川柳的逍遥 人の世の一家言
万力に挟んで夢を逃がさない 清水すみれ
後宮の中ー寝殿造の内部空間
藤壺の庭に咲く藤を眺めて語り歌う、中宮と女房たち。
寝殿造りの建築は夏向きにできており、風通しがよく開放的である。 気候が温和なため自然とこの調和を大切にして、壁で遮断崇ることが
少なく、間仕切りとして唐紙障子や壁代を使い、風や人目を遮るために
屏風や几帳を立てた。
白木の建物と黒漆塗りの調度、柔和で優美な色調を漂わす大和絵屏風
や几帳。彼女たちの衣服や調度などの装いの総合的な組み合わせを、
装束と呼んだ。
ゆったりと振り子の刻む時にいる 山口美千代 源氏物語の舞台となるのは、およそ千年前の平安京である。 「泣くよウグイス平安京」知られるように794年(延暦13)桓武天皇
により開かれた平安京は、唐の都・長安を手本に、縦横にはしる道路で 碁盤のように区切られていた。 北側中央には、帝の住まい・内裏や政治の中心が置かれた大内裏があり、
南北にはしる朱雀大路をメインストリートに、東側の左京、西側の右京 に分けられている。 なお、左京の北側は、多くの貴人たちの高級邸が並んでいた。
花の下行儀いい葉もご覧あれ 竹内良子
紫式部ー源氏物語の世界へ--① 生活編
「雅と高貴の邸・後宮へ」 帝が日常生活をする建物が清涼殿。
寝室にあたる「夜の御殿」は、その北部分にあり、背後には、七殿五舎
の後宮が広がっている。 後宮の殿舎は、それぞれ壺(中庭)に植えられた庭木に因んで「桐壺」
や「藤壺」などと呼ばれ、そこに住むお妃は「桐壺更衣」「藤壺女御」 と呼び倣わされていた。 殿舎の位置は、主にお妃の身分によって決まり、例えば、桐壺更衣に
与えられたのは、清涼殿から一番遠い淑景舎(しげいさ)である。 風向きを教えてあげるから触れて 真島久美子
几帳や屏風、調度品のおかれる寝殿造りのインテリア
「貴族の邸」
貴族の邸は廊下はもちろん、母屋もすべてフローリングで、固定された
間仕切りが少ないシンプルなもの。 移動可能な几帳や屏風で広い空間を仕切って、机や厨子などを置いて、
ワンルーム感覚でアレンジをした。 慶弔や季節の彩りを表すために、室内を調度で飾ることを当時から、
「しつらい」と呼び、例えば、お産のときには、産室の調度を白一色に 統一したり、来客時には、濡れ縁の簀子が屏風などで仕切って、応接間 に早変わりした。 蓮の露出来損ないの無い丸さ 寺田天海
源氏物語画帖 幻
「格子まいる」
格子は黒塗りの木を縦横に組んで廂(ひさし)の周りに設けた建具で、
朝に掛け金で吊り上げ、夜下ろすことを「格子まいる」といい、朝夕の
女中の仕事だった。 源氏物語の中で六条御息所が、上げられた格子から源氏が見送るシーン
など、格子が効果的に使われている。 振り幅の広い女のヘチマ水 山本早苗
平安貴族の寝具
「質素な平安貴族の寝具」 当時の掛布団には、衾(ふすま)と呼ばれる長方形のものと、襟と袖の
ついた直垂衾(ひたたれふすま)の2種類あった。 しかし、布団は高価な貴重品で、誰もが使えるものではなかった。
それではどうしていたか、その日に身につけていた衣服を脱ぎ、布団代
わりに掛けて寝ていた。 一夜をともにした男女が別れ際に、上に掛けた衣服をまた身にまとって
別れる「後朝の別れ」も、そんな生活習慣から生まれたものだった。 悲しみの分だけ笑顔上手くなる 井口なるあき
藤原道長が33歳~56歳までの間に書いた日記。
具註暦(ぐちゅうれき)という毎日の運勢が書かれた暦の、行間の余白 に日記が書かれている。 「この世をば我が世とぞ思う望月のかけたることもなしと思えば」
「宮廷勤めの男たちの朝」
宮廷に勤める男たちの朝は、それはそれは忙しいものだった。
起きると、まず自分の属星(ぞくしょう)の名号を7回唱える。
これは生まれた年と北斗七星の名を結びつけた一種の呪文で、子年生ま
れは貧狼星(とんろうせい)、辰年生まれは廉貞星(れんていせい)と、 いったように定められていた。 その後、鏡を見て人相を占い、その日の運勢を確かめ、歯を磨くなどを
して身だしなみを整え、朝食の前には、昨日の出来事を日記に認めるの も日課だった。 手相みる易者人相悪かった 青木ゆきみ
「運勢の悪い日は物忌みでお休み」
物忌みという言葉は、源氏物語にしばしば登場する。
運勢の悪い日などに「物忌」と書いた札を家の外にかかげ、家に籠って
人との面会を慎む。「忌む」というのは、災いに近づかないようタブー となる行いを慎むこと。 物忌みの日は、官中に出仕せず自宅で過すのだが、年に20~70日も
あったというから、欠勤や逢引きのよい口実に利用されることもあった ようだ。 お仏飯差し上げるにもどっこいしょ 新家完司
牛車に乗って
「外出は牛車に乗って大路小路をゆったりと」 やんごとない貴族たちの場合、自分の足で歩くということは、ほとんど
