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川柳的逍遥 人の世の一家言
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咲かせたのはどなた紫陽花はピンク  森田律子

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晋作が妻・雅子に送った手紙

この手紙には、
  

「高杉の両親も井上(雅子の実家)も大切にせよ」、

「武士の妻なのだから、気持ちを強く持って留守を良く守れ」

「曽我物語」や「いろは文庫」などを読んで、

   心を磨くことを心がけること」


「武士の妻は町人や百姓の妻とは違うのだから」

と「武士の妻」としての心得が綴られている。

「慶応2年4月5日付、愛人・おうのには」

「人に馬鹿にされないように」

「写真を送るので受け取るように」と綴り、

筆まめな晋作は、雅子以外、おうのにも同志たちにも、

数多くの手紙を送って、自らの思いを伝えた。

(雅子宛の手紙は漢字が多く、愛人・おうの宛の手紙は、

   平仮名が多く使われ晋作の細かな心遣いと優しさが垣間見える)

ほんのりと空気のように坐ってる  谷口 義


高杉雅子(政子)

「高杉晋作の妻・雅子)
 
雅子は、弘化2年(1845)長州藩・井上平右衛門の次女に生れた。

「萩城下一の美人」と謳われ、早くから縁談が殺到したといわれる。

そこで絞り込んだ三件の書状をクジにし、

雅子が選び取った一つの中に書かれていたのが、

高杉晋作の名前で、安政7年(1860)1月に祝言をあげた。

時に雅子16歳、晋作22歳。

頂点の笑顔競ってきた笑顔  籠島恵子

しかし、「三国一の花婿を引き当てた」と祝福された雅子の

晋作との結婚生活は、7年余りの短いものとなる。

夫の晋作が志半ばで結核に倒れ、

慶応3年(1867)4月13日29歳で亡くなってしまうからだ。

さらにいえば、晋作は国事に東奔西走し、

萩の家に長くいることがなく、

一緒に暮らしたのは、約1年半という短さであり、

舅らと離れて住んだのは、文久3年(1863)4月、

晋作が萩郊外に隠棲していた2ヶ月ほどであった。

ただ、翌年には後継ぎとなる長男・梅之進(東一)も誕生し、

雅子は武家の嫁の役目を一つ果たしたと思っただろう。

美しいため息になる非常口  赤松ますみ


   晋作の手紙

雅子は常に不在の夫と手紙のやりとりをした。

晋作からの手紙は、ほとんど武士の妻たる心構えに終始し、

雅子に教養を積むように求めていたが、

晋作は時に長文になる雅子の手紙が届くのを、

楽しみにしていたという。

晋作は優しい夫で、雅子は一度も叱られたことがなかったというが、

やがて、夫に愛妾・おうのがいることを知った雅子は、

慶応2年2月、義母と息子と一緒に、

夫が同棲中の下関へ一時引っ越すこともした。

試験管の中で弾んでいる命  古久保和子

晋作がおうのと出合ったのは、下関の茶屋。

そこでは、おうのは「糸」と名乗っていた。

晋作が24歳、おうの20歳のときであった。。

伊藤博文らは、おうのを見て、

「晋作ほどの人物がなんであんなボケっとした女と…」

と不思議がったという。

だが、晋作にとって、とても大人しく優しい性格で、

おうのの、このぽけっとした天然の部分に、

日ごろ荒みがちだった晋作は癒されていた。

しかし小倉戦争後肺結核になった晋作の体調は悪化すると、

おのうは晋作の恩人・野村望東尼の援助を得て、

ひたすら晋作の看病に努めた。

(望東尼は、晋作の正妻の雅子が訪れる日に、

 雅子とおうのの緩衝役を買って出た人でもある)

カンツォーネおとなの恋をしています 美馬りゅうこ
  

  晋作の三味線

酒を愛し、三味線を愛し、詩歌を愛した晋作が、

妻・雅子とおうのの初体面に修羅場を想定し残した漢詩がある。

妻児将到我閑居    
       (妻児まさにわが閑居に到らんとす)
妾婦胸間患余有    
       (妾婦胸間患い余りあり)
従是両花争開落    
       (これより両花開落を争う)
主人拱手莫如何    
       (主人手をこまねいて如何ともするなし)

