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川柳的逍遥 人の世の一家言
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僕が舞うダンスホールの名は地球  松田夕介






            呉 服 屋 駿 河 屋  (歌川豊春画/三重県総合博物館蔵)
田沼意次の政策により、消費拡大政策の推進や宿場町の活性化などによって、
商人文化の発展が顕著になった。





「江戸のニュース」
〔安永十年閏五月十八日 将軍家の養君に一橋家の豊千代が決まる〕
十代将軍・家治の世子の急逝に伴い、一橋治済(はるさだ)の長男・豊千代
家治の養君(将軍の跡継ぎとなる養子)となった。
豊千代は、十一月二日に家斉と改名。後に十一代将軍・徳川家斉となる。
この豊千代が、家治の養子となった流れだが、それは必ずしも自然なものでは
なかった。まず家治の世子の急逝だが、次期将軍と目されていた世子の家基
十八歳で、月に二度鷹狩りをするほど壮健だった。
それがいつものように、品川宿の先の新井宿のあたりに鷹狩りに出かけ、途中
の東海寺でえ休息中にわかに様子がおかしくなり、三日後に没している。
次いで豊千代の登場だが、これは、将軍に世嗣がない場合、養子を迎える家と
して田安家・一橋家・清水家の御三卿からとされていたことによる。
従って豊千代は、一橋家なので問題がないように見えるが、実は御三卿は平等
ではない。格としては田安家・一橋家・清水家の順だった。
となると、田安家から養子を迎えるのが自然の流れだが、田安家の当主・治察
(はるあき)は、二十三歳の若さで没し、弟の定国は伊予松山藩主・松平定静
(さだきよ)の養子に、弟の定信は奥州白河藩主・松平定邦の養子にといった
具合に既に他家に片付いていた。
ならば、田安家に次ぐ一橋家からとして、豊千代が迎えられたわけだが、この
田安家の二人が先行して他家の養子になった経緯も、自然なものではなかった。





スカートをめくって走るつむじ風  森 茂俊





                      徳 川 家 基 肖 像 画




「江戸のニュース」 
第二報ー家基急死に関しての疑惑。
天明元年(1779)二月二十一日、家基は供の者を連れて江戸近郊の新井宿へ鷹狩り
に出掛け、東海寺でひと休みしている時、急に腹痛に襲われた。
同行していた田沼意次の息のかかった奥医師・池原雲伯が煎じた薬湯を服用した
が、痛みが治まらず、急遽、江戸城西の丸へ帰った。驚いた父家治は、医師の手
厚い治療を受けさせたが、その甲斐もなく、二月二十四日に急逝した。十八歳で
あった。
一橋治済は、田沼意次と結託して、わが子家斉を将軍に就けたいという野望を持
っており、雲伯が意次の謀略を受けて毒殺させたのではないかという噂が流れた。
真偽のほどは詳らかではないが、常日頃たいへん元気だった家基の死があまりに
も突然のため、さまざまな憶測を生んだ。
これら一連の不自然な流れを密かに練ったのは、豊千代の父・治済ではないかと
疑われているが、確証はない。だが現実に、十一代将軍の家斉から十四代までの
将軍はすべて、治済の子孫が就いているも根拠となっている。




バターでは修正箇所は溶けません  きゅういち




蔦屋重三郎ー江戸のニュース 田沼時代






 
                                    田 沼 意 次 肖 像 画




「足軽あがり風情」
これは「べらぼう」で賢丸 (後の松平定信)が田沼意次をののしった言葉である。
意次の父・意行紀州藩の足軽に過ぎなかったが、主君・徳川吉宗の奥小姓に登用
された。その後、吉宗が八代将軍に就くと、意行も吉宗に従って江戸へのぼり、
幕府の旗本に登用された。そこで意行は吉宗に重用され、小姓から小納戸頭取に
昇進、家禄も三百俵から始まり、のちには六百石の知行地を与えられた。
意次が意行の長男に生まれたのは、既に父が旗本になっていた享保4年(1719)の
こと、14歳のときに吉宗に御目見えして田沼家の跡取りと認められ、16歳で
吉宗の世嗣・家重の小姓となり、父とは別に三百俵の禄が与えられた。
将軍世嗣の小姓になるということは、将来の栄達を約束されたも同然。とはいえ
少年だったので、意次の能力が買われたというより、吉宗に重用された父・意行
のお陰だった。そんな父が享保19年に没し、翌年、意次は17歳で家督を継承
した。





ニュートンの目の前落下したリンゴ  前中一晃






              『黒白水鏡』 (石部琴好作・北尾政演画)
一部の町人を取り込みながら、江戸を中心として文人趣味のサロンやネット
ワークを生み出すことになる。宝暦年間以降になると、政治・社会も文化的
に寛容。新たな文化が江戸から地方へと広がるようになった。



それから10年後の延享2年 (1745)に家重が、九代将軍になると、意次は小姓
組番頭にのぼり、禄高も六百石から二千石となり、宝暦元年 (1751)には、御用
取次に抜擢された。有能な官僚で、家重の覚えもめでたかったのだろう。
さらに凄いのは、家重が引退した後も、新将軍・家治のもとで、そのまま御用
取次として仕え続けたことだ。
(将軍の代替わりに側近は職を免じられるのが通例)
実は意次の措置は家重の意志だった。宝暦11年 (1761)大御所となった家重は
死去するが、その際、家治「田沼は正直で律儀な者なので、彼を重く用いる
ように」と遺言したといわれる。
このため家治は、意次を側用人、さらには老中に抜擢して、政治を一任、意次
の領地・相良藩も最終的に5万7千石に増えた。