なく普段の移動には、もっぱら車や輿、馬などを利用した。 なかでも「牛車」は、最もポピュラーな乗り物で、身分や格式に応じた
数多くの種類があった。
牛車への乗り降りは、まず繋いでいる牛を切り離し、後ろから乗って、
前から降りる。
定員は4人で、内側に向かい合って座る、座席配置。
牛を誘導するドライバーの多くは、10代後半の牛飼童と呼ばれる少年
が担った。 ドア閉める音でもベンツだと分かる 髙杉 力
外出する女性
「徒歩の外出はカジュアル・ファッションで」 女のひとり歩きは、危険なこと。
身分の高い女性は牛車で移動したので、徒歩で外出することはほとんど
ない。が、それほど身分の高くない女性は、壺装束を身にまとって出か けた。歩きやすいように髪を小袖に入れ込み、裾が地面にひきずらない ように単衣や袿(うちき)を折りり上げた。 衣をすぼませ、折りはさむことから壺装束といい、肩から掛けた紅絹
(もみ)の帯は懸帯という。 ポケットの多い服着て忘れ物 ふじのひろし
「女房はカラーコーディネーター」
平安貴族の衣服は、重ねた衣の色目の美しさが、その人のセンスや美的
感覚を表した。 襲(かさね)の色目は約200種もあり、季節や場所、 年齢、好みなどから主人の衣服の色を宮仕えの女房たちが、コーディネ ートした。 たとえ一枚の衣であっても、表地と裏地の色彩がその時節にふさわしく
調和していなければならない。色目の知識と色彩のセンスがなければ、
女房の仕事は務まらなかったのだ。
売れるわけ無いからパリコレで着せる 板垣孝志
日本風・鏡
「鏡」 古来より、祭祀の道具として用いられ、帳台の中にかけて魔除けにする
など呪術的な意味合いもあった鏡。
平安時代の鏡は、銀や銅、鉄などの表面を磨いてつくられた。
八角形で、裏面には植物、鳥などの装飾が施され、平安時代の始めまで
は、唐草や鳳凰など中国風デザインが主流だったが、鏡は、身だしなみ
には欠かせない大切な道具として、松や梅、秋草、鶴、千鳥など日本風
の雅な絵柄へと変わった。 使う時は、鷺足の鏡台にかけ、使い終わったら鏡箱に収納した。
鏡からもらう晴れの日くもりの日 堀田英作
道勝法親王百人一首絵入り歌かるた
夜をこめて鳥のそらねははかるとも世に逢坂の関はゆるさじ
清少納言は、化粧品の鉛の毒に悩まされた一人だった。
40歳を過ぎる頃には、醜い鬼のような顔だったという。
「都で流行りの色白美人」
白粉で顔を塗りたてていた平安美人。
女性が化粧をするようになったのは、この時代からで、それ以前は、
健康的な素肌が美の条件だった。 寝殿造という採光の悪い建物で暮らすようになって、薄暗い中でも輝く
ような白い肌が求められたというわけで、白粉をぬる習慣がはじまった。 しかし、当時の白粉の原料には、鉛や水銀が入っており、肌が化粧焼け
したり、シワが増えたり…。 ひどい時は、その毒性で死ぬこともあったという。
当時は、美しくなるのも命がけ…。
大いなる大根のごときこころざし 佐藤正昭
平安時代のお風呂 「そこはかとない残り香が…」 衣類には香りを含ませ、部屋にも香を焚く貴族たちの暮らし。
入浴の機会が少ない平安時代。
香りがなくてはいられなかったのだろう。
おまけに邸内には、独立したトイレがなく、人々は部屋におまるを置き、
そこで用を足していたから、もとは唐様に倣った香りの文化が、舶来の
香料でオリジナルの香りを調合して、センスをしのばすといった、貴族
たちの嗜みになっていた。 失いたくないもの壊したいもの 下谷憲子
小野小町ー佐竹本三十六歌仙
プレイボーイ在原業平をはじめ、通いつめて命を落した深草少将など、
多くの男性を魅了した絶世の美女・小野小町は、おそらく容貌とともに 美意識に優れたものがあったものと思われる。 「センスくらべ」
平安時代を代表する女性の装束といえば、なんといっても十二単。
多い場合には、20枚も重ねて着ることもあったという。
重さにすると10㌔以上に…しとやかに、ゆったりとした所作に
ならざるを得なかっただろう。 そもそもこの時代に、十二単の文化が花開いたのは、後宮の女性たちが、
ライバルに負けまいと、衣装の美しさを競い合った結果だった。 襲(かさね)の色合わせや模様、生地を季節やしきたりに合わせて選ぶ
センスも、平安美女の条件だった。 まだ誰も見たことのない色で咲く 河村啓子
若紫の髪を削ぐ光源氏 「黒髪を切るとき」
信仰心の篤かった当時の貴族の女性たち。その彼女たちが、
頼みとする夫や愛する子どもと死に別れたとき、重い病気の
回復を祈願するとき、或いは自身が罪悪感に苛まれるとき
など、大切な長い黒髪を切って出家した。切るといっても、
背中のあたりで切り揃えるだけで、渋い色の袿を重ね、
法衣としての袈裟を上から掛けた。
ほらごらんあかんが頭掻いている 太下和子
松椿蒔絵手箱 (国宝)
「くしけずるほどに、より美しい黒髪」
当時、美しい髪を保つためには、洗髪より櫛で髪の汚れを落とすことが
