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川柳的逍遥 人の世の一家言
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油揚げこんがり焼いているキツネ  井上恵津子





『金々先生ー夢の始まり』 (恋川春町作画) 





「金々先生そゝのかされ、吉原へ行って以来「かけの」といふ女郎に馴染み、
親の意見もなんのその、一寸先は闇の夜も、手代源四郎・万八を連れて、
ひたすら通い詰める。今宵もまた、八丈八端の羽織、縞縮緬の小袖、役者染
の下着、亀屋頭など流行りの出で立ちで吉原へ足をのばす金兵衛。
お気に入りの女郎の気を引こうと金銀を枡に入れてばらまきます。
お付きの連中は「やった」とばかりに必死にお金飛びつくけれど、
女郎は「お金ではなびかないよ」とそっぽを向いている」




そうなのか僕に興味はなかったか  徳山泰子





金々先生 金をばらまくが肝心の遊女はそっぽを向いている場面。





恋川春町は、もともと勝川春章、鳥山石燕門下の浮世絵師である。
でありながら『金々先生栄華夢』という戯作によって、自分でシナリオを作り、
自分で絵を描きながら、新しいジャンル「黄表紙」を確立-----ということを
やってのけた。しかし、この黄表紙の濫觴『金々先生栄華夢』は、蔦屋重三郎
ではなく、鱗形屋孫兵衛が刊行している。この時、蔦屋重三郎は25歳。
駆け出しの、鱗形屋の刊行物の小売業者に過ぎなかったのである。
恋川春町は、その後しばらく、鱗形屋だけで黄表紙を発刊している。
春町の鱗形屋刊作品は12作におよび、しかも他の出版元からは、
一切出していない。




ト書きになかったシナリオの隙間  近藤真奈





                『金々先生 夢のお終い』





「金々先生所々にて大きくはめられ、今はすっかり威光も消え失せて、
昨日まで先生先生ともてはやしてくれた供の者も知らんぷりで寄り付かない。
無念至極に思けれども、すべては自業自得なのだ。
猪牙や四つ手に乗っていt身が、今はバッチを尻はしょりに日和下駄とでかけ、
心細くたゞひとり、夜な/\品川へ通う身になっている。
「変われば変わる世の中じやな~。アヽ いまいましい」
そんなところへ通行の男「駕寵の衆。こひ(声)かけて早めましやうぞ」




泣きべその男を包む女偏  東 おさむ





     『頼光邪魔入』 (北尾政美画)
黄表紙は草双紙の一種である。もともと幼児向けの絵本であった草双紙を
戯作的な発想をもってパロディ化したもの。
恋川春町作「金々先生栄華夢」を刊行されたところからその歴史が始まる。





蔦屋重三郎ー恋川春町 & 朋誠堂喜三二






 廃業前の孫の字が威勢のよい鱗形屋孫兵衛が描かれている。
表の春町と喜三二の二枚看板の字が大きい。





しかし安永9年(1780)、そのような春町の出版のかたちに異変が起こった。
春町が鱗形屋から離れ、この年以来、ほとんど全てが、蔦屋刊になるのである。
実は、この理由は、鱗形屋孫兵衛の、安永9年の出版元廃業にあった。
恋川春町という鱗形屋のスター絵師、スター黄表紙作者を、蔦重はそのまま
その知名度ごと鱗形屋の崩壊とともに、鱗形屋から受け継いだのである。
蔦重が鱗形屋から受け継いだものはそれだけではない。
そもそも蔦屋重三郎という出版業の始まりは、鱗形屋孫兵衛にその根拠がある。




好奇心いっぱい抱いて前を向く  柴辻踈星





蔦屋重三郎は安永2年(1773)に吉原大門口のガイドブック・細見業者として
出発するが、最初は、鱗形屋の発刊した吉原細見の、卸売り業者だった。
早くも次の年から出版業務を開始するが、それでも鱗形屋の小売りは
やめていない。そして周知のように、やがて細見出版元として蔦屋は鱗形屋を
しのぐようになるのである。
鱗形屋が細見の株を売ったからだと言われている。
春町の仕事も、鱗形屋廃業のあと蔦屋に移ってきた。
鱗形屋孫兵衛は蔦屋重三郎の、仕事上の父親に等しかった。
まるで、魚類や昆虫が遺伝子を受け渡したあと、自然と息絶えるように蔦屋の
独立に伴ってその勢力を失い、天明という時代を迎えた途端、
その命を終える。




したたかに計算されていた涙  原 洋志






  蔦屋重三郎(左)と朋誠堂喜三二




黄表紙を創造した恋川春町は、安永9年に蔦屋の方に移ったが、
朋誠堂喜三二は、安永6年(1777)の冬から、蔦屋の仕事を始めている。
喜三二もやはり、鱗形屋から出発した黄表紙作家だった。
黄表紙というジャンルは、鱗形屋の多くは恋川春町の絵によって作られている。
喜三二は春町と違って絵師ではなかった。
雨後庵月成という俳人であり、手柄岡持という高名な狂歌師であり、韓長齢
いう名の狂詩作者であった。であるから、朋誠堂喜三二として黄表紙を作る時
には、必ず相棒の絵師を必要とした。その最初の頃の相棒が恋川春町だった。
ただし、朋誠堂喜三二が蔦屋のために最初にした仕事は、黄表紙ではなく洒落
本だった。これは蔦屋にとって最初の洒落本経験である。




生きるのが趣味で特技は綱渡り  妻木寿美代





        『見徳一炊夢』(みるがとくいっすいのゆめ)

