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川柳的逍遥 人の世の一家言
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スパイスその壱のちょうちんあんこうの風景
                   山口ろっぱ



ペリー来航を伝える瓦版

「松陰ー密航計画」

嘉永3年(1850)、数えで21歳になった松陰は、

藩から軍学稽古の名目で許しを得ると九州遊学に出た。

平戸、長崎、熊本と旅路に松陰は、初めて見る風景の数々に心躍らせた。

長崎では、入港中のオランダ船を見物し、

日本へ入ってきたばかりの書物を購入するなど異国文化を積極的に吸収。
                              ていぞう
また、九州各地で山鹿万助・葉山左内、宮部鼎蔵などに会い、

見識を深めていった。

特に宮部鼎蔵とは、国の防衛などについて話し合い意気投合。

松陰より10歳以上年上であったが、

のちに共に東北旅行に出るなど、生涯の親友とばった。

踵からジンジン石はもうはたち  酒井かがり

 
  異国人上陸の図       東北旅日記
                      たかちか
一度萩に帰った翌年、藩主・毛利敬親の参勤交代に従って江戸へ出る。

江戸では佐久間象山に師事して蘭学を学んだ。

松陰は第一人者であった象山に心服し、大きな影響を受けた。

熊本で知り合った肥後の宮部鼎蔵とも再会し、

二人は津軽海峡の視察を目的に東北遊学を決意する。

しかし、出発日の約束を守るため、

長州藩からの通行手形の発行を待たずに出発。

そのため、萩帰国後に「脱藩の罪」に問われ、

「士籍剥奪・世録没収」 の処分を受けてしまう。

捨てたのか捨てられたのかなぁ雲よ  桑原すゞ代


黒船艦隊の旗艦「ポーンハタン号」

4年後、「日米修好通商条約」がこの艦上で調印された。

しかし、松陰の才能を知る藩主・敬親はじめとする首脳陣は、

表向きは彼を罰しながら、

この機に10年間の諸国遊学許可を特別に与える。

二度目の江戸に着いた2日後、嘉永6年6月3日、

浦賀にペリー率いる「黒船」が来航する。

松陰は師の象山の後を追って黒船を視察に行った。

先進的な文明に心を打たれつつ、

「勝算甚だ少なく候」と危機を痛感した。

静脈を黒い何かが通過する  嶋沢喜八郎


  ペリーの似顔絵

翌年1月、ペリー艦隊は幕府の返答を聞くために再び来航した。

幕府はアメリカの開国要求に応える形で「日米和親条約」を結ぶ。

朝廷の許しもなく、外国の要求を受け入れてしまった幕府の対応に

憤慨する者も多かった。

「尊皇攘夷」を唱え、過敏な行動に出るものも現れるなか、

松陰はもっと先を見据えていた。

突っ込んだ首は抜けませんもごもご  オカダキキ

「攘夷、開国などと言っている場合ではない。

   本当の攘夷のためには、まず異人の文化をこの目で見る必要がある。

   そのためには黒船に乗り、アメリカへ渡るしかない」






象山に相談したところ、大いに励まされた松陰は、

同志の金子重乃輔とともに、

下田に回航し停泊していた黒船艦隊に小舟で接近し手紙を渡した。

手紙は通訳によって読まれたが、

ペリーも日本の国禁を破るわけにはいかない。

乗船を断られ、やむなく引き返した松陰だったが、

乗ってきた小舟が波に流されてしまった。

後頭部から音がしている しぼむ  久保田 紺



小舟には象山の署名入りの激励状が入っている。

密航が奉行所にばれるのは時間の問題だ。

松陰は自首することにした。

捕らえられた松陰は、伝馬町に送られ「揚屋入り」を命じられた。

揚屋とは、武士身分の未決囚が入れられる牢屋のこと。

(重乃輔は、戸籍簿から外された者が入る「無宿牢」に入れられた)

