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川柳的逍遥 人の世の一家言
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強いから泣かないのではありません  青砥たかこ


 黒田如水縄張図 (中津市歴史民族資料館蔵)

これは黒田如水が描いた中津城の縄張り図だと筆書きされている。
城は、本丸を忠心として北側に二の丸、南側に三の丸が配置されている。
その形状が扇型をしていることから「扇城」と呼ばれる独特な城構え。
官兵衛らしく周到な城で、中津の地形を生かした鉄壁の防御で、
攻めるに攻めにくい、攻められたとしても退路は海側に確保されている。
(この絵図は官兵衛の絵を元に17世紀に写されたものである)

「新天地-中津」
     いばく
秀吉の帷幕に加わって以来、官兵衛の働きは、

文句のつけどころがなかった。

秀吉が信長の後を継ぎ、

天下人への道を歩むことができるようになったのも、

「官兵衛の働きがあってこそ」といっても過言ではない。

だが恩賞に関しては、その働きと比例しているとは言い難かった。

秀吉のもとで働き始めた当初は、

小寺家の家老という立場であったため、致し方なかった。

だが、秀吉に仕えるようになってからは、

もっと恩賞に預かったとしても、誰からも文句は出なかったであろう。

手頃だと亀の子束子わたされる  河村啓子

そんな官兵衛は、四国征伐の翌年の天正14年(1586)春、

従五位下勘解由次官に任じられた。

そして播磨国宍粟郡などで2万石、

赤松氏の旧領から8千石を領することになった。

さらに嫡子の長政が丹南で2千石与えられたので,

合わせて3万石であった。

そんな官兵衛は九州征伐でも、抜群の働きぶりを発揮した。

秀吉はつねづね官兵衛に

「九州を平らげたら、どこか一国を与えてやろう」

と口約束をしていた。

だが、九州平定が成ったときに、秀吉が官兵衛に与えたのは、

豊前8郡のうちの6郡,石高にして12万石であった。

水底にゆっくり溜まる不協和音  青砥和子

これまでの天下統一事業に向けた官兵衛の貢献度を考えれば、

一国すら与えない恩賞は、明らかに冷遇である。

秀吉が故意に恩賞を抑えたのは、

官兵衛の勢力を増大させることを恐れたからである。

間近で官兵衛の才能をまざまざと見せつけられた秀吉は、

自分にすら取って代わりうる傑物として、警戒したのである。

尚、秀吉は、官兵衛に400年続く名門・宇都宮一族がいる

豊前に「領地を構えるように」と命ずるのである。

官兵衛は秀吉のこの言葉に、

この地で起こるだろう嵐の予感がしてならなかった。

もう何も言わずにちりめんじゃこになる 早泉早人


    中津城

海と川が自然の要塞となっている中津川の河口に築城された中津城。
官兵衛時代の城には、写真のような天守閣はなかった。
現在の中津城は、明治4年廃藩置県により廃城となったため、
後年の復元であり、二の丸は模擬天守である。

