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川柳的逍遥 人の世の一家言
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消し炭を掴む男の意地の果て  森中惠美子

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幕末・明治の会津美人

上から順に、外人好みの日本的美人、日本一の人気芸者、

外国に紹介された美少女、ミス日本第一号、幕末のハーフ美人。


神保修理の妻・雪も女らしい美人であった。

(各写真は拡大してご覧ください)

2ddd58ea.jpeg 神保雪役(芦名星)

「神保修理・雪ー非情」
                                        おかずみ
神保雪は会津藩士・大組物頭・井上丘隅の二女。

軍事奉行添役・神保修理に嫁ぐ。

夫婦仲は周囲も羨むほど睦まじいものであったとされ、

修理も雪子に対して愛情を注ぎ、

周囲からも羨望の的であった。

寒いねという人がいて温かい  笠原道子

修理は家老・神保内蔵助の長男で、秀才の誉れ高かった。

藩命による長崎派遣で各藩の志士と交友し、

坂本龍馬「会津には思いがけない人物にてありたり」

と評されている。

慶応4年(1868)「鳥羽・伏見の戦い」では、

徳川慶喜に恭順を進言。

慶喜が戦のさなかに、海路江戸へ向かったのは、

修理の誤った戦況報告による失態とされ、

2月13日、会津藩の江戸屋敷で切腹となった。

根回しをしすぎて落ちた穴の中  桜風子

会津にて夫の最後を知った雪は、化粧をしなくなり、

自室に引き籠った。

父・井上丘隅は白河口の戦いで負傷、会津戦争でも敗走。

8月23日、井上邸で父母・姉は自刃したが、

雪は婚家へ戻るよう説得され、

神保家に向かったといわれる。

雪子もまた、同年8月の会津戦争において薙刀を手に、
じょうしたい
娘子隊に参加したといわれるが真相は不明。

彷徨中に大垣藩本陣(長命寺)の捕虜となった。

25日、放免を主張した土佐藩士・吉松速之助

脇差しを借りて壮絶な自決を遂げている。享年24歳。

琴線に触れてしまった昼の月  合田瑠美子

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   なよたけの碑

会津戦争では新政府軍に降るのをよしとせず、

自刃して命を落とした女性が数多くいた。


西郷千恵の辞世から名付けられたこの慰霊碑には、

会津女性233人の名が刻まれている。


"なよ竹の風に任する身ながらも たゆまぬ節は有とこそきけ"  
                                       (西郷千恵)

c657173d.jpeg 神保修理役(斉藤工)


