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川柳的逍遥 人の世の一家言
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流されているなと思いつつ流れ  前田咲二 



     郡山城

尼子氏の衰退はこの郡山城から始まった。

「尼子の最期」

秀吉官兵衛の信頼の神文が、半兵衛の手で火中に投げ入れられ、

灰になってしまった時の半兵衛の言葉です。

「天下を統一せんとするのは、合戦をいとうからではない。

  民を安らげるためでもない。

  つまらぬ戦さなどさっさと止めて、国造りをしたいからだ。

  調略を行うのは、つまらぬ小戦で兵力を損ないたくないからだ。

  敵の主力に対して全力で立ち向かい、完全な勝利を得るためだ。

  しかし、それには智恵がいる」

分が悪くなると化石になっている  小谷小雪

「神文などにとらわれて、軍師としての目が曇りますぞ。

 あなたの力は己の見栄や欲得ではなく、

 その知恵を、天下のために使ってこそふさわしいのではありませんか。

 すでに領土を侵し侵され、奪い奪われる時代ではない。

 時代は、天下統一に向けて動いている。

 貴殿は才がある。

 その才は主家のためだけに使うのではなく、

 天下のためにこそ用いるべきだ。一周り大きくなられよ」

ほらそこに夢のしっぽが光ってる  田村ひろ子



   尼子勝久(太平記英雄伝)

半兵衛のずっしりとした現実味のある説教に官兵衛は項垂れた。

以後、官兵衛は変わった。

何もかも半兵衛から会得しようとした。

官兵衛は日増しに成長した。

この時期こそ官兵衛が智将となっていく過渡期にあったと言えるが、

人生に分岐点もあれば、当然、試練もある。

その前兆となったのが、「尼子家の悲劇」だった。
       こ ち
毛利勢によって故地を奪われた尼子勝久とその遺臣たちは、

信長の元で、再興を図り、上月城を与えられ、

秀吉の翼下に組み込まれていた。

月明り背にしてこころ隠しきる  石橋能里子

ところが、天正6年(1578)の春、非常事態が生じた。

三木城主の別所長春が信長に叛旗を翻したのだ。

ことから毛利の反攻が始まり、

宇喜多直家率いる一大兵力が進攻してきたのである。

官兵衛は宇喜多勢にあったが、

信長は急遽、秀吉に対して戦線の縮小を指示してきた。

撤退すれば上月城を見捨てることになる。

官兵衛はそれだけはできないと思ったが、

信長の命令は絶対だった。

石垣の石はスクラム組まされる  籠島恵子



   書写山園教寺

三木城の造反により姫路城にいた秀吉が、東の別所氏と西の毛利氏に挟まれ
窮地に陥った時、官兵衛は書写山園教寺に本陣を移すことを秀吉に進言する。
姫路城にいては、
海が近くて毛利軍の攻撃を受けやすく、
信長からの援軍を
収容できる広さもないからである。

