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川柳的逍遥 人の世の一家言
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化石をほぐすとこぼれ出すロマン  和田洋子



「木戸松子」 (天保14年(1843)~明治19年(1886))

〔一途に尽くして諜報活動した美貌の芸妓〕

明治維新の立て役者・木戸孝允の妻・松子は、

若狭国小浜藩士・木崎(生咲)市兵衛の二女。

母は小浜藩医・細川益庵の娘で、4男3女があったが、

父が上役の罷免に連座して閉門とされたのち、出奔したため、

母の実家で妹とともに幼少期を過ごした。

その後、父が京都にいることがわかり、再開して4人で暮らすが、
               しょだいぶ
父の病で松子は九条家諸大夫難波恒次郎の養女とされた。

引き算を重ねこころを無に保つ  高浜広川

そして恒次郎の妻が幾松を名乗った三本木の元芸妓であったこから、

舞妓に出て、14歳で二代目幾松を襲名する。

やがて三本木の名妓となった幾松は、

長州藩士・桂小五郎(木戸孝允)と出会うこととなるが、

幾松を身請け(落籍)せるおり、桂はずいぶんお金を使い、

伊藤俊輔(博文)に周旋させたとの話がある。

恋猫の雨の滴を拭いてやる  合田瑠美子



幾松は芸妓を続けながら、桂のために外交や密談の場となる宴席で、

情報収集に務める。

さらに元治元年(1864)7月の禁門の変後、探索から逃れるため、

三条大橋の下に避難した禁門の変の戦災者たちに紛れて

潜伏する桂に、幾松が握り飯を運ぶ話は有名だ。

彼女は、桂がいかなる状態になろうと献身的に庇護しつくすのである。

禁門の変後、桂が但馬国出石へ潜伏したときは、

幾松も対馬の同志にかくまわれる。

そして下関へ向うが、桂が出石にいることを知って再開を果たした。

幾松はこのおり、情報伝達の役目も担った。

平穏はいつまで菊を根分けする  高島啓子



維新の世となる、木戸は功労者の一人となった。

その木戸の正式な妻となった幾松は、松子と改名した。

そして明治2年、東京に転居する。

かって京都の名妓であった松子は美しいだけでなく、頭もよく、

心配りのできた女性で明治政府の参議となった夫をよく支えた。

また松子はもともと丈夫でなかった孝允の体調管理にも心を砕いたが、

明治10年5月、天皇に供奉して京都にいた孝允の病が再発する。

松子は看病に駆けつけるが、夫を看取ることとなり、

剃髪し翠香院と号した。

そして京都に移り住み、夫の墓守をして、44歳で病没した。

かけられた声は天啓かもしれぬ  竹内いそこ



「江良加代」 (文久2年(1862)~大正5年(1916))

〔数々の志士をとりこにした祇園一の美妓〕
                   かちょうのみや
加代は文久2年3月、京都・華頂宮家に仕える江良千尋の娘として、

祇園社のそばに生まれた。

父の千尋は、大和大路四条に道場を構え子弟に武道を教授していた。

加代は家柄ゆえか、気品に富む美貌を持ち、

また家が花街に近かったことで、

その世界に親しみ、歌舞にも優れていたという。

維新後母によって舞妓とされた加代は、

牡丹や百合の花の妍を奪うほどと評され、

祇園井筒屋の名妓・加代の名は、たちまち京洛に広まったのである。

いい線行っているなどと他人のいいかげん
                  青砥たかこ


加代にご執心となった男たちは数多いというが、
                    さいおんじきんもち
その中に、後の首相になった西園寺公望がいる。

公望は加代を正妻にしたいと、東京へ連れて行ったという。が、

西園寺家には代々正妻を迎えないとする家訓があった。

西園寺家は琵琶の宗家の家柄で、

琵琶の本尊・弁財天の嫉妬を恐れたからであった。

美しく書き足してあるエピローグ  新川弘子



加代は公望と破局したが、

豪華な着物、調度品や莫大な手切れ金とともに京都へ戻ってきた。

昭和13年のことという。

これを加代が13歳、公望26歳の時とする話もあるが、

それなら明治7,8年の頃の出来事になる。

しかし、公望は明治3年12月から同13年10月まで、

フランスに留学しているので、洋行後のことになるだろう。

美しい嘘だな永久保存する  山本昌乃

また、やはり初代首相の伊藤博文がぞっこんになり、

加代を妾にしたという話もある。

加代はそれ以前に木戸孝允と深い仲になり、

木戸夫人になれると思っていたが、木戸は明治10年病死してしまう。

木戸に代わってお金を出したのが伊藤博文だった。

加代は伊藤の金で奥女中風の衣装に、

当時は珍しかった洋犬を引いて練り歩いた、が、

2人の仲は3年もたなかったという。

人形の顔で見ていることがある  赤松ますみ



加代が伊藤博文に三行半を突きつけたのは、金の問題があったらしい。

加代は豪商・三井源右衛門に身請けされたのだ。

加代は源右衛門の妾といっても正妻と変わらぬ扱いで、

加代もまた貞淑に源右衛門に仕え、4男2女を産み、

幸せに暮らしたという。

大正5年1月に病没。三井家の墓所に葬られた。

歌舞伎役者の5代目・中村歌右衛門は、

「子どもの時に見た京都のお加代という芸者さんほど、

  美人だなぁと思った人はございません」

と語り遺している。

ワコールを外すとわたしクラゲです  美馬りゅうこ



「山川捨松」 (安政7年(1860)~大正8年(1919)

〔留学を経て仇敵に嫁いだ鹿鳴館の貴婦人〕

見合い結婚やいいなづけの存在が一般的だった時代、

周囲の反対を押し切って恋愛結婚をした人物に、

会津藩出身の山川捨松がいる。

会津戦争時は9歳、籠城戦では弾薬運びをした。

幼名は咲子であるが、岩倉使節団に随行して渡米、

このアメリカ留学時に捨松(捨てたつもりで待つ)と改名。

宣教師・レオナルド・ベーコン夫妻のもとで勉学に励んだ。

同時期に兄・健次郎もエール大学に留学中であった。

ヴァッサー大学に進学すると

「日本に対する英国の外交対策」と題し英語で講演。

卒業後は、看護学を学んだ。

何よりもまずあ行からリアリズム  柴田園江



明治15年、津田梅子と11年間のアメリカ留学から帰国した捨松は、

1年早く帰国していた永井繁子の結婚式で陸軍大臣・大山巌と出会い、

恋に落ちる。

2人は言葉の訛りが強く初めは会話にならなかったが、

英語で話すとすぐに打ち解けたという。

交際3カ月で結婚を約束した2人だったが、

巌の出身地は戊辰戦争で会津と敵対した薩摩藩。

当然、捨松の家族や周囲の友人は猛反対した。

しかし捨松の決意は固く、周囲を説得し、

鹿鳴館で盛大な結婚披露宴を開いたのである。

コバンザメそんな生き方だってある  竹内ゆみこ

こうして大山の後妻につくと3人の子宝に恵まれ、

前妻の子も含め6人の子を育て上げた。

継母が継子を虐める徳富蘆花『不如帰』のモデルであると

中傷される時期もあったが、優しい良妻賢母であった。

鹿鳴館では西洋式の礼儀作法を教え、

催されたバザーの収益金で看護婦学校を設立。

また篤志看護婦人会を発足させ、社会福祉事業に邁進した。

晩年は、梅子の津田英学塾を支援していたが、中途に死去する。

生きている過去をベタベタ貼り付けて  米山明日歌

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