川柳的逍遥 人の世の一家言
銀河まで少しと感じる観覧車 木村良三
正月の江戸地本問屋、鶴屋の店先 (都立中央図書館)
贈答用の本を求める客達に混じり、左端には地方配送の本商いや貸本屋の姿が みえる。正月初売りの景物本を頼む商店も少なくなかった。
江戸の地本屋の多くは経営規模が小さい上に、錦絵など扱う出版物は基本的に
一過性のもの、達成して売り抜けて利益を得る類のものが多い。
身軽な分、経営の基盤が得てして弱体ー栄枯盛衰の激しい業界であった。
そんな中で、蔦重の出版事業は、全体を眺めまわしても、投機的な仕事はまず
みられない。リスクを極力負わない形での出版を基本とした。 新たな展開は、しっかりとした経営基盤を固めた上で開始している。
見た目の華やかさとは裏腹に、石橋を叩いて渡るような商売が持ち味である。
こうした一貫した今でいうところの社是の理念を基盤に、新たな分野へと地道に
進んでいくのである。 凡人のくせに肩口に苔 酒井かがり
蔦屋重三郎ー江戸の版元へ10年
「富本節」 富本節は江戸浄瑠璃豊後節の一つである。
富本豊前太夫(とみもとぶぜんたゆう)という、美声の人気太夫の登場が流行
に火をつけた。 安永後半期より、狂言作者・桜田治助の詞章による道行き浄瑠璃の大当たりが 続いて富本節は全盛期を迎える。 蔦重は安永7年(1778)には、富本の株を取得し、正本・稽古本の出版を手掛け
始める。この段階での版株取得は、まさに時宜を得たものであり、富本正本・ 稽古本は蔦重の経営の一角を支えるものとなる。 正本とは、初演時に発行されるもので、共表紙で表紙には、その浄瑠璃による
所作事の場面が描かれる。 北尾政演(まさのぶー山東京伝の画名)や喜多川歌麿などが天明前半期までの 表紙絵に画筆を揮っている。 稽古本は縹色(はなだいろ)の表紙を付けた、俗に「青表紙」とよばれるもの
である。本文は太字で節付けがなされ、稽古に供される。 一冊4文程度の安い売値は、発行部数の多さに見合っている。
お日様が美化する蜘蛛の網である 有田晴代
『往来物』
往来物は、主として手習いに使用される。
いわば当時の「教科書」である。幼童向けの実用書という割り付けで、地本屋
が扱う商品なのである。 蔦重は、安永9年(1780)より、往来物の出版を手掛け、寛政期前半まで毎年の
ように新版を刊行し続ける。往来物は相対的に価格が安く設定されているので、 一冊当たりの利は薄いものの、長く摺りを重ねられ、売れ行きの安定した商品 である。 一見華々しい、錦絵や草双紙といった地本屋の商売物は、あくまでも、消耗品 的に使い捨てられる一過性のものであるが、これは長期に亘って経営の安定に 寄与できるものである。 蔦重は一方でこのような、経営基盤の強化をはかりながら、極力リスクの負わ ない形の出版活動を地道に展開していく。 とにかく「投機」「冒険」の語は、蔦重に似合わない、極めて優れた商人だっ
たといえる。 安全な場所から嗤う覗き穴 千田祥三
『青楼夜のにしき』 (松浦資料博物館蔵本)
吉原の灯籠は盆の行事である。
これを見物するために江戸市中から大勢の人間が詰めかける。 この絵本形式の行事番付は、そういった人達に向けて発行されたガイドブック である。 『青楼年中行事』 (喜多川歌麿画) 『俄番附・灯籠番附』
新吉原から、江戸市中に向けて発信する情報で構成される出版物には、今まで
紹介したもの以外にも、「俄かや灯篭の番附」がある。 これらが盛んに発行されるようになるのは、蔦重という版元が吉原に出現して
からである。岡場所などでの安直な遊びに客を取られるなどして、吉原は慢性 的な不況の中にあった。吉原はその存続を賭けて、吉原ならではの文化的要素 を前面に押し出し、江戸市中に向けて宣伝しようとする。 俄などの行事を復活させたりもするが、その一方で印刷物というメディアを使
