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川柳的逍遥 人の世の一家言
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左巻きのソフトクリームは甘くない  田口和代


  秀 次

文禄2年、秀吉に実子・秀頼が生まれると秀吉から疎まれるようになり、
謀反の疑いをかけられ、高野山で切腹を命じられた。

「羽柴秀次」

羽柴秀次は、秀吉の姉・日秀の子で、秀吉の養子となる。

天正19年(1591)8月に秀吉の嫡男・鶴松が死去した。

秀次は11月に秀吉の養子となり、12月に関白に就任。

関白就任後の秀次は、聚楽第に居住して政務を執ったが、

秀吉は全権を譲ったわけではなく、二元政治となった。

その後、朝鮮との戦に専念する秀吉の代わりに

内政を司ることが多かった。

しかし、文禄2年(1593)に秀吉に実子・秀頼が生まれると、

秀次は秀吉から次第に疎まれるようになる。

バイオリズムバッチリのはずやったのに  雨森茂喜

文禄4年、秀次は秀吉に謀反の疑いをかけられ、

7月3日、聚楽第で秀次は秀吉から「高野山蟄居」を命じられる。

7月8日、秀次は謀反についての釈明の為に、

秀吉の居る伏見城へ赴くが、福島正則らに遮られ、

対面することが出来ず、同日、高野山へ入る。

それから1週間後、秀次の許へ福島正則・池田秀氏・福原直堯らが訪れ、

秀次に対し秀吉から、切腹の命令が下ったことを伝えられる。

また、秀次及び秀次の小姓らを含めた嫌疑をかけられた人々も 

切腹を命じられる。

バリトンで届いた神様のお告げ  竹内ゆみこ


   瑞泉寺絵縁起

(「秀次事件」の16年後に角倉了以が荒廃したその「塚」の跡に、
 江戸幕府の許しを得、墓地と堂を建立した。
 寺号は秀次の戒名から「瑞泉寺」と名付けられた)