「神保修理」

慶応3年(1867年)10月、大政奉還によって風雲急を告げ、

神保修理(長輝)もまた長崎から大坂へ帰還。

12月の王政復古によって事態の収拾が不能となると、

修理は高揚する主戦論に対し、

不戦恭順論を将軍・徳川慶喜に進言。

江戸に帰り善後策を練ることを強く説いた。

これにより、会津藩内主戦派急先鋒の佐川官兵衛らと、

激しく対立する。

もうあとは雨と風とに任せます  八上桐子

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     錦の御旗

結局、戦いは避けられず鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、

修理は軍事奉行添役として、会津藩の軍権を持ち出陣する。

しかし、旧幕府側は兵力で圧倒しながら、

戦況が思わしくないことに加え、

鳥取藩などの寝返りによって、不利な状況に転じた。

また倒幕軍側に「錦の御旗」が翻り、

朝敵となることを恐れた修理は、慶喜と容保に恭順を進言した。

その言葉を受け、慶喜は江戸へ逃亡、

そして容保までが大坂城を抜け出して江戸へ脱出した。

指揮をとる総大将が消えた結果、

急速に戦意を喪失した幕府軍は崩壊し、

あっさりと官軍に勝利をもたらすこととなった。

対岸に繋いだままの助け舟  清水すみれ

総大将が前代未聞の戦線離脱をした要因は、

「修理が将軍に恭順を進言したことにはじまる」

と会津藩内で問責の声が出始める。

ついには、修理が鳥羽・伏見の敗戦を招いた張本人

という烙印を押されてしまう。

その後、修理は和田倉上屋敷に幽閉され、

修理の処罰を容保に迫る動きが加速する。

生まれ変わろう水曜日の次の朝  山口ろっぱ

修理の窮地を救おうと親交のあった勝海舟が、

身柄を幕府に引き渡すよう慶喜を通じて、

手を差し伸べるも、「即座に修理を処断すべし」

と動く有志らの陰謀により、三田の下屋敷に移送され、

容保との謁見も許されず、

弁明の機会も与えられぬまま、切腹を命じられた。


君命と偽った命であると知りながらも、修理は、

「是に従うのが臣である」と潔く自刃して果てた。

享年34歳。

"帰りこんときぞ母のまちしころ はかなきたより聞くへかりけり"
                                      (神保修理・辞世)

潔白通し 雪だるま逝く  森吉留里恵

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1月の鏡よモノクロの世界  山本昌乃

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新政府軍の砲撃で大きく破壊された会津若松城天守

(画像を大きくしてご覧下さい)

「戊辰戦争」(鳥羽伏見の戦い)

慶応4年(1868)1月3日、

徳川慶喜は、薩摩藩士が江戸で乱凶に及んでいる、

との噂を聞き、真意をただすべく、

大坂から京へ会津藩兵らを率いて向かったが、

その途中の鳥羽において新政府軍と衝突した。

ファンファーレ鳴って始まるお葬式 合田瑠美子

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伏見関門口豊後橋進撃の図

新政府軍が圧勝し戦争の趨勢を決した鳥羽伏見の戦いを描く。

1月4日、仁和寺宮が朝廷より征夷大将軍に任じられ、

錦旗をもって出陣する。

錦旗とは、天皇の軍隊を意味し、

この旗を掲げた軍勢と戦うことは、

天皇に対して謀反を起すことであった。

長州ではなく、自分たちが、

「朝敵」となってしまった旧幕府軍の動揺は大きく、

戦闘は新政府軍の圧勝に終った。

ガラスを走るかすかな月のひび割れ  前田咲二

1月5日、大坂城に撤退した慶喜は容保らを連れて、

海路江戸へと戻り、朝廷から、

「慶喜追討令」が出されることとなった。

すると旧幕府軍を率いた慶喜は、恭順の意を示し、

和宮ら大奥の尽力によって命を救われ、

70万石ながら、徳川家の存続がなる。

油揚げと石部明を交換する  蟹口和枝

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     錦の御旗

だがこれと引き換えに、薩長は、

誰かを人身御供にせずにはいられなかった。

そこで、新選組を擁して勤皇の志士を苦しめた、

かつての京都守護職・松平容保を標的にした。

薩長は容保の恭順謹慎を許さず、

賊軍の烙印を押して、

帰国した容保を追うように会津に攻め寄せるのである。

会津は貧乏くじを引かされたのだ。

燃えている家でしらじらしい食事  森 茂

慶喜が帰った江戸を攻撃するため、

新政府軍は、進軍を開始するが、

勝海舟西郷隆盛との話し合いにより、

江戸城は無血開城となった。

本来であれば、

「目的は達成され、ここで戦闘は幕を引くはず」

であったが、

新政府軍は、会津藩を中心とする旧幕府軍を、

徹底的に叩かねば、この戦争は終らないと考えていた。


境界線からスーダラ節がきこえます  西澤知子

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                白河関跡

容保は隠居し、嘆願書を出して恭順の意を伝えたが、

とくに長州藩にあっては、

「8月18日の政変」・「禁門の変」における恨みが根深く、

会津藩だけは絶対に許せなかった。

長州藩の私怨をうけることは、

会津藩も覚悟しており、恭順を示す一方で、

軍制改革を行うなど、着々と戦闘準備を進めていた。

≪藩としては、朝廷に弓を引くのではなく、

   あくまでも天皇の名を騙る、「君側の奸」というべき、

   薩長への備えを意図していたものであった≫


サイコロは裏目裏目にでるしかけ  二木廃戸

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霞ヶ城(二本松城)