っての広告を試みようとしたのであった。 吉原は地域全体の利益に貢献する、いわば『お抱え』の広告代理店のような機
能を蔦屋重三郎の登場で得たわけである。 花時を見逃すことを罪という 大沼和子
俄は仲の町を舞台に寸劇や舞踏が繰り広げられる八月の行事である。
番附は、安永6年(1777)の絵本形式『名月余情』がまず刊行される。
これは『一目千本』や『急戯花名寄』のように、配り物の匂いが強い。
灯籠は、七月の盆に昔年名妓玉菊の追善として行われる行事で、仲の町の両脇
の茶屋の軒先に工夫を凝らした豪華な灯籠が、夜の吉原を美しく演出する。 この番附も、安永九年(1780)には、冊子体の瀟洒なものが『青楼夜のにしき』
という標題で刊行されている。後には両者とも一枚摺りの番附となる。 凹と凸互いに照らしあっている 中山おさむ
『娼妃地理記』 (朋誠堂喜三二作 松浦資料博物館蔵) 娼妃地理記は、その年の正月に蔦重が刊行した洒落本。
吉原遊郭を「北仙婦州新吉原大日本國と洒落れ、五ヶ町を五州に、妓楼を郡、
楼中の名妓を名所旧跡に見立て、地誌のような形で、遊女の評判を書いたもの」 それまで蔦重が手がけた吉原関係本のレベルを超え、喜三二の才能を得て一級
の戯作に仕上がっている。 そして、この年以降、蔦重は咄本・洒落本・黄表紙といった喜三二作品を出版
していくのだが、「吉原に遊ぶ通人であり、その滑稽の才をもって、世の流行 を主導し始めた喜三二の才と名を取り込むことによって、蔦重は、これら蔦重 版草双紙に明確な傾向性を持たせ始めた」のである。 安永7年春から寛政元(1789)年秋まで、蔦重が刊行する『吉原細見』の序文
はすべて喜三二が書いた。 店を出た途端左は右になる 徳山泰子
蔦屋重三郎と朋誠堂喜三二
『戯作の版元へ』 『遊子方言』という吉原を舞台にした小説が明和7年(1770)頃刊行される。
これは、江戸における遊里小説の定型を以後に示す役割を果たし、後に追随す
る作品が続々刊行されることになる。 これが戯作の一ジャンルとして定着する「洒落本」である。
洒落本は、安永期に一つのピークを迎える。
一方、子供向けを建前として刊行され続けてきた「草双紙」は、安永4年刊の
『金々先生栄花夢』の出現によって、赤本以来続いてきた基本的な性格を一変 させられる。 作者・恋川春町は、草双紙のパロディという実権的試みをし、成功させたわけ
である。草双紙の戯作化がなされたと言い換えてもよい。 これが安永後半期以降、戯作の主要な一ジャンルとして定着する「黄表紙」で
ある。 笑ってる顔が一番だと思う 太下和子
『青楼年中行事』ー通 (十返舎一九著・喜多川歌麿画)
また、白鯉館卯雲(はくりかんぼううん)『鹿子餅』という咄本(はなしぼん) が刊行されるのは明和9年である。 上方の冗長なものとは違い、歯切れの良いテンポと、急転直下の「落ち」とを、
備えるもので、圧倒的な人気を博す。
すなわち「通」という美的理念が、時代を主導する感のあった安永期は、一種
通人のわざくれとも言える「戯作」が、各ジャンルとも、若々しく威勢の時代 でもあった。そして戯作はまだよい意味での趣味的な匂いを濃厚に残している。 この世界への参入は版元の名に脚光を浴びさせるに足るものとなる。
蔦重の戯作出版は、彼がこれまで刊行してきたような吉原関係の草紙を、戯作
風にアレンジするところから始まる。 感電死しそうな人に会いたいな 宇治田志津子
『身体開帳略縁起』 蔦屋重三郎ー自作の黄表紙。 蔦屋重三郎ー吉原に書店開業~日本橋通油町へ進出するまでの10年
23歳
・鱗形屋の独占状態の吉原細見販売権獲得し、吉原大門前の軒先にてて販売。
24歳
有名作家との人脈づくり。
