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川柳的逍遥 人の世の一家言
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背開きの方があの世で顔が利く  板垣孝志


小県の所領を与えると約した家康の書状

(書状書き下ろし文)
今度安房守(昌幸)別心の処、その方忠節を致さるの儀。誠に神妙に候。
然らば、小県のことは親の跡に候の間、違儀無く遣わし候。
その上身上何分にも取り立つべきの条、その旨を以って、いよいよ
如在に存ぜらるまじく候。仍て件の如し。
慶長5年  七月二十七日    家康
                         真田伊豆守殿

「真田信之」

関が原合戦の敗戦で、西軍の将はいずれも処刑された。

徳川軍本隊を引き付けて10日間を無駄にさせ、

関が原の合戦に間に合わなくさせた昌幸・信繁も厳罰の対象であった。

しかし、信之の父親・弟への家族愛が発揮される。

自身の処罰を覚悟しながらも信之は、家康に懇願した。

「父と弟を助命して下され、

    そのために私自身が連座しようとも構いませぬ」


舅の本多忠勝「忠孝の道こそ武士の道。伊豆守(信之)は武士の誉れ、

孝行をいう苦衷の心をお察し下され」 と援護した。

ジャンケンポングーの中身はなんだろう 岡谷 樹

家康は、昌幸を許したくないのだ、という内心を顕わにしながらも、

信之と忠勝の要請に頷くしかなかった。

「伊豆、これでそちへの賞罰は終わった」 

という家康に、信之は涙ながらに感謝した。

父と弟の命が助かるならば、武功への褒賞などは不要。

そうした気持ちであった。

隙のない男の影を踏んづける  高浜広川

結局、昌幸と信繁は九度山に流された。

監視つきの隠棲生活のようなものである。

しかし、家康はこのように昌幸・信繁を処置しておき、

前言を翻すように信之に6万8千石の加増を命じた。

信之は2万7千石の沼田城主から上田領を加え9万7千石の大名になった。

これはひとえに信之の才能と忠孝の深さを理解した家康の好意であった。

信之は、家康のこの措置に感謝するしかなかった。

もちろん、家康と徳川家への深い忠誠を信之が誓ったことは当然であった。

号泣の仕方を思い出せぬまま  中野六助



以後、信之は徳川幕府を支える大名として、家康・秀忠・さらには家光

家綱まで、4代の徳川将軍家に仕えることになる。

信之は、三代将軍・家光の老中でもあった酒井忠勝から

「信玄公の兵法」
ついて尋ねられ

「武田兵法とは譜代の臣を可愛がることである」と答えた。


さらに真田兵法を聞かれ「礼儀を乱さないことが軍法の要」とのみ言った。

酒井はその答えに、「真田の武人らしい」と感嘆したという。

聞きたがる耳をなだめている両手  小原由佳

元和8年(1622)10月、信之は上田から江戸に呼び出されて、

松代(松城)への転封を命じられた。突然の命令である。

信之には意外以上に不満であった。

上田は父祖伝来の地である。

しかも上田城は父・昌幸の「作品」でもある。

家臣団も不満を顕わにした。

だが幕府の命令には従わなければならない。

信之は心の裡は隠して

「真田家として面目も立ち、外面・内実とも良いことである」と伝えた。

爪たてるほどのことでもないでしょう 竹内ゆみこ

転封といっても松代は上田から峠ひとつ越えただけの隣藩。

善光寺や姥捨といった名所も領内にあり、信濃の中心地である場所を

所領したのだと前向きに捉えるように、家臣団に諭したのである。

しかも松代の前身は、武田信玄高坂昌信に築かせ、

川中島合戦の
主要地でもあった海津城である。

こうした経過から、実は幕府は松代をきわめて重要な場所としていた。

そこで3万5千石を加増され、これで信之は13万石になった。

この後、真田家は江戸時代から明冶まで松代を支配しつづけた。

その基礎こそ、信之はつくり上げたのである。

秋の隙間にむらさきを炊き込める  雨森茂樹

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真実を前に節穴が並ぶ  居谷真理子


 秀忠の凛とした勇姿  (この時、父・家康に認められたい一心があった)

