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大相撲ー三月大阪場所の見どころ

僥倖を連れてきたのは泣きぼくろ  岸井ふさゑ






          ようこそ大相撲春場所(3月8日~22日)





「荒れる春場所」と称される大阪の舞台。季節の変わり目で体調管理が
難しいことが理由とも言われるが、実際のところはどうなのだろうか。
一場所15日制が定着した1949年夏場所以降に昇進した横綱35人
のうち、春場所で綱取りに成功したのは、たった2人。大阪でめっぽう
強く「大阪太郎」の異名を持つ59年の朝潮と、2014年の鶴竜だけ。
最近では栃東、琴奨菊、貴景勝らがはね返されており、験の悪いデータ
に安青錦がどう立ち向かうか。




ギロチンの刃がキリキリと巻き上がる  井上一筒






       雷伝為右衛門     小野川喜三郎





大相撲ー三月場所の見どころ





松原会計事務所のKPMGジャパンから贈呈された化粧まわし。
出身地のウクライナ・ビンニツァの伝統的な刺しゅう文様がモチーフ
で「凄く素敵なデザイン。シンプルでいて力強い。世界中の方に強い
相撲を見せていきたい」と安青錦は意欲を新たにした。





「安青錦」
戦禍のウクライナから避難して2022年4月に単身来日。当初は関大
相撲部に練習生として身を置いていた。23年秋場所で初土俵を踏むと、
低い体勢から見せる多彩な攻めでスピード昇進。それでも、昨年春場所
はまだ新入幕力士だった。それから1年、2桁白星を続けてさらに成長
し、安定感が増している。
春場所で横綱昇進を決めれば、大関の2場所通過は昭和以降では双葉山、
照国と並んで3人目となる最速タイ。初土俵から所要16場所での昇進
は、年6場所制となった1958年以降、初土俵では朝青龍の25場所
を大幅に塗り替える新記録だ。「自分のやるべきことをやれば、結果は
ついてくる」と話す安青錦の取組から目が離せない。
一月場所は新大関として2場所連続優勝を果たし、綱とりに挑む安青錦
(安治川)が自己最高位となる東大関に置かれた。初場所はともに10
勝だった両横綱は、豊昇龍(立浪)が続いて東に位置する。




大相撲新大関の内無双  楠元晃朗




「相撲のニュースゟ」
初場所14日目の1月24日。大相撲中継で解説を担当した春日野親方は、
率直な違和感を口にした。新大関・安青錦の“まわし”についてだ。安青錦は
その2日前、トレードマークだった青いまわしを、師匠の安治川親方(元関
脇・安美錦)から譲り受けた黒色のものに変えたことが話題となっていた。
力士が本場所でつけるまわしは「締め込み」と呼ばれ、値段は100万円前後。
後援会や支援者から贈られるのが一般的だが、本場所中に変更するのは異例
のこと。しかも、師匠のものとはいえ、要は他人のふんどしである。
理由を聞かれた安青錦は「特にない」とそっけなく語っていたが、それでも、
安青錦が、二場所連続優勝を決めると、不可解な締め込み変更も師弟の美談と
して報じられた。




ジョーカーを持っていたから頑張った  井上恵津子




まわしについて、安治川親方は「本人が黒にしたいと言った。自分も一緒に戦
っている気になる」と上機嫌で話していた。
2019年に現役を引退した安治川親方は、22年暮れに伊勢ヶ濱部屋から独
立。翌年、都内に新築の安治川部屋を構えた。
安治川親方は、伊勢ヶ濱部屋時代に知り合った会社経営者のA氏に支援を頼み
込んだ。A氏は、安治川部屋の後援を快諾。安治川親方を物心両面から支え、
部屋の弟子たちにも食事をご馳走したり、小遣いを渡したりして面倒をみたと
いう。その中の一人が、戦禍のウクライナから来日し、瞬く間に安治川部屋の
関取第1号になった安青錦だった。




僥倖はドラを積もって幕を開け  村田 博






    安青錦優勝祝いに親方とおかみが揃う





「安治川部屋の内輪話」
関取といえば、部屋の稼ぎ頭。A氏は、安青錦もかわいがっていたが、
おかみが内心それをよく思っていなかったようだ」
おかみ(杉野森絵莉)さんは、早稲田大学法学部を卒業した資産家令
嬢で、在学中にグラビアデビューした異色の経歴の持ち主だ。
「ただ芸能界では鳴かず飛ばず。12年、出席した日馬富士の横綱昇
進パーティで、伊勢ヶ濱部屋の後援会幹部から現役力士だった安美錦
を紹介され、安美錦はおかみにベタ惚れして翌年に結婚。以来、惚れ
た弱みでおかみに頭が上がらない。 (伊勢ヶ濱部屋後援会員の弁)




黄昏も応援してるプロポーズ  高橋ひろこ











早大出のおかみの影響力は絶大で、安治川部屋も早稲田色を強めていく。
安治川親方もおかみの勧めで21年4月から1年間、早大大学院に学んだ。
研究テーマは『相撲部屋におけるおかみさんの役割について』だ。
(そこまでやるか!の、親方とおかみのべたべたどっぷりだ。)
「一昨年、親方とおかみは、早大卒業生団体の稲門会のひとつ『稲門相撲
會』を設立。今年1月には、早大相撲部の川副楓馬くんの安治川部屋入門
が決まった。早大卒としては、81年ぶりの力士誕生になります」と後援
会関係者が語る。
おかみとA氏は「もともとウマが合わなかった」と、角界関係者がこっそ
り教えてくれる。その板挟みだった安治川親方も、やがてA氏を遠ざけ始
めるようになった。
安青錦が初優勝した昨年11月の九州場所では、支度部屋での万歳三唱の
場にも千秋楽パーティにもA氏は招かれず。激怒したA氏は、安治川部屋
と縁を切ったんです」と、後援会関係者が漏らす。




