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豊臣兄弟ー「信長・秀吉・家康のそれぞれの城」

追伸に添付しておく流れ星  みつ木もも花






                                         「本 能 寺 の 変」
天正10年(1582)6月2日、午前4時。明智光秀率いる1万3千人の軍勢は
本能寺を完全に包囲した。対する信長勢は、150~160人ほど。兵力の
差は歴然。奇襲の約4時間後、光秀による史上最後の下剋上は、信長の自害
によって幕を閉じた。




豊臣兄弟ー「信長・秀吉・家康のそれぞれの城」





「信長の場合」
永禄11年(1568)10月、信長足利義昭とともに上洛し、室町幕府を再興、
天下静謐をすすめる。そして翌永禄12年に義昭のため京都に城をつくった。
「武家の城」ともよばれた義昭御所である。
「西方石蔵」は、高さ四間一尺(約8㍍)(『言継卿記』山科言継の日記ゟ)
同じく「言継卿記」3月7日の条には「内の磊」(いしくら)とみえ、石垣を
そなえた城が京都にあらわれたとある。さらに元亀元年(1570)の条に、西南角
には「坤角(ひつじおさる)」「三重櫓」とあり三階建ての高層建築物であり、
天主も備えたものだった。
武家の城が永禄12年4月に完成すると、信長は「妙覚寺」に移る。
信長は、永禄11年の上洛以降、京都に長期に滞在することもなかった。
すなわち信長は、京都に自らの拠点をおく意思はなかったということである。
ただ信長が京都に城を持たなかったことが、本能寺で明智光秀の謀反をたやすく
成功さたことになったのは疑う余地はない。




人生の旅路の果てのケアハウス  原 洋志





「秀吉の場合」
妙顕寺は、二条室町の妙覚寺と規模が同じで、その西側にあたる二条西洞院に
位置していたから、秀吉妙覚寺を意識したものだろう。
秀吉は、その妙顕寺を城地としたうえで「外城の堀」を掘るなど大普請をほど
こし信長が築いた「武家の城」と同様の二重構造の城にした。
その上天守も築いた。そしてこの城は「二条の屋敷」とよばれる。
のちに徳川家康が築く「二条城」より先に秀吉の「二条城」が存在した。
秀吉が京都に城を構えたのは、本能寺の変という教訓や信長のような教諭人で
なかったため、京都との距離感を意識する必要がなかった。
もっとも、秀吉は、この「二条城」を拠点としていたのかといえば、そうでは
なかった。(秀吉が在京していないときは家臣の前田玄以の宿舎としていた)
この時期の秀吉の拠点といえば、天正11年以降「大坂城」であった。



山門の仁王真っ赤な仁王立ち  中川喜代子 





            西本願寺の飛雲閣
聚楽第から移築されたものと伝わる。





「聚楽築城」
天正15年(1587)9月、秀吉「聚楽御移徒」(じゅらくおわたしまし)を
築城する。この城造りは、1年以上の時間がかけられたと同時に、「聚楽」
「歓楽の集まり」という呼び名、つまり「楽園」という呼び名もつけられた。
秀吉は「二条城」で一度として正月を迎えたことがない。
縄張をほどこすにあたっても「武家の城」「二条城」が立地していた洛中で
はおのずと碁盤の目状の条坊に規制を受けざるを得ず、不自由さを感じたため
だろう。ただし正月を迎えるようになったとはいえ、それは移徒した年の天正
16年の正月からではなく、それから2年もたった天正18年正月からであっ
た。その目的は、前年5月に誕生した若公(つるまつ)を京都に迎えることに
あったものと思われれる。
このようにして、秀吉は、京都において信長のおこなってきた城づくりを継承
しつつも、それを乗り越えるかたちで「聚楽」を築城し、そこに後継者である
若公とともに拠点を移すことで、信長政権を名実ともに過去のものとすること
に成功したのである。




正解がこんな近くにあったとは  通利一遍





      家康が建てた二条城が描かれた洛中洛外図 (勝興寺蔵)