多かったよう。櫛はいくつかの種類があり、ふだん髪をとく櫛には、歯 の粗い「解櫛」、髪にゆする をつけて髪を解く歯の細かい「梳櫛」が あったほか、髪に挿して飾りにする「挿櫛」などが使われた。櫛は象牙、 黄楊、紫檀などで作られ、螺鈿で装飾をした豪華なものも。
櫛は櫛笥(くしげ)に収納し、そこには櫛のほかに鋏や耳かき、髪掻、
櫛払などの身だしなみの道具一式を入れていた。
ときめきを運んでくれたのは光 伴 よしお
源氏物語絵巻東屋一髪を梳く女性
「美しい髪の秘訣」
豊かで長い黒髪を保つには、シャンプーや整髪は欠かせない。 しかし、当時のシャンプーは「ゆする」と呼ばれる米のとぎ汁や、強飯
を蒸した後の湯。養毛に効果があると信じられて、髪につけて梳くのが いつもの手入れだった。なお入浴は、日柄を選んで5日に一度で、軽い 朝食をすませた後のことだったとか。 入浴といっても、浴槽につかるわけではなく、湯浴み程度のものだった
ようだ。 指先の痺れもたまに撫でておく 靏田寿子
長い黒髪の平安女性
「長い黒髪が美女の条件」
当時は、豊かで長い黒髪が「美女」の絶対条件として、貴族の男たちに
持て囃された。
藤原師尹(もろただ)の娘・芳子は、美人の誉れ高い女性で、黒髪の長
さは何と5~6㍍ともいわれ、簀子から牛車に乗ると、黒髪は廊下を越
してなお、母屋の柱に絡んでいたという。 芳子は、村上天皇の女御となって寵愛を受けた。
また『古今和歌集』1100首を暗誦したと伝えられ、まさに才色兼備
のスーパーウーマンだった。
むら雲の嗚呼の部分のうすべにの 宮井いずみ PR ラの音が続くここでもあそこでも 宮井いずみ
夜の王朝政治
10世紀ころまで政治は、朝に行われていたが、夜の公事が増えてきた
ことと。執政の場が天皇の日常居所が内裏に移ったため、会議も天皇の 生活に合わせて清涼殿や陣座、時には、後宮の殿舎で夜に行われた。 図は、仁寿殿における献詩披講後の宴で松明をかかげるのは近衛の舎人
たち。
まもなくはじまるドラマ「紫式部の光る君へ」の前に、--------紫式部が
生きた時代へ、画像とともにタイムスリップiいたしましょう。 紫式部が生きた時代━
平安時代の貴族たちは、官位があがるたびに給料も上がり、大臣クラス
では、今のお金に換算して年収が1億円ほどもあったという。 有力な貴族たちは大きな邸に住み、豪華な衣服を着、贅沢な食事、また
占いや迷信を信じ、祟りを怖れた。 陣座 座から東へ渡り廊下を行くと紫宸殿につながる。この紫宸殿に近いこと から9世紀半ば以降、陣座は、公暁審議の場となった。 さらに正月の朝賀にはじまり、追儺(ついな)で終わる宴や年中行事は、
46回も行われた。いつ政治をしているのだろうと勘ぐってしまうほど。 また余暇には、恋に風雅にと身をやつした…時代なのであります。 今日もまたあやとりしりとり三輪車 和田洋子
光る君へー王朝貴族のライフスタイル
源氏物語図屏風 断簡
① 平安美人とは 光源氏のハートを射止めた平安美人の多くは、眉毛を抜いて、白粉を塗
りたて、ぽってりした眉を描き、歯にはお歯黒、口元にはぽちっと紅を さし、濡れたような黒髪の持ち主。ほの暗い寝殿造の室内で、ほんのり 浮かび上がり、貴公子の心をぐっと惹きつけて恋を射止める。 恋 の 舞 台
② 雅な恋の舞台 殿方が愛しい姫の寝所に入るまで、長い道のりがある。
文や和歌で心を開かせ、お付きの女房を懐柔して、当時の住宅である 寝殿造りの簀子(すのこ)から廂(ひさし)、そして母屋へと日ごと に近づき、やっとお簾のなかに入ることを許された。 少し時間下さい胸をうずめます 太田のりこ
貴族の食事 考証・樋口清之 ③ てんこ盛りの御馳走に
食膳には、蒸したこわ飯をこんもりと高盛にして、副菜も品数と量がた
っぷり。宴の食事ほどその傾向は強く、おもてなしとして並べられた。 はたして美味しかったのだろうか……少しの疑問も。
興車図考附図 ④ 恋の本気に競い合う車 上流貴族ともなれば、カスタムメイドの牛車を多数持ち、見栄と個性に
拘ったその造りは「動く寝殿造」と評されるほど。 牛車を見れば、その持ち主の身分やセンスが分った。 一つの恋に貴族も物入りで大変だったのである。 錆止めを塗って真面目に生きてます 谷口 義
催馬楽(さいばら) 宴会では杯を片手に詩歌を吟じ、催馬楽(平安時代の宴歌)を歌い踊った。 ⑤ 婿取りの大わらわ
新枕から数えて3日目の夜、将来有望な婿を得た舅は、盛大な宴を開い
て婿のお披露目をする。 妻側の縁者や知人たちと婿とが、一緒に膳を囲み、婿側は、両親は参列 しないが、婿の衣装、結婚費用などすべて、妻の家が用意した。 娘を持つ親は、今も昔も変わらず大変なのだ。 住吉物語絵巻
⑥ 将を射んと欲すれば… 姫君の評判を高めるのも、姫君に届く恋文をまず受け取るのも女房。
恋文の代筆までもした。
