忍者ブログ
川柳的逍遥 人の世の一家言
[120] [121] [122] [123] [124] [125] [126] [127] [128] [129] [130]
千切りにしてエレベーターのドアに貼る 湊 圭司


   松陰先生絵伝

吉田松陰とはどんな人―

顔に痘痕があり、お世辞は言わない、一見無愛想のようだが

一度二度、話してみると年長年少の隔てなく、相手に応じて話をし、

懐かないものはないほど、人柄のよさがあった。

また客が来たときは喜び率先して、その客をもてなし、

食事時にはご飯を出し、
客に空腹を我慢させて

話を続けさせることはなかった、という。
 BY/妹・千代

やわらかい言の葉品がにじみ出る  山本昌乃


  杉家の系図 (拡大してご覧下さい)

「松陰の人となり」

幼名は、寅之助、号は松陰。

いわゆる、松陰という呼名はあだ名である。

兄弟は虎之助を入れて7人。

2歳上の梅太郎、2歳下の千代、9歳下の寿、11歳下の

13歳下の、15歳下の敏三郎となる。

両親は困っている人を放っておけない性分で、

介護が必要になった親戚なども迎え入れ、

多いときには、10人以上が小さな家に同居していた。

しかし、杉家は禄の少ない貧乏所帯。

田畑を耕し、山で木を切り、後に父・百合之助が仕事で家を離れると、

母・が馬を使って農耕にいそしみ、家計を支えた。

遊ぶ金ないのでずっと見てる空  むさし      


 百合乃助と敏三郎

そんな杉家が大切にしたのが教育であった。

父・百合之助は、人を訪ねても無駄話はせず、

さっさと帰り、寸暇を惜しんで読書したという。

畑仕事には、梅太郎や虎之助も連れて行き、畑で素読を教えた。

寅之助は藩の兵学師範だった叔父の吉田家を幼くして継いだため、

兵学者で、もう一人の叔父・玉木文之進からも学問を教わった。

文之進は厳しい人で、寅之助の物覚えが悪いと本をすぐ取り上げ、

ひどいときには、「机と寅之助とを引き抱えて外に投げ出した」

という激烈ぶり。

母の瀧は文之進らからあまりにも厳しく教育され、

それでも逃げようとしない寅之助を見て、

「早く座を立てば、そんな目に遭わずに済むのに、
          ためら
   なぜ寅之助は躊躇うのか」

と歯がゆがったという。

せめてこの一瞬凍らせてみたい  立蔵信子


     瀧

冗談好きの母と、学ぶことを共に楽しんだ兄・弟・妹たち

大家族で貧しく、勤勉で厳格。

そんな杉家のムードメーカーはであった。

瀧は冗談が好きで、後年のこととして次のような逸話がある。

それは梅太郎の嫁・亀子が蚊帳を破ってしまったときのこと。

亀子がため息をつくと、瀧が、

「破れた蚊帳ほどめでたいものはない」

「『つる』と『かめ』とが舞いおりる」という意味の、

「蚊帳をつる」と「鶴」、「蚊め」と「亀子」を掛けた狂歌を詠んで

笑わせたという。

ピンチでも大阪弁はよう脱がん  オカダキキ



楽天家の母に支えられ、父と叔父の厳しさに耐え、

成長した松陰は嘉永3年、21歳のとき、九州を巡る旅に出る。

それは松陰が長州から出る初めての旅。

訪問先でアヘン戦争などの書物を貪るように読み、

洋式砲術を学びオランダ船に乗り、欧米列強の脅威に衝撃を受けた。

旅日記に記している。

「心が動くきっかけは旅することで得られる」

松陰はその後、全国各地を旅し、見聞を広めていった。

地球儀は金平糖になる模様  井上恵津子

そんな九州の旅の途中、松陰はまどろみ、ある夢を見る。

それは生まれ育った山荘「樹々亭」でのこと。

夜、兄と父と漢詩を読んで唱和し、眠りに就いたところ、

幼い妹や弟が群がって来て、「自分たちにも読んで」

とせがむので、起きて、皆で唱和した、という夢である。

幼い兄弟妹とも共に学ぶことを楽しんだ、

昔の光景が夢に出てきたのだ。

松陰にとって初めての旅は、

行動こそ大事であることを学ぶとともに、

家族を思い、ホームシックにかかった旅でもあった。

