- 2026/05/10
- Category : ポエム&川柳
豊臣兄弟ー「信長・秀吉・家康のそれぞれの城」
追伸に添付しておく流れ星 みつ木もも花
「本 能 寺 の 変」
天正10年(1582)6月2日、午前4時。明智光秀率いる1万3千人の軍勢は
本能寺を完全に包囲した。対する信長勢は、150~160人ほど。兵力の
差は歴然。奇襲の約4時間後、光秀による史上最後の下剋上は、信長の自害
によって幕を閉じた。
本能寺を完全に包囲した。対する信長勢は、150~160人ほど。兵力の
差は歴然。奇襲の約4時間後、光秀による史上最後の下剋上は、信長の自害
によって幕を閉じた。
豊臣兄弟ー「信長・秀吉・家康のそれぞれの城」
「信長の場合」
永禄11年(1568)10月、信長は足利義昭とともに上洛し、室町幕府を再興、
天下静謐をすすめる。そして翌永禄12年に義昭のため京都に城をつくった。
天下静謐をすすめる。そして翌永禄12年に義昭のため京都に城をつくった。
「武家の城」ともよばれた義昭御所である。
「西方石蔵」は、高さ四間一尺(約8㍍)(『言継卿記』山科言継の日記ゟ)
同じく「言継卿記」3月7日の条には「内の磊」(いしくら)とみえ、石垣を
そなえた城が京都にあらわれたとある。さらに元亀元年(1570)の条に、西南角
には「坤角(ひつじおさる)」「三重櫓」とあり三階建ての高層建築物であり、
天主も備えたものだった。
そなえた城が京都にあらわれたとある。さらに元亀元年(1570)の条に、西南角
には「坤角(ひつじおさる)」「三重櫓」とあり三階建ての高層建築物であり、
天主も備えたものだった。
武家の城が永禄12年4月に完成すると、信長は「妙覚寺」に移る。
信長は、永禄11年の上洛以降、京都に長期に滞在することもなかった。
すなわち信長は、京都に自らの拠点をおく意思はなかったということである。
ただ信長が京都に城を持たなかったことが、本能寺で明智光秀の謀反をたやすく
成功さたことになったのは疑う余地はない。
成功さたことになったのは疑う余地はない。
人生の旅路の果てのケアハウス 原 洋志
「秀吉の場合」
妙顕寺は、二条室町の妙覚寺と規模が同じで、その西側にあたる二条西洞院に
位置していたから、秀吉は妙覚寺を意識したものだろう。
位置していたから、秀吉は妙覚寺を意識したものだろう。
秀吉は、その妙顕寺を城地としたうえで「外城の堀」を掘るなど大普請をほど
こし信長が築いた「武家の城」と同様の二重構造の城にした。
その上天守も築いた。そしてこの城は「二条の屋敷」とよばれる。
こし信長が築いた「武家の城」と同様の二重構造の城にした。
その上天守も築いた。そしてこの城は「二条の屋敷」とよばれる。
のちに徳川家康が築く「二条城」より先に秀吉の「二条城」が存在した。
秀吉が京都に城を構えたのは、本能寺の変という教訓や信長のような教諭人で
なかったため、京都との距離感を意識する必要がなかった。
なかったため、京都との距離感を意識する必要がなかった。
もっとも、秀吉は、この「二条城」を拠点としていたのかといえば、そうでは
なかった。(秀吉が在京していないときは家臣の前田玄以の宿舎としていた)
なかった。(秀吉が在京していないときは家臣の前田玄以の宿舎としていた)
この時期の秀吉の拠点といえば、天正11年以降「大坂城」であった。
山門の仁王真っ赤な仁王立ち 中川喜代子
西本願寺の飛雲閣
聚楽第から移築されたものと伝わる。
「聚楽築城」
天正15年(1587)9月、秀吉は「聚楽御移徒」(じゅらくおわたしまし)を
築城する。この城造りは、1年以上の時間がかけられたと同時に、「聚楽」は
「歓楽の集まり」という呼び名、つまり「楽園」という呼び名もつけられた。