揚屋は大人数部屋であり、新入りへの嫌がらせは日常茶飯事だった。

しかし、海外渡航未遂というかってない罪に、

囚人たちは大いに興味を示し、

松陰はたちまち、牢名主に次ぐ地位を与えられた。

国家論じるブタ玉の花かつお  井上一筒



伝馬町獄舎での約半年間の拘留の後、

幕府から松陰へ下された処分は、「在所蟄居」であった。

在所蟄居とは、身寄りが監督して自宅に幽閉する処分のことで、

幕府は野山獄送りではなく、

父・百合乃助へのお預けと自宅監禁を命じた。

しかし長州藩は幕府の命令を覆し、自主的に野山獄への収監を決めた。

藩が幕命より重い罪を与えたのは、幕府への遠慮のためと言われる。

それにしても、鎖国という国法を犯そうとしたにもかかわらず、

幕府が下した「在所蟄居」「入牢」という処分は極めて軽い。

海外渡航計画など、前例のない事件であり、

罰する法律がなかったことが罪を軽くした、

という理由が考えられているが、そこには、もう一つ、

「知識を得るために命をかけた教養ある日本人の知識欲は興味深い」

と松陰の志に感心したペリーが、幕府に取り成したという説が伝わる。

これしきでお褒めいただきトホホホホ  田口和代
  

伝馬町牢屋見取り図

また松陰の渡航を煽動した嫌疑で象山にも自宅蟄居が命じられている。

西洋学術に理解のあった安部正弘が象山の才を惜しんだため、

象山と松陰に同罪の罪を与えたと考えられる。

切り取り線どおりでしたねキミとボク 美馬りゅうこ

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シャチの背中にこんにゃくの載せにくさ 井上一筒


    明倫館

毛利家家臣の子弟教育のための藩校。
現在は明倫小学校の敷地内にあり、文や松陰、
そして長州の志士たちのゆかりの史跡が残っている。

「松陰の兄・梅太郎(民治)」

梅太郎は杉家の長男として生まれる。

寅次郎とは二歳違いの兄で、

幼いころから父・百合乃助や叔父の文之進に学問を教わり、

文之進が塾を始めてからは、松陰とともに勉学に励むようになる。

寅次郎と梅太郎は、とても仲の良い兄弟であった。

松陰の妹・千代が77歳の時、インタビュー記事に語った言葉がある。

「長兄の梅太郎と松陰は、

   見る者が羨ましくなるほどに仲のよい兄弟でした。

   出かけるときも、帰るときも一緒で、寝るときは、

   一つの布団に入りますし、
食事の時は、

   一つのお膳で食べておりました。


   たまに別のお膳で食事を出すと、

   一つの膳に並べかえていたほどでした。


 影が形に添うように、松陰は長兄・梅太郎にしたがい、

   梅太郎の言いつけに逆らうようなことなどありませんでした」

似た声を拾って歩く左耳  八上桐子



寅次郎が故郷を離れ江戸へ遊学に出たときには、

その志を理解し、一家の生活を切り詰めて学費を送金をしている。

22歳のとき、藩校の明倫館に入り、やがて役職に就くようになる。

黒船来航後、江戸湾警備のため相模に出張した際、

寅次郎の「密航未遂事件」に遭遇、帰藩を命じられた。

寅次郎が何度も国禁を犯しては、勤皇思想を公言するので、

そのたびに、そのとばっちりを受け、監督不行き届きとされて、

職を辞さざるを得なくなったり、謹慎を命じられたりした。

しあわせも不幸も君と半分こ  清水すみれ

それでも、寅次郎の志を押さえつけようとしなかったのは、

自分自身も、そうした志を秘めていたからだ。

もともと長州には、かって織田信長足利将軍や

天皇家軽視を批判する向きがあったように、

勤皇の精神が根付いていたのである。

そして、応援し続けた松陰が処刑されたのちは、

役職に復帰し勤皇派の復権を期して、

「鎮静会」という組織を作った。

軍手でつかむつるりとした未来  高島啓子


   民 治

維新後は、数々の役職を務め、主として優れていたので明治2年、

「民治」という名を賜っている。

明治4年には、山口県権典事という重職に就任。

その後、明治11年に辞職して故郷へ帰り、