秀吉はすぐその策を実行し、見事危機を回避した。



「羽柴小一郎」「天正六年」「近江浅井郡」 と書かれている柱
          じきどう
書写山園教寺の食堂内には、秀吉が本陣を一時的に移した際、

兵士が書いたと思われる「羽柴」と書いた柱の落書きが現存している。

またこの地は「西の比叡山」と称される天台宗の古刹でもあり、

映画・『ラストサムライ』のロケ地としても知られている。
                  しょしゃざん
官兵衛は秀吉に従い姫路の書写山まで退いたが、

尼子勝久は、主家再興を第一義とする山中鹿之助らに支えられ、

上月城から退却しなかった。

「小事を優先してどうなる」

官兵衛は、半兵衛の言をもって必死に説得した。

だが、尼子遺臣団は織田家に従属するよりも尼子家として、

滅亡することを望んだ。

官兵衛は「以前の自分」と思った。

ホウレン草食べてポパイは死にました  大西俊和

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太陽の裏へご一緒致します  井上一筒 



  別所長治

「播磨混沌」

官兵衛半兵衛という稀代の戦略家が二人も揃ったことで、

秀吉による播磨平定の戦いは順風満帆に進み始めた。

そして作用城と上月城を鮮やかに落としたことで、

播磨の豪族たちの心は織田方に靡いたようにも見えた。

だが、天正6年(1578)正月、

秀吉が戦勝報告のために信長の元へ戻った隙に、

再び毛利と気脈を通じる者たちが出てきた。

白いめまい背信のその日から  安土理恵 

そして、2月になると東播磨を治める別所長治が反旗を翻す。

理由については、後世、さまざまに語られている。

その一つは、織田軍の総司令官である秀吉の出自だ。

播磨のような田舎では、まだ中世的な身分意識が強く残っており、

名族意識の強かった豪族たちに侮られた。

それと別所家の場合、家中に一向宗の門徒が多く、その本山である

大坂石山本願寺と敵対していた織田家を敵視する者も多かった。

さらに別所氏と昵懇であった丹波の波多野氏織田氏の対立も、

要因のひとつとされている。

反逆の血をたぎらせて緋を纏う  森吉留里惠

いずれにしても東播磨で約43万石という大勢力を誇る別所氏が、

毛利方についたことで、多くの小豪族がそれに従うことになった。

秀吉は3月末から三木城の攻撃を開始。

だが4月になると、

別所一族で唯一織田方に付いていた別所重宗の別府城を、

毛利の軍が急襲する。

この時は、官兵衛が兵を率いて救援にかけつけている。
                あ べ
これが、官兵衛の引きつけ戦術・「阿閉城の戦い」である。

尻尾のない男が一人まぎれこむ  居谷真理子



  山本山城二の丸跡

山本山のことを、山の南側の山本村では山本山(山本山城)と呼び、                
                    あつじ

対して、東側の阿閉村側では、阿閉山(阿閉城)と呼ぶ。

この呼び名は、この城が南向きに機能していた時と、

東向きに機能していた時の名残でふたつの顔がある。

「阿閉城の戦い」

三木城の城主・別所長治が信長に叛旗を翻したときのこと。

加古川市にある阿閉城は、別府城とも呼ばれ、

長治の叔父にあたる別所重棟の居城である。

重棟は、足利義昭を奉じて上洛した信長のもとに馳せ参じるなど、

別所家の親織田派の急先鋒だったが、
    よしすけ
兄・別所賀相との内部抗争に敗れて、主家と袂を分かつ道を選んでいた。

沈黙がカリフラワーになっている 岩田多佳子

東播磨で毛利方についた別所長治に同調しなかったのは、
      かすやたけのり
この阿閉城と糟屋武則が城主を務める加古川城だけだった。

そのため毛利輝元は阿閉城と加古川城を落とし、

それから三木城の別所長治と協力して、

西播磨の姫路城へと進軍する戦術をたてた。

そこで輝元は、備前国・岡山城主の宇喜多直家の軍勢8千を海路で、

阿閉城に派遣した。

一方、時を同じくして秀吉に命じられた官兵衛が、

5千の兵を率いて、篭城の援軍に駆けつけた。

二枚貝ほどの扉で守る城  清水久美子



阿閉城(山本山城)は小谷城の西約5kmに位置し、

琵琶湖岸の標高324mの山本山の山頂付近に築かれている。

山本山の山頂からは琵琶湖を一望できることから、

湖上交通をも掌握する上で、重要な役割を担っていた。

官兵衛はまず、兵の数をより少なく偽装するため幟や旗を隠させた。

それを見た大軍を擁する宇喜多軍は、

もともと阿閉城が防衛力に乏しい小規模な城だったこともあって、

侮りきっていた。

官兵衛は城兵たちに、いっさい反撃せずに敵を十分に引きつけ、

的を外さない射程距離まで引き寄せたら、

一気に鉄砲や弓矢を放つ、戦術を指示していた。

銃とパンあげるどちらか取りなさい  森 廣子

敵が無抵抗なのを甘く見ていた宇喜多軍は、

鉄砲用の盾も持たずに城壁を登り始めた。

そのため官兵衛の号令で、

いっせいに射かけられた鉄砲や弓矢に死者が続出。

敵のパニック状態をみて官兵衛の手勢が城門を開いて突撃すると、

宇喜多軍は総崩れとなって敗走したのである。

口パクで枯れ木も山のにぎわいに  藤本秋声

拍手[3回]

