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川柳的逍遥 人の世の一家言
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水ゴクリ危ない啖呵きりに行く  美馬りゅうこ


   真田昌幸

「油断がならない者」

混乱の中で、沼田城や岩櫃城を滝川から取り戻した真田昌幸は、

以後、自分自身を取り巻く情勢を的確に読み、

大大名を手玉にとって独立大名の地位へと躍進する。

この混乱を振り返ってみると、まず煮え湯を飲まされたのが北条であった。

信長横死後、北信濃を窺う上杉に従属した昌幸は、

7月中旬に
北条の大軍が信濃に侵攻してくると、

上杉から離れて北条に従う。


とりあえず醤油をかけて様子見る  竹内ゆみこ

しかし、昌幸は次の一手をすかさず打つ。

北条が上杉に挑まず、徳川と対峙すべく南に転進すると、

昌幸は上杉への備えを主張して信州小県に残留。

一見、北条の後顧の憂いを除く提案である。

しかし、昌幸の思惑は別にあった。

すなわち昌幸は独立に向けて自然な形で北条と距離を置いたのである。

そして北条と徳川が対峙すると徳川家康は、

昌幸の存在を奇貨として陣営に
誘い、昌幸はこれを受けて

北条から徳川へと鞍替えして、
北条の兵站を遮断する。

両面のテープもいつか風化する  高島啓子


  天正壬午の乱 (六文銭に対し北条の大軍の幟がはためく)