7月15日、秀次は雀部重政の介錯により切腹し、

そして重政と東福寺の僧・玄隆西堂も切腹した。

秀次及び同日切腹した関係者らの遺体は青巌寺に葬られ、

秀次の首は三条河原へ送られた。

8月2日には三条河原において、秀次の首が据えられた塚の前で、

5人の遺児(4男1女)をはじめ、側室・侍女ら39名が処刑された。

止まった時計雨は降りつづいてる  柴田桂子

約5時間かけて行われた秀次の家族らの処刑後、

遺体は一箇所に埋葬され、

埋葬地には、秀次の首を収めた石櫃が置かれた。

その後、ここは、「畜生塚」と呼ばれるようになる。

この秀次ら一族の埋葬地は慶長16年(1611)に、

豪商の角倉了以によって、再建されるまで、

誰にも顧みられることなく放置されていた。

凹凸の道をくねると墓地にでる  和気慶一


 専称寺駒姫肖像画

「駒 姫」

この処刑された秀次の側室のなかに、駒姫という女性がいる。

駒姫は、その類稀な美しさから父母に溺愛されて育った。

時の関白・秀次が、東国一の美少女と名高い駒姫の噂を聞き、

秀次は「側室に」と駒姫の父である最上義光に熱望した。

義光は丁重に断りを入れたが度重なる要求に折れ、

「15歳になったら娘を山形から京へと嫁がせる」と約束をする。

文禄4年(1595)、約束の15歳になった駒姫は、

秀次のいる京の聚楽第に向かう。

そして、駒姫が京都に到着して間もない7月15日、

最上屋敷で駒姫は、「秀次事件」の報を聞くことになる。

ここからは神へ近づく登山道  赤松ますみ

「すでに秀次の側室である」 とされた駒姫は、

8月2日、他の側室達と共に、三条河原に引き出されたのである。

実質的には、聚楽第には一歩も足を踏み入れることなく、

側室として、輿入れすうる前日であった。

義光は必死に愛する娘の助命嘆願に走り廻り、

各方面から不条理な処刑は反対という大勢の賛同の声も得た。

秀吉もついにこれを無視できなくなり、

「鎌倉で尼にするように」 と早馬を処刑場に走らせた。

シグナルは点滅行き場に揺れている  山本昌乃


      専称寺と駒姫

ところが、後一歩のところで間に合わず、処刑はすでに終わっていた。

彼女らの遺体は、遺族が引き渡しを願ったが許されず、

その場で掘られた穴に投げ込まれ、

さらにその上に「畜生塚」と刻まれた碑が置かれたのである。

駒姫の死を聞いた母の大崎夫人も、

悲しみのあまり処刑の14日後に亡くなった。

自ら命を絶ったと推察されている。

この惨劇事件より、義光は反豊臣の急先鋒となり、

慶長出羽合戦では奥羽における東軍の要として活躍した。

またこの一件より、大名家の豊臣家に対する不信感を増幅させ、

豊臣政権の寿命を縮める一因ともなったのである。

(駒姫の死の翌年、義光は高擶で布教中の真宗僧乗慶に帰依、
    専称寺を山形城下に移し、駒姫と大崎夫人の菩提寺とした)

濡れた目に何を映すか冬の馬  合田瑠美子

さらに慶長3年(1598)八町四方の土地と寺領14石を寄進し、

城下最大の伽藍を建立、敷地に真宗寺院十三ケ寺を塔頭として集め、

のちに寺町と呼ばれるようになる町を整備した。

この寺には、山形城より駒姫の居室が移築されており、

大崎夫人像とともに彼女の肖像画が保存されている。


  駒姫辞世和歌懐紙

この辞世は彼女愛用の着物で表装され、
他の処刑者のものとともに、京都国立博物館に保存されている。

"罪をきる弥陀の剣にかかる身の なにか五つの障りあるべき"

 (何の罪もない私なのですが、こうして斬られてあの世にいくのは、
     弥陀の慈悲の剣で引導をわたしていただく思いです。
     なぜって、こうしてこの身の業の深い五障の罪も、
      いっしょに消えていくのですから)

この橋を渡るとやさしい風になる  神野節子

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晩秋のコントは塩分控えめに  本多洋子 


  官兵衛の和歌

天正15年(1587)7月、官兵衛は豊前の国に入封して、まもなく、
                           くぼてさん
情報網に長けていた山伏の力を頼みにして求菩提山に上り、

挨拶方々友好関係を築いた。

その後も官兵衛は幾たびか求菩提山を訪れており、

求菩提山座主と過すひと時は、官兵衛の心を癒す唯一のものであった。

この「山深く」の歌は、

そこで催した歌会でを詠んだ歌であろうといわれている。



「如水円清」

官兵衛が「如水」と名乗ったのは、

天正17年(1589)家督を長政に譲って隠居の身となってからで、

44歳の時であった。

正式には「如水円清」と号したが、通称で如水と呼ばれた。

ルイス・フロイスの記述によると、

『官兵衛は剃髪した。

    権力・武勲・領地・および多年に亘って戦争で獲得した功績、

    それらすべては今や、水泡が消え去るように去って行った

     といいながら、
ジョスイ、すなわち「水の如し」と自ら名乗った』
                                                              
どつかれる寸前サボテンに化ける  井上一筒               

「上善如水、水善利万物而不浄、居衆人之所悪」

(上善は水の如し、水はよく万物を利して争わず、衆人の忌む所にある。

     理想的な生き方をしようと思うなら、、水のあり方に学べ、

     水は万物に恩恵を与えながら、自分は人のいやがる低い所に流れていく)

これは『老子』の一節である。

この一節は,さまざま人にも影響を与え、

とくに中国の古典にもさまざまに、応用されている。

深層心理読み取れますかバーコード  オカダキキ

【孫子兵法】
                                                                                                                      おもむく
「夫れ兵の形は水に象る。水の行は高きを避けて下きに趨く。