スタートを切る一直線に桜  福尾圭司






            囲碁に興じる女
意次は、文化振興にも熱心で、茶の湯や歌、乱舞などの芸能を奨励し、
詰将棋の作成にも取り組んでいる。




「江戸のニュース」
〔家治の将軍就任で、田沼意次が台頭。「田沼時代」の足がかりに〕
十代将軍・家治は、政治にはほとんど関心を払わず、もっぱら画業の技を磨くこ
とに熱中したので、九代家重のもとで、実質的な側用人となっていた田沼意次
とんとん拍子の出世が本格的に始まったのがこの年だった。
四月一日、まだ五十歳だった九代将軍・家重が引退を宣言。それを見届けるよう
に家重の第一の側近であった大岡忠光が四月二十六日に五十二歳で死去。
五月十三日に、家治が西の丸から本丸へと移って徳川家当主の座に就き、その後
九月二日に将軍就任式を済ませた。
この時の老中筆頭は、松平武元で、他、老中には酒井忠寄らもいたが、新将軍の
家治は、まだ二十四歳だった。家治は父の家重が重用していた側近の相談相手と
したため、その後の田沼の台頭が著しくなったもの。
こうして田沼は、明和四年 (1767) に側用人、安永三年 (1774) には側用人と老
中を兼任して三万石に加増され、名実ともに「田沼時代」を確実なものにして
いった。




風を切る肩に一片のはなびら  下谷憲子






                          身 体 買 帳 略 縁 起  (東洋文庫蔵本)

珍妙な開帳を描いた本作の内容にふさわしく、春らしく桜咲き匂う
中に開帳を告げる案内の立札と提灯とがある境内を図案化している。
町人文化花開くなかで宣伝・広告効果を狙った。






    家治に謁見する御側用人田沼意次





「田沼意次、幕府の強力な実権を握る」
側用人となった明和4年 (1767) 頃から天明6年(1786)までの、凡そ20年間、
田沼意次は幕府の実権を握る握ることになった。
なぜ意次は、これほどの長期政権を打ち立てることができたのだろか。それは、
「表の幕府職制の頂点である<老中>と、中奥の役人の頂点である<側用人>を
兼ねたことにある」と、研究者の藤田覚氏が指摘する。
どういうことかというと------、
老中は幕府の政策を立案し、執行する責任者である。将軍は老中からその可否を
問われ、側用人や御用取次に補佐されて、決定を下す。
老中と側用人や御用取次を兼ねるということは、「政策の立案・執行の責任者と
将軍の判断を補佐する役割を同一人が、行うことになるのだ」





茶柱が二つ立ったと除く朝  岡村たかし






                                  『潮干しのつと』
田沼意次が活躍した時代は宝暦・天明文化と呼ばれ、浮世絵は規制されたが、
春信や歌麿・写楽ら天才浮世絵師が生んだ





意次は幕府の強力な実権を握った、とは…。つまり、
「将軍が独自に政策や人事を実現したいと考えた場合、その相談に預かり将軍の
 意思を伝達する側用人や御用取次の役割と、それを執行する老中の役割を同一
 人が務めることになる。将軍の意思の体現者と執行の責任者が同一人が務める
 ことになる…なのである」要するに「意次という人物による表と中奥の一体化
 といった、特異な状況が生まれた」というわけだ。さらに
「将軍の権力が強化されてきた状況に、将軍家治が幕府政治に積極的に関わろう
 としなかったことが重なって、意次の権勢は空前の強さになった」のである。
さらに意次は、幕政に隠然たる力を持つ大奥も手中に収めた。




三日月に思い巡らすステンドグラス  靏田寿子






           南 鐐 二 朱 銀

新しい銀貨「南鐐二朱銀」の発行。意次は全国的に商業を活性化させるため、
西日本と東日本の貨幣制度の統一を目指した。


その権力の元で、田沼意次のとった政策は、悪化する幕府財政の立て直しを図
るため、農業主義だった政策から、「重商主義」の政策へと転換した。 
株仲間、専売制、外国との貿易の拡大等、商業の発展のみでなく、鉱山や水田
の開発など、社会資本整備も行い、財政は改善されていった。
すなわち意次の政策は、幕府財政を改善されたばかりではなく、商人にとって
の恩恵となり、民間の学問、文化・芸術が多様な発展を遂げたのである。
景気が回復してゆく田沼時代の20年間は、その時を見落とさず、タイミング
よく起業した蔦屋重三郎の先見力と決断力が幸運をもたらしといえる。
だが、権力が強大になれば、やっかみや恨み、誹謗中傷も生まれてくる。





同じ物食べても意見の喰い違い  ふじのひろし






 『縮地千里』に描かれた賄賂の横行を風刺する挿絵

『古今百代草叢書』 「この虫 常は丸の内にはい廻る 皆人 銭出せ金出せ 
 まいないつぶれといふ」と書いてある。 下は『続淡海』





「田沼意次の人間像」
田沼意次は賄賂にまみれた汚職政治家だったのか------
田沼意次に対する従来の評価は、あまり芳しいものではなかった。
「権力を握った意次の屋敷には、大勢の客人が連日高価な贈答品を持って訪れ、
客間は人々であふれていた」(松浦静山『甲子夜話』)とか、
意次が日本橋稲荷堀に下屋敷を新築した際に、
「庭の泉水に魚を入れたらさぞ面白かろう」と呟いたところ、
「その日の夕方までに諸大名から続々と鮒や鯉が贈られ、池は魚が群れていた」
という揶揄がある。
こうしたことから1974年(昭和50年)の歴史教科書では、
「意次は、賄賂を取ったりしたので、非難された」
「意次は、賄賂による役職の売買などを非難されて失脚した」などと、
1993年の『高校日本史』に表記されていた。




黄信号乗り越え日々を愛しんで  門村幸子





しかし2022年以降のの教科書には、
「意次の政策は、商人の力を利用しながら、幕府財政を思い切って改善しようと
するものであり、これに刺激を受けて、民間の学問・文化・芸術が多様な発展を
遂げた。一方で幕府役人の間で賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士本来
の士風退廃させたとする批判が強まった」(評説日本史B)
すなわち、意次の政策により賄賂が横行するようになったと書かれているが、
意次自身が賄賂を受け取って非難されたとは書かれていない。
むしろ意次の政策を評価している。
実は意次が、「賄賂政治家」だという説はかなり疑わしいのだ。
賄賂話の出所を探ってみると、松浦静山など意次の政敵・松平定信一派が発信
していたり、誰彼問わずに悪口を言う人物が書いていたりする。