北条氏直にすれば見事に昌幸に急所を衝かれた格好で、

結果、形勢不利となり信濃からの撤退を余儀なくされた。

天正壬午の乱のキャスティングボートは、

正に真田が握っていたのである。


巧みに真田を取り込んだと思われた家康ですら、

実は掌の上で転がされているに過ぎなかった。

まず昌幸は家康に越後の上杉の脅威を訴え、

徳川の前面支援を受けて尼ヶ淵に築いた新城が上田城であった。

後に二度も徳川撃退の舞台となる上田城を昌幸は実は、

家康を利用して築いていたのだ。

手首から先は鴎になりたがる  八上桐子

ところが問題が起きる。

家康は北条との和睦の際、真田の沼田城の引渡しを勝手に約束していた。

しかし昌幸は断固としてこれを拒否。

家康は自分に従わぬ昌幸を亡き者にすべく信濃の国衆・室賀正武を使って

暗殺を試みるが、事前に計画を察知した昌幸は逆に室賀を討ち取った。

家康と断交間近と読んだ昌幸が新たな帰属先に選んだのが、

これまで対立を重ねてきた上杉景勝であった。

この時、真田が上杉と結びつくために差し出した人質が信繁である。

あの「うん」がこんな結果になるなんて 佐藤美はる



話は天正14年へととぶが、信濃の小さな大名に過ぎない真田氏が

東国で角逐する徳川・北条・上杉といった大大名を振り回していることを

秀吉もよく承知しており、天下統一のため、東国の支配秩序確立のために、

大大名優先の策をとった。

その一環として、家康と昌幸との懸案になっていた沼田・吾妻領問題で、

家康に味方し、真田氏討伐さえ許可するとともに、

真田氏の後ろ盾になっている景勝にも、

真田方の肩入れしないように牽制した。
     ひょうりひきょう
それが『表裏比興の者』という有名な文言である。

人だから人を欺くこともある  大海幸生

「真田事…表裏比興の者に候間、成敗を加えらるべき旨、仰せ出され候」

と昌幸名指しで非難し、成敗を加えてもよいと伝えている。

「表裏比興」とは裏表があって卑怯であり、信用できない人物という意味。

まさに悪名といってよいが、逆にいえば、

昌幸の油断ならぬ器量を秀吉が認めていたともいえる。

実際、家康の真田氏成敗は実施されず、

むしろ、真田氏を家康の与力大名に組み入れることで決着したのである。

有様もあらざるものも現世  山口ろっぱ

その後、北条と真田との沼田領分割問題でも、

秀吉は北条に有利な裁定を下したが、北条がその裁定に従わず、

真田方の名胡桃を奪ったため、一転して北条氏が成敗されることになった。

秀吉は一方の当事者である真田を前田利家、上杉景勝の北陸勢に

組み入れ、上州口からの侵攻にあたらせた。

秀吉の目指す東国平定で、真田はあくまで副次的な存在でしかなかったが、

徳川・上杉・北条といった大大名を服属させるうえで、

道具にも阻害物にもなった厄介な存在であった。

修正へ吹きこぼれるを待っている  山本早苗

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えび芋の素質を棒鱈にたくす  田中博造


  矢沢頼綱
真田幸隆の弟。甥・昌幸の補佐役として活躍し、合戦では別働隊を率いた。
名胡桃城(なぐるみじょう)攻め、小川城攻めにも参戦。
天正8年から沼田城城代を務め、天正壬午の乱では北条から守り抜いた。
また天正13年の第一次上田合戦では徳川家康が上田城を攻めた際、
まず上杉景勝に援軍を求めたのが頼綱であった。
なお子の頼康も後の大坂冬の陣で信之の息子を助けるなどの奮戦をした。

不器用な分だけひたむきに生きる  須磨活恵


虚空蔵山城跡(こくぞうさんじょう)

鎌倉初期、小県郡の海野氏を祖とする会田氏の城。
会田氏は、麓の会田殿村に居館を置き、虚空蔵山の中腹に中の陣城や
秋吉砦などを配し、山頂には物見の砦などを設け、要害城とした。
真田の六文銭の家紋はもともと、海野氏の家紋だった。