 兵の形は実を避けて虚を撃つ。

 水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制す。

 故に兵に常勢なく、水に常形なし」

【礼記】ー「君子交淡如水」

「君子の交わりは淡きこと水の如し」

(才徳のあるものの交際は水のようにさっぱりしており、

    濃密ではないが長続きする)

透明になるまで自転しています  合田留美子

水のような清らかさや柔軟さを求めて改名に至った如水は、

ほどなく「茶の湯」に目覚める。

官兵衛と茶の湯との出会いは遅く、

秀吉の小田原討伐に従軍した折のことだった。

改名の翌年のことだ。

それまで、無骨な如水は丸腰になって狭い茶室に入るのは、

無用心と考えて敬遠していたというのである。

あるとき官兵衛は、秀吉から茶室に招かれ、しびしぶ茶室に入った。

しかし不思議なことに、秀吉が茶を点てる気配はまったくなく、

むしろ戦に関わる密談に終始した。

ここで秀吉は官兵衛に対して次のように述べた。

ゆっくりと開く明日も明後日も  谷口 義

「これこそが茶の一徳(得)というものである。

   もし茶室以外で密談を交わせば、人から嫌疑を掛けられる。

   しかし、茶室で密談を行えば、人から疑われることはない」

この言葉を聞いた如水は、茶会の重要性に気付き、茶の道に入った。

この話の舞台になったのは、

天正18年(1590)の小田原合戦の頃の話であるといわれている。

秀吉は千利休を茶頭として呼び、たびたび茶会を催したが、

官兵衛もそれに出席して感心を深めたという。

背番号3は漢方薬になる  小林満寿夫


    利 休

"底井なき心の内をくみてこそお茶の湯者とは知られたりけれ"

"万代の声もけふよりまし水の清き流れは絶えじとぞ思ふ"

ある茶会で秀吉が詠んだものに対し、返したのが下の歌だ。

この頃、秀吉は京都に「聚楽第」という大邸宅を構えたが、

その敷地内に家臣の屋敷も建てて、そこに利休を住まわせている。

同じ天正18年、利休はそこへ秀吉を招いて茶会を催したとき、

如水もまた、津田宗凡らとともに積極的に参加している。

如水の屋敷は、千利休邸と隣り合っていたことで、

直接に茶道を学ぶ機会も多く、親密度も増していったという。

この先も空気でいようあとうん  美馬りゅうこ

秀吉はやがて世継ぎと考えていた養子の羽柴秀次に聚楽第を譲り、

自身はその近くに伏見城を築いて移り住んだ。

新たに聚楽第に住んだ秀次は何度か碁会、将棋会をひらいている。

将棋は官兵衛も相手をさせられたおいう。

秀次は相当強かったようで如水は負けることも多かったが、

「お前、わざと負けただろう。もう一勝負しろ」

といわれたことがある。

半眼で話ふるいにかけている  竹内いそこ

秀吉は将棋が下手だったが、対局者は天下人が相手なので、

わざと負けることがあった。

秀吉は、もちろんそれをお見通しの上で大げさに、

「勝った、勝った」と喜ぶ。

如水は二人の器量の違いを見て、

「秀次は後継者の器ではない」と悟ったという。

如水の判断が正しかったのか、文禄4年に「秀次事件」が起き、

秀次は高野山に追放のうえ切腹させられた。

のぼったら降りんならんの忘れてた  山田葉子

「如水の日常」

家康の次男である結城秀康とも、如水は親しく交流している。

秀康は小牧・長久手の戦いの和睦の際、

人質として秀吉に差し出され、彼の養子となっていた。

しかし、天正18年に秀吉に実子・鶴松が誕生すると、

北関東の名門・結城晴朝の養子に出された。

二度目の養子である。

その時に縁組の世話をしたのが如水だった。

父を一盛 祇園囃子の添え物に  山口ろっぱ

以来、秀康は如水を頼りにし、

伏見の屋敷に住んでいた如水を三日に1度は訪ねたという。

隠居後、如水は屋敷に身分の低い者の子供らが、

泥のついた足で廊下を走ったり、相撲を取ったりして、

襖や障子を破ることがあったが、怒ることも叱ることもなかったという。

隠居して、名の通りに水の如くに生きる彼の生き様を慕う人も多かった。

途中下車して煙突になっている  たむらあきこ             

【余談】


官兵衛の短冊ー桜狩りの和歌 (画像をクリックすると拡大されます)