男君もお目当ての姫君の女房に贈り物をしたり、かりそめの恋をしかけ たり、恋の行方は女房次第だった。 重力を受け止めきれません右手 森井克子
⑦ 父も歩いた恋の路 まだ明けやらぬころ、愛の余韻あふれる「後朝(きぬぎぬ)の別れ」の
時が訪れる。 男君は家に帰り着き、女君へ恋文を出す風習があった。 そして、その文を、女君の父親が読むこともあった。
やはりこの時代の父親も、娘の恋の行方が気になったのである。 落語家と姫には扇が必需品
⑧ 扇の役目 深窓の姫君は、見知らぬ男性に見られまいと、扇で顔を隠した。
その仕草がまた、男君の心をいっそう惹きつけた。
恥ずかしいやら作戦やらで使う扇は、当時の姫君の必需品だった。 夢のつづき見たくて飛ばすシャボン玉 柴辻踈星
源氏物語絵帖 末摘花
⑨ 垣間見てから------恋心 美しい姫君が住むという噂に惹かれて、姫君の邸を訪れ噂を確かめたい、
またお近づきになりたいと、垣根の間から覗き見する。 そこから恋しい恋しいが始まる。紫式部はそれを「末摘花」と名付けた。 医 心 方 ⑩ 医は仁術 日本最古の医学書に『医心方』という恋の手解きを書いた本がある。
そこには男女どちらかに「苦痛をともなう愛し方は邪」とされ
「し過ぎも しなさ過ぎ」もよくないと説き、さらに、暑い日寒い日、 悪天候の時、酔っている時、満腹の時、喜怒哀楽の激しい時は避けよ、 と書いてある。どの邸にも教本として一冊はあった。 自分でもしている父の悪い癖 広瀬勝博
「花の章ー風雅を楽しむ」
葵の上と光源氏 ① 姫君たちは、花の名にちなんで名づけられた。
桐壺、藤壺、葵の上、夕顔、末摘花、玉鬘--------紫式部の命名した姫君
たちの名には、花の名を冠したものが多い。 紫式部は、花好きだったのだろう。 源氏物語色紙絵 若紫
② 管絃の名手は憧れの的 情趣が細やかで深く、表現力が豊かで、洗練された美意識がそなわり、
おまけに美しい容姿-------それが、王朝人の理想の姿だったという。 芸事を行うのは、いつの世も変わらないもので、琴や笛などの
「管絃の才」に長けている人は、憧れの的だった。 秋澄むや若紫という少女 徳山泰子
源氏物語絵巻 柏木三
③ 季節を装う光の君
光源氏が20歳の春。花の宴に表が白、裏が紅の桜襲(さくらがさね)
の薄手の唐織物を装う源氏はひときわ美しく輝いていた。 それから28年後、源氏が身につけるのは、同じ桜襲でも、色味の薄い 装い。渋くダンディーな貴人の姿だった。 源氏物語画帖 夕顔
④ あるがままの花を愛して
寝殿造りの前栽で四季の草花を楽しんでいる風情が、源氏絵によく描か
れている。平安貴族たちは、自然にあるがままの花、咲くがままの花を 美しいとしていた。 もう一品菜の花添える春うらら 津田照子
雪 月 花
⑤ 日本の美意識 冬の月光に雪が照り映えた風情の中で、この世にいない理想の女性、
藤壺との-------どうしようもない隔たりを感じる源氏の姿を「朝顔」 の帖に見る。 日本人独特の「雪月花」の美意識は、光源氏の時代から広まった。
平安時代の風呂事情 ⑥ 風呂へ行くのは吉日に
王朝貴族の縁起かつぎは、入浴も例外ではない。
源氏物語の少し前に記された「九条流の生活作法の書」に、 入浴は5日に一度、さらに、日を選んで入浴するようにとある。 ほかにも洗髪から爪切りまで。タブーの日があったという。 過ぎた日々時々思う寂しがり 荒井加寿
ボスの物忌みにかこつけて ⑦ ズンドコ貴族 1,帝の御物忌みの夜、男子貴族は内裏につめて宿直がお役目。 その夜、退屈しのぎに「雨夜の品定め」のように女性談議に花を咲かせ たり、女房の部屋を訪れたり……。 物忌みを口実に--------- 2,人によっては年平均80日、ひどい場合は、1年の3分の1があた った。 その期間はひたすら謹慎。しかし、物忌みを口実に欠勤したり、 物忌み札を提げて意にそまぬ相手の訪問を、方違えにことよせて愛人宅 に居座ったり、という人もいた。 ほがらかが一番たとえお通夜でも 青砥たか子 陰陽師の活躍 安倍晴明がいた ⑧ 現代では想像もつかないほど平安時代は、「祟りやタブー」が人々
の生活や意識を縛っていた。物の怪がとり憑き、都での百鬼夜行が信じ られていた時代である。 したがって何事につけ、人々はその吉兆をま ず占い、頼りとしたのが陰陽師だった。 『宇治拾遺物語』
⑨ 宇治拾遺物語 鎌倉前期の説話物語集である。
平安朝の宮廷や貴族に関する説話も多く収められており、編者は不明だ。
が、文体が王朝和文脈であり、貴族階級に属する人がかかわったものと 考えられる。内容は愚かしい人間とそのかもし出す事件を寛容に愛情を もって見守り、軽妙に描出し、健康な「笑」の文学である。 平安時代の面白い人間模様もここから探すことが出来るかもしれない。 ※ 収録されている内容は、大別して次の三種に分けられる。 世俗説話(滑稽談、盗人や鳥獣の話、恋愛話など)
