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川柳的逍遥 人の世の一家言
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尾翼から女は白くなってゆく  くんじろう

「明治の美人コンテストー①」

明治になり「写真」という新しいツールの登場によって、

まず皇族華族の写真が、次いで、令嬢、令夫人の写真が

雑誌などのマスメディアに登場した。

上流紳士淑女の写真が、庶民の羨望の的となる役割を担った。

またそれまで浮世絵で人気を博していた芸妓も美人写真となって、

人々の心を捉えた。

日露戦争前後となると、これまでの貴顕(身分の高い人)肖像写真、

外国土産用、
古物調査や戦争記録のほか、

軍事郵便、私製はがきなど、
より実用的になり、普及していった。

スマホの画面に目ヤニがついている  井上一筒


時事新報社美人写真募集一等「末弘ヒロ子」

ピアノ、お茶は表千家、生け花は池坊。好物は薩摩芋、鰻、柿、蜜柑。
末弘トミ子の偽名で義兄が応募。一等の副賞は総額1823円93戦に
のぼったというが、彼女は受け取らなかったようだ。

こうした時期の明冶40年、アメリカ・シカゴのトリビューン新聞社から

「世界第一の美人を見出さんとす、貴社この競争に参加して、

    日本第一の美人を提供する意なきや」

と、「時事新報者」に依頼が飛び込んだ。

これに応えて、
        じょうしぐん    ていしんこれ
「戦後日本の娘子軍、敢えて挺身之と姿を競い色を闘わさんと

   欲するものあらば、あわれ速やかに名乗りて、いでられよ。

   本社がとりあえず、全国幾千万の美人に代わりて、
   おうだく
   開戦応諾の旨をシカゴ・トリビューン社に、電答仕置きたる」

と時事新報社は、美人写真募集を宣言した。

国際的な一大事業であるから、選抜を一社に独占せず、

「全国の有力新聞社の協力を得て実施」

と銘打ったのは賢明な策であった。

充電の途中で呼び出しがかかる  合田瑠美子


時事新報社美人写真募集二等「金田ケン子」

振り袖に立矢の字の帯の正装姿。
首掛け時計の鎖や指輪で流行を取り入れている。

トリビューン社は、日本以外に、フランス、カナダ、スペイン、

イタリア、
イギリス、スウェーデン、ロシア、オーストリアなど、

12カ国へ
参加を呼びかけたという。

日本への要請は、日露戦争を契機として、

日本が欧米から感心を寄せられる存在となっていた、表れかもしれない。

翌年6月に時事新報社は、報告としてトリビューン紙が、

3名の
競争審査の実況、本紙一面大の特別付録を発行したこと、

日本がいち早くこの競争に応じたこと、

未曾有の熱狂ぶり、
当選者の経歴、審査員名、審査会の模様を紹介、

アメリカ(マーガレット・フレー)、カナダ(ヴァイオレット・フッド)

スウェーデン(ジェーン・ルンドスツロム)、日本(末弘ヒロ子)

イギリス(アイヴィーリリア・クローズ) とある。

喝采を浴びて呼吸を忘れそう  嶋沢喜八郎


時事新報社美人写真募集三等「土屋ノブ子」

写真募集には「美人写真集12か条規則」が告知された。

「女優、芸妓、その他容色を以って職業の資とする者の写真は採用せず」

というのが第一条件であった。

「また本人の名前、現住所、年齢、職業の有無、及び父母の職業、

   若しくは身分を記載し、身長・胸囲・腰囲も併記せらるれば最も妙」

とある。

身分というのが、封建制社会をよく表している。

ボディサイズがあるのは、欧米的な発想である。

写真はポーズが異なれば、複数の応募も可で、投稿写真は返却しない。

被写体となってをんなは美しい  徳山泰子


第一次審査は各社で行い、

一等から五等までの当選者には相当の賞品を贈呈。

容貌鑑定に適した人材によって最終審査を行い、

全国優秀三名を選定し賞品を授与する。 

1等    18金ダイヤモンド指輪 (300円相当)
2等    18金梨地無双ダイヤ入モンド入り婦人持ち懐中時計、
             及び、18金ルビー真珠入り緒〆付首掛鎖り (150円相当)
3等    18金白金製桜花流水図透し彫りダイヤ入り帯留 (100円相当)

となってる。

食べ過ぎて肥えているなら痩せられる  前中知栄                      

尚、一時審査通過者の商品には,

1等~3等        18金ルビー真珠入り指輪 (30円相当)
          18金真珠入り勝形ブローチ (15円相当)
          18金結形根掛 (10円相当)
4等~5等      銀製鍍金草花文丸彫り束髪用簪 (5円相当)

(因みに当時の小学校の教員の初任給は8円。巡査は9円である)