戊辰戦争で二本松藩は、「奥羽越列藩同盟」に参加して新政府軍と戦った。

7月29日、藩兵の大半が
白河口に出向いている隙をつかれ、

新政府軍が二本松城下に殺到し、わずか1日の戦闘において落城した。


こうして新政府は、「まず仙台藩に会津を討たせよう」

と説得にあたらせるが、逆に奥羽25藩は5月3日、

「奥羽列藩同盟」を組織し、

会津藩救済のための上申を新政府に送る。

その後、越後6藩、さらに会津と庄内が加入して、

33藩からなる奥羽越列藩同盟が成立し、

新政府軍と対立することになった。

転け方も泣き方も負けたくはない  前中知栄

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      白河口

新政府軍が迫るなか、

会津藩は早い時期から国境に部隊を派遣し、

守りを固めていたが、

「会津7口」といわれるほど会津に入る道は多く、

そのうちの最重要とされた「白河口」を通過され、

2ヶ月にもおよぶ戦いが繰り広げられる。

この間新政府軍は、奥羽越列藩同盟各藩を次々と攻め、

8月には実質的に、

会津、仙台、米沢、庄内を残すのみとなっていた。

8月21日、母成口から進攻した新政府軍に守備を破られ、

いよいよ敵軍は会津城下に迫る。

名古屋のネコにロンドンでまた遭うた  井上一筒

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かなたも寒いこなたも寒い爪のともしび  山口ろっぱ

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     松平容保と家族

最後列で本を開いているのが容保。

その左で本を開く女性が、一説には
照姫だともいわれている。

(画像を大きくしてご覧下さい)

一枚のセピアに静止した家族  山本早苗

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「照姫」ー(和歌とともに)

"夢うつつ思ひも分かす惜しむそよ まことある名は世に残るとも"

戊辰戦争の後始末として、薩長中心の新政府は、

会津藩に対し、「首謀者三家老の首」を求めた。

すでに、家老の田中土佐、神保内蔵助は、

城下で既に自刃していたので、席次から、

萱野権兵衛「斬に処す」との命令が下った。

その執行にあたったのが、
                                            まさあり
皮肉なことに照姫の弟・飯野藩主・保科正益であった。

それを聞き知った照姫は、

一身に会津藩の責を負う萱野に、歌を手向けた。

出口まだ探せぬかなしみの座標  たむらあきこ

照姫は、天保13年(1842)10歳の時、
                         かたたか
第八代会津藩主・松平容敬の養女に迎えられる。

その翌年、容敬の側室に敏姫が誕生。

≪弘化3年(1846)に容保も、養子として迎えられる。

    このとき、照姫14歳、容保11歳≫

                                    まさもと
18歳の時、豊前中津藩主・奥平昌服に輿入れ、

23歳で離縁するが、その理由は不明。

子がなかったからとも言われるが、

照姫が会津と容保の将来を心配しての結果とも、

推測されている。

照姫が安政元年(1854)に会津藩江戸屋敷に戻ってから、

7年後の文久元年、容保の正室となっていた敏姫が、

19歳の若さで他界する。

ほのかな色は無くした物の愛おしさ  森 廣子


"千とせとも祈れる人のはかなくも さらぬ別れになるぞ哀しき"

                           「娘をなくした照姫の哀悼の歌」

(明くれなつかしく、むつまじく、うちかたらひたる君の、


  はかなくならせ給へるに、ただ夢とのみ思はれていと哀しさのままに)

照姫は十代にして早くも、書道、茶道、礼法、香道に通じ、

ことに、和歌や琴を好んだといわれ、

容保にも和歌を手ほどきするなど、

義理の弟を献身的に世話した。

たて書きの便箋を今日買いました  河村啓子

 "きてかへる頃さへゆかし都ぢの 錦を君が袖にかさねて"