遡る時間網目をほどいてる 岡田幸子


   千 代

【千代が後年、松陰について次のように語っている】

『兄・松陰は、幼いころから「遊ぶ」ことを知らないような子供で、

   同じ年頃の子どもと一緒になって、凧を揚げたり、独楽を回して、

   遊んでいる姿を見たことがありませんでした。

   いつも机に向かって、中国の古典を読むか、

   文章を書いているか、で、
ほかのことは何もしていませんでした。

   運動とか、散歩とかはしていたのか…、

   と言いますと、
それもほとんどしていなくて、

   記憶に残っているものはありません。


   また、「寺子屋」とか「手習い場」とかに通ったわけでもなく、

   父・百合之助と、叔父・文之進に就いて、学んでいただけです。

   ある時期には昼も夜も、叔父の所に通って教えを受けていました。

   叔父の家は、わずか数百歩くらいしか離れていなかったので、

   三度の食事の時には、家に帰ってくるのが常でした」

うふふあはは好きなことでは迷はない  前中知栄           

   杉家の兄の梅太郎と松陰は、見る者が誰も羨まないものがないほど、

   仲が良かったのです。

   出かけるときも一緒、帰るときも一緒、寝るときも布団を一緒にし、

   食べるときのお膳も一緒で、たまに別のお膳で食事を出すと、

   一つの膳に並べかえていたほどでした。

   影が形に添うように、松陰は兄に従い、

   その命令に背いたことはありませんでした。

   梅太郎は、松陰より二歳年上で、自分は二歳歳下で、

   年の差が小さかったので兄弟のなかでは、

   特にこの三人は仲がよかったのです」

梅太郎は、明治43年死去。享年88歳。

千代は、大正13年死去。享年93歳。

このように長命の家系にあって、

松陰は安政6年、
30歳で死去している。

因みに、文は79歳で死去している。

貴重品袋に肺と胃と腸と  くんじろう

拍手[3回]

PR
窓の雪黄色く見えるのも恋か  雨森茂喜


高須久子の長州藩の裁判記録
久子の真実の生き様が記されている
                        おうち
松陰の出獄当日、 "手のとわぬ雲に樗の咲く日かな"

と別れの一句を久子が送ると、松陰は一通の手紙を彼女に渡した。

"声をいかで忘れんほととぎす" の句が手紙の中に入れてあった。

(意味を読み解いてください…、儚く、可愛いではありませんか)

「松陰も恋をしたことがありました」

生涯、恋愛とは無縁の人と言われた松陰が、

野山獄の獄中で、ほのかに恋心を抱いた女性がおりました。

その相手の名は、美貌の未亡人・高須久子である。

久子は毛利家家臣団・杉原三家の「高須家」の出身。

高杉晋作の遠縁にあたるともいわれる人である。

石高330石取りの家柄の跡取り娘として生まれ、

婿養子を迎えるも、その夫は若くして死に、

久子は寂しさを紛らわすように、

三味線に興味を持つが次第に没頭するようになる。

それは歌や浄瑠璃、ちょんがれ(浪花節の一種)などにも傾倒し、

萩で有名な芸能人(被差別部落民)勇吉弥八らと交流、

自宅に招いて酒を振舞ったり、

翌朝まで宿泊させたりするものであった。

(封建時代、当時は被差別部落民と接触することは罪とされた)

価値観の違いとレモン搾り切る  山本昌乃



身分制度が明文化されていた封建時代のこと、

「武士が被差別部落民と交際するとはけしからん」

元夫の実家の義父は、「不義密通」を疑ったが、久子は、

「普通の人と普通の付き合いをしたまで」

と不義を否定したが、家族の申し出で野山獄へ「借牢」となる。

『三味線弾きなどについて、「すべて平人同様の取り扱いをした」

 とたびたび久子は供述しており、彼女の中に封建時代であれ、

「人はみな人」という平等思想の萌芽のようなものがあった

   ことは疑いない』 (裁判史料より・久子の供述)