民間伝承(「雀報恩の事」など)
仏教説話(破戒僧や高僧の話題、発心・往生談など)
彗星の尾からしじまへ散る花弁 くんじろう 葛飾北斎画 富嶽三十六景 凱風快晴 令和六年元旦 江戸の正月 元日の朝はまばらに夜が明ける 江戸川柳
約束をしているわけではないが、今年も正月はやってきた。
だがしかし、何はともあれ、お正月、まずはおめでたい。
男の子は凧揚げ、駒まわし。
女の子は追い羽根で裏長屋にも一陽来復。
昨日の鬼ー借金取りが、おめでとうございますと礼に来る。
年礼をうけて今のは誰だった 江戸川柳
魚河岸の初売りが二日、職人もこの日を仕事始めにした。
昔の働く人は正月は一日だけしか休まない。
勤勉なものである。
初荷、初夢、武士の乗馬初めと初ずくめの二日うちで、
一番威勢がいいのが町火消の出初め、各町の鳶頭が皮羽織、
腹掛け、半纏も新しく、いろは四十八組ずらりと揃う華やかさ、
男を競うはしご乗り。
鳥追い、獅子舞い、猿回し、漫才とお江戸の春の賑やかさ。
ついうかうかと七草が来て、ようやく門松を取り払う。
おぶさった奴が養う猿回し 江戸川柳
十一日が蔵びらき、小正月が十五日。
十六日は丁稚小僧の藪入りの日。
お正月気分は、ここらあたりでおしまい。
あとはまた、稼ぐに追いつく貧乏なしと、それぞれが家業に精を出す
日常になある。
門松は、冥土の旅の一里塚というが、こんな正月をあと何日繰り返す
のかと、ひょいと考えて、貧乏暮らしが嫌になる夜ふけ。 火の用心さっさりましょうー。
生酔は御慶(ぎょけい)にふしをつけて言い 江戸川柳 さよならは空耳だった気もします 美馬りゅうこ
神として描かれた徳川家康画像(東京大学史料編纂所所蔵模写)
「大阪の陣が終わって……」
「向後、自分の力で戦は起こさせない」
―そう強く思った家康は元号を変えた。
慶長から「元和」-------「元ははじめ。和は平和」。
近隣の外国とは、善隣友好姿勢、政治の模範となる君臣の言行を集めた
中国の本の翻訳命令を出したり、「源氏物語」を公家衆に配ったり…、 子や孫には自分の持っている本を惜しみなく配ったり……。
蟻踏んで悔やみつづける足の裏 森井克子
家康ー神になった家康
「東照社縁起絵巻」巻三第二段
元和2年4月17日、徳川家康75歳で薨去。
遺言により久能山へと埋葬される。 「鷹狩りから発病する」
そんなこんなで、明けて元和2(1616)年の正月21日。
家康は駿府城にほど近い田中へ鷹狩りに出た。 家康は、その日は駿府城に戻らずに、その田中城で、ある人物と夕食を
摂った。丁度、京から当代一の豪商、家康の経済ブレーン、蛸薬師の呉 服商・茶屋四郎次郎清次が来ていた。 朱印船貿易などの秘密の会話を交わしたあと、家康は、茶屋四郎次郎に
「最近上方では、なにか珍しいことはないか」と、訊ねた。
茶屋は 「あります。最近京や大坂では、鯛をカヤの油で揚げて、その上にニラ
を擂りかけたものが流行っており、わたしも頂きましたが、大変よい
風味でした」と、答えた。 折よく榊原清久から能浜の鯛が献上されたので、家康はすぐそのように
調理を命じ食した。 「あれはうまかったが、ちと食いすぎたな」と、
満足気に食後感を述べていたが、その夜から、腹痛に苦しみ、駿府城に 戻って、御殿医の興庵法印(津田秀征)の診察を受けいれ療養に入った。 一旦は容態が落着いたようにみえたが、75歳という年齢の所為もあり、
ぶりかえし再度、苦痛にさいなまれ、順調に回復とはいかなかった。 エンドマークつけて肩の力抜く 吉岡 民
家康の病状は日ごと悪化していく。2月の末頃、本多正純が興庵法印に
調合させた薬を飲むと、家康は、盥を引き寄せると全部吐いてしまった。
そこで家康は、傍に控えていた将軍・秀忠に
「今回は私の死期がすでにやってきており、天が定めた寿命はここで
最期だ。どうして草の根や木の皮でできた薬などで、うまく寿命を
止めておくことなどができようか。従って、最初から薬は飲まずに おこうと思っていたが、無理に勧められるので、できるだけ飲もう としたが、このように無意味だ。もはや薬は飲むまい」 その後、家康は決して薬は飲まず、側におくこともしなかった。
あちこちにある文句言いのスイッチ 中野六助
家康と対座する天海 秀忠とともにその場に控えていた南光坊天海僧正は、発言の許可を得て 「日本でも中国でも、非常に優れた英邁な君主は、あらかじめ、自らの
死期を決定して、自分の死後のことを前々から言い残しておくものです。 わたしも少し前からお側にいて、恐れ多くも、お言葉を承っております。 今回はとても、ご回復されるとも思えません」
と、言うと、将軍はただ涙にくれていた。
4月2、本多正純・南光坊天海・金地院崇伝を呼び、自らの死後の対応
を指示した。 弔問客用に落とし穴を掘る 井上一筒
「観古東錦 将軍家日光御社参之図」 東洲勝月画