(殿が京都でのお役目を無事に果たし錦を着てお帰りになるのが楽しみです)

文久2年(1862)容保が幕府より京都守護職を任命され、

京都に入るとき、詠んだ。

いつだってあなとを追っている視線  勝又恭子

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 陣羽織姿の容保

"御心のくもらぬいろも明らかに うつすかがみのかげぞただしき"

文久3年(1863)容保は天皇より下賜された緋の衣を、

陣羽織に仕立て、孝明天皇による天覧の馬揃えを行った。

このときに撮った写真は、照姫に送られた。

勇ましい姿に照姫は大喜びし、愛情溢れる歌を詠んだ。

≪照姫は、夫となるはずであった容保を生涯慕ったともいう≫

ときめくと睫毛がカールするのです  赤松ますみ

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「容保会津へ帰る」

慶応3年10月14日の大政奉還により、

江戸幕府は地上から消滅。

同月9日、朝廷は王政復古の大号令を発せられ、

新政府が樹立された。

その夜の小御所会議において、

慶喜に対する辞官納地が決定し、

慶喜は、京都の二条城から大坂城へ移る。

このとき、容保も慶喜と行動を共にしている。

≪その後、旧幕府方の武士たちが、薩摩藩邸を焼打ちにしたことから、

   慶応4年1月3日、鳥羽・伏見で幕府軍と新政府郡との間で、

   戦端が開かれ、「戊辰戦争」が勃発する≫


戻らない汽車と無条件のほのか  板野美子

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鳥羽・伏見の戦で形勢不利と見た慶喜は、

側近とともに軍艦・開陽丸で江戸へ逃亡。

自らを朝敵とする追討令が下ると、恭順の姿勢を示し、

事態収拾を勝海舟に一任、上野寛永寺大慈院に籠る。

は江戸城総攻撃直前に西郷と会談し、

4月11日に江戸城無血開城

江戸の街は新政府軍の支配化に入った。

どうしても流れの先を見てしまう  立蔵信子

慶喜の逃亡劇に容保も従った。

容保の行動は、君主としてあるまじきことであったが、

喜んで従ったわけではなかった。

容保は、突然、慶喜から江戸への随行を求められた時、

容保は、「徹底抗戦」を慶喜に訴えた。

が慶喜はそれを聞きいれず、脅迫的に容保に随行を迫った。

その強引な慶喜に押し切られるかたちで、

容保は気持ちと裏腹に

家臣を見捨てる結果となったのである。

反骨の奥歯ギリギリ鳴らしてる  高橋謡謡

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     討伐命令書

江戸に戻った慶喜は、

最初のうちは抗戦を叫んで威勢がよかったが、

恭順の意を示したあと、

新政府に憎まれている容保を、遠ざけはじめる。

二月に入ると容保も、養子の喜徳に藩主の座を譲って、

新政府に対し、恭順の意を表した。

やがて、新政府軍に敗れた会津兵たちが続々と、

江戸に戻ってきた。

当然、彼等は自分を見捨てた藩主容保に詰め寄った。

これに容保は深々と謝罪し、会津へ戻ることにした。

次の世はゴキブリでいく一壺天  加納美津子

"おもひきやわが身の上としら河の 関路をやがて越えぬべしとは"

容保と江戸の藩士らは、会津への帰国の途につく。

照姫は容保より一足早く鶴ケ城を目指し、

慶応2年(1869)、の春に会津・鶴ケ城に入る。

江戸育ちの照姫にとって、会津は未知の土地であった。

女が好きなコラムの中の青い風  森中惠美子

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"荒はてし野寺の鐘もつくづくと 身にしみまさる夜嵐の声"