二条城と徳川家の歴史上の大きな関わり。
慶長16年(1611)、家康と豊臣秀頼の間で開かれた)「二条城会見」
慶應3年(1867)15代将軍・慶喜が「大政奉還」の意思を表明した。
徳川幕府の始まりも終焉もこの二条城であった。






          遠侍 三の間 《竹林群虎図》

二の丸御殿最大の建物。来殿者が最初に立ち入るこれらの部屋は、襖や壁
の絵から「虎の間」とも呼ばれる。獰猛な虎の絵や壮大な空間は徳川家の
権力の大きさを実感させたことだろう。

           『唐獅子図屏風』 狩野永徳 


            黒 書 院





「家康の場合」
慶長8年(1603)、徳川家康は、かつての聚楽第の南に京都御所の守護と将軍上
洛時の宿泊所のために「二条城」を築いた。寛永3年には、御水尾天皇行幸に
あたり、城を現在の規模に拡張し天守閣や本丸御殿などを造営、二の丸御殿は
徳川家の御用絵師・狩野派一門によって華やかな障壁画に彩られた。
能や和歌の会を盛大に催し、もてなした5日間、絢爛豪華な城に天皇を迎える
ことで、朝廷を敬いながら、政の外におき、徳川の権威を世に知らしめた。
しかし、約260年後の慶應3年(1867)、15代将軍・慶喜が二の丸御殿にて
「大政奉還」の意思を表明。始まりも終焉もこの二条城であった。




古時計メトロノームにして眠る  井上恵津子

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豊臣兄弟ー長浜城

おい不死身右が二重になってるで  酒井かがり






『瓢軍談五十四場 第九此下宗吉郎再び須股の砦を築く』 (国立国会図書館)




「豊臣兄弟」ー長浜城






          長浜城再現ー長浜城歴史館へ





天正元年(1573)に羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から
浅井氏の領地を拝領した際に、当時今浜と呼ばれていた地を「長浜」と改め、
城とを築きました。長浜城は、秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下
町経営の基礎を醸成した所でもある。





             「長浜城下町の復元図」  
秀吉治世下の地図で上部に長浜城が見える、町割りは古代律令制のなごり、
湖は琵琶湖。






        浅井長政ー肖像画




  
長浜城に入った小一郎は二の丸御殿に上がった。
真新しい御殿の中を案内され、謁見の間に通された。
上段の間には、すでに秀吉の姿があった。
白の羽織に鼠色の袴を合わせ、満面の笑みを浮かべている。
「よう来た小一郎。どうじゃ、この城は」
子どものように声を弾ませる秀吉に、小一郎は柔らかく応じる。
「よき城かと」
「じゃろ」
小一郎は人払いをした。家臣たちはおろか、刀持ちまで下がったのを受け、
中段の間の真ん中に座ると、真新しい畳に手をつく。
「改めて兄上、この度は祝着至極にて。ときに兄上、お伺いしたいことが
ございます」
「なんじゃ」
「兄上はなぜ、小谷城を用いられなかったのですか。この城の普請にはかなり
の銭を使っております。当家の銭を預かる者として、兄上の御存念をお伺いし
たく」




他人とは比べない日の運の良さ  上西延子




「なら、小一郎、お前が当ててみい」
頓狂な声を上げた小一郎をよそに、秀吉はにんまりと笑った。
秀吉には子どもめいたところがある。小一郎はしばし考え、答えた。
「小谷城の守りに、疑問を抱かれたからでは」
小谷城を落とした立役者ゆえに、城の弱点、今後の普請のしにくさに気付いた
のではないか、というのが小一郎の考えだった。特に京極丸の脆さは如何とも
し難い。秀吉は笑みを浮かべたまま何もいわない。
促されているような心地に襲われ、小一郎は別の見方を披露する。
「琵琶湖の押さえを欲されたのですか」
古来、琵琶湖は海上運搬が盛んだった。近江を抑えるにあたり、琵琶湖に睨み
を利かせることには、軍事のみならず、経済上の意味があった。