江戸時代、歴代将軍は大勢の供ともを引き連れて、日光東照宮に参拝し、 家康の霊廟に詣でた。 日光東照宮の奥宮にある宝塔。 通説では、家康の遺骸はこの中に葬られているとされる。
「家康、久能山に葬ることを遺命する」
4月17日、家康の病状がだんだんと重くなった時に、本多正純を呼び
「将軍家に早く来るように」と、言ったが、「それには及ばない…」と、
すぐに取り消し、さらに続けて 「わたしが死んだ後も、武芸に関しては、少しも忘れてはいけない、と 申し上げよ」 の言葉を最後に、榊原清久の膝を枕に冥府へ旅立っていった。 この清久は、清正の三男で、早くから家康の側近くに仕えて、その寵愛
は浅くなかったという。家康病中も日夜傍で看病し、様々の遺言を聞き 「わたしが死んだならば遺骸は久能山に納めるように。墓はこれこれと
するように、お前は末永くこの地を守って、わたしに生前と変わらず 仕えるように」と、言い置かれた。 この遺言で、榊原清久家は代々「駿州久能山惣御門番」を務めることに
なった。 生きてゆく重さ海月にある重さ 前中知栄
「家康、西国大名を憚り、その像を西向きにせしむる」
さらに家康は、
「東国の方面はおおよそ、譜代の者なので謀反の心があるとは、思われ ない。西国の方は、不安に思うので、わたしの像を西向きに立てて置 くように」と、 言い置き、あの三池の刀も、峰を西にむけて立てて置いたという。 「家康の辞世句」
先に行くあとに残るも同じこと 連れてゆけぬをわかれぞと思う
<先に亡くなるのも、後に亡くなるのも同じことだ。いずれみんな
あの世に行く。だから、私の後を追って死んだりしないように。 ここで一度別れよう>
永遠にさよならでもありがとう 福尾圭司
南光坊天海 金地院崇伝
「神号」
大御所家康を支えたブレーン中のブレーンといえば、金地院崇伝・南光
坊天海・林羅山の3人である。徳川幕府の諸体制は、この3人の頭の中 から生まれたといってもよい。 崇伝は、1608年(慶長13)家康に召し出された。
京都南禅寺の住持で、仏教界のエリートだった。外交文書の他、キリシ タン禁令、公家諸法度、武家諸法度や各寺院法度を起草している。 家康の信頼厚く、権勢を欲しいままにし「黒衣の宰相」と、呼ばれた。
南光坊天海については、家康は、
「残念なのは天海と相知るのがおそすぎることだ」とまで言っている。
宗教界で活躍し、政治の表面には出なかった。
あるとき天海は、家光の前で柿を賜り、食べ終わると種を懐に入れた。
「持ち帰って植えよう」と、いうのだ。家光は、 「僧正のような高齢の人が無益なこと」
と、言ったが、天海は
「一天四海をお治めになるかたは、そのような性急な考えをしてはなり
ません」と言い、数年後実った柿を山盛りにして家光に献じたという。 つまんで引っ張って引っ張ってつまむ 雨森茂樹
家康の死後、問題となったのは「神号」だった。
「明神」号を主張する金地院崇伝と「権現」号を主張する南光坊天海と
の間で激論になったが、秀忠による裁定で「権現」号に落ち着いた。 その後、幕府は朝廷に神号を奏請し、朝廷からは、「東照大権現、日本
大権現、威霊(いれい)大権現、東光大権現」の4つが示され、幕府は、 「東照大権現」を選び、家康の「神号」が決定した。 天海の弟子である胤海が記した書(1789年(寛政元・刊)に天海は、
家康の神号について、
「亡君豊国大明神のちかきためしを覚して…」
と、豊国大明神の悲惨な末路を引き合いに出し、「権現」号を主張した
と解明している。 メトロから炎は降りて来ましたか くんじろう
絢爛豪華な日光東照宮 「家康、もうひとつの遺言」 「わたしが死んだ後、将軍家(秀忠)は必ずわたしの廟所を威儀正しく
建造することだろうが、それは無用のことだ。子孫の末までも初代の 廟所を超えぬようにするためにも、わたしの廟所は簡素にせよ」 と、遺言した。秀忠はこれを聞いて
「先代ご自身にとっては謙譲の美徳であり、この志を受け取るべきだが、
つつましやかすぎるのもいかがか」 と、言い、おおよそ荘厳といえる程度におさえ廟所を完成させたが、
三代将軍・家光は、その遺言を破り1636年、祖父・家康が祀られる
日光東照宮の全面的な改築を命じた。 これにより、社殿の規模は大きくなり、その様式も、穏やかな和様から、
絢爛たる唐様へと変貌した。 凡人が心を乱す遺言書 靏田寿子 一服しなはれうどんがのびてます 和田洋子
金の鯱が載る五重の天守閣 将軍の居所であり、同時に幕府政治の中枢である江戸城本丸は、政務を
執る将軍を中心に、将軍夫人をはじめ、大奥に勤める女性たちの生活の 場である。 江戸図屏風絵 (国立歴史民俗博物館蔵)
17世紀前半の江戸の姿を書き留めた江戸図屏風絵で江戸を見る。
江戸城の修築改築工事は、1603年(慶長8)から本格的に進められ、
1612年(慶長17)に、ほぼ完成をみた。 さらに城郭を境にして山の手に武家地が、下町に町人町がつくられた。