・平賀源内に吉原細見の序文を頼みこみ承諾を得る。
25歳
・鱗形屋出版の恋川春町作『金々先生栄花夢』大ヒットを機に戯作の版元に。
・鱗形屋海賊版出版で罰金刑
26歳
1776年(26歳)
・『青楼美人合姿鏡』 出版 北尾重政、勝川春章
27歳
・独自の店舗を構える。俄・灯篭番附刊行。
※錦絵の出版は27、8歳で一旦終了。
勘だけが頼りでござりますモグラ 福光二郎
蔦重の仲間たち 朋誠堂喜三二と恋川春町 このころから
・吉原細見の出版権販売権独占によりビジネス拡大。
・朋誠堂喜三二とのタッグで黄表紙出版をスタートさせる。
・同年、往来物(教科書)富本節スタート。ほか流行小説出版。
・蔦屋重三郎の生涯・第2期 ビジネスを拡大し一般書の版元に。
1780年頃(30歳頃)
・吉原細見の出版権販売権独占によりビジネスさらに拡大(独占は33歳頃)
・浄瑠璃の正本(詞章)出版。細見も正本も定期刊行物に。
・吉原細見と正本を結びつけた浄瑠璃に遊女の名前を織り込む。
30歳
鱗形屋廃業。
・朋誠堂喜三二を起用して黄表紙出版スタート。
・狂歌ブーム。自らも蔦唐丸(つたのからまる)の号で狂歌界の仲間に。
・蔦重サロン設立。主なメンバーとして
朋誠堂喜三二、大田南畝(四方赤良)、喜多川歌麿、山東京伝など。
33歳
・日本橋に移転
流通網と製作関係の権利を購入する。
ゆくゆくは毛が生えそうな赤い鞠 筒井祥文 PR 迷路にはひょいと喜劇の押しボタン 佐藤正昭
『文武二道万石通』(朋誠堂喜三二作/恋川春町画 国立国会図書館)
延喜の御代に補佐の任にあった菅秀才は、武芸を奨励するが、人々が武勇を誇
って洛中で騒動を繰り広げる。 そこで大江匡房を招いて聖賢の道を講じさせて 学問を奨励するが、その内容を勘違いした人々が再び洛中で騒動を引き起こす。 菅秀才は松平定信、大江匡房は柴野栗山をモデルにしており、寛政の改革によ る武家の変節を描いている。 ハンバーガーの具材に挟む江戸幕府 通利一遍
「吉原細見」は、安定した需要が見込めるジャンルとして、複数の版元が競う
ように出していたが、重三郎が出版した細見は、レイアウトやサイズの変更に より、他の細身よりも分かりやすく見やすかった。 読者サイドに立った編集方針を取った上に、吉原に生まれ育ったことで遊郭の
情報には詳しかったため、内容に対する信用度も高かった。 その結果、蔦屋版の細見シェアを拡大させ、天明三年(1783)には『吉原細見』
のマーケットを独占する。 リスクの少ない分野で売り上げを伸ばして、経営基盤を固めると、重三郎は攻 めに転じる。即、市場が拡大していたジャンルに参入していくのである。 天明八年(1788)、田沼意次の進める寛政改革への不満が、社会に広がりはじめ
た頃である。改革の柱である文武奨励の方針を揶揄する二つの作品を出版する。 ひとつは、黄表紙界の人気作家、朋誠堂喜三二の「文武二道万石通」である。
当時、重三郎の店で働いていた曲亭馬琴は「古今未曽有の大流行」と評したが、
それだけ寛政改革に対する不満が広がっており、同書を読んで人々は、溜飲を 下げた。もうひとつは、翌寛政元年(1789)、人気作家・恋川春町の「鸚鵡返し 文武二道」を出版した。これもまた大ヒットする。 不満いっぱい酸素不足になっている 岡田幸子
吉原細見を見る、蔦屋重三郎ー田沼意次
横浜流星 渡辺謙 駿河屋市衛門 田安賢丸 徳川家治 高橋克実 寺田心 眞島秀和 「べらぼう三話 ざっとあらすじ」 重三郎(横浜流星)、は吉原細見の改を行った後も、女郎たちから資金を集め、
新たな本作りに駆け回る。駿河屋(高橋克実)は、そんな蔦重が許せず激怒し、