「妻の雅子と息子が下関の自分の住まいにやってきた」
「我が愛人のおうのは、そのことに驚き、そして大いに胸を痛めている」
「美しい花である二人の女性はどちらが咲き落ちるかを競い合っている」
「こんな光景を見て、僕は手をこまねいて見ているしかなかった」

この後も雅子は、望東尼の仲裁も得ておうのと交友関係を持ち、

晋作の死後も交流を続けたという。

同じ男を愛した女同士で気の合うところがあったのだろう。

また、おうのは後、尼となって、死ぬまで晋作を弔い続けた。

言い訳を太らせ今日を生き延びる  前岡由美子


 晩年の雅子

維新後、亡き夫・晋作の名声が高まってくると、

雅子は一人息子の教育のため、

東京に出て粛々と暮らし、息子・東一を育てあげた。

大正2年、雅子は、外交官などを努めた息子を先に亡くす、

悲しみにも遭ったが、孫への血脈は受け継がれ、

大正11年1月9日、78歳で死去した。

"文見てもよまれぬ文字はおほけれど なおなつかしき君の面影"

これは雅子が37歳の時に詠んだ歌である。

このころには彼女を困らせた晋作との思い出も

愛おしいものとなっていたのに違いない。

どんな絵を描いても青空に負ける  橋倉久美子   

「余談です」

晋作の辞世の句。

「おもしろき こともなき世をおもしろく」 

と晋作が詠むと、続けて望東尼が

「すみなすものは 心なりけり」 

と下の句を続け、晋作の死を看取った。

原色のままでこの世を泳ぎ切る  嶋沢喜八郎

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地球儀で探す地球の非常口  ふじのひろし



「桜田門の変の謎」

安政7年3月3日、江戸城で桃の節句の儀式が催される。

朝5ツ半(午前9時)ごろ、 前夜から降り続く雪の中、

井伊家上屋敷の門が開き、井伊直弼の乗った駕籠を真ん中にして、

行列がしずしずと江戸城に向け歩みだした。

供廻りの徒士26人、足軽、草履取り、駕籠持ち合わせて60余人。

行列の先頭が桜田門近くにさしかかった時、

森五六郎が直訴状を持ち、制止する警固の徒士をふり払い、

大老に接近を図る、まもなく、

1発の鉄砲の音が鳴りひびいた。

それが合図のように18人の浪士たちが、

直弼の乗る駕籠をめがけ、襲撃をかけてきた。。

駕籠のまわりには、直弼の家来がいたが、

雪のため、刀を袋で包んでおり、すぐには刀が抜けない。

それでも家来たちは直弼を守るため必死に闘い、8人を倒した。

良心が揺れると鬼が目を覚ます  栃尾奏子

直弼は幼いころから、読み書き、道徳となる儒教、剣道、弓道、

乗馬などを彦根藩の学者から学び、

埋木舎に住んだ17歳から32歳のころには、

和歌や茶の湯、剣術など、文武両道にわたる修行をつんだ。

直弼は、一度やり始めたら、途中で止めたりすることがなく、

納得するまでやりとげる性格だった。

その結果、居合いで「新心新流」の免許皆伝を取得している。

そんな直弼が、襲撃犯にいとも簡単に殺害されたのは何故なのか?

また当日早朝には、

彦根藩邸に「直弼暗殺計画」を密告する投書があったという。

しかし、

直弼は供揃えを厳重にすることなく出発した。

何故なのか?

