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川柳的逍遥 人の世の一家言
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フランスパンと出会ってからの春キャベツ 山本早苗



「村塾の日々」

仮釈放であったが、萩へ戻った松陰は、生家の一室で父や近親者に

『孟子』『武教全書』を講じた。

講義の様子は近所に広まり、

それを聞こうとする若者たちが集まってきた。

次第に三畳一間の塾が手狭になったきたため、

杉家敷地の一角の家屋を改装し、新たに松下村塾を開いた。

塾生の顔ぶれは、

久坂玄瑞、高杉晋作、吉田稔麿、入江九一らが筆頭で、

特に玄瑞と晋作は「双璧」と呼ばれた。

町内の十軒ほどが我が世間  新家完司                

中級武士の晋作は萩の藩校・明倫館に通いながらも、

松陰を慕って松下村塾を訪ねてきていた。

また、伊藤博文は百姓出身だったため、

藩校に通うことができなかった

それで松下村塾に来たが、武士の身分でないため遠慮し、

外で立ち聞きしていた。

貧乏ゆえ寺子屋に通えなかった幼い頃の松陰と同じような境遇だ。

様々な境遇の塾生が集まり、最大80名にまでふくれた。

一巡し黒光りしてくる噂  森井克子


   松陰の文机
               そうもうくっき
松陰が後年に残した「草奔崛起」という言葉がある。

草奔は草木の間に潜む隠者のことで、転じて一般大衆を現すもの。

崛起は一斉に立ち上がることを現すもので、

「在野の人よ立ち上がれ」 という意味がある。

松陰は、藩校に通えない身分のものにも分け隔てなく教えることで、

それを実践したのであった。

正か負かいやゼロという妥協点  有田晴子

塾における礼儀作法はごく簡略なものだったようである。

「いま世間でいうところの礼法が末に流れ、

   上っ面で浅薄なものとなっているから、

   誠心誠意、真心のこもったものにしたい」

というのが松陰の考えであった。

武士だけでなく農民も町民も一緒に汗を流し、

身分を超えた新しい関係を育むことを松陰は望んだ。

ぜんざいも飴もケーキも出す飲み屋  近藤北舟


  幕末の寺子屋

時間割といったものはなく、昼夜を問わず授業を行い、

月謝も取っていなかったため、

晋作のように余裕のある者が金を持ってくるほどだった。

実際の講義は、松陰が門弟たちに教え諭すばかりではなかった。

弟子に問うことで考えさせ、積極的に発言させ、

討論を是とする血の通った指導法だったようである。

親指を舐めて右よし左よし  くんじろう

また、学問だけでなく武芸も奨励した。

異国と戦争にでもなれば、学問だけでは太刀打ちできないためだ。

「撃剣と水泳の二つは、武技のうち最も大切なものだ。

   わが国の周辺をしきりと外国がうかがっている今、

   一日たりともおろそかにできない。

   怠ることは慎まねばならない」

とし遠出しての軍事訓練まで行なった。

常識にとらわれない教えに若者たちは熱狂し、

松陰に心酔していったのである。

文芸の力よスプーンが曲がる  芳賀博子    


       高杉晋作

高杉晋作は藩命により江戸に出て、剣術のほか、

昌平坂学問所や大橋庵の大橋塾で学んだ。

(これは若き日の晋作とされる写真だが、別人説もある)