「それぞれの関が原・徳川秀忠」

秀忠徳川家康の三男として誕生。

家康の嫡男であった信康は、秀忠が生まれた年に織田信長から

謀反の疑いを
かけられ切腹させられた。

次兄の秀康は実父の家康から疎まれ、豊臣秀吉の元に養子としてだされた。

秀吉には、かわいがられ羽柴秀康と名乗ることを許される。

しかし、秀吉に実子の鶴松が誕生すると、結城家に養子に出されてしまう。

こうして三男ながら秀忠が徳川家の後継者となったのである。

天正18年(1590)の小田原征伐の際、秀吉の元へ送られた。
              へんき
そして元服し秀吉から偏諱を受けて以後は「秀忠」と名乗る。

秀吉が家康の後継者を重く見ているようにも取れるが、

実質的には人質であった。

バランスをとるためだけの頭だよ  吉岡とみえ

秀忠にとっての初陣は「関が原の合戦」であった。

この戦いで秀忠は3万8千という大軍の指揮を任される。

西上する先にある障害は、わずか2千ばかりの将兵が立て籠もる

真田昌幸の上田城だけだ。

もともと信州平定を命じられていたこともあり、上田城へ攻撃を仕掛けた。

ところが巧妙な戦いぶりを見せる真田勢に大敗を喫してしまう。

上田城で手こずった結果、秀忠の軍は関が原本戦に間に合わなかった。

直線で攻めると腰を引く天狗  上田 仁

このため兄の信康や秀康、弟のただ忠吉は武勇や智略に恵まれた名将と

評価されているが、秀忠はこの一件で武将としての評価を下げてしまう。

それもあって、慶長19年(1614)の大坂冬の陣に際しては、

大軍を率いて急ぎに急いだ。

江戸から大坂までをわずか17日で踏破する。

一方、為政者としての手腕は高く評価されている。

それは武家諸法度や公家諸法度などの法を定め、

江戸幕府安泰のための基礎を築いたからである。

そうした手腕を認めていたので、家康も後継者としたのである。

一波乱あったか首が濡れている  青木公輔

「榊原康政」


小牧・長久手で活躍する康政
この戦いで秀次軍を壊滅に追い込み、森長可池田恒興を討死させた。

永禄9年(1566)、同年齢の本多忠勝とともに元服すると、

揃って旗本先手衆に抜擢された。

以後、家康の側近くにいて多くの戦功を挙げている。

「本能寺の変」が発生した後の伊賀越えにも同行している。

「小牧・長久手の戦い」では、秀吉の甥・羽柴秀次の軍勢を壊滅させた。

それだけでなく徳川家が関係した主な合戦で多くの戦功を挙げている。

ただ「関が原の合戦」では、上田城での戦いに手間取り本戦に遅参。

この戦いの前、康政は秀忠に上田城攻撃を止めるように、

進言したとも言われている。

一日の残り時間は爪を噛む  中林典子

秀忠の失態に激怒した家康は、しばらくは対面すら許さなかったが、

康政の執り成しにより許しを貰うことができた。

秀忠はずっとこの恩義を忘れずにいたという。

康政は忠勝と並び称される武勇の持ち主で、

部隊の指揮に関しては康政の方が上という評判で、

行政能力も高く、
関が原後は幕府の老中として政務に当たっている。

頭から齧るメザシも忠告も  新家完司



「土井利勝」

利勝には、家康の母方の従兄弟という説や、家康自身の落胤という説など、

出生に関してはさまざまな説がある。

いずれにしても三代将軍・家光の時代になると、利勝は、

「名実ともに幕府の最高権力者」と言われた。

そんな利勝は、「関が原の戦い」の折、秀忠に従って中山道を進軍。

途中の上田城では真田攻めを主張したひとり、

結果は散々煮え湯を呑まされるが、戦後は500石の加増を受けた。

「大坂の陣」の際も秀忠に従っている。

公正さを特に重んじた政治姿勢は、多くの大名たちから信頼された。

向日葵にマリコと名付け花鋏  斉藤和子