家から追い出してしまう。 それでも本作りをあきらめない重三郎は、絵師・北尾重政(橋本淳)を訪ねる。 その頃、江戸城内では、田沼意次(渡辺謙)が一度白紙となった白河松平家へ の養子に、再び、田安賢丸(寺田心)を送り込もうと、将軍・家治(眞島秀和) に相談を持ち掛ける…。 斜めからほじくり回すのは誰だ 山本昌乃
蔦屋重三郎ー黄表紙の版元へ
手柄岡持は朋誠堂喜三二・酒上不埒は恋川春町、
蔦重を飛躍に導いた2人の人気戯作者 蔦屋重三郎が江戸で一、二を争う版元に飛躍する転機となったのか、18世紀
半ばに流行した黄表紙(当世風俗を扱った絵入りの娯楽小説)市場への参入で
あった。これを後押ししたのが戯作者・朋誠堂喜三二(1735-1813)と恋川春町 (1744-1789)である。 いずれも当代随一の人気作家であったが、れっきとした武士である。 朋誠堂喜三二は、秋田佐竹藩の江戸留守居役平沢平格の戯名である。
留守居はいわば接待族で、職務の必要上吉原には通じている。おそらくは吉原 の本屋とこの留守居役とは、この地ですでに知り合っていたのだろう。 蔦重版における最初の関りは安永6年(1777)3月刊の『手毎の清水』で、これ
には喜三二の序跋が添えられている。 「一目千本」の改鼠に喜三二も絡んでいるのである。 助動詞の部分に置いた薬瓶 みつ木もも花
黄表紙・さとのばかむら
滑稽・へりくつ・諧謔が堂々まかり通る黄表紙の世界。 一冊まるごと読み解けばナンセンスの裏に潜む江戸の機知に脱帽させられる。 この年には他に『娼妃地理記』を7月に出して吉原本の趣を一変し、蔦重版は 一気に戯作の世界に接近する。翌安永7年からは、蔦重版細見の序文の常連筆 者ともなる。 喜三二は、安永6年正月版のものより、黄表紙に手を染め、旧友恋川春町と強 調して黄表紙というジャンルを確立する才子である。 蔦重が戯作出版に乗り出して行くに際し、喜三二の力添えがあったことの意義
は極めて大きい。 先生と呼ばれるほどのタブレット 蟹口和枝
恋川春町は、本名を倉橋格(いたる)といい、徳川譜代の滝脇発平家が治める
駿河小島藩の重役であった。妖怪画で知られる鳥山石燕に学び、最初は、絵師 として活躍したが、安永4年(1775)、自ら文章と挿絵を手がけた黄表紙『金々 先生栄華夢』のヒットを機に人気作家となる。 もともと2人は江戸の版元・鱗形屋孫兵衛の専属作家に近い立場であった。
しかし安永4年、鱗形屋が幕府の法令に違反して摘発されると、蔦重はその隙
をついて喜三二を取り込み、黄表紙の市場へ参入。 少し遅れて春町とも手を組み、ヒット作を次々と世に送り出した。 黄表紙界の二大巨頭を引き込むことで、蔦重は江戸を代表する「版元」へ成長
していくのである。 血となり肉となり人間ができる 市井美春
寛政元年(1789)喜三二と春町は、堅苦しい世相を吹き飛ばそうと、蔦屋から、
松平定信の文武奨励策を揶揄する黄表紙を相次いで発表し、大当たりとなった。 これが定信の逆鱗に触れる。
喜三二は主家から執筆活動の中止を命じられ、以後、狂歌師・手柄岡持として 活動を続けた。 春町は小島藩を通じて、定信から出頭を命じられた直後に謎の死をとげる。
主家の立場を案じての自殺だったともいわれている。
スマホから指名手配のピーが鳴る 井上恵津子
『金々先生栄花夢』 (恋川春町作 版元鱗形屋孫兵衛 国立国会図書館)
金村屋金兵衛という田舎出の若者が目黒の粟餅屋で休むうちに,富商の養子に 迎えられ,金々先生と呼ばれて、遊里で栄華な生活を送るが,悪手代や女郎に だまされて元の姿で追い出される夢を見て,人生を悟るというストーリー。 『大通人好記』 (朋誠堂喜三二作 大東急記念文庫蔵本) 安永9年正月刊。算術の本『塵却記』のパロディで、吉原での遊びを中心に
遊びの世界をさなざまにこじつけた戯作である。
掲載図は「まま子立て」のパロディ。