「人・高杉晋作」

高杉晋作久坂玄瑞、吉田稔麿とともに、松下村塾三秀のひとり。

150石どりの上士の一人息子で、

高杉家は晋作が村塾に通うのは許さなかった。

晋作を松陰に引き合わせたのは、玄瑞であったという。

松陰はわざと晋作の前で玄瑞を褒め、晋作を発奮させた。

松陰の狙い通り学力が「暴長」した晋作は、

玄瑞とともに「松門の双璧」と称されるまでに至る。

龍になって去るモグラになり戻る  井上一筒


    高杉家

後年、小伝馬町牢獄の松陰に、一通の手紙が届けられた。

晋作からであった。
                    いかん
「男子たる者の死すべき所や如何」

晋作の悩みが記されてあった。

これに対し松陰は

「死は好むべきでもないし、憎むべきものでもない。

   道が尽き、心が安んじられた時、そこが死所である。

  『死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし』

  『生きて大業の見込みあらばあくまで生くべし』

  『死生は度外に置くべし』」

と答えて寄越した。

タテ罫のノートは体臭がきつい  居谷真理子

その答えが、あるいは晋作の生涯を決定づけたかもしれない。

安政6年11月、師の松陰が処刑された一カ月後、

晋作は藩重役の周布政之助への手紙に、

「わが師松陰の首、ついに幕吏の手に掛け候の由。
                 つかまつ
…仇を報い候らわで安心仕らず候」

と記している。

その後、晋作は身分に縛られない近代的軍隊「騎兵隊」を組織、

四カ国連合艦隊との交渉、「功山寺挙兵」

「四境戦争」と命を削って疾駆した晋作の死生観は、

まさに、松陰の教えるものであった。

ただ一度風のかたちを見た枯野  板野美子

晩年、松陰が残した門下生評の中で高杉晋作と久坂玄瑞を、
   がぎょ
「人の駕馭を受けざる(恣意のままにうごかされぬ)高等の人物なり」

と絶賛している。

また、昭和14年まで生存した松下村塾出身の渡辺高蔵は、

「久坂と高杉との差は、久坂には誰も付いてゆきたいが、

   高杉にはどうもならぬと皆言う程に、

   高杉の乱暴なり易きには、人望少なく、

   久坂の方、人望多し」

と語っている。

反時計回りに生きてきた男  井上恵津子

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乱心は不調空涙は殉死  山口ろっぱ



「久坂玄瑞」
                      りょうてき
久坂玄瑞は天保11年(1840)久坂良迪、富子の三男として誕生。

幼少の頃、高杉晋作とともに、

萩城下の私塾・吉松塾で四書の素読を受けた。

ついで藩の医学所・好生館に入学したが、

14歳の夏に母を亡くし、翌年には、

優れた医者であり蘭学者であった兄・玄機が20歳の若さで病没。

そして、その僅か数日後に父も亡くし、

15歳の春に秀三郎は家族全てを失い天涯孤独となった。

こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、

者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。

顎の線削りなおして風に立つ  笠嶋恵美子


    月性像

16歳の玄瑞は、背は高く、眉目秀麗、青年才子として、

早くも藩の内外に知れ渡り、その年に九州に遊学する。

熊本に宮部鼎蔵を訪ねた際、

吉田松陰に従学することを強く勧められた。

玄瑞はかねてから、亡き兄の旧友である月性上人から、

松陰に従学することを勧められており、

この遊学によって、松陰に対する敬慕の気持ちが深まった。

偏頭痛雨の匂いもする序章  加藤美津子

久坂は萩に帰るとすぐ松陰に手紙を書いた。

が、この手紙のやりとりはかなりの激論となった。

玄瑞が松陰に送った手紙の内容は、

「弘安の役の時の如く外国の使者を斬るべし」

という、強硬な外国排撃論であり、

その論に対して敬慕する松陰の賛を得ようというものであった。

しかし、この手紙に対して松陰は、その返書で、
ふはん
「議論浮泛、思慮粗浅、至誠より発する言説ではない」

(中身がなく、考え方は浅はかで、真心から言っている言葉ではない)

