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川柳的逍遥 人の世の一家言
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僕が舞うダンスホールの名は地球  松田夕介






            呉 服 屋 駿 河 屋  (歌川豊春画/三重県総合博物館蔵)
田沼意次の政策により、消費拡大政策の推進や宿場町の活性化などによって、
商人文化の発展が顕著になった。





「江戸のニュース」
〔安永十年閏五月十八日 将軍家の養君に一橋家の豊千代が決まる〕
十代将軍・家治の世子の急逝に伴い、一橋治済(はるさだ)の長男・豊千代
家治の養君(将軍の跡継ぎとなる養子)となった。
豊千代は、十一月二日に家斉と改名。後に十一代将軍・徳川家斉となる。
この豊千代が、家治の養子となった流れだが、それは必ずしも自然なものでは
なかった。まず家治の世子の急逝だが、次期将軍と目されていた世子の家基
十八歳で、月に二度鷹狩りをするほど壮健だった。
それがいつものように、品川宿の先の新井宿のあたりに鷹狩りに出かけ、途中
の東海寺でえ休息中にわかに様子がおかしくなり、三日後に没している。
次いで豊千代の登場だが、これは、将軍に世嗣がない場合、養子を迎える家と
して田安家・一橋家・清水家の御三卿からとされていたことによる。
従って豊千代は、一橋家なので問題がないように見えるが、実は御三卿は平等
ではない。格としては田安家・一橋家・清水家の順だった。
となると、田安家から養子を迎えるのが自然の流れだが、田安家の当主・治察
(はるあき)は、二十三歳の若さで没し、弟の定国は伊予松山藩主・松平定静
(さだきよ)の養子に、弟の定信は奥州白河藩主・松平定邦の養子にといった
具合に既に他家に片付いていた。
ならば、田安家に次ぐ一橋家からとして、豊千代が迎えられたわけだが、この
田安家の二人が先行して他家の養子になった経緯も、自然なものではなかった。





スカートをめくって走るつむじ風  森 茂俊





                      徳 川 家 基 肖 像 画




「江戸のニュース」 
第二報ー家基急死に関しての疑惑。
天明元年(1779)二月二十一日、家基は供の者を連れて江戸近郊の新井宿へ鷹狩り
に出掛け、東海寺でひと休みしている時、急に腹痛に襲われた。
同行していた田沼意次の息のかかった奥医師・池原雲伯が煎じた薬湯を服用した
が、痛みが治まらず、急遽、江戸城西の丸へ帰った。驚いた父家治は、医師の手
厚い治療を受けさせたが、その甲斐もなく、二月二十四日に急逝した。十八歳で
あった。
一橋治済は、田沼意次と結託して、わが子家斉を将軍に就けたいという野望を持
っており、雲伯が意次の謀略を受けて毒殺させたのではないかという噂が流れた。
真偽のほどは詳らかではないが、常日頃たいへん元気だった家基の死があまりに
も突然のため、さまざまな憶測を生んだ。
これら一連の不自然な流れを密かに練ったのは、豊千代の父・治済ではないかと
疑われているが、確証はない。だが現実に、十一代将軍の家斉から十四代までの
将軍はすべて、治済の子孫が就いているも根拠となっている。




バターでは修正箇所は溶けません  きゅういち




蔦屋重三郎ー江戸のニュース 田沼時代






 
                                    田 沼 意 次 肖 像 画




「足軽あがり風情」
これは「べらぼう」で賢丸 (後の松平定信)が田沼意次をののしった言葉である。
意次の父・意行紀州藩の足軽に過ぎなかったが、主君・徳川吉宗の奥小姓に登用
された。その後、吉宗が八代将軍に就くと、意行も吉宗に従って江戸へのぼり、
幕府の旗本に登用された。そこで意行は吉宗に重用され、小姓から小納戸頭取に
昇進、家禄も三百俵から始まり、のちには六百石の知行地を与えられた。
意次が意行の長男に生まれたのは、既に父が旗本になっていた享保4年(1719)の
こと、14歳のときに吉宗に御目見えして田沼家の跡取りと認められ、16歳で
吉宗の世嗣・家重の小姓となり、父とは別に三百俵の禄が与えられた。
将軍世嗣の小姓になるということは、将来の栄達を約束されたも同然。とはいえ
少年だったので、意次の能力が買われたというより、吉宗に重用された父・意行
のお陰だった。そんな父が享保19年に没し、翌年、意次は17歳で家督を継承
した。