社会的距離であなたが遠くなる  村山浩吉






   雷伝為右衛門    小野川喜三郎





「3月場所の見どころ」




人気のある宇良は大阪場所ではさらに人気は沸騰するから気合が入る。
一月の初場所では4勝11敗と大きく負け越した。ただ、どんな技を仕掛け
るか分からない業師ぶりと、常に全力を出し切る取り口は健在。
ベテランの域に入るが、常々、ファンの声援と拍手に「ありがたい」と感謝
を口にする人気者は地元で持ち前の変幻自在をみせてくれるだろう。




藤色の基礎体温が高くなる  吉松澄子






       明日の取り組を発表する行司





小兵ながら気迫あふれる真っ向勝負が魅力の藤ノ川は、一月場所で2桁白
星を挙げ、その人気とともに、初めて上位総当たりとなる地位まで番付が
上がってきた。東京だった出身地を、24年春場所から父の甲山親方(元
幕内大碇)と同じ京都市に改め、春が「ご当所」となった。家族の影響で
普段から関西弁が出る藤ノ川は「大阪では特に良い相撲が取れるようにし
たい」と意気込む。




大阪が性に合ってる相撲とり  通利一遍






     さて今場所はいかに




対照的に、東十両7枚目で3勝7敗5休だった栃大海(春日野)は、西
幕下筆頭に番付を下げた。名門の春日野部屋から昭和10年(1935)以来
続いた関取の輩出が途絶えた。
(同じ名門では高砂部屋が、2017年初場所で関取不在となり、明治
11年(1878)から139年続いた関取輩出が止まった。
出羽海部屋は、2010年名古屋場所で関取不在となり、明治31年
(1898)から112年続いた関取輩出が途絶えている)




王の黄昏だあれもいなくなった  加納美津子






    方肌を脱いで記録に挑む




41歳の最年長関取、玉鷲(片男波)は、西前9枚目となった。
一月の初場所は東前頭5枚目で5勝10敗だったため、4枚半降下した。
これで幕内在位は99場所目となり、旭天鵬と並んで歴代3位となった。
歴代2位の白鵬まで4場所、歴代1位の魁皇まであと8場所に迫った。
幕内出場回数は現在歴代2位の1467回。休場しなければ、3日目に歴代1位
の旭天鵬に並ぶ。
(玉鷲は8勝を挙げれば、史上最高齢での幕内勝ち越しになる。
これまで旭天鵬と玉鷲が記録した40歳8カ月を約8カ月更新する。
番付上、横綱戦が組まれる可能性は低いが、横綱に勝利すれば、自身が持つ
40歳8カ月の最年長金星の記録も更新する)




不戦勝笑顔押さえて勝ち名乗り  ふじのひろし






   熱海富士に似ている小柳常吉




優勝決定戦で安青錦に敗れた熱海富士が西小結に番付を上げた。
同部屋からは、2015年7月場所の宝富士以来、現師匠(元横綱照ノ富
士)が継承してからは初、静岡県からは1930年夏場所の天竜以来の新
三役となった。




プレゼンの途中に挟む自慢談  日下部敦世




新入幕では、藤青雲と藤凌駕。藤島部屋からは、2023年3月場所の
武将山以来で、同部屋から新入幕2人は、2011年11月場所の境川
部屋(妙義龍・佐田の富士)以来となる。




文句なく文句言われず恙無い  藤井孝作




幕内経験者の人気力士炎鵬(伊勢ケ浜)は東幕下4枚目に番付を上げた。
東幕下11枚目だった1月の初場所では、勝てば十両再昇進が確実だった七
番相撲で敗れて6勝1敗。幕下15枚目以内の7戦全勝は、十両に昇進する
ことが慣例となっており、目前で関取復帰も幕下優勝も逃していた。
それでも今場所、勝ち越せば昇進の可能性が出てくる幕下5枚目以内に入っ
てきたことで、23年夏場所以来、3年ぶりの関取返り咲きの可能性は高まる。




その時はその時何も考えぬ  青木公輔











一月場所、西幕下6枚目で、6勝1敗の好成績だった大花竜(立浪)は、
西幕下2枚目に番付を上げた。“相撲どころ”青森県出身。同県出身の
幕内力士は、1883年から143年、常に番付に名を連ねてきた。
現在は前頭錦富士、十両尊富士の伊勢ケ浜部屋2人が、交互に幕内を務
め、歴史をつないでいる状態。そこに地元ファンにとっては“待望の3
人目”として加わることが期待されている。




三日月に思い巡らすステンドグラス靍田寿子






     意外にリーズナブルなんです




“史上最強の新弟子”の呼び声高い、先場所序ノ口優勝の旭富士は、西序二
段8枚目に番付を上げた。先場所が東序ノ口19枚目。実に111枚もの
ジャンプアップは、全力士最高の番付上がり幅となった。





転生にゾウとキリンを入れておく  渡辺遊石

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大相撲ー呼出し

昭と和の間にそっと一呼吸  上田和宏





         画像は明治中期んも大相撲の様子
審判は四本柱の内側に座している。


昭和の真ん中は栃若時代、名人と謳われた「二人の呼出し」がいた。
一人は、名門・出羽海部屋所属の伝説的な呼出しは「太郎」である。
11歳で入門し、バチさばきと美声で観客を魅了した名人芸の持ち主で、
角界初の「生存者叙勲」を受けた功労者であり。衆議院の議事進行係が、
通称「呼び出し太郎」と呼ばれるほどに名を馳せた。
そして太郎から少し遅れて、破格の美声の持ち主といわれ登場したのが
「小鉄」である。伊勢ケ浜部屋所属、明治31年相撲界に入った。
小鉄が呼び上げのために土俵に上がると、あの騒々しい場内が、その声
を聞き漏らすまいと館内が静まり返ったという。
加えて、その太鼓は不世出とされた。あれほどのバチさばきは二度と聴
けまいといわれる。昭和44年には、角界初の生存者叙勲に輝いた。
それを祝してドイツ文学者が川柳に残している。