止まらない独白 発火するルンバ  宮井いずみ 




秀吉はなおも曰くありげに笑みを浮かべている。
小一郎は別の考えを口にした。
「では単純に、山城を嫌われたのですか」
山城は堅牢だ。その分、普段の生活や、政には向かず、城下町を築きづらい
欠点がある。平城は山城とは利点欠点が逆転しているものの、長浜城のよう
に水を引き込めば、その弱点を補える。
が秀吉はなにも言わない。何かを待っているようだった。
まさか、小一郎は言った。
「お市様をお迎えするために新たな城を築いた、などとは申しますまいな」




こめかみのあたりに浮いているけれど  みつ木もも花




かつての夫の居城である小谷城に、お市を迎えるなどという不調法はしたく
ない、という気遣いなのでは、というのが小一郎の謂いだった。
お市の方は助け出され、今は静かに暮らしている。風向きが変われば、誰かの
妻に「下賜」されることもありうる。その日のための皮算用なのだとしたら。
すると秀吉はしとねから立ち上がり、縁側へと向かった。
庇から差し込む光が、秀吉の身体を溶かす。
「切れ者だのう、小一郎は、一を聞いて十を知る男じゃ。しかしお前は、小さ
くまとまっとるでよ」
「どういうことですか」
「どうして、わしの狙いが一つだと思うんじゃ」
小一郎は息を呑んだ。




両方に耳があるのに聞きのがす  藤井美沙子   






           お市の方





理由を一つに絞り込む必要などない。小谷城は防御上の脆弱さや、琵琶湖の押さ
えとならない点、城下町の広げづらさ、お市の方を迎える際の不都合など、問題
が山積みしている。
むしろ、小谷城の種々の問題を克服する形で、長浜城は構築されている。
秀吉は振り返りもせず、言った。
「そもそもこの城は、次に向かうための布石じゃ。わしはもっと大きくなる。
小一郎、お前の働きに期待しとりで」
兄には一生敵わないかもかもしれない。
小一郎はこの瞬間にそう悟り、秀吉に深く平伏した。
畳についた指は、いくら力を込めても震えが止まらなかった。




きびなごの目玉をすべて取り除く  きゅういち

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「豊臣兄弟」ー姉川の大合戦

融通のきかぬぶっきらぼうな石  山本早苗





                                                   姉川合戦図屏風 (福井県立歴史博物館蔵)

「『日本戦史』(旧陸軍参謀本部編纂)によれば、浅井軍8千人、朝倉軍1万
人で、対する織田軍2万3千人、徳川軍6千人で、午前5時に始まり午後2時
に終わったとされています」と説明版の解説。



「豊臣兄弟」姉川の大合戦










天正元年(1573)8月、上洛した信長は、畿内周辺の大名に参集を命じた。
しかし、これに従わない者がいた。越前を本拠とする浅井氏である。
信長は大軍を擁し、朝倉を攻めた。朝倉はなすすべなしかと思われたが、
大きな波乱が起こる。織田と同盟を結んでいた近江の浅井が、敵方の朝倉に
寝返り信長を挟撃したのである。俗にいう「金ヶ崎の戦い」である。
この窮地から辛くも脱した信長(小栗旬)は、浅井・朝倉に反撃しようと足
利義昭(尾上右近)や徳川家康(松下洸平)に援軍を要請。しかし、2人は
内心信長の失脚を願い、動きが鈍い。





少しずつウソが上手になりました  太田ちかよし




一方、木下小一郎(仲野太賀)木下藤吉郎(池松壮亮)市(宮崎あおい)
を逃がすための時を稼ぎたいが、市の想いは浅井長政(中島歩)とともにあり、
策は実を結ばない。その中、信長は北近江へ進軍を開始。姉川を挟んで対峙し、
ついに両軍は、対決の時を迎えつつあった。
 元亀元年(1570)6月19日には、浅井氏の居城、小谷城の近くにある虎御前
に砦を築き、近隣の横山城を結ぶ巨大な要害を備えた。
信長は対立姿勢を取る三好三人衆への牽制、本願寺や六角氏との和睦にあたり、
自身を取り囲んでいた包囲網の解体に動いた。