親戚、知友写真師らが本人に代わって写真を投稿することも可だが、

本人の許諾を含めて投寄者が責任を負う。

一等から三等の写真投寄者には、

それぞれ、金50円、25円、10円の賞金を
寄贈するといった内容。

スキップを同封します良い報せ  太下和子


『ゆびわ』(石版画)  岡田三郎助画
左薬指にめのうの指輪をはめている。
「時事新報」明冶41年新年号付録。

最終の二次審査は、各界の名士13名によっておこなわれた。

審査員のひとり岡田三郎助は、時事新報社から明冶41年の新年付録の

絵を依頼され、石版画『ゆびわ』を制作した。

写真募集の賞品からインスピレーションを受けて、制作したのであろう。

さて、第一次審査通過者214名は、順次新聞で紹介された。

読者は、審査は出来ないが、経過を知って臨場感を楽しんだ。

深窓の令嬢が、公衆の面前で美醜を競うことなど、

受け入れられない社会であったにも関わらず、

七千枚の写真が集まったことは、画期的なことであった。

裏を返せば、明治の人々は新しいものに敏感に反応する、

楽しいことを察知する能力に長けた人々であった 

といえよう。       <文・津田紀代>

                       つづく

暗闇のふくみ笑いを聞いたよな  筒井祥文

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ドミノ倒しは罪ですよ風の神  奥山晴生


  伊藤博文

伊藤博文は周防国の貧しい農家に生まれる。
9歳の時に家族とともに萩に移り、17歳で松下村塾に入門。
松陰の推薦を受け、山縣有朋らと京都へ情勢視察に赴いたのを機に、
「尊皇攘夷」の必要性を痛感。
文久2年、玄瑞らと、公武合体論を主張する長井雅楽の暗殺を画策。
品川御殿山の「英国公使館焼き討ち事件」に参加。
ロンドン留学後は開国、富国強兵論者に転じ、「武力倒幕運動」に参加。

大久保利通の死後、内務卿を継ぎ、政府の中心的位置を確保。
明治18年、内閣制度を創設し初代・内閣総理大臣に就任。
大日本帝国憲法の制定を指導。
枢密院議長、貴族院議長、内閣総理大臣、初代韓国統監等を歴任。
伊藤は国際協調派ともいえる考えの持ち主で、
韓国併合には
反対の立場だったが、明治42年ハルビン駅頭で、
韓国の独立運動家・安重根により暗殺される。
明治天皇の信任は厚く、明治期を通じて元老中第一の実力者として、
内外政策に大きな影響力を行使した。

出る杭は打たれ出ない杭は腐る  福井民雄

「それからの長州」

明冶4年7月14日、「廃藩置県」が行なわれた。

文字通り藩をなくし、新たに3府302県を設置。

知藩事となっていた旧藩主たちは、東京に移住させられ、

各県には中央政府から県令が送り込まれた。

こうして新しい官制を確立していくと、

維新の原動力となった長州と薩摩に
土佐、肥前を加えた4藩の出身者が、

参議や各省の卿(大臣)や大輔(次官)を独占した。


その後、岩倉具視を特命全権大使とした岩倉使節団が欧米を

歴訪している間、
国内では「征韓論」の嵐が吹き荒れた。

それにより、土佐や肥前の出身者の多くが政府中枢から離脱し、

下野してしまう。

その結果、薩長派閥と言われる権力構造が出来上がっていくのである。

フィクションに薄く桃色塗っておく  中川隆充


   井上 馨

井上馨桂小五郎高杉晋作らとともに「尊皇攘夷運動」で活躍。
維新後は参与、大蔵大輔、参議兼工部卿、外務卿などを歴任する。
第一次伊藤内閣では外相就任。不平等条約改正に奔走する。

派閥政治はしばしば、情に流されてしまうことがある。

それだけでなく、さまざまな癒着構造を生み出してしまい勝ちだ。

その一方で政治家と官僚、さらには軍部にいたるまで、

円滑な人間関係を構築することができるという利点もある。

実際、一刻も早く国力を増強したかった当時の日本にとっては、

物事がスムーズに運ぶことは、得難いことであった。

だが議会政治を目指す勢力にとっては、

藩閥政治は許しがたいことなので、その専横をおおいに攻撃。

そうした状況においても、「国会開設や憲法の発布」など、

近代国家としての体裁を整えていったのである。

ニッポンはひとつと書いて裏返す  湊圭史


  山縣有朋

奇兵隊を組織した高杉晋作は身分に関係なく有望な人材を登用。
足軽以下と低い身分の生まれだった山縣有朋などが、
立身出世するきっかけを与えた。

山縣自身は、久坂玄瑞の紹介で松下村塾に入門。
在塾期間こそ短いが松陰から薫陶を受け、生涯にわたって深く畏敬した。
明治末期に伊藤が暗殺されると、山縣は大きな発言力を持つ元老として、
政界に君臨。首相選定の主導権をも握る。
大正初期には陸軍や政界の黒幕となり、「日本軍閥の祖」の異名をとった。
死後、昭和天皇は軍人の一面において山縣を高く評価した。