『恒例形間違曽我』 (朋誠堂喜三二作 杉浦史料博物館蔵本)
天明2年(1782)正月刊。巻末に喜三二と蔦重が対座する場面を描く。
登場人物であったお廓喜三太の弟が喜三二という黄表紙作者となり同じく
堤判官重三が本屋になり重三郎と名乗って商売繁盛したとこじつける。
『伊達模様・見立蓬莱』
巻末の新版広告には、黄表紙出版に乗り出した蔦重の意気込みが読み取れる。 「黄表紙の版元としての出発」 蔦重の黄表紙出版は、安永9年(1780)より始まる。
芝居の舞台を模した奇抜な趣向の新版目録で、蔦重自身が幕引きとして登場し
ている。外題看板に擬した中に「耕書堂ときこえしは花のお江戸の新吉原大門 口と日本堤の中にまとふや蔦かづらつたや重三が商売の栄」と見える。 新しい分野に乗り込んでいく意気込みの表明と、これからの商売の予祝の表現
である。蔦重は、喜三二という戯作の名手を黄表紙作者に得て、当代もっとも 生きのよい文芸の出版に携わることになる。 流行の黄表紙を出版することは、「版元蔦屋」の名を高らしめる。
単に吉原情報を供給するだけの版元ではなく、江戸市中の老舗の地本問屋に混
じって当代をリードする版元が吉原という場所に生まれるのである。 隅田川の下半身は江戸だろう 徳山泰子 傘の角度で江戸っ子だとわかる 酒井かがり
浅草庵、葛飾北斎画『画本東都遊』に描かれた耕書堂(蔦屋重三郎)の様子 大河ドラマ令和7がはじまりました。
第一話「ありがた山の寒がらす(ホトトギス)」は当時の流行言葉で「ただで手 に入れること」を意味しており「火事ごときに負けてられるか」という蔦屋重三 郎の生涯のテーマになったようです。 明和5年(1768)4月6日の八つ時(午前2時頃)吉原江戸町2丁目から出火、
折からの大風で廓内から入口にあたる五十軒道まで悉く焼け落ちました。 3年後の明和8年4月23日、やはり、夜明け前の4時ごろ今度は、一筋北の
揚屋町から火が出て、やはり廓内全焼。 この2回とも、廓外に仮宅をつくらなければならないほどの被害だったという。
さらに1年もたたない安永元年(1772)2月29日、今度は、はるか西南の目黒
行人坂大円寺から出火した火が強風にのって燃え広がり、ほとんど江戸の中心 部を焼き尽くして、吉原まで焦土化しました。 危機感をいつも抱いてる非常口 通利一遍
幕府は罹災した大名には、参勤交代の延期を認めたり貸与金を出したり、また
火災予防のために火消しの表彰、耐火建築の奨励などの措置をとるなど、人心
の安定に懸命に動いたものですが、この夏は冷夏で、その上、秋には風水害が 続き、全国的な凶作となって11月には、安永に改元したほどであった。 吉原の大火は、この後も天明元年(1781)、4年、7年と数年おきにあったから
珍しいことではなかったのだが、その度に店の持ち主は、店を手放さなければ ならない厳しい環境になっていました。 きのうの続きで元旦の朝が来る 前田芙巳代 五十軒道からつづく吉原大門口 店の経営者に移動の出るこうした不幸な出来事をも好機ととらえて、蔦屋本家
の養子だった蔦屋重三郎が、大門口に店をかまえる意欲をもったとしても何の 不思議はありません。吉原の入り口は一つ。その大門口から木戸までを「五十 軒道」と呼ぶが、ゆるや」かな坂道が「く」の字に曲がってつづく左側の、縁つ づきの、引手茶屋蔦屋次郎兵衛方の店先を借り、版元の1人として「五十軒道
左側蔦屋重三郎」と看板を掲げ、ささやかな細身の委託販売を業とする書店を 開いたのです。いよいよ重三郎の出版社としての活動がはじまります。 ときに蔦屋重三郎23歳であった。
指先から湧いてくる積乱雲 近藤真奈
江戸の貸本屋 (十返舎一九「倡客竅学問」(しょうかくあながくもん) 風呂敷に包んだ本を顧客の遊女に見せる貸本屋 蔦屋重三郎ー版元として出発