と一刀両断。

かぞえ損なう蟹の吹く泡の数  井上一筒

「私はこの種の文章を憎みこの種の人間を憎む。

   アメリカの使節を斬るのは今はもう遅い。
   おうせき
   往昔の死例をとって、

   こんにちの活変を制しようなど、笑止の沙汰だ。

   思慮粗浅とはこのことをいうのだ。

   つまらぬ迷言を費すよりも、至誠を積み蓄えるがよい」

と、さらに痛烈な言葉を書き連ね、玄瑞の論を酷評した。

松陰の痛烈な批判の裏には、

玄瑞を鍛えてやろうという下心があった。
             しょうかい
玄瑞を紹介した土屋蕭海への手紙に、松陰は、

「久坂生、士気凡ならず。
                             べんばく
   何とぞ大成致せかしと存じ、力を極めて弁駁致し候間、

   是にて一激して大挙攻寇の勢あらば、僕が本望これに過ぎず候。

   もし面従腹背の人ならば、

   僕が弁駁は人を知らずして言を失うというべし」

と、激しくやりかえしてくることを期待していたのである。

※ 面従腹背=うわべだけ上の者に従うふりをしているが、
                      内心では従わないこと。


生きるのに飽きたら死んでやるつもり  大西將文



松陰の期待通り、玄瑞は大いに憤激し猛然と反駁した。

玄瑞は松陰に、

「誠(玄瑞)の大計を論ずるは、憤激の余り出づるのであって、

   強く責めるにはあたるまい。

   今、義卿(松陰)の罵言、妄言、不遜はなんと甚だしいことぞ。

   誠は義卿にしてこの言あるを怪しむ。

   もし果たしてこの如き言をなす男だとすれば、

   先の日に宮部生が賞賛したのも、

   が義卿を豪傑だと思ったのも、各々誤ったようである。

   紙に対して、憤激の余り覚えず撃案した。」

と書いた。

不機嫌を眉の角度で知りました  合田瑠美子

松陰はこの反論に対し。約1カ月の間をおいて、筆を執り、

「あなたは僕が貴方に望みを託し、

   あなたの成長を願っているのを察しないで、

   相変わらず空論を続けている。

   そのことを僕は大いに惜しんでいる。
                                                                                     とうとう
   なるほど、あなたの言うところは滔々としているが、