直線の一番端にあるけじめ  寺川弘一











しかし、元亀4年2月、京にいた足利義昭が反信長の兵を挙げた。信長との不
仲に加え、武田信玄徳川家康を破ったとの報せをうけてのものだった。
ところが、信玄はその直後に急死、結局この挙兵は失敗に終わる。
そうして畿内の地ならしを終えた信長は、朝廷に働きかけ天正に改元させると、
棚上げしていた「浅井・朝倉攻め」に乗り出した。
まず、虎御前山砦に本陣を置いた。すると朝倉勢が小谷城の救援に現れた。
手ぐすね引いて待ち構えていた信長は、朝倉に攻撃を開始、撤退する朝倉を
「刀根坂」の戦いで破ると、その勢いを駆って本領の越前まで攻め上がり、
ついに朝倉を滅ぼした。そうして後顧の憂いを断った信長は、総仕上げであ
る小谷城総攻撃を決めた。




鉛筆で書いた戦争なら消せる  高橋謡々











「姉川の戦い」以降、秀吉軍は横山城に詰め、浅井氏の抑えに当たっていた。
大過なくこなしてはいるが、信長「大過なく」ほどの働きで家臣の功を認め
る主君ではない。秀吉は小谷城の方角に目をむけ、ぼやくように言う。
「大功が要るのう。でないとお市様は貰えんわ」
信長の妹で、浅井長政の妻に収まっているお市のことである。
常日頃、秀吉は、お市の方への思慕を口にする。
城持ちの夢と並べて軽くいうから、誰も本気とは受け取っていない。
しかし小一郎は、お市の方を語る際、秀吉の口吻に湿り気めいたものが混じっ
ているのに気付いている。




カミソリが無ければ髭は引っこ抜く  清水すみれ






              小 谷 城

              説 明 図


「兄上、無礼ですぞ」
「ここだけの話じゃ、気にするでにゃあ~わ。とにかく、明日の総攻めでは、
何が何でも目立たないといかん。で、じゃ。わが弟よ、ちょっと相談に乗って
くれい」
秀吉は置楯で作った卓に、一枚の巻紙を広げた。小谷城の普請図だった。
小谷城は「つ」の字型をした山の尾根に築かれた山城である。
大手道から本丸、中丸、京極丸、小丸が連結し頂上の大城城と接続されている。




それ以上喋るとみじん切りの刑  岡内知香




一方、もう一方の尾根には山崎丸、福寿丸といった曲輪があり、やはり大嶽城
に繋がっている。大手道から攻め上がるにも、数々の小さな曲輪が連結してい
るため、敵方の抵抗が予想される。
「山崎丸や福寿丸を経由し、大嶽城を先に奪うのが常道でしょう」
小一郎が述べると、秀吉が首を振った。
「それじゃ目立たん。わしが考えたのはこうじゃ」
秀吉は扇の先で京極丸を指した。
垣を登ってここを奪う。そうすりゃ、敵の連係を絶てる。目立つで」
「そのためには、多くの血を流すことになりますぞ」
「その方が目立つじゃろ」
何がおかしいのか、秀吉はくつくつと笑った。




グーの手をほどいてドングリの秘密  前中知栄




小一郎の反対をよそに、この策は実行された。
最初から、小一郎の考えを聞く気など秀吉にはなかったらしく、その日の夕方
までには用意が調った。夜襲の形で実行されたこの攻撃は、拍子抜けするほど
に旨くはまり、ほとんど犠牲もなく成功した。
この戦功を賞され、秀吉は浅井旧領の一部を拝領するに至ったのだった。




正解は一つだけだと譲らない  津田照子

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「豊臣兄弟」ー秀長の妻女

不器用が一生かけて紡ぐ詩  合田留美子






                         小谷城攻めの合間ー秀長-伊勢長島へ出陣する




「大河ドラマ豊臣兄弟が面白いわけー」
秀吉秀長兄弟が、信頼できる史料に登場した時の名字は木下だが、もともと
名字を持っていたのか、何かの由来をもとに、木下を名乗りはじめたのかは
分からない。寧々(秀吉の妻 浜辺美波)の命名説もある。
中村出身なので、中村藤吉郎と称したというが、これまた信頼できる史料で
は確認できない。ともかく秀吉・秀長兄弟の出自は、不明であり、武士身分
だったか、百姓をしていたのか、また非農業民だったのかすら分からない。
若い頃に、尾張国を出た秀吉が舞い戻ってきて出世し、百姓をしていた弟・
秀長を自分の家来としたという通説もやはり根拠に乏しい。
秀長は名乗る前の名は「長秀」であり、「長」の字は、秀吉の主君でもある
織田信長からの偏諱(へんき)と思われ、信長の書状や「信長記」から三十
四歳の頃、信長の直臣になったものと推測される。





