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川柳的逍遥 人の世の一家言
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炬燵から出て来た人がリンカーン  井上一筒


開港間もない横浜で力士が西洋人を投げ飛ばす風刺絵

蕩児、実際に力士と西洋人のレスラーの試合が行なわれたという。
攘夷論が高まるなか、人々は喝采を送ったのであろう。

「松陰ー崛起」

松陰は天下の情勢に詳しかった。

密航の罪で入った野山獄を出されたとはいっても、

幽閉蟄居の身でり、杉家敷地から出られずにいたが、

江戸に遊学していた玄瑞ら塾生や、

松陰を慕って杉家に出入りしていた様々な人々から,

世情について話を聞いた。

さらには遠近の知り合いとも書簡を往来させていたお蔭で、

萩という僻地にあっても、世の移ろいには誰よりも鋭敏で、

熟知し自ら「飛耳長目」なる冊子にも編んでいた。

この中には、安政5年(1856)6月19日に調印された

「日米通商条約」についての情報もあった。

松陰は「尊王攘夷」を掲げるがゆえ、

この調印に到底納得ができなかった。

キリストの眉間に砂が舞っている  石橋芳山
  
朝廷の勅許も得ず手前勝手に外交を執り行うなど、
     もと                      いいだくだく
忠節に悖るものであり、また異国の要求を唯々諾々と

受け入れた開国では、「攘夷」など覚束ない。

松陰はここに反幕の志を立て激越な文章そのままに革命家となった。

松下村塾を反幕の震源地とし、

家財道具を売り払って武器を購い、軍事教練の資金ともした。

武士だけではない。町人であろうが僧侶であろうが、

すべての教え子を尊攘憂国の士とし、民兵として養成した。

長州だけではない、勤皇の志士と呼ばれる尊王攘夷論者が京を闊歩し、

大いに都を騒がせ始めたのもこの頃だ。

しかし、それに恐れを抱いた幕府は大老・井伊直弼主導のもと、

志士の壊滅に乗り出した。 いわゆる安政の大獄である。

四つ角をまっすぐに来た波頭  井上しのぶ


    梅田雲浜

こうした中、京都伏見奉行所に捕縛されたのが、
                          うんぴん
かって萩を訪ねてきた小浜藩士の梅田雲浜だった。
                  あかねたけと
松陰は一計として、門弟の赤禰武人に密命を与え、