豊前国に入った官兵衛は、秀吉の命ずるとおり最初は、
みやこ
京都郡(福岡県行橋)にある「馬ヶ岳城」を居城とした。

その後、秀吉から「どこに住んでもよい」と言われたので

官兵衛は馬ヶ岳城に入城したその年のうちに、

中津城築城に着手している。

なぜ官兵衛が中津へ城を構えたのか。

 馬ヶ岳城のある京都郡が、所領した豊前国6郡の北端だった、

のに対し、中津は領内のほぼ中央に位置していること。

 豊後街道によって、豊後・筑後方面へのルートが開けていたこと。

さらには、周防灘を利用した海路を利用できること。

 中津は地勢面で有利な点が多いこと。

一国の領主となった官兵衛は、

領内の統治と産業経済発展の両面を睨みながら、

そのポテンシャルを十分に備えた中津の地を選んだのである。

良いことを言う占いの方へ行く  中野六助

天正16年(1588)正月、中津城の築城が開始され、

直後に、官兵衛と長政親子は馬ヶ岳城から中津へと移っている。

同年4月、一旦は降伏させた地元豪族の宇都宮氏を率いていた

宇都宮鎮房が反抗的だったため、中津城に誘い入れ謀殺。

さらに、合元寺に控えていた宇都宮氏の従臣たちもすべて惨殺し、

宇都宮氏を滅ぼした。

これは、秀吉の指示により長政が実行したとされている。

合元寺の庫裏の柱には、当時の生々しい刀傷の跡が残る。

こうして、領内の反対勢力の封じ込めに成功した官兵衛は、

中津城下の整備を着々と進めていった。

浮いてさえいればいつかはむこう岸  橋倉久美子


   おかこい山    

城下町を守るために、中堀・外堀沿いに "おかこい山" と呼ばれる
土塁がめぐらされていた。寺町の自性寺境内に遺っている。

「中津城の特徴」

中津川の河口に建つ中津城は、海と川を自然の要塞とした好立地にある。

実際に川側から城の方向を眺めてみると、川はまさに堀のように見える。

またいざという時の海路の確保、物資の輸送にも便利な場所なのだ。

川や城内の堀は、潮の干満によって上下するのも特徴で、

今治城、高松城と並ぶ日本三大水域に数えられている。

城の東には二重、南は三重の堀を有し、

外堀には城下の守りを強化するため、

さらに"おかこい山"と称する土塁を巡らせている。

いまもその土塁が町中に見られるほか、

黒田時代の町割や町名などが使われている。

姫路町、京町、博多町など、如水が偲んだと思われる町名が、

「黒田如水縄張図」 に明記されている。

人生のガイドブックが良く売れる  合田留美子

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極楽も地獄の鐘もただゴーン  奥山晴生


南蛮屏風 に描かれた南蛮人(長崎歴史文化博物館蔵)