無印で生きる本音で生きてます  荻野浩子


         久子の独房 (テレビのイメージセットより)

松陰が海外密航未遂の罪で捕らえられ、江戸の獄から萩に護送され、

「野山獄」に入ったのは、安政元年(1854)10月だった。

野山獄には12の独房があり、松陰の入獄で満室となる。

獄には、女囚が1人収容されていて、

これが、300石取り藩士の奥方だった高須久子である。

37歳だった。 (このとき松陰は25歳)

久子の罪は「姦淫」というが、

武家の女が身分低き者と親しくすることを

不行跡と咎める封建的な親戚の「借牢願い」によって、

野山獄に収容されたものである。

すでに在獄4年であった。

聖女かな懐中時計持っている  やよい



野山獄は藩の罪人は2名のみで、他の者は親族から申し出による

禁錮だったので、囚人同士が一箇所に集まることは自由であった。

松陰は久子の境遇に同情し、「自信をもって生きよ」と励ました。

反面、松陰は久子の「自由な考え方」にふれて、

新しい時代の理念を掴むきっかけになったとも言われる。

(人間平等の思想に徹する松陰は、やがて主宰する松下村塾でも、

  身分の別を問わず、向学心にもえる若者たちを受け入れた)

君の手が触れたとこからムズ痒い  森 廣子



久子は、獄中で松陰に学ぶ機会を得たひとりの女性である。

彼女の松陰に対する尊敬と感謝の念は、

自由を奪われた獄囚の身に、もだえ苦しむ憂国の青年への、

母性本能をふくむ「恋愛の感情」に昇華していく。

久子の一途な恋慕に、戸惑いつつも応えていくうちに、

「安政大獄」の魔手は松陰にせまり、極限状況に近づいていく。

2年足らずの短い期間、松陰と久子の間に、

プラトニックな恋が交わされたと信ずるに足る

「相聞の歌句」が存在する。

恋ひとつ隠して雪は降りやまず  伊達郁夫

"清らかな夏木のかげにやすらへど  人ぞいふらん花に迷ふ"

久子に渡した松陰の和歌である。

俳諧の心得のある久子は、ときに発句を松陰に送っている。 

松陰が仮出獄するとき、囚人一同がひらいた送別句会の久子の句.

  しぎ
”鴫立つてあと淋しさの夜明けかな"

鴫は、松陰のあざな「子義」にかかっている。 

久子が松陰に贈った絶唱ともいうべき別れの相聞の句。
          おうち
"手のとはぬ雲に樗の咲く日かな"

(私にとってあなたは雲の上のお方。
そして栴檀の花もあなたをたたえるかのようにおります)

それにたいする松陰の返し歌は、

「高須うしに申し上ぐるとて」として

"一声をいかで忘れんほととぎす"

(どうして貴方のその美しい声を忘れることがありましょう)

振りしぼるような一句を吐いている。

囚われのこめかみに吹く北の風  真鍋心平太


           松陰の独房 (テレビのイメージセットより)

出獄後松陰は、長州藩に野山獄の囚人釈放を働きかけ、

約8割の囚人が出獄できた。

獄中で知り合った富永有燐を松下村塾に招いて、

高杉晋作、久坂幻瑞,木戸孝充、山県有朋、伊藤博文らが学んだ。

しかし、久子は親族が反対して釈放されていない。

安政5年(1858)松陰の幕府の老中・門部詮勝を暗殺する計画と、

仲間である梅田雲浜の奪還計画を知った長州藩は、

再び、松陰を野山獄に投獄する。

二度目の投獄、そして、翌安政6年、江戸評定所に召喚され、

死出の旅にたつ松陰に、久子は餞別に手布巾を贈った。

松陰はお返しに

"箱根山越すとき汗のい出やせん 君を思ひて拭き清めてん"