朝一番うれい線を揉みほぐす  合田瑠美子






      鷹狩りを楽しむ家基



「べらぼう15話あらすじ ちょいかじり」
将軍家治(眞島秀和)の嫡男・家基(奥智哉)が急逝したことにより、
江戸の空気が一変した------。
家治は家基の死の真相を解明するため、田沼意次松平武元に調査を命じた。
一方で、意次(渡辺謙)は、蝦夷の話を持ち掛けてきた源内東作(木村了)に、
ある任務を託す。




三月に革命ありて水たまり  前中知栄

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わたくしの哲学明日に向かうこと  安藤なみ





           京屋。山東京伝見世
キセル、紙製煙草入れなどを商っていた京伝の見世





山東京伝は、深川木場の質屋の息子で、本名を岩瀬醒(さむる)という。
京伝が生まれた深川木場はその名の通り、周辺には材木問屋が軒を並べ、
豪商たちは、深川の料亭や花街で金に糸目をつけずに、派手に遊び倒す。
そこにいるのは深川の芸者、通称辰巳芸者だ。
男物の羽織で源氏名も男の名を使う。そして何より気風が良い。
粋で鯔背な江戸の職人たちと、豪商たちの通名遊びを見て育っている京伝は、
自然と「粋」が身についていった。





自分の店の煙管の持ち方も鯔背で粋な山東京伝





江戸の十八通りの一人、浅草蔵前の札差・文魚京伝のパトロンに付き、
吉原に通うようになる。京伝の弟子、曲亭馬琴がいうところによれば、
「家に帰るのは、月に5,6日」であったという。
落語では、そんな体たらくな若旦那は勘当されるのがオチ。
ところがである-----、「自分の能力で稼いだ金で遊んでいるのだから」と、
京伝の父母は気にとめる様子もなかった、という。





妄想を煮込み続ける金曜日  平井美智子





蔦屋重三郎ー山東京伝 & 洒落本




     役者を思わせる京伝の面差しは整っていた





京伝は当初絵師であった。
北尾重政に学び、北尾政演(まさのぶ)の画名で多くの狂歌本や戯作に挿絵を
描いている。一方、戯作者として自ら黄表紙の執筆を手がけ、大手版元の鶴屋
から次々と作品を刊行。天明2年(1782)に出した、『手前勝手御存知商売物』
(てまえがってごぞんじのしょうばいもの)が江戸随一の文人である太田南畝
に絶賛されたことで人気作家となる。
中でも『江戸生艶気蒲焼』(えどうまれうわきのかばやき)は、大ヒットし、
遊里で色男を気取る遊客が、同書の主人公の名にちなんで「艶二郎」と呼ばれる
ほどの人気を博した。





大根切る所願成就の顔で切る  西澤知子






    『客衆肝照子(きゃくしゅきもかがみ)』①(東京都立中央図書館蔵本)
天明6年正月刊。『役者氷面鏡(やくしゃひもかがみ)』(明和8年刊)
という、役者の身振り・科白を絵本仕立てにしたもののパロディで、原
ゆかりの様々な人間の類型を、図像・科白をもって表現した洒落本である。





『客衆肝照子(きゃくしゅきもかがみ)』②(東京都立中央図書館蔵本)





蔦重から文才を見込まれた京伝は、やがて文章主体の「洒落本」の執筆も手が
けるようになる。洒落本は遊里を舞台にした会話形式の読み物で「穿ち」とい
われる人情の機微を描くところに面白みがあった。
原通人の京伝の書く洒落本は、そんじょそこらの吉原武勇伝みたいなものと
は一線を画す。会話文には男女の「心」のやり取りが描かれる。
いわば、恋愛小説なのである。
修行中の坊さんまで愛読したというのだから、よっぽど健全なものなのだろう。





凡人は痒いところが判らない  くんじろう





『傾城買四十八手』 (山東京伝画) (大東急記念文庫蔵本)

寛政2年(1790)刊。山東京伝作、洒落本の頂点をなす傑作である。
原の世界に、5組の男女の遊びの様を描く中で、作者の筆は登場人物の内容
描写にまで及ぶ。まさに名人芸。
挿絵は、中国の仙人で鯉 を巧みに乗りこなしたという琴高仙人(きんこうせん
にん)を、遊女に見立てたもので、浮世絵の図柄としてよく用いられる。





『傾城買四十八手』「作家京伝の人間への眼差し」
年は十六、この春から、突き出しの遊女と、上役なのか年上の客なのかに吉原
に連れてこられた「息子」は、年のころ十八くらい、会話が苦手らしく遊び慣
れていない風だが、身なりが良い。
「お前さまみたいな人には、家におかみさんがござんしょうね」
「まだそんなものはいないよ」
「じゃ、どこぞの良い人と、お楽しみがあるんでしょう?」
「家がやかましいから、ここ(吉原)には去年お酉様(酉の市)の還りに来た
 きりさ。私のことだけじゃなくて、お前の良い話も聞かせておくれよ」
「わっちのことなんて、誰も相手をしてくれないもの」
「よく嘘をつくね。そうだ、名を嘘つきと呼ぼうか。惚れた客があるんだろう」
「好きになるような客なんていないのさ」
「そりゃあ残念。私になんか、尚更だろうね」
「ぬしにかえ-------?もう言わない」
「おや、ずいぶんと焦らしなさるね」





世界一内気だと思う…たぶん  河村啓子





何を読まされているんだという気にもなるが、もうすこし我慢を。
「わっちが惚れたお人は、たった一人でござんすよ」
「そりゃあ、うらやましい男だ」
「…お前さまさ」
「ずいぶんとあやしてくれるね」
「ホントのことだもの」
「お前のような美しい女が惚れてくれるなんて、私にゃもったいない話だ」
「また来てくれる?」
「呼んでさえくれたら、きっとくるとも」
「ホントに?うれしい」





どんな風に口説けば堕ちてくれますか  石神孔雀





ため息ついて、遊女の誠を確かめようとした矢先に、相手の遊女に振られた連
れの男がやってきて、しっぽりがご破算になるというオチがつく。
しかし、遊女と初心男は、入ってきた野暮男を無下にすることなく、ボヤキを
聞いてやっている。
振られた男が部屋を出て行くと「あとはふたり、ほっとする」
真面目で遊び慣れていない男が、結果的にもてるというオチは、明和7年刊行
田舎老人・多田爺『遊子方言』にもあり、通人をきどる半可通の滑稽をあし
らいながら遊里における一昼夜の遊びを描くという型ができあがったのである。





