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川柳的逍遥 人の世の一家言
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シミとシワ消すとわたしも消えました  美馬りゅうこ


   五大老の花押

「何でそうなるの」
                かす
徳川家康が豊臣の天下を掠めとったことについて、

秀吉ともあろう政治家が、やすやすとそれを許したのは、
もうろく
耄碌していたからだとしか考えられないと、誰しもが言う。

だが、それは結果論であって、秀吉の晩年の状況においては、

家康が天下を取る可能性がそれほどあったわけではない。

家康を関八州の太守にしたのは、大陸遠征に専念するために、

関東の治安維持を、家康に任せたかったからだ。

爪楊枝として私を添える  河村啓子

また、羽柴秀次を追放するにあたって、

秀頼の後ろ盾として、前田利家家康を頼りにしている。

あるいは、東国のことは家康に、

西国のことは毛利輝元小早川隆景に、差配を任せたい、

といったようなことも言っている。

またこの頃は、輝元に子がなかったので、

隆景が高く評価する弟・毛利秀元元就・四男)が養子となっていた。

凹凸したり捻じれたりしてつづく  今井和子

ところがこの年の暮れに、輝元に実子として秀就が生まれて、

秀元は嫡子としての地位から降り、

山口を本拠にした独立大名となる方向で調整が行なわれるが難航する。

しかも隆景は (1597)に死去した。

もし、秀就の誕生がなくて秀元が継承者として安定し、

隆景が存命なら、毛利家は安泰だっただろうし、

西軍の盟主となるような、冒険主義にも陥らなかったはずだ。

また、そうした歴史であれば、

家康につけいられるようなこともなかっただろう。

また、その場合には、如水も毛利主導の西日本秩序のなかで、

大人しくしているほかはなかったはずだ。

運命にもDNAがあるらしい  武本 碧

ただ、それでも、秀吉は織田旧臣の代表格で宇喜多や細川に娘を 
                                ふやく(もりやく)
嫁がせていた前田利家を織田家の血も引く秀頼の傅役として、

大坂城に置き、伏見城で政務中心にあった家康に対峙させた。

この体制では、家康のほうが優勢とは言えなかったし、

だからこそ、家康は焦って諸大名と縁組をしたりした。

つまり家康は、隆景と利家が先に死んでくれたからこそ、

天下を取れたのであり、如水が家康寄りになったのも、

そういう変化があってのことなのだ。

北緯二十五度東経5度の咳  井上一筒

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口から口へ移す嘘っぽい夢  雨森茂喜

「武断派の七将」
 
浅野幸長(甲斐甲府城主)  池田輝政(三河吉田城主)

 
加藤清正(肥後熊本城主) 加藤嘉明(伊予松山城主)

 
 福島正則(尾張清洲城主) 細川忠興(丹後宮津城主)


黒田長政(豊前中津城主)