人物をそっと描き足す風景画  合田瑠美子

  

軍法極秘伝書ー(竹中半兵衛)

「上月城の戦い」

黒田官兵衛が活躍した戦いの中に、「上月城の戦い」がある。

この戦いは、凄惨さを極めたことでも知られている。

天正5年(1577)10月、羽柴秀吉は播磨に増発した。

播磨と美作の国境付近に位置する上月城を攻略するためである。

秀吉を支援したのが官兵衛であった。

西国方面の攻略に際して、秀吉がもっとも注力したのが、

播磨国の有力な領主から人質をとることであった。

これには官兵衛も一役買っている。

これで秀吉は圧倒的に優位な状況で戦いを進めることが出来たのである。

裏側も確かに僕の貌である  熊谷岳朗

 

  上月山城への中腹       山城本丸跡

まず11月27日、勢いに勝る秀吉勢は、

わずか一日で福原城を落とした。

これによって播磨における反織田勢力は、

の姉・が嫁ぐ上月城だけとなった。

官兵衛は乱世の習いとして親戚と戦う覚悟を決め、

光はそんな官兵衛にすべてを託す。

上月城は播磨・備前・美作の3カ国の境で織田方と毛利方の、

最前線に位置している。

そして福原城から約1里離れた上月城に秀吉の軍勢は迫っていた。

昨日から前頭葉に柿の種  森 茂俊        

身内での争いを避けようとした官兵衛は、

官兵衛は間際まで城主の上月景貞に降服するように説得を繰り返す。

しかし景貞は応じず、力も景貞に添い遂げる覚悟を見せる。

調略が不可能と悟った官兵衛は、

秀吉軍の威光を知らしめるためにも、

「すぐに上月城を落とすべし」として、秀吉に先鋒を買ってでる。

この先遣隊として活躍したのが、官兵衛と半兵衛であった。

これが官兵衛と半兵衛が共同して戦った、はじめての合戦である。

夕焼けを飲んで二人乗りブランコ  清水すみれ 



 山中鹿之助 

上月城攻めに最も活躍した山中鹿之助の勇姿 

対する上月軍には、宇喜田直家が援軍として駆けつけていた。

まもなく黒田軍と上月軍が激突する。

序盤は黒田軍が優勢に戦を進めたが、

側面から宇喜田軍の追撃を受けると、黒田軍は窮地に立たされる。

そんな危機を救ったのが鹿之助が率いる尼子勢だった。

直家は秀吉と尼子の軍勢と交戦して、散々に打ち負かされ、

敗走中に自軍の兵の首が、619も取られた。

ライバルの浦上宗景を天神山城から放逐した直家であったが、

さすがに秀吉軍にはかなわなかったのである。

絡みつくものを月光で洗う  本多洋子

宇喜田勢を打ち破った秀吉は、

その余勢を駆って上月城に迫り、さらに激しい攻撃を行った。

落城から惨劇の様子を実況―

宇喜田氏との合戦場から引き返し、

いよいよ七条城(赤松七条家の城)を取り詰めた。

水の手を奪ったこともあって、上月城の篭城者から、

いろいろと詫びを入れてきたが、秀吉は受け入れなかった。
      ししがき
そして、返り猪垣を三重にして城外への逃亡を防ぎ、

諸口から攻撃を仕掛け、12月3日に城を落とした。

敵兵の首をことごとく刎ね、その上に敵方への見せしめとして、

女・子供200人余を播磨・美作・備前の境目において、

子供を串刺しにして、女を磔にして晒すなど残虐の限りを尽くした。

官兵衛の眼下には、悲惨な光景が広がった。

過去形に閉める扉は後ろ手に  真鍋心平太



  山中鹿之助    

戦後、上月城には、鹿之助ら尼子氏が入った。

秀吉はこの勝利によって、

中国方面における織田軍優勢のきっかけを作り、

播磨・但馬両国を申し付けられた。

また信長から秀吉は茶道具「乙御前の釜」を褒美として与えられた。

官兵衛は信長や秀吉の期待に大いに応えたことによる、

感状を信長から送られた。

上月城城主・上月景貞の妻であり、光の姉である力は、

夫と家臣たちの菩提を弔うため出家する道を選択した。

雨は小止みに冴えだしたビブラート  山本昌乃

【豆辞典】ー乙御前釜



   乙御前釜

乙御前とはお多福の異名

名前の由来は、お多福の面のようなふくよかな形状にちなむ。

秀吉の時代になって開催した大徳寺や北野の大茶会でも用いられた。

なお秀吉から茶会を開くことが許された家臣は秀吉を含めて5名。

柴田勝家ー柴田井戸、丹羽長秀ー白雲、明智光秀ー八重桜、織田信秀ー初花

風になるか人で通すか模索中  嶋沢喜八郎

拍手[5回]