新天地求めて風にのった種  吉岡 民






             「通 人 総 籬」
「江戸生艶気樺焼」の登場人物=艶二郎・喜之介・志庵の三人が登場。
 艶二郎は、あまりもてない男として描かれる。
 
           「仕 懸 文 庫」
京伝が生まれ育った深川仲町の遊女の風俗を描いた作品





京伝は、蔦重の期待に応えて洒落本でもヒットを連発し、傑作『通言総籬』
その頂点を極めた。
やがて寛政の改革によって出版統制が始まると、遊里文学である洒落本は風紀
を乱すものとして取締りの対象となる。
それでも蔦重と京伝は、幕府の検閲をかいくぐり、寛政3年(1791)三部作の洒
落本・『仕懸文庫』『錦之裏』『娼妓絹麓』を出版。これを幕府に咎められ、
京伝は、手鎖50日の禁固刑を受けることとなる。
しかし、京伝はくじけることなく黄表紙の執筆をつづけ、さらには文才を活か
して、『忠臣水滸伝』などの読本や『骨董集』『大尽舞考証』などの風俗考証
でも多くの作品を残した。





生きてゆく重さ海月にある重さ  前中知栄






   奉行所へ捕縛連行された鳥山検校と瀬以





<べらぼう 第14回のちょっと、あらすじ>
幕府による当道座の取り締まりで、検校(市原隼人)瀬以(小芝風花)は、
捕らえられ、蔦重までも同心に連行されてしまう。
その後、釈放された蔦重は、大文字屋(伊藤淳史)から五十間道に空き店舗
が出ると聞き、独立して自分の店を持てないかと考える。
そんな中、いね(水野美紀さん)からエレキテルが効果のない代物だと聞き、
源内(安田顕)を訪ねた蔦重。
源内は、エレキテルが売れないのは、弥七(片桐仁)のせいだと訴えるが----。





心細さにあかつきを巻く真冬  山本早苗

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ゲートインするなら原液のままで 酒井かがり





     中万寺の太夫・玉 菊
中万字屋の太夫・玉菊は、人柄がよく、多くの人々に愛された。
玉菊は、吉原を1日貸し切りにしたという伝説の紀伊国屋文左衛門と財力を
競い合った奈良屋茂左衛門の寵愛を受け、身請け話が出てまもなく、酒好き
がたたって享保11年25歳の若さで亡くなってしまったという伝説がある。
燈籠に なき玉きくの くる夜かな





「吉原遊女の悲しい末路」
農家から身売りされた者が、何年ぐらい働けば自由の身になれたのだろうか。
その期間、すなわち「年季」は、27歳までという原則があった。
27歳まで遊女として勤め上げれば、借金も返済し終える計算になっていた。
しかし実際には、吉原で働いている最中にいろいろな出費があって、借金が
増えることも多かった。その場合、27歳になっても年季が明けず、さらに
数年働くことを余儀なくされたのである。
年季明けを迎える前に、体を壊して病死する遊女も絶えなかった。
仕事柄、梅毒などの性病にかかる者が多かったし、当時は死の病といわれた
労咳を患う者も多くいた。




不具合がふえてきたなきたなと思う日々  吉岡 民






           遊 女 の 日 常





死亡した場合は実家に連絡し、遺体を引き取りに来るように伝えることもあっ
たが、そんな手間を取らずに、亡骸を菰に包み、近傍の浄土宗浄閑塩寺の無縁
墓地に投げ込むように葬ることがほとんどだった。
反対に、遊女も、特に恵まれて幸せをつかむ者もあった。
身請けという制度がそれで、金持ちや馴染みの客の中には、大金を出して遊女
を落籍し、自分の妻や妾に迎える者があった。
ただし妓楼の側も借金の額そのままで落籍されては儲けにならないので、この
時とばかりに吹っかけた。
そのため、実際に身請けされた遊女の例を見てみると、三百両(3千万)とか、
五百両(5千万)などという金額が支払われている。




渾身の力で熟れている柘榴  中前棋人





    「青楼美人合姿鏡」
遊女の日常・貸本を手にする瀬川




なかでも松葉屋の花魁・五代目瀬川を高利貸しの鳥山検校が身請けした時には、
千四百両(1億4千万)という桁外れの金額が支払われ、人々を驚かせた。
こんなように、美貌と運に恵まれた遊女のなかには、吉原を出て幸せになる者
もあったが、そういう遊女はごくひと握りといえた。
多くの遊女はそんな機会の到来を待ち望みながら、年季明けまで働きづくめで
身体を壊し、短い人生を終えることになったのだ。
そういう意味では、吉原は、錦絵にも描かれるように、美しい着物をまとった
花魁が暮らす華やかな世界であると同時に、一度沈んだら滅多なことでは浮き
上がらない「苦界」と呼ぶにふさわいい場所にほかならなかったのである。
身請けが=幸せにつながるとは限らない一例として。
瀬川を身請けした鳥山検校の栄華も永くは続かず、事件から3年後の安永7年
(1778)あまりの悪どさを糾弾され、全財産を没収の上で江戸払いに処された。
これまで、鳥山検校の取り立てに苦しめられてきた江戸の人々は、お上の裁き
に喝采を上げたことだろう。




大富豪だけにフェロモン投げかける  宮井いずみ






    江戸の闇金「座頭貸し」(検校・人倫訓蒙図彙)





元禄の頃から盛んになった座頭の金貸しは「座頭貸し」とよばれ「座頭金」
盲人が高利で貸していた金を意味した。
鳥山検校の場合-----まず貸し付けの前に利息分を前引き(借り手に渡されるのは
6~8割程度)し、さらに礼金を取る。
当時、許されていた一般的な利息の水準は「二十五両一分」である。
(25両の借金に対して月に一分の利息がつく、一分は1両の4分の1だから
年利は12%になる)ところが、鳥山検校は「五両一」の利息を取っていた)
年利にしてなんと60%である。
「座頭金」は幕府が認めた官金であり「座頭貸し」は、債権が保証されたため
貸し倒れは滅多にない。が、
安永7年(1778)旗本の森忠右衛門とその子虎太郎が、借金の返済ができず
夜逃げするという事件が起きた。
旗本といえば、何かことあれば鎧兜を身にまとい将軍の元に馳せ参じるのが
お役目。その旗本が行方不明とあっては、幕府としても放っておけず、日頃
から高利貸したちの悪行に業を煮やしていた為政者は、これを契機に一斉摘
発に乗り出し、鳥山検校をはじめ20人ほどの悪質高利貸しが検挙された。