明治13年頃から「松下村塾」を再興して塾長になった。

やはり、弟と勉学に励んだ日々を忘れることができなかったのだろう。

この塾は25年続いた。

晩年は、私立修善女学校の校長として、

子女の教育に残りの人生を捧げている。

これも松陰の遺志を継いだものなのだろう。

かって松陰が、女学校の建設を提唱していたからである。

松陰は年配の教養ある武士の未亡人を教師にして、

女児に女性の道を厳しく教えることを主張している。

青空を生む一本のネジまわす  和田洋子

梅太郎が亡くなったのは、明治43年、83歳であった。

松陰は、梅太郎からもらった詩に対して次のような返書を認めている。

「長男にとって、上には父母がいて、下を見れば弟妹がいます。

   外に出ると、役職が忙しいし、家の中では家事がたくさんあります。

   静かに座って読書し、ものを書くいとまはないでしょう。

  私矩方(松陰)が長兄に望むことは、詩作ではなく、

  文書を書くことではなくて、人々に農事を教え、農業を指導して、

  人々を富ませる学問することに越したことはありません」

この文書から、「兄がいなければ自分はない」

と考える松陰の兄を敬う念が伝わってくる。

マリオネットの糸をゆるめる二十五時 赤松ますみ

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くもの巣を蜘蛛は命をかけて張る  笠原道子

    
   東北遊日記

「異国船は堂々と海峡を往来している、

自分の寝台の横で他人が寝ているのを許すよりもひどい状況だ」

と書かれている部分。

「小田村伊之助と松陰」

文政12年(1829)小田村伊之助は、藩医・松島家の次男として、

今の萩市内で生まれた。

12歳のとき、儒学者・小田村家の養子になり、小田村伊之助を名乗る。

小田村が「明倫館」に入学したのは、16歳の時。

その後、19歳のときに養父が死去したために小田村家を継ぎ、

明倫館の司典という書籍を司る役に就き、儒学者の道を歩み始める。

嘉永元年、20歳時、城の警護役である城番に加えられ、

翌年、教授・助教授に次ぐ「講師見習い役」に任じられる。

嘉永3年(1850)3月、江戸藩邸勤務を命じられ、
             あさかごんさい
儒学者の佐藤一斎安積艮斉の塾に入っている。

無限大の風へ懸命に生きる  都倉求芽



小田村伊之助寿と結婚したのは嘉永6年、江戸遊学を終えて帰国し、

明倫館の講師見習いに返り咲いたときである。

それは、松陰が脱藩の罪で士籍を剥奪され、
                はぐくみ
身分は父・百合乃助「育み」の下で、暮らすことになったものの、

彼の才能を惜しんだ藩主・敬親ら遊学を許されたときのこと。

寿の結婚を知らせる手紙を受け取った松陰は、

とても喜び、次のような返事を書いている。

 (「育み」=長州藩独特の制度で再教育の機会を与えること)

白ですね昨日と違う白ですね  河村啓子

「久しぶりに故郷の便りを聞いて、繰り返して何度も読みました」

そして

「妹の寿が小田村氏へ嫁いだそうで、喜ばしいのはこのことで、

   お喜び申し上げます。

   小田村の3兄弟は皆読書家で、このことでも私の喜ぶところです」

とはいえ、小田村は藩の役人としての仕事が、煩雑で忙しく、

家庭に落ち着くことは、ままならなかった。

修正は不可能な気がします  安土理恵

萩に戻った 嘉永6年(1853)に再び明倫館に入るが、

すぐに文武稽古所「有備館」の稽古係を命じられ、江戸に戻っている。

さらに安政2年(1855)には再び、萩で明倫館講師見習いに復帰し、

翌年、今度は警備のために相模国三浦郡の陣屋に派遣され、

その任が終わると、明倫館が待っているという具合に、

江戸と萩を頻繁に往来していた。

それだけ小田村が、藩に重用されていたことの証しでもある。

当時、松陰は杉家に蟄居中、多くの弟子が集まっていたが、

小田村は藩務に追われ、「松下村塾」には顔を出す間もなかった。

行きつ戻りつひと筆書きの人生さ  田口和代.