江戸図屏風絵は、明暦の大火(1657年)で、焼失する以前に描かれ
たもので江戸初期の町の姿を再現している。 (金の鯱の載る五重の天主閣は、2代秀忠によって1623年(元和9)
また、江戸城が最終的に完成するのは1636年(慶長13)である) 砂時計どこへも行けぬ時刻む 山口美千代
家康ー江戸を建てるー③
徳川家康がはじめて江戸入りしたのは、1590年(天正18)8月1日 のこと、江戸を建てる①でも述べたが、家康入国当時の江戸は、どこま
でも丈なす草原がつづく武蔵野の原野であった。 その草深い江戸は、関ヶ原の戦いで天下人の座を勝ち取った家康であっ
たが、はたして彼はこれほどの大都市に発展すると想像し得ただろうか。 16世紀末の江戸は、関東240万石の大大名である「徳川氏の居城」
としてはいかにも「みすぼらしい」ものであった。 よって家康は、文禄~慶長(1592-1615)にかけて、大名を総動員して
城郭の整備拡大と武家町、町人町の造成を進めた。 (また、この江戸城拡充工事によって、廓内や旧城門前にあった宝田村
千代田村、平河天神・山王社、神田明神・日輪寺といった寺院・神社を 周辺に移転させている) この大工事は、大名千石につき一人づつの増員、俗に「千石夫」と、呼
ばれた人夫たちが、江戸に集まり活況を呈し、江戸に繁栄をもたらした。 いわゆる「慶長の町割」である。 発想の煌めき脳は多面体 森井克子
高石垣の石積工事
「天下の江戸の城造り」 石垣工事は技術に優れている西国大名が担当した。
石垣を組むのも大変だが、巨石を伊豆から運ぶのも難事で、石船が大風
のため一度に数百隻も沈没したことがある。
これらの石高合計530万石にのぼり、10万石に付き、百人持ちの巨
石1120個を課せられた。 (福島正則の場合、4.982×1.120=5.580個となる) 3千艘の運搬船に1艘あたり2個積み、江戸と伊豆の海路を月2往復と 定められた。 もう石になったことさえわからない 竹内ゆみこ
「大名にキツイ負担」
いよいよ1603年(慶長8)、江戸の大改造・拡張工事がはじまった。
福島正則、浅野長政・加藤清正ら外様大名を中心に70家の大名がこの プロジェクトに参加した。 1606年(慶長11)3月1日からの江戸城の大修築には、将軍の住ま
いに、城を築くため、32の大名に普請が命じられた。 この事業は「天下普請」と呼ばれ、全国の大名には諸工事「御手伝普請」
が賦課された。おもに西日本の大名に対しては、千石夫といって、所領 千石につき人夫10人の労役供出が原則だったが、外様大名たちは幕府 への忠誠を競って、想定以上の人数を供出したので、4万人もの労働者 が集まったという。 まな板の平行根は沖である 清水すみれ
伊豆から石材が運ばれ、石高10万石につき100人持ちの巨石が11
20玉という基準で調達された。 幕府は、総額1万両あまりの補助を行ったが、人夫・水夫の賃金、食糧
などは自弁で準備しなければならず、動員された外様大名には、大きな 負担だった。 それでも大名たちは競うようにして自ら陣頭指揮に立ったという。
翌慶長12年には、5層6階の天主閣も完成。
江戸城は、将軍の住まいとする城としての体裁を整えた。
この時とばかり職人腕が鳴る 三輪幸子
百人持ちの石垣運搬用舟入堀
1606年(慶長11)月から築城石運搬船の造船、石切出場の調査、運 搬準備が行われた。賦役を課せられた主な西国の外様大名は、浅野幸長 (和歌山藩37万5千石)、福島正則(広島鞆藩49万8千2百石)、蜂須賀 至鎮(徳島藩25万7千石)、細川忠興(中津藩39万9千石)、黒田長政 (福岡藩52万3千石)、尼崎又次郎(堺の豪商ら運搬船100隻献上)で あった。 この波をやり過ごす三角すわり 三つ木もも花
石 曳 き
運搬船より江戸で陸揚げした巨石は、砂利道に蝦夷産の昆布を敷き詰め、 丸太を円滑に回転させて人力で運んだ。 これらの巨石は百人の人夫を必要としたことから百人石と呼ばれていた。 炎天下大八車鞭と馬 原 茂幸
石 材 の 切 出 し
石材の切出し方法は、寸法に見合う石の目を読める石工が墨壷でケガキ 線を入れ、その線に沿って石工がノミと玄翁で小さな箭穴(やあな)を 一定の間隔で穿つ。その箭穴に張り廻しでクサビを打込むと石が割れた。 それでも割れない場合は、樫の木の楔を打込み、水を入れて一晩置くと 木が水を含んで膨張し自然と割れる。 変身をじっと見ていた百度石 柳本恵子
日 本 橋 (民族博物館蔵)
家康の都市計画事業に伴い、水路を東に延長して架けられた。
「日本橋大拡張工事」
江戸は湿地帯が多く、早くから「埋立工事」が進められたが、駿河台か
らお茶の水に至る丘陵地、神田山を掘り崩して、砂洲や干潟等の低湿地 を埋め立て、浜町から新橋にかけての、町々となる広大な市街地を造成 した。 この工事では、城郭拡充用の水路を東に延長して、堀川(今の日本橋川)