8月23日から一か月におよぶ籠城戦においては、

照姫は、会津藩の婦女500人余を指揮して、

負傷者の看護、炊事、洗濯、消火活動、弾丸の始末、

製造にもあたり、獅子奮迅の働きをした。

鶴ケ城開城式の後、

容保は滝沢村の妙国寺に謹慎することとなり、

照姫もそれに従っっている。

悟りとも言えず諦めとも言えず  津田照子

"岩くだく滝のひびきに哀れその むかしの事もおもひ出つつ"

開城後は、和歌山藩江戸屋敷を経て、

実弟・正益が当主の飯野藩に戻る。

後半生は歌人として生き、

明治13年(1880)以降、会津を再訪し、

上記の歌を詠んだ。

大正6年(1917)会津若松市内に改葬され、

照姫は今、容保と静かに眠っている。

≪因みに容保は、明治26年(1893)58歳で死去している≫

さわやかな和音へ前頭葉が澄む  山本昌乃

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条約を遵守した餅の和え方  井上一筒

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 海路江戸へ向かう慶喜

鳥羽伏見の戦いの際、総大将である慶喜が大阪城を退去し、

江戸へ戻ったことは、幕府軍の士気を落とし、敗戦の要因とされた。


(画面をクリックしてご覧下さい)