虫メガネ無ければ読めぬ注意書  小金澤貫一

歌舞伎役者の3代目・中村仲蔵は、出入りの商人から、

「桜田門外の変」の目撃談を聞き取り、詳細を日記に残していた。

それには、少人数で成功した理由や、

短時間で決着した理由、

また直弼がなぜ抵抗しなかったのかが疑問だ と書いている。

それによると、直弼が襲われたのは、屋敷から桜田門の移動中で、

桜田門からわずか六町(600m)ほどの場所での出来事だったとある。

事件時、カゴに乗っていた井伊直弼の座布団をみると、

「刀で斬られたにしては、血痕はほんの少し」

という風聞も記されていた。

ゆっくりと雲間好奇心がのぞく  竹内いそこ


    発見された拳銃

桜田門外の変の一発の銃撃は、当時から噂になっていた。

当時は、潜んでいた襲撃犯への合図だと思われていたが、

(最近の研究で)この銃撃が直弼に致命傷を負わせたのではないか

という考えが有力になっている。

発見された拳銃は、

なぜか黒船のペリーが日本にもたらした拳銃とまったく同型、

表面には美しい「桜の模様」が全面に彫られ、

純銀製グリップの贅沢な拳銃である。

そこで直弼を銃撃した鉄砲の本当の持ち主について話題になった。

同サイズ―銃のコピーを命じた人物が事件の黒幕なのだ。

薬きょうに鶏のミンチを百グラム  くんじろう

浮上したのは御三家のひとつ、水戸藩の徳川斉昭であった。

斉昭は大名の中でも最も早く「尊皇攘夷」を唱えた人物で、

色々な兵器を作っており、軍事教練もやっていた。

中には拳銃を制作している部門もあった。

こうした状況から斉昭なら、コピー銃が作ることは簡単。

また斉昭には、天皇家と吉野の桜に対する強い思いもあり、

桜の模様を銃に彫ったのではないかとされた。

反骨のペンは折らない曲がらない  中前棋人



事件直後。

直弼の遺体は藩の屋敷に運ばれ、

お抱えの医師・岡島玄達が検死した。

遺体には、太ももから腰に弾が貫通した跡があり、

駕籠の間近から発砲たれたものと報告された。

この状況から判断して、森五六郎が直訴状の下に銃を、

隠し持っており、発砲したものだろうと決定づけられた。

この銃撃を受けた直弼は、いかに剣術の達人だとはいえ、

動くことができず、反撃できなかったのだろうとされた。

真ん中を射抜かなければならぬ的  前田咲二

桜田門外の変の一年前にも、直弼を銃撃事件があった。

直弼は2度、銃撃されていたのである。

そのときの狙撃犯も森五六郎であった。

一回目の狙撃は失敗に終わっている。

この失敗を踏まえて、綿密に計画が練られた。

一年前の事件の襲撃グループが残した手紙によると

組織的に正確に襲撃を達成させるため、

各々の役割・配置をしっかりと決め、

その中で、

森五六郎が至近距離から直弼を狙うことが決まった とある。

足組んでひとつの案を産み落とす  青木公輔

変の当日、暗殺計画は筋書き通りに進み、直弼の暗殺に成功した。

浪士18人のうち、即死1人、重傷のため自刃4人、

自首・捕縛11人。

生存者は増子金八、海後蹉磯之助の2人。

襲撃犯は、水戸藩脱藩者17名と薩摩藩士1名。

内訳を見ても、

水戸斉昭が主犯であることは間違いないところだが、

捕まった者たちは、誰一人として黒幕の正体を明かさなかった。

森五六郎もまた、銃撃のことは決して語らずして処刑された。

窓際にぽつんとおいてある台詞  山本昌乃

   

水戸藩が直弼の暗殺に奔ったわけ。

日米修好通商条約は、日本側に不利な不平等条約であったが、

直弼は日本の行く末を考え、勅許を得ないまま、

強引に条約締結へと踏み切ったこと。

もう一つは将軍の跡継ぎ問題である。

時の将軍・家定に子がいなかったため、
                             よしとみ
直弼は、当時まだ13歳だった紀州徳川家の慶福(家茂)