「再び、揺らぎ始める天下」

「朝鮮の役」は、ただでさえ基盤が脆弱な豊臣政権に、

大きな打撃を与える結果となってしまった。

遠征軍の中心となっていたのは、

おもに西国に領地を持つ大名たちである。

これらの大名の多くは、もともと親豊臣派であった。

それが得るものが何もなかった。

外征により、財政や人員をはなはだしく消耗してしまう。

そしてさらに深刻なのが、三成ら五奉行を中心とする「文治派」と、

加藤清正ら主に朝鮮の戦場を駆け巡った「武断派」の対立であった。

なかでも三成の讒言により、一時は秀吉から謹慎を命じられた清正は、

「三成憎し」の感情がとくに強かった。

朝日より夕日が似合う無節操  大和峰明

慶長4年(1599)3月3日、前田利家が亡くなる。

利家は唯一、家康と互角に渡り合える大老であった。

すると武断派の、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興

浅野行長、池田輝政、加藤嘉明「七将」が、

大坂にあった三成の屋敷を襲撃した。

しかし、佐竹義宣からこの情報を得ていた三成は、

あろうことか、家康のいる伏見城内に逃げこんでいた。

ひょんなことからクラゲと一つ屋根の下 笠嶋恵美子

両者は伏見で睨みあうことになったが、

家康が仲裁に入りその場は事なきを得た。

ただ三成はこの件をきっかけに、奉行の職を退いたうえ、

居城の佐和山城で蟄居を承諾させられる。

「利家の死去」、「三成の蟄居」、により、

家康の専横に歯止めをかける存在がいなくなった。

そんな中央の状況を如水は、

九州の地から冷ややかな目で眺めていた。

如水は次に天下を狙うのは家康だと睨んでいる。

三成ら奉行連中は、「七将の襲撃事件」を面白く思わず、

必ず衝突することになると考えていた。

BとB型 移動性低気圧  田口和代



「この時、如水の動き」

慶長3年(1598)8月18日秀吉が伏見城で没した。

享年62歳。

如水がそれを知ったのは、領国の豊前中津においてである。

20日に第一報を受けた如水は、24日に確報を得ると、

毛利氏のキーマンである吉川元春の三男の広家に、

「自分は京で世間の様子を静観するつもりである」

と書き送った。

かって秀吉の名軍師として鳴らした如水、ときに53歳。

朝鮮の陣での不手際から勘気をこうむり隠居謹慎し、

「秀吉の死によって完全の自分の時代は終わった」

―と、普通の人間であれば肩を落とすところだろう。

ロープの先にあぶない火種燃えている  都倉求芽

だが、如水は違った。

「今いちど、腕をふるう時がきたわ」

その目は輝きを取り戻し、全身には生気が満ち溢れていた。

広家への書状は「上方に兵乱起こらん事、かねて悟っている」と続く。

新たな乱を予期した如水は、
         とも
大坂と備後の鞆と周防の上関に早舟を待機させて、

何か事が起これば即座に国元に連絡が来る仕組みを整えていた。

このおかげで、秀吉の死を九州にいながら、

三日目に知ることも出来たのだ。

そしてまた戦闘帽に旗を振る  柴田園江

同年12月、如水は予定通り伏見の黒田屋敷に入る。

すでに彼の耳には、五大老筆頭の家康が、秀吉の死の直前に、

浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以、石田三成

いわゆる五奉行に対し、

「豊臣家臣同士で私に派閥を作りません。

  秀頼様がご成人されるまでは諸大名からの知行に関する訴えを

  取り次がず、自分が仮に加増されても辞退します」

と誓紙を出していたことが入っていた。

玉葱の薄皮ほどのせめてです  新川弘子

しかし如水は、「そんな約束など何の保証にもならぬ」

と、醒めきった頭脳で考えている。

事実、秀吉の死の直後に、石田、増田、長束、前田の4奉行が

毛利輝元に、「世間がいかに乱れても協力しよう」

という誓紙を出させている。

家康と親しい浅野長政を排除し、輝元ひとりと同盟を結ぶ内容は、

明らかに「私に派閥を作らない」という

秀吉の定めた法度に抵触していた。

さらに慶長4年1月9日には、薩摩の島津義弘、忠恒父子に対して、

朝鮮四川の大勝の功として、5万石が加増された。

これも「知行は秀頼成人まで変更しない」という定めに背く。

鴨川の五分には過去の紙魚がある  たむらあきこ

如水はひとり呟いた。

「秀吉様の大義名分は、浪速の露と消えたのだ」

『天下惣無事』―大名間の領地を巡る私戦は一切許さず。

公儀への奉仕によってのみ本領を保証し恩賞を与える。

これに従わない者は、天皇の名において秀吉が討伐する、

というロジックである。

秀吉は圧倒的な武力と財力を背景にこの「惣無事」を押しつけ、

天下の統一と支配を正当化した。

私戦を禁止するために必要な「論功行賞」も行なえなくなった時点で、

それは崩壊したのだ、と如水は考えた。

すでに諸大名は領地に飢えた狼となって動き出している。

それは黒田家も例外ではなかった。

あるかなしかの風にも飛んでいった種 柴本ばっは

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どもならんショーリショーリと髭を剃り 酒井かがり

 
 フロイス日本史   フロイス像

「文禄2年フロイス記録文書・豊臣秀吉篇」

彼(秀吉)は美濃国の出で、貧しい百姓のせがれとして生まれた。

若い頃には山で薪を刈り、それを売って生計を立てていた。

彼は今なお、その当時のことを秘密にしておくことができず、
              むしろ
「極貧の際には、古い蓆以外に身を覆うものはなかった」

と述懐しているほどである。

彼は身長が低く、目がとび出ており、シナ人のようにヒゲが少なく、

醜悪な容貌の持ち主で、片手には六本の指があった。

「付録」
文献・「国祖遺言」は、加賀藩中の一門・家臣に向けて、
藩祖である前田利家の事績を称揚する目的で、書かれた利家の言行録。
その中に、「大閤様ハ、右之手おや由飛一ツ多六御座候」記述がある。
(太閤様は右の手の親指がひとつ多く六本だった)