「天正11年から12年」

北条氏直は甲斐・信濃における徳川家康の優先権を認め、

上野の切り取りを10月末に得ることで徳川方と講和を結んだ。

ここに「天正壬午の乱」は幕を閉じたが、

真田昌幸の戦いはこれで終わったわけではない。

天正11年(1583)3月、昌幸は小県の西の入口にあたる「虚空蔵山」

上杉勢を攻め、翌月甲斐の甲府に在陣中の家康に出仕した。

そこで昌幸は、上杉防衛の重要さを訴えたと思われる。

上田城築城がはじまったのだ。

やって来るいちばんずるい角度から  八上桐子

4月13日、昌幸の上田築城を知った上杉景勝は、
           あまがふち
「真田、海土淵(尼ヶ淵)取り立つるの由に候条、追い払うべき」

と阻止命令を下す。

海土淵というのは、上田城の直下を流れる千曲川の河畔の名だが、

そこに大量の兵を集められる城を築くことこそ肝要、

と昌幸は家康を説得し築城の許可を得たのだろう。

当初の上田城は東に大手を向け単純な方形の本丸を一重の堀で囲み、

その周囲は河川や沼を自然の外堀とした単純なものだったが、

それでも大軍の集結には十分な広さを持ち、

とりあえず翌年には粗粗完成したという。

突然の軟化へ裏が読みきれぬ  有田晴子


    沼田城図

北条との手切れ後、昌幸は沼田城に入っていた北条勢を追い払って

城を取り戻していたが、6月7日、矢沢頼綱を沼田城守備につかせる。

真田氏は徳川傘下で上田と沼田二つの大城を東西に持つ大勢力となった。

散るために咲いてまた散るくり返し  安土里恵

天正12年3月、織田信雄・徳川家康の連合軍は羽柴秀吉
かんか
干戈を交えることとなる。

その際、家康は北条にも援軍を求めている。

この時に棚上げとなっていた沼田城問題が話し合われた。

西に大兵力を待機させねばならない家康は、

北条側から条件履行を迫られるとこれを拒否できなかった。

そして北条への譲歩として家康は昌幸に沼田割譲を内々に打診した。

しかし昌幸は、「沼田は自らの力で切り取った領地、

家康殿から北条へ渡せと指図されるいわれはない」と突っぱねた。

6月家康は、室賀正武に昌幸謀殺を命じる。

「はかりごとを以って真田を討つべし」

歯ぎしりが聞こえる鳴き砂を踏んで  和田洋子

正武は上田近くの国人領主で、かって昌幸に敵対したあと

随身した人物だったが、「昌幸暗殺計画」を知った昌幸は、

逆に正武をだまし上田城に招いて暗殺する。

「近いうちに家康とは手切れになるだろう」

先を読んだ昌幸は、上杉軍に備えるという名目で新築した上田城に

本拠を移し、徳川と敵対したのであった。

その髭に触れたらきっと感電死  安土里恵

かといって、単独では「徳川・北条同盟」に対決できない。

昌幸は一転して、それまで敵対していた上杉景勝を頼ることにした。

景勝にしてみれば、

信州進出ではたびたび苦杯をなめさせられた昌幸は
なんとも

小癪で目障りな存在だったが、服属してくれれば、逆に、

上杉方勢力が小県まで伸び、徳川方に突きつけた匕首となると考えた。

景勝は昌幸に「九か条の起請文」を与えた。

本領安堵のほか、佐久郡や甲州の一部を新地として与えることを

確約するとともに徳川や北条が攻めてきたら、

上田だけでなく沼田、吾妻まで援軍を送ると約束している。

虫好かぬ奴だが敵に回せない  上田 仁

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石投げて心に雨が降り止まぬ  上田 仁



「春日信達」

春日信達は、武田信玄を支えた重臣で信濃・梅津城の城代を務めた

香坂(高坂)弾正の二男。

兄が「長篠の戦い」で戦死したため、父亡きのち、家督を継ぐ。

主に上杉家との外交役で活躍し、上杉家と武田家の同盟に貢献。

武田家滅亡後、織田家家臣・森長可に仕える。

その後仕えた織田が信濃から撤退し、


途方にくれていた時に、上杉景勝に拾われて上杉家中となる。

景勝に恩義を感じているが、上杉家の処遇には不満があった。

その後、昌幸の意向を受けた真田信尹信繁の調略により、

北条方へ寝返るが、上杉家に発覚して誅殺される。

実際は誅殺というより、昌幸が信達を裏切り者に仕立てた謀殺であった。

信繁が良心の呵責を感じようと、謀略に加担したことに変わりはない。