   一としてあなたの実践からでたものではないし、

   すべて空言である。

   一時の憤激でその気持ちを書くような態度はやめて、

   歴史の方向を見定めて、真に、日本を未来にむかって,

   開発できるように、徹底的に考えぬいてほしい」

と返書した。

待ってたと絶対言わぬ背中だよ  奥山晴生    

しかし今度も玄瑞は、自分の理論が誤っていると認めなかった。

説得できないと悟った松陰は、

今度は打って変わって玄瑞の理論を認めたうえで、

「あなたが外国の使いを斬ろうとするのには名分がある。

   今から斬るようにつとめてほしい。

   僕はあなたの才略を傍観させていただこう。

   僕の才略はあなたに到底及ばない。

   僕もかつては、アメリカの使いを斬ろうとしたことがあるが、

   無益であることを悟ってやめた。

   そして、考えたことが手紙に書いたことである。

   あなたは言葉通り、

   僕と同じにならないように断固としてやってほしい。

   もし、そうでないと、

   僕はあなたの大言壮語を一層非難するであろう。

   あなたはなお、僕に向かって反問できるか」

と書いた。

ハンカチに包めるほどの自尊心  斉藤和子        

この書簡を通して松陰は、自分の発言がどんなに重要なものか、

「自分の発言には、自分の生命をかけて必ず果たさねばならない」

と玄瑞に教えた。

松陰の実践と思索に裏付けられた強い言葉に玄瑞はたじろいだ。

玄瑞は、安政4年の晩春、18歳で正式に松陰門に弟子入りし、

幼友達の高杉晋作にも入門を勧めた。

松陰が最も信頼した一番弟子の玄瑞は、

「才能は自由自在、縦横無碍」

「才あり気あり、駸駸として進取す」

と師から最大級の賛辞を送られている。

忘れ物捜しに出口から入る  板垣孝志



  高杉晋作

「松陰からの賛辞」

『僕はかつて同志の中の年少では、久坂玄瑞の才を第一としていた。

   その後、高杉晋作を同志として得た。

   晋作は識見はあるが、学問はまだ十分に進んでいない。

   しかし、自由奔放にものを考え、行動することができた。

   そこで僕は玄瑞の才と学を推奨して、晋作を抑えるようにした。

   そのとき晋作の心は、はなはだ不満のようであったが、

   まもなく、晋作の学業は大いに進み、議論もいよいよすぐれ、

   皆もそれを認めるようになった。

   玄瑞もそのころから、晋作の識見にはとうてい及ばないといって、

   晋作を推すようになった。

   晋作も率直に玄瑞の才は、当世に比べるものがないと言い始め、

 二人はお互いに学びあうようになった。

 僕はこの二人の関係をみて、

   玄瑞の才は「気」に基づいたものであり、


   晋作の識は「気」から発したものである。

   二人がお互いに学びあうようになれば、

 僕はもう何も心配することはないと思ったが、

   今後、晋作の識見を以て、

 玄瑞の才を行っていくならば、できないことはない。

   晋作よ、世に才のある人は多い。

   しかし、玄瑞の才だけは、どんなことがあっても失ってはならない

号外が降ってきそうな日本晴れ  久岡ひでお 

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木枯しはきっと担担麺あたり  山本早苗


    松下村塾

「村塾オープン」

安政2年(1855)12月、明ければは14歳という年の瀬に、

松蔭は実家に戻ってきた。

家族は無事を喜び、涙で迎えた。 

とはいえ、まだ許されたわけではなく、

三畳ほどの狭い部屋で幽閉状態で暮らした。

「入牢中、松蔭が囚人たちに孟子を輪読させ、解説をしていた」

と聞いた、父と兄と叔父が幽閉中の松蔭の気を紛らわせればと、

三畳間に集まって耳を傾けるようになった。

敏三郎は手習いを見てもらった。

松蔭は難しい「孟子」でも、弟・妹たちがわかるように、

具体例を出して面白く説明する。