そして藩閥政治を最も利用したのが、長州出身の山縣有朋であった。

山縣は政界のみならず、官僚や軍部においても、

自らが領袖となる強大な長州閥.を築きあげた。

しかも長きに渡って影響力を発揮し続けたため山縣閥とも呼ばれた。

同じ長州出身者で、初代・内閣総理大臣を務めた伊藤博文は、

こうした藩出身者にこだわるちころはなかったと言われている。

そして山縣が築いた長州閥は桂太郎に引き継がれて行く。

桂が大きく出世する要因になったのは、

彼の叔父である中谷正亮が吉田松陰の友人であり、

なおかつ、松下村塾を支援してくれたことも大きな理由となった。

舌の届く距離を知ってるカメレオン  加藤吉一


   桂太郎

桂太郎松陰が刑死したとき、13歳だったが、
叔父の中谷正亮が松下村塾のスポンサーだったことから、
「至誠」の精神は、十分学んで育った。
戊辰戦争に従軍後、明冶3年にドイツ留学。
帰国後、山縣有朋の下で「兵制、陸軍官制の改革」に従事。
第三次伊藤内閣で陸相となる。
日英同盟、日露戦争などを首相として主導した。


桂太郎は、明冶34年に総理大臣となった際、

閣僚の多くを山縣閥の人脈で埋めた。

そのため世間からは冷ややかな目で見られたが、

伊藤博文、山縣有朋、井上馨といった長州の元勲たちに支えられ、

日露戦争という未曾有の国難をよく乗り切ることが出来た。

割りばしがあると落ち着くレストラン  落合文彦


  寺内 正毅

寺内 正毅明治元年、御楯隊隊士として戊辰戦争に従軍し、
箱館五稜郭まで転戦。
明冶4年、山田顕義の推薦によって陸軍少尉に任官。

その後、西南戦争・田原坂の戦いで右手の自由をなくす。
フランス留学後、陸軍士官学校長に就任、初代教育総督などを歴任。
第一次、第二次桂、第一次・西園寺内閣で陸相。
大正5年に首相に就任する。

長州維新後の山口県出身の総理大臣は、

2015年12月現在で、
他府県を圧倒する9人である。

2位は東京の5人、それに引きかえ、旧薩摩藩であった鹿児島県は3人。

一説によれば長州人は金と権力、

薩摩は女性と酒が好き という性質が影響しているという。

藩閥の影響が残っていた戦前は、長州閥から5人の首相が誕生している。

そして薩長の藩閥は、

総理大臣のポストだけに止まっているものではなかった。

その周囲を固める閣僚クラスの政治家も、薩長出身が多い。

消しゴムで消せるとしたら何を消す  嶌清五郎


  乃木希典

乃木希典松陰の叔父・玉木文之進に学ぶ。
明冶4年、陸軍少佐に任官。萩の乱、西南戦争に従軍する。
日清戦争では、歩兵第一旅団長として旅順を占領。
日露戦争で第三軍司令官として旅順攻略を指揮し、多大な被害を生む。
明治天皇に殉死する。


政治の世界と並んで薩長藩閥が顕著であったのが、

陸海軍のトップである。

とくに明治から昭和にかけて、日本陸軍幹部は長州人によって

形成されていた。

                                     まさたけ
この頃に陸軍の実権を握っていた山縣有朋、桂太郎、寺内正毅、

田中義一らはみな長州出身者であった。

実力がなくてもこの系列であれば、約束されていたようなものであった。

海は分解してトラックで運ぶ  井上一筒


  児玉源太郎

児玉源太郎は戊辰戦争に参加した後、陸軍へ入る。
佐賀の乱、神風連の乱、西南戦争に従軍。
日露戦争では満州軍総参謀長として活躍し、
大山巌満州軍総司令官をよく補佐した。

薩摩閥が強かった海軍がいち早く能力主義、合理主義を取り入れ、

人材も広く求めたのに対し、

長州閥の陸軍では精神主義と規律主義、


さらには形式主義をもって、その特徴としていた。

長州陸軍の代表する人物といえば、乃木希典が挙げられる。

そして規律主義・形式主義は、山縣有朋、寺内正毅だ。

こうした特色は、太平洋戦争に敗北し、陸海軍が解体されるまで続いた。

雁首を並べてトーテムポールかな  本多洋子


   山田顕義(あきよし)

山田顕義松下村塾に学び、尊皇攘夷運動に奔走。
維新後は兵部大丞に就任。 
佐賀の乱、西南戦争に従軍。
伊藤内閣では司法相に就任し、
黒田清隆、山縣有朋、松方正義内閣でも留任。