を開き、橋が架けられ、自然に「日本橋」と呼ばれるようになった。
1604年(慶長9)この日本橋は、五街道の基点となり、ここから新
橋にかけて町屋(町人が住む街)が広がって、この界隈は物と人が集散 する経済の中心地となっていく。 あの橋は杭が一本足りません くんじろう
日本橋界隈に並ぶ商店 「日本橋界隈の風景」 上の日本橋図
日本橋は繁栄の象徴でもある。橋の左上には幕府の高札場があり、高札
を眺める人々がたむろし、橋の右下には魚河岸があって、船荷を下ろす 様子がいきいきと描かれている。 日本橋、日本橋高札場、小網町、江戸の町屋(本小田原町の魚店)、
江戸下町の河岸(米俵の荷揚げ)
幾つかの窓は希望であるらしい 中野六助
日本橋附近の魚市場
不意の客もてなす腕の見せどころ 竹尾佳代子
神田の町筋の商店街
左から竹屋、檜物屋(ひものや)、酒屋
箱は四角で一ミリも無い隙間 藤本鈴菜
品 川 宿 の 木 戸
幕府は治安維持のために大きな街道の分岐点に木戸を設けた。
この木戸は東海道を上下する人々を取り締まった。
跳ね橋をじぐざぐ帰る渡り鳥 藤本鈴菜
大 名 屋 敷
松平伊予守の屋敷ー 結城秀康の次男。徳川家康の孫・松平忠昌。 大坂の夏の陣において大坂城に越前軍として槍を片手に騎馬に跨り一番
乗りで突入した。もはや落城必至の大坂城だったが、その時、忠昌に、 大坂方の剣術の達人と伝わる「左太夫」という侍が襲いかかった。 忠昌の危機に越前家中の者5、6名が駆けつけて、後に笠持の高瀬某が 左太夫の腕を切り、忠昌を救出した。 左太夫は数人がかりでやっと討ち取られた、という話が伝わる。 好き勝手生きて迷惑掛けぬ意気 高橋太一郎
伊達家屋敷の正門前
外様大名の門構えー外桜田には松平陸奥守(伊達家)の御成門の前には、 門の豪華さに見とれる女性たちが描かれている。
隣の櫓門は松平長門守(毛利家)の屋敷である。
私の昔に興味無い他人 戴けいこ
外桜田門の上杉弾正の屋敷
大名の数は時代によって異なるが、大体260~270ぐらいの間を上
下していた。大名は、徳川氏との縁故によって親藩・譜代・外様に大別 されて、譜代・外様の大名は、城地の有無、領地の大小により国持・ 国持並・城持・城持並・無城の五階級に分かれていた。 国持とは、一国以上の大領地を持つ大名、国持並は、これに準ずる大名 であるが、必ずしも、一国以上の領有ということでなく、一種の格式で もあった。 城持は中級の大名で城地を構えるもの、城持並は、陣屋住いながら城持 大名の格式を許されたものである。 猫町の猫の額を分譲中 井上恵津子
「江戸図屏風に描かれた江戸のにぎわい」 京 橋 京 橋 日 比 谷 門 日 本 橋 ついでに名古屋のにぎわい a 源 太 夫 社 「名古屋城も建てた」 1609年(慶長14)家康は9男・義直のために、織田信長が若いころ
居城とした那古野城の地に、新しい城・名古屋城を築城することにした。
もちろん天下普請で行われ、西国の外様大名ら20家が指名された。
江戸の町普請からはじまって、江戸城築城に付き合わされるだけでも
大変なのに、度重なる課役に大名たちも不満がつのり、福島正則などは
「末っ子(義直)の城まで手伝わされるのはたまらん」
と、つい愚痴になる。
それを聞いた加藤清正が「大御所に謀反する踏ん切りがつかないのなら
まぁ黙って仕事をすることだな」とからかった。
諸大名は競って工事を急ぎ、慶長15年9月には概ね完成にこぎつけた。
規模は江戸城についで2番目の大きさ、金の鯱で知られる名城の完成である。
鵜匠に尋ねる働き方改革 赤松蛍子
【おまけ】
宇喜多秀家最期の言葉
江戸の町づくりが本格化した1603年(慶長8)、自首して出てきた
関ヶ原の敗将がいた。備中57万石の太守・宇喜多秀家である。 彼は少年のころから秀吉に可愛がられ養子になったぐらいで、五大老の
1人でもあった。
関ケ原に敗れ兵が四散した西軍の将のうち、無事に逃げ延びたただ1人
の男である。
伊吹山山中をさまよううち、落ち武者狩りの頭目・矢野五右衛門という
ものに救われた。
その後、密かに大坂に潜入した秀家は、船を雇って脱出に成功。
島津家に約3年間潜伏していたが、島津と家康の間に和議が成ったので
島津家にはいられなくなり、自首してでたのである。
1606年(慶長11)八丈島に流刑。
島での生活は苦しかったようで、偶然寄港した加藤清正の家来に、酒を 無心した逸話などが残っている。 実に50年の歳月を流刑囚として暮らし、1655年(明暦元)11月
20日、84歳で没した。 「八丈実記」によれば秀家の最期の言葉は「米の粥を食って死にたい」
だったという。
二日酔いするほど飲めぬ養命酒 月波与生 |
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