中央で傘をさしかけられ、腰にはサーベルを携え、
赤いマントを風になびかせている男性は、南蛮船の船長だろうか、
後ろにお供が続き、黒人も描かれている。

「バテレン追放令」

フランシスコ=ザビエルは、布教のための道を開いた段階で

日本を去ったが、その後、来日した司祭、修道士たちによって、

キリスト教は着実に根をおろしていった。

その頃、仏教そのものが衰退していたことも、一つの原因であり、

さらにイエズス会がその地の戦国大名に積極的に働きかけ、

大名を受洗させていったことも大きい。

彼らをキリシタン大名とよぶが、肥前の大村純忠を皮切りに、

大友宗麟、有馬晴信、高山右近、結城忠正、小西行長らが、

キリシタン大名となっていった。

信じたいからポケットはめくらない  森田律子


    南蛮貿易

ただ注意しなければいけないのは、

彼らが単純に信仰上の理由からだけで、受洗したわけではなかった。

イエズス会士たちは、戦国大名たちが隣国との戦いに勝つため、

鉄砲・火薬・皮・鉄といった軍需物資を

欲しがっていたことも知っていた。

ポルトガル商船によってそれらの品を運ばせ、

それと引き換えに領国内布教の許可を得たのである。

こうして天正10年(1582)には、

15万人のキリスト教徒が生まれた。

当時の日本の総人口は1千5百万人ほどだから、1%の比率になる。

それから数年の後には、キリスト教徒が70万人にも急増している。

玉葱の甘さあなたも剥きなさい  蟹口和枝


  バテレン追放令

ところが、天正15年(1587)九州平定がすむと秀吉は、

長崎とその周辺がイエズス会領とされている状況を問題視し、

「バテレン(宣教師)追放令」を発した。

九州平定後の国分けで、島津氏を薩摩・大隅の2国と日向の1部に、

大友氏を豊後へ、竜造寺氏(鍋島氏)を肥前佐賀へ封じ、

そのほかの領地には、

在地の小大名や自分に協力した大名に恩賞として与えた。

その時、イエズス会による長崎の領有が問題となったのである。

お静かに0と1との会議中  上山堅坊

秀吉にとって主権者が誰か、明確にしておく必要があったのだろう。

そこで早速秀吉は、長崎・茂木・浦上の地を没収して直轄領とした。

しかし追放令真の狙いは、長崎における南蛮貿易の利益を抑えることにあった。

現に、ポルトガル船の来航は禁止されず、

追放令後のキリシタン取り締まりは、さほど厳しくなく、

彼らは非公然ではあるがかなり自由に活動している。

おとといを流して仮面着け替える  笠嶋恵美子

「挿し込みエピソード」

ーバテレン追放令撤回を求めるために秀吉に会見を願いでる官兵衛。

「九州平定を終わって国分けを行おうとしていた秀吉のところに

   官兵衛が参上しても、官兵衛に会おうともしなかった。

   秀吉は官兵衛に三か国を与えるような期待を抱かせながら、

   豊前しか与えず、

   それも豊前国の一部を接収して毛利吉成に与え、

  『汝がキリシタンゆえにこそこれを没収した』と言った」

と記している。
                ルイス・フロイスの「日本史」より

茹で過ぎたパスタスタメン外される  山本早苗


ポルトガルのキャロック

さて、布教活動が広がっていく一方で、

インドや東南アジアの緒地域でみせたように、布教の名を借りた

日本植民地化計画の方針があった疑いがある。

長崎からイエズス会総会長に送った書簡の一節に、

次のような驚くべき内容が書かれているのである。

「日本は海軍力が非常に弱く、兵器に不足している。

   そこでもし国王 陛下が決意されるなら、

   わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。

   そしてこの地は島国なので、主としてその内の一島、

   すなわち下又は四国を包囲することは容易であろう」

トンネルの横に実験室はあり  井上しのぶ

下というのは九州のことなので、ポルトガルが日本を攻めれば、

九州と四国ぐらいは奪い取れると言っているのだ。

従来、この文書の存在はあまり知られていなかったらしく、

ポルトガルによる日本植民地計画については議論にならなかった。

しかしこの書簡の発信者ペデロ・クルスは、

長崎で神学を教授していたイエズス会の中での文化人、知識人であり、

そのような人物がイエズス会会長に日本への

軍事力行使を勧告している点は、無視できないのではないか。

ぼこっぼこっとアスファルトから黒い手が 山田ゆみ葉

秀吉・家康が彼らの意図を見抜いていたかどうかは分からないが、

秀吉・家康によるキリスト教弾圧は、この点に限ってみれば、

結果的にポルトガルの軍事的進出を阻止したことになる。

だしじゃこの訴訟もやがてケリが付く  井上一筒

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俎板に水の残っている揺らぎ  八上桐子


   藩中屋敷

20万石程の大名屋敷の大きさ歌川広重絵)

「官兵衛の報酬について考える」

稀代の軍師と言われ、天下統一の陰の立役者である官兵衛は、

生涯、一度の負け戦もなく、秀吉の側近として活躍した。

その秀吉との二人三脚とさえ言われる彼の評価は、

当時の報酬で考えたときに、果たしてふさわしかったのか。

とくに九州征伐後の彼に対する恩賞は中津・12万石。

これは官兵衛の働きに対する報酬としては、

不十分なものだったという印象を持つ人が、沢山いる。

一昨日がアルミホイルにくっついて  オカダキキ

しかし、数字だけで追わずに背景を辿ってみると、

当時、秀吉の無二の親友である蜂須賀正勝が、

九州攻めで得た報酬に次ぐ、石高だった事実にたどりつく。

官兵衛は四国攻めが終わったころに、4万石の大名だったが、

九州の島津征伐後には豊前国の3分の2を与えられ、

12万石の大名になった。

この数字を加藤清正や石田三成、福島正則らが20万石以上を

得たのと比べて少なすぎると感じ、

「秀吉に警戒されて冷遇された」

という話が黒田家譜にさえ書かれている。

つま先立ちでみるあいまいな未来  高島啓子

だが、これには間違いが二つある。

一つは、官兵衛が豊前を与えられた段階でいえば、

織田軍団と関係ない毛利上杉に代表される外様的大名、織田家一族、

それに、前田・佐々・丹羽など秀吉の同僚というべき有力・織田家臣。

さらに、秀長秀次のような豊臣家の人々を別にして、

秀吉譜代の家臣群のなかでは、

蜂須賀正勝の阿波一国というのが最大で

その次が、官兵衛の豊前国の3分の2なのである。

生乾きのかさぶたを剥がしましょうか  岡谷 樹


  