そのうちに外す梯子が掛けてある  筒井祥文  





蔦屋重三郎ー瀬川・鳥山検校のその後




「鳥山検校、松葉屋・瀬川落籍事件」
『安永4年、が吉原松葉屋の瀬川という妓女を落籍した事件は、
 おそらく当時の人々の耳目を驚かせたに相違ない。
 鳥山検校は、さらにその3年後の安永7年には、悪辣なる高利貸として
 処罰された』
筠庭(いんてい)喜多村信節『過眼録』によれば、
『安永七年、高利の金子を借したる者共、多く御咎めありし、其起りは、
 御旗下の士、筋わろき金子を借用し、出奔したりしよりの事と云う…中略…
 家財の外、有金廿両、貸金一万五千両、所持の町屋敷一ヶ所 鳥山検校…
 中略…此鳥山わきて名高く聞へしは、遊女を身請せし事にて噂高かりし也、
 瀬川を身請せしは安永四年なり、この瀬川の事は、余別に委(くわ)しく記
 したり、爰に略す、所持地所も一ヶ所にはあらず、浮世小路南側、又小舟丁
 にも存、北御番所付永御手当地と唱』とある。




神さんがくしゃみしてはる間に悪さ  居谷真理子





 
「玉菊燈籠」
玉菊を偲ぶ有志がお盆に燈籠を飾り弔った。これが「玉菊燈籠」の始まり。
「燈籠になき玉きくのくる夜かな」

「急戯花之名寄」
3月に行われた「俄」の行事の折に配られた吉原提灯。遊女の名が入っている




多くの文人と交流のあった津村正恭(まさゆき)の随筆『譚海』には、
『鳥山檢校と云もの、遊女瀬川といふを受出し、家宅等の驕りも過分至極せる
 より事破れたりといへり』
瀬川と同じ定めの玉菊を偲んで灯籠を吊るす行事『玉菊燈籠弁』では、
『真芝屋の屁川なり、いかに金がほしいとて、眼のない客を逢ひとをす。
 それもたて引かなんぞと、金気(け)のうすい砂糖なら張りも意気地も有で
 青楼の傾城ならんに、何ンほ女郎がこすくなつても、
 「遊女中間のつらよごし」「こんにやくのよごしがはるかまし」
 など』とも論評された。




くしゃみするたびに回りが黴ていく  中山奈々
 









「五代目瀬川がその後どうなったか」
三田村鳶魚『瀬川五郷』によれば、喜多村信節『筠庭雑考)』(いんていざ
っこう)に後日譚が記されているという。が、
現存の『筠庭雑考』にこの記事は見えず、宮武外骨「筠庭雑考」には次の
ように『只誠埃録』(しせいあいろく)所引の『筠庭雑考』が引かれている。




浮草の人生ですか池の百合  井上登美




「噂の中の瀬川」
『私が一時期住んでいた本所埋堀に大久保家の町屋敷あり、そこに大工をする
 傍ら大家を勤める結城屋八五郎のところに、切り下げ髪(首のつけ根で髪を
 揃えて後ろに垂らした髪型)の老婆がいた。これが実は、八五郎が妻である。
 名だたる鳥山檢校が身受した吉原松葉屋の瀬川の今の姿である。
 鳥山検校が罪科の後、瀬川は、
 噂をする人も多い中に、深川六間堀辺に飯沼何某といふ武家の妻となりて、
 子を二人生んで、夫を失い寡婦となってのち、大工八五郎仕事に雇われて
 この)屋敷に住むことになった、どのような縁があったのだろうか、
 密かに約束ごとをもって、瀬川は八五方へ逃げ辿りついて妻となる、
 そのまゝにてすむべきにもあらず、やむを得ず髪を切った、
 先に生んだ子のひとりは家督を継ぎ、ひとりは他の養子となるも、放蕩者で
 養家を飛び出し、行く所もなく、八五郎の所に舞い戻ってきて、果ては髪結
 となったとかいう、
 瀬川は、文字の書きぶりは今一なので、「かの飯沼氏より扶持など贈れる事
 とか」は八五郎が代筆していたとかの噂についての詳しい事は知らず、
 益のない咄ながら、傾城虎の巻などいふされ草紙にも出でて名高き女なれば
 語り草とする』




ジョーをもっていたから頑張った  井上恵津子






      田沼意次(渡辺謙)

      長谷川平蔵(中村隼人)
一橋治済(生田斗真)





「べらぼう ちょいかみ13話」
「もはや弱きものにあらず!」と声を荒らげる田沼意次
「座頭金だよ」と笑みをたたえて話す一橋治済(生田斗真)
蔦重が「座頭…」とつぶやく。
蔦重(横浜流星)は、留四郎(水沢林太郎)から鱗形屋(片岡愛之助)が再び
偽板の罪で捕まったらしいと知らせを受ける。
鱗形屋が各所に借金を重ね、その証文の一つが、鳥山検校(市原隼人)を頭と
する金貸しの座頭に流れ、苦し紛れに罪を犯したことを知る。
一方、江戸城内でも旗本の娘が借金のかたに売られていることが問題視され、
意次(渡辺謙)は、座頭金の実情を明らかにするため、
長谷川平蔵宣以(中村隼人)に探るよう命じる。




心の脆さをカネの前で知る  松田順久





「鱗形屋孫兵衛の子・長兵衛から責められる蔦重」
「そろそろ返してくんねえですか? うちから盗んだ商いを!」
鱗形屋が言い放つ。
鱗形屋の番頭・藤八(徳井優)が蔦重を追い出す。
「盗んだのは私にございます!」と叫ぶ誰かの声。
厳しい顔をしたまま長谷川平蔵が歩を進める。