花占いに最後を託すことにする  竹内ゆみこ






    信長の草履を懐に温める足軽時代の藤吉郎




『太閤記』(小瀬甫庵)ゟ
秀吉は永禄元年(1558)、二十二歳の時に信長に奉公人として仕えたという。
父・妙雲院殿(弥右衛門、出家して築阿弥)は、元は清須織田家に仕えた
在村被官であったとみられるが、秀吉が七歳の時に死去していた。
そのため秀吉は、十歳から二十歳の時に諸国に放浪したという。
信長に仕えたあと、二十九歳で足軽という下級兵士になり、次いで所領を
与えられて、直臣になり、さらに侍大将という有力家臣へと矢継ぎ早に出
世したとされる。そして永禄八年(1565)には、美濃の領主の調略を担う有
力家臣までになっている。
秀長は、四歳年長の兄秀吉が、生地の尾張愛知郡中中村を出て行ったあと、
妙雲院殿の百姓家を継いだ。そうしたなか、信長(小栗旬)の有力家臣に
なっていた秀吉から誘われて、村を出て信長の家臣になったと推測される。
ともに百姓であった両者は、信長に仕えその家臣になったことで、その後
に政治的に台頭していく出発点を確保したのである。




満たすより零さぬことを覚えた日  稲葉良岩




豊臣兄弟ー秀長の妻女





小一郎と直は喧嘩もあり仲もよかった

小一郎(秀長)の幼なじみであり、恋人という尾張国中村の土豪の娘・
(白石聖)の乙女チックな存在は、「直ちゃんロス」の現象も引き起こし
たほどドラマ上の設定で創作のサービスシナリオであろうか。



の死後、美濃斎藤氏の家臣であった西美濃三人衆の一人・安藤守就(田
中哲司)の娘・慶(吉岡里帆)との縁談が調う。父・守就は、もともと美
濃国の斎藤氏の家臣、西美濃三人衆と呼ばれる有力者の一人だったが、永
禄十年(1567)もともと不仲な龍興を娘婿でもある竹中半兵衛(菅田将暉)
と謀反を計り、織田家に身を寄せ、その家臣として、美濃国北方城を本拠と
した人物である。




おさまってしまうあなたのぬくもりに  高橋レニ





                          慶(慈雲院)




「秀長の正室」
正室の名前は不明だが、秀長生前中は「大納言殿御上」「大納言殿
御内」などと尊称されている。秀長没後には「慈雲院」と呼ばれた。
秀長は天正十三年(1585)に和泉の国、紀伊国に加え、大和国も拝領
して大和入りする。秀長が大和国を領国としたことで、大和に残る
寺社の史料に慈雲院のことが記載されている。
翌天正十四年五月、大和に来た秀長の母・大政所と共に、慈雲院は
春日大社へと参詣した。この年の九月、慈雲院は総勢「百四、五十
人」の行列で春日大社に参詣している(『多聞院日記』)。この後、
天正十八年に至るまで、慈雲院は大政所と共に度々春日大社に詣で
ており、姑の大政所とは仲がよかったと思われ、大政所が郡山を訪
問した時には、一緒に能を鑑賞したりしている。




置かれた場所で器量よしになる翼  瀬戸れい子






    慶と父・安藤守就(田中哲司)




