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川柳的逍遥 人の世の一家言
戦場で人間ポンプ微笑せよ まつりべさん
『花菖蒲文禄曽我』 「江戸のニュース」 寛政六年五月
浮世絵師の東洲斎写楽が役者の大首絵を出版。
人気役者の大首絵の浮世絵多数を一気に発表し、たちまち姿を消した浮世絵
師の東洲斎写楽は、長らく謎の存在だったが、現在では阿波徳島藩のお抱え
能役者の斎藤十郎兵衛説が有力である。
大首絵とは、画面一杯に顔を中心に描いた絵を指す。この手法は喜多川歌麿
によって美人顔のクローズアップとして創作されていたが、東洲斎写楽は歌
舞伎役者をモデルにしたことで注目された。要するに役者の似顔絵であるか
ら現代風に言えばプロマイドである。写楽は江戸三座の時代狂言を取材して
描いたが、中でも都座興行の狂言『花菖蒲文禄曽我』など二十八枚が知られ
ている。本作でデビューした写楽は、大首絵の浮世絵百四十四点を遺して、
十か月後に忽然と消えた。
(不思議なことに、発表当時には写楽、の大首絵はそれほど人気はなかった。
評判になるのは、90年後、それも海外の識者が写楽を評価したことによる。
こうした現象は珍しいことではないが、写楽は無念のまま文政3 (1820) に
没したといわれている。享年58歳)
提灯を張り替えてから登る月 森 茂俊
三代目沢村宗十郎の大岸蔵人 蔦谷重三郎ー東洲斎写楽
東洲斎写楽も歌麿と同様、蔦重に見出されて一世を風靡した絵師である。
活動期間は、寛政6年 (1794) 5月から翌年1月までのわずか10カ月。
「江戸ニュース」が伝えるように、突如、浮世絵界に現われ、忽然と姿を消し
たことから「謎の絵師」ともいわれるが、近年は徳島藩お抱えの能役者である
斎藤十郎兵衛とする説が有力視されている。
写楽がデビューした当時、美人画は幕府の出版統制令の対象となりつつあった。
経営難を乗り切るため、蔦重が期待をかけたのが写楽の役者絵だった。
同6年5月~6月、写楽は蔦屋から、一気に28枚もの役者絵を出版し、役者
絵市場を席捲する。
山門の仁王真っ赤な仁王立ち 中川喜代子
市川富右衛門の蟹坂藤太・佐野川市松の祇園白人おなよ 「写楽の最大の特徴は、役者の表情の豊かさにある」
当時の役者絵は、役者を美化して描くのが定番であった。
しかし写楽が描く役者は、吊り上がった眉、見開いた眼、歪んだ口など、顔の
細部が極端に誇張された。それが、手指の動きと相まって、役者の一瞬の所作
を封じ込めた緊迫感を醸し出すのである。加えて写楽は、役者の実年齢に合わ
せて、顔の皺や弛みもリアルに描き、容貌の衰えまで容赦なく浮き彫りにした。
絵の背景に、雲母(うんも)の粉を散らして光沢を出す雲母摺(きらずり)
の技法を用いたのも特徴だった。
新人絵師の装飾としては、異例の贅沢さで、写楽に対する期待の大きさが表れ
ている。その後も写楽と蔦重は、月々の歌舞伎の興行に合わせて、役者の大首
絵や全身像の浮世絵を次々と出版したが、次第に作品から精彩さが薄れていく。
写楽の人気は急速に衰え、寛政7年1月の作品を最後に姿を消すのである。
ご破算にしようと透明になった 柴田桂子
四世松本幸四郎の山谷の肴屋五郎兵衛 大田南畝は、「浮世絵類考」で写楽の人気が続かなかった理由を「余に真実ら
しく描こうとして、かえって真実でないように描いたため」としている。
役者をありのままに描きすぎたことが、歌舞伎ファンの反発を招いたというこ
となのだろう。
ともかく、写楽の後半期が余りにも力弱くなるのは、写楽のせいでもあるが、
蔦重の気力の衰退と無縁ではあるまい。清長に対して歌麿、豊国に対して写楽
を意識的に売り出すことで、結果的に浮世絵界を活性化させた蔦重も、その晩
年は寂しいものになった。
真相は不明だが、写楽の引退により、役者絵で出版業の不振を挽回しようとし
た蔦重の目論見が外れたことだけは確かであった。
谷村虎蔵の鷲塚八平次
言い訳が写楽の目玉なら許す 石橋芳山 万全の準備のもとにスターを作り出す営業方針を持っていた蔦重が、では何故、
浮世絵とは無縁の写楽で役者絵界に打って出たのか、謎とすべきだが、或いは
俗文壇の大御所的存在の蜀山人あたりの入れ知恵ということも考えられる。
