- 2014/04/30
- Category : ポエム&川柳
戦国時代の軍師
月光で影を洗ってから眠る 木本朱夏
「戦国時代の軍師」
安国寺恵瓊 (1539-1600)
えけい
恵瓊は毛利家の外交僧。
つまり対外交渉の任を務めた禅僧として、秀吉の窓口となった。
本能寺の変で信長が横死することを予言。
その鋭い眼力で外交手腕を発揮し、秀吉にも信頼されて、
伊予6万石の大名に抜擢されたともいわれ、
九州征伐や朝鮮の役にも出陣する。
政治家や外交官の顔を持つ宗教家として戦国の世を生き抜いた。
天正元年(1573)信長が将軍・足利義昭を京から追放すると、
毛利輝元は自家に迷惑が及ぶことを避けるため、
恵瓊に講和の斡旋を命じた。
恵瓊は、輝元の使者として奔走し、信長配下の秀吉と面会する。
その後、毛利家家臣へ送った手紙に、
「信長の世は3年や5年は保つし、
来年は公家の位階を得もしようが、
しかし、派手派手しく仰向けにひっくり返るように見えます。
そして、秀吉はなかなか出来る人物ではないかと考えています」
と記し、10年後の信長を予言し、秀吉の才能を見抜いていた。
優れた交渉力と観察眼で後世に名を残した恵瓊だったが、
「関が原の戦い」で捕われ六条河原で斬首された。
かき混ぜておく糖床の私小説 本多洋子
山本勘助 (1493-1561)
10年もの長きに渡って遍歴を続けた勘助の兵法家としての名声が、
やがて武田家の重臣に届き、間もなく信玄の耳に入る。
信玄は、築城術や諸国の情勢について勘助と語り、
「呪術や占いにも精通した知識の深さ」に感心して厚く信頼。
300貫という破格の待遇で迎えた。
天文19年(1550)、
勘助は、北信濃の豪族・村上義清の「戸石城攻め」に従軍する。
苦戦に陥ったが、勘助は一計を案じて、
敵軍を南へ向けさせる作戦を、信玄に進言した。
それは武田軍が太陽を背負う陣形にすることで、
相手方の目を眩ませるというもの。
この作戦が奏功して劣勢を覆し、見事に村上軍を打ち破った。
そして「第4次川中島の戦い」では「キツツキの戦法」を立案。
この戦法は、軍を二分させ一隊が上杉軍を背後から襲い、
狩り出されたところをもう一隊が挟み撃ちにすうるというもので、
キツツキが口ばしで木を叩き、
出てきた虫を食べる様子にたとえた戦術だった。
しかし謙信はこの戦法をいち早く察知、実現されず、
かつ勘助はこの戦で討ち死にしたが、奇策として後世に語り継がれる。
大甕の底に信玄の股引き 井上一筒
小早川隆景 (1533-1597)
隆景は、類稀な計略の才で西国の覇者となった毛利元就の三男。
元就には9人の男子がいたが、
その資質を最も色濃く受け継いだのが隆景である。
事実外交手腕に長け、秀吉の心を巧みに掴む切れ者だった。
軍を率いて戦場に出れば、勇猛果敢に敵陣を駆け抜けてみせた。
幼少期に諸国をたらい回しにされた者の処世術か、
隆景は、「世の趨勢を見通す眼力」も備えていた。
毛利家は、秀吉に臣従する道を選ぶ。
隆景と官兵衛は、四国、九州、小田原各征伐にも揃って出征。
官兵衛は、「私に比べ、小早川殿の判断には狂いがない」
と評したという。
年齢は隆景が一回り上だが、
主君の懐刀という同じ立場にある者同士、器量を認め合う仲だった。
また、小田原城攻略の長期化にしびれを切らし、
大坂城へ帰ろうとする秀吉に逗留を促したのが隆景だった。
やがて北条方は戦意喪失し、降伏を申し出る。
「この殿は深い思慮をもって平穏裡に国を治め、
日本では珍しいことだが、
伊予の国には騒動も叛反もない」
と宣教師のフロイスが著書「日本史」に書いている。
夕焼けに染まったほうが素顔です 清水すみれ
竹中半兵衛 (1544-1579)
半兵衛は、戦国時代屈指の軍師で、秀吉の参謀として活躍。