家業は飲食業(茶屋)でありながら、異業種の出版事業に参入した重三郎だが
いきなり版元(出版社)として活動を開始したわけだはない。
そのはじまりは貸本屋であった。当時、本は高価で、購買層は経済力のある者 に限られました。幕末の江戸では、本のレンタル料は一冊に6~30文。 (現代の米代に対比して50円~240円というところですか) レンタルならば左程の出費ではないが、本を購入するとなると、それをはるか に超える金額が必要だった。よって貸本屋の需要は、相当なもので、貸本屋が 江戸の読書環境を支えていたといえます。 貸本屋は、行商人のように各所に出入りし、本のレンタルに応じました。
江戸の町はもちろん、大名や旗本・御家人の屋敷にも出入りをし。武士・町人
といった身分の別に係わらず貸本屋は得意先に足しげく通うことで、おのずと 読者の好みを知ることが出来ました。それが出版に際してのマーケティングに 直結し、企画に活かせたのは言うまでもありません。 人脈の構築、つまりは販路の確保にも役立ちます。重三郎が話題作やヒット作
を連発できた理由を考える上で、「版元」として出版界に参入する前の貸本屋 という助走時間は外せないものでした。 工夫して使えば倍になる時間 橋倉久美子
平賀源内に吉原遊郭の序文をかかせた蔦重の発想力 安永2年(1773)の鱗形屋(うろこがたや)版「吉原細見」の春版である『這嬋
観玉盤(このふみづき)』の奥付きには、取次書として、はじめて蔦屋重三郎 の名が出ています。 ついで秋版の細身『嗚呼御江戸』では、鱗形屋版で蔦屋版ではなく、奥付きに
「細見おろし小売・新吉原五十軒道左側蔦屋重三郎」となっていましたが、 巻頭に何と平賀源内の序文を載せている。 この当時、平賀源内は、右に出るものもない文化人のトップの大物です。
蔦重は、吉原のガイドブック「吉原細見」で、吉原に再び人を呼び寄せる案を
思いつき。その序文を江戸の有名人・平賀源内に執筆してもらうため、鱗形屋 孫兵衛に相談にいくと「自ら説得できれば掲載を約束する」と言われ奔走した 成果であったのです。因みに、この離れ業に一枚加わったのは、当時18歳の 太田南畝と言われています。 蔦屋重三郎最初の出版物『一目千本』 遊女の名前と流行の挿し花の図とを取り合わせた遊女評判記。 冬を脱ぎながら地下街を抜ける 赤松蛍子
細見の売れ行きが予想以上であることに気をよくした重三郎は、つづいて遊女
評判記に目をつけます。細見に続いて、同じ年の7月に刊行した『一目千本花 すまひ』こそは蔦重単独刊行の処女出版だった。 「すまひ」とは相撲のことで、主な遊女を花くらべの相撲見立てで登場させる
評判記といったもの。たった一冊の細身づくりに、最新情報を盛り込むべく、 廓のなかを駆け回った重三郎は、それだけで細見編集のノウハウと売るに必要 な情報のコツを手に入れてしまったのである。 ひらめきの勢い斜面かけ降りる 山本美枝
「青楼美人合姿鏡」 安永5年正月刊。北尾重政と勝川春章という当時を代表する二大絵師 の競作による。豪華で華麗な絵本は出版印刷史上に残る名品である。
耕書堂主人(蔦屋重三郎)の序文が据えられている。蔦重自身の企画
構成によるもので、巻末には遊女の発句が掲載されている。
「青楼美人合姿鏡」 成立事情
この絵本は格別豪華な造本で仕立てられており、要した出版経費も相当
なものでした。この絵本は贅沢さに突出しています。いまだ資本の潤沢 でないこの版元が、一人ですべての経費を負担したとは考えられません。 経費の回収のあてが、不特定多数への販売によるものだけであったはず