志士を集めて伏見の獄舎を襲わせ、雲浜を救けだすことも考えた。

しかし事前に察知した藩庁によって赤禰が捕縛され、

目論みは水泡に帰す。

松陰はいよいよ、時局に焦った。

そうした中で考えたのが、

井伊の側近で京へ派遣された老中・間部詮勝の要撃計画であった。

しかし、これも実行に移す間もなく、藩が松陰の行動を警戒し、

再び野山獄へ投ぜられた。

転がった先で宙ぶらりんになった予知  山本昌乃


松陰が獄中で書いた幽囚録

松陰の「一刻も早く事を為さなければ」という危機感は、

獄中にあって日に日に増す。

江戸にいた高杉晋作久坂玄瑞が諫言したのは、このときである。

松陰の唱える「義旗一挙」は容易ではなく、

藩にも害を及ぼしかねないため、

「今は座して時勢を静観すべきだ」、と。

しかし「僕は正義をするつもり」などと記した書簡を各所に送った。

それだけではない。

「国変に節を守って死ぬもののない事、幾重も幾重も残念」

とまで認めている。

今こそが「狂う」時ではないか。

松陰は思わず、己の偽らざる思いを書簡にぶつけた。

結局、親族の懐柔と叱責を受けて弟子たちと和解したものの、

「義挙」については止まらず、譲らなかった。

そして獄中からなお、
くっき
様々な策を練り上げては、塾生らに「崛起」を呼びかけてゆく。

座右の遠浅を左耳で聞く  酒井かがり


    幽囚録

幽囚録は予言集とも言われる
松陰の門下生たちは、この松陰の予言に導かれるように、
革命を実行していく。
また松陰は維新後数十年先のことまで予測し言い当てている。

【草莽崛起】

 草莽は「民間とか在野」、 崛起は「立ち上がること」

安政の大獄で収監される直前に松陰は、

今の幕府も諸侯も最早酔人なれば扶持の術なし。

    草莽崛起の人を望む外頼なし。

    されど本藩の恩と天朝の徳とは如何にして忘るゝに方なし。

    草莽崛起の力を以て、近くは本藩を維持し、

    遠くは天朝の中興を補佐し奉れば、
   まこと
    匹夫の諒に負くが如くなれど、神州の大功ある人と云ふべし」

 と北山安世に宛てた書状の中に 草莽崛起を記した。

(匹夫の諒とは、道理をわきまえない教養のない男の行い)

 草莽は「民間とか在野」、 崛起は「立ち上がること」
       たの
「竟に諸候恃むに足らず、公卿恃むに足らず、

   草莽志士糾合義挙の他にはとても策これ無き事 」

玄瑞が土佐の武市半平太に宛て、坂本龍馬に託した書簡にも、

「草莽」「義挙」の言葉があり「崛起」を煽っている。

志ある在野の人よ立ち上がり、今やるべき事を成し遂げよう。

鳩尾に溜まるせめてが発火する  藤井寿代

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腐乱するまでA 4に色を塗る  くんじろう


  井伊直弼

「井伊直弼」

井伊直弼は先々代の藩主・井伊直中の14男として彦根に生まれる。

兄弟が多く庶子であったため、藩政の表舞台に立つ機会はなく、

世捨て人のように、諦観を抱えながら生きていた。
               なおあき
そんな時、兄で藩主、直亮の子が急逝する。

直亮には他に嫡子がなく、

「井伊家の血を絶やすことはできない」

と、考えた彦根藩は、直弼に白羽の矢を立てた。

経験上から枯木に花は咲きません  勝比古

こうして井伊直弼は嘉永3年(1850)直亮の死を受けて、

第15代藩主となる。

藩主に就任すると、「藩政改革」を実施して、名君と呼ばれた。

しかし不安定な幕政や外国船による脅威など、

こころ休まる暇はなかった。
たまりのま
溜間詰大名の筆頭となった直弼は、黒船来航に伴う江戸湾防備で活躍。
まさよし
この頃、江戸城内は水戸藩ら尊王攘夷派と

老中・堀田正睦ら開国派の対立が深刻な問題となっていた。

不遇だった青少年期から諸国の情勢を学んでいた直弼は、

もともとは「鎖国論者」だったが、わが国を守るためには

列強との通商貿易が必要であるとして「開国」を主張。
                           よしとみ
また、将軍継嗣問題では紀伊藩主・徳川慶福を推挙し、
               よしのぶ
直弼ら南紀派は、一橋慶喜を推す一橋派と対立した。

ライオンの尻尾こすって火をおこす  岡田幸雄



南紀派の政治工作によって、安政5年(1858)に直弼は、

「大老」に就任する。

「通商条約」の締結を求めるアメリカ総領事・ハリスに対し、

直弼は孝明天皇の勅許を待ち、朝廷や幕府、諸藩をまとめた上で

調印に臨もうとしていたが、実現することはなかった。

同年「通商条約」に調印。

これが「違勅調印」にあたるとして、

直弼は一橋派や尊皇攘夷派から攻撃を受ける。

狙われているからツケマツゲをしてる  田中博造

一方の幕府は、そうした反対勢力を粛清する。

いわゆる「安政の大獄」を断行。

直弼はこの弾圧の首謀者とみなされ「井伊の赤鬼」と揶揄された。

外国の脅威を知る直弼は、時勢に「鬼」にならざるを得なかった。

憤怒した志士から命を狙われる存在となった直弼は、

安政7年(1860)桜田門前において、

水戸脱藩浪士ら18人に襲撃され、命を落とした。

この「桜田門の変」によって、江戸幕府の権威は大きく失墜、

尊皇攘夷運動が激化することとなり、

世はさらなる激動期に入っていく。

ロッキングチェアー速報はテロと言う  上嶋幸雀


 間部詮勝像

「青鬼・間部詮勝」
 まなべあきかつ                                       あきひろ
間部詮勝は文化元年(1804)鯖江藩5代藩主・詮煕の3男として誕生。
えつのしん
幼名は鉞之進。
                           あきさね
文化11年7月、兄である6代藩主・間部詮允の急死により、