パイナップルが居心地悪そうな酢豚  橋倉久美子










「橋の上で蔦重,大文字屋」
「じゃあな!」といってその場を離れる大文字屋。
「重三はわっちにとって光でありんした」
「蔦重さん!」北尾政演(山東京伝/古川雄大)が、嬉しそうに蔦重の顔を
覗き込む。
「本ってなあ、人を笑わせたり泣かせたりできるじゃねえか」と告げる源内。
その下に<蔦重は書で世を照らす>との文字が流れる。
本をめくる蔦重。
そこに「からまる」の文字を見つけた蔦重が何かに気付く。
「重三は、わっちにとって光でありんした」と涙を浮かべる瀬以。
その隣には夫・鳥山検校のカゲが――。




感嘆符発したままの冷凍魚  岡田幸乎

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毒消し草バケツの中で実らせる  村山浩吉






            俄 祭 り




江戸時代、俄とは、「仁輪加」「仁和歌」「二和加」などとも表記され
素人が演じる即興の芝居や狂言で、宴席や路上などで演じられた即興の
芝居で「にわかに始まる」ことから「俄」または「茶番」とも呼ばれた。
江戸時代中期には、江戸の吉原俄、福岡の博多俄が演じられ、明治には
「改良俄」「新聞俄」「大阪俄」といわれたものから喜劇劇団が生まれ、
現在の新喜劇にもつながるとも言われる。
【吉原俄の開催時期】
吉原俄は、毎年8月中旬~9月中旬、屋台の上で幇間と呼ばれる男芸者や
女性の芸者などが芝居を見せました。




にぎやかにしてくれ忘れさせてくれ  石橋芳山





     若木屋 vs 大文字屋





「べらぼう13話ちょいかみ」
昨年に続き吉原で行われる『俄(にわか)』祭り。その企画の覇権を巡り、
若木屋(本宮泰風)大文字屋(伊藤淳史)らの間で戦いの火ぶたが切られた。
蔦重(横浜流星)は、30日間かけて行われる俄祭りの内情を面白おかしく書い
てほしいと平賀源内(安田顕)に執筆を依頼すると、朋誠堂喜三二はどうかと
勧められる。宝暦の色男とも呼ばれている。秋田藩留守居役の喜三二の正体は、
かつて蔦重も松葉屋で会っていたあの男だった…。末尾へつづく。




舞っていたいのだ折り鶴だとしても  竹内ゆみこ




蔦屋重三郎ー江戸っ子侍・朋誠堂喜三二





 
     朋誠堂喜三二 
狂名は手柄岡持、俳名は月成。




上役で俳人の佐藤朝四にいろいろと教わりながら、江戸の文化サロンの一員に
なった。名が世に知られるようになったのは安永6年、また喜三二蔦重との
関係が密になるのもこの安永6年で鱗形屋孫兵衛が出版した「黄表紙」に作者
として筆を執ってからだ。





  
    平沢常富 (朋誠堂喜三二)      尾美としのり

 
宝暦の色男と呼ばれた朋誠堂喜三二は、秋田藩の江戸留守居役だった。
留守居役とは、その藩の外交官。江戸に常駐し、他藩の同役と情報交換するの
が仕事だ。情報交換は、どういうわけか吉原や遊里の料亭で行われた。
遊ぶ金の出所は藩の財布だ。
つまり吉原で飲んでお引けとなって朝帰り。
当然、繁華街に足繁く通うのだから、吉原との関係密ならざるをえない外交官
といっても藩では物頭ランク(今でいう中間管理職)、べらぼうに忙しいわけ
ではなく、吉原通いが職務になるくらいでなのでネタはある。
仕事の合間に戯作を書いてみたらヒットしてしまい一躍人気作家となった。




脇道に逸れて出会った福の神  高浜広川




武士なのでそこそこの教養はあり、しかし江戸っ子の粋も通も洒落もわかる。
こういう人物が書く話は、どうしたって面白いのだ。
蔦重はこうした喜三二の、武士らしからぬ江戸っ子気質を見て懐に入る。
喜三二も吉原から這い上がってくる蔦重が気に入った。
蔦重の手口は、必ずしも真っ当なやり方ではない。
鱗形屋の危機に乗じて自分に近づいてきたのは明らかだ。
それでも吉原に通い、様々な権力者たちの噂ややり口を見て、清濁併せ呑んで
きた喜三二には、「この若造に賭けたら、面白いものが見れそうだ」
蔦重という人間に興味を抱いたのだった。





馬が合う無職とかいてある名刺  新海信二





       『見徳一炊の夢』①





前に軽く触れたが喜三二『見徳一炊の夢』を鑑賞してみよう。
浅草茅町の金持ちの息子、清太郎は厳しく育てられ、年頃というのに遊ぶこと
もままならず、手代の代次とお喋りをして憂さを晴らす日々。
ある日父の留守中に、二人で話しているうちに近所のかめ屋から蕎麦の出前を
注文する。蕎麦を待つ間に清太郎はうとうととし、夢の中に浅草並木の栄華屋
という夢を商う店が出現。栄華屋は邯鄲の枕を貸し出し、金額に応じた内容の
夢をみさせるという。
清太郎は自分の家から千両を盗み出し、50年分の夢を買う。
最初の20年は京、大坂、長崎と遊歴し、唐にまで行って遊蕩する。




この春のしどろもどろに咲いた花  平井美智子




40歳になり、江戸が一番自由だと悟り、戻って江戸の遊里で4人もの芸妓を
身請けし遊里での遊びに飽きると、俳諧、歌舞伎、能、茶道と通な遊びに嵌る。
70歳になると、さすがに家が恋しくなり、浅草茅町の実家に行ってみる。
実家では清太郎は死んだことになっており、家は手代の代次が継いでいた。
自分の50年忌が行われており、そこに借金取りがやってきて、清太郎が遊び
倒した50年分のツケ百万両を払えという。代次は全財産を処分しツケを払う。
そこに清太郎が戻り「何という恥か」と我が身を振り返る。