文はすっかり学問が好きになった。

牛乳の所為かも牛は姿勢いい  小出順子


ここの三畳間で村塾は始まった

半年ほど経つと、親類や近隣の若者が受講に加わり、

さらに評判を聞きつけて、入門希望者が相次いだ。

いつしか藩の規制も緩やかになったため、

「松下村塾」の名で私塾を開くことにした。

村塾は叔父・文乃進が開いた塾だったが、

松陰がその看板を引き継いだ。

以前は子供相手の読み書きの塾だったが、

松蔭は、「漢字から兵学、国内外の事情」まで幅広く教えた。

それも一斉に教えるのではなく、

それぞれの能力や時間の都合に合わせて柔軟に対応した。

物欲も性欲もなく動く口  田口和代


杉家旧宅・農作業の道具

塾生は十代が多かったが、

九ツの子供もいれば、三十でも通う者がいた。

また足軽から百姓、魚屋の子まで身分の差なく学び、

松陰は誰に対しても丁寧な言葉を使った。

しかし人数が増えるにつれ、三畳間ではとても入りきれなくなった。

そのため畑の中に建っていた物置に古畳を敷いて、

八畳の座敷にした。

松陰はここに移り、

家が遠く通えない塾生も一緒に寝泊りするようになった。

本物の和みの味の旨さかな  庄田順子
 
とともに、せっせと食事を運び、繕いなどの世話もした。

昼の弁当を持ってこない塾生や、来客にも食事を出す。

何人来てもいいように、飯を多めに炊いて用意しておき、

余った分は、翌日、女たちが食べた。

そのため、文は温かい飯など滅多に口にできなかったが、

兄が熱心に教えている様子を見ると、それだけで不満は消えた。

松陰は入門料は取ったが、日頃の謝礼は受け取らなかった。

その代わり、塾生たちと田畑を耕して食料の足しにした。

講義をしながらの農作業で、文も手伝いながら兄の話を聞いた。

いつ以来だろうこのような安らぎ  下谷憲子

いよいよ人気が高まり、塾生は総勢90人にも達し、

毎日2、30人も通ってくるようになった。

もはや八畳間では手狭になったが、

建て増しは費用の面で無理だった。

松陰が塾生たちに解決策を考えさせると、

「自分たちの手で建て増ししてはどうか」

と言う者がいた。

「そんな職人仕事など、素人に出来るはずがない」

「畑仕事なら、先生のお話を聞きながらでもできるが、

   大工仕事になると無理だしな」

否定的な意見が相次いだ。

松陰は黙って聞いている。

そこへ若医者の久坂玄瑞が、口を開いた。

「自分たちが使う家くらい建てられなくて、

   どうして自分たちの国を立て直せようか」

ネギ焼きの葱のこげ目が主張する  山本昌乃



久坂は文よりも3歳上で、背が高く、目元が涼しく、顔立ちがいい。

医者の常で頭を剃り上げており、

大勢の塾生の中でも何かと目立つ存在だ。

入門前、久坂は「外国の使者は斬るべし」と、

激烈な手紙を送ってきて、松蔭にたしなめられたことがある。

「もっと現実を見て、実現できることを目指せ」

と教えられた。

以来、久坂は実践を重視するようになり、

塾の建て増しも実践主義の表れだった。

誰もが久坂の言葉に納得し、建設を決めた。

まずは手分けして具体策を探ったところ、

城下の空き家が安く手に入ることになった。

そこで大工を呼んで教えを請い、一旦解体して建築することにした。

バラでもナイフでも銜えられますの  山口ろっぱ

物置だった八畳の傍らに塾生たちの手で、

古材や古瓦が運ばれてくる。

共同作業は思いがけないほど楽しく、

皆、ねじり鉢巻きで生き生きと働いた。

文も手ぬぐいを姉さんかぶりにし、袖をたすき掛けにして、

大量の握り飯や茶を出し、

道具の準備や片付けにも精を出した。

一方、久坂はよく通る声で、てきぱきと指示を出す。

それは文の目にも頼もしく映った。

恋をひと粒サプリメントにいかがです 美馬りゅうこ

松蔭も率先して作業に加わった。

ある時、品川弥二郎という塾生が梯子に登り、

高所の壁塗りをしていた。

松蔭は下で、土を捏ねてはひょいと塊を投げ上げる。