ニュートンの目の前落下したリンゴ  前中一晃






              『黒白水鏡』 (石部琴好作・北尾政演画)
一部の町人を取り込みながら、江戸を中心として文人趣味のサロンやネット
ワークを生み出すことになる。宝暦年間以降になると、政治・社会も文化的
に寛容。新たな文化が江戸から地方へと広がるようになった。



それから10年後の延享2年 (1745)に家重が、九代将軍になると、意次は小姓
組番頭にのぼり、禄高も六百石から二千石となり、宝暦元年 (1751)には、御用
取次に抜擢された。有能な官僚で、家重の覚えもめでたかったのだろう。
さらに凄いのは、家重が引退した後も、新将軍・家治のもとで、そのまま御用
取次として仕え続けたことだ。
(将軍の代替わりに側近は職を免じられるのが通例)
実は意次の措置は家重の意志だった。宝暦11年 (1761)大御所となった家重は
死去するが、その際、家治「田沼は正直で律儀な者なので、彼を重く用いる
ように」と遺言したといわれる。
このため家治は、意次を側用人、さらには老中に抜擢して、政治を一任、意次
の領地・相良藩も最終的に5万7千石に増えた。




スタートを切る一直線に桜  福尾圭司






            囲碁に興じる女
意次は、文化振興にも熱心で、茶の湯や歌、乱舞などの芸能を奨励し、
詰将棋の作成にも取り組んでいる。




「江戸のニュース」
〔家治の将軍就任で、田沼意次が台頭。「田沼時代」の足がかりに〕
十代将軍・家治は、政治にはほとんど関心を払わず、もっぱら画業の技を磨くこ
とに熱中したので、九代家重のもとで、実質的な側用人となっていた田沼意次
とんとん拍子の出世が本格的に始まったのがこの年だった。
四月一日、まだ五十歳だった九代将軍・家重が引退を宣言。それを見届けるよう
に家重の第一の側近であった大岡忠光が四月二十六日に五十二歳で死去。
五月十三日に、家治が西の丸から本丸へと移って徳川家当主の座に就き、その後
九月二日に将軍就任式を済ませた。
この時の老中筆頭は、松平武元で、他、老中には酒井忠寄らもいたが、新将軍の
家治は、まだ二十四歳だった。家治は父の家重が重用していた側近の相談相手と
したため、その後の田沼の台頭が著しくなったもの。
こうして田沼は、明和四年 (1767) に側用人、安永三年 (1774) には側用人と老
中を兼任して三万石に加増され、名実ともに「田沼時代」を確実なものにして
いった。




風を切る肩に一片のはなびら  下谷憲子






                          身 体 買 帳 略 縁 起  (東洋文庫蔵本)

珍妙な開帳を描いた本作の内容にふさわしく、春らしく桜咲き匂う
中に開帳を告げる案内の立札と提灯とがある境内を図案化している。
町人文化花開くなかで宣伝・広告効果を狙った。






    家治に謁見する御側用人田沼意次





「田沼意次、幕府の強力な実権を握る」
側用人となった明和4年 (1767) 頃から天明6年(1786)までの、凡そ20年間、
田沼意次は幕府の実権を握る握ることになった。
なぜ意次は、これほどの長期政権を打ち立てることができたのだろか。それは、
「表の幕府職制の頂点である<老中>と、中奥の役人の頂点である<側用人>を
兼ねたことにある」と、研究者の藤田覚氏が指摘する。
どういうことかというと------、
老中は幕府の政策を立案し、執行する責任者である。将軍は老中からその可否を
問われ、側用人や御用取次に補佐されて、決定を下す。
老中と側用人や御用取次を兼ねるということは、「政策の立案・執行の責任者と
将軍の判断を補佐する役割を同一人が、行うことになるのだ」