官兵衛とともに「二兵衛」と称された。
また三国志の軍師・諸葛孔明の再来とも言われた。
「長篠の戦い」で武田勢の一部が向って左に移動した。
秀吉は、回りこまれるのを警戒したが、
半兵衛は織田勢の陣に穴を開けるための「おとり」だと判断。
秀吉は迎撃のため兵を動かしたが、
半兵衛は手勢と共に持ち場を離れなかった。
すると武田勢は元の位置に戻って、秀吉不在の地に攻め込んだ。
半兵衛が守っている間に秀吉は慌てて帰還したという。
半兵衛は純粋に勝つことを追求。
秀吉が天下統一が出来たのは、半兵衛と官兵衛の力だと言われている。
二人は時にライバルとして対立しながらも秀吉に尽力したが、
三木城攻略中に半兵衛が病死。
享年36歳。
遺された采配や軍配団扇を官兵衛が譲り受けた。
なあ時計あまりに律義すぎないか 佐藤美はる
真田昌幸 (1547-1611)
昌幸は、父・幸隆と子・幸村とあわせて「真田三代」とうたわれた。
信玄からは「我が両眼の如し」と評されて、
「小信玄」「信玄の懐刀」と称される。
武田氏滅亡後に自立し、後に秀吉に臣従。
「上田合戦」で2度にわたって徳川軍を撃退したことで知られ、
とくに関が原の戦いの前哨戦「第二次上田合戦」では、
徳川秀忠率いる約4万の大軍をわずか2千の軍勢で上田城に足止めし、
秀忠軍を関が原に遅参させることに成功している。
ブラック珈琲みんなアドリブだった頃 菊池京
真田幸村 (1567-1615)
幸村は通称で、本名は信繁。
名軍師である祖父・幸隆、父・昌幸の血を受け継ぐ猛将だった。
関が原の戦いで兄・信之と袂を分かち、
昌幸とともに西軍につくことを決意。
秀忠を「上田決戦」で足止めした逸話はよく知られているが、
しかし、西軍は破れ、
幸村は14年もの幽閉生活を強いられることになる。
幸村が軍師としての活躍を見せたのは、
晩年になり「大坂の陣」においてだった。
慶長19年(1614)、家康は全国の大名に豊臣討伐令を下した。
それに対して幸村は、大坂城を固守しながら、
敵に甚大な損害を与える籠城策「真田丸」を構築する。
一説には、この「冬の陣」における東軍の大半の犠牲者が、
真田丸から出たとも言われるほどの成果を上げた。
そして決戦の「夏の陣」。
大坂城の堀は埋められたために、野外で迎撃する方針に変更。
幸村は本陣へ突入するして家康の命を危うくするが、
あと一歩のところで失敗に終わり討ち死にする。
蒼い光少し放って待っている 安土理恵
直江兼続 (1560-1619)
兼続は上杉景勝のもとで辣腕をふるい家康にまでも反旗を翻した。
彼は優れた武将であると同時に、詩歌や書物を好んだ文人であり、
さらに民政にも並々ならぬ才を発揮。
まさに「知勇兼備の人」だった。
上杉家は西軍敗北の報を受け、撤退を余儀なくされる。
しかし兼続は冷静に指揮をとり、
被害を最小限に抑えて次の手を講じた。
家康に歯向かった上杉家は、
これまでの4分の1となる米沢30万石に減封されたが、
改易には至らず減封だけで済んだ背景には、
兼続の政治工作があったという。
ほとんどの家臣は、上杉家を去らずに米沢へと移った。
兼続は下級武士に今で言うところの仮設住宅を与え、
着々と町づくりを進めた。
米沢城の改修、城下の整備、治水工事、農業指導など、
多岐にわたる都市計画を指揮。
後に江戸時代の名君・上杉鷹山は、藩政改革の折に、
兼続の政策をお手本にしたと言われている。
兼続は一国の大名に引けをとらない知勇を持ちながら、
上杉景勝を生涯ただ一人の君主とし、
政治、経済、軍事すべての面で支え、己の人生を捧げた。
天よ地よせめても心して動け 徳山みつこ
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