日本法律学校設立に関与。  

戦後になって、総理大臣を務めた岸信介の曽祖父、佐藤信寛は、

松陰「兵要録」を授けた人物。

佐藤栄作は岸の実弟である。

歴代の総理大臣の中で、最長の連続期間を誇っている。

そして現総理である安倍晋三にとって、

岸は母方の祖父、
佐藤は大叔父である。

そして安倍首相は松陰の

「至誠にして動かざるもの、これいまだあらざるなり」


を座右の銘にしている。

綴じ紐に結を委ねているページ  上田 仁


因みに長州・薩摩の歴代首相をあげてみると次のようになる。

「長州」
伊藤博文     5・710
山縣有朋     
桂太郎      11・13・15
寺内正毅     18
田中義一     26
岸信介         56・57
佐藤栄作        61・62・63
菅直人            94
安倍晋三              90・96・97
「薩摩」
黒田清隆        
松方正義        4・6
山本権兵衛    16・22   
「肥前」
大隈重信         17

肥前の大隈重信が8代、12代の二回、
西園寺公望が12代14代の2回間にはさまっているものの、
ほぼ18代まで、長州・薩摩が交合に総理大臣を務めている。

スイッチを押すと電池がハイという  筒井祥文

その他の長州閥



  品川弥二郎
松下村塾で学ぶ。文久2年イギリス公使館焼討事件に参加。
戊辰戦争では奥羽鎮撫総督参謀、整部隊参謀を務める。
明冶3年欧州に留学し、帰国後、内務内書記官、内務少輔、
農商務大輔などを歴任する。


三浦梧楼
藩校・明倫館に学ぶ。奇兵隊へ入隊し第二次長州征伐、
戊辰戦争で活躍。維新後は兵部権大丞、東京鎮台司令官、
広島鎮台司令官を歴任。明冶21年、学習院長に就任。


佐久間 左馬太
奇兵隊に入隊し、大村益次郎の下で西洋兵学を学ぶ。
明冶5年陸軍に入って大尉に任官。
佐賀の乱、台湾出兵、西南戦争に参加。

日清戦争では威海衛を攻略し、占領地総督を務めた。

雑魚盛って今日一日の笑いとす  河村啓子

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みみずくに宵の眼薬差してやれ  井上一筒

「楫取素彦の足跡」



【厩橋招魂祠記】

東照宮の境内に立つ。
西南の役」の群馬県戦没者慰霊のため、明冶12年に建立された。
碑に刻まれた文章を撰したのが、楫取素彦である。

紙魚の領域に遺言を残すなかれ  山口ろっぱ



【群馬県令 楫取君功徳の碑】

明冶25年建立の、前群馬県令・楫取素彦の功績を称える碑。
碑の隣には寄付者の名を連ねた碑も立つ。
善政を行なった楫取は前橋の人々から愛され、
退任して前橋を去る際には、
数千人の県民が沿道に足を運び、
別れを惜しんだという。

楫取素彦碑の北隣に「楫取君功徳碑賛助人名」
の碑が建立されている

見て欲しいわたしはここで咲いてます  嶋沢喜八郎



【臨江閣 本館】

楫取素彦が群馬県令時代に提言し、下村善太郎初代前橋市長ら
多くの地元有志や企業の寄付を得て、明冶17年に竣工した「迎賓館」。
このあと素彦は妻の美和とともに東京に転居している。
明冶26年、明治天皇の行幸の際に行在所として使用されるなど、
おおくの皇族が滞在している。
二階の奥座敷が御座所の跡。

主要部分は創建当時の面影を残しており、県指定の重要文化財

幻が消えていくのは中二階  山本昌乃



【臨江閣 別館】

明冶43年、前橋市で開催された「一府十四県連合共進会」に先立ち
建設された「貴賓館」
一階には西洋室一室のほか、日本間が七室ある。
二階には舞台を備えた150畳もの広さの大広間がある。

誘われて裏は花色木綿です  酒井かがり



【臨江閣 茶室 (畊堂庵〔こうどうあん〕
群馬県政に対して協力を惜しまなかった前橋の人々に感激した
楫取素彦
県庁職員と費用を出し合って建築した。
楫取の最期の置き土産である。
京都の茶室大工・今井源兵衛を前橋まで呼んで建築にあたり、
明冶17年末、臨江閣竣工の二ヶ月後に完成した。
京間四畳半、本勝手、下座に床の間を持つ形式で、
「わびに徹した茶室」として評価されている。

苦い茶が立ち上がるのを仰ぎ視る  佐藤正昭



【上野三碑(高崎市)】

楫取素彦は、古墳など史跡の保護に尽力した。
その代表例が、7世紀から8世紀にかけて建てられたとされる
三つの石碑「上野三碑」の保護である。
「多胡(たご)碑」「山上(やまのうえ)碑」「金井沢碑」の三つの総称で、
それぞれ半径5㌔以内に所在する。