11歳の若さで7代藩主の座につく。

文政9年(1826)6月、22歳の時。奏者番として幕政に関わる。

奏者番=一万石以上の譜代大名が任命される職で、
年始や節供などに大名が将軍に謁見するときその取次ぎ。
その姓名や進物を披露するなど、殿中の礼式を取り仕切った。

以後、奏者番の任命を皮切りに、詮勝は順調に出世階段を上っていく。

天保元年(1830)寺社奉行見習い(27歳)、翌年、加役に昇進。

天保8年に大坂城代に就任(34歳)、翌年には京都所司代を務める。

そして、天保11年1月、詮勝は37歳で、

幕閣の最高位である西丸老中となる。

一本の靴紐として参加する  筒井祥文

しかし天保14年、「天保の改革」を進めていた水野忠邦から、

病気を理由に西丸老中職を解任され、幕政から離れる。

地元に帰った詮勝は、悠々自適の中で、琴や碁、書画に親しむ一方、

広く蘭学者と接し、海外事情の研究を進めた。

また公園をつくったり、「学業奨励」など、「藩政改革」

「海防策」を整え、「洋式兵制の採用」

藩校・「進徳館」を設置している。

ボクの頭に中二階をつくる  本多洋子

安政5年(1858)、井伊直弼に罷免された堀田正睦に代わる形で

詮勝はふたたび、幕閣の老中の座に座ることとなる。

世に言う「井伊の赤鬼」に並ぶ「間部の青鬼」のタッグ誕生である。

詮勝にとって、実に15年ぶりの幕政への復帰になった。

大老からは早速、「老中勝手掛兼外国御用掛」の職を任された。

当時、日本は開国をめぐり是非の論議が激しく交わされ、

国情が不安定な時である。

このようなときに詮勝は老中として、外国問題を託されたのである。

即戦力託されました紙コップ  徳山泰子

時代の流れに逆らえず、詮勝は直弼の命で「安政五カ国条約」に調印。

詮勝の独断にも見える形で、朝廷の許可を得ず、条約調印を果した。

その後、詮勝は朝廷に参内し、条約調印の説明をしているが、

「朝廷無視・条約調印」に怒る尊攘派の暗殺の対象にされる。

そこで幕府はその抵抗派を摘みとっていく政策を断行する。

それが「安政の大獄」である。

亀甲を焙るヒトラーが飛び出す  井上一筒



その後詮勝は「安政の大獄」の志士の処分をめぐって、

厳罰主義の大老・井伊直弼と意見を異にし、老中を解職され帰郷。

この時、詮勝は志士の命を擁護したという。

青鬼は意外と「いい鬼」だったのだ。
あきざね
そして、文久2年(1862)に藩主の座を詮実に譲り、

雅号を「松堂」とし詩とか絵画を嗜み、控えめな余生を過ごしつつ、

明治17年11月28日まで生きた。享年81歳。

 なお、松陰が「間部詮勝襲撃計画」を画策したのは、

  松陰が京都から戻った塾生から、

  詮勝が朝廷無視の主謀者と聞いたから といわれる。

先ず生きる色や形はそのうちに  嶋沢喜八郎

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魔がさして生まれた日から主人公  桑原すヾ代


 萩・反射炉

鉄製大砲の鋳造に必要な金属溶解炉。

長州藩の軍事力強化の一環として導入が試みられるも未完成に終る。

しかし、反射炉が現存するのは韮山と萩の二ヶ所だけであり、

貴重な文化遺産になっている。

「地雷火」


 松下村塾講義風景

松陰が松下村塾で塾生たちに、教えを施していた期間は2年余り。

建物を構えての正式な形での塾運営は、

安政4年(1857)11月から翌年12月までの、

約1年間に過ぎなかった。

その間に何があったかといえば、まず安政5年6月に、幕府が、

「日米通商条約」をアメリカと結び、正式に開国したことだ。

大老・井伊直弼は当初、天皇の許可が下りるまで、

なるべく条約の調印をしないよう命じていた。
                                   ただなり
しかし米の総領事ハリスと交渉にあたっていた岩瀬忠震らは、