「もし、お頼みもうしやす。いまお誂えのそばが参りやしたと言って、
「かめ屋」の出前がそばを届けるという場面。  
『見徳一炊夢』は、金持ちの息子・清太郎が親の金を盗んで「夢」を買い、
栄華の旅に明け暮れるが、70歳になって戻ってみると家は没落していた。
実はそれは、清太郎が出前を頼んで蕎麦が届くまでの「一炊の夢」だった、
というお話。




喜三二はこの時、『道陀楼麻阿』(どうだろうまあ)という洒落本用の名前を
使った。後に天明年間にも喜三二は、蔦屋のために洒落本を書いているが、
この時は「物からの不あんど」というもう一つの、洒落本用名前を使っている。
このように、ジャンルごとに名前を使い分け、それが時代ごとに変わってゆく
のが、このころの文人たちの当たり前の姿である。
名前の違いによって、ジャンルや時代を見分けることができるのだが、後世の
我々にとっては、どの名前とどの名前が同一人物であるか明確にするのが困難
で結局誰のことか分からない名前も多数ある。
逆に、蔦屋の出版物を見ていると、多くの人と仕事をしているように見えるが、
実は、複数の名前が同じ人間を指していて、特定のネットワークの中で仕事を
生みだしている様子が、見えてくるのである。




明るいトイレ埃飛ぶのがよくわかる  仲村陽子







秋田藩御留守居役・平沢常富=朋誠堂喜三二




喜三二は、鱗形屋の作家ではあるが、春町と違い、最初から他の版元とも仕事
をした。とは言っても、初めは鱗形屋に対する遠慮から、別名で洒落本を出す
にとどまり、鱗形屋が廃業した安永9年から、やっと喜三二の名で、蔦屋から
黄表紙を出すようになる。
初期の蔦屋を支えた恋川春町朋誠堂喜三二も、鱗形屋の廃業とともに蔦屋へ
移り、鱗形屋の黄表紙活動をそのまま蔦屋重三郎に伝授していった。
蔦屋に於る朋誠堂喜三二と恋川春町の仕事ぶりは、蔦屋の別の面を見せている。
「ジャンル」「専門」や「分担」という区分けを無視して仕事が再編集されて
いくことである。
蔦屋が作った「狂歌絵本」「黄表紙」もそのようなものとして現れた。
区分けの消滅と再編集、それは春町という稀有な、そして新しい時代の象徴の
ような存在によって、世に現れてきたのである。





共倒れにならないように手を離す  大橋啓子






           『吾妻狂歌歌文庫』 (都立中央図書館)
宿屋飯盛(石川雅望)  鹿都部真顔(恋川好町)




恋川春町は絵師である。
しかし同時に、駿河小島藩江戸詰用人・倉橋格でもあった。
恋川春町とは、華やかな名前だが、実は小石川春日町に住んでいたから付けた。
というふざけた名前である。このふざけた浮世絵師が身分で言えば武士であり、
藩士であり、しかも狂歌師としては、酒上不埒として知られていた。
天明の代表的狂歌師を絵入りで集めた百人一首パロディ『吾妻狂歌歌文庫』に、
その肖像と狂歌とが載せられている。
絵師としては勝川春章、鳥山石燕の教えを受け、歌麿北斎の兄弟弟子に当る。
蜀山人=太田南畝とも親しい。
春町は、蔦屋の仕事の要だった。
春町は6歳下の重三郎を、鱗形屋のかわりに保護し育てるような気持ちで仕事
をしたのではないか。
世代から世代へと受け継がれる「連」には、必ずそのような面があった。




アリバイを貸し借りできる友がいる  山田恭正






          『鸚鵡返文武二道』 (恋川春町作、北尾政美画)
時の老中・松平定信は文武二道、学問と武芸を奨励し倹約を勧めていた。
 作品は、文武どちらにもすぐれないのらくら武士たちが,頼朝の命を受けた
畠山重忠によって箱根に湯治に行かせられ,そこで文武いずれかに入れられ
ようとする話-----寛政の改革に題材をとり,洒落やこじつけで滑稽に描いた。
心の狭い定信は、寛政の改革を茶化ちゃかしていると捉えたのである。




しかし寛政元年(1789)春町は、45歳の若さで死ぬ。
死因不明。『鸚鵡返文武二道』が松平定信によって咎められた。
小島格は幕府の呼び出しに応じなかったという。
平賀源内獄死事件の時も、小田野直武変死事件の時もそうだったが、底抜けに
明るい笑いの向こうに、暗闇の死が潜んでいた。
いつもどこかに、あの道徳家、松平定信の影があった。
真面目な顔をした道徳家には、気を付けなければいけない。
定信は、「笑い」というものを殺したかったのかもしれない。
死だけは免れたものの喜三二重三郎も、京伝南畝も変節を、遂げなければ、
生きるすべはなかった。




友が逝き白いカモメが飛んでゆく  吉永団風





          「文武二道万石通」(朋誠堂喜三二作・喜多川行麿画)
定信の文武奨励策を背景に「ぬらくら」武士判別のため箱根七湯めぐり。
「穿ち」ねらいも、穴を詳しく探したけれど、見る者には、「いちいちわかり
かねます」と微妙。




朋誠堂喜三二もまた、秋田藩御留守居役・平沢常富という藩士だった。
釣りが好きなことから「岡持=桶」と名乗ったそうで、のんびりした気分が伝
わってくる。
やはり『吾妻狂歌歌文庫』にカルタ型の肖像を載せる著名な狂歌師だった。
蔦屋に移ってからは、『見徳一炊夢』(みるがとくいっすいのゆめ)で評判を
とったが、やはり『文武二道万石通』で、定信にやられ、秋田藩より止筆を命
じられて、筆を折った。




削っても結論の出ぬ鉛筆だ  木戸利枝

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