14代将軍の座にすえた。

後継候補にもう一人、斉昭の嫡子・一橋慶喜もいたが、

直弼は慶福のほうが将軍家の血が濃いとして、

慶福を将軍職につけたのだった。

論点がずれてますえと渋いお茶  徳山泰子



これには、

血統を重んじて,徳川将軍家の権威を強化するという意図のほか、

自分の意のままになる若い将軍をすえ、

自身の権力を強めたいという、狙いがあった。

この直弼が行なった強権的な政治は、激しい反発を呼んだ。

とくに不満をつのらせたのが、水戸藩であった。

しかし、幕府の最高首脳が暗殺されたことで、

幕府の権威は大幅に失墜。

直弼襲撃の主力となった水戸藩の急進派は、

幕府打倒を目指していたわけではなかったが、

結果的には、幕藩体制を弱体化させる大きなきっかけを作った。

錆びついた貝殻節を聞かされる  井上一筒

           
  直弼画像

安政の大獄が一段落すると、直弼は自分の姿を絵師に描かせ、

先祖の墓がある清涼寺に収めた。

絵の上に書いた和歌は,その時の気持ちを詠っている。
 近 江
"あふみの海磯うつ浪のいく度か 御世に心をくだきぬるかな"

(来た道は怒涛であったが、やるべきことをやった何の悔いも残らない)

直弼が、暗殺計画の密告文に身を守る策を取らなかったのは、

すでに、己の運命を予期していたのである。

息吸うて死にたい息吐いて死にたい  井上恵津子

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生き霊と死霊の話聞き分ける  井上一筒


    留魂録        (拡大してご覧ください)

留魂録は、

「身はたとい武蔵の野辺に朽ちぬとも 留め置かまし大和魂」

という辞世の句を巻頭にして始まる。

「松陰を偲ぶ」

松陰が世を去った今、故郷の萩にあって玄瑞たち弟子は、

師が何を伝えたかったのか、思いを巡らせることしかでかない。

玄瑞と晋作は、松陰が護送された日の足跡を辿るように、

いや、真実を探るように歩き続けた。

萩城下から松本川を渡り、大木戸を出、萩と三田尻を結ぶ往還を行き、

金谷天神を過ぎ、観音橋を目に留めた。

カナリヤも唄わぬシャッター街の雨  奥山晴生

 
  江戸へ帰らぬ旅                          (拡大してご覧ください)

橋の手前に老松が佇んでいる。

「涙松」と呼ばれる松で、護送の一行はこの根方で休息した。

その際、松陰はそぼ降る雨に打たれながら歌を詠んだという。

"帰らじと思いさだめし旅なれば ひとしほ濡るる涙松かな "

この地から城下が一望される。

一行の誰もが、松陰は故郷に戻れないと思っていた。

萩の見納めさせてやろうという、

憐れみからの小休止だったに違いない。

お魚のなみだか海のしょっぱさは  下谷憲子


 松陰絶筆

玄瑞「先生はやはり決死のお覚悟だったのだろうか」

と呟いたとき、妻のが駈けて来た。

和紙を一片、握りしめている。

どうしたのかと問えば、

文は『留魂録』にも『永訣書』にも見られぬ

「絶筆」が届けられたのですと涙ながらに答えた。

刑死の直前に詠んだものらしい。
                               こそ
"此れ程に思い定めし出で立ちは けふきく古曽 嬉しかりける"

あの世に旅立つ覚悟はとうにできていたし、

今日それを告げられたのは実に嬉しい、という意味になる。

毛筆のかすれに他意はありません  嶋沢喜八郎



これが先生だと、玄瑞はおもわず声をあげた。

「これが吉田松陰だ、

   命を賭してでもあくまで志を成し遂げようとした。

   大和魂をもった男子ではないか]