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自分の手喰うて生きてる蛸である  木村良三


       関が原合戦絵図
左-城から抜け出した信繁主従と上田城とそこに向かう秀忠の使者。
右-攻め手の軍勢の旗指物。

「上田合戦-第二ラウンド」

慶長5年(1600)9月、家康の命令を受けた徳川秀忠は、3万8千の

徳川軍の主力を率いて信濃の上田に達した。


秀忠は今回が初陣であり、気負い立っている。

功名心も渦巻いている。

天正13年(1585)第一次上田合戦で徳川軍は屈辱的な大敗を喫した。

その雪辱と汚名返上に直結する上田城攻略の大功を家康への土産にしよう

と夢想したのだ。


西軍に属すことを明確にした昌幸・信繁親子は2千5百の兵で待ち構えた。

秀忠は城攻めの常道に基づき、信之と義弟・本多忠政(小松姫の弟)を派遣し

降伏を呼びかけた。

もういっぺんだけやで二度と言わへんで 一階八斗醁

昌幸は上田城下の国分寺で2人と会見し、饗応したうえで、

「敵対するつもりはないので明日には城を明け渡す」

昌幸が仕組んだ策謀の一環だが、秀忠は毛筋ほどの疑念も抱かない。

「殊勝な心がけ、中納言殿もお喜びで、上田城を明け渡せば、

    赦免すると仰せでござる」

一連の流れに秀忠は、無血開城できると欣喜した。

「城は明け渡すが、家臣どもを説得しなければならんので、

一両日の猶予をいただきたい」

と伝えて使者を帰陣させたのは、9月3日のこと。

喜ぶ秀忠であるが、翌日になっても返答がなく改めて使者を差し向けた。

全身を耳に一言を待っている  中岡千代美

「太閤様のご恩は忘れがたく、当城に籠ったうえは城を枕に討死し、

    名を後世に残す所存。願わくば当城を攻めていただきたい」

昌幸の引き延ばし策を知った秀忠は激怒し、上田城攻撃の断を下すや、

信之に上田城の支城・戸石城の攻略を命じた。

9月5日のことである。

戸石城の守将は信繁。弟が守る戸石城へ兄を差し向けることで、

真田一族である信之の忠誠心を試そうとしたのだった。

だが、昌幸・信繁父子の方が一枚上手だった。

寄せてくる敵の大将が兄の信之であると知ると、一戦を交えることなく

信繁は守備を放棄して上田城へ退去し、戸石城は無血で陥落した。

いずれ又と軽く指切り外される  山本昌乃


「真田父子・上田籠城図」
二次上田合戦の昌幸と信繁。
右には真田十勇士に名を連ねる海野六郎穴山小助も一緒に描かれている。

戸石城が落ちると9月8日に、牧野康成の部隊が上田城下の稲を刈り取る。

それを防ごうと城から出てきた兵に対して、潜む本多忠政隊が襲いかかる。

城兵が怯んで城へ逃げ帰ろうとすると、徳川勢はこれを追いかけてくる。

それこそ昌幸の思う壷であった。

大手門まで迫った頃合いを見計らい、城門が開かれた。

そして真田の鉄砲隊による一斉射撃を浴びせかけたのである。

連動して城内からも矢玉が雨あられと降り注ぐ。

吐く息 吸う息どちらを先行致そうか  山口ろっぱ

さらに夜のうちに城を抜け出していた信繁率いる200の部隊が、

鉄砲を浴びせかけつつ、秀忠の本陣へと突撃してきた。

慌てた徳川勢は退却を開始。

その時を狙い神川に仕掛けていた堰を切ると、


指揮系統を寸断された徳川勢はたちまち大混乱に陥り、多数が溺死。

秀忠以下の残余の将兵も算を乱し、命からがら小諸目へと敗走していった。

まさしく第一次上田合戦の再現であり、あとは一気呵成だった。

逝く時を知るも知らぬも蟻地獄  三宅保州


 天正年間上田古図
天正12年昌幸が縄張りをした上田城は、
水路を巧みに利用して防備を固めていたことがわかる。特に図の下側の
澤付近は、自然の断崖が防衛のために大いに役立っていたと実感できる。