雁首を並べてトーテムポールかな  本多洋子



【山上碑】

山上碑は飛鳥時代の天武10年(681)に母のことを思い、
僧になった息子がたてた。。
日本語の語順で漢字を並べた日本最古の石碑。

ワタクシが他動詞の裏であった頃  岩根彰子



【多胡碑】
                  わどう
多胡碑は、奈良時代初めの和銅4年(711)に上野国の14番目の郡として、
多胡郡が建郡されたことを記念して建てられた。
また、18世紀以来、中国の「書」の手本となった。

弾んでるうちは石だと気付かない  森田律子



【金井沢碑】
                   じんき         みやけし
金井沢碑は、奈良時代前半の神亀3年(726)に三家氏を名乗る豪族が、
先祖の供養と一族の繁栄を祈って建てた石碑
この地での仏教の広がりを刻んである。

ポン菓子のポンで小石が出ましたが  くんじろう

三碑総括】

三碑に刻まれた内容は、中国を起源とする政治制度、漢字文化、
インドを起源とする仏教が、
ユーラシア東端の地である日本に到達しただけでなく、
さらに遠く離れた
東部の上野国に多数の渡来人の移動とともに伝来し、

地元の人々に受容され、広まっていったことを証明している。

ただ立っていたのに蹴飛ばされる石  森茂俊



【高山社跡(藤岡市)

世界遺産に登録された「富岡製糸場と絹産業遺産群」の構成資産の一つ。
高山長五郎は「養蚕改良高山社」の創始者であり、高山社は長五郎の生家。
この地で、養蚕法「清温育」の研究と社員への指導を行なった。
楫取素彦は長五郎の高山組結社の願いを容れている。

愛から愛 花から花が生まれます  津田照子



【田島弥平旧宅(伊勢崎市)

高山社と同じく「富岡製糸場と絹産業遺産群」の一つ。
田島弥平は、近代養蚕法「清涼育」を大成した人物で、
楫取素彦は田島の蚕種のイタリア直輸出に協力し、
イタリア行きの際には送別会も催した。
 火を使って室内を温め、蚕の成長を早めた「温暖育」に対し、
弥平が確立した「清涼育」は、
できるだけ自然の状態で育てるため
丈夫な蚕が育つとされた。
換気用のやぐらを載せた建築様式は、

近代養蚕農家の原型として全国に広まった。

知恵の輪がやっとキャラメル状になる  山本早苗



【桐生明治館(桐生市)】

もともとは「群馬県衛生所併設医学校」として、
明冶11年、楫取素彦が県令を務めていた県庁前に建てられた。
和風建築に、洋風装飾を施した擬洋風建築で、
のちに女学校に転用され、相生村役場として移築された。

柚子を添えるとイケメンになるサンマ



【群馬県庁 昭和庁舎】

楫取素彦県令時代、群馬県庁が高崎から前橋城跡に移されて以来、
この場所で県政が営まれてきた。
昭和3年に建設された昭和庁舎は、
80年以上の永きにわたり
県民に親しまれてきた。

