- 2014/07/12
- Category : ポエム&川柳
信長ー本能寺に斃れる
本能寺ー光秀の急襲
「信長・本能寺に斃れる」
天正10年(1582)6月2日未明、信長に命じられ、
一足先に中国戦線へ赴くはずだった光秀の軍が、
京の本能寺を急襲した。
世に言う「本能寺の変」である。
わずかな供回りしか連れていなかった信長は、
当初は自ら弓や槍を持って奮戦したが、
やがて居間に戻ると、自ら館に火を放ち自刃した。
妙覚寺に滞在していた嫡男の信忠は、
防戦のために、二条御所に移った。
だが、「衆寡敵せず」で、信忠も自刃して果てた。
※ 衆寡敵せず=少人数では、多人数にとても勝てない。
持逃げされた向日葵の首一つ 井上一筒
本能寺信長(国芳絵)
この知らせが秀吉の元に届いたのは、翌3日の夜であった。
光秀の密使が秀吉の陣迷い込んだとも、
京にいた信長の茶道相手である長谷川宗仁が、
いち早く、秀吉に知らせたとも言われている。
いずれにしても、
京での変事を毛利よりも早く知ることができたのは、
まさに天運というべきだろう。
ただし、この一報に触れた秀吉は激しく動揺し、取り乱した。
主君・信長が明智光秀に討たれたことも衝撃だが、
同時に、織田の援軍10万はなくなり、
もし毛利方がこの事実を知れば、
和睦どころか攻勢に転じる可能性さえある。
秀吉はまさに絶体絶命の淵に立たされたのである。
梟の目など信じたけれど夢 山本早苗
衝撃と困惑ー当然、この事実を知った官兵衛もそれに襲われた。
しかし、有岡城で死地を切り抜けて来ただけに
「肝」は据わっていた。
最も大事なことは、
取り乱している秀吉を落ち着かせること、
人間とはいかなる生き物かを、
その体験から誰よりも知っている官兵衛は、
秀吉の耳元で信じられない言葉を囁いた。
まま
「さても天のご加護を得させ給い、もはや御心の儘なりたり」
" 殿には武将としての御武運が巡ってきました。
ここを切り抜けた後に待っている大事に、懸けようではありませんか、
信長が殺されたことを「奇貨」とし、
あるいは「ポスト信長」の一番手となって、
この後に対処したらどうか・・・"
というのである。
※ 奇貨=利用すれば思わぬ利益を得られそうな事柄・機会。
ほぐされってジキルとハイド入れ替わる 早泉早人
しお
このひと言で、萎れていた秀吉の心に「希望」が甦った。
さらに、官兵衛の言葉は、
本能寺の変で、絶望の淵に追い詰められた秀吉軍の将兵にも、
「この死地を脱すれば、我らが殿が天下人になる」
という、夢を与えることにもなあった。
官兵衛は秀吉の命を受けて恵瓊を呼び、和睦を急いだ。
信長の横死を恵瓊に知られず、
かつ、拙速ではない和睦が求められた。
仏飯とまるい会話をして生きる 岩根彰子
「毛利方を欺き通し和睦して上方に急反転して信長様の仇を討つ」
これが、官兵衛の瀬戸際外交の骨子であった。
そして、信長の死の二日後の6月4日、
正式に和睦が成立し、清水宗治が切腹して果てた。
官兵衛の和平交渉が実を結んだのだった。
あとは上方に向けて大軍を移動するだけだ。
しんがり
官兵衛は自ら殿軍を申し出て、
毛利勢が前線を引くのを確認してから、堤防を切り落とした。
戦国史上に名高い『中国大返し』と呼ばれる秀吉軍の
大移動が開始されたのは、6月6日のことだった。
生き死にの話はご飯食べてから 谷口 義
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