信繁の心中には父・昌幸に対するわだかまりが残った。

七草に一つ足りない寒さかな  山本早苗



「直江兼続」

上杉景勝の実家・上田長尾家の家臣・樋口兼豊の長男。

景勝が家督を継いだのち、名門・直江家の婿養子となり家督を継ぎ、

与板城主となる。

景勝の重臣として内政・外交両面で辣腕をふるう。

織田信長の没後、各地で勢力争いが始まると、有力大名を天秤にかけて

生き残りを図る真田昌幸を警戒し、又人質として来た信繁の真意を測った。

彼は優れた武将であると同時に、詩歌や書物を好んだ文人であった。

さらに民政にも並々ならぬ才を発揮。 

まさに、知勇兼備の人であった。

梟は悟りの闇を直視する  有田一央

上杉家は、「関が原の戦い」で西軍敗北の報を受け、

撤退を余儀なくされたとき、
兼続は冷静に指揮をとり、

被害を最小限に抑えて次の手を講じた。


家康に歯向かった上杉家は、これまでの4分の1となる米沢30万石に

減封されたが、改易には至らず、減封だけで済んだ背景には、

兼続の政治工作があった。

兼続は一国の大名にひけをとらない知勇を持ちながら、

上杉景勝を生涯ただ一人の君主とし、政治経済、軍事すべての面で支え、

己の人生を捧げた。

焦げても焦げても紅鮭のムニエル  井上一筒

 
  太鼓門(本丸への正門)    水堀と本丸南東端櫓台


「海津城~松代城」

甲州流築城の模範になったといわれる名城・梅津城は、

永禄3年(1560)武田信玄によって築かれ、

高坂昌信(春日虎綱)を城代とした。

この虎綱の次男として生まれたのが信達である。

川中島平全体をにらむ、戦略的に重要な地点にあり、

三方を山に囲まれ、西は南北に流れる千曲川という自然の地形を利用

激戦となった第4回川中島合戦では、信玄がここを基地として出撃する。

『甲陽軍鑑』によると、上杉謙信との合戦に備えて信玄は築城を急ぎ、

山本勘助80日で普請したという。

戦争を直訳すれば人殺し  三村 舞

天正10年、武田氏滅亡後に森長可が城主となったが、

信長が本能寺に斃れると上杉景勝の支配するところなり、

天正12年に須田満親が城代となった。

慶長3年、上杉景勝の会津移封によりこの地は秀吉直轄地となるが、

慶長5年の「関ヶ原の合戦」前に森忠政が城主となった。 

忠政は、関ヶ原の戦功により美作津山に移り、

慶長8年に家康の六男・松平忠輝が城主となった。 

松平忠輝改易後、甥の松平忠昌が城主となるが、

元和5年に越後高田へ移り、交替に酒井忠勝が10万石で入封する。

とつとつと雨にどうでもよい話  前中知栄

それから3年、元和8年(1622)10月、

真田信之は信州上田から江戸に呼び出されて


松代(梅津)へのを転封を命じられる。

突然の命令である。

信之には意外以上に不満であった。

上田は父祖伝来の地である。

しかも上田城は父・昌幸の作品でもある。

大阪の陣の結末以後からずっと、城代として信之が守る城である。


家臣団も不満を顕にした。

だが幕府の命令には従わねばならない。

黙祷の体が少し揺れている  青砥たかこ

転封といっても松代は、上田から峠ひとつ越えただけの隣藩。

「善光寺や姥捨といった名所も領内にあり、

   信濃の中心地である場所を
所領としたのだ」

と前向きに捉えるように、と家臣団に諭した。


しかも松代の前身は、武田信玄山本勘助に築かせ、

「川中島合戦」の主要地でもあった「海津城」である。

こうした経過から実は幕府は、松代はきわめて重要な場所としていた。

そこで3万5千石を加増され、これで信之は13万石になった。

この後、真田家は明治まで松代を支配しつづける。

なんでやねん手の平が少し湿っている  酒井かがり

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ブリキで固めた嘘は立方体  山本早苗


北条・上杉・徳川と真田家をめぐる情勢

織田政権崩壊後、東国の支配秩序は流動的になり、
北条、上杉、徳川による勢力拡大の場と化した。
この「天正壬午の乱」とよばれる混乱の中、昌幸は巧みな動きをみせる。
昌幸は小県郡争奪争いの有力大名には逆らわず、主家を上杉氏、
北条氏と替え、身の安全に徹しながら、甲斐に徳川氏が現れると、
徳川に従属して生き残りを策したのである。