しょうゆ樽叩いてもらう勲六等  高橋義孝






              呼 出 し 小 鉄





宵越しの金を持たない太郎は、借金の形に商売道具の太鼓を質に入れた
ことがある。代わりに空のしょうゆ樽をたたいたのだが、その腕前ゆえ、
しばらく周囲に気づかれなかったという。
現在、呼出の名前は番付に載っている。この原点は太郎の力である。
昭和24年、太郎が「名前を載せてほいい」と協会に願い出て受けいれ
られたのだ。しかし太郎が定年になると、また番付から消された。
これは平成6年に復活した。
現実に、呼出は名前が載って当然の、実に多岐にわたる仕事をしている。
行司と同様に、呼出なしでは大相撲は成立しない。


さくらさくらさくらは平仮名が似合う  雨森茂樹






       式守伊之助と呼出・弥吉


大相撲ー呼出し



さて相撲は「呼び出し」から始まる。長く相撲を愛している方ならどなた
もご存じの、しつこくて申し訳ないが、あの栃若時代に部類の美声の持ち主
「呼出小鉄がいた。館内に響き渡る透き通った声に、観客は咳一つしない
その緊張感の中で、両力士は、土俵に上がるのだった。
これから対戦する両者の胸中を、観客は瞠目するのである。
小鉄の声は、それほどの価値を持っていた。
おそらく小鉄に呼び上げられたいと、多くの力士は稽古に励んだことだろう。
なぜなら名匠と称されてから彼は、横綱・大関しか呼出さなかったのだから。



守ります自分のペース頑なに  前中一晃





    呼出・利樹之丞





半世紀以上経た今、小鉄のごとく透る声の呼び出しさんが現れた。
利樹之丞さんである。高砂部屋所属の52歳、昭和64年に初土俵を踏む。
小鉄のような高音域の「呼び上げ」で取り組みを盛り上げている。
現在幕内格で年功序列の世界であり、小鉄になれるかは未知数だが、よく
よく、精進してそうなってほしい。相撲が力士だけのものではないことを、
知らしめてほしいものである。
呼出しの仕事で一番楽しいことはと聞かれた利樹之丞さん。
「やはり呼び上げですね。呼出しの一番の見せ場です。これから取り組む
力士には、声で力をつけて、また会場を盛り上げることができる、そんな
呼び上げを心掛けています」と答えた。



僥倖をハシビロコウは待っている  岸井ふさゑ


 



       百周年記念行事
この日、奏名(ふしょう)役を幸司と利樹之丞が務めた



「呼出しの歴史」
呼出しは、奈良・平安時代のころには存在していたと言われている。
記紀神話の力比べから、技芸による年占儀式へ、そして宮中行事「相撲節
会」
にあるともされる。とすると千三百年の歴史を持つことになる。
「奈良から平安時代にかけての相撲節会の役職であった「奏名(ふしょう)」
は、相撲人の名を呼んでいたようで、それが呼出しのはじまりとも言われて

いますね」と、利樹之丞さんが教えてくれた。
「百周年場所において奏名」=相撲人の名を読み上げる、現在の呼出し役。
この日は幸司と利樹之丞が務めた。
相撲長(すまいのおさ)=相撲節会で相撲人を世話する役割。
この日は童相撲の子供たちを先導しました。富士夫啓輔が務めました。




両の手ですくいきれない恩がある   蒼井 環



「さらに利樹之丞さん」
「江戸のころは、取り組みを裁く行司に対して呼び上げを行う「前行司」
という職がありました。ほかにも、四股名を呼び上げる人を、「ふれ」、
「名乗り上げ」
とする記述があり、それが呼出しだった
と言われています。江戸は寛政(1789~1801)年間に作られた番付には、
呼出しの名前が載っています。それから載ったり載らなかったりで、昭和
24年に呼出しの太郎さんが、理事長に提言して10年ほど記載されてい
ました。そして平成6(1994)年からは、番付表への記載が復活。
今も昔も同じでしょうが、自分の名前が番付に載っているのは励みになり
ます」。




憧れとためらい二つとも絵馬に  靍田寿子






                                       「勧 進 大 相 撲 繁 栄 之 図」

土俵の上ではまさに取り組みの真っ最中。行事や審判員、呼出の姿もあり、
土俵の下には、東西それぞれに力士が控えている.


「勧進相撲 行司と呼出」
因みに江戸相撲独特の縦番付が発行されたのは、寛永前の宝暦時代(1751
~1764年)。この頃からは、今につながる江戸相撲の制度や組織が整いは
じめた。また、錦絵にも描かれている勧進大相撲ですが、「行司」はもち
ろん「呼出し」の姿も見ることができます。幕末のころの錦絵には、裁着
袴(たっつけはかま)姿で描かれていて、今の装束とほぼ変わりません。



時の熟成だ苦言も干し柿も  三好光明



「呼出しの三大仕事」






    呼出し邦夫

十両呼び出し。高砂部屋所属。伸びのあるその声はオペラ歌手のようと評され
「邦オペラ」の愛称を持つ



① 「聞き比べが楽しい呼び上げ」
呼出しといえば、イメージするのが呼び上げです。
土俵上で白扇を広げて、次の取り組みの四股名を呼び上げる。
奇数日は東方から、偶数日は西方の力士から呼び上げる。
序の口から幕内までは、四股名は一度だけ呼び上げる「一声」で十両最後の
取り組みや三役以上の場合は、二回呼び上げる「二声」で、節回しや声の強
弱などは、それぞれのスタイルで。



今ここで大きな声を出さないと  津田照子






土俵は場所が始まる6日前から3日間の時間をかけて作られています。
土俵は機械などは一切使用されず、人の手によって作られておりまず
6.7mの正方形の中に高さ60cmになるように土を盛っていきます。

その上で小タコ、大タコ、タタキといった道具を使って人の手で土を固め
ていきます。土が固まったら、ロープを使って直径4.55mの円を作成し、
俵を埋める穴を掘っていきます。そして掘った穴に俵を埋め、最後に水を
撒きコテを使って土俵をならしていきます