「幕府の外交に勅許は不要」として、調印に踏み切った。

交渉を委任した以上、井伊直弼も開国を了承するしかなかった。

緩やかに確実に病む水の星  斉尾くにこ

これに対し怒ったのが尊皇攘夷を唱える知識人や志士たちである。

彼らは京都に向かい、朝廷に対して幕府の横暴を訴え出たのだ。

「反幕府」の声は全国に飛び火し、各地で議論が沸騰した。

この動きに朝廷の一部の公卿たちも同調し、

井伊直弼の排斥運動に出る。

朝廷が政治に関与してきたのは前代未聞のことだった。

身の危険を察した井伊直弼は、幕権を知らしめるため先手を打った。

京都に集結している尊攘派や幕府批判の志士たちを静めるべく、
        まなべあきかつ
腹心の老中・間部詮勝を京都に派遣。

騒ぎを起こしていた諸藩の志士をはじめ皇族、公家、僧侶、藩主、

幕臣、学者、町人を片っ端から捕らえ、粛清させたのだ。

その数、実に百名以上、「安政の大獄」のはじまりである。

雲母から作った真っ黒い画鋲  井上一筒


   村塾記

長州では松陰が、やはり幕府に対して憤りをあらわにしていた。
 
間部詮勝
が朝廷に乗り込んで、安政の大獄を行なっていることを

知った松陰は、尊皇攘夷の思想のもと、

「間部を暗殺すべし」と叫び、藩の重臣・周布政之助に宛てて

「武器・弾薬を提供していあただきたい」

と書き送ったほか、塾生にも決起を促がした。

松陰自身もまだ血気盛んな年頃。

言動がエスカレートし、いよいよ歯止めが利かなくなった。

驚いたのは当の塾生たち。

「先生、落ち着いてください」といった血判状を出して諌めた。

ハンカチをきれいに畳む愉快犯  くんじろう

後に倒幕思想を爆発させる長州も、この時はまだ、

そこまでの過激な行動に及ぼうとする者はいなかった。

だが、武器の貸与まで願い出た行動を危険視した藩は、

再び野山獄に松陰を投獄した。

その報は、京都や江戸にも届いた。

くちうらを合わせてからの多事多難 佐藤美はる

(拡大して読んでください)