蜀山・蔦重の共同作業がなされたのではあるまいか。
写楽の後半期があまりにも力弱くなるのは、写楽のせいでもあるが、蔦重の気
力の衰退と無縁ではあるまい。
清長に対して歌麿、豊国に対しては写楽を、意識的に売り出すことで、結果的
に浮世絵界を活性化させた蔦重も、その晩年は、やや寂しいものになった。
注目すべきは、蔦重の浮世絵は、その最期にいたるまで幕末期のそれのような
大衆の趣味に迎合した下品さがまったく感じられないということである。
二世小佐川常世の竹村定之進妻桜木 茹で上がる刹那の蛸の溜め息 酒井かがり
「写楽別人説」
三世大谷鬼次の奴江戸兵衛 「写楽は誰か」という謎ほど、浮世絵に関心を持つ人びとを興奮させるものは
ないだろう。(だが一般的な興味とは別に実は、写楽が誰であるかということは
ほぼ明らかになりつつあるのだ)現存するおよそ140点の写楽画と称する作品は、
描かれた演目から、寛政6 (1794) 年5月から、あくる正月までの十ヶ月間の
作画期間をもつ、というよりわずか十ヶ月しか「写楽」は存在しなかった。
そして、これらすべてが蔦谷重三郎といおうたった一軒の店から売り出された。
この二つのことを疑う人はいない。
いわゆる写楽別人説は、江戸の考証家・斎藤月岑(げっしん)が『浮世絵類考』
に補訂した『増補浮世絵類考』の写楽の項に
「俗称斎藤十郎兵衛。居八丁堀に住す。阿波候の能役者也」
と加えた記事を疑うところから発した。
深い意味ないがと謎を掛けてくる 三好聖水
意外に思うやもしれないが、別人説が発表され始めたのはかなり遅く、昭和も
30年代に入ってからのことである。
丸山応挙・谷文晁・葛飾北斎・山東京伝・歌川豊国など、ここに枚挙するいとま
がないほどの人物が当てはめられた。こうした写楽別人説が唱えられるたびに、
新聞やテレビが取り上げ、写楽人気、写楽人気・浮世絵人気がいやましに高まっ
たのも事実である。
昭和51年、中野三敏氏により、役者の三世瀬川富三郎が編んだ人名録『諸家人
名方角分』という写本の記事により「写楽本」という名の浮世絵師が「八丁堀・
地蔵橋」に住んでいたが、すでに故人であること、が明らかにされた。
そしてさらなる調査ののち、八丁堀地蔵の国学者・村田春海の燐家に、阿波候の
能楽師の斎藤与右ヱ門なる人物が住んでいることが突き止められたのである。
中野氏の追及を強固にしたのが、内田千鶴子氏で、氏による『重修猿楽伝記』
『猿楽分類帳』の発見で、以下のことが明瞭になってきた。
キリギリス瞑想遠く祭笛 藤本鈴菜
斎藤家では与右ヱ門と十郎兵衛の名は、父子相続の名であり、問題の官製年は、
ちょうど十郎兵衛を名乗る代であったこと。また当時の能楽師の勤務形態は、
隔年で非番と当番の日があったこと。寛政6年の斎藤十郎兵衛は33歳にあた
ること。(すなわち絵も描けない幼年にあらず)
ここにいれば「写楽」の名を款した作品のことごとくが、寛政6年という一年に
限って登場し、退場していった経緯が無理なく説明できることになる。
もちろん7年の正月興行については、少なくともその下絵は前年中に仕上げられ
ていたであろう。
江戸八丁堀地蔵橋に住む阿波候の能楽師・斎藤十郎兵衛なる者が、寛政6年の年
33歳のときに描いたのが「写楽」の版画だったということになる。
サイコロがタヌキだったという博打 通利一遍
その斎藤十郎兵衛が、何そのゆえにその正体を隠さなければならなかったか、
に、ついては中野氏が明快に応えている。
大名のお抱えの能楽師はれっきとした士分であり、浮世絵の中でも「いわゆる河
原者たるが歌舞伎役者絵の製作に従事することのうしろめたさ」がそういう態度
をとらせたのである。
しかも、それが武士の身分というものを厳しく律することを求めた「寛政の改革」
の直後であった。という時代背景を考えなければならない、と。
そのためには版元はひとつに絞られる必要があった。
写楽は、これでもやはり、謎の浮世絵師なのだろうか。
写楽の役者絵、ことに初期の雲母摺大首絵による作品の類いまれな表現力は、
謎があろうとなかろうと、肖像画の傑作として鑑賞し得るはずではないか。
過去が問う何かお忘れ物ですか 藤村とうそん
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