雑草の生きねばならぬ根の強さ  林 澄子


   日本史・訳

ついでそうした卑しい仕事をやめて、戦士として奉公し始め、

徐々に出世して美濃国主から注目され、

戦争の際に挙用されるに至った。

信長は美濃国を征服し終えると、

秀吉が優れた兵士であり騎士であることを認め、

その俸禄を増し、彼の政庁における評判も高まった。

しかし彼は元来、下賎の生まれであったから、

主だった武将たちと騎行する際には、馬から下り、

他の貴族たちは、馬上に留まるを常とした。

男児にも女児にも恵まれず、抜け目なき策略家であった。

端っこで昨日の僕を裏返す  上田 仁

彼は自らの権力が順調に増していくにつれ、

それとは比べ物にならぬほど、

多くの悪癖と意地悪さを加えていった。

家臣のみならず外部の者に対しても極度に傲慢で、嫌われ者でもあり、

彼に対して、憎悪の念を抱かぬ者はいないほどであった。

彼はいかなる助言も道理も受け付けようとはせず、

万事を自らの考えで決定し、誰一人、

あえて彼の意に逆らうが如き事を一言として述べる者はいなかった。

かけひき上手「NO]言わせない柿の種  百々寿子

彼はこの上もなく恩知らずであり、

自分に対する人々のあらゆる奉仕に目をつぶり、

このような(些細)ことで最大の功績者を追放したり、

恥辱をもって報いるのが常であった。

彼は尋常ならぬ野心家であり、その野望が諸悪の根源となって、

彼を残酷で嫉妬深く、不誠実な人物、欺瞞者、虚言者、横着者、

たらしめたのである。

彼は日々、数々の不義、横暴をほしいままにし、万人を驚愕せしめた。

彼は本心を明かさず、偽るのが巧みで、悪知恵に長け、

人を欺くことに長じているのを自慢としていた。

挙措動作ときどき剥げる金メッキ  石橋未知


秀吉と女と加藤清正

齢すでに五十を過ぎていながら、

肉欲と不品行において、極めて放縦に振る舞い、

野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに見えた。

この極悪の欲情は、彼においては止まることを知らず、

その全身を支配していた。

彼は政庁内に大身たちの若い娘たちを、

三百名も留めているのみならず、

訪れていく種々の城に、別の多数の娘たちを置いていた。

彼がそうしたすべての諸国を訪れる際に、

主な目的のひとつとしていたのは、

見目麗しい乙女を探しだすことであった。

すれ違いざま心臓の毛をむしる  井上一筒

彼の権力は絶大であったから、その意に逆らう者はなく、

彼は国主や君侯、貴族、平民の娘たちを、

なんら恥じることも恐れることもなく、

その親たちが流す多くの涙を完全に無視した上で、収奪した。

彼は尊大な性格であったから、

自らのこれらの悪癖が度を過ぎることについても、全く盲目であった。

彼は自分の行為がいかに卑しく、不正で、卑劣であるかに、

全然気付かぬばかりか、これを自慢し、誇りとし、

その残忍きわまる悪癖が満悦し

命令するままに振舞って自ら楽しんでいた。

何ともフロイスの命がよくあったものだと思う辛辣な秀吉評である。

ひたすらに出会い求めているクラゲ  山本早苗

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時空移動してろくろ首になる  井上一筒


   醍醐の花見 (歌川豊宣)