それを品川が取っ手のついたコテ板で受け取るはずだったが、

手元が狂って受け損ねた。

すると土が師の顔を直撃。

品川は青くなって梯子を下りたが、松陰は顔を拭いながら、

「師の顔に泥を塗るか」 と言った。

ほかの塾生たちも文も、心配して集まって来たものの、

松陰の冗談と知り、結局は大笑いになった。

雑音のひとつひとつに意味がある  水野黒兎


   杉家旧井戸

土だらけになった着物を文は井戸端で洗いながら、

「塾生の中には自分を嫁にもらってくれる人がいるだろうか」

と夢を見た。

できればそれが久坂であってほしかった。

ただ容姿に自信がない。

女にしては背が高すぎるし、兄に似て細面で目は切れ長だが、

決して美人でないと自覚している。

「こんな自分が久坂のような魅力的な男と一緒になれるはずがない」

と、密かに溜息をついた。

憎らしいあなた愛しいのもあなた  勝山ちゑ子



大工仕事は大勢が力を合わせた結果、

ひと月ほどで10畳半ほどの建物は完成し畳も入った。

土間に炊事場、中二階、廊下、そして便所までついており、

素人仕事とは思えない出来映えだった。

松蔭は

「職人仕事など出来ないと思い込まず、

   皆で力を合わせて実行すれば、これほど立派なものができる。

   これを自信にして、もっともっと大きなものに挑もう」

塾生たちは目を輝かせて頷く。

文は兄の教えを改めて知った。

自分たちで働いて、自分たちの新しい国をつくる。

それを最も心得ているのが、久坂なのだと思った。

味方にも敵にも飴ちゃんをあげる  森田律子

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鳴き砂の過去を探しに行く素足  真鍋心平太


   足利学校

江戸時代落雷で焼け建物は1980年代に復元.。

水堀と土塁に囲まれた大きな茅葺屋根の重厚な古めかしい建物は、

建造された当時を偲ばせている。


  足利学校全景

周囲に堀がめぐらされ中世の館を彷彿とさせる。


    学校門

寛永8年の創建で数少ない現存物のひとつ。


   杏壇門

学校門と同年の壮健で、奥には「孔子廟」がある

「足利学校」

足利学校とは栃木県足利にあった「日本最古の学校」のこと。

最古といわれるが創設の明確な由来は分かっていない。

奈良時代、平安時代、鎌倉時代の三説あるが…

相当に古いことは間違いない。

室町時代には、間違いなく存在していたが、

その中頃には衰退し、存亡の危機にあった。
                  かんれい   のりざね
永享4年(1432)関東管領の上杉憲実が足利の領主になり、

再興に尽力したことが、記録からも明らかになっている。

再興した上杉憲実と、その息子・憲忠らあによって庇護され、

学校運営がスタートしたとき、その教育は『儒学』が中心であった。

儒学といえば、

中国の思想家・孔子の教えを発展させた学問である。

そのために孔子は古くから大成殿に坐像が置かれ、

崇拝の対象となっている。

まだ箱にしまったままの始発駅  加納美津子


学費は無料で学生は入学すると近隣の民家に寄宿して通った。

室町時代後期に入ると、

儒学はもちろん重要視されたのが「易学」「兵学」で、

折りしも戦国時代に入るころで、各地で戦さが盛んになると、

多くの戦国大名が、この足利学校に学んだという。

彼らは戦で、いかに勝利するかを常々考え、

「易学」つまり、「占い」を重視する者が多かった。

たとえば、出陣や撤退にあたり吉凶を占い、

その結果によって進退を決めたのである。

それは「兵学」とも密接に連動した。

それらの知識に精通した者が重んじられ、

大名に登用されたのである。

数え歌覚えてひとつ背が伸びる  ふじのひろし


歴代痒主(校長)の墓と創建時の井戸

「足利学校」で学んだ者が、大名に仕えることも多かったようだ。

甲斐の武田信玄は、易学に長けた者を引見し、