「首を刎ねられるその瞬間、先生は、

   誇りある死を体現されていたに違いない。

   その死こそが津々浦々に集う志士たちへの檄となるのが、

   わかっておられたからだ。

   先生は、己の死は希望へと繋がると確信し、

   受け入れられたのだ」

抱きしめる癌細胞ごと君を  居谷真理子



松陰は『留魂録』の中に、

【人間にもそれに相応しい春夏秋冬があると言えるだろう。

  十歳にして死ぬものには、その十歳の中に自ずから四季がある。

  二十歳には自ずから二十歳の四季が、

  三十歳には自ずから三十歳の四季が、

  五十、百歳にも自ずから四季がある。

  十歳をもって短いというのは、

  夏蝉を長生の霊木にしようと願うことだ。

  百歳をもって長いというのは、

  霊椿を蝉にしようとするような事で、

  いずれも天寿に達することにはならない。

  私は三十歳、四季はすでに備わっており、花を咲かせ、

  実をつけているはずである。

  それが単なる籾殻なのか、成熟した栗の実なのかは、

  私の知るところではない。

  もし同志の諸君の中に、私のささやかな真心を憐れみ、

  それを受け継いでやろうという人がいるなら、

  それはまかれた種子が絶えずに、穀物が年々実っていくのと同じで、

  収穫のあった年に恥じないことになるであろう。

  同志諸君よ、このことをよく考えて欲しい

と記している。

来るものが来た歳時j記と向き合って 森中恵美子



この身が果てても、この志は受け継がれると信じていたのだ。

眼を剥く晋作に対して、玄瑞は、

「草莽志士を糾合し義挙するほかに策などはない」

と嗤ってみせた。

晋作は、「なるほど。先生の唱えておられた草莽崛起か」

と嗤い返した。

草莽とは、

草木の蔭に潜む隠者。

すなわち在野にあって志を抱いている民衆のことだ。

この草莽をかき集めて攘夷を実行するしかない。

それよりほかに松陰の言い遺したものはないだろう。

「狂うか」

不適に嗤った晋作とともに、玄瑞は師の遺志を継いでへと奔ってゆく。
                          (秋月達郎・記)

旨いもんやはり最後は水だろう  岩佐ダン吉

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前線通過泣く恐る嗤う  本多洋子


  長井雅楽

「長井雅楽」

名門の家に生まれ、長州藩の藩校・明倫館で学んだ長井雅楽は、

藩主・毛利敬親の側につき、「奥番頭」となって

敬親から厚い信頼を受けるようになる。

安政5年(1858)には藩政監視役である「直目付」に就任して、

順調に昇進していった。

雅楽は「開国論者」だった。

窓を開けば梅干の種が丁  井上一筒

文久元年(1861)「航海遠略策」を敬親に建白して藩論となった。

これは、

「わが国は積極的に開国した上で、

   公武一和をもって交易を推進し、軍艦を製造して国力を上げ、

   欧米列強に並ぶ実力を備えてから、大陸へ進出すべし」

という内容だった。

この航海遠略策は、朝廷や幕府においても歓迎され、

雅楽は敬親とともに、江戸で老中と会見すると、

同策を建白して公武の周旋を依頼され、

長州藩は世間の評判を高めた。

窓一つ開き景色がひきしまる  嶋沢喜八郎

おもしろくないのは、藩内の尊王攘夷派である。

雅楽は「安政の大獄」を連座し、

江戸に檻送された松陰を見捨てた宿敵であり、

このため松陰の門下生で攘夷論者の久坂玄瑞前原一誠らに、

命を狙われることとなる。

雅楽は松陰を批判し過激派扱いさえしていた。

片や松陰は、雅楽は姑息な策を弄する奸臣と見なし、

憎悪していた。

バンカーも池もありますご用心  吉岡 民


   開国ー1    (画像を大きくしてご覧ください)