という句を贈っている。

(世に言う「安政の大獄」で松陰は、まもなく斬首された)

立って聞くニュース座って聞くニュース 岡谷 樹
 


その後,久子は野山獄に入った高杉晋作と出合っているものと、

推察されるが、明治元年、新政府が樹立されたとき野山獄が廃止され、

久子の出獄が叶った。

この時、久子は51歳。

しかし、久子は高須家には戻らなかった。

その後、明治に入って久子がどんな生活をしたかは分かっていない。

晩年の久子は、18年におよぶ獄中生活が祟り,

目は衰え、足が萎えて、曲がらなかったという。

享年88歳。

(長寿を全うしたことに深い意味を感じる生涯であった)
                  (参考・古川薫 『野山獄相聞抄』

過去ひとつ座るわたしのなかの北  たむらあきこ

拍手[5回]

一山に盛られたじゃこに俺もいる  北野哲男


 小伝馬町牢獄図-1

【豆辞典―①】-「松陰時代の牢獄の環境」
               しょうかい
獄舎について、安政元年6月21日に松陰土屋蕭海へ送つた手紙に、

「極暑の候ではあるが牢内は、甚だ清凉で凌ぎよい故、

   御放念願ひたい」

と言ってゐる。

「江戸獄記」の中には、

「江戸獄ば裏表が格子となつて居り、日影が遠い故、夏でも凉しい」

と記してゐる。

更に夏になると「凉み」と云つて、隔日に昼の2,3時頃には、

外鞘の内に出してくれる等、なかなか行届いたものであつた。

日溜まりは恵み日暮れは早いまま  栗田久子

松陰が傅馬町の牢へ入つたのは二度共、夏から秋へかけてであって、

冬の経験はないが、牢内で他の囚人から聽く處に據ると、

「冬になれば格子へ紙を張つてしまふ故、甚だ暖い」

と記してゐる。

又、冬は參湯を給し、

夜になると熱湯を徳利に入れたものを、囚人へ與へ暖を取らせる。

獄中と云へども、相当の情があつた事が分る。

悩むのはよそうミカンに手を伸ばす  嶋沢喜八郎

松陰は最初の入牢の時は、友人達から金を取り寄せ、

それを牢名主に贈つて、遂に「名主の次ぎ」の添役と迄なるに至ったが、

地獄の沙汰も金次第であることは申す迄もない。 

然しながら、

何から何まで金次第だと考へると、大いに違ふとも云つてゐる。

「それは立引と称して、人から頼まれた囚人は、

   名主以下も決して粗末にしない。

   手当囚人は勿論の事だが、諸役人から託された囚人とか、

   或は有名な侠客や博徒から頼まれた囚人等は、

   特別扱ひにしたものであつて、金の力が物を云ふ獄中であつても、

   役付の囚人達に、唯、徒らに金のみを振り廻したとて、

   それは少しも顧みられぬものだ」

   と松陰は獄中の囚人にも猶意氣と云ふものがある事を泌々と感じた。

そうか君は明日も生きてるおつもりか 居谷真理子

又一方、牢屋係の役入獄卒達は賄賂を取る事に吸々として、
       いや
松陰も賤しむべき人達だとは感じたが、

他方に於いて、一度賄賂を貰つて承諾した事は必ず実行する。

約束を違える様な事がないのは実に意外であつて、

誠に左様な賤しい心の人達ではあるが、義理堅いものだと驚いている。

松陰が初めて傅馬町の牢へ入つた時、

友人の手紙の往復、金錢其の他の届物などを託したのは、

獄卒の伊八と云ふ者であつたが、

此の伊八は前に云つた義理堅さはなく、甚だ良くない奴であつた。

其の度に松陰から貰ふ使賃だけでなく、

小倉健作の處へなども度々行つて迷惑をかけたので、

松陰は小倉へ其の事を詫び、以後は伊八に託さぬ事とした。

伏線はあった接続詞が消えた  森吉留里恵

