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川柳的逍遥 人の世の一家言
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順調に落ちて行きます砂時計  西陣五朗






                             「見立て蓬莱」

見立て蓬莱とは、不老不死の霊山・蓬莱山に見立てて、遊郭や芸者などを表現
する際に使われる表現であり、遊郭を蓬莱山(桃源郷)、芸者を仙女に見立て
て、楽しい時間の中で朝になれば夢から覚めるというストーリーを表現する。





       平 賀 源 内    (安田顕)





「べらぼう16話 あらすじ・ちょいかみ」
ある朝、源内は異様な光景とともに目を覚ます。
手には血の付いた刀、そして目の前には血を流して倒れる久五郎-----
何が起こったのかまるで思い出せない。昨夜の出来事を振り返ろうとするも、
記憶は霧がかかったように曖昧で、自分が何をしたのか皆目わからなのだ。
奉行所に捉えられた源内は、何度も「自分には覚えがない」と訴えるが。




不条理もあったと思う人間味  津田照子





事件の前夜、丈右衛門と共に酒席を囲んだことは確かだが、源内は下戸で酒は
飲んでおらず、久五郎から渡された煙草を吸っただけだった。
とこおが、その煙草を深く吸い込んだ途端、どこからともなく人々の非難の声
が聞こえ始め、姿の見えない声に追い詰められるうちに意識を失ってしまった。
目が覚めた時には、血まみれの久五郎が倒れていたのである。
「俺は何をしたんだ…」
そう呟く源内の手を、意次はしっかりと握り、言葉をかける。
「夢ではない。俺はここにいる」
-----この一言に、源内は瞳を濡らすのだった。
-----源内の無実を信じる者たちは、最後まであきらめなかった。
続きは、20日の大河ドラマにてどうぞ…。




菩提寺の大銀杏から哀が降る  小島蘭幸






           平 賀 源 内



蔦屋重三郎ー江戸の奇才・平賀源内の生涯





「江戸の奇才・源内」
平賀源内、享保13年(1728)高松藩の御蔵番の子として生まれる。
発明の才に富み、洒脱の気風があった源内は、エレキテルの復元、燃えない布
火浣布(かかんぷ)や量程器(万歩計)、磁針器等、多くの発明をした。
その他にも、本草学者として物産会を開催したり、人気作家として戯作浄瑠璃
作品を発表したり、西洋画や源内焼を広めたりと天才的な業績を残している。
そんな源内のことを、田沼意次は、大変気に入っていたといわれる。
田沼は、源内をオランダ商人のいる出島に遊学させたこともあった。
ところが、源内が殺人事件を起こしたため、田沼は彼とのつながりを全面的に
否定せざるをえなかった。もし源内が殺人事件を起こしていなければ、田沼は
「蝦夷地開発」の責任者を源内にやらせただろう、とも言われている。




毛生え薬つけたひよこの毛が生えた  くんじろう




安永初年(1772)40代半ばに達した頃の源内先生といえば、江戸でも一、二
を争う切れ者の本草学者(植物学者)。
西に東にと飛び回る凄腕の山師 。
次々にベストセラーを出す人気戯作者。
最新の西洋絵画を伝える気鋭の絵師、陶器から羅紗までを扱う産業技術家。
と、四方八方に大活躍だった。
「近頃江戸に流行る者、猿之助、志道軒、源内先生」というわけである。
とのもかくにも源内は、自他ともに認める天才で、自信家で、やけに鼻っ柱が
強く、すぐに大風呂敷を広げる。『根南志具佐ねなしぐさ』、『風流志道軒伝』
などの戯作では、聖職者、医者から学者、庶民の男女まで、手当たり次第にこき
下ろす。鼻持ちならない野郎のはずだが、その割に源内は人には嫌われなかった。