「信濃混沌」

天正10年6月20日、滝川一益は上野を去る際、

真田昌幸に沼田城を返還していたが、昌幸は叔父の矢沢頼綱

沼田城代を命じ、湯本三郎に岩櫃城の守備を指揮する。

上田から鳥居峠を越え岩櫃、名胡桃、沼田と連絡路を固めようというのだ。

そして沼田城に入った頼綱は、早速部下に命じ、

10キロほども南に下った津久田城を攻撃させる。

この城は北条方の長尾憲景の属城だったのだが、攻撃は失敗してしまった。

北条方は勢いに乗り、岩櫃城と沼田城を分断すべく長尾憲景に指示して、

その間の中山城を攻め落とさせ、さらに中山新城を築かせた。

岩櫃と沼田の連絡路が遮断されると、昌幸としては分が悪い。

綱わたりクシャミをしてはいけません  阪本こみち

実は、昌幸はすでに3月、

武田氏が危急存亡のときを迎えている間に
憲景を通じ、

二度にわたって北条氏への帰順を打診していた。


そして武田勝頼が自刃した翌12日には、

北条氏邦から昌幸の申し入れを歓迎する旨、書状が寄せられえている。

この交渉窓口はまだ生きており、憲景は昌幸に圧力を加えながら、

外交チャンネルを活かして帰順を促していたのだろう。
               ひき
その実務を担ったのは日置五左衛門という人物だった。

五左衛門は昌幸の命令を受けて北条氏の陣に赴き、

「麾下に属すべき由」を申し入れた。

北条氏直がどれほど喜んだかは、

彼がこの五左衛門に西上野の小島郷を与えたことでも分かる。

さざ波にうすら笑いがしみている  嶋沢喜八郎

26日、昌幸は北条氏に人質を提出する。

ここでも北条氏は大いに喜び、窓口の頼綱に千貫文の土地を与えている。

しかし昌幸の目は、常に周囲を油断なく観察していた。

信濃は北条氏だけではなく徳川家康も狙っており、
          のぶしげ
武田旧臣の依田信蕃を派遣して、国人衆の切り崩しをはじめさせている。

信蕃は碓氷峠の玄関口にある小諸城に入っていたが、

12日侵攻してきた北条軍によって追われてしまった。

さらに北からは上杉景勝がすでに6月16日に川中島へ兵を出し、

7月29日には、景勝みずからも川中島に出陣する。

階段の隙間で息をしています  笠嶋恵美子



昌幸は北条軍の先鋒として、この川中島の上杉軍に対峙し、

防波堤役を務めることとなった。

だが、景勝と氏直が、「北信濃を上杉、その他を北条が支配する」という

条件で講和すると、氏直は南下し8月10日から甲斐・若神子で、

徳川家康の軍勢とにらみ合いに入る。

ところが、5万以上の大軍にも拘らず、

1万の徳川軍に決戦を挑みもせず、


それどころか局地戦では敗北を喫した氏直は、

信濃の国人衆の評価を大きく下げてしまう。

「勢い、空気というものが肝心よ。いまの北条のていたらくでは、

   この先安心して身を寄せることは思いも寄らぬわ」

ボクが乗ると揺れるノアの箱舟  田口和代

折も折り、徳川方の勧誘の手は昌幸にも及んできていた。

「なにとぞ才覚をめぐらして、真田を引き付け給え」

依頼された依田信蕃、それに北条から徳川に転任していた真田信尹

もうひとり日置五左衛門がその交渉ルートだった。

9月28日付けで家康への寝返りが決定し、家康は、

「本領安堵のうえ上野国の箕輪と甲斐国内で計2千貫文の土地、
                     あてがいじょう
     さらに信濃諏訪郡を与える」 と宛行状を発給した。