其の後は伊三郎と云ふ獄卒に託したが、

伊三郎は眞面目な人物であつて、松陰が小倉へ送つた手紙にも、

「伊三郎は容貌は怪異ではあるが、

   決して悪い人物ではない故安心してくれ」

と云つてゐる。

松陰が再度、傅馬町の牢へ入つた時は、

獄卒の金六に託して、外部との連絡を取つてゐた。

高杉晋作へ宛た手紙にも、

「金六は前回の入牢以來知つてゐる人物であつて、慥な者故、

   萬事此の者へ託してくれ」
 したた
と認めてあつた。

松陰が處刑になつた後、其の遺骸の引渡を請けやうと尾寺新之丞

飯田正伯が獄吏に賄賂を贈つた時も、この金六の手を通してであつた。

少し訳あり余白に太く引く破線  上田 仁


 小伝馬町牢獄図-2

獄中へ金銀や書物を入れる事は許されない。

即ち牢内法度の品として金銀、刄物、書物、火道具類は、

堅く禁じられて居る事項、松陰が友人から金を取り寄せたり、

或は「靖献遺言」「十八史略」等の書物を入れてもらつたのも、

皆内密の事で、それには此の獄卒を使つたものであった。

着物其の他の必需品は願出れば公然と差入れを許される。

松陰は初めの入牢の時、

紋付袷、紋付帷子、五布蒲團、單物、襦袢、下帯、手拭、

半紙、錢二百文等を差入れて貰つてゐる。

再獄の時も大体同様である。       

オラの画鋲は金に画鋲でごぜえやす  くんじろう

以上の如く松陰の傅馬町牢に於ける揚屋の生活は、

相当気楽なものであつたようだ。

松陰のゐた東口揚屋は間口二間半、奥行三間の部屋に、

同囚が十三人ゐたが、無宿牢となると間口四間奥行三間の部屋に、

いつも6、70人から80人にも達する囚人が押し詰められて居り、

毎日のやうに病死人が出た事は松陰も「江戸獄記」の中に記している。

以上の通り松陰の獄中記を読めば、同じ傅馬町牢の中でも、

揚屋と無宿牢とでは、囚人生活に如何に多くの相違があるかが分り、

又貴重な記録である。       (「梅丘庵・クラシマ日乗」より

後悔を埋めたあたりを掘り返す  美馬りゅうこ


    ホエ駕籠

【豆辞典ー②】「罪人の護送」

江戸時代、町人や農民など庶民の重罪人を運ぶとき、

竹で編まれた円筒状の駕籠が使われた。

これを「唐丸駕籠」又は「目駕籠」と呼ぶ。

「唐丸」とは中国渡来のシャモの愛称で、シャモを飼うときに使う

円筒状の籠を模して作られたことから名付けられた。

唐丸駕籠は、武士の罪人を運ぶために使われる場合もあったが、

一般的に武士を運ぶときには、普通の駕籠に施錠し、

上から青網をかぶせたものが用いられた。

帽子からはみ出す雄鶏のトサカ  井上一筒



唐丸駕籠は高さ90センチほどで、横には中の様子を見たり、

食べ物を差し入れたりする穴が、

底の台には、大小便の落とし穴があけられていた。

駕籠の中央には柱が立てられ、罪人の首にかけた縄を結びつけた。

罪人は手足も縛られ、

舌をかまないように、口に竹の管をくわえさせられることもあった。

真暗がり破って見ても明日がない 森 廣子

唐丸駕籠が通行するときは、前もって沿道の宿場に、

罪人を送り出した大名の名前などの名前や、駕籠の数(罪人の数)、

役人の人数などを記した「触れ書き」が届けられた。

「遠島刑」という刑罰では、離島に罪人を送るために、

船上に小さな牢が設けられた「流人船」という船が使われた。

江戸からは大島・三宅島・八丈島などが、

京、大阪、西国、九州からは壱岐・隠岐などが流刑地に選ばれ、

春と秋の2回出帆した。

船賃をお地蔵さまに借りたまま  笠嶋恵美子

拍手[2回]