現役のままボリュームは絞らない  美馬りゅうこ



芳年武者旡類

当時はまだかけだしの毛利元就と激戦のすえ、

敗れた尼子氏再興のため、


「願わくば我に七難八苦を与え給え」

と三日月に祈る山中鹿之助。



「山中鹿之助」

山中鹿之助は、山陰地方をおさめていた尼子氏の家臣。

名は幸盛

一騎打ちで毛利氏配下のも猛将を何人も討ち取り、

「山陰の麒麟児」の異名をとる。

その尼子氏が毛利元就の謀略により永禄9年(1566)に滅亡する。

鹿之助ら尼子遺臣団は、京都・東福寺の僧籍にあった尼子勝久を、

還俗させ擁立し、尼子氏再興のため立ち上がる。

永禄12年、山名祐豊を頼り但馬国を経由し、

隠岐の豪族・隠岐為清の協力を得て、出雲忠山を占領。

その後、出雲の尼子遺臣の勢力を吸収、

「新山城」を落しここに本営を置く。

「原手合戦」で毛利軍に勝利するなど、

毛利氏の拠点・月山富田城を除き、

出雲一国をほぼ手中に収めるまでに勢力を伸した。

潮騒にしばらく心ゆだねよう  柴田園江



  尼中鹿之助

その後、尼子遺臣団の統制の乱れ、隠岐為清の離反、

そして「布部山の戦い」に敗北するなど衰勢著しく、

元亀2年(1571年)8月に新山城が落城する。

この「美保関の合戦」で、鹿之助は元就の次男・吉川元春に捕らえられ、

尾高城に幽閉されるも、監視の油断をついて脱出する。

これが鹿之助による尼子氏再興蜂起の一回目である。

頑な私にまぶす塩麹  松本柾子

その後、鹿之助らは京都に逃れた。そのとき信長に拝謁している。

尼子遺臣団は尼子氏再興の志を秘めて山名氏と組み、

因幡国を転戦、「甑山城での戦い」「鳥取城の戦い」を制し、

天正2年(1574年)頃には、因幡国の諸城を攻略し、

織田方の浦上宗景の助力もあって若桜鬼ヶ城・私都城の確保に至り、

一時的にも尼子氏を再興することに成功した。

ところが、毛利氏と敵対していた山名祐豊が、

信長に脅威を感じ毛利氏と手を組んだことや、

織田軍の支援を得ることができなくなったことで、

天正4年5月、鹿之助ら尼子再興軍は若桜鬼ヶ城を退去し、

因幡から撤退する。

尼子再興二度目の失敗である。

人間さまを信じられないのが辛い  大海幸生    



 絵本太閤記

中国勢上月の城を囲む

上月城は延元元年(1336)に築城された。

天正5年に秀吉軍の攻撃で落城後尼子勝久が入城している。

だが翌年には、毛利の大軍に囲まれて落城した。

その後鹿之助らは織田軍のもとで、尼子氏再興を目指すことになる。

明智光秀「丹波平定戦」織田信忠「信貴山城の戦い」に参加。

また信長の命令を受けて、秀吉が播磨国へ進軍を開始すると、

尼子再興軍もその行軍に参加する。

秀吉が毛利の拠点・上月城を攻略すると、

勝久・鹿之助らは上月城の守備をまかされる。

出直しのチャンス頂く春キャベツ  靏田寿子   

天正6年(1578)2月、三木城の別所長治が信長に叛旗を翻すと、

毛利軍はこれを機に吉川元春・小早川隆景らが軍勢を率いて、

播磨に攻め込み、4月には、上月城を包囲する。

「毛利軍が上月城を包囲した」 という知らせを受けた秀吉は、

荒木村重らとともに軍勢を率いて、上月城の救援に向かおうとするが、

信長より別所長治が篭城する「三木城の攻撃を優先せよ」

命令があり、上月城は孤立無援となる。

そして兵糧も底を突き、また兵士も戦意喪失しはじめ、

7月5日、ついに尼子主従は、同年7月5日毛利軍に降伏した。

撤退が始まる人間らしくなる  岩根彰子



阿井の渡しにある鹿之助の墓

降伏の条件として、

尼子勝久は切腹を命ぜられ、鹿之助は生け捕りとなる。

そして備後国鞆浦・毛利輝元の陣へ護送される途上の阿井の渡しで、

鹿之助は謀殺される。

この鹿之助の死によって尼子氏再興活動は完全に絶たれた。

【予談】(鹿之助の長男・山中幸元(鴻池新六)は父の死後に、

    武士を廃して、
大阪伊丹市で酒造業をはじめて財を成し、


    豪商・鴻池財閥の始祖になったという)

