栃の木の最後のひと葉は誰だろう 田中博造
「椋梨藤太」
椋梨藤太は藩の歴史を編纂する役所にいたが、嘉永3年
(1850)
40代半ばを過ぎて、藩政を担う要職に抜擢された。
保守派であった椋梨は、尊攘派の
周布政之助と藩政の主導権を争い、
周布が支援する
松陰や松下村塾の塾生たちの活動を牽制した。
しかし嘉永6年
(1853)、懐柔に成功したと思っていた
小田村伊之助が、周布と歩調を合わせて、
椋梨のまとめた
「藩論」への異を藩主・
毛利敬親に唱えたことから、
椋梨は彼の添役であった周布政之助に実権を奪われ、
隠居を命じられる。
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しかし安政2年
(1855)再び実権を掌握し、
周布とは何度か要職の座を争い、安政3年に退役する。
その後、文久3年の
「8月18日の政変」続く
「禁門の変」で、
長州藩が幕府に圧されると、椋梨は機に乗じて藩政に復帰。
周布政之助から実権を奪還。
奇兵隊ほか諸隊の解散令を発し、
益田右衛門介・福原越後・国司信濃の三家老を切腹させて
幕府へ謝罪し、尊皇攘夷派を次々に粛清し、
周布を自害に追い込んでいる。
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しかし、この粛清に危機感を募らせた
高杉晋作・伊藤俊輔らは、
元治元年
(1864)12月、功山寺で決起、
諸隊を下関から萩へと進撃し、慶応元年
(1865)1月の
「絵堂の戦い」で椋梨の鎮圧軍を敗退させた。
また潜伏していた
桂小五郎が帰国して、長州の藩論を再び、
武備恭順・尊王攘夷・倒幕路線に統一するに及び椋梨は失脚、
同年2月、椋梨は岩国藩主・
吉川経健を頼って逃亡したものの、
海が荒れたため、行き先を変更さざるを得なくなり、
最終的には津和野藩領内で捕らえられた。
そして5月、息子の
中井栄次郎らとともに、
萩の野山獄において処刑される。 享年61歳。
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周布政之助
長州藩の家老筋に生まれ、藩校・明倫館に学んだ周布政之助は、
早くも才能を発揮し「都講」(現在の生徒会長)にもなっている。
弘化4年(1847)、24歳で祐筆・椋梨藤太の添役として抜擢され、
嘉永6年(1853)には政務役筆頭となる。
周布は天保の藩政改革を為した村田清風の影響を受けており、
いわば、この抜擢は村田清風と藩内政権争いをしていた坪井九右衛門派
椋梨藤太との連立政権、いわゆる抱き込みを意味していた。
周布は政務役筆頭となり、「財政再建」や「軍制改革」、「殖産興業」など、
藩政改革に尽力した。
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しかし、ペリー来航で、江戸幕府より相州防備の任を萩藩が負うと、
藩の財政が悪化し、周布は失脚。
この後、長州藩は、改革派(周布)と保守派(椋梨)の二大派閥が、
政権を取ったり失ったりと、政権交代が繰り返されている。
文久2年(1862)には、藩論の主流となった長井雅楽の
「航海遠略策」に、藩の経済政策の責任者として周布は、
一時は同意したが、久坂玄瑞や桂小五郎らの攘夷派若手藩士らに
説得され、藩論統一のために「攘夷」を唱えた。
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この頃、酒に悪癖のある周布は土佐藩前藩主・山内容堂に対し、
酔った勢いで暴言を吐き、謹慎処分となっっている。
山内容堂は長州藩藩主・毛利元徳に対し、周布の死罪を迫ったが、
彼の優秀さを惜しみ、毛利家は「麻田公輔」と改名させ、
江戸藩邸での勤務を続けさせた。
周布の酒酔い事件は数々あるが、元治元年(1864)には
「禁門の変」で、長州藩が窮地にあった頃、
高杉晋作が脱藩の罪で投獄されていた野山獄に、
泥酔して馬で乗り込み、抜刀して暴れ謹慎処分を受けている。
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以後、保守派の椋梨藤太や開国派の長井雅楽と路線を異にし、
松陰ら尊皇攘夷派に共鳴し始めた周布は、
松陰が塾で正式に講義ができるように計らったり、
塾生らを江戸や京に送ったりするなど、松下村塾の活動を支援した。
しかし、松陰や塾生の思想や活動が過激さを増すにつれ、
その対処に追われるようになり、「禁門の変」に際しても、
事態の収拾に奔走している。
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元治元年、幕府による長州への出兵や、列強4国(英・米・仏・蘭)の
連合艦隊による長州砲撃を背景に、幕府恭順派が台頭すると、
周布は藩での実権を失っていく。
そしてその年の9月、「第一次長州征伐」が迫ろうとしていた頃、
開国派の井上馨が撰鋒隊に襲われて重傷を負った翌日、
藩が混迷している責任を感じて、周布は自ら腹を切っている。 享年42。
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