  "山深く分入花のかつ散りて 春の名残もけふのゆふ暮"     円清

法名「円清」と署名が確認できる。
(中津平野では、もう桜は終わってしまった。
   花を求めて求菩提山の山深く分け入ると桜の花は咲きつつも、
   はや散り始めている。
   春の名残もいよいよ尽きようとしている今日の夕暮れだなあ)


  官兵衛従者の和歌

官兵衛と同行した従者が詠んだ短冊が13首残っている。


豊前国に入封直後、求菩提山の山伏たちに出された命令書

秀吉からの禁制札が史料にあり取次ぎ者として、
官兵衛の署名・花押が記されている。

思い出の山で背伸びをしてごらん  立蔵信子

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続編はあるのでしょうか暈の月  合田留美子


 肥前名護屋城図屏風

狩野光信が描いた六曲一隻の屏風絵で、五層の天守閣を中心に
城内の様子や周辺の陣屋などが詳細に描かれている。

文禄2年頃の名護屋城を描いたものと考えられるが、
この時期は官兵衛が長政とともに朝鮮に渡海していた時期である。

へたくそが描いても富士山は分かる  新家完司

「名護屋城」

天正18年(1590)天下統一を果たした秀吉は、

翌19年に朝鮮出兵を決意し、

全国の武将たちに新たな戦の準備を整えるよう命じた。

一方、出兵するための軍事拠点となる城の築城にも着手し、

官兵衛に縄張りを命じた。

肥前国名護屋の東松浦半島の波戸岬に、「名護屋城」が築かれた。

当時の大坂城に次ぐ規模を誇り、

全国から集められた諸大名の割普請によって、築城が進められ、

わずか三ヶ月で完成させたという。

雑巾を絞りつづけてきた指だ  高橋謡々

  
  黒田長政陣跡

朝鮮出兵に際して、全国から名だたる戦国大名が集められた。

諸大名は名護屋城から3km圏内にそれぞれ陣屋を構え、

朝鮮へと旅立っていったのである。

その数は160余りにものぼると考えられ、

島津義弘陣跡、徳川家康陣跡、前田利家陣跡、黒田長政陣跡、

加藤清正陣跡、福島正則陣跡、伊達政宗陣跡、上杉景勝陣跡、

毛利秀頼陣跡、鍋島直茂陣跡、片桐且元陣跡、小西行長陣跡、

等々、確認されているものだけで120ヶ所にもなる。

一本の眉に小さな目が二つ  筒井祥文


 肥前名護屋城図屏風 (拡大してご覧下さい)