ブラックホールの傍にインターホンがある 岩田多佳子



 絵本太閤記

山中鹿之助VS品川狼之助の一騎打ち

【エピソード】

毛利氏による尼子氏の居城・月山富田城攻城戦のなか、

毛利輝元が、石見の兵を中心に編成した軍勢を引き連れ、

尼子氏の兵糧集積場(荒れ寺)に兵を伏せ、

山中鹿之助率いる尼子氏の軍勢に奇襲を掛けた。

ところが、鹿之助率いる尼子氏の軍勢による返り討ちに遭い、

輝元も殺されそうになる。

そのとき品川狼之介が現れ、周辺の敵を長剣で打ち払い、

輝元の危機を救う。


敵である狼之介の活躍に目を留める鹿之助。

狼之介が名乗りを上げる「拙者、石見の生まれ、品川狼之介」

鹿之助 「狼之介?」

狼之介 「左様。ただ鹿(鹿之助)を討つことのみを夢見て、

     古き名を捨て狼之介と名乗っておる」

鹿之助 「面白い、出られい」

荒れ寺の外で、狼之介と鹿之助の一騎打ちが始まる。

光り出すあなたが欠けて行く月夜  山口亜都子

幸盛(鹿之助)が先行して川に飛び込み、

将員(狼之介)は幸盛が川の途中まで渡ったところで

川に飛び込み、決闘の場所へと向かった。

将員は大弓に矢をつかえて川を渡ろうとしたため、

尼子軍の将、秋上伊織介(宗信)、五月早苗介、藪中荊之助は、

「一騎討ちの戦いに飛び道具を使用するとは、臆病者の所業だ。

 お互いに名乗りを上げての勝負なので、

 太刀による打ち合いで行うべきだ」

と大声を上げ抗議した。
                            約600m
しかし将員はその声を無視し、そのまま30間ばかり、

川を渡っていたため、たまりかねた宗信は、

弓に大雁股の矢をつかえて解き放ち、将員の弓の弦を切り落とした。

攻撃を阻止されたため将員は怒り、壊された弓矢を投げ捨て、

中州に上がると、大太刀を抜いて幸盛に切りかかった。

対する幸盛も太刀を抜いてそれに応じ、太刀打ちの勝負となった。

一時余り戦うと、しだいに幸盛の力量が勝り、

将員は受け太刀となり追い詰められた。

太刀打ちの勝負に不利を感じた将員は、

「取っ組み合いで勝負を決めよう」

と幸盛に提案し、幸盛もそれに応じたため、

勝負は組討へと変更になった。

組討勝負は、力で圧倒する将員が勝り、将員が幸盛を組み伏せる。

しかし組み伏せられた幸盛が、下から腰刀により将員の太股を2回抉り、

弱った将員を跳ね返してその首を切り討ち取ったため、

幸盛の勝利となった。

幸盛は「石見の国より出でたる狼を、出雲の鹿が討ち取った。
たらのき
             もとより棫の木は好物なり。我に続け」

と叫びながら味方の陣に帰還した。  『雲陽軍実記』