秀長の正妻・慈雲院は秀長没後も郡山に残り、養子秀保(関白豊臣
秀次の次弟)の後見を務めたようである。薬師寺、新薬師寺、春日
社などに参詣したり、また横浜一庵を奉行として戒壇院の再興にも
力を尽くした。
秀保没後は郡山を離れ、京都に暮らした。『大和国著聞記』による
と大和国で約二千石を領知しており、生活に困ることはなかった。
慶長十三年(1608)には、高台院とともに、尾張国の津島神社の堀田
馬大夫の檀那として音信し、同十五年にも祈祷を依頼している。




どなたとも喋らず十日目が過ぎる  清水すみれ






                    大和大納言秀長





「秀長の側室」
秀長に何人の側室がいたかは不明だが、少なくとも大和大納言時代
には少なくとも一人の側室が確認できる。
大和の国衆秋篠氏の息女とされ、「摂取院」「光秀尼」「興秀尼」
「興俊比丘尼」などといわれる女性である。「お藤さん」とも呼ば
れている。法華寺の比丘尼だったが、秀長の側室になったという。
秀長没後に比丘尼となったという史料もあり、こちらが自然である。
秀長との間に生まれた息女は、小早川秀秋の妻室となり、のち毛利
輝元の養子秀元に妻稼したと思われる。
通説では、秀秋の妻室は、毛利輝元の養女とされているが、その前
に秀長の息女と婚姻していた。(『豊臣秀長』ゟ)
文禄三年(1594)三月三日の祝言には、実母として摂取院も臨席して
いる。摂取院は元和八年(1622)十二月八日七十一歳で没。
逆算すると天文二十一年(1552)生まれとなり、秀長が大和入りした
時には三十四歳だったことになる。





指切りは隣の指に内緒です  黒田るみ子





撮影真っ最中、慶の初登場シーンから」
今回、小一郎の正妻として生涯をともに歩み、やがて藤吉郎の妻・寧々
(浜辺美波)とともに豊臣兄弟を支える存在となる慶が初登場。
しかし、セリフもなく、どこか含みのある表情を浮かべて独特な雰囲気
を放っていたことから、S N S 上では「正妻きたー!」「笑顔がなくて
も美しい」「ミステリアス」「想像と全然違った」「意味深すぎる」
「異様な存在感がある」「一体何者?」「お堂で何してたんだろう」
「謎だらけ」などの声が上がった。
また4月5日に放送の第13話のサブタイトルが「疑惑の花嫁」だった
ことにも注目が集まり「疑惑?怖いなぁ…」「気になりすぎる」
「1週間待てない」「面白くなってきたー!!」といった声も上がり、
今後の展開に期待が高まっている。




身の丈の暮らしに咲いた花の数  津田照子

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「豊臣兄弟」ー小谷城攻め

脳内にサイレン響く不信感  上坊幹子





 此下宗吉郎 筵にて五色の旗を造り奇計を行う





「大河ドラマの豊臣兄弟」
秀吉は前へ前へといく「イケイケドンドン・タイプ」であり、一方の弟秀長
はじっくり考える「沈思黙考タイプ」である。
秀長が秀吉の言動にチェックを入れてサポートしていたからこそ、豊臣政権
が成り立っていたといえるだろう。
組織における「補佐役の重要性」をこの兄弟ほどもの語る例はみない。
戦国時代において、兄弟は最大のライバルであり、兄が弟を殺したり弟が兄
を追放したりと、兄弟間のトラブルは珍しいことではない。
「君臣の関係」では、家臣が主君にはっきりと言いにくいことも、「兄さん
それは違うよ」と諫言できたところが、この兄弟には普通のことだった。
秀吉が、信長の奉公人として仕えるようになってから、七年しか経っていな
いのにかかわらず、とんとん拍子に信長の有力武将へと出世階段をのぼり得
たのも、兄弟による硬軟のタッグが功を奏したことにほかならない。