秀吉が亡くなる年の春、女性ばかりを集めて催された醍醐の花見。

「秀吉の死」

文禄5年(1596)9月、明との和平交渉が完全に決裂する。

この年には各地で、大地震が発生、畿内でも伏見城の天守閣や石垣、

さらには方広寺の大仏殿が倒壊する地震が起きている。

それも理由のひとつとして、改元が行われ、「慶長元年」となった。

先入観消そうメガネ買い替える  北川ヤギエ

翌慶長2年(1597)、14万の大軍が再び、朝鮮半島へ渡った。

こうして「慶長の役」が始まったのだが、

健康を害しはじめた秀吉の関心は、

朝鮮ではなく、もっぱら世継ぎの秀頼に向いていた。

文禄2年、淀君は秀吉の第二子・秀頼を出産していた。

この時の秀吉の喜びようは、尋常ではなかった、と伝えられている。

我が子かわいさで目が曇ってしまった秀吉は、

いわれなき謀反の嫌疑を甥の秀次にかけ、

切腹にまで追い込んでいるように、― 以来、秀吉は、

「まさに心ここにあらず」の状態になってしまっていたのだ。

やっかいな方へと種は飛んでゆく  森田律子

慶長3年になると秀吉は、醍醐寺の再建と造園を命じ、

庭に700本もの桜を植えた。

そして3月15日、おね、淀、側室や諸大名、その配下にいたるまで、

女房女中約1300人を集めた花見を催した。

「醍醐の花見」である。

男性は秀吉と秀頼、それに前田利家だけであった。

あれをしてこれしてそれもせんならん  雨森茂喜

同じ年の5月になると、秀吉は床につくことが多くなった。

5月15日には、『太閤様被成御煩候内に被為仰置候覚』という名で、

徳川家康・前田利家・前田利長・宇喜多秀家・上杉景勝・毛利輝元

五大老及び、その嫡男らと五奉行のうちの前田玄以・長束正家に、

宛てた十一箇条からなる遺言書を出している。

これを受けた彼らは、起請文を書きそれに血判を付けて返答した。

秀吉は他に、自身を八幡として神格化することや、

遺体を焼かずに埋葬することなどを遺言した。
                              (『完訳フロイス日本史5 豊臣秀吉篇Ⅱ』)

天国へ引っ越すまでのあれやこれ  オカダキキ

7月4日、自分の死が近いことを悟った秀吉は

居城である伏見城に徳川家康ら諸大名を呼び寄せて、

家康に対して子の秀頼の後見人になるようにと依頼した。

8月5日、秀吉は五大老宛てに二度目の遺言書を記す。


 豊臣秀吉遺言覚書案

秀吉の遺言状 (慶長三年八月四日) のこと。

『秀よりの事、なり立ち候やうに、此かきつけしゆへ、

  しんにたのみ申候。

 なに事も、此ほかは、おもひのこす事、なく候。かしく。

 いへやす(徳川家康)ちくせん(前田利家)てるもと(毛利輝元)

 かけかつ(上杉景勝)秀いへ(宇喜多秀家)

 返々、秀より(秀頼)事たのみ申候。

 五人のしゅ、たのみ申候。いさい、五人の物に申しわたし候。

 なごりおしく候』

消せるよう鉛筆で書く遺言書  伊達郁夫

秀吉の病は、前年に、秀吉の命令で甲斐・善光寺から京都・方広寺へ

移されていた善光寺の本尊である「阿弥陀三尊の祟りである」

という噂から、元々の信濃・善光寺に返すため、

8月17日に京都を出発したが、

8月18日、秀吉はその生涯を終えた。

秀吉の死、それは天下人の死である。

この時、秀頼は、6歳。

それは、天下が再び乱れる暗示でもあった。

守れない約束もある今日の風  靏田寿子

秀吉が亡くなったとはいえ、

まだまだ朝鮮の地では戦闘が行われている。

勢いに任せて突き進んだ「文禄の役」の際の、反省を生かし、

有利な戦で慎重に領土を拡大していたが、

秀吉の死は、戦いの意味をなくし、

朝鮮にいる大名たちは、秀吉逝去の報を聞き、

其々の思惑を秘めながら、日本に引き揚げてくるのである。

シャボン玉消えて下さい引きずらず  森 たみえ

こうして秀吉が亡くなると、豊臣政権の土台はすぐに揺らぎ始める。

多くの妻・妾を持ちながら、実子はまだ6歳の秀頼ひとり。

有能な弟・秀長もすでに亡くなっている。

その秀長にも成人した男子はいなかった。

数少ない身内であった秀次は、秀吉自らの手で粛正している。

こうした事情が、豊臣政権に暗雲をもたらすのであった。

「秀吉辞世の句」

"露と落ち露と消えにし我が身かな 浪花の事は夢のまた夢"

行きつ戻りつ一筆書きの人生さ  田口和代


秀吉の辞世 (大坂城)