文久2年(1862)幕府で公武合体を進めていた老中・安藤信正

尊攘派の水戸浪士に襲撃された「坂下門の変」が起こると、

幕府権威の失墜は加速、長州藩内でも攘夷派の勢いが増していき、

雅楽の排斥運動は激しくなった。

やがて、玄瑞らの朝廷工作が功を奏し、

雅楽の「航海遠略策」が朝廷を軽んじる不敬な説として非難され、

代わりに、「朝主幕従を謳う薩摩藩の幕政改革」が用いられた。

坂下門外の変=坂下門外に於て安藤対馬守を水戸浪士が要撃した事件

悲しいね餃子の皮が破れると  岡谷 樹

長州藩は、航海遠略策を捨て、完全に尊皇攘夷へと藩論を転換し、

雅楽は敬親によって帰国謹慎を命じられる。

そして攘夷運動により謹慎していた間に久坂玄瑞は、
             かいらんじょうぎ
今後の藩の進路を『廻瀾条議』と題した意見書にまとめ、

藩主の敬親に上提した。

そこでは、長井雅楽を極刑に処すこと、

さらに松陰の「忠義の魂」を顕彰することで藩内刷新の契機にせよ

と説いている。

長州藩を急進的な攘夷論で一本化するにあたり、

「殉教者」とも言うべき松陰をシンボルとして、

祭り上げようというのだ。

まもなく雅楽は免職され、文久3年(1863)、44歳のとき、

長州藩の責任をとる形で切腹させられた。

渡りたい橋はとっくに流されて  合田留美子


  周布政之助

「周布政之助」

周布政之助は天保の藩政改革に取り組んだ長州藩の家老・

村田清風の影響を受けた。

村田が改革の途中で病に倒れ、

同じく家老の坪井九右衛門が藩政に実権を握った後、

「政務座役筆頭」に昇進。

村田を継いで財政再建や軍政改革、殖産興業などの改革に尽力した。

また桂小五郎高杉晋作をはじめとした松陰の門下を中枢に登用。

ところが、藩財政の悪化により失脚する。

安政5年(1858)に藩政へと復帰した政之助は、

直目付・長井雅楽「航海遠略策」に一旦は同意したが、

玄瑞や小五郎らとともに藩是を「破約攘夷」に転換させ、

尊王による挙国一致を目指した。

ドアノブの不機嫌にあう静電気  岡田幸子

経緯をみると、文久元年(1861)6月14日雅楽が江戸に着き。

周布は、藩主の公武周旋、御剣奉献の朝命を奉り、

6月15日に萩を発ち7月21日江戸に着いている。

そして、その10日後の7月30日、周布は江戸藩邸で

長井及び桂小五郎ら、水戸藩士とともに国事を談じた。

当時の情勢を見ると、桂・高杉・久坂に意見の小異はあるが、

彼らは「鎖国攘夷」で固まっている。

※ 攘夷論は、開国論と対置される場合があるが,
   現実政策としての開国論と対立するのは、鎖国論である。

確と矜持トカゲの尻尾である限り  山口ろっぱ


    開国ー2

一方、雅楽は「開国遠略・公武合体論派」である。

周布はその中間にあって、萩では長井の意見に同意していたが、

江戸にいる間、周布は桂や、久坂としばしば意見交換した以後は、

徐々に反対側に傾いていく。

その時の周布の心境は、いかばかりのものであったか。

長州藩を傷つけず、長州藩の面目を全保つことに、

長井と桂や久坂らの間に立って苦慮したに違いない。

しかし、周布は久坂の熱誠に動かされた。

狙うほど的はそっぽを向きたがる  下谷憲子

長井の立場から言えば、周布は開国遠略の意を翻し、
はくしじゃっこう
薄志弱行だろう。

だが周布から見れば、政治は時とともに変わり行くものだ。

今、天下正義の士が、尊皇攘夷を標榜し、朝廷はまた鎖国の復旧を、

幕府に要望している際に、長州藩がひとり正義に反して、

開国遠略などを主張をするのは、その名を「公武合体」にかりて、

その実は、「佐幕」の手先となるとの世評を免れ難い。

のみならず長州藩有為の志士は、

いずれも雅楽を国家を誤る姦賊視し、

いざとなれば、直接行動をあえてしようとする気勢を示している。

この際は、たとえ一旦藩論が確定したといって、

これに執着するのは、

長州藩を不幸に陥れ、藩主を孤立させるものだ、と考えた。

しかし、その後の「金門の変」「第一次長州征伐」で事態の収拾に

奔走するうちに、反対派に藩の実権を奪われることになり、

その責任を感じて切腹した。享年41歳。

オットト人の小骨に躓いた  嶌清五郎

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予言からやっぱり 茶柱が立たぬ  山本昌乃


    留魂録

留魂録とは松陰が安政6年、処刑前に獄中で塾生のために著した遺書。

松陰・留魂」