上田第二ラウンドも徳川軍の惨敗であり、家康の伝記『烈祖成蹟』ですら、

「わが軍大いに敗れ、死傷算なし」 と記している。

面目を失った秀忠は、なおも上田城攻略にこだわった末に、

本多正信らの諫言を容れて、ようやく西上を再開したものの、

9月15日の関が原本戦に遅参するという大失態を演じてしまった。

一方3千の寡兵で3万8千の大軍を足止めし、

なおかつ撃砕した昌幸・信繁父子の武名と真田の家名は愈々高まった。

同時に信繁はこの戦いを通じ、父より戦略縦横の戦術、

いかなる大敵・強敵にもたじろがぬ不屈の闘志、義を重んじる

武将としての矜持、そして真田の誇りを身をもって学んだのである。

耳の裏洗う動物的タイム  河村啓子

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ダウンロードされているのか背がかゆい  吉岡とみえ



   犬伏の薬師堂

「家康と三成の抗争が関が原に」

石田三成が失脚した後、家康はさまざまな工作を実行。

暗殺計画があるというのを理由に大阪城に乗り込み、

さらには謀反の疑いで前田家征伐を準備した。

これは前田利長と母の芳春院の機転でことなきを得たが、

つづいて上杉景勝に謀反の疑いをかける。

こちらは言いがかりに憤慨した上杉家の家老・直江兼続

家康を愚弄する
内容の書簡を送りつけた。

これに怒った家康が、上杉の謀反は疑いないと決めつけ、

諸大名に会津征伐の陣触れを発したのである。

ニンゲンの貌か毎朝確かめる  森吉留里恵

慶長5年(1600)6月16日、会津征伐を率いた家康は大坂を出立。

その日は、鳥居元忠が守る伏見城に一泊する。

その後、家康は時間をかけて進軍した。

これは三成が上方で挙兵するのを待っていたのだ。

家康は7月2日に江戸へ到着する。

その思惑通り、7月になると三成が大坂で挙兵する。

大坂城西の丸を奪取すると、毛利輝元を家康討伐軍の総大将に据えた。

そして7月18日には、4万の大軍で伏見城への攻撃を開始する。

元忠らは勇猛果敢に戦い、10日以上も抵抗。

しかし1800ほどの城兵ではいかんともし難い。

8月1日、元忠の討死で伏見城は落城する。

真剣な目で死んでゆくエキストラ  桑原すず代

下野小山に着陣した7月24日、三成挙兵の知らせが家康の元に届いた。

翌25日、家康は会津征伐に参加していた諸大名を招集し、

以後の方針を協議。ことに家康が気にかけたのは、

東海道筋に領地を持つ豊臣恩顧の大名たちの去就であった。

だが家康は福島正則に対して、あらかじめ手回しをしていた。

評定の席上、正則が家康へ味方することを宣言すると、

諸大名もみなこれに従った。

だが真田昌幸と美濃岩村城主の田丸直昌だけは違った。

雨季のくる前に昨日を折り畳む  桑原伸吉

真田家は昌幸だけでなく、信之・信繁の兄弟も従軍していた。

3人は下野犬伏の陣で語り合い、

昌幸と信繁は西軍、
信之は東軍に味方することを決めた。

信之の妻は家康の重臣・本多忠勝の娘であり、

信繁の妻は西軍に与した大谷吉継であることも理由だった。

それ以上に昌幸は家康の下風に立ちたくなかったのであろう。

昌幸と信繁は陣払いをし、居城のある上田を目指した。

家康は評定の席上で約束した通り昌幸、信繁に追撃をかけなかった。

好き嫌い激しい耳を持て余す  新家完司


    小松姫
犬伏の別れ後、沼田城に立ち寄った昌幸らを甲冑姿の小松姫が、
門前払いした逸話を元に描かれた肖像画。(大英寺所蔵)