春先のお伽噺はみな斜め  筒井祥文





       『見徳一炊の夢』②





清太郎と代次は剃髪し、悟りを開き諸国へと修行の旅へ。
「百万両持っている人も、百万両使い捨ててしまう人も、共に生れた時は丸裸。
 あら面白や、南無阿弥陀 南無阿弥陀」
代次「若旦那居眠りをなされていましたか、まだ夢の中というお顔つきですが」
清太郎「不思議なこともあるものだ。50年は全て夢であったか」
小僧「富くじが当たるかもしれない。良い夢かも知れませんよ」
かめ屋「もし、お頼みもうしやす。いまお誂えの蕎麦が参りやした」




七味から反省文を書かされる  みつ木もも花




放蕩し栄華を極め、何もかも手に入れたのち、何もかも失う。
夢から覚めて現実をしるという、恋川春町『金々先生栄華夢」と同じ流れの
話である。
しかし、喜三二の方は、春町の金々先生が「栄華を極めたところで一炊(ご飯
が炊きあがるほど短い間)の夢だ。真面目に働こう」という悟りに対して、
「え、どうせ夢なら楽しい方が良くない?それもまた徳ってやつじゃん」
洒落ている。
「なんかめちゃくちゃ景気がいい夢みちゃったな」という清太郎に、小僧
「なんか良い前兆かもしれないっすよ、富くじ当たちゃうんじゃないですか」
と、これまた夢のようなことを言っている。そんな景気の良い話をしながら
これから食べるものは「オレが奢ってやれるのはこれくらいしかないんだ」
という一杯16文(520円)の蕎麦なので。




サヨナラも言わずに虹は去ってゆく  斉藤美恵子




喜三二は自身の身分をよくわきまえていた。
抜擢され留守居役となったとしても下級武士であり、藩士の一人にすぎない。
それでも江戸は自由だし、下級武士は気楽な稼業だ。
飲みニケーションがきつい時もあるが、藩の金で遊べるのならそれも乙なもの。
いまのこの状態を使用しまくろうという考えである。
喜三二のポシティブな思考と自虐が、戯作となり狂歌となった。
物語の中で、歌舞伎に茶道にと通な旦那遊びに興じるが、それは喜三二の自虐と
穿ちだろう。
そうやって栄華を極める遊びを演じ、あとで転けたところでそれは「あら面白や」
という洒落なのだ。




おもしろい一日だったまた明日  田邊 新二





               『亀山人家妖』 (朋誠堂喜三二作/北尾重政画)
版元と戯作者のやりとりを面白おかしく描いた黄表紙である。
軽妙なメタフィクション的展開が印象的に描かれる。
これを書いた朋誠堂喜三二は、北尾重政と共に「車の両輪として重三郎を
支えた」
天明期に入ってからの重三郎の躍進は、この二大巨匠のバックアップが、
基盤となっている。





町人髷の蔦屋重三郎と侍髷の朋誠堂喜三二





絵草紙問屋・蔦屋重三郎、絵草紙の作者喜三二が元へ年礼に来る。
「当春の『天道大福帳』は、とんだ評判が良う御座りまして有難う御座ります」
などとちよ/\ら(口先だけのお世辞)を言ふ。
「来年も頼みますよ」
と持ち上げられた喜三二は鼻高々。
「未年の春の新版青本を書いてくださいませ」
「来年のをもう頼むのか。さっさと正月の内に、書きやせう。
書こうと思へば直に出来る」
など大己(おほうぬ=自惚れ)を並べる。
「春の内書きやしょう。書こうと思えば直できる」
と安請け合いしたのである。ところが、アイディアが浮かばない。
来春出版の本の宣伝をしなければならない九月になって、
「せめてタイトルだけでも決めろ」と、
蔦重が、喜三二のところだけを空けた外題披露のポスターを持ってくる。
仕方なく喜三二はタイトルだけをひねり出す――




仕事場の鬼と虫とは馬が合い  北出北朗










「べらぼう12話ちょいかみ ②」
<喜三二>らしき人物を囲んで笑顔を見せる蔦重、勝川春章、北尾重政
「喜三二。朋誠堂喜三二」と話す源内
男性へ「喜三二大明神様!」と手を合わせる鱗形屋の一家。
画面下には<覆面作家を探せ>の文字が流れる。
歩きながら
「面白えこと言ってくんだよな!蔦重ってのは」『金々先生栄花夢』
作者・倉橋格こと恋川春町岡山天音さん)に話しかける男性。
それから吉原で開催された「俄」の祭りの様子が映し出される。
誰かを見つけて動きを止めるうつせみ。
「この野郎!」と憤りながら立ち上がる吉原の若木屋(本宮泰風)
揉める男たち。
「この祭り、勝てる!」と喜んだ様子を見せる大文字屋。
「鳥が啼く東の花街に…俄かの文字が整いはべり」の声を背景にめくられる本、
雀踊りを舞う女性たち、歌う午之助が続けて映り、踊りの衣装をまとった女郎・
うつせみが、誰かを前に動きを止める姿が…。
その下に<俄で吉原を統一せよ>の文字が流れる。




雫切る今日の答えは決めました  田村ひろ子

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わたくしの余白貸します月極めで  きりのきりこ





                                       「往   来 物」
往来物は主として手習いに使用される。いわば当時の教科書である。
蔦重は往来物の出版を手掛け寛政期前半まで毎年のように新版を刊行し続ける。
往来物は、相対的に価格が一冊4文程度の安く設定されているので、利は薄い
ものの長く摺りを重ねられ、売れ行きの安定した商品である。





      『夏柳夢睦言』 (松浦史料博物館蔵本)
  





 新たな分野へ一歩進むことへ蔦重は、経営を下支えするような株を確保する
ことに意を持ち続けていた。安永7年(1778) に富本の株を取得し、正本・稽古
本の出版を始める。
この段階での版株取得は、まさに時宜を得たものであり「富本正本・稽古本の
出版、往来物」など、地味ではあるが、経営の一角を支えるものとなる。
正本とは、初演時に発行されるもので、共表紙で表紙には、その浄瑠璃による
所作事の場面が描かれる。