ビール瓶も土俵作りに重要な役割を担っている。



② 「すべて手仕事、職人技の土俵築」
「土俵築」とは、土俵作りのこと。本場所や巡業の土俵から相撲部屋の稽古
土俵まで、土俵づくりは、呼出しの重要な役割。ちなみに国技館での土俵築
は、場所前3日間をかけて呼出し全員で行う。
まずは土台を残して20㎝ほど削り、新たな土を入れて打ち返す。
「タコ」という道具で押して土を固め、「タタキ」と呼ばれる道具で表面を
水平に。また俵を土俵に埋め込む作業では、その俵作りに欠かせないのが、
ビール瓶でビールの大瓶を使って、きれいに形を整えて、土俵に埋め込んで
いく。仕上げまで、なんとすべて手仕事なのだ。
すばらしい取り組みは、呼出しが手掛ける土俵があってこそ。土俵の土は、
埼玉で採れる「荒木田」だ。


引っ張ってくれた両手の温かさ  石塚芳華






  江戸時代の触れ太鼓の様子。「江戸両国回向院大相撲之図・太鼓」



 「相撲情緒を演出する太鼓」
相撲情緒に欠かせない櫓太鼓の音。これも呼出しの仕事である。
場所前日に叩かれる「寄せ太鼓」に始まり、場所中は櫓の上で毎日朝8時
すぎから「一番太鼓」を、弓取り式が終わると同時に「跳ね太鼓」を叩く。
跳ね太鼓は、「来場の感謝と明日の来場への願いを込めている」
(千秋楽や一日限りの巡業では叩かない)
また場所前日は、人々に相撲が始まることを知らせて回る「触れ太鼓」
呼出しが数名一組となり、相撲部屋や贔屓筋を回る。
太鼓を叩き、初日の顔触れ(取り組み)を呼出しならではの節回しで披露
する。国技館での場所開催時には、両国駅周辺の店はもちろん、日本橋の
老舗などでも、触れ太鼓チームに出くわすことも多々あるはずだ。



冬ぐもり蜜柑甘い日酸っぱい日  小川佳恵



「呼出しは縁の下の力持ち」
呼び出しは、取組前に「◯◯〜」と力士を独特な節回しで呼び上げるだけで
なく、懸賞金がかかっている取組で、企業名が入った「懸賞旗」を持って、
土俵を回り、行司に懸賞金を受け渡す役目も担っている。
また毎日の取組の合間に土俵の掃除や整備、塩の用意、土俵のメンテナンス
を行う。取組前に力士にタオル・汗拭き用の紙や布を渡すのも呼出しの仕事。
十両以上の土俵にて、制限時間いっぱいになった際に、水桶の横に座ってい
る呼出しが力士へ差し出す。
力士はタオルで体を拭いた後、綺麗に畳み呼出しに返すのが力士の礼儀です。




よく動く眼球が壁に掛けてある  宮井元伸


呼び出しの階級は、9つに分かれており、基本的には、勤続年数に基づく
年功序列の仕組みです。見習い期間を含めると、呼出しとしてのキャリア
は約3年間の養成期間から始まります。その後、経験を積みながら各階級
へと昇格していきますが、その昇格には特定の条件が定められています。





「階級と給与」
呼出にも行司や力士と同様に階級(序ノ口~最高位の立呼出まで)があり、
経験年数や実力によって役割の重要度が変わります。
その給与は、「基本給」「手当」の2つから成り立っています。
基本給は階級によって決まりますが、手当は個人の能力や勤務態度に応じ
て変動。階級が上がるにつれて、基本給だけでなく手当の額も増えていく。
このように、呼び出しは、土俵上の進行を支える重要な役割を担っており、
階級が上がるにつれて任される業務や責任も増し、それに伴い給料も上が
っていきます。



海老が二匹のった隣りの素うどん  通利一遍




階級        本棒(月給) 手当(月)
三役呼出し以上   360,000~400,000円未満
幕内呼出し   200,000~360,000円未満
十枚目呼出し   100,000~200,000円未満
幕下呼出し   42,000~100,000円未満
三段目呼出し   29,000~70,000円未満
序二段呼出し   20,000~29,000円未満
序の口呼出し以下  14,000~20,000円未満 
 
立呼出しになると、年収1,300万〜1,500万円に達するとされる。
また諸手当本場所ごとの手当や装束の補助、旅費などが別途支給されます。

青が青でありますように百年後  高橋レナ

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大相撲ー行司の仕事

入念の仕切らち(埒)なや負相撲    瓢亭





           谷風梶之助 VS 小野川喜三郎  行司・木村庄之輔

行司が「かまえてッ」と何度言えども腰を下ろさない力士がいる。
駆け引きだろうが、見ている側がイライラさせられる。




大相撲ー行司の仕事






          式 守 伊 之 助




相撲の行司には、立行司(木村庄之助・式守伊之助)を筆頭に三役格、
幕内格、十両格、幕下格三段目格、序二段格、序ノ口格という八つの
格(階級)があり、昇進するにつれて裁く取組の番付や収入も変わる。
最高位の立行司は、上記の2名で、軍配の房の色や装束、履物(草履
や短刀の有無)なども階級によって異なります。




秋場所や霧の中なる幟数  山田土偶






裃の正装で土俵にあがる行司。足や身体に目をやる行司は大変なのだ。



呼び出しのあと土俵に、行司・東力士・西力士が揃い、仕切りに入ると,
「見おうてッ」と、行司が最初に発声する。立ち合いの動作に入る時は、
土俵に両手を下ろせという意味で「手を下ろしてッ」両力士の呼吸が合
わないと「まだまだッ」。制限時間がくると、「時間です」と告げた後、
「待ったなしッ」とかける。行司が軍配を正面に向けると、「はっきよ
いっ」「残ったッ」で対戦がはじまる。
これは「発気揚々」から来ているという。
「残ったッ 残ったッ」「相手はまだ土俵内に止まっている」と教え
ているのである。長い相撲になると、土俵下の時計係審判委員が、行司
「水入り」の合図を送る。




ポプラ葉の柄相撲からして弱い奴







歴史上最も長い水入り角力・(二子岳(左)-三重ノ海戦)
昭和49年秋場所11日目、10分を超える死闘の末、11年ぶりの引き分け
となった。





それを受け、行司は勝負を中断させる。力士は土俵下でまわしを締めな
おしたりして、小休止。再び土俵に上がると中断前と同じ形に組む。
これも行司の仕事で、止めた時の形を寸分違わず覚えておき、再現する
そして、審判委員と力士に異論がないかを確認した後「いいか、いいか」
と、掛け声を発する。「いい」となれば、行司は両力士のまわしを同時
にパンッと叩く。勝負再開となる。