はもい。収録されている遊女の選択が、客観的な評価によるものでない ことは明らかで、一図に3人ゆったりと描かれているところもあれば、 窮屈に5人描かれている図もある。 また高位の名妓で、ここに描かれていない遊女も少なくない。 これは『一目千本』『急戯花之名寄』にも同様に見られる傾向であった。
おそらく画像として描かれ、発句を掲載した遊女や、妓楼などが経費を
ある程度あらかじめ出資、重三郎の勢いに乗ったのだろう。 ジャンプすれば届く高さの熟し柿 雨森茂樹 べらぼうめーにナンヤネンと撥ねかえす 岡田幸乎
新 吉 原 仲 の 町 八 朔 図
幕府に公認された遊里が「吉原」。8月1日には、白重ねの衣装で遊女が客を 呼んだ。兵庫屋では蝋燭を灯し、幇間を呼んで楽しんでいる。 紋付の提灯を提げた若い者が行き交う。
新 吉 原 の 大 門 大門を潜った先が吉原遊郭で高い塀と「おはぐろどぶ」に囲まれた隔絶された 楽園であった。廓内は通りごとにいくつかのエリアに分かれている。 当時の吉原は、江戸の文化の花咲くところ、庶民大衆にとって遊びにうつつを
抜かすことのできる場所であり、武士たちにとっても、刀を預けさえすれば、 そしてまた、僧侶や医者にとってさえも、坊主頭を隠して、ひそかにあるいは 堂々と、訪ねることのできる遊里であり、そして一方では、各界にわたる多く の文化人の開かれたただ1カ所の交流の広場でもあった。 やがてやがては考えてない笑い癖 松下放天
まじめなる口上-蔦屋重三郎 蔦唐丸(つたのからまる)は蔦重の狂歌における雅号。 蔦屋重三郎は、もともと新吉原における貸本を主体とした小規模の本屋であっ
た。それが初めて出版を手掛けてから10年もたたないうちに、老舗の版元の 並み居る日本橋通町に進出し、一代のうちに、当時筆頭の版元に数えられるよ うになる。彼の経営手段は相当なものであったのだ。 彼の仕事と生き方とを概括してみると、優れて創造的な出版活動を繰り広げて
出版文化の粋と言ってはばからないものを刊行し、当時先端を行く文芸活動の 一端につらなり、また卓越した商才をもって、蔦屋を一代で豪商にしたという ことになろうか。 看板にあぐらをかいているいつか 森田律子
別面彼は極めて慎重な商売人でもあった。「冒険」という言葉はまず似合わない。
リスクを負う危険のある賭けは一切行わない。 新しい分野に乗り出し、営業の幅を拡げていく際にも、地味ながら確実に売れ続
ける往来物などの実用書や吉原細見のような、定期刊行物の株を確保して経営の 安定を図る手立てを整えた上でおこなっているのである。 そして彼は、実に目端のきく商売人であり、正確に世の中の状況を把握した上で、
それに機敏に対応している。 寛政改革下の景気冷え込みと草紙作者の人材不足、それに反しての書物景気とい
う状況を睨んでは、書物問屋仲間に逸早く加入する。 戯作出版に乗り出す時にも、朋誠堂喜三二という強力な作者をまず擁し、また、
狂歌・戯作界の中心的存在である太田南畝との個人的交友関係を作り上げていく のである。 店を出た途端左は右になる 徳山泰子
江戸時代を通じて、特筆すべき版元は多い。地本屋に限っても鱗形屋孫兵衛は
草双紙の版元として、一時代を画したし、鶴屋喜右衛門の長期に亘って幅広い 分野にまたがる出版活動は注目に値する。 その中で、蔦重が取り沙汰されるのは、おそらく、手がけた出版物の評価のみ
によってではないだろう。 蔦重の商標には、単なる標識的機能以上のものが備わっている。
ブランドめいた付加価値である。彼の出版物の後ろには蔦屋重三郎という人間
の影がちらつき、その影には流行の先端を行く匂いが伴う。 時代を華麗に演出した人間は、自分自身を、蔦屋重三郎という店も巧みに演出
して見せているのである。 カギ穴を一瞬ウフフが横切った 山本美枝
吉原の本屋ー蔦屋重三郎
蔦屋重三郎は寛延3年(1750)1月7日、新吉原に生まれた。