昭和初期の典型的な洋風建築物で当時としては、
関東近県で最も先進的な建築技術を駆使した建造物である。

呆然を残して今日の海青い  徳山泰子

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一日でならずローマもこの皺も  岡本なぎさ


貞宮養育時代、青山離宮の貞宮御殿の庭で撮られた集合写真

前列中央が楫取素彦、その右が美和、左は嫡子希家夫人の多賀子

「楫取素彦・美和-最終章」

明冶16年(1883)美和と再婚をした年、楫取素彦は辞職願を出す。

肉体的、精神的に地方の長としての仕事に耐えられないというのが、

理由だったが、引き際を考えてのことだったのだろう。

しかし、任期が12年と決まっていた事もあり、

辞任願いは受理されず、翌年までの延長ののち、

元老院議員として栄転することになる。

楫取の辞任に対し、前橋市民は反対運動を起こしているが、

辞任にあたって、市民から、楫取は風俗も人情も違う地域で、

産業や教育の振興に尽くしたことに対する送別の辞を受け取り、

上京する時には、数千人の人々に見送られている。

同時多発的イオンを全身に  雨森茂喜


 前群馬県令楫取君徳碑

楫取の群馬における於ける業績を評価し、明冶23年に立てられた。
楫取が群馬県民にどれだけ愛されていたかを証明している。

さて楫取が議員として栄転した元老院は、

明冶8年(1875)に設立され、明冶23年帝国議会が開かれるまで、

立法機関として機能していたもの。

とはいえ、議員資格はそれまで功労があった人に与えられる

という側面があり、いってみれば、名誉職のようなもので、

17年間の県令職の苦労を癒してくれるものとして、

楫取にとっては、悠々とした余生が与えられたということになる。

そして、明冶17年、「華族令」が発令されると、

維新に功績があった人々が、新しい華族として誕生する。

山口県出身では、この年に10人が爵位を受け、

楫取が男爵の爵位を得たのは、明冶20年のことであった。

緞帳がまだ喝采を浴びている  黒田忠昭

爵位を受けたのは合計21人、このうち物故者(無くなった人)の二代目や

武官としての功績者を除くと14人となる。

つまり楫取は、維新の功績者ベスト14に選ばれたことになる。

しかし、楫取にしてみれば、

自分は多くの志士の死を乗り越えてきた にも関わらず、

年少の人間よりも低い爵位であることに少々不満もあったようだ。

「自分の維新以前の勤めは、杉民冶や山県有朋より、下ではなく、

   かえってその上であると世間では言っているのに、

   私はいつも一段低い扱いを受けてきた習慣が尾を引いて、

   二家よりも、一段下にされてしまった」

という文章が残っている。

ときどきは愚痴の断捨離しておこう  青砥たかこ



しかし、この文章に書かれたことは楫取の本意ではない。

松陰久坂や志半ばで死んでいった仲間たちのことを思うとき、

生きてこの立場にいれることを真摯に感謝するのが、

楫取という人である。

現に、晩年子爵へと内意があったときに、

「畏れ多いこと」と辞退している。

こうして美和は、晴れて男爵夫人となった。

長州藩出身 主だった家の爵位
公爵・・・毛利元徳・元昭(毛利家)
侯爵・・・木戸孝允(木戸家)
伯爵・・・伊藤博文、山県有朋、井上馨、山田顕義、広沢真臣(広沢家)
     (伊藤博文、山県有朋はのちに公爵、井上馨は侯爵)
子爵・・・品川弥二郎
男爵・・・楫取素彦
この他にも長州藩からは多くの人が爵位を授与されている。

ダンボール10個分ほど幸せが  田口和代

明冶26年、楫取は山口県に帰る決意をし、防府に居を定め、

そこで生涯を過ごした。

ここには主筋毛利邸もあり、

「山口県において、健康にいい土地で

   海路も陸路も便利なところを選ぶべきだ」

というのが、その理由だったので、楫取もそれに倣った。

貴族院議員として、議会に出席するための利便性をも考えた。

こうして、東京と防府を往復する生活をしていた楫取だったが、

明冶30年、重要な任務を担うことになる。

明治天皇の第14皇女・貞宮多喜子内親王の養育係主任をやってくれ

と命じられたのである。

自転車に乗ってきたのは赤いもみじ  北原照子

養育係主任になるということは、美和もお付きの女官になること、

夫婦で出仕することになる。

当時の写真(冒頭の集合写真)を見ると、楫取長男(元篤太郎)の妻・多賀子や、

次男・道明の妻・美須もと一族を挙げて出仕している。

こうして、防府から東京の青山離宮・貞宮御殿での

生活を送ることになる。

無印の首を揃えてイエノオト聴く  山口ろっぱ

宮中関係の仕事は忙しく、70歳の楫取にとっては激務だった。

「夜間十八、九時ごろ過ぎに官舎に帰ることはできません。

   そのため、寝につく頃は非情に疲れており、翌日は半日ぐらい

   膝や腰がずきずき痛みました」 

と弱音を吐いている。

その一方で、

「宮様に仕えているおかげで、具合が悪いときは、

   すぐに医者に診てもらえるのでありがたい」

などと役得もあることを感謝している。

自由になった不自由にもなった  谷口 義


   毛利元昭      毛利元徳

ところが、貞宮は明冶32年、この前年に体調を悪くし、

神奈川県足柄群で静養中、脳膜炎を発症し、

わずか1歳4ヶ月で亡くなってしまう。

楫取は貞宮の葬祭の喪主の務めを最後に、美和とともに防府に帰る。

それからの防府での生活は、議員の仕事をこなすかたわら、

別荘も建て悠々自適で、海水浴も楽しんだと記述もあり、

旧藩主とも交流をしていたようだ。

「昨日は迫戸別荘へ元昭公をお招きいたし昼食をさしあげました」

元昭公には、かって守役として勤めたこともあって、

懐かしい想いが胸中を流れたことだろう。

残された時間ゆらりと寛ごう  新家完司


楫取素彦と美和子の銅像(防府天満宮

明冶32年、古希の祝いに御紋付き盃と酒肴料を宮中から賜った

楫取は80歳になった時、再び御紋付き盃と酒肴料を賜っている。

このとき、楫取は歌を詠んでいる。

いたつらにやそちのとしをかさねけり 世にいちしるきいきをなくして

(意味もなく無駄に80歳の年を重ねてしまった。

   世の中にきわだった手柄もないのに)

明冶43年、病気勝ちの身に宮中で杖をつくことを許され。

明冶44年、貴族院議員を退任。

明冶45年6月、両陛下からお菓子を下賜される。

(この年の7月30日、明治天皇崩御、大正に改元)