すこしおだてると膨らむ畳  酒井かがり




「平賀源内の生涯 年譜から」
0歳~、 享保13年(1728)白石良房の三男として生まれる。
平賀の姓は、戦国時代に武田信虎によって滅びたが、源内の代で姓を白石から
平賀に復姓したと伝わる。幼年期から工作したり壊したりすることが好きで、
将来の文芸活動に繋がることにも趣味を持った。
13歳~、本草学を学び、儒学を学ぶ。
21歳の時、父の死により後役として藩の蔵番となる。
24歳の頃、1年間長崎へ遊学。蔵番という低い身分だが長崎遊学できたのは、
本草学・物産学を好む高松藩主松平頼恭の「内命」があったとされる、源内の
知能に期待するものがあったのだろう。
そこで源内は、本草学とオランダ語、医学、油絵などを学んだとされる。
26歳、病気を理由にして藩に蔵番退役願を提出し、妹に婿養子を迎えさせて家督
を妹婿に譲っている。
27歳、量程器(万歩計)や磁針器(方角を測る器具)を製作する。
28歳、江戸に下って本草学者・田村元雄に弟子入りして本草学を学び、また漢学
を習得するために林家にも入門して聖堂に寄宿する。
2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学ぶ。




そわそわとさせるひと日の好奇心  宮原せつ






        『物類品隲』(ぶつるいひんしつ) (平賀源内著1763年刊)
開催した物産会の主要な出品物を紹介した物類品





            名古屋の物産会の模様





物産会
(薬品会、本草会、博物会とも)は、舶来品含む各地の産物を展示した、
今まさに開催中の万国博覧会の先駆である。江戸・大坂・京都・名古屋など各地
で開催された。1762年(宝暦12)に源内の主催のもと、江戸湯島天神前の京屋久
兵衛宅で開かれた「第五回・東都薬品会」は、特に大規模な物産会となり、日本
各地から約1300点の出品があった。





ベランダで狭い宇宙を愛でている  奥山節子






        平 賀 源 内 肖 像
『里のをだまき評』挿絵より




29歳、日本最初の物産会(薬種・物産を展示する会)を発案。
31歳、高松藩は医術修業という名目で源内を再雇用する。
33歳、再び辞職して江戸へ。以後、役職なく風来坊となるが、伊豆で鉱床を発見
し、産物のブローカーなども行い、物産会をたびたび開催した。
このニュースにより幕府老中の田沼意次にも知られるところとなる。
34歳、物産会を度々行うことによって知名度も上がり、杉田玄白や中川淳庵らと
交友がはじまる。
35歳、オランダ博物学に関心をもち、洋書の入手に専念するが、源内は語学の
知識がなく、オランダ通詞に読み分けさせて読解に務める。
文芸活動も行い、談義本の類を執筆する。
38歳、川越藩秩父大滝の中津川で鉱山開発を行い石綿などを発見。
秩父における炭焼、荒川通船工事の指導なども行う。
43歳、出羽秋田藩主の佐竹義敦に鉱山開発の指導を行う
秋田藩士小田野直武には、蘭画の技法を伝える。
上桧木内では、子供たちに熱気球の原理を応用した遊びを教えたとされる。





黄色さえ塗ればキリンに見えるはず  竹内ゆみこ



『先哲像伝 詞林部伝』内「平賀鳩渓肖像」(桂川月池老人作)
月池の号は桂川甫周と弟森島中良の両人が使っており、ここではどちらなのか
不明だが、二人とも平賀源内と面識があり、この絵は源内の姿を伝えていると
いう説がある



46歳、蔦屋重三郎の依頼で吉原細見『細見嗚呼御江戸』を執筆。
48歳、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元する。
話題となったエレキテルを高級見せ物にすることにより謝礼を貰い生活費とし、
余興まで加えて、見物客の誘致に努めた。
鉱山開発の指導や戯作・浄瑠璃まで書き散らした文芸活動も生活費を稼ぐため
にやった。だが秩父鉱山は挫折し、憤激と自棄、(門人・師平秩東作の評)の
つのる中で多くの戯文を弄すも、生活は荒れた。経済状況も悪化し、
50歳になり、「功ならず名ばかりげて年暮ぬ」という一句を詠んだ。