勝角力風情なるかな乱れ髪  暁台





        行司泣かせの一番




現実には、咄嗟には判断しにくい勝負や、どちらが先に落ちたか分から
ない勝負も多い。ビデオ判定で勝っていたと思う力士の足が出ていたり
もする。
さらに相撲には『死に体』という判定が難しい体勢がある。
「死に体」について、相撲大辞典には次のように書かれている。
【体の重心を失ったり復元力がなくなって、逆転は不可能である」又は、
「それ以上相撲は取れない」と判断される体勢に陥ったときをいう。
(つまり、体が後方へ三百六十度傾き、爪先が上を向いてしまったよう
な状態)】
『生き体』がまた行司泣かせである。例えば、うっちゃりの技などで同
体で土俵を割った場合など。それでも行司は咄嗟の判断で軍配を上げな
ければならない。




一波乱相撲秋場所上位陣  良一





       勝負審判の配置図




行司の判定が、おかしいと疑念があったとき土俵下の勝負審判委員から
「もの言い」がつく。審判委員は土俵に上がり、「ただ今の勝負」につ
いて協議を行う。ビデオ再生の映像も参考にして「軍配通り」「行司差
し違え」または両者同体とみて「取り直し」が決まる。
このとき、行司は協議に参加できるが、最終判定は審判委員の権限で。
審判委員がつけた最終判定に。行司も力士も一切、口ははさめない。
「差し違え」「行司黒星」とも呼ばれ、行司にとっては屈辱である。
立行司が腰に短刀を差しているのは、差し違えたら腹を切るの覚悟を
意味している。実際には腹は切らないが、直ちに理事長に進退を伺う。
短刀は立行司しか持たないが、それだけ重い責任を背負っているのだ。




鳥渡る角力巡業待つ浦を  杉本  寛





       呼出をする行司




「こんなこともしている行司の仕事」




 十両や幕内の土俵入りの際、その番付の最下位から上位までを
淀みなく呼び上げ、出身地や所属部屋を紹介アナウンスする。
(テレビでは午後3時半頃に幕内力士が順に土俵に上がっていくと
ころやアナウンスする行司の声を聴くことができます)
ではどこに放送席があるのか?土俵下升席最前列にモニターと放送
機器があり、そこでアナウンスをしている。
② 「ただ今の決まり手は寄り切り…」など、取組の決まり手や、
勝負結果の記録 そしてその決まり手と勝負結果を記録する。







 「明日の対戦力士の名を相撲字で筆で書いた半紙(顔触れ)
を行司は、土俵中央に立ち「憚りながら明日の取組をご披露つか
まつります」と口上を述べる。
④ この「顔触れ」「毎場所の番付、を書く仕事。これは独特
の、「相撲字」という書体で書かなければならない。相撲字は字
に隙間を作らず、白いところをできるだけなくした書体で書く。
これは隙間がないほど客が入るようにという縁起が込められている
(行司は入門と同時に、相撲字をみっちりと練習させられる)
 行司や床山は、相撲部屋に所属している。地方巡業へ出る際には
親方と一緒に一足早く巡業先へ向かい、旅館や交通の手配をおこなう。
 土俵祭りの祭主、本場所の安全を祈願し、神事を執り行う。




校庭の土俵均され秋の雲  康子





 こんな水を差す一番もあった。よくみてもらいたい。
水入り前と水入り後で足の位置の違いがあった。




「行司の給料」
相撲の行司の給料は、階級(番付)によって決まります。
序ノ口格で月1.5万円〜2万円程度から始まり、最高位の立行司で
は、月40〜50万円、年収1千3百万〜1千五百万円に達すると
言われています。
下位の行司は、本給に加えて手当が支給され、高位になるほど本給
の割合が増え、地位に応じた月給が保証されますが、最高位以外は
力士に比べると待遇は低い傾向にあります

「階級別の給与目安(月額)」
序ノ口格  1万5千円~2万円未満
序二段格  2万円~2万9千円未満
三段目格  2万9千円~4万2千円未満
幕下格   4万2千円~10万円未満
十両格   10万円~20万円未満(家庭を持つ行司は月約20万円)
幕内格   20万円~36万円未満
三役格:     36万円~40万円未満
立行司   40万円~50万円未満(年収換算で1300万~1500万円)




うす闇き角力太鼓や角田川  一茶

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大相撲ー巨漢力士の巻

子を抱いて総身のすくむ相撲取り





          釈迦ヶ嶽雲右衛門の桁外れの手形


生まれたての赤ちゃんなんてすぐに壊れてしまいそうで抱くのが
恐い。病院から帰ってきたばかりの赤ん坊が、あまりにも小さく、
あまりにも壊れそうで、どうしていいかわからず、しばらくじっ
と見つめていたものだ。




大相撲ー巨漢列伝、大きな相撲取りの中でも大きな相撲取り





   等身大掛け軸 釈迦ヶ嶽雲右衛門 & 生月鯨太左衛門


「江戸時代」
 江戸時代の巨人と言えば、まず、明和7年(1770)に江戸に登場
した釈迦ヶ嶽雲右衛門である。身長7尺1寸6分(約217㎝)。
実際に土俵で相撲を取り、それなりの勝ち星を挙げているので大
きくて強い力士であった。その後、釈迦ヶ嶽雲右衛門級の巨人では
文政年間(1818年頃)に肥後熊本から大空武左衛門が現れた。





      大空武左衛門



大空は身長7尺5寸(227㎝)体重35貫500(約133㎏)という
体格で牛を跨いで通ったという伝説で「牛跨ぎ」というあだ名で呼
ばれた。錦絵にも描かれ江戸っ子の興味を煽ったが、しょせん相撲
を取る覚悟も力もなく、熊本藩候の遊び道具のようにあちこちに連
れ回され注目されることに終始して土俵に立つことは無かった。
(大空武左衛門肖像画 (クリーブランド美術館蔵)
渡邊崋山が等身大の肖像画を描いている。
その模写は早稲田大学図書館に所蔵されている。)