両軍の空を行き交う鳩と弾  土居玲子





          信長に仕えた若き日の秀吉





豊臣兄弟ー小谷城攻め





「小谷城攻め」
元亀元年(1570)四月、将軍足利義昭を擁する織田信長は、幕府に参加しない
朝倉義景を討伐するため、越前に攻め込んだ。
しかし嫁のの婿である浅井長政が、朝倉方に味方したことで一敗地にまみ
れる。信長はすぐに反撃に転じて、姉川の戦いで浅井・朝倉連合軍を打ち破
り、長政らを小谷城に追い込んだ。そして、横山城に秀吉・秀長兄弟を配置
し、浅井攻めを担当させた。これは「元亀争乱」と呼ばれる。
好氏、松永氏、本願寺・朝倉氏、浅井氏・六角氏・延暦寺・武田氏による
義昭・信長包囲網との戦いに信長は苦しめられるが、秀吉宮部継潤を調落
し、徐々に浅井氏を追い詰めていく。





右で笑って左で泣く名演技  青木公輔





元亀三年(1572)七月、信長は虎御前(とらごぜ)に砦を築くと、九月には秀吉
に守らせた。秀吉はここで浅井・朝倉連合軍の攻撃を退けたため、浅井長政が
頼みとする朝倉勢の士気は下がり、冬の到来もあって、十二月には越前に撤退
してしまう。
元亀四年(1573)初頭、将軍義明は、武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康を破
ったとの報を聞くと、信長を見限って、三好・松永・本願寺・朝倉・浅井・六
方に味方した。しかし四月に信玄が死去すると、信長は将軍義昭を攻め立て、
七月には山城より追放している。





周波数あわなくなった崖の百合  笠島恵美子





      岩倉を焼討する





信長が、八月に近江北部に攻め入ると、朝倉義景も小谷城の救援のため近江へ
出陣した。ところが浅井方の阿閉貞征(あつじさだゆき)が造反するなどした
ため、義景が撤退しようとしたところに、信長は急襲をしかけ大勝利を得た。
この八月の「刀根坂の戦い」で、朝倉氏の有力被官やかつての美濃国主の一色
義紀(斎藤竜興)が揃って討ち死にした。
信長は一乗谷を焼き払い、二十日には義景を自害に追い込んだ。





哲学へ眉間の皺が戻らない  木口雅裕





         難攻不落ー小谷城





一方信長は、この頃の浅井長政との戦いはすでに勝敗が決しており、秀吉は、
戦争に巻き込まれることを恐れ、避難していた古橋郷の名主百姓中へ、八月
十一日に「羽柴藤吉郎」として帰村を命じている。
弟の秀長も十六日には「木下小一郎長秀」として、黒田郷の惣百姓中へ帰村
を命じ、軍勢の乱暴狼藉を取り締まり、違反者は注進があり次第処罰するな
ど安全を保障した。秀吉・秀長兄弟は浅井氏滅亡後の復興に向けて、すでに
動き出していたのである。





友だちを助けるためにある両手  柴田比呂志





         長 秀 像





秀吉は七月二十四日以前から「羽柴名字」を名乗っていたが、秀長はまだ木下
名字のままであった。また「長秀」という実名は、信長の一字、「長」を受け
たと考えられ、秀長は秀吉と同じく信長の重臣であった可能性が高い。
百姓の帰村にあたっても、秀長は秀吉の命令を受けた訳ではない。





立春のスパゲッティは内巻きに  赤石ゆう





朝倉氏を滅ぼした信長は、近江に引き返し、二十六日に虎御前山に陣取った。
翌日には秀吉が、小谷城に攻めかかり、浅井長政の本丸とその父の久政の籠る
小丸の連絡を絶つことに成功し、久政を自害させている。
浅井長政は、妻のや三人の娘を織田方に引き渡した後、九月一日に自害した。
浅井氏の滅亡により、三年の長きにわたって、信長を苦しめ続けた「元亀争乱」
は終結した。





ライバルがしっかりこけてくれました  中田 尚





     秀吉による長浜城築城時のジオラマ





そして、浅井氏の旧領である湖北三郡は秀吉に与えられる。
これは秀吉・秀長兄弟が浅井氏との戦いで、最も功績があったことを意味する。
天正元年(1573)、「小谷城攻め」の功績により浅井氏の旧領を与えられた。
そして秀吉は、天正二年から約二年かけて琵琶湖畔の「今浜」に築城し「長浜」
と改名した地で、初の城持ち大名となる。「長浜城」である。 





桃太郎の生まれ変わりの金魚です  井上恵津子

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