また、この嘉永6年、ペリーが浦賀に来航した年でもあった。

こうした世情は世情として、

人々の生活に大きな変化が起きるはずもなく、

小田村夫婦の間には、翌年、長男・篤太郎

4年後の安政5年には、次男・久米次郎が生まれている。

2人が結婚したとき、文はまだ10歳。

はるか年上の小田村が、のちに自分の夫になるなどとは思いもせず、

ただただ、敬愛する姉の結婚を眩しい思いで見ていた。

ただ、一見、穏やかな生活が続いた小田村家だったが、年下ながら、

義兄となった松陰の言動に振り回される伊之助であった。

水平線はおぼろ宇宙は鼻の先  佐藤正昭



江戸滞在時の小田村の日記に、

学問仲間の中村百合蔵と松陰と3人で、藩主に講義したことや、

松陰が浦賀まで出かけたこと、

あるいは書物を読んで議論したことなど、多岐にわたって記述し、

交友関係が深まっていったことを伝えている。

こうして2人は親しく付き合っているが、

性格はかなりの違いがある。

損得抜きで行動をしてしまう激情型・松陰が、

通行手形の発行を待たずに、東北地方へ出発、

脱藩とされてしまったことがある。

半分は蜜 半分は毒 狂う  森田律子

そのときの小田村の日記には、

「吉田大次郎が、昨日脱藩したと言ってきた。

   すぐに桜田藩邸へ行き来原良蔵、小川七兵衛に会って事情を尋ねた」

小田村は松陰の後先を考えない行動に、驚き慌てた。

そして松陰の脱藩を責め、すぐに帰ってくるよう忠告した。

その手紙に対する松陰の返事は、

「自分の気持ちを知っているはずなのに、責められるとは思わなかった」

そして

「何もしないままで帰ることなどできない、

   もし、どうしても帰れというのであれば、

   自分で首をはねて胸を刺し、自害して罪を償う」

という激しいものだった。

繰り返す脱皮に鋼鉄の皮膜  日下部敦世

小田村が松陰に関わった問題として、二例あげれば、

安政元年(1854)、松陰が下田でアメリカへ密航を企てて失敗、

江戸の伝馬町獄に収容されたとき、寛大な処分を藩に働きかけ、
                むくなし
その一方で、松陰を嫌う椋梨藤太の派閥にあえて属し、

藩主・毛利敬親に日米修好通商条約反対を進言するなど、

松陰の志を支えた。

又、小田村は獄中の松陰の安否を気遣い、

金銭や筆記用具を差し入れている。

後、伝馬町獄から野山獄の移された松陰は、安政2年、

その年に死去した村田清風伝を書いてほしいと依頼をかけている。

しかし、小田村は忙しいうえに資料も不足していることから、

周りに相談の後、責任が果たせない旨の手紙を書いている。

シビレエイあんたの胸の超音波  井上一筒

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行住坐臥なんの飾りがいりましょう  田口和代


        杉 家 旧 家

杉家の畳のある部屋は、四室で合計18畳。

別棟の馬屋、物置を含めても20坪。

ここに最大13人が身を寄せて暮らした。



「文の母・瀧子」

瀧子は、20歳のとき、杉百合之助のもとに嫁いでいる。 

百合乃助より3歳年下の瀧は、慈愛に満ち笑顔を絶やさなかった。

嫁いだときには、杉家には姑(岸田氏)