「小野為八」


為八は、文政12年(1829)藩医・山根文季の長男として生まれる。

その後、藩医小野家の養子となるも医業にはつかず、

15歳で松陰に入門。

安政2年(1855)に、外国船を警戒する三浦半島において、

警備の仕事につき、砲術家としての理論と実践を身につけた。  

安政5年(1858)、30歳のとき、ふたたび松下村塾をくぐる。

そして松陰が老中・間部詮勝の要撃を計画し、

「地雷火」の実験を試みた際、

幽閉の身の松陰を背負って現場に行き、

この実験を見学させたという。

ひらかないことを願って「ひらけゴマ」 清水すみれ


    長州砲
この長州砲は郡司鋳造所で製造された

文久3年(1863)長州藩が下関海峡で外国船を攻撃した攘夷戦では、

癸亥丸に乗り込み、砲戦の陣頭指揮をとった。

同年奇兵隊が結成されると、砲術の教師として兵士たちを指導。

その後、慶応2年の長州戦争などにも、砲隊を率いて活躍した。  

維新の後、写真や絵師(雅号・「等魁」)をしながら、

明治40年まで生きた。

あれは幻無かったことにしてしまう  籠島恵子


「郡司鋳造所遺構広場」
階段上にあるのが再現された実物大の「こしき炉」

嘉永6年(1853)のペリー来航をきっかけとして、

幕府が公布した「洋式砲術令」によって、

同年11月、萩藩は「郡司鋳造所」を藩営の大砲鋳造所に指定し、

大量の青銅製大砲を鋳造。  

鋳造された大砲は、江戸湾防備のため、

三浦半島に設けられた萩藩の陣屋に運ばれ、外国船の警戒にあたる。

また文久3年(1863)には、下関海峡での外国船砲撃、

元治元年(1864)、同海峡での下関戦争にも使用された。

正面にみてはいけないものを見る  佐藤正昭

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栃の木の最後のひと葉は誰だろう  田中博造

「椋梨藤太」

椋梨藤太は藩の歴史を編纂する役所にいたが、嘉永3年(1850)