母は広瀬氏、名は津余。長じて「茶屋」を営む喜多川氏(蔦屋)の養子に入る。
茶屋には、路傍や寺社の境内などで、茶などを飲ませ、道行く人を休ませる 「水茶屋」。劇場周辺にあって、客席の予約、見物人の案内、茶菓子や食事・ 酒宴の接待などをする「芝居茶屋」。この他に「料理茶屋」「相撲茶屋」「引手 茶屋」など色々な茶屋がある。 遊里内にあって、遊客を遊女屋へ送り迎えしたり、酒宴をさせたりする引手茶屋 が蔦屋の本業であったと思われる。一流の遊女屋は、直接に客を店にあげないで、 必ずこの茶屋を通す風習があった。安永3(1774)年、重三郎は24歳になって、 この吉原の地で『吉原細見』という出版物を手がけることになったのも、自然の 流れであったのかもしれない。 蓋開いて余計なものを見てしまう 大嶋都嗣子
『一目千本』
遊女の名前と流行の挿花の図とを取り合わせた蔦重最初の出版物である。 いわば、遊女評判記である。 『急戯花乃名寄』
一目千本から翌年の3月に同じ役割を負った出版物である。 蔦屋重三郎は吉原という共同体のお抱えの本屋として、極めてリスクの 少ない、危なげない出版活動から身を起こした。 その年の春、蔦重は「鱗形屋孫兵衛版吉原細見」を改め、卸を手掛ける。 細見の改めとは、遊女の異動を中心に廓内の情報をとり纏め、最新のデーター
を「吉原細見」に盛り込む役割である。おそらくは、もともとの地縁によるも のに加え、郭内における貸本商売を続ける中で得られた情報収集能力が買われ たのであろう。 その一方で、同年七月に初めての蔦重版『一目千本』を、翌年三月には『急戯
(にわか)花乃名寄』を刊行する。 これらは、いわば吉原という機構全体を広告する機能を負っている草紙であり、
吉原の実力者の肝煎で、妓楼・遊女などから、あらかじめ出資を募って製作し たものである。版元側のリスクのほとんどない仕事である。 重三郎は、吉原を広告する役割を担った郭内の版元として、地縁・血縁に支え
られたところから出版活動を開始した。一方、吉原という社会的機構は、その 機構そのものを演出する手立て、江戸市中に向けて、その文化的な側面を強く アピールする手段を内部に得たわけである 江戸っ子で通すサ行のなにげなし 前田芙巳代 天明3年春吉原細見「五葉松」 (国立国会図書館蔵) この蔦重によって記念すべき細見では、巻頭に朋誠堂喜三二の序文、 巻末に四方赤良(太田南畝)の跋文と朱楽菅江の祝言狂歌を載せている。 「吉原細見」
吉原細見とは、遊女の名鑑である。
吉原での遊びのガイドブック情報誌と考えればよい。 吉原は、幕府によって公認された唯一の遊里であり、このような出版物が公然と した形で世に出される。この本によって、各遊女屋にどのような遊女が所属して いるかがその揚げ代とともに分かるゆえ、茶屋や吉原所属の芸者などについての 情報も得ることができる。正月と七月の年二回発行を基本とし、その間にも改訂 版が随時発行される。 蔦屋重三郎は、安永五(1776)年秋から吉原細見の版元となる。
その後、蔦重版細見は休止なく継続的に刊行され続け、天明三年春までには他版
を駆逐、以後は細身の出版を独占することになる。 遊女の異動等の情報を集約する機能と郭内における本の流通を押さえたことが、
まず大きな勝因となった。それに加えて上下にらみ合いの形式で、妓楼を掲載す る蔦重版の吉原細見は丁数を半分程度に押さえられる。 彫り手間、刷り手間、紙代等の経費が鱗形屋版などに比べて、格段に安く済んだ
はずで、低価格で販売することが出来、圧倒的なシェアを得ることが出来たと思 われる。 私にやっと時代が追いついた 黒田るみ子
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