慎重居士の家康も「誠にもって祝着」と喜びを爆発させている。

北条氏は昌幸をいったん服属させることに成功したが、

昌幸はその間、沼田、吾妻領を着々と我が物にしたうえに、

一転して家康に服属してしまい、北条氏は一杯食わされたのである。

今や昌幸の存在は、信濃支配のキーマンとして唯一無二のものとなった。

まずは取り皿へフクロウらしき舌  山口ろっぱ

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黄昏て三行目から黴てゆく  山口ろっぱ
 

汁かけご飯を食べる氏政

北条氏4代目・北条氏政に関して、こんな逸話が残っている。

食事の時、ご飯に味噌汁をかけたが その量が少なく もう一度汁をかけた。

それを見た父の氏康は、「毎日の食事であるにも関わらず、

ご飯にかける汁の量が分からないとは、北条家も終わりだな・・・」

と嘆いたという。

「プライドばかりの北条氏政」


息子・氏直とも他の大名とも「笏」(しゃく)置く位置が違う。

北条は北条早雲に始まり氏綱・氏康へと続くおよそ100年もの間、

関東に君臨し続けた戦国大名。

その4代目が氏康の嫡男・北条氏政である。

武田信玄の娘と結婚するが、信玄と対立。

弟の三郎(景虎)上杉謙信の養子に出し武田家を牽制する。

その後、謙信との関係が悪化すると信玄と和睦。

信玄没後、勝頼が景虎支援の約束を反故にしたため、勝頼との同盟を破棄。

武田勢に苦戦すると信長に従属を表明し、武田領の挟撃を図る。

長男・氏直に家督を譲っても発言権を保持した。

仏壇も家紋も背後霊だろう  美馬りゅうこ

信長の死後、氏政は、空白地帯となった信濃を手に入れようと、

氏直と氏邦に命じ大軍を上野に侵攻、滝川一益と対峙した。

この戦いは、たった2日、一益の惨敗をもって決着。

その足で北条軍は、碓氷峠から信濃に進出、真田昌幸・木曾義昌

諏訪頼忠などを取り込み、信濃東部と中部を占領下に置く。

その後、北条軍は甲斐に侵攻してきた徳川家康と対峙する。

長期戦となった家康との戦いは、秀吉の関東統一を睨む動向と

真田昌幸が徳川方についたことで風船が縮むように沈静化、

家康の娘・督姫を長男・氏直の嫁に向かい入れて和睦と同盟を結び、

合意の条項に甲斐・信濃を徳川領、上野を北条領とすることが含まれる。

昌幸とって沼田城を北条に明け渡すことは、断固として譲れなかった。

家康に不審を抱いた昌幸は、徳川を離れ上杉景勝に従属、

上田・沼田城にて、
徳川・北条と抗戦することとなる。

相槌がインプラントを逆撫でる  岩根彰子



これらの懸案が後の「沼田問題」さらに「名胡桃事件」の伏線となる。

「小田原北条征伐」の導火線がそこにあった。

秀吉が時の権力者となると、北条氏政と北条氏直に上洛するように

求められたが、成り上がりの秀吉に対して、

北条氏政は
弟・北条氏照北条氏邦と共に、

空気読めない強硬姿勢をとりはじめ、


空気を読める北条氏直北条氏規との間で意見がまとまらなかった。

事ここに至って、秀吉は小田原征伐を決定して宣戦布告したのである。

対し北条氏政は、籠城を決め徹底抗戦を決めた。

100年にわたる戦国大名・北条氏による関東支配の終焉とも知らず。

正解を失くしてからの猛吹雪  中野六助


「北条記」につぎのような言葉が残る。

「四世の氏政は愚か者で、老臣の松田入道の悪いたくらみにまどわされ、

    国政を乱したけれども、まだ父氏康君の武徳のおかげがあって、

    どうやら無事であった」

オルガンのファ~の音から出られない  蟹口和枝


氏直は「笏」胸前に持つ

「虚弱な北条氏直」

北条氏政の次男。

母親は武田信玄の娘である黄梅院。幼名は国王丸。


武田・北条・今川のいわゆる「三国同盟」から生まれた子供であった。

15歳で元服し、里見義弘との抗争で初陣を飾る。

天正8年(1580)、父・氏政から家督を譲り受けるもお飾りの当主で、

実権は依然として氏政が握って離さなかった。

「本能寺の変」後、上野を攻め滝川一益の軍を「神流川の戦い」で破る。

その後、信濃から甲斐に侵攻し徳川家と対抗するが、和睦に至り、

家康の娘・督姫を娶る。

頭陀袋の中で柵笑ってる  中川隆充

北条と徳川との和睦の条件の一つであった沼田領統治をめぐり、

真田家とは幾度となく争うが、決着がつかなかった。

そして、天正17年(1589)豊臣秀吉が仲介に入り、

昌幸が占拠していた沼田3万石のうち2万石が氏政に返還、

残った1万石の「名胡桃城」は、

昌幸が「ここは先祖の墓がある土地なので」 
と主張し

引き続き昌幸のものとして残る。


また、昌幸が失った2万石は家康が自領から分け与えることとなる。

歯車の歯は欠け欠けて稼働中  藤井孝作
                                    いのまたくにのり
これで一件落着かと思われた矢先、北条配下の沼田城主・猪俣邦憲が、

名胡桃城の家臣を買収して工作し、

城を乗っ取ってしまうという事案が発生。


これを聞いた秀吉は、大名同士の私闘を禁じた「惣無事令違反」だと激怒。

しかも再度上洛を要請しているにも関らず、

未だに上洛する気配のない氏政に愛想を尽かした秀吉は、


武力で北条一族を討伐する意志を固めたのである。

失望というな名の船が打ち寄せる  高橋謡々

北条を滅ぼす大義名分(口実)を得た秀吉は、

20万という
未曽有の大軍を率いて小田原に乗り込んできた。

小田原合戦の幕開けである。

一夜城、調略、兵糧攻めなど、秀吉が得意とする持久戦に持ち込むと、

さすがに難攻不落の小田原城も内部からも崩壊していき、

5ヶ月の長期戦の末、降伏を余儀なくされる。

夕暮れにラッキョウの声になっている  河村啓子



戦後処理は、城兵を助命するという条件と引換えに責任者の処罰。

氏政氏照とともに弟・北条氏規の介錯をうけ切腹。

氏政は享年53歳であった。


また氏直は助命、北条氏規らとともに出家して高野山に入る。

翌年、氏直は秀吉によって赦免され、大坂の織田信雄の屋敷で暮らす。

その後 秀吉から河内国に1万石の領地を与えられたが、

現地に赴く前に死去。

享年30歳であった。


運命と貧乏神に尽くし抜く  森吉留里恵

父の言われるがまま30年を生きた氏直を評価する、

「北条記」によると、


「五世の氏直君は、ずいぶん判断力に富んでいたが、

    惜しいかな虚弱な体質であったために みずから裁決せず、

    人まかせにするあやまちをおかしたために、

    ついにその家を失うことになった」


「4代・北条氏政が実権を握り続けたことから、北条家は滅亡した」

と巷では囁かれている。

気がかりを形にすれば干しぶどう  嶋沢喜八郎

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