フィニッシュは地獄の釜へ真っ逆さま  新家完司    

『雲陽軍実記』に狼之助は、

「自分は抜群の大勇力を持ちながら、

 運悪くこれまで万人の目を驚かすほどの高名がない。

 尼子には、山中幸盛、立原久綱、熊谷新右衛門

 三傑といわれる人物がいるが、その1人なりとも出会い、

 一騎討ちの勝負をして名を後世に残したい。

 特に幸盛は軍智博学・勇猛兼備の者なので、

 討ち取れば比類の無い高名を得ることができるだろう」

と思い、毎日城を出て敵陣の様子を探っていたと独白する。

獺と鼬の暗闘は済んだ  井上一筒 

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真夜中にバケツの水を入れかえる  河村啓子

  

天正6年(1578)元日。

織田信長松井友閑を茶頭にして茶会を開催した。

この時代の茶の湯は政そのもので、信長の茶会に招かれることは、

織田家中で一歩抜きんでることにほかならなかった。

茶会に招かれたのは、

秀吉、信忠、光秀、村重、長秀、一益 ら12名で、

謙信に備える勝家は席に加わることが出来なかった。

茶会で秀吉がひと月で播磨を平定したことが話題になると、

秀吉は、「すべて信長の威光のおかげ」だと主君を立てる。

そんな秀吉は毛利攻めに際して、信長の出陣を願い出た。

対して信長は、荒木村重に本願寺との和睦を急かせると、

毛利氏を自ら叩き潰すと宣言する。

砂嵐と根気比べをする駱駝  高島啓子

村重は、石山本願寺の顕如に和睦を申し入れていた。

しかし身内を殺されていた門徒たちは、信長の卑劣さを憎み、

死ぬまで戦い続ける覚悟を決めていた。

顕如でも門徒衆を止めることは出来ない状態だった。

石山に留まって顕如の返答を待っていた村重は、

元朋輩と再会した。

旧友にも信長の非道ぶりをなじられた村重は、

逆に信長のやり方が嫌で、

気苦労が重なっているのではないかと労られる。

古い付き合いだからこそ、村重の心中を察するものがあったのだ。

すみません作り笑いの時間です  鳴海賢治    

まもなく石山本願寺・顕如から村重に返事が届いた。

本願寺は和睦には応じないという返答であった。

和睦しても、信長が門徒衆を皆殺しにすることを、

本願寺側は見越していたのだ。

和睦の失敗を聞いた信長は、「それなら滅ぼすまで」と声を荒げ、

村重には、本願寺が一区切りついたら播磨に行って、

秀吉の配下になるよう命じる。

屈辱的な命令をされた村重は、手柄を立てて、

ふたたび這い上がるしかなかった。

モリブデン前者の轍の踏み心地  井上一筒



『石山本願寺合戦』ー歌川豊宣画(明治16年)

