向こう岸に渡してくれる太い腕 三村一子
上毛かるた 「け」
「楫取の政治」
産業とインフラ整備に力を注いだのが群馬の県令・
楫取素彦である。
熊谷県時代を含めると、楫取は群馬県令を約十年つとめた。
在任中は、
「握り飯草履履き」で県内を隈無く視察し、
県民と困難をともにして、本県の基礎をつくった。
楫取は、県政の治術は産業と教育と心得て、この分野に力を注いだ。
蚕種・養蚕・製糸・織物の各熟練者を歴訪し、研究を奨励。
勧業は交通・治水などインフラ整備にも及んだ。
邪魔だから顔はおととい捨てました 清水すみれ
明治13年
(1880)、日本鉄道株式会社が上野―高崎を結ぶ中山道線の
鉄道敷設計画を発表すると、
前橋までの延伸を下村善太郎とともに、
井上勝鉄道局長に嘆願した。
井上局長は二人の至誠に感動し、二人も大株主になることを約束して、
明治17年5月高崎、7月前橋間がそれぞれ開業した。
これによって、それまで利根川の水運に頼っていた県内産の
生糸や織物などの輸送を、鉄道で横浜港まで運ぶことが可能となった。
近代社会において、
インフラの整備なしに産業の発展があり得ないことを、
楫取はよく心得ていた。
夕焼けの行方は父が知っている 中野六助
上毛かるた 「い」
楫取は群馬県を日本一の蚕糸県に育て上げるとともに、
その技術を全国に広め、群馬県の知名度
(ブランド力)を上げようとした。
つまり、群馬県で優れた技術を改良・発明させる。
その結果、群馬県の産業が発展する。
さらに、その技術を全国に伝えることで、
群馬県の名声があがるとともに、日本の国益になる。
楫取は
前田正名のような国家的な使命感を以て県政を進めた。
これが、楫取政治の要諦であった。
がまん強くて屋根に抜擢されたとか オカダキキ
上毛かるた 「ろ」
「船津伝次平」
日本敗戦の翌々年の昭和22年12月、
国は荒れ果て、人々が悲嘆に暮れているとき群馬の浦野匡彦氏が、
「このように暗く、すさんだ世の中で育つ子どもたちに何か与えたい。
明るく楽しく、そして希望のもてるものはないか」
と考え出来上がったのが上毛かるたである。
上毛とは群馬県の古称上毛かるたは44枚からなり、
群馬県の土地・人・出来事を読んでいる
「ろ」のかるたでは、船津伝次平がでてくる。
でんじへい
船津伝次平を内務卿・
大久保利通に推薦したのも楫取であった。
老農・船津伝次平は、天保3年
(1832)10月、勢多郡原之郷に生まれる。
幼名市蔵。
(勢多郡原之郷は現在の富士見村にあたる。)
市蔵は隣村の村塾において手習、素読を学ぶ。
又18歳で、最上流の和算を学び、関流の和算の免許皆伝を受けた。
安政4年
(1857)家督を継ぎ、伝次平を襲名。
維新後養蚕業の振興につとめ、明治元年
(1868)前橋藩から原之郷ほか
35カ村の大総代を任された。
健さんは死に欣也は犬になった 奥山晴生
上毛かるた 「は」
伝次平が生まれた船津家には、
「田畑は多く所有すべからず、又多く作るべからず」
という家訓があり、養蚕を軸とした商業的農業を営むなかで、
明治8年、熊谷権令・揖取素彦から農事に精通する者として、
内務卿・
大久保利通に推挙される。
からまって虹まで届く豆の蔓 本多洋子
上毛かるた 「に」
伝次平と会った大久保内務卿は、
すっかり彼にほれ込み農民としてただ一人、
伝次平46歳のとき、東京駒場農学校の教師に採用される。
駒場農学校では、西洋農法と日本農法のよいところを併せ持つ
混同農法を生み出し、さらに、その後、農事試験場技師に就任し、
全国を駆け巡りながら新しい農法の普及につとめ、
「日本三老農の最高峰」と称されるに至る。
伝次平は中央に出ると、品川弥二郎(農商務大臣などを歴任)と行動を共にする。
奇しくも品川は吉田松陰の門下生(松下村塾生)であった。
伝次平の農事改良の精神や技術が、
群馬県ばかりでなく我が国の農業の近代化に多大な貢献をした。
身に余る依頼へ足の裏凍る 青砥たかこ
ところが明治中頃、農商務大臣・
井上馨が外国を視察して帰り、
欧米の大農法をわが国にも取り入れようと考え、
新式の大農機具を盛んにアメリカから輸入し、
それを、まず、駒場農学校で実用するように命じた。
しかし伝次平は、
「日本は、耕地が少ないうえ、
山国で高いところから低いところまであり、
しかも気候の変化も激しいという、
欧米とは違った土地と気候である。
だから日本の農業は、大農法に向いていない。
狭い土地をていねいに耕し、多くの収穫を上げていくのが、
日本の農業である」
と反論している。
反論をいれたポストが燃えている 岡田幸子
富士見村原之郷にある船津伝次平の墓(県指定史跡)
その後、伝次平は、駒場農学校に辞表を出して去り、
著書・
『稲作小言』で大農論者に反対を訴え続け、
それを八八調の文章にして
チョボクレ節で歌って広めた。
明治31年
(1898)6月15日、郷里にて死去。
享年66歳。
墓で遭い甘味処でまた遇うた 井上一筒[5回]
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