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川柳的逍遥 人の世の一家言
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絶滅危惧種ペンだこと座りだこ  小川はつこ






                            当 時 三 美  人





江戸のニュース 
浮世絵絵師の喜多川歌麿が「当時三美人」を発表
この当時の三美人は、「浅草随身門脇の水茶屋難波屋の娘おきた」、
江戸両国薬研堀米沢町二丁目の煎餅屋の娘・高島おひさ、富本節名取の豊雛
とされた。遊女ではなく町娘だったことが評判の理由だった。
この評判の町娘を、独特の大首絵で描いた喜多川歌麿『当時三美人』をこの
年、耕書堂が売り出して人気を博した。おひさは、右向きで団扇を顎の下に
持ち、理知的な顔つきをして大人びた雰囲気を漂わせ。
左向きで茶を運ぶ、おきたから感じられるのはどこかあどけない雰囲気です。
おきたやおひさは、大首絵のみならず、全身像や様々なポーズの作品として
描かれました。





太陽になってください僕だけの  笠嶋恵美子





おきたをモデルにした物では、浅草寺と枕引きをする様子を描いた
「仁王とおきたの枕引き」などのユニークな作品も残されています。
喜多川歌麿の浮世絵をきっかけに、江戸は明和の頃のように再び町娘ブームに
沸くことになります
喜多川歌麿の美人大首絵が、好評を博したと言うことは、そのモデルとなった
女性たちが広く認知されたことを意味していました。
モデルは吉原の花魁に限らず、下級の遊女屋芸者など、吉原や他の場所で働く
様々な女性達。なかには、実在する女性を名前入りで描いたものもあり、遊女
ではありませんが、吉原玉村屋抱えの芸者・富本豊雛も名前入りで描かれてい
ます。



一会の花 女はおんなへと変わる  黒田るみ子





                              松 平 定 信   心 の 草 紙




蔦屋重三郎ー松平定信時代ー筆禍




「世相」
田沼意次の重商主義政策は、自由な商売が許され、町人たちの発言が強くなり、
庶民でも何者かになれる世となった。大衆文化は発展し、庶民たちにもエンタ
メを楽しむ余裕が出来、江戸の町は、いよいよ、日本の首都として大きくなっ
ていく。
しかし、光があたれば影ができるもので、貧富の差が広がり、賄賂がはびこる。
大通人たちの豪遊は、影によってできた恩恵だ。
大衆はこれをよくわかっていたのだろう、彼らの金ではなくその男気や豪快さ
を賛美した。





虹は今無限の色を見せて夏  吉村久仁雄





ところが松平定信「こんな自堕落なことではいかん、世の中のトップに立つ
のは武士であり、米は何よりも尊いし、金を稼ぐ行為は、汚い」としたことで、
世の中がひっくり返った。
もちろん、下級武士や庶民にも、等しく学ぶチャンスを与え、能力のある人材
は登用するというキャリヤアップの制度の導入は、粋なはからいである。
だからといって、武士の借金を帳消しにして、札差や商人たちを困窮に陥れる
というのは、いけない。





誰かきて残り時間をカットする  大嶋都嗣子







                                            松平定信ー出版統制ー③ 武鑑



ただ松平定信は黙って改革を推し進めていけばよかった。
農政や福祉に重点を置いた政策は、実にすばらしい。
しかし、大衆文化にまで口を出したあたりから、様子がおかしくなってくる。
「世の中を惑わす」ものとして色里指南の洒落本や、ナンセンスで風刺的な
黄表紙が統制の対象となった。
なぜそこまで定信は「世の中のためにならない」メディアの統制にこだわっ
たのか。そこには定信の誇りがあった。






         寛政の改革と出版統制-④ 世相



美しい抜け殻という褒め言葉  大沼和子




定信は自伝を書いている。その名も『修行録』
この中で定信は、それとなく想いあっていたがプラトニックな腰元と
別れる晩、一緒の布団に寝たけれども情欲は起こらなかった。何もし
ないで「夜を明かした」と誇らしげに書いている。
つまり、定信にとって、禁欲こそ美しく、黄表紙や洒落本の笑いなど
は、自堕落の極みで、儒教の教えに則り生きる崇高な幕府を風刺する
ことなど、断じてあってはならなかったのだろう。




女の中で行方不明の句読点  近藤真奈






            狂 歌 百 人 一 首   (狂歌隆盛の頃)



「狂歌の衰退」
元号が天明から寛政へと変わると、「奢侈」に対する幕府の規制が強くなる。
「寛政の改革」である。天明7 (1787) 年、老中職についたのは、八代将軍吉
宗の孫として生まれた弱冠30歳の松平定信
若き老中は、飢饉の混乱を収め、幕藩体制の立て直しや、規律の粛正を狙った
改革を開始した。監視の目は出版界にも向けられ、狂歌サロンのメンバーの中
にも、処罰を受ける者が現れた。