北風とみの虫ほどの生きる知恵  大槻和枝





 『色時雨紅葉玉籬』 (松浦史料博物館蔵本)
稽古本は薄い藍色である縹色の表紙をつけた。俗に青表紙と呼ばれる。





蔦屋重三郎ー富本・稽古本





             富 本 牛 之 助




「富本節」江戸浄瑠璃豊後節の一つである。
江戸の芸能界を支えた人物の一人として富本牛之助がいる。
牛の助は、父・富本豊前太夫の実子で、その才能を受け継ぎ(1770)には、富本
豊志太夫を襲名。この美声の人気太夫の登場が、富本節に流行に火をつけた。
そして、安永後半期より、狂言作者・桜田治助の詞章による、道行き浄瑠璃の
大当たりが続いて富本節は、全盛期を迎えた。
当時の芸能界で名を馳せた牛の助の特徴は、美しい語り口と独特の節回し、
そして、もう一つ有名なのがそのご面相。
顔が面長だったことから「馬づら豊前」というあだ名で親しまれた。
江戸の庶民たちは、牛の助の浄瑠璃の語りをうっとりと聴きながら、その風貌
にも親しみを感じていたのである。




右肩にいつも乗せてる福の神  宮井元伸




富本節は、繊細で上品な節回し、豪快で力強いとは異なり、静かに語りかける
ような柔らかな旋律で、江戸の町人文化のなかでも、特に粋を重んじる人々の
間で人気を得た。
歌舞伎の伴奏音楽として使われ、特に、江戸の芝居小屋では、舞台の情感を盛
り上げる役割を果たし、顧客を物語の世界へと誘ってくるのである。
芝居小屋だけでなく、座敷での演奏としても、庶民の娯楽にもなった。
浄瑠璃は、単独で楽しむだけでなく、歌舞伎や人形浄瑠璃と深い関わりを持っ
ているほかに、商人や町人たちは、茶屋や宴席で三味線とともに語られる富本
節を楽しみ時には、自ら習うこともあったという。





                 富本豊志太夫(午之助)(寛一郎)




【べらぼう11話 ちょっとあらすじ】
『青楼美人合姿鏡』が高値で売れず頭を抱える蔦重(横浜流星)は、親父たち
から俄祭りの目玉に、浄瑠璃の人気太夫・富本豊志太夫(午之助)(寛一郎)
を招きたいと依頼される。りつ(安達祐実)たちと芝居小屋を訪れ、午之助
俄祭りの参加を求めるが、過去に吉原への出入り禁止を言い渡された午之助は、
蔦重を門前払いする。




ほおづきが津軽三味線奏でるし  酒井かがり




太夫の「直伝」
-----絵草紙屋に行くと、浄瑠璃の歌詞とメロディーが書かれた「正本」を見せら
れます。正本は浄瑠璃を嗜む人の教本の役割もしています。
その中でも、太夫の許可をとって出版している「直伝」がよく売れるとのこと。
芝居小屋で、馬面太夫こと富本午之助を鑑賞し、声の素晴らしさ、世界観などに
衝撃を受ける蔦重
さらに出待ちには、ファンが押し寄せ、太夫はスターの輝きを放っていました。
そこに鱗形屋(片岡愛之助)が現れます。
太夫公認の「直伝」が出版されていない富本節。
馬面太夫には「富本豊前太夫」を襲名する話があるとのこと。
その機会に「直伝」を出せれば…と、蔦重は考えます。




宴たけなわこそばゆい程今ピンク  山本昌乃




後日、小田新之助(井之脇海)の屋敷に訪れてみると、屋敷では、平賀源内
(安田顕)が「エレキテル」を修理していました。
蔦重は、馬面太夫との仲介を源内に頼みますが、源内はエレキテルに夢中です。
馬面太夫の吉原嫌いは、売れていない頃に素性を隠して若手役者・二代目市川
門之助と吉原の若木屋で遊ぼうとした際、バレて、二度と来るんじゃねえぞと
追い出されたことが原因だという話です。
役者が吉原で遊ぶのはご法度、ですが、太夫は役者ではありません。
そんな折、他流派の横槍が入り、太夫の襲名の話が流れてしまいました。




ポケットに心機一転メモのまま  市井美春




瀬川(小芝風花)が嫁いだ鳥山検校(市原隼人)が、浄瑠璃の元締めだと聞い
た吉原の主人たちは、頼みに行くことにします。
瀬川は鳥山検校の妻となり「瀬以(せい)」と呼ばれています。
久しぶりに顔合わせた瀬以と蔦重
その親しげな様子に嫉妬を覚えた鳥山検校は、瀬以にカマをかけてみます。




四つ角を右に曲がったばっかりに  津田照子





 門之助(濱尾ノリタカ)




吉原での接待
襲名の件は、やはり他流との手前もあり、簡単ではなさそうです。
蔦重は、太夫門之助を偽名で座敷に招き、ずらりそろった女郎とともに迎え、
かつての非礼を詫び、宴席を設けました。
外に出られない吉原の女たちは、本物の芝居も見たことがなく、富本節も聞い
たことがありません。
「最後に富本節を聴かせてほしい」という訴えを聞いた太夫は、
自分の歌と門之助の舞に涙する彼女たちの姿を見て、
「こんな涙を見て断る男がどこにいる」と、吉原の祭り「俄」に出演すること
を決意しました
そこへ検校から「襲名を認める」という文が届きます。
蔦重はすかさず「直伝」の出版許可を頼み込みました。




抜け道を探す発狂したふりで  森田律子




 
     恋川春町(岡山天音)




鳥山検校の屋敷では、瀬以が、検校に感謝の言葉をかけています。
芝居小屋の出待ちに、鱗形屋が来ています。
馬面太夫を追いかける鱗形屋は、「富本節の直伝を耕書堂から出すことを考え
直してほしい」と訴えます。
耕書堂は、地本問屋とトラブルを抱えているため、市中で売り広げられなくな
るという鱗形屋の主張に、馬面太夫は「義理が大事」と返します。
鱗型屋が浮かない面持ちで店に戻ると、倉橋格(恋川春町)が鱗形屋の次男・
万次郎に絵を描いてあげていました
小松松平家の武士である倉橋格は、家老がひどいことをしたという理由だけで
謝礼がろくに払えない鱗形屋に『金々先生栄花夢』を書き、次の原稿も持って
きていました。
倉橋格(恋川春町)の男気に救われた鱗形屋は、このまま「青本」に力を入れ
ていきます。
そして、蔦重「富本正本」に注力してくのでした。




まだ少しかじかむ指に花菜漬  前中知栄

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