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「鳥羽伏見の戦い」

慶応3年(1866)10月、将軍慶喜は大政奉還を行ない、

幕府の政権を朝廷に返上して、倒幕派の鋭鋒をかわしつつ、

政治の主導権を握ろうと目論む。

これによって薩摩・長州に、

岩倉具視から下達された「倒幕の密勅」は空振りとなった。

しかし薩摩藩らは、

同年12月に「8月の政変」と同様の政変を起こし、

「王政復古」の大号令を発した。

冷凍のインゲンマメというメンツ  井上しのぶ

同日、慶喜の将軍辞職、摂政・関白、京都守護職、

江戸幕府の廃止が決まる。

慶喜は衝突を避けるために、大坂城に移る。

この時、会津藩兵や桑名藩兵もともに大坂に退いた。

その後も慶喜は、驚異的な政治力を発揮し、

一時は、情勢を巻き返すかに見えた。

だが薩摩藩が江戸で騒乱を繰り返して挑発。

これに乗せられて、ついに戦端が開かれるのである。

振り出しに決して戻らぬ時雨の記  小林満寿夫

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薩長らの兵力五千に対し、

京都を目指す旧幕府軍は1万5千。

会津藩兵らは、伏見街道を進み、

桑名藩兵や幕府歩兵隊らは、鳥羽街道を進む。

だが寡兵ながら、新式火器を装備した薩長の火力は、

圧倒的であった。

慶応4年(1868)1月3日、

鳥羽街道を縦隊で進軍する旧幕府軍を、

薩軍が待ち受けて一斉射撃を加えた。

桑名藩兵や幕府歩兵隊らは反撃を試みるも、

敵に圧倒され壊乱する。

祈ろうかススキの光透けてゆく  増田えんじぇる

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 指揮をとる容保

同じ頃、伏見街道でも、

会津藩らが陣を置いた伏見奉行所を薩軍が砲撃。

会津藩大砲奉行の林権助らが必死の砲撃で反撃し、

佐川官兵衛土方歳三率いる新選組と共に、

斬り込みをかけるが、

劣勢を覆せずに伏見奉行所は焼失してしまう。

旧幕府軍は淀城に退却した上で、迎え撃とうとする。

しかし、淀藩は譜代藩で藩主が現職老中であったが、

新政府側に寝返り、入城を拒否。

さらに山崎に布陣していた藤堂藩兵が、

淀藩の寝返りに呼応して、旧幕府軍を側面から砲撃した。

結び目がささくれだった声を出す  岩根彰子

ここに至り、旧幕府軍は敗走せざるを得なくなった。

この戦いで会津藩の砲兵隊は、

死傷率が八割を超すほどの被害を蒙った。

大砲奉行のは全身に銃弾を浴びつつ指揮を執るが、

江戸に退却する途中の船上で落命。

また覚馬の弟・山本三郎もこの時の戦傷により、

江戸に帰還後、死去している。

てのひらの石を出ていく一番列車  岩田多佳子

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金戒光明寺の会津藩殉難者墓地

この時、失明していた覚馬は、戦いに参加できなかった。

会津藩士たちが大坂へ去った後も京都に留まって、

洋学所の塾生たちに教授を続け、

戦争勃発後に捕らえられたとも、

大坂に移り、その地で捕らえられたともいわれる。

薩摩藩邸に捕えられた覚馬は、

朋輩たちの戦死をどう噛み締めていたのだろうか。

この戦いで戦死した会津藩士115名の慰霊碑、

および、文久2年(1862)の上洛からそれまでの間に、

落命した237名の墓碑が、

金戒光明寺の会津藩殉難者墓地にある。

捨て石にきれいな色を塗りましょう  蟹口和枝

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やがて身は溶けて吸われる樹液かな  山田ゆみ葉

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   山本覚馬 建白書

「会津藩の怒り」

薩摩は会津と盟約したかと思えば、

密かに長州と結ぶなど表裏定かでなく、

謀略をも厭わなかった。

薩摩の標的でなかった南部藩家老・楢山佐渡ですら、

その横暴ぶりに義憤を覚え、

奥羽越列藩同盟に加わったほどだ。

ましてや、

当事者たる会津の心境たるや推して知るべしである。

山本覚馬とて、怒りを禁じ得なかったはずだ。

固い背がまだ許さない許せない  高橋謡子

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薩摩藩邸があった同志社大学のキャンパス

しかし覚馬は、伏見の会津軍に向かう途中、

薩摩藩に捕縛され、

京都二本松の薩摩屋敷の牢に収監される。

牢といっても稽古場をにわかに改造したもので、

畳敷きで夜具もあった。

西郷を知る覚馬は、優遇され、読書も自由だった。

≪覚馬はここで新国家構想を示した。

革新的な『管見』を口述筆記させ、勤皇の有職者たちを驚かせた。

その内容は三権分立や二院制をはじめ、

商工業振興や税制改革、能力主義の人材登用など、


日本の近代化を進めるにあたって、

具体案を23にわたる項目で論じたものだった。

「管見」のなかでも感心させられるのは、

「教育」と「物づくり」を重視している点である。

「教育」と「物づくり」を核にした国づくりという構想が、

いかに的を射たものであったかは、

その後の日本の発展が証明している≫


生駒聖天に黄色を塗りに行く  井上一筒

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囚われの身となった覚馬は、それでもなお、

怨讐を捨て争乱の拡大を抑えようとする。

旧幕府方が朝敵とされ、

大坂から江戸に向けて敗走したこと、

さらに新政府軍が江戸に進軍中であることを知ると、

自ら和平の使者となることを願い出るのだ。

「私が慶喜公と容保公を説得し、矛を収めさせましょう。

  もし新政府軍があくまで追討すれば、

  わが会津藩は、一兵残らず討死するまで戦うでしょう。


  そうなれば日本の国力が衰えるばかりで、

  外国の乗ずるところとなります」


風の樹は風になるまで勇ましい  田中博造

覚馬はもちろん、会津を愛する気持ちは強かったが、

それ以上に、日本そのものを守ろうとしていた。

視界から光が失われれば失われるほど、

覚馬の視野はむしろ広がりを見せ、

自分が会津藩士であると同時に、

日本人であることに目覚め、

「今は国内で争うべきではない」

と痛感したのである。

ルーズになってくる日本列島のかたち  森中惠美子      

しかし、覚馬の嘆願が聞き入れられることはなかった。

その直後に記した建白書『管見』も、

先進的な内容で西郷や小松を瞠目させたものの、

新政府軍の動きを阻止するにはいたらなかった。

遺言はなし伝説になりました  石橋能里子

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