そして昌幸は上田に帰る前、

少数の兵とともに信之の居城である沼田城に立ち寄る。

理由は「今生の別れに孫の顔を見たい」というのだ。

だが城を預かっていた信之の妻・小松殿は、

「例え義父様でも敵味方、
主人の留守中にそのような方を

   城内に入れることはできませぬ」


と拒絶したのだ。

それを聞いた昌幸は、

「さすがは徳川家中にその人ありと謳われた本多忠勝殿の娘。


   武士の鑑である」と賞賛。

近くの正覚寺で一夜を過ごした。

翌朝、子どもを連れた小松殿が正覚寺を訪れた。

祖父と孫の対面は無事に行なわれたのである。

言い訳はよそう余白はあと少し  上田 仁

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ひがな一日祈ろうか呪おうか  筒井祥文


  小山評定跡 (ここで家康は行くべき方向を決めた)

「犬伏の決別」

慶長4年3月、家康に対抗できる大物・前田利家が病死すると、

事態は一気に動きはじめる。 石田三成は隠居に追い込まれた。

秋には、前田利家の後を継いだ利長に謀反の疑いがかけられ、

家康は、「前田討伐」を号令する。

これは利長の必死の陳弁によって回避されたが、

もはや領地を欲する大名たちに、歯止めは利かなくなっていた。

その後、家康は、おねに譲ってもらった大坂城・西の丸に入り、

大名の加増や転封・婚姻などを次々と実行していった。

家康は我がもの顔で歩き、まるで天下人のような振る舞いをしている。

所領の近江・佐和山で隠居生活を強いられていた三成は、

家康のこうした動きに焦りを覚えつつも、何もすることができない。

もしかして家系たどればコウモリ科  井上登美

そこで三成は五大老のひとり上杉景勝の家老・直江兼続と謀議した。

上杉家がまず会津で挙兵し、それを討伐しようと北に向かった家康の軍を、

大坂で秀頼を旗頭にした三成の軍が挙兵し、

挟み撃ちにしてしまうという策を練った。

思惑通り、慶長5年(1600)6月、「上杉景勝に謀反の疑いがあり」

ということで家康は自ら兵を率いて「会津征伐」へ大坂城を後にした。

これを好機と三成は、五大老・毛利輝元を盟主に仰ぎ、

7月に大坂で兵を挙げた。

そして手始めに、家康の老臣・鳥居元忠が守る伏見城に迫った。

7月18日には、輝元の名前で元忠に開城を求めた。

城将のひとり、木下勝俊のみは勧告に応じて城を出たが、

元忠は断固拒否の姿勢を崩さなかったため、

翌19日から、
西軍による伏見城総攻撃が始まった。

宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万もの大軍に囲まれたため、

元忠ら城兵は大いに奮戦したが、8月1日に落城した。

この戦いを皮切りに約2ヶ月にわたる東西対決が続くのである。

縺れあってるのは底のないバケツ  森田律子


  犬伏の密談

最初は昌幸とともに信之も信繁も東軍として会津征伐に向かった。
だがその途次、三成が挙兵し昌幸にも西軍への勧誘が来た。
下野国犬伏で、真田一族は去就を決断するための協議を持った。

