさに地獄絵図さながらに、

飢えの苦しみは三木城と同じ様相であった。

とにかく飢えを凌ぐために、

鳥取城内の人々は、口に入るものはなんでも食した。

『(秀吉軍)が鉄砲で城内の者を打ち倒すと、

   虫の息になった者に人が集まり、

   刃物を手にして関節を切り離し、肉を切り取った。

   身のなかでも、とりわけ頭は味がよろしいとみえて、

   首はあっちこっちで奪いとられていた』

もし早期に官兵衛の降伏勧告を容れていたならば、

そのような状況には陥らなかっただろう。

このような事態をうけ10月、

安国寺 恵瓊が秀吉の陣営を訪れ、鳥取城の開城を協議した。

そしてその月の25日、吉川経家は城兵の助命を条件に切腹した。

南無阿弥陀仏でタマネギ切る法師  中村幸彦

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今ここに私が立っている事実  徳山泰子



    牛 車

平治物語絵巻に描かれる牛車

建保・承久年間(1213~1221)に成立した『大要抄』には

公家が使用する車に「紋」をつけたことが多く載り、
かてい              かざりしょう
嘉禎年間(1235~1238)に成立した『餝抄』には

久我家の紋章である「龍胆紋」が、

衣服の文様から採用された様子が記されている。


酔いざめに菜の花色の息を吐く  井上一筒



「家紋の歴史から」

聖徳太子の時代、調度や器物には装飾目的として、

様々な文様が描かれている。

その文様は平安時代になると、朝廷に出入りする公家たちが、

他家と区別する目印として、独自の文様を描くようになり、

家紋へと繋がっていく。

西園寺実季徳大寺実能といった公家が、

独自の紋を「牛車」の胴に付け、

都大路でその紋を披露して歩き回り始める。

人生のドラマの中の雨季乾季  美馬りゅうこ

当時、内裏に参内する公家が用いる牛車が、

都の大路を行き交う時に、大変混雑した。 

今で言う渋滞である。

公家たちは、そうした混乱を回避し、

また自分の牛車を素早く識別するために、

おのおの独自の「紋章」を車に施した。

譲り合う精神のはしりである。

いわゆる紋は、身分の上下を見極め、

優先順位を守る方法としても、役立てたのである。

これが一般的に「家紋」の起こりであると言われている。

ふりふりのついた話で騒がしい  北原照子

鎌倉時代になると、合戦の際、敵味方を識別する為に、

武士の旗指物などに自らの「しるし」(家紋)を付けた。

江戸時代には、下級武士や町人が家紋を用いることで一般に広まり、

冠婚葬祭という「晴れの行事」の中で衣服から調度品まで、

「家紋」が幅を利かせるようになる。

明治時代になると、身分規制がなくなったことにより、

庶民が紋服を着用したり、

墓石などに家紋を入れることが増える。

正念場脳の湿気を取り除く  上田 仁



「官兵衛の紋について」
        ふじどもえ
官兵衛「藤巴紋」には、二つの由来が伝えられている。

一つは、主君・小寺政職に小寺を名乗ることを許されたときに、

小寺家の家紋の使用を許されたというもの。「寛政重修諸家譜」

黒田氏が「黒田藤」(三つ藤巴)を使用する以前、

黒田孝高(官兵衛)は小寺氏から小寺姓を許されて、

小寺孝隆と名乗っていたこともあり、

小寺氏と同様の紋を使い続けていたことが記録されている。

小寺家の家紋の基本は「橘紋」「藤橘巴」も使われていた。

藤巴紋のもう一つの由来は、

荒木村重の有岡城に捕らわれたとき、

土牢から見えた藤の花に力づけられたために、

それを家紋にしたというものである。

守るものあり男に熱い血が流れ  奥山晴生



「家紋薀蓄」

 家紋に使われる主な図案は、

植物や動物、天体、文字、幾何学模様など、実に様々だが、

唯一、動物由来では、「鷹の羽紋」がある。

 大一大万大吉  

石田三成の紋で家紋に意味を語らせるあたりが、

天才派三成らしいところである。


大一大万大吉をどう読むか>だいいちだいまんだいきち

と読み意味は、


「一人が万民のため万民が一人のために尽くせば、

   世の中は大吉」となる。


 150年の歴史を持つルイ・ヴィトンの鞄のベースである

「星と花の柄」は、パリ万国博覧会がきっかけとして、

日本の家紋をモチーフに1896年考案されたもの。

 黒田家の藤巴紋は「藤紋」の変形である。

藤は長寿で繁殖力が高いことから「不死」の植物として、

縁起がいいとされた。

紋の形としては、「下がり藤」が基本だが、

「下がる」というのが縁起が悪いとされ「上がり藤」もつくられた。

 日本十大家紋と呼ばれる家紋がある。

ときどきは不真面目がいい生きるには  瀬川瑞紀



☆日本十大紋の多くは植物の図柄がもとになっている。
                              おもだか
桐紋(豊臣秀吉) 木瓜紋(織田信長) 沢潟紋(毛利)
                         かたばみ
橘紋(黒田・小寺・井伊) 蔦紋 片喰、柏、 茗荷紋、藤紋。