「石山本願寺との10年戦争」

「天下布武」を目論む信長は、豊富な財貨を所持する石山本願寺に、

戦争資金の支援を求めた。

発展する流通社会のなかで、

街道筋の関所、運送業者、商品生産の元締め、流通市場などを

支配下においていた本願寺は、金銭に困ることはない。

いわゆる「金持ち喧嘩せず」で顕如は信長の求めに応じ、

五千貫を供与した。

それから、2年後の元亀元年(1570)9月、

信長は現在の大阪城辺りに位置する本願寺が所有する土地からの

立ち退きを求めた。

味方だと思い込んでいた敵の敵  笹倉良一

本願寺立ち退きには二つの理由が考えられる。

一つは、大きな経済的な基盤を持ち、武装した寺社勢力をなくす事。

権益を守るための寺社は、膨大な門徒宗がそのまま、武力となり、

また武装した僧兵や神人たちは、信長にとって氏族と何ら変わらない

「目の上のたんこぶ」だった。

一つは、信長はこの土地の有効性を知り、

何としても手に入れたかった事。

当時、摂津地方は満潮になると海流が淀川・大和川の奥まで逆流し、

雨が降れば一面水浸しの湿地帯になる。

摂津地方で唯一この石山の上町台地は高台になっており、

乾燥地帯であった。

またこの台地は淀川の河口に位置しており、京都の朝廷の牽制になり、

西国の大名を牽制できる絶好の地でもあったからだ。

地下茎を太らせながら風を待つ  前岡由美子   



天下布武とは、「七徳の武」をもって天下を治めるという意味。

七徳の武とは、「暴を禁じ、戦をやめ、大を保ち、功を定め、

民を安んじ、衆を和し、財を豊かにする」の七つを意味する。

信長のやっていることは、すべてこれらに逆行することだが、

これを達成する為には、「障害となるものは叩き潰すのみ」

何の批判があろうと、強行手段も止むを得ないと考えたのである。

こうして多くの大名が恐れていた聖域にも足を踏み入れた。

その内に一体となる天も地も  板野美子



一方、本願寺にとって信長の横暴はこれで終わるとも思えず、

信長への不信感が募らせていく。

そんな中、元亀元年(1570)、信長は石山本願寺の対岸に位置する

三好氏の野田砦と福島砦に攻撃を仕掛けてきた。

この砦を攻め落せば、信長の次の狙いは、「おそらく本願寺」

そう考えた本願寺の顕如は、

「危機である!」と門徒に決起を促した。

こうして本願寺と信長の10年戦争がはじまるのである。。

手を打つと怪しい雲がやってくる  森 茂俊

信長は、諸国に蜂起する本願寺一派の一向一揆の討伐に手こずったが、

天正4年(1576)安土城を築くと、ここを拠点として、

一向一揆の本拠地である石山本願寺を猛攻、悪戦苦闘の末、

本願寺の軍を石山城内に閉じ込めることに成功する。

そこで信長は、本願寺の四方十ヶ所に砦を築き、兵糧攻めにした。

大阪湾からの兵糧搬入も水軍で海を包囲した。

これに対し、本願寺方も五十一ヶ所に端城を構え、

長期籠城の構えをとり、安芸の毛利氏の支援を得て、

糧食を大阪湾から寺内に搬入させて対抗した。

極め球を持った男の背のゆとり  山野寿之

さすがに、本願寺を支援する毛利の水軍は強力であった。

そこで、信長は対抗策として巨大な鉄の軍艦を造り、

軍艦には大砲も装備した。

これが有名な信長の巨大鉄船である。

この軍艦は、さすがに毛利水軍を圧倒した。

そして天正8年(1580)正親町天皇が仲裁に入り、

信長は、門徒衆の命を取らないことを約束。
 
本願寺の顕如は、「石山からの退去・武力抵抗をやめること、

信心だけなら許すが、武力抵抗のみならず、

武装することすら許さない」という信長の条件を受け入れ、

本願寺を開け渡すに至ったのである。

もう少し酔えば桜を見に行こう  ふじのひろし

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