城の周辺には、全国から集まった諸大名の陣屋が散在していた

秀吉が名護屋城に居住したのは、

凡そ1年半ほどだったと言われているが、

全国の諸大名も集結したこの時期の名護屋城は、

まさに日本の政治経済の中枢になっていたともいわれる。

城の周辺には大名や家臣だけでなく、商売を営む者や

様々な生活に必要なサービスを提供する人たちが集まり、

ピーク時には20万人以上の人々で大変な賑わいだったという。

海までの遊びにすこし朱を足そう  たむらあきこ

「名護屋城を訪ねてみよう」



玄界灘を一望できる小高い丘を利用して、

総面積17万㎡の広大な敷地に中央最上段に「本丸」を置き、

中段には本丸を取り囲むように「二の丸」・「三の丸」・「遊撃丸」

「東出丸」・「弾正丸」・「水手曲輪」を配置。

下段には「山里丸」・「台所丸」などが置かれた。

名護屋城の最も高い場所には、25~30mにもなると考えられている

五層7階の天守閣を備えた「天守台」があり、

ここから対岸の加部島や馬渡島、壱岐島を一望できる。

波かぶりもがいた後の現在地  山田葉子


名護屋城博物館内のジオラマ

名護屋城は現在国の特別史跡に指定されているが、

建物など一切残っていない。

崩れかけた石垣とわずかな遺構が残るだけである。

それでも、その敷地を散策すると、

そのスケールの大きさに圧倒される。

同時に秀吉の権力が、いかに絶大なものであったかを、

容易に想像できる規模なのである。

とてつもない河馬の欠伸はまだつづく  山本昌乃


名護屋城跡に立つ周辺陣跡配置図
この位置から秀吉は無謀な夢を眺めていたのだ。



石垣しか残っていないが、壮大さは推し量ることができる。



本丸から天守と遊撃丸方面を望むと背後には玄界灘の大海原が広がる。



青木月斗の歌碑。"太閤が睨みし海の霞かな" と書いてある。



朝鮮出兵の際に使われた可動式の大砲



安宅船ー文禄慶長の役で活躍した日本最強の軍船。

海を見た大腿骨を太くする  みつ木もも花

慶長3年8月、秀吉は伏見城にて62歳の生涯を閉じる。

東アジア有史以来、最大規模となる文禄・慶長の役は、

秀吉の死によって、日本軍が引き上げるという形で幕を閉じた。

主を失った名護屋城は、肥前唐津藩の寺沢広高に引き継がれたが、

広高は唐津湾に流れ込む松浦川の河口に唐津城を建てた。

唐津城築城の折には、名護屋城を解体した用材が使われたという。

徳川政権誕生後、一国一城令によって名護屋城は破却された。

動いたか動かされたか仕切り線  森田律子

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嘘をつく舌の手入れをおこたらず  井上一筒


  釜山城

「文禄・慶長の役」
                いあく
官兵衛は隠居後も秀吉の帷幄(陣幕)にあり、

小田原攻めで講和交渉に尽力した。

これで念願の天下統一が成り、戦乱の世は終わるはずだった。

ところが、秀吉は「朝鮮出兵」を断行。

文禄元年(1592)4月、釜山に上陸した小西行長の一番隊は、

最後通牒を朝鮮側に渡したが、その返事は届かなかった。

そこで小西軍は翌日から攻撃を開始する。

こうして「文禄の役」が始まった。

零という風が終着駅に吹く  板野美子


  小西行長

官兵衛もまた肥前・名護屋城の縄張りを行った上、

作戦指揮官として朝鮮に渡海することになる。

ところが小西行長をはじめとする緒将が好き勝手な戦をするため、

思い通りの采配を執ることができない。
            とんね              
そんなところへ、東莢にいた官兵衛を訪ねて、
             はんそん
石田三成がはるばる漢城からやってきた。

が、官兵衛は浅野長政と碁を打っており、

待たされた三成は立腹して帰ってしまう一幕があった。

官兵衛にとって朝鮮出兵は、無益な戦いでしかなく、

帰国する口実を得ようとしたとも考えられる。

手際よさすこし度が過ぎないですか  岩佐ダン吉

実際、三成が書状でこれを秀吉に訴えたため、

官兵衛は「釈明する」と言って、さっさと無断帰国してしまった。

だが翌年になると戦況は日本軍にとって不利な展開になってきた。

そこで再び官兵衛は渡海して、日本式の城郭の縄張りを担当。

現地で「倭城」と呼ばれる難攻不落の城を築いたのだ。

だが総奉行としてやってきていた三成との確執を生じ、

ここでも官兵衛は無断で帰国してしまった。
                           ざんそ
三成はこれを敵前逃亡と見なし、秀吉に讒訴した。

君の目が心拍数を押し上げる  武本 碧

秀吉は軍令違反を犯した官兵衛に激怒し、蟄居謹慎を命じた。

「天下統一がなった今、秀吉にとって自分は目障りでしかない」
                     えんせい
そう読んだ官兵衛は、即座に剃髪出家して、如水円清と号し、