クックックッちぇっちぇっちぇっと百八つ 河村啓子


松陰に最も近いとされる松陰像
たとい             てきがい
仮 令獄中にありとも、敵愾の心一日として忘るべからず。
いやしく                       せっさ
苟も敵愾の心忘れざれば、一日も学問の切磋怠るべきに非ず。

                       〔松陰の言葉〕
「野山獄」

安政元年(1854)9月23日、

手鎖と腰縄を付けられて江戸を出た松陰金子重輔は、

約一ヶ月の道中駕籠に乗せられ、10月24日に萩に着いた。

そして松陰は「野山獄」へ、金子は「岩倉獄」へと投獄された。

野山獄と岩倉獄は、もともと藩士の屋敷であったが、

江戸初期にそこに住んでいた岩倉孫兵衛が、

道一つ隔てた野山六右衛門の屋敷に斬り込み、

家族を殺傷するという事件が起こった。

喧嘩両成敗で両家とも取り潰しの後、両家跡は牢獄として使用された。

ほんのりと はすのかおりのしたような 大海幸生


死んで牢獄を出る金子重輔

事件は岩倉に非があったので、野山獄が士分を収容する「上牢」

岩倉獄が庶民を収容する「下牢」となった。

因みに野山獄には、松陰死去後に高杉晋作や保守派の椋梨藤太らが

つながれるなど、長州藩の幕末史に深く関わっている。

獄中の環境は、下牢である岩倉獄のほうが当然劣悪で、

小伝馬町獄舎にいたときから病気を患っていた金子は、

岩倉入獄後、3ヶ月も持たず死去してしまう。

行動を共にした弟子の死に松陰の無念はどれほどのものだっただろう。

ジグソーの欠けらを拾う冬の底  合田瑠美子


  野山獄と岩倉獄

岩倉獄が大人数部屋であるのに対し、

野山獄は独居房であり、

6房の牢屋が、中庭を挟んで南北に二棟並んでいた。

松陰が入獄したときすでに11人の囚人がおり、

松陰には北側奥の牢が与えられた。

不思議なことに、このとき居た11人の囚人のうち、

藩命による罪人は、わずか二人だけだった。

ほかの9人は、親族からの依頼で入牢した者であり、

純粋な罪人ではなかった。

いつか来る別れと割箸は思う  杉浦多津子


    野山獄舎

罪人でない者が獄に入れられるというのは、

現代にてらし違和感があるが、

江戸時代の牢獄は、現在の刑務所とは違い

懲役・禁錮という刑罰はなく、

殆んどが死刑か遠島などの「追放刑」であった。

小伝馬町にしろ野山獄にしろ、牢獄は未決囚が収容される施設であり、

現代流にいえば「拘置所」なのだ。

一方で、江戸時代の獄舎には、親族にとって不都合な人物を

世間から隔離するために収容するという機能もあり、

そうした幽囚されることを「借牢」と言った。

人間のアブクを背負う終電車  山口ろっぱ


松陰は一番手前の独居房へ
高須久子は中庭を挟んで松陰から一番遠い斜交いの独居房入った。

のちに松陰と交流する高須久子は、密通の疑いで入牢したのだが、

藩から命じられたわけではなく、世間の目を嫌った家族が、

「借牢願い」を出して野山獄いりさせている。

松陰も形式上のことだが、父・百合乃助から借牢願いが出された。

藩命による入牢者は赦免によって解放されるが、

借牢願いでつながれた者は、親族からの許しがない限り、

社会に戻ることはできない。

左足だけとりあえず転勤す  井上一筒



実際、松陰入獄時の野山獄には在籍20年以上の者が3人おり、

そのうち、大深虎乃丞は在獄47年に及んでいた。