しあわせになろうと磨く鍋の底   樫村日華





51歳の夏、橋本町の邸へ移る。
11月20日夜、神田の源内宅に門人の久五郎と友人の丈右衛門が止宿していたが、
明け方に彼らは「口論」となり源内は抜刀。
両人に手傷を負わせ、久五郎は傷がもとで死去。
源内はこの事件が起こる前から、よく癇癪を起こしていたとされる
(源内による殺傷事件の内容については諸説あり)
翌21日に投獄され、12月18日に破傷風により獄死。享年52歳だった。

 国益増進を唱えながら、封建社会の壁に遮られ、世に迎えられず、安永8年
(1779)12月18日、江戸の獄中で、辞世の句ともいえる一句を残した。
  ”乾坤の手をちぢめたる氷かな”




黄信号乗り越え日々を愛しんで  門倉幸子







        平 賀 源 内 肖 像
『天狗髑髏鑑定縁起』の挿絵より



獄死した源内の遺体を引き取ったのは平秩東作ともされている。
杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体も
ないままの葬儀となった。ただし晩年については諸説あり、大名屋敷の修理を請け
負った際に酔っていたために、修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の秋田屋九
五郎ら棟梁二人を殺傷したとも。
後年に逃げ延びて書類としては死亡したままで田沼意次ないしは故郷・高松藩
(旧主である高松松平家)の庇護下に置かれて天寿を全うしたとも伝えられるが、
いずれも詳細は不明。




傷口を優しく隠す夜の闇  蟹口和枝





    『源内肖像』「鳩渓平賀国倫  風来山人」





杉田玄白は源内を讃える「処士鳩渓墓碑銘」を書いている。
「嗟非常人 好非常事 行是非常 何非常死 」
(ああ非常の人、非常の事を好み、行いこれ非常、何ぞ非常に死するや)
(ああ、何と変わった人よ、好みも行いも常識を超えていた。どうして死に様まで
    非常だったのか)





黄昏れて一本道となる夕日  山田こいし





          「平 賀 源 内 肖 像」
『里のをだまき評』の挿絵より




「源内の業績とエピソード」
 天才または異才の人と称される。鎖国を行っていた当時の日本で蘭学者と
  して、油絵鉱山開発など外国の文化・技術を紹介した。
 文学者としても戯作の開祖とされ、人形浄瑠璃などに多くの作品を残した。
③ 源内焼などの焼き物を作成したりするなど、多彩な分野で活躍した。
 安永5年(1776年)には、長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を
  修理して復元する。話題のエレキテルを高級見せ物にすることにより謝礼を
  貰い生活費とし、余興まで加えて見物客の誘致に努めたともいわれる。
 男色家であったため、生涯にわたって妻帯せず、歌舞伎役者らを贔屓にして
  愛したという。特に、二代目瀬川菊之丞(瀬川路考)との仲は有名である。
  晩年の殺傷事件も、男色に関するものが起因していたともされる。





アルバムの苦いページは見返さぬ  橋倉久美子






         『解 體 新 書 』 

(キュルムス著   国立国会図書館蔵)



⑥ 『解体新書』を翻訳した杉田玄白をはじめ、当時の蘭学者の間に源内の盛名は
   広く知られていた。玄白の回想録である『蘭学事始』は、源内との対話に
   一章を割いている。源内の墓碑銘を記したのも玄白である。
 発明家としての業績には、オランダ製の静電気発生装置・エレキテルの紹介、
  火浣布の開発がある。
 気球や電気の研究なども実用化寸前までこぎ着けていたといわれる。
 土用の丑の日にウナギを食べる風習は、源内が発祥との説がある。
  この通説は、土用の丑の日の由来としても、平賀源内の業績としても、最も知
  られたもののひとつだが…。(根拠となる一次資料や著作は存在していない)





衣替クローゼットは無季俳句  井上恵津子

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