   柱絵 釈迦ヶ嶽 磯田湖龍斎画 (等身大の絵で228㌢)



釈迦ヶ嶽二階から目へ差し薬





       龍門好五郎




文政11年(1828)10月場所の番付に登場するのは伊予(愛媛県)
の出身・龍門好五郎。錦絵に描かれた時のサイズは身長7尺4寸分
(約225.7㎝)45貫(約168.7㎏)とある。
大坂相撲に登場して土俵入を行ったり相撲を取ったりしたようだ。
その評判を聞いて江戸の土俵に立たせようとしたが、実際には江戸
には来ず、大坂で亡くなってしまったらしい。
江戸の人々には錦絵だけの幻の巨人となってしまった。
ただ手形が残されており実在の巨人であったことは間違いない。




嬉しやと再び覚めて一眠り  徳川家康





    生月鯨太左衛門




西張出前頭に古今随一の巨人生月鯨太左衛門が登場する。
『武江年表』には、「弘化元年(天保15)4月5日「肥前平戸産
大男生月鯨太左衛門といへる相撲取来る。身の丈七尺五寸、重さ
三十六貫、掌一尺八寸、今年十八歳、十八人力と云ふ」とある。
最初は相撲は取らず土俵入のみ行い、少しずつ慣らしてから余興
のように相撲も取るようになった。弘化3年(1846)11月場所、
幕尻で5日間だけ相撲を取って、幕下力士のみを相手に3勝2敗
の成績を挙げている。またそれに先立つ弘化2年大坂で行われた
興行で、10日目千秋楽に生月の五人抜きを行った。
その姿を描いた錦絵が残っているが、名もない下位の力士5人を
相手に相撲を取る姿が描かれている。





      五人を相手にする生月鯨太左衛門


「エピソード」
江戸に来て色気づいたか、両国広小路の水茶屋の娘に懸想したが
桁外れの体格ゆえひじ鉄砲を喰らった。それが悔しいと同じ両国
の見世物小屋に出ていた一寸玉之助という小人の女性を女房にし
たという話がある。しかし、嘉永4年(1851)わずか24歳で病
没。生月鯨太左衛門は、よほど江戸で評判になったようで沢山の
浮世絵が描かれている。




春場所や相撲の熱気桜咲く





       高見山大五郎




史上初の外国出身の力士として活躍し外人力士の門戸を開けた。
身長192㌢体重205㌔でその巨体と愛嬌のあるキャラクター
で親しまれ、現役時代は、「ジェシー」の愛称で呼ばれた。
外国人として幕内優勝をも達成し関脇まで昇りつめた。




相撲番組力士の名や梅雨明け




昭和・平成を代表する主な巨漢力士





左から、大関常陸岩、 新海、 横綱常ノ花、 出羽ケ嶽 
     張出大関大ノ里、 和歌島、 関脇玉錦




「昭和時代」
出羽ヶ嶽文治郎。身長205㌢、体重も200を超えた伝説的な
巨人。関脇昇進後は、大関昇進を期待されたが、足腰の負傷など
で平幕どころか三段目まで降格となる。小さな対戦相手に土俵に
転がされる姿は同情にも嘲笑の的にもなり、悲惨だった。
当時の実況アナウンサーは「大男、総身に知恵が回りかね。ただ
いま出羽ヶ嶽登場」と実況し「名調子」ともてはやされていた。
今では完全アウトなエピソードが残る。




相撲の街両国の夜蛍飛ぶ






  大内山平吉の張り手一発で吹っ飛ぶ相手力士




大内山平吉。身長190㌢以上、四股名の「大内山」は、当時の
皇居を意味していたため、不敬罪にあたるため戦時中は本名の大
内で相撲を取った。戦後になって不敬罪が廃止されたこともあり、
昭和23年5月場所で十両昇進を果たすと念願の「大内山」を名
乗った。その後も25年1月場所で新入幕に。昭和30年3月場
所では横綱千代の山と対戦惜しくも負けるが待望の大関位をお獲
得した。ちなみに昭和天皇は、大内山の四股名を意識されていた
らしく戦後の力士の中では大内山がお気に入りだったと言われる。





引組んで猶分別や角力取  太祇






       小錦八十吉




「平成時代」
小錦八十吉。現役時代は「ダンプトラック」の異名を持ち、当時
の歴代最高体重287㌔を記録。外国出身力士の大型化のパイオ
ニア。平成30年んには体重292.6㌔を記録し、大相撲史上
最も重い力士となった。山本山龍太が日本人力士として265㌔
という最大級の体重を記録したが、小錦には届いていない。





好調は躰に任せとる相撲  良一





         曙太郎




曙太郎。外国出身初の横綱。身長203㌢、体重230㌔。曙の横
綱土俵入りは「四股の足がほとんど上がらず、この点で貴乃花と
比べて見劣りがする」などと何でもイチャモンをつけたがる人が
いたが、「四股は古来足を高く上げるものではなく、むしろ足を
高く上げ、土の付いた足の裏を客に見せるのは不浄であるとする」
とする従来の概念から一件落着となったエピソードが残る。
曙の礼儀正しさや謙虚な態度は「日本人以上に日本人らしい」
評され、部屋や一門の別なく下位の若手に積極的に稽古をつける
第一人者としての責務を真面目に果たしたことなど、親方衆、力
士からの評価はとても高かった。
「礼儀正しさに感激しました。帰り際にもドアの前できちんとお
辞儀をし、いつも曙の悪口を言ってる私自身が恥ずかしくなる程
でした」内館牧子さんも賞賛の意を述べている。