そのため、囚人たちはおのずと厭世的になり、

牢内には怠惰な空気が漂う。

松陰は彼らの胸中を憐れみ次のように語っている。

「憤慨を抱きながら死を待つのみ、最もかなしいことだ」

正面にみてはいけないものを見る  佐藤正昭

松陰が思いを寄せたのは、決して同志の金子重輔へだけではなかった。

己の運命を悲しむ前に、まず同囚の運命に涙するのである。

そして、優しさと本質的に教師たる資質を持つ松陰は、

自分は獄に繋がれても読書など、独り自ら楽しむ術を知っている。

しかし、この人たちはそうではない。

何とか、この人たちを救いたいと思う。

ここから、松陰の獄舎内での教化改善、

獄舎を福堂への努力が始まるのである。

鍵穴の向こうは夢の舞う世界  田岡 弘

松陰が野山獄に入獄した直後は読書三昧の生活だった。

そのうち、囚人たちと遊学の事や海外事情などを話す中で、

次第に会話から議論・講義のようなスタイルに変わっていった。

光明なき幽囚の身にあっても人は学ぶことを欲するし、向上心もある。

松陰が、情報も豊かで、なかなかの見識を持つ人物であることを

何となく感じ取った同囚の人たちからも、

次第に質問が寄せられるようになり、松陰はこれに誠実に答えた。

こうして同囚の間にも自然知識欲が目覚め、

やがて獄中の希望者を集めて「孟子」の講義が始められることになる。

数少ないテキストを回し読みし、

相手からの質疑に答える形で松陰が講釈を述べた。

海へ還るせめて鱗を整える  加納美津子


円座の中央で講義する松陰

暫くしてからは、数人が順番に教師を務める輪講の形式がとられた。
            ゼミナール
読書会は、各人が教えあう総合教育へと発展する。

囚人の吉村善作(49歳)河野和馬(44歳)「俳諧」の授業、

富永弥兵衛(36歳)「書道」の授業を担当した。

これらの授業や交流は、通常は牢越しに行なわれたが、

時には囚人たちが互いの独房を訪れたり、一堂に会することもあった。

獄仲におけるこの講義に集まった者は、

同囚のほぼ全員に及んだばかりでなく、

獄吏の福川犀之助『孟子』の授業を聴講するようになり、

福川の好意によって、禁止されていた灯火の使用も許された。

松陰は尊皇攘夷派の月性宛の手紙のなかで、

「もし自分が一生獄中にいることがあれば、

   すばらしい人間が生み出せるだあろう」

と記している。

礼言わんといかんのはこっちです  雨森茂喜

          
 「野山獄囚名録叙論」  「野山獄謂われ」
                          (画面を拡大して読んでください)
「冒頭の文章

こういん
『甲寅(1854年)十月、余罪ありて獄に繋がる。

獄舎のに列する者、凡そ十一人なり。

つまびらかに之れを問ふに、其の繋がるること久しき者は数10年、

近き者も3‐5年なり。
         
皆曰く、
   つい  まさ  ま
『吾が徒終に当にここに死すべきのみ、復た天日を見る得ざなり』
        さがく
と。余乃ち嗟愕して泣下り、
                         いとま
自ら己れも亦其の徒たるを悲しむに 暇あらざるなり。

ここに於て義を講じ道を説き、
とも  まれい           お
相与に磨励して以て天年を歿へんと期す』

これは、松陰が出獄(安政3年(1856年)3月28日)後に記した

憎しみも毛玉も残る雑記帳  岡谷 樹

拍手[4回]