40代半ばを過ぎて、藩政を担う要職に抜擢された。

保守派であった椋梨は、尊攘派の周布政之助と藩政の主導権を争い、

周布が支援する松陰や松下村塾の塾生たちの活動を牽制した。

しかし嘉永6年(1853)、懐柔に成功したと思っていた

小田村伊之助が、周布と歩調を合わせて、

椋梨のまとめた「藩論」への異を藩主・毛利敬親に唱えたことから、

椋梨は彼の添役であった周布政之助に実権を奪われ、

隠居を命じられる。

ごまよりも小さな虫がいるんです   三輪幸子

しかし安政2年(1855)再び実権を掌握し、

周布とは何度か要職の座を争い、安政3年に退役する。

その後、文久3年の「8月18日の政変」続く「禁門の変」で、

長州藩が幕府に圧されると、椋梨は機に乗じて藩政に復帰。

周布政之助から実権を奪還。

奇兵隊ほか諸隊の解散令を発し、

益田右衛門介・福原越後・国司信濃の三家老を切腹させて

幕府へ謝罪し、尊皇攘夷派を次々に粛清し、

周布を自害に追い込んでいる。

ストローの先が八つに割れていた  前中知栄

しかし、この粛清に危機感を募らせた高杉晋作・伊藤俊輔らは、

元治元年(1864)12月、功山寺で決起、

諸隊を下関から萩へと進撃し、慶応元年(1865)1月の

「絵堂の戦い」で椋梨の鎮圧軍を敗退させた。

また潜伏していた桂小五郎が帰国して、長州の藩論を再び、

武備恭順・尊王攘夷・倒幕路線に統一するに及び椋梨は失脚、

同年2月、椋梨は岩国藩主・吉川経健を頼って逃亡したものの、

海が荒れたため、行き先を変更さざるを得なくなり、

最終的には津和野藩領内で捕らえられた。

そして5月、息子の中井栄次郎らとともに、

萩の野山獄において処刑される。 享年61歳。 

鉄筋の城に馴染めぬ鬼やんま  井上裕二

周布政之助

長州藩の家老筋に生まれ、藩校・明倫館に学んだ周布政之助は、

早くも才能を発揮し「都講」(現在の生徒会長)にもなっている。

弘化4年(1847)、24歳で祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢され、

嘉永6年(1853)には政務役筆頭となる。

周布は天保の藩政改革を為した村田清風の影響を受けており、

いわば、この抜擢は村田清風と藩内政権争いをしていた坪井九右衛門派

椋梨藤太との連立政権、いわゆる抱き込みを意味していた。

周布は政務役筆頭となり、「財政再建」や「軍制改革」、「殖産興業」など、

藩政改革に尽力した。

ネジ一本あれば完成する」お城  みつ木もも花

しかし、ペリー来航で、江戸幕府より相州防備の任を萩藩が負うと、

藩の財政が悪化し、周布は失脚。

この後、長州藩は、改革派(周布)と保守派(椋梨)の二大派閥が、

政権を取ったり失ったりと、政権交代が繰り返されている。

文久2年(1862)には、藩論の主流となった長井雅楽の

「航海遠略策」に、藩の経済政策の責任者として周布は、

一時は同意したが、久坂玄瑞や桂小五郎らの攘夷派若手藩士らに

説得され、藩論統一のために「攘夷」を唱えた。

軟水で鼻 硬水で耳洗う  井上一筒

この頃、酒に悪癖のある周布は土佐藩前藩主・山内容堂に対し、

酔った勢いで暴言を吐き、謹慎処分となっっている。

山内容堂は長州藩藩主・毛利元徳に対し、周布の死罪を迫ったが、

彼の優秀さを惜しみ、毛利家は「麻田公輔」と改名させ、

江戸藩邸での勤務を続けさせた。

周布の酒酔い事件は数々あるが、元治元年(1864)には

「禁門の変」で、長州藩が窮地にあった頃、

高杉晋作が脱藩の罪で投獄されていた野山獄に、

泥酔して馬で乗り込み、抜刀して暴れ謹慎処分を受けている。

加減して飲めよとバッカスが叱る  新家完司

以後、保守派の椋梨藤太や開国派の長井雅楽と路線を異にし、

松陰ら尊皇攘夷派に共鳴し始めた周布は、

松陰が塾で正式に講義ができるように計らったり、

塾生らを江戸や京に送ったりするなど、松下村塾の活動を支援した。

しかし、松陰や塾生の思想や活動が過激さを増すにつれ、

その対処に追われるようになり、「禁門の変」に際しても、

事態の収拾に奔走している。

お湯を注ぐと冬がしゃしゃり出る  山本昌乃

元治元年、幕府による長州への出兵や、列強4国(英・米・仏・蘭)の

連合艦隊による長州砲撃を背景に、幕府恭順派が台頭すると、

周布は藩での実権を失っていく。

そしてその年の9月、「第一次長州征伐」が迫ろうとしていた頃、

開国派の井上馨が撰鋒隊に襲われて重傷を負った翌日、

藩が混迷している責任を感じて、周布は自ら腹を切っている。 享年42。

銀河鉄道の駅の時計の雪予報  墨作二郎

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ひらかなの似合うおんなの物語り  美馬りゅうこ


    涙袖帖

明治の世になって、文は楫取素彦と再婚したが、
その際も彼女は前夫(玄瑞)からの大切な手紙の束を持参した。
書中には小田村伊之助(楫取)の名も親しげに登場する。
のちに楫取は、それを「三巻の巻物」に仕立てた。