安政5年(1858)6月19日、日米修好通商条約が調印された。

「尊皇攘夷」を掲げる松陰には到底納得できなかった。

朝廷の勅許も得ず、手前勝手に外交を執り行うなど、
    もと
忠節に悖るものであり、

また異国の要求を唯々諾々と受け入れた開国では、

攘夷などおぼつかない。

松陰は時局に焦った。
                      まなべあきかつ
そんな中で考えたのが幕府老中・間部詮勝の要撃計画であった。

果たし状運ぶ切手は前のめり  雨森茂喜

しかしこの計画は未遂に終わる。

松陰のこのような過激な行動を警戒した藩は、

ふたたび松陰を野山獄に投じた。

松陰の「一刻も早く事をなさなければ」という危機感は、

獄中にあって日に日に増していく。

塾生たちの「時勢静観」の声や親族の叱責など、

耳に入らない松陰は、獄中からなお、
                        くっき
様々な策を練り上げては塾生らに、「崛起」を呼びかけていく。

メビウスの環になってゆくテロリスト 真鍋心平太


松陰はこの小伝馬町牢獄の西奥揚屋に囚われる。

そして、安政6年4月20日、

幕府はいよいよ江戸長州藩邸に松陰の差し出しを命じた。

すぐさま国元へ報せが走り、

5月14日、兄・梅太郎から松陰のもとへ報せられた。

10日後、護送。

夜来の雨の中、護衛の人数30名という物々しさだった。

松陰の江戸到着は、6月25日、

取調べを担当したのは大目付、勘定奉行、町奉行の3名である。

この折、確認したかったのは、梅田雲浜と共謀したかどうかであり、

かつまた、御所へ落し文したかどうかという、

いわば些細なことだった。

這い出した男はセロファンで包む  山口ろっぱ

松陰はこれに理路整然と答える。

しかし、奉行たちの詰問が終わると、

喋らずともよいことまでを語りかけた。

今現在、日本が直面している危機に対して、

幕府はどうあるべきなのか。

そもそも幕府はどう考えているのか…。
              うら
松陰の口から、胸の裡にあった言葉が次々と溢れ出していく。

一陣の風がたたらを踏んでいる  嶋沢喜八郎
  


「至誠にして動かざる者、未だ之有らざるなり」

その思いから、松陰は一心不乱に自説を語りかけた。
                                    とうとう
あたかも幕府の重職たちを説諭してくれんとばかりに滔々と述べた。

「間部詮勝要撃計画」という充分死罪に値する企てを

吐露してしまったのは、この時だった。

結果、松陰はすぐさま捕縛され、

小伝馬町牢獄の西奥揚屋に押し込められた。

予報に逆らって雨中を駈ける天邪鬼  木村良三

高杉晋作から、小伝馬町牢獄の松陰に、一通の手紙が届けられた。
                    いかん
「男子たる者の死すべき所や如何」

晋作の悩みが記されていた。

これに対し松陰は、
                    にく                        
【死は好むべきにも非ず、亦悪むべきにも非ず、
               すなわち
   道尽き心安んずる、便ち是れ死所】

と答えた。

意味は、

「死はむやみに求めたり避けたりするものではない。

   人間として恥ずかしくない生き方をすれば、

   まどわされることなくいつでも死を受け入れることができる」

という。

散り際の美学をならう寒椿  渡辺信也

もはや松陰は、己の死を恐れてはいなかった。

処刑される直前、血の気の失われた顔を、

一瞬、引き攣らせたのは、

自分の死を知る家族のことを思ったのかもしれない。

しかし松陰はすぐに従容として処刑の場に臨み、

ご苦労様」と会釈して、端座(正座)した。

その一糸乱れざる堂々たる態度には、

幕吏たちも感嘆しきりであったという。

分度器をはみだしてからの眼光  河村啓子

松陰が30歳の時、晋作に次のような手紙も送っている。

                    こらいまれ
【人間僅か五十年、人生七十古来希、

    何か腹のいえる様な事を遣って死なねば成仏は出来ぬぞ】

意味は、

「人間の命は僅か五十年といわれている。

   人生七十年生きる人は昔からまれである。

   何か人間としてしっかり生きた証を残さなくては、

   満足して死ぬことはできない」

そして、享年30歳という若さで松陰は散っていく。

歩いては戻れないほど遠ざかる  八上桐子

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