野心がないことを世間に示した。

やがて朝鮮での戦争は膠着状態となり、休戦交渉が始まる。

日明両国の使者は交渉が穏便に運ぶように、

虚偽の報告書を作成した。

わたくしの中に私を打つ私  たむらあきこ

文禄の役における休戦交渉を穏便にすませようとする報告書が、

虚偽であることを知った秀吉は怒り、再度の朝鮮遠征を決断する。

「慶長の役」(1597)である。

如水は小早川秀秋の軍監を命じられ、釜山に着陣する。
 うるさんわじょう
「蔚山倭城の戦い」で黒田長政加藤清正の救援に出かけている隙に、
やんさん
梁山城に明の大軍が来襲した際、

官兵衛は1500の兵をもって、敵兵を打ち破っている。

だが、日本の侵攻が行き詰る中、秀吉が死去の報が入る。

そして朝鮮出兵は、慶長3年にようやく終わりを向かえることになる。

だんどりは360度を視野に  池 森子


 建設途中の蔚山倭城

慶長2年11月中旬ころから、官兵衛と加藤清正が縄張りを行い、
毛利秀元・浅野幸長・清正の軍勢を中心に蔚山倭城の築城を始める。

「蔚山倭城の戦い」

築城を急ぐ日本軍に対して、明・朝鮮連合軍5万7千の兵が襲撃し、

攻城戦をしかけてくるが、加藤清正を始め日本軍は鉄壁の守りで、

明朝連合軍に大きな損害を与えた。

そのため明朝連合軍は強襲策を放棄し、包囲戦に切り替える。

未完成の蔚山城で日本軍は、食料不足の籠城戦となり苦境に陥る。

年が明けた慶長3年1月になると蔚山城は飢餓により、

落城寸前まで追いつめられていた。

しかし3日、毛利秀元・黒田長政らの援軍が到着し、

翌日から日本軍の水陸からの攻撃で、

明・朝鮮連合軍を敗走させ多大の損害を与えて勝利した。

まもなく城が完成し、九州衆が城の守備のために朝鮮に残留、

四国・中国衆と小早川秀秋は一時帰国し、翌年の再派遣に備えた。

秀吉は慶長4年に再び大軍を派遣して朝鮮掃討を指示していたが、

8月18日に死去し、行長ほか派遣隊は朝鮮からの撤収が始まる。

自画像の中を流れてゆく時間  三宅保州

「官兵衛の次男」

名は熊之助

天正10年(1582)、賤ヶ岳の合戦時に山崎城で誕生した。

兄・長政とは15歳差。

慶長2年、順調に成長をした熊之助は、16歳のとき初陣として、

父・官兵衛と兄・長政が慶長の役を戦う朝鮮の地へ、

母里太兵衛の嫡男・母里吉太夫、黒田一成の弟・黒田吉松

を従え中津城から船で向かった。

ところが、不幸にも玄界灘で暴風に見舞われ、

船は沈没し、元服を前に熊之助は家臣とともに命を落としてしまう。

母・はこの知らせを大阪の天満屋敷で聞き知ったという。

前髪がそろりと旅に出る話  和田洋子

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カマ首をときどき起こし風を聴く  森中惠美子


  橋立の茶壺

利休が持つ数々の茶道具の中で最も愛したのがこの橋立の茶壺である。
それを知った茶好きの秀吉は、自分の立場を利用して利休に、
「それをよこせ」と強引に望んできた。
しかし利休は秀吉がいくら望んでも、この橋立の茶壺を手離さなかった。
これを渡さなかったことが、秀吉の勘気を買い利休切腹の一因に、
なったとも言われている。