天皇崩御の半月後の大正元年8月14日、楫取は生涯の幕を閉じる。

死後、正二位の称号を得、皇太后や皇后からは、祭祀料を賜り、

葬儀には、勅使として山口県知事が参列、白絹二匹が届けられた。

美和は、それから9年後の大正10年9月7日、

80歳の天寿を全うした。

墓は防府の大楽寺にあり、夫婦で並んで眠っている。

入口も出口も石が置いてある  森田律子

拍手[4回]

うす切りパンへ厚切りハム挟む  山本昌乃


     完成直後の鹿鳴館

当時は「外国人接待所」という名称で、約3年の工期と18万円という
当時としては、莫大な建設費をかけてつくられた。


「於鹿鳴館貴婦人慈善会の図」(橋本周延画)

鹿鳴館では貴婦人たちの主催による慈善バザーも行なわれた。
陸奥亮子も夫に事後承諾でバザーに参加したという。


「鹿鳴館の女たち②」

(写真は拡大してご覧ください)


「井上武子」 嘉永3年(1850)大正9年(1920)

明治の初期、外務・大蔵次官の大隈重信は、

築地本願寺に5千坪の高大な屋敷を構えていた。

「築地梁山泊」と呼ばれたこの屋敷には、彼を慕う者たち―

伊藤博文、井上馨、渋沢栄一、山県有朋など、

のちの要人たちが集い、政治論議に花を咲かせていた。

薩摩出身の個性派、中井弘(桜洲)もその中の一人。

しかも彼は、柳橋の芸妓だった「武子」にひとめ惚れして

強引に結婚し、この大隈邸に預けていた。

だが、若き男たちの溜まり場で、

美貌の武子が目をつけられないはずがない。

放浪癖のある中井の留守中、井上馨が武子に夢中になり、

彼女を奪ってしまったのだ。

膝下は少しお安くなってます  山本早苗

その後、中井が帰国。

妻が寝取られたことを知り、あっさりと引き下がった。

井上に「武子と添い遂げる」と誓約書を書かせ、

二人はめでたく結婚する。

男の友情はあついのか、井上と中井はその後も友人関係が続き、

中井は武子のいる井上邸に出入りしていたというから、

何とも不思議な関係である。

そのへんのことはゆっくり聞きましょう 竹内ゆみこ



誓約書通り、井上は武子を大事にした。

ヨーロッパ視察旅行にも同行。

2年間のヨーロッパ生活で、

武子は語学やスマートな社交術を身につけた。

またミシンや編み物、料理なども積極的に学んで、

家庭的な面も見せている。

帰国後、井上は外国からの賓客を招く、接待所が必要と

「鹿鳴館」設立に奔走する。

明冶16年(1883)11月、総工費18万円、3年の歳月をかけて、

建築家コンドルが設計した白い洋館「鹿鳴館」が完成。

開館すると武子は夫に尽力し、堂々と優美に接待役をこなした。

黙ってると深い人とかいわれてる  石橋能里子

奇しくも、この鹿鳴館の名付け親は、中井であった。

これは「詩経」小雅鹿鳴の詩から引用。

鹿は餌を見つけると一匹では食べず、

仲間を呼んでみなで楽しみながら食べるという意味の、

社交場にふさわしい名称である。

博学な中井ならではの優雅な命名だ。

才能ある2人の男に愛された武子という女は、

きっと、底知れぬ魅力を秘めた女性だったのだろう。

マネキンに舐められぬよう背を伸ばす 美馬りゅうこ



(中央)陸奥宗光(左)亮子(右)長男の広吉

「陸奥亮子」 安政3年(1856)~明冶33年(1900)