夫の二人の弟・大助・文之進が同居し、

さらに姑の妹も子連れで帰ってくるなど、大家族であった。

そして梅太郎松陰に次いで、天保3年には長女・千代が誕生する。

増える子供の世話も大変だが、

さらにここに瀧の姉が転がり込んできた。

マックス13人が暮らした杉家宅であった。

生い立ちの貧しさ青に近づけぬ  前田扶巳代

下級藩士の杉家は、決して裕福ではなく、

女中や下男を雇うことができなかった。

したがって瀧子は、夫と共に田畑を耕し家事の一切を引き受けていた。

しかし、そんな貧しい生活であるにもかかわらず、

子どもの教育に熱心で、「学問だけは怠らないように」と、

読書を勧めた。

松陰が後に継ぐことになる松下村塾を始めた父の弟・玉木文之進は、

人に厳しい人であったが、

その彼さえも瀧子を称賛してやまないほどだった。

松陰の弟子たちのことも可愛がり、貧しい中、

彼らを精一杯もてなした。

計算は嫌い貧しさにも馴れて  森中恵美子

それだけではない、姑は中風で寝込んだ上、

姑の妹までも半身不随となった。

長男・梅太郎が書いた『杉百合乃助逸話』に、

「瀧は三人の子供を抱えて、病人に行き届いた看護をなし、

   汚物の洗濯も意に介せぬ献身ぶりに、姑も泣いて感謝し、

   近所の者も涙した」 と書き記している。

こうした苦労の多い生活をしながら、ときには、

狂歌を作って披露し家族を笑わせるなど、

根っからの楽天家であった。

風呂は肉体と精神を爽やかにし、家族に平安をもたらすと、

毎日風呂を焚いた。

青を着る平常心のぶれぬよう  美馬りゅうこ



梅太郎の逸話に、

あかぎれで湯が沁み、つま先だって歩く母が、

「あかぎれはこゑしき人のかたみかな ふみみるたびにあいたくもある」

と、詠い皆を笑わせた とある。

(こゑ(恋)しき人、ふみは(文)と(踏む)の掛けことばになっている)

こうした瀧のもと、大家族は一つになっていた。

ゼロ番線の先で光っている青  広瀬勝博

だが総じて瀧子の生涯は、苦労多く、松陰だけでなく、

子どもや孫にも先立たれ、松陰の刑死は、夫にまで及んだ。

だが、瀧は、慌てず騒がず乗り越えてきた。

末娘・も、そんな母を見て育ったのだろう。

彼女が兄・松陰や夫(久坂玄瑞)の死を乗り越え、

再婚した楫取素彦のよき伴侶になり得たのも

こういう母のもとで多くのことを学んだからに違いない。

松陰の母への気持ちと、母の松陰に対する気持ちがこめられた

有名な句がある。

「親思うこころにまさる親心 今日のおとづれ何と聞くらん」

(江戸で罪人として処刑が決まった松陰が、郷里の両親に宛てた時の句)

愛から愛 花から花が生まれます  津田照子



「文の父・百合乃助」

名は常道。

通称で百合乃助と呼ばれた。

家禄は26石。

因みに同居の二人の弟は、

吉田家と玉木家に養子に行き57石と40石を得ている。

天保14年、文が生まれた年に、百合乃助に慶事が訪れる。

藩政改革のなか、中間百人頭兼盗賊改方に抜擢されたのだ。

杉家は家禄26石だったが、

借金や召し上げ米もあって実収入は年7.7石。

これは大人四人分ほどの食い扶持にすぎなかった。

だからこそ杉家は夫婦して農耕に勤しみ、何とか生計を立ててきた。

凛として木目通して父の椅子  山本早苗

日ごろの百合乃助は、読書家で暇さえあれば本を読んでいた。

畑仕事をするときも、いつも、座右に本を置いて、

それを読みながら作業に励んだという。

「杉百合乃助逸話」では、

「百合乃助はもっぱら農耕を生業とし、農作業をしながら、

   常に読書を怠らず、梅太郎、松陰の素読はほとんど畑で教えた」

とある。

息子たちを耕作の休憩中に畦に座らせ、「四書五経」を教え、

山への道すがら、「詩文」を吟じて覚えさせた。

また夜の米つき、藁仕事の合間を惜しんで、

楠木正成児島高徳など天皇の忠心の物語を聞かせた。

(松陰が天皇を敬う「尊王」の考え方も、父の影響だった)