「占いは足利にて伝授か?」 と尋ねたことがあった。

信玄の軍師といえば、山本勘助が有名であるが、

彼も易学に通じていて信玄に重用されたという。

足利学校の存在は相当に有名であり、信玄も重要視していたようだ。

厳密にいえば、日本には「軍師」という役職は存在しなかった。

しかし、軍全体の進退を占う者は軍師という存在に等しく、

生死をかけた戦において重視されたのだろう。

紺碧のダイヤと競う蛍烏賊  田口和代


かっては3千人の学徒が学んだ教室。

「日本国中、最も大にして最も有名な坂東の大学で、

   日本全国の人が学びにきている」

と宣教師・F・ザビエルが本国に向けた手紙に紹介している。

さらに

「寺院の建物を利用し、本堂には千手観音の像があり、

ほかに「孔子廟」が設けられている」と記している。

海外まで名を知られた学校だったのだ。

天正18年、秀吉が関東へ侵攻すると、学校は存亡の危機を迎える。

庇護者であった北条氏と足利長尾氏が滅ぼされ、

秀吉の養子・秀次が学校の蔵書の多くを京都へ持ち去ろうとした。

しかし、関東の領主・家康が交渉してそれを取り戻し、

保護者となって、足利学校を守り通したのである。

絡みつくものを月光で洗う  本多洋子


    方丈と書院を結ぶ渡り廊下と衆寮

しかし江戸中期になると、いわゆる、太平の世が到来して、

兵学も易学も存在意義を弱め、

「藩校」「寺子屋」の整備によって足利学校は急速に衰退する。

それからは貴重な古典籍を所蔵する図書館や、

孔子を祀った史跡としての役割へと変わり、

明治5年には廃藩置県の影響も受け、

学校としての役割も終えた。

省けないものの一つは無駄だろう  立蔵信子


  貴重な書物を置く遺跡図書館・中国の古典

しかし、学校としての末期、

幕末の志士たちの中にも、足利学校を訪れた者がいた。

安政5年(1852)には、吉田松陰が、

万延元年(1860)には、高杉晋作が訪れている。

松陰は中国の『論語』に影響されたと思われる言葉が多いが、

この足利学校においても、

孔子孟子の教えを書で読み、学んだのだろう。

冬の良さ味わい冬を乗り越える  新家完司


弟子に一生を通じて守るべきは?
と問われて孔子は、「恕」と答えた。
これが足利学校が目指す精神となった。

儒教の中心的な考え方は、

自分の身をきちんとして、人を治める(修己治人)

自分自身のわがままな気持ちに打ち勝ち、

人間として踏み行わなければならないことを実行する(克己復礼)

孔子の死後、儒家は「八派」に分かれた。

その八派の中で、孟子は「性善説」を唱え、

孔子の徳目「仁」に加え、

実践が可能とされる徳目「義」の思想を主張した。


庭園の字降松ー逸話として
質問を書いた札をくくりつけておくと、必ず回答の札が懸かっていた。


 渾天儀(こんてんぎ)

ほか貴重な書物をはじめ、往時を偲ばせる備品の数々が展示されている。



補義荘子因(ほぎそうじいん)        文選(もんぜん)
三月を開く痛みのないように  八上桐子

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焼酎の術羊羹に破られる  井上一筒


   吉田松陰

松陰「福堂策」の言葉
   けんぐ    いえども
人賢愚ありと雖も、各々一、二の才能なきはなし、
そうごう
湊合して大成する時は、必ず全備する所あらん。
         えっ
是れ亦、年来、人を閲して実験する所なり。
     きい                    ま
人物を棄遺せざるの要術、是れより外、復たあることなし。

(人間には賢愚の違いはあるが、どんな人間でも、
    一つや二つのすぐれた才能を持っている ものである。
    全力を傾けて、ひとりひとりの特性を大切に育てていく ならば
    その人なりのもち味を持った、一人前の人間になることができる。
    今まで多くの人と接してきて、
    これこそが人を大切にする要術である と確信した)