亮子の憂いを含んだ横顔の写真は、つとに有名だ。

鹿鳴館の貴婦人のなかでもナンバーワンの呼び声が高いが、

自由奔放な夫の生き様に翻弄され、

彼女の人生は辛苦が絶えなかった。

明冶政府の高官が薩長連合で占められているなか、

紀州出身の陸奥宗光は藩閥のバックもなく、孤軍奮闘していた。

才気煥発がゆえに、身の不遇にもがき苦しみ、

私生活では、妻を病で失うという不幸に見舞われた。

そんな時、可憐な新橋芸妓の亮子に惚れこんだ。

芸妓でありながら、亮子は身持ちが固いといわれたが、

なぜか陸奥に心を惹かれた。

明冶6年17歳で一回り年上の陸奥と結婚。

翌年には長女が生まれ、先妻が残した2人の子どもと合わせて、

3人の母親となる。

愛されてきんらんどんす欲しかろう  森中惠美子

5年後、宗光は反政府運動に加担した罪で禁錮5年の刑を受け、

山県監獄に投獄されてしまう。

亮子は姑とともに、陸奥家の主婦としてけなげに留守宅を預かった。

ところが宗光は出獄するとすぐに、単身ヨーロッパに留学。

妻の心労をよそに、なんと身勝手な夫といおうか。

筆まめの陸奥は獄中時代から亮子に書き続け、妻の行状を指示。

亮子はそれに従った。

唯一、事後承諾となったのが、鹿鳴館での慈善バザーへの参加だった。

宗光が外遊中の明冶17年、尻込みする亮子を、

総理大臣夫人・伊藤梅子が後押しをして出席させたのだ。

政府高官夫人がズラリと居並ぶなか、

亮子は初めてきらびやかな世界に足を踏み入れた。

恋猫の雨の滴を拭いてやる  合田瑠美子



その後、政界復帰を果たした夫とともに、

亮子も社交界にデビューする。

その抜群の美貌から「鹿鳴館の華」とうたわれた。

また夫が駐米大使となって渡米すると、クリーブランド大統領夫妻に

謁見するなどワイントン社交界でも、華やかな存在となる。

33歳、女盛りの亮子にとって、

人生でもっとも輝かしい時期ではなかったか。

美しい横顔の写真も、ワシントン時代に撮影されたものである。

可笑しくて笑う 嬉しくてまた笑う  佐藤美はる           


伊藤博文家の集合写真 (前列左3番目が梅子)

「伊藤梅子」 嘉永元年(1848)~大正13年(1924)

「好色宰相」の異名をとった伊藤博文だが、

梅子は夫の乱行ぶりに目をつぶりプライド高く気丈に生き抜いた。

梅子自身、下関の売れっ子芸妓「小梅」時代に伊藤と知り合い妊娠。

伊藤を離縁させ、再婚させた。

できちゃった婚、略奪婚の走りだが、そんないきさつもあってか、

梅子は夫の女遊びには目をつぶり、超然と構えていた。

自宅に遊びにきた芸妓たちに、帰りには必ず土産物を持たせたり、

朝まで過ごしていった女には、

翌朝、化粧や身の回りの世話までしてやるなど

大人の対応を示し、遊び女たちに畏れを抱かせた。

芸妓遊びがこうじて、伊藤の邸宅は借金のかたになっていたという。

しかし、「女にだらしなくても、金銭には執着せずきれいだった」

のが誇りだった。

  博文の最初の妻はすみ子、松下村塾の仲間・野村靖の妹である。
     結婚したものの、博文はイギリス留学もあり、帰国後も
     ほとんど家によりつかず、他の女性との放蕩三昧だったという。

忘れられやさしい色になってゆく  田村ひろ子



鹿鳴館の最初の夜会は、明治16年11月18日に行われた。

このとき、踊ることができる女性はごくわずかだった。

梅子もまだ踊れなかった。

翌17年から毎日曜日に行われることになった「舞踏練習会」では、

梅子が積極的な役割を果たした。

尻込みする高官夫人を70名も引っ張りだしたのは、

梅子の説得によるものであった。

彼女は誰よりも粋に着こなせる着物を脱いで、

率先して馴れない洋装をまとった。

伊藤の政策にそれが必要ならば、なんでもやった。

明冶42年伊藤がハルピンで暗殺の一報を受け取ると、

梅子は動揺することなく、涙もみせなかった。

そして、

国のため光をそえてゆきましし 君とし思えどかなしかりけり

と、その辛い胸中を歌に託した。

浮くことに疲れた雲が雨になる  橋倉久美子



「渋沢兼子」 嘉永5年(1852)~昭和9年(1934)

兼子の父・伊藤八兵衛は深川油堀の「伊勢八」と呼ばれる幕末の豪商。

水戸藩の金子御用達や、米やドル相場など博打的な投資で儲け、

江戸一番の大富豪とうたわれた。

だが、明治に入って没落。

ついに破産し、12人の子どもたちも路頭に迷ってしまう。

18歳で婿を迎えていた兼子だが、金の切れ目は縁の切れ目とばかり、

無常な婿はさっさと実家に帰ってしまった。

自ら芸妓になりたいと言って兼子が働き口を探していると、

芸妓ではなく、妾の口があると紹介された。

その相手が渋沢栄一であった。

流木のすこし乾いて閑かなり  下谷憲子 



前妻・千代をコレラで亡くした渋沢は43歳。

次女と長男はまだ幼く、女手が必要だった。

だが、恩師の娘で糟糠の妻だった亡き千代を思うと、

再婚にはなかなか踏み切れない。

しかし兼子と接するうちに彼女を気に入り、

後妻として迎えることにした。

偶然にも渋沢家屋敷は、羽振りのよかった頃の実家、

油堀の屋敷の近くであった。

幕末の豪商の娘から、新時代の実業家の妻となった兼子は、

博打的な強運の持ち主だった。

そこから兼子は実業家の夫を支える一方、

鹿鳴館の慈善会などを推進し、社会慈善事業にも熱心に取り組んだ。

どの年齢のきみに会っても恋をした  山口亜都子 

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