- 2014/04/02
- Category : ポエム&川柳
赤漆塗合子形兜
赤漆塗合子形兜
櫛橋左京進は播磨城主の嫡男。
青年期は近習として小寺職隆に仕え、同僚の官兵衛をよそ者と侮る。
やがて妹・光が官兵衛と結婚して義兄弟となるが関係は改善せず、
家督を継いでからも官兵衛と対立した。
さらにもうひとりの妹・力が嫁いだ上月城を攻め落とした官兵衛に、
より深い遺恨を抱くようになり、
そのことが播磨を揺るがす動乱に発展する。
この左京進と官兵衛のエピソード。
ゾーンぎりぎりの男で我慢する 中村幸彦
「赤漆塗合子形兜」
永禄10年(1567年)、御着城の城主・小寺政職が櫛橋光を養女とし、
小寺家の家臣・黒田官兵衛と結婚させた。
櫛橋左京進は、この結婚に際し、
黒田官兵衛に「赤漆塗合子形兜」を贈られたといわれている。
この兜の特長は、お椀を逆さにしたようなユニークな形状で、
合子とは、蓋付の小型容器を意味している。
あかうるしぬりごうしかぶと
赤漆塗合子形兜を着用した官兵衛は、
戦場で「赤合子」と呼ばれ、敵方から恐れられたという。
ところが、櫛橋左京進からの贈り物とされる合子形兜は、
黒田の子孫である三代藩主・黒田光之が官兵衛を偲んで、
貞享5年(1688)に領内の具足師に依頼し作成されたものなのだ。
疑問符は続く明日も明後日も 岡谷 樹
「合子形兜の成り行き」
合子形兜の実物は、現在、岩手県盛岡市の歴史文化館が所蔵している。
なぜ、福岡から遠く離れた盛岡に、官兵衛の合子形兜があるのか。
元和9年(1623)黒田長政が没すると、
新しく福岡藩主になったのが忠之である。
しかし、忠行は粗暴な性格でもあり、長政から廃嫡を迫られていた。
この事態を救ったのは、栗山大膳である、
大膳は血判した嘆願書を長政に送り、忠行を廃嫡にするならば、
家臣一同切腹すると申し出た。
そのような事情から長政は、後見として大膳を頼み、
死後に家督を譲るようにしたのである。
三角へゼムピン四角へフラフープ 和田洋子
ところが大膳が送った諫書が忠之の機嫌を損ね、
以来、忠之は大膳と距離をおくようになった。
寛永元年(1624)に新藩主についた忠之は、
譜代の家臣を退けて、新たに倉八十太夫らを登用した。
なんと一万石も与えている。
そして幕令を無視し、軍船・鳳凰丸の建造、足軽隊の増強は、
幕府のお咎めを受けることとなった。
水底にゆっくり溜まる不協和音 青砥和子
家老の大膳は忠之を諌めたが、
却って忠行は大膳を殺害しようとした。
寛永9年大膳は豊後府内藩主・竹中采女正とともに、
江戸にのぼり、忠之が謀反を起こすと幕府に訴えたのである。
翌年の裁定により黒田家は存続し、
大膳は陸奥盛岡藩・南部家に預けられた。
いわゆる「黒田騒動」である。
こうした経緯を踏まえて、
大膳が所持していた合子形兜は盛岡に移ったのである。
官兵衛の形見といわれる合子形兜は、
正式には「銀白檀塗合子形兜」という。
涙こぼれます天地無用に願います 美馬りゅうこ
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