秀吉は「二条城」で一度として正月を迎えたことがない。
縄張をほどこすにあたっても「武家の城」や「二条城」が立地していた洛中で
はおのずと碁盤の目状の条坊に規制を受けざるを得ず、不自由さを感じたため
だろう。ただし正月を迎えるようになったとはいえ、それは移徒した年の天正
16年の正月からではなく、それから2年もたった天正18年正月からであっ
た。その目的は、前年5月に誕生した若公(つるまつ)を京都に迎えることに
あったものと思われれる。
築城する。この城造りは、1年以上の時間がかけられたと同時に、「聚楽」は
「歓楽の集まり」という呼び名、つまり「楽園」という呼び名もつけられた。
秀吉は「二条城」で一度として正月を迎えたことがない。
縄張をほどこすにあたっても「武家の城」や「二条城」が立地していた洛中で
はおのずと碁盤の目状の条坊に規制を受けざるを得ず、不自由さを感じたため
だろう。ただし正月を迎えるようになったとはいえ、それは移徒した年の天正
16年の正月からではなく、それから2年もたった天正18年正月からであっ
た。その目的は、前年5月に誕生した若公(つるまつ)を京都に迎えることに
あったものと思われれる。
このようにして、秀吉は、京都において信長のおこなってきた城づくりを継承
しつつも、それを乗り越えるかたちで「聚楽」を築城し、そこに後継者である
若公とともに拠点を移すことで、信長政権を名実ともに過去のものとすること
に成功したのである。
しつつも、それを乗り越えるかたちで「聚楽」を築城し、そこに後継者である
若公とともに拠点を移すことで、信長政権を名実ともに過去のものとすること
に成功したのである。
正解がこんな近くにあったとは 通利一遍
家康が建てた二条城が描かれた洛中洛外図 (勝興寺蔵)
二条城と徳川家の歴史上の大きな関わり。
慶長16年(1611)、家康と豊臣秀頼の間で開かれた)「二条城会見」。
慶應3年(1867)15代将軍・慶喜が「大政奉還」の意思を表明した。
徳川幕府の始まりも終焉もこの二条城であった。
慶長16年(1611)、家康と豊臣秀頼の間で開かれた)「二条城会見」。
慶應3年(1867)15代将軍・慶喜が「大政奉還」の意思を表明した。
徳川幕府の始まりも終焉もこの二条城であった。
遠侍 三の間 《竹林群虎図》
二の丸御殿最大の建物。来殿者が最初に立ち入るこれらの部屋は、襖や壁
の絵から「虎の間」とも呼ばれる。獰猛な虎の絵や壮大な空間は徳川家の
権力の大きさを実感させたことだろう。
『唐獅子図屏風』 狩野永徳
黒 書 院
「家康の場合」
慶長8年(1603)、徳川家康は、かつての聚楽第の南に京都御所の守護と将軍上
洛時の宿泊所のために「二条城」を築いた。寛永3年には、御水尾天皇行幸に
あたり、城を現在の規模に拡張し天守閣や本丸御殿などを造営、二の丸御殿は
徳川家の御用絵師・狩野派一門によって華やかな障壁画に彩られた。
洛時の宿泊所のために「二条城」を築いた。寛永3年には、御水尾天皇行幸に
あたり、城を現在の規模に拡張し天守閣や本丸御殿などを造営、二の丸御殿は
徳川家の御用絵師・狩野派一門によって華やかな障壁画に彩られた。
能や和歌の会を盛大に催し、もてなした5日間、絢爛豪華な城に天皇を迎える
ことで、朝廷を敬いながら、政の外におき、徳川の権威を世に知らしめた。
ことで、朝廷を敬いながら、政の外におき、徳川の権威を世に知らしめた。
しかし、約260年後の慶應3年(1867)、15代将軍・慶喜が二の丸御殿にて
「大政奉還」の意思を表明。始まりも終焉もこの二条城であった。
古時計メトロノームにして眠る 井上恵津子
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