強烈な残像 真っ赤な人だった  都司 豊

「松陰ー言語録」

松陰は獄中で、獄制改革案といえる『福堂策』を記した。

「牢獄に幽囚された者は、希望を閉ざされているが、

   それを改め、牢獄を「福堂」にする必要がある。

   そのため、獄内の自治は囚人に任せ、

   読書や学芸に従事させることで人間性を回復させるべし」

という提案である。

伝馬町や野山獄での経験が、そのまま反映されている。

地に伏して星の流れる音を聞く  板垣孝志

松陰は孟子「性善説」を強く信じており、

その根拠を野山獄の人々に見いだしていた。

「罪は事にあり人にあらず」

「罪はなお病のごときか」

と断言する。

「罪が病であれば病を治せばよく、

   獄中で腐りかけた善も教導により取り戻すことができる」

と考えた。

※ 福堂とは、人を幸福にする施設。

わたくしの重さでひらく門がある  佐藤美はる

安政2年(1855)12月、出獄が許された松陰は、

謹慎の身ながら、近親者に『孟子』を講ずるようになり、

やがて「松下村塾」を主宰するようになる。

そこで行なわれた教育は、

まさに野山獄における相互教育の発展であった。

塾内では平等主義が貫かれ、松陰が一方的に授業することはなく、

対話を重んじ、時に塾生が教師を務めることもあった。

そして各人の個性や能力が尊重され、それを引き出す方策がとられた。

後悔を脱いで明日の糧にする  石田ひろ子



「牢内の授業風景」

松陰は入獄ご半年がたったころから、

囚人たちと『孟子』の読書会を行なうようになる。

テキストを回し読みし、相手からの質疑に答える形で、

松陰が講釈を述べた。

しばらくしてからは、

数人が順番に教師を務める輪講の形式がとられた。

読書会は各人が教えあうゼミナールへと発展。

女囚の高須久子と短歌のやり取りを通じて交流を深め、

恋情を揺らしたのも、このころのことである。

電球にかざして見えた命の芽  佐田房子



これらの授業や交流は、通常は牢越しに行なわれたが、

時には囚人たちが互いの独房を訪れたり、

一堂に会することもあった。

獄吏の福川犀乃助も孟子の授業を聴講するようになり、

勉強するために夜間の灯火が認められた。

囚人のほとんどが「借牢願い」による収監のため、

ある程度の行動の自由があったとはいえ、これは異例の事である。

福川のみならず、ほかの獄吏も松陰に協力的であったというから、

松陰の教育への情熱が、獄舎を教育の場へと転化させたのである。

気遣いが描いた円陣美しい  杉谷和雄

「小田村伊之助が松陰を見直すことになった『獄舎問答の中の言葉』」
            む
天下に機あり、務あり。

機を知らざれば、務を知ること能わず。
                                          しゅんけつ
時務を知らざるは、俊傑に非ず。

(この世の中に生じるできごとに対処するには、
   適切な機会があり、それに応じた務めがある。
   適切な機会がわからなければ、時局に応じた務めも知ることが出来ない。
   それぞれの場に応じてなすべき仕事ができないようでは、
   才徳のすぐれた人とは、言えないのである)

悩んでる暇はないのだ砂時計  小川賀世子


梅太郎と松陰の手紙のやりとり

二十一回猛士説について
兄・梅太郎は冒頭で、松陰の「二十一回猛士の説」は素晴らしいが、
家族が罰せられると困るので、秘密にするようにと忠告している。
対して松陰は、兄に直に会って注意されているようだと返事している。
他に梅太郎は、獄中で過ごす松陰の食べ物や身の回りを気遣うなど、
二人の絆がうかがえる興味ある手紙になっている。

【豆辞典】「二十一回猛士説」
        こういん
「私は天保元年、庚寅元年(1830年)に杉家に生まれた。

 その後成長して、吉田家を継いだ。

 甲寅(安政元年)に罪を得て獄へ入った。

 夢に神が現れ、一枚の名刺を差し出された。

 それには「二十一回猛士」とあった」

躓いた石に仏を見てしまう  萩原三四郎

『猛の未だ遂げざるもの尚お十八回あり』

 「夢から覚め考えるに、杉の字には二十一の形がある。

 吉田の字もまた、二十一回の形がある。

 私は生まれてこのかた、

   猛々しい行動をとったことがおよそ三回ある。

    一回目は、東北旅行のために脱藩したこと。

    二回目は、藩士としての身分をはく奪されたにもかかわらず、
                    「将及私言」など上書を藩主に意見具申したこと。

    三回目は、ペリー来航時に密航を試みたこと。

   それで罪を得たり、非難され、今は獄に入れられ、

   再び猛を行うことが出来ない。

 そして、猛のまだ成し遂げていないものは、十八回ある。

 その責任もまた重いのである。

 神はおそらく、私が日々弱くなり、

   微力となって、二十一回のを成し遂げられないことを恐れ、

   天意として私を啓発してくださったのであろう。
 
   とすれば、

   私が志と気を合わせ養うこともやむを得ないことである」

と、松蔭は自己を叱咤激励した。

二十一回猛士は松蔭の別号として下田事件以後用いるようになった)

三度目は逆立ちもする注意書き  佐藤正昭

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