四つに組んで贔屓の多き角力かな  子規

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大相撲ー横綱を追う

蒼天に髻とけし相撲かな  石鼎





             横 綱 授 与 の 図 勝川春英



「相撲の起源」
相撲の起源はハッキリしない。『古事記』にも記述があり奈良時代にも「相
撲節会」があることから、古来の儀式の要素を有した伝統競技とも言われて
いるが鎌倉・室町時代の頃は「武家相撲」で、武術のひとつだった。
それが江戸時代になると「勧進相撲」となった。勧進とは寺社を建立したり
構内を修復するための資金集めのことで、江戸では、貞享元年(1684)に深川
八幡境内で寺社で興行が行われるようになった。
今日、大相撲の番付「蒙御免」とあるのは、寺社奉行の御免(許し)を蒙
った(受けた)の意の名残りだ。






                           江 戸 相 撲 番 付 表




おもしろきこともなき世をおもしろく  晋作




当時の人々は、江戸時代を代表する文化の一つとして大相撲を楽しみました。
このブームを牽引したのが、寛政元年(1789)にはじめて横綱土俵入り
披露した谷風梶之助小野川善三郎、そして彗星の如く江戸の相撲に登場した
雷伝為右衛門です。そして寛政3年には「上覧相撲」が催されました。




宮相撲廃れ鎮守の宮荒ぶ  秋山英身




大相撲ー横綱を追いかける




 
         谷風梶之助 VS 小野川喜三郎


「江戸のニュース」
寛政3年6月11日、将軍家斉がこの日相撲を上覧した。
上覧相撲は、江戸城吹上苑の庭で行われた。雷伝為右衛門も登場し参加力士
は百六十六名、最後の谷風小野川の大関同士の取組では、小野川が「待っ
た」をかけた吉田追風ので、小野川の「気合負け」谷風の「気合勝ち」、と
して行事の吉田追風は谷風に軍配をあげた。
寛政の改革の方針である「尚武」に叶うということもあって、相撲が歌舞伎
や遊郭と並んで、江戸の三代娯楽となったのは寛政期であり、谷風、小野川
らの名力士が現れた。仙台藩お抱え力士の二代目・谷風梶之助(四十歳、百
八十九㌢ 百六十一㌔)と、久留米藩お抱え力士の小野川喜三郎(三十二歳 
百七十八㌢ 百三十五㌔)が、相撲の司・吉田追風から横綱の伝を免許され、
注連縄を腰に富岡八幡宮の土俵上で四股を踏み、土俵入りを見せた。
(このころ、城や屋敷を建てる際の地鎮祭に、強豪力士などが注連縄をまと
い四股を踏んで、地鎮することが慣わしとなっていたが、これを吉田司家が
相撲興行の上で利あるものとして儀式として採りいれたもの。従ってこの時
点の「横綱」は、単に注連縄を意味し、土俵入りの際の免許の呼称(尊称)
に過ぎなかった)。




月のみか雨に相撲もなかりけり  松尾芭蕉






        谷風64連勝のかかった小野川との闘い




「江戸のニュース」
二月の浅草八幡場所の七日目、小野川喜三郎に土をつけられ、六十四連勝の
記録は消えた。
大相撲の黄金期は、この頃より少しあとの寛政年間(1789-1801)だが、のちに
その主役を担う谷風梶之助が、六十三連勝するという前代未聞の大記録を更
新中で、無敵だったのがこの年。これを阻む力士は一人もいないと思われて
いた。大相撲が大人気となる中、谷風の六十三連勝に土がつく。
この取組み以降、実力力士である谷風の前に人気力士の小野川が立ちはだかる
構図が出来上がり、大相撲は一気に黄金期に向かうことになった。
両者の江戸場所での対戦成績は、谷風の六勝三敗・二預かり・二引き分け・三
無勝負だった。谷風の終身成績は二百五十四勝十敗・十四預かり・二引き分け
五無勝負。全盛期の身長は六尺三寸(187㌢)体重43貫(161・2㌔)と伝え
られている。この谷風と小野川は、のちの寛政元年(1789)11月の深川場所で、
ともに横綱となった。この頃の大関は看板(飾り)で関脇の両者の強さが無類
ということで、一気に二人が横綱になってのだが、順序としたは小野川の横綱
免許が12月なので、現在では谷風が横綱第一号とされる。




土俵入りまけるけしきが見へぬなり 




安永7年(1778)頃から、それまでの8日興行から10日興行(雨天・寺社の行
事がある日を除く)が行われることとなり、そこに一人のスーパースターが現
れたというわけ。谷風梶之助である。体重43貫の堂々たる体躯で、この年3
月の深川場所から、以後4年負け知らずの63連勝を記録し、のち、寛政元年
(1789)、大関よりも強い「横綱の位に初めて就いた大力士だ」。この初代横綱
の登場で相撲人気は大沸騰した。




月のみか雨に相撲もなかりけり  松尾芭蕉




「安政期の横綱と平成期の横綱 比較」






      谷 風 梶 之 助  
188㎝ 160㎏       勝川春英画
     小 野 川 喜 三 郎   
178㎝ 135㎏   勝川春英画
        雷 伝 為 右 衛 門  
197㎝ 170㎏      勝川春亭画  
豊昇龍  188㌢  150㌔
大の里  192㌢  188㌔
琴櫻   189㌢  178㌔
安青錦  182㌢  140㌔
照ノ富士 192㌢  176㌔
白鵬   192㌢  155㌔
大鵬   187㌢  153㌔
千代の富士 183㌢  123㌔
    204㌢  232㌔
武蔵丸  191㌢  223㌔


絵に描かれた谷風、小野川、そして雷電、という3人の力士の活躍によって、
天明~寛政期(1781~1800)にかけて江戸の大相撲は黄金期を迎えた。




寒取や土俵箒の掃き応へ  龍雨






      江戸払いか旅立ちか




「江戸のニュース」

力士の雷伝為右衛門が江戸払いに。
人気力士として知られた雷伝為右衛門は、信濃国小県郡大石村(現長野県
東御市)出身で、身長が六尺五寸(197㌢)体重が四十五貫(169㌔)もある
巨漢だったと言われている。
江戸の浦風林右衛門の門下で、寛政二年に関脇に付け出され、同八年大関
に昇進して十六年務めた。この間、三十二場所中、二百五十四勝で、負けた
のはわずか十回(勝率九割六分二厘)という驚異的な記録を残す。
文化八年(1811)、四十四歳で引退して、松江藩の相撲頭取に任じられている。
しかしこの年、大火で焼失した江戸赤坂の報土寺に寄付した鐘に、大量の金
を鋳込み「天下無双の雷伝」と彫り込んだことが、幕府上層部の不興を買っ
てしまう。その結果、江戸払いに処せられ、鐘も取り壊された。さらに文政
二年(1819)には、松江藩の財政難のために、相撲頭取を解任される。
晩年は妻八重の出身地下総国臼井(千葉県佐倉市)で過ごし、文政八年二月
二十一日、五十八歳で他界した。