慶長5年(1600)7月21日、家康率いる会津征伐に合流すべく進軍して、

下野犬伏に着陣したこの日、三成が派した密使が真田昌幸の元に到着し、

西軍への加勢の要請があった。
                              かなえ
昌幸は去就を決すべく信之、信繁を呼び寄せ、鼎に座を占めて

人払いを厳命して、額を寄せ合い、密談が交わされた。

「わが真田家は今、重大な岐路に立っている。

   お前たちの存念を聞かせてくれ。 まず伊豆(信之)から申せ」

三人の前には、回し読みした文書が置かれている。
けっき
長束正家、増田長盛、前田玄以の3奉行が連署した「蹶起趣意書」

家康に対する「弾劾状」である。

片隅の内緒が重くなってくる  安土里恵

「真田家は内府(家康)殿に格別のご恩を蒙ったわけではござりませぬが、

   しかし会津征伐命令を受けて出陣しました。

   ここで逆心しては不義になりましょう。
               じっこん
   加えて昵懇を得ていますし、内府殿の養女を妻にしておりますれば、

大恩ある内府殿に弓を引くことはできませぬ」

信之は天正17年に駿府城に出仕し、領地の上野沼田も家康に安堵され、

さらに家康の養女として本多忠勝の娘・小松姫を正室に迎えてもいる。

主従関係からいっても家康に近い。

冗談に混ぜる本音の唐辛子  佐藤美はる

「左衛門(信繁)はどうじゃ」

「太閤殿下の御置目に背かれ秀頼様をないがしろにして、

 天下を私しようとしている内府殿に加担するは、

    不義不忠に味方するも同然。


    武士にして武士にあらざる末代までの家の恥であり、

    名の汚れでござりましょう。

    石田冶部(三成)殿や大谷刑部(吉継)殿らの旗揚げは、

    内府殿の不義を凝らして不忠を糺し、

   主家の安泰を図ろうとする義挙と存じます。

   豊家の海岳の恩義に思いいたさば、

   東か西かと詮議するまでもござりますまい」

信繁は天正14年(1586)から秀吉のもとで人質生活を送っている。

玉葱の肩は論理的カーブ  新家完司

だが、人質とはいえ、秀吉は信繁を厚遇をした。

朝鮮の役のおり、肥前名護屋城へ赴いたときには、馬廻りを務めさせたし、

功績著しい加藤清正や三成にすら賜らなかった「豊臣姓」を下賜していた。

それだけではない。

信繁の正室は吉継の娘だった。

信繁はまた、家康が征伐しようとした上杉景勝とも深い縁があった。

一時上杉家の人質となり、同家の直江兼続と親交を結んでもいたのである。

解凍の四捨は辛さののこる数  佐藤正昭

「相わかった」

迷妄の色が微塵もない毅然とした二人の顔貌に

満足気な視線を注いだ昌幸がつづける。
                              しゅみせん
「ともに一理はある。伊豆が内府殿から受けた須弥山より高い大恩を思い、

   左衛門が太閤殿下から受けた蒼海より深き重恩を思えば当然のことじゃ。

   行く道は違うても、帰するところは義の一字にある。

  伊豆は東につき、左衛門は西につけ」

「はっ、承知つかまつりました。それこそ我らが本懐でござります」

深々と頷いた兄弟が問う。

「父上はいかがなされます」
                                                                                               こう
「わしは内府殿に恨みこそあれ、恩義は毫もない。

   じゃが石田冶部殿は親しい縁者だ」

「されば、それがしと父上は敵と味方に・・・」

信之の眉宇が曇った。苦渋の色も浮ぶ。

人間を続けています揺れてます  合田瑠美子

「義には骨肉も親疎もない」

「しかし、父上に刃を向けるは・・・」

「大義親をも滅す、という言葉を知らぬか。何事も運命じゃ。

   それより大望を遂げ、家名をあげるには二度とない好機と心得よ。

   万一、わしと左衛門が討死しようとも、

   そのほうが残れば真田の家名は絶えぬ。真田を二つに割るが、

   それぞれに真田の誇りを貫き、六文銭の旗に恥じぬ戦をするまでよ」

「心得ました。肝に銘じまして」
    こうとう
信之が叩頭し、信繁が相槌を打つ。

父子・兄弟間にしこりもわだかまりも残っていない。

爽やかな決別の決断だった。

やがて、両者は「第二次上田城攻防戦」でぶつかることになる。

兄さんそのまま弟ありのまま  雨森茂樹

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