「利休が秀吉に死刑を命じられる原因を探る」

天正18年(1590)秀吉が小田原で北条氏を攻略した際に、

利休の愛弟子・山上宗二が秀吉への口の利き方が悪いとされ、

即日処刑された。

奈良の茶人・久保利世が自叙伝の中で、

「茶説・茶話」を収録した原文に、

『小田原御陣の時、秀吉公にさへ、御耳にあたる事申て、

   その罪に耳鼻をそがせ給ひし』 とある。

この事件から、秀吉と利休の間に、「思想的対立」がはじまる。

もう二度と熱くなれない君と僕  松山和代

利休は、最晩年の天正18年(1590)から、

天正19年にかけて、『利休百会記』として、

その記録が伝わる、およそ「百会の茶会」を開いた。

徳川家康毛利輝元らの大名衆、堺や博多の豪商、

大徳寺の禅僧など、多様な人々が出席した。

また、この茶会記には、

利休七種にもあげられる「赤楽茶碗・木守」や、

利休愛用の「橋立の茶壷」などの道具を用いた。

有り様もあらざるモノも現世  山口ろっぱ

 
    利休の愛した瀬戸黒茶碗  黒楽茶碗

そして、1月13日、黄金の茶碗を所望した秀吉に、

「わび茶は無駄ともいえる装飾性を省き、

    禁欲的で緊張感のある茶である」

と主張する利休は、あえて『黒茶碗』を出した。

これが、秀吉の勘気に触れた。

黄金の茶室と利休についても、

   「利休の美意識と黄金の茶室の趣向は相反するもの」

であった。
                    
そこにいるあなたの声が聞こえない  河村啓子
 

   羽柴秀長

 そして10日後の22日、秀吉の弟・秀長が病没。

秀長は、諸大名に対し、

「内々のことは利休が」、

「公のことは秀長が承る」

と公言するほど、利休を重用していた人徳者である。

秀長は秀吉のそばにあって、唯一利休の理解者で後ろ盾であった

それから、1ヵ月後の2月23日、

突然、秀吉から、

「京都を出て堺で自宅謹慎せよ」

と利休に命令が届く。

止められぬ時の流れがごうごうと  岡田幸男

       
   大徳寺山門

千利休は、山門の閣を増築し二層とし、自らの像を安置する。
秀吉はこれに怒り、寺を破却しようとしたが、宗陳に止められる。 

2月25日には、利休の木像が聚楽大橋に晒され、

翌26日、上洛を命じられる。

前田利家や、利休七哲の古田織部、細川忠興ら、

大名である弟子たちは、大政所北政所が密使を遣わし、

命乞いをするから、秀吉に詫びるようすすめた。 が、

「天下ニ名をあらハし候、我等ガ、命おしきとて、

 御女中方ヲ頼候てハ、無念に候」 

と断った。           『千利休由緒書』に残る利休が利家に答えた言葉」

遺言と書いて江戸小噺を一つ  筒井祥文             

そして、2月28日、
               よしや
利休の屋敷がある京都葭屋町を訪れた秀吉の使者が伝えた伝言は、

「切腹せよ」

この使者は、利休の首を持って帰るのが任務だった。

利休は静かに口を開く

「茶室にて茶の支度が出来ております」

使者に最後の茶をたてた後、

利休は一呼吸ついて切腹した。  享年70歳。

利休は天下人の気紛れにも似た、理不尽な命を、

粛々と受け入れることで、信長や秀吉の上に立ったのである。

血液はサラサラですが生き下手で  山本昌乃              


   利休の茶室

利休の死から7年後、秀吉も病床に就き他界する。

晩年の秀吉は、短気が起こした利休への仕打ちを後悔し、

利休と同じ作法で食事をとったり、

利休が好む「枯れた茶室」を建てさせたという。

「利休が死の前日に詠ったとされる辞世の句」

  じんせいしちじゅう     りきいきとつ
【 人生七十      力囲希咄  
 わがこのほうけん      そぶつともにころす
     吾這寶剣      祖佛共殺     
  ひっさぐる                わがえぐそくの       ひとたち
  堤る             我得具足の    一太刀 
 いまこのときぞ     てんになげうつ
    今此時ぞ          天に抛 】               

転がってみたいと思うまっ四角  合田瑠美子

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