序破急を舞った真白き骨拾う  加藤 鰹


  ペリー来航瓦版

「黒船時代の背景」

徳川家康によって開かれた「江戸幕府」による統治は、

250年以上という長期にわたる泰平の世を日本にもたらした。

徳川家の当主は「征夷大将軍」として君臨し、

各大名はその将軍に臣従した。

毛利家は長州藩、島津家は薩摩藩といった形で、

それぞれ将軍から与えられた領地をとして経営した。

幕府は大名と藩を厳しく統制することも忘れなかった。

その政策が鎖国で、外国との取引を一切禁じるとともに、

日本人が外国へ行くことも、外国人日本入国も禁じたものである。

タバスコを江戸にかけたら写楽の目  柳瀬孝子

ただし幕府は完全な形での「鎖国」を行なっていたわけではない。

幕府直轄地の長崎に限定し、

清とオランダの2ヶ国のみと貿易を行なった。

また、対馬藩は李氏朝鮮と松前藩は蝦夷のアイヌと、

薩摩藩は琉球王国と、それぞれに交易を認めた。

そのため、江戸時代の日本は"鎖国"という言葉ほどには、

外国との窓口を閉ざしていたわけではなく、

諸外国の情報や文物は、限定的ながら入手していた。

必要とされるところで咲いてみる  岡内知香


五大州を周遊せんと欲す

寛永16年(1639)ポルトガル船の入港を禁止してから

100年以上、中国とオランダ以外の外国船が途絶えていたが、

18世紀後半に入ると、列強国はアジア進出を狙い、

日本に対しても交易や補給を求め、船を来航させるようになる。

安永7年(1778)、ロシア人・ラストチキンの商船が、
    あっけし
蝦夷の厚岸に来航し、寛政3年(1791)には、

アメリカの探検家・ケンドリックが紀伊大島に到着。

寛政4年(1779)、ロシア人のアダム・ラクスマンが、

漂流民である大黒屋光太夫ら3名を連れて根室に上陸、

初めて正式に国交を要求したが、

幕府は拒否し、一時的に長崎への入港許可書を出すにとどめた。

曲線の曲がるあたりの右顧左眄  皆本 雅


    投夷書

19世紀になると、ロシア、フランス、アメリカの船が、

前にも増して来航するようになる。 

幕府は、「異国船打払令」を出し

「接近する外国船があれば砲撃して追い払う」

という姿勢をとるが、天保11年(1840)アヘン戦争」で、

清がイギリスに敗れたという報がもたらされる。

隣国ともいえる、アジアの大国の敗戦にショックを受けた幕府は、

異国船の来航に態度を軟化せざるを得なくなった。

以来、幕府は方針を転換し、異国船が望めば、
                  しんすいきゅうよれい
薪や水の補給だけは認める「薪水給与令」を新たに打ち出す。

三叉路はそのうち 痒みになっていく  河村啓子

弘化3年(1846)閏5月27日、

アメリカ東インド艦隊のジェームス・ビッドル提督は、

全長75mの巨艦コロンバス号などの軍艦2隻で浦賀沖に来航した。

はたして浦賀奉行は、

「国禁により通商は許されない」と上陸を許さなかった。

「薪水給与令」により、水・食料・燃料だけを受け取った返礼に

ビッドルが、日本側の船に乗ろうとすると、

通訳のまずさから意志が伝わらず、

傍にいた警護の武士がビッドルを突き飛ばし、刀を抜いた。

そんな一幕にビッドルは、日本の開国の意志を確かめるのが、

任があったため、怒りを収め帰国した。

木枯らしのせいにしておく怒り肩  森田律子

 

これを聞いたアメリカのフィルモ大統領は、

「今度こそ開国させよ」との意志をペリーに伝え、

日本の将軍宛の親書を預ける。

当時58歳のペリーは東インド艦隊を率い、

アメリカ東海岸・ノーフォークを出航し、東回り(大西洋)

カナリア諸島~セントへレナ島~ケープタウン(インド洋)~

セイロン~シンガポール(東シナ海・日本海)~香港~上海~

小笠原~浦賀まで、約8ヶ月かけて日本へ到着した。

風の音無地のノートの一枚目  新川弘子

そして嘉永6年(1853)6月3日、

江戸湾の浦賀沖に4隻の「黒船」が現れた。

外輪と蒸気機関を使い、

高速で航行し、煙突からはもうもうと煙を上げる。

最新鋭の蒸気船であった。

黒船は、合計73門の大砲を備えており、

浦賀湾内で数十発の空砲を撃ち鳴らした。

害虫が薔薇のつぼみをナンパする  藤島たかこ

拍手[4回]



Copyright (C) 2005-2006 SAMURAI-FACTORY ALL RIGHTS RESERVED.
忍者ブログ [PR]
カウンター



1日1回、応援のクリックをお願いします♪





プロフィール
HN:
茶助
性別:
非公開