私がまず抽出しになっている  河村啓子

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薄氷そんな約束したかしら  美馬りゅうこ


   杉 寿

「文の次姉・寿」 (楫取素彦の最初の妻)

杉家の次女・寿は高禄の長州藩士との結婚が決まっていたが、

兄・寅次郎が脱藩の罪に問われたため、破談となる。

寅次郎は、江戸でともに学んだ同郷の小田村伊之助の資質を見込み、

「寿は学問好きの小田村とは、必ず似合いの夫婦に相成り候」

という手紙を杉家に送っており、それがきっかけとなり、

松陰とは9歳年下の寿は15歳で、松陰より1歳上の小田村に嫁ぐ。

小田村は「明倫館」の講師でもあり、松下村塾の中心人物でもあった。

松陰は、村塾を彼に託そうとしたくらい、よくできた人物だった。

しかし、ペリー来航で騒然とする中、彼もまた不在がちの毎日で、

寿は、子どもを連れて実家で生活することが多かった。

無駄骨を何本折ったかで決める  立蔵信子

松陰は、長姉・千代に比べて優しさよりも勝気が勝る彼女を心配して、

それを戒める手紙を出している。

「お寿は、若い時は心が偏ったところがありました。

 この気性は生まれた子にとっては、わざわいになるでしょう。

 しかし、今子どもを抱く身になったのだから、

 決して若い時のようにしてはいけません。

 穏やかで素直で心を広くして幼子を育てて、

 将来、勉強に精を出すもとを作りなさい。

 それを大いに祈っています」
ひさいえ
(小田村夫婦の間には、結婚の翌年、長男・篤太郎(希家)

4年後の安政5年(1858)次男・久米次郎(道明)が生まれている)

破れ目から何かころりと抜け落ちる  山本昌乃



二人が結婚したとき、はまだ10歳そこそこの少女であった。

はるか年上の小田村が、後に、

自分の夫になるとは思いもしなかっただろう。

ただただ敬愛する姉の結婚を眩しい思いで見ていたに違いない。

この姉は、松陰も認めるほどの、賢く気丈夫な女性だったからである。

小田村が「野山獄」に囚われたときのことである。

寿は人目のつかない夜中に、彼のもとを訪れ食物や衣類を届けた。

同行した文が怖がっているのに、寿はびくともせず、

面白がるふうもあった。

そして、松陰が刑死、義弟の久坂玄瑞も戦死して、

維新を迎えた寿は、楫取素彦と名を改めた小田村に対する

妻としての役割を務め上げている。

彼女の勝ち気な性格が功をせいした一場面である。

丸描いて平常心を呼び戻す  菱木 誠



他にも楫取が群馬県令として赴任したときは、

「寿の助けがなくては、やりとげられなかった」

と思われる役割を果たしている。

当時、道徳教育が津々浦々まで行き届いていたとはいえず、

赴任地の群馬も、「難事県」と呼ばれていた。

寿は、荒くればかりの群馬の人々を救うには、

「宗教しかない」 と思いあたり、

昔から信仰していた浄土真宗の教えを広めようとした。

彼女が言うなら蜜柑は四角です  奥山晴生

それは見事に成功し、その活躍は、

「荒くれし地にもみのりの花は咲く 名もゆかりある熊谷の里」

と詠われた。

また寿は「関東開教の祖」といわれた。

やがて楫取素彦が携わった「製紙業」も盛んになる。

群馬県が「養蚕」で有名になり、「教育県」と呼ばれるなったのは、

寿の協力があったればこそであった。

この製糸場と絹産業遺産群が、いわゆる、

「世界遺産」・
「富岡製糸場と絹産業遺産群」となる。

こうして、内助の功以上の功績を残した寿だったが、胸を病み、

明治14年2人の息子を残して、44歳の若さで亡くなった。

満月は嫌いだすぐに欠けるから  嶋澤喜八郎

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