 武将は、木瓜紋のほかに「揚羽紋」や

「永楽通宝」の図柄の紋なども使用した。

また黒田家の家紋も「石持紋」など複数ある。

 明治期に軍刀の柄金具に銀細工で所有者の家紋を入れるなど、

当時盛んだった国粋主義や家意識の表象として多く用いられた。

現在でも、ほぼ全ての家に一つ以上の家紋が定められており、

冠婚葬祭などで使用され続けている。

大空を飛んで私の今である  森田律子

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救命具ないのに沖が呼びにくる  清水すみれ


『太平記英勇傳・岩成主税助左道』-三好三人衆

「小寺政職陥落」

東からの信長の勢力が日の出の勢いで押し寄せ、

西からは毛利氏が台頭してきた播磨国は、

両勢力の緩衝地帯となっていた。

しかし信長が石山本願寺との抗争で播磨への進攻が、

足踏み状態だったため、毛利氏の調略の手が伸びていき、

播磨の小領主たちは、どちらに就くか右往左往していた。

空へ向けた人差し指を回す神  山田ゆみ葉

右往左往イコール即領土は乱れ、下克上ありき侵略ありきで、

播磨は赤松氏、小寺氏、明石氏、櫛橋氏、別所氏などの勢力が乱立。

それぞれ独自の動きをとるようになる。

その中に小国大名のさまざまな生き様が見えてくる。

秀吉と意地で戦った光の兄・櫛橋伊定、光の姉の夫・上月景貞

当初織田方についていたが、時の流れを読み違えた別所長治

毛利につくか織田か、狡猾に生き延びた備前・美作・宇喜多直家

代役ながら武士の本懐を全うした吉川経家

そして単純明快で優柔不断な御着城の小寺政職。 などなど。

広がってゆくほころびをさてどうします  山本昌乃



「小寺政職の場合」

天文14年(1545)小寺則職より家督を引き継ぎ、

御着城城主となった政職は、播磨国内での勢力を着実に拡大していく。

官兵衛職隆のらの優秀な人材を得て、

置塩城の赤松氏の勢力を後退させるなど、

自立した大名としての途を邁進していくのである。

そして、東播磨の別所氏と並ぶ西播磨の戦国大名に成長を果たす。

盆栽が枝葉広げる夢を見る  片山かずお

やがて、東から織田、西から毛利の勢力が伸びてくると、

官兵衛の助言に従って一旦は織田方に付いた。

その後、毛利氏の浦兵部宗勝が率いる毛利軍五千を千の兵で撃退し、

信長から感状を与えられる。

にもかかわらず、三木城の別所長治の寝返り、

有岡城の荒木村重の反乱、などを目の当たりにすると、

気の弱い、優柔不断な政職の心は揺れ、

信長も官兵衛をも裏切る決断をする。

クレヨンぽきぽき泣ける力はどのあたり  菊池 京



政職の唯一の戦さ碁石将棋

天正7年(1579)11月、城主・荒木村重が不在となった有岡城は、

城兵が織田軍の調略に応じ、落城。

天正8年に三木城が、落城し、御着城も同年に、落城。

政職は英賀を経て毛利氏の備後国・鞆の浦のもとへ落ち延びる。

その鞆の浦への流浪中、信長にひたすら謝罪を繰り返したが、

信長は政職の裏切りを許さなかった。

政職はそのまま備後の鞆に住み、天正12年5月にその地で没した。

政職には嫡子・小寺氏職の他に、女子数人の子供が居たが、

政職の死により、大名としての小寺家は滅亡。

逃げ道のタンポポまでも踏みつける  河村啓子


  官兵衛
           うじもと     いつき
政職の嫡男・小寺氏職幼名・斎)も父に付いて毛利領に落ち延びた。

政職が備後の鞆で死没後、官兵衛は氏職を不憫に思い、

「小寺政職は不義によって流浪し、死んで小寺家は滅びました。

息子の氏職を引き取り養育したいので、氏職の罪は恩赦して欲しい」

官兵衛の希望を聞いた秀吉は、

かって官兵衛を裏切り、幽閉へと追い込んだ張本人をまないばかりか、

昔の恩を忘れない志に感心し、その願いを聞き入れた。

人々もまた「命の危機にさらされたにも拘らず、

旧悪を忘れ、なんと情の深いことか。

恩をもって仇を報ずとは、このことである」と関心した。

馬の涙も馬の笑顔も知る男  福尾圭司

まもなく官兵衛は養育のため筑前国に屋敷を氏職に与えている。

その後、氏職は「有庵」と称して黒田家の客分となり、

子孫は福岡藩士となって存続した。

「竹中半兵衛の遺言」戦国武将への警告。

【武士は名こそ惜しけれ、義のためには命も惜しむべきはない。

 財宝など塵あくたとも思わぬ覚悟が常にあるべきである】

白というその一点の毅然かな  徳山泰子

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