頂上に立てば鋏が置いてある  桑名千華子







       太 田 南 畝





武士の土山孝之は、遊女を妾としたことや、前職在任中に買い米の公金を横領
したなどの理由で、死罪に処され、大田南畝も、定信の文武奨励を揶揄した狂
歌が役人のしるところとなり、呼び出されて尋問を受けた。
処罰までにはならなかったものの、友人である土山孝之の重い処分にショック
を受けていたことも重なり、狂歌サロンへの出入りを控えた。
朋誠堂喜三二も、狂歌サロンや戯作界から身を引き、浮世絵師であり戯作者・
恋川春町も取り調べを受けたあとに不審死を遂げた。
狂歌サロンからメンバーが、次々と姿を消し、狂歌ブームは終焉を迎えた。




吾亦紅しずかにゆれて追想の  片野智恵子





幕府の厳しい禁欲体制により狂歌絵本での活動ができない中、歌麿蔦重
世に送り出したのは、「歌まくら」と言う「春画」だった。春画は性風俗を
描くことから、表立って書店に並ぶ物ではなく、幕府に発覚すれば、当然処
分の対象になるもの。
歌麿と蔦重の決断は、持って生まれた反骨からか、驚くべき行動である。




予約しておこうピンクの霊柩車  真島久美子






           寛政の改革と出版統制ー⑤
寛政3年の3冊の発禁処分は、山東京伝の「筆禍事件」として歴史に刻まれている。
京伝は手鎖50日の刑(鉄製の手錠をかけて自宅謹慎)、蔦重は身上半減に処された。




しかし寛政時代が寛政に改元されると、幕府は、新たな出版統制令を発布、
検閲を通った物のみ出版を許可するとし、同時代の事件を浮世絵で扱うこと
や、高価な本を作ることなどが禁止した。
寛政3年には、蔦重が刊行した山東京伝の洒落本が、検閲に引っかかり絶版
を命じられた。
処分はこれにとどまらず、蔦重は財産の半分を没収される「身上半減刑」
処される。蔦重の処罰を目の当たりにし、歌麿も、新しい作品を描くことを
自粛した。(だが筆を折ったわけではない。約1年の空白をおいて「女達磨
図」など、複数の作品が発見されている)




忘却に抗う牛乳瓶の底  酒井かがり





「べらぼう36話あらすじ ちょいかみ」 





 





蔦屋の新作『鸚鵡返文武二道』『天下一面鏡梅鉢』が飛ぶように売れ
まくっている…が。老中・松平定信(井上祐貴)は、重三郎(横浜流星)
の本に激怒し、絶版を部下に命じます。
そして、日本橋通油町の蔦重の店に奉行所の一行が現われます
「『鸚鵡返文武二道』『天下一面鏡梅鉢』『文武二道万石通』の三作すべて
を絶版とする」と告げたのです。
人気作を一斉に失った蔦屋は、その日休業。暗い店内で皆が肩を落とします。
てい(橋本愛)が「もしかして、黄表紙好きという話は誤解だったのでは…」
と不安をこぼし、つよ(高岡早紀)も青ざめます。




チャタレーの発禁本を読む十九  野村賢悟





さらに怒りが収まらない定信は、「恋川春町=倉橋格」(岡山天音)
名指しを命じ、その報せが届きました。
蔦重「死んだことにして逃げ延びる」という案を提案。
最初は戸惑う春町でしたが、「戯作者として生きたい」という願いから、
名を捨て別人として生きる覚悟を固めます」
その決意の裏で、吉原では、筆を折る決断をしていた朋誠堂喜三二(尾
美としのり)の送別会が催されます。
かつての仲間や女郎たちが集い、別れを惜しみます。
皆が「次も書いて欲しい」と願いを託すなか、喜三二は、一度は断筆を
宣言するものの、仲間に背中を押され「やっぱり書く」と宣言。
会場は歓喜に湧くのでした。





一色の紫陽花として枯れてゆく  高橋レニ





 





ところが翌日、春町が腹を切ったという知らせが届きます。
白装束の遺体を前に蔦重は、髷に付着した柔らかいものに気づきました。
それは豆腐。つまり春町は、「豆腐に頭をぶつけて自ら命を断った」
後日松平信義(林家正蔵)が定信のもとを訪れ、春町の死を伝えました。
「戯ければ腹を切られる世とは 誰のための世か」
と、蔦重の言葉も添えて。





前屈のたびに零れ出る悲しみ  清水すみれ

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