「玄瑞の手紙」

15歳と玄瑞18歳という若い二人の結婚生活は、

いわゆる幸福とはかけ離れたものであった。
      ふたつき
婚礼から二月後の安政5年(1858)2月、

玄瑞は江戸遊学の途につく、

以後、蘭学から西洋学問までを学び、多忙を極めた。

これらは、玄瑞が広く世界を知るための糧となった。

松陰が唱えた「飛耳長目」の実践でもあった。

そして玄瑞25歳の死によって、終焉を迎えるまでの7年間、

東奔西走の日々を送る玄瑞は、萩にいることも少なかったので、

穏やかに二人で過ごした日々など、ごくわずかだった。

幸せをくらべはしない銀の匙  星出冬馬



とはいえ玄瑞も、文を顧みなかったわけではない。

二人は頻繁に文通しており、

そのうち玄瑞からの手紙のみ21通の文面が今に伝わっている。

読めば、恋愛の甘さはないものの、

温もりに満ちた玄瑞の思いやりが伝わってくる。

安政5年(1858)の冬、玄瑞が旅先から文に出した最初の手紙。

「一ふで参らせ候。

   寒さつよう候へども、いよいよおん障なふう、

   おん暮めでたくぞんじ参らせ候。

   まいまい文まゐる。此より何かいそがしく打絶申候。

   みなみなさま御無事くらし遊ばし、めで度御事に御座候。

   どうぞどうぞ、月に一度は六ヶ敷候へば、

   三月に一度は保福寺墓参りおん頼参らせ候。
 もうす   おろか   もっぱら
   申も疎御用心 専に候。 皆様ぇ宜おんつたえ頼参らせ候。

   何も後便に申候。 可しく。

   尚々きもの此のうち飯田の使まゐる。 慥に受取申候」

お文どの                  玄瑞

おとといをぽろり余白が消えました  森田律子

玄瑞は江戸・京都間を奔走し、

梁川静巌、梅田雲浜、頼三樹三郎などと往来し

公家の大原重徳卿に尊王攘夷の意見を上申したしているころであった。

「口語訳」

一筆お手紙差し上げます。
寒さが強いですが、益々差し支えなくお暮らしのことと存じます。
いつもいつもお手紙ありがとうございます。
こちらからは何かれ忙しくて、
お手紙を差し上げるのが切れてしまいました。
皆々様も御無事にお暮らしんなさり、めでたいことでございます。
どうかどうか月に一度が難しけらば、
三ヶ月に一度は保福寺への墓参りをお頼みいたします。
言うまでもございませんが、御用心なさることが大切です。
皆様へよろしくお伝えくださることをお頼みいたします。
いずれも次のお便りで申し上げます。     かしく。
なお、着物は先ごろ飯田の使いが持ってまいりました。
たしかに受け取りました。
                   
お文どの (在萩16歳)       玄瑞 (在江戸19歳)

僕が居るシンメトリーに遠い位置  藤井孝作


8月18日の政変に言及している手紙

[万延元年(1860)8月20日の手紙]  (口語訳)

「一筆お手紙差し上げます。

   だんだん寒さに向かいますが、まずは杉家をはじめ、

   そのほかの皆様も無事とのことで、およろこび申し上げます。

   さて宇野おば様のことびっくりいたしました。

   さぞさぞ、お母様(瀧)にもひととおりでなく

   お力を落とされたと存じます。

   いつもいつも保福寺にも参詣してくださり安心いたしました。
                             いくも
   過去帳については、生雲(玄瑞の母の実家)へ言ってよこし、

   亡くなった宇野おば様を)お迎えなさるのがよろしいです。

   いずれも次のお便りで申し上げます。

   寒さからお身体を大事になさることは申すまでもありません。

 お文どの                 玄瑞 (在江戸)

(追伸)なお松陰先生の墓へも時々お参りしていますので、

    ご安心ください。

不義理して敷居の高いドアばかり  森 廣子

玄瑞はその後の手紙でも、

しばしば松陰亡きあとの杉家一家を気にかけ、

義兄・梅太郎の子供へ着物を贈るなど細やかな心配りを見せている。

『しら雲の たなびくくまは あしがきの ふりぬる里の 宿のあたりぞ』

など、故郷の杉家を懐かしむ歌もいくつか詠んだ。

早くに身寄りをなくした玄瑞は、

短い間でも一緒に暮らした杉家の人々に、

深い恩義と親愛の情を抱いていた。

そして言わずもがな、その思いが一番に注がれたのが、

妻の文であった。

的もまたこちらを向いて立っている  谷口 義



「万延元年9月24日の手紙」 (口語訳)

   「次第に寒くなりますが、

   杉家の皆々様差し障りなくお暮らしのようで喜んでいます。

   先ごろ生雲へお父上様と一緒にお訪ね下さったとのこと、

   生雲では喜んだことと存じます。

   母上様、姉様千代・寿子など、こぞって生雲を訪ねられたら、

   少しは母上様の気も晴れることと思います。

   品川弥二郎の便で、着物が届き、受け取りました。

   着物は当分間に合っております。

   今あるものを古い宝物のようになるまで着ますので、

   とくに着物は必要ございません。

   いずれも次のお便りで申し上げます。    かしく。

   なお杉家の皆様へもよろしくお伝えください。

   寒さからお身体を大事になさることは申すまでもありません。

お文どのご無事で           玄瑞 (在江戸)

このままでいい このままがいい玉椿  田口和代



杉家全員が玄瑞のことを想い、

玄瑞も家族同様に杉家の人を思いやり、

細やかなこころ遣いが伝わってくる。

文が人づてに手縫いの着物を届ければ、

「古い宝物のようになるまで着れば、格別に着物は要りません」 

と、家計の遣り繰りが大変なことを知っている玄瑞は、

たびたび着物を工面してくれる文に対して、

思いやりをみせるのである。

消したらあかん とろ火のまんま豆煮える 山本昌乃

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