サインの「松」は秀吉の雅号。直筆とも言われている。

「秀吉のちょっといい、逸話」

ある時、秀吉がかわいがっていた鶴が、飼育係の不注意から、

空高く舞い上がって姿を消してしまった。

打ち首は免れないと、覚悟してお詫びに参上した飼育係に、

秀吉は言った。

「鶴は外国まで逃げたのか」

「とてもとても、日本国より一歩も出ることはありません」

「それなら案ずるな。日本国じゅうがわしの庭じゃ。

    なにも籠の中に置かなくとも、日本の庭におればよい」

と言ったそうな。

遠景へ遠景へ野火のゆらゆら  山口ろっぱ

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サムライかカボチャか叩いたらわかる  新家完司


   新形三十六怪撰

新形三十六怪撰は月岡芳年が幕末期に描いた妖怪浮世絵・伝奇物語である。
その29話目に小早川隆景が主人公として登場する。

「小早川隆景と天狗山伏問答」 

朝鮮出兵の前、小早川隆景関白秀吉から、

「渡海の為の造船をせよ」 と命じられた。

豊前の彦山の楠を伐採して、大船を造れと言うのだ。

彦山は羽黒山や熊野大峰山と並ぶ修験道の山で、

天正9年に大友義統の軍勢に攻め込まれるまでは、

数多くの僧兵を有した一大勢力だった。

そんな山だったので山の座主は、

色々理由を並べて、木材伐り出しを拒否した、が、

「関白殿下の仰せだ」 と隆景が伝えると座主は納得し、

隆景は座主の坊にしばらく滞在することとなった。

がはははは天下ご免の向こう傷  禮 子

ある夜のこと。 

外は秋雨が降っており、深山は寂寞たる風情であった。

隆景は一人灯りをともして心を澄まし、古詩を吟じていた。

すると風がさっと吹き、

どこからともなく、身の丈七尺はありそうな山伏が現れた。

頭巾をかぶり鈴懸を付け、数珠を持って隆景の前に座し、

大きな目を突き出して睨みつけてくる。

隆景は

「これは何かありそうな山伏だ。

 きっとこの彦山に棲むという豊前坊という大天狗に違いない」

と冷静に判断し少しも騒がず、

瞬きもせずに静かに山伏と睨み合った。

ゴキブリを睨めば睨み返される  筒井祥文

暫くして、山伏は話し出した。

「左金吾殿! この山の木は開基千百年の昔から一度も

  伐られたことがない。


   これは人々が神仏を敬い慕うがゆえに守られてきたことだ。

   それなのに、隆景が何の恐れもなく木を伐採し、

   舟具に用いるとはなんと奇怪なことか。

    貴公は仁義の大道に尽力し、仏神に帰依の心も深い。

    この末法の世には有り難い名将だと聞き及んでいたのに、

     こんな悪逆無道のことをするとはいかなることか」

と声を荒げて言いつのった。

トサカから声を出すのはヤメなさい  笠嶋恵美子

隆景は答えた。

「これは貴公のような山伏の仰せとは思えない。

    この彦山の樹木を、この隆景の私用の為に伐るのであらば、

    そのようなそしりを受けもしよう。

     しかしこれは関白殿下の御命であり、

      隆景はその奉行として、罷り出でたのだ。

      この山の木を伐らせるのに前例がないからと言って、

      殿下の命に背くのであれば、

      それは天下の下知に背くのと同じことだ。

     “普天のもと、王土にあらずということなし” という。

      秀吉は天子ではないが、畿内は天子の直轄地であり、

       そのほかは将軍の令を守るものだ。

         天下の下知に背くのは、いかなる道理があっても罷りならぬ。

         ゆえにこの命に背くなど,あってはならないことだ。

べらぼうめ矢でも鉄砲でもと訳す  石田柊馬
 
   次に、この隆景のことを悪逆と言ったが、

   山伏殿の方こそ、自分勝手なことばかり言っているではないか。

   役行者(修験道の開祖)以来、山伏の法には、

   私利私欲を優先して世の法を破れとでも書いてあるのか。

   もしそうなのであらば、山伏は邪魔外道の法で、正法のものではない。

   正法は私欲を禁ずる。

    ならば樹木に執着し、縛られるとはいかなることか」

すると山伏は、

「“普天のもと、王土にあらずということなし”とはもっともなことだ。

    貴公の科ではないというのも歴然だ。

    ではお暇申し上げる、さらばだ」

と言い残して、掻き消えるように姿を消した。

歯の抜けた人食い鮫は帰郷せよ  井上一筒

「解説」

ある晩、隆景の元に大柄な山伏が姿を現した。
山伏は隆景に向かって、
「この山の木々は、千年以上も切られたことのない神木である。
 それを切り出し、軍船に仕立てるとは何事か。
 天下に名高き仁将である小早川隆景殿が、
 そのような非道な行いをなさるとは信じられない」
と言った。


対する隆景は、山伏の異様な外見を見て即座に
「これは天狗だな」と見抜き、怖じた様子も見せずに、
「確かに、この隆景が私利私欲のために神木を切るというのであれば、
 非難されても仕方がない。
 だがこれは天子様の代行である関白秀吉殿のご命令であり、
 私は公の命令に従っているに過ぎない。
 そういう山伏殿こそ、たかが神木如きにこだわって,
 公儀を蔑ろにしているではないか。
 それこそが非道に値しないのか」
と切り返した。
これに山伏は隆景に反論することができず、
霞のように消え去ったという。

黒幕は逃亡ソナタはジ・エンド  山口ろっぱ

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