茶柱が二つ立ったと除く朝  岡村たかし






                                  『潮干しのつと』
田沼意次が活躍した時代は宝暦・天明文化と呼ばれ、浮世絵は規制されたが、
春信や歌麿・写楽ら天才浮世絵師が生んだ





意次は幕府の強力な実権を握った、とは…。つまり、
「将軍が独自に政策や人事を実現したいと考えた場合、その相談に預かり将軍の
 意思を伝達する側用人や御用取次の役割と、それを執行する老中の役割を同一
 人が務めることになる。将軍の意思の体現者と執行の責任者が同一人が務める
 ことになる…なのである」要するに「意次という人物による表と中奥の一体化
 といった、特異な状況が生まれた」というわけだ。さらに
「将軍の権力が強化されてきた状況に、将軍家治が幕府政治に積極的に関わろう
 としなかったことが重なって、意次の権勢は空前の強さになった」のである。
さらに意次は、幕政に隠然たる力を持つ大奥も手中に収めた。




三日月に思い巡らすステンドグラス  靏田寿子






           南 鐐 二 朱 銀

新しい銀貨「南鐐二朱銀」の発行。意次は全国的に商業を活性化させるため、
西日本と東日本の貨幣制度の統一を目指した。


その権力の元で、田沼意次のとった政策は、悪化する幕府財政の立て直しを図
るため、農業主義だった政策から、「重商主義」の政策へと転換した。 
株仲間、専売制、外国との貿易の拡大等、商業の発展のみでなく、鉱山や水田
の開発など、社会資本整備も行い、財政は改善されていった。
すなわち意次の政策は、幕府財政を改善されたばかりではなく、商人にとって
の恩恵となり、民間の学問、文化・芸術が多様な発展を遂げたのである。
景気が回復してゆく田沼時代の20年間は、その時を見落とさず、タイミング
よく起業した蔦屋重三郎の先見力と決断力が幸運をもたらしといえる。
だが、権力が強大になれば、やっかみや恨み、誹謗中傷も生まれてくる。





同じ物食べても意見の喰い違い  ふじのひろし






 『縮地千里』に描かれた賄賂の横行を風刺する挿絵

『古今百代草叢書』 「この虫 常は丸の内にはい廻る 皆人 銭出せ金出せ 
 まいないつぶれといふ」と書いてある。 下は『続淡海』





「田沼意次の人間像」
田沼意次は賄賂にまみれた汚職政治家だったのか------
田沼意次に対する従来の評価は、あまり芳しいものではなかった。
「権力を握った意次の屋敷には、大勢の客人が連日高価な贈答品を持って訪れ、
客間は人々であふれていた」(松浦静山『甲子夜話』)とか、
意次が日本橋稲荷堀に下屋敷を新築した際に、
「庭の泉水に魚を入れたらさぞ面白かろう」と呟いたところ、
「その日の夕方までに諸大名から続々と鮒や鯉が贈られ、池は魚が群れていた」
という揶揄がある。
こうしたことから1974年(昭和50年)の歴史教科書では、
「意次は、賄賂を取ったりしたので、非難された」
「意次は、賄賂による役職の売買などを非難されて失脚した」などと、
1993年の『高校日本史』に表記されていた。




黄信号乗り越え日々を愛しんで  門村幸子





しかし2022年以降のの教科書には、
「意次の政策は、商人の力を利用しながら、幕府財政を思い切って改善しようと
するものであり、これに刺激を受けて、民間の学問・文化・芸術が多様な発展を
遂げた。一方で幕府役人の間で賄賂や縁故による人事が横行するなど、武士本来
の士風退廃させたとする批判が強まった」(評説日本史B)
すなわち、意次の政策により賄賂が横行するようになったと書かれているが、
意次自身が賄賂を受け取って非難されたとは書かれていない。
むしろ意次の政策を評価している。
実は意次が、「賄賂政治家」だという説はかなり疑わしいのだ。
賄賂話の出所を探ってみると、松浦静山など意次の政敵・松平定信一派が発信
していたり、誰彼問わずに悪口を言う人物が書いていたりする。




朝一番うれい線を揉みほぐす  合田瑠美子






      鷹狩りを楽しむ家基



「べらぼう15話あらすじ ちょいかじり」
将軍家治(眞島秀和)の嫡男・家基(奥智哉)が急逝したことにより、
江戸の空気が一変した------。
家治は家基の死の真相を解明するため、田沼意次松平武元に調査を命じた。
一方で、意次(渡辺謙)は、蝦夷の話を持ち掛けてきた源内東作(木村了)に、
ある任務を託す。




三月に革命ありて水たまり  前中知栄

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