雷電がつなをはなして雲を行く

雷電はその強さから「雷」に例えられその横綱級の風格と強大さを表現した。





          [相 撲 取 組 之 図]  勝川春章画



「優勝経験のない横綱」
● 大錦卯一郎(第28代横綱)
横綱・大関に歯が立たず、連勝記録も少ないことから「歴代最弱横綱」と呼
ばれた。
● 男女ノ川登三(第34代横綱)
巨漢で人気があったが、引退後の晩年「下足番」をしていたという逸話が有
名で、その没落ぶりが「最弱横綱」のイメージと結びついたものとされる。
しかし「最強横綱双葉山」を「俺が強くしてやったんだ」と負け惜しみとも
とれる面白い発言を残している
● 安藝ノ海節男(第37代横綱)
1939年に双葉山の連勝を70で止めた「世紀の一番」で有名。小柄ながら
速攻相撲で活躍し、戦前・戦中の大相撲を支えた。横綱在籍時1勝あげている。
● 前田山英五郎(第39代横綱)
前田山の性格から前代未聞となる但し書き付き横綱に「粗暴の振る舞いこれあ
りし、時には自責仕る可く候」とのこと。在籍2年の5月場所、力道山に勝利
しただけで5連敗を喫し、大腸炎を理由に休場・休業・廃業帰京した。
● 吉葉山潤之輔(第43代横綱)
新横綱になってから急性腎臓炎・糖尿病により初日から全休。その後も左右両
足の捻挫、銃弾貫通による後遺症と足首に残ったままの銃弾の影響で思うよう
に白星を稼げず、横綱時代では一度も賜杯を抱くことが出来ず「悲劇の横綱」
とも言われた。歌舞伎俳優の御面相もあって人気はあったが。
●  双羽黒光司(第60代横綱)
優勝決定戦までの取組は数度あったが、そこで勝てず、優勝が一度も無いまま
横綱に昇進したことから「千代の富士の一人横綱状態を解消するための仮免横
綱」と呼ばれる。ちゃんこの味付けについて立浪と大喧嘩した北尾は、仲裁に
入った女将を突き飛ばすなど素行に問題があり、トラブルも多かった。そして
北尾以降横審は「横綱の品格」を問うようになった。
● 三代・若乃花勝(第66代横綱)
史上初の兄弟横綱として期待されたが、約5年間の大関在位時で多くの怪我に
苦しみ、「不知火型」のジンクス通りに「短命横綱で終わるのではないか」と
懸念されて的中。横綱在位は11場所だった。
● 稀勢の里寛(72代横綱)
二場所連続優勝で昇進したものの、横綱昇進直後に大怪我を負い、その後は
休場と不振が続き「史上最弱横綱」と評された。が、その真摯な姿は多くの
ファンに愛された。



入念の仕切らち(埒)なや負相撲    瓢亭






     照ノ富士 対  朝日富士




「ひとこと苦言」
「照ノ富士関は とにかく重い。白鵬関より一回り大きく見える」
照ノ富士との勝負のことを語った朝日山に、北の富士コラムゟ は厳しい。
右の相四つというのが、朝乃山にとって不幸なことではあるが、伸び盛りの
大関が、序二段まで番付を落とし、ようやく関脇まで戻ってきた照ノ富士に、
手も足も出させてもらえないとは、合口が悪いではすまないだろう。
体力も若さもすべての面で恵まれている朝乃山が、なぜ照ノ富士に勝てない
のか。もし、相撲界に七不思議があるならば、一番の謎であろう。
もし、私が原因を挙げるとしたら、一番に精神力の違いだろう。
一度地獄を見ている苦労人と、大した壁に当たることなく、大関に昇進した
両者では、天と地ほどの違いがある。
昔は、若い力士に「ちゃんこの味がしみていない」と言ったものだが、まさ
に朝乃山は、土俵の塩の苦さも、ちゃんこの味も足りていない。
(令和8年初場所は、9勝と頑張りましたがまだまだですな)




幾秋ヲ負ケテ老イヌル角力カナ  子規





           雨天休みの力士の景色





力士の酒盛りと聞けば料理や酒が山のように並んでいるかとイメージするが
、この図には料理が火鉢の上と横にある程度で、むしろ質素な印象を受ける。
当時はこの程度のものであったのではないかという推測も立つが、雨天時の
興行は中止だったため、この図は雨天時の関取たちの素顔と過ごし方の様子
が描かれたものではないだろうか。



「最後に小咄をひとつ〔久造さんの試し酒〕」
五升(計算は簡単で一升瓶5本のことです)の酒が飲めるか勝負することに
なった久造さん。
「ちょっと考えさせてくれ」と外へ出て行き、しばらくして戻ってくると
「やらせてもらうべえ」と言って飲み始めると、あれよあれよという間に
五升の酒を飲み干してしまう。
びっくりした主人が「久造さん、あんたさっきちょっと考えさせてくれと
言って外へ出ていったが、あの時、いくらでも酒が飲めるまじないか何か
してきたんじゃないか?それを教えてくれ」と聞くと久造さんは、
「いやあ何でもねえ何でもねえ、おら五升なんて酒飲んだことがねえから、
飲めるかどうか表の酒屋で試しに五升飲んできた」


「令和の酒豪」 episode
元横綱白鵬は焼酎60本を一晩で飲み干した記録を持つが、その上がいた。
白鵬が「自分より酒が強いと思った人はいるんですよ」と言う。
「X・JAPANのYOSHIKIさん…あのスリムな体のどこに入るのか驚いた」
と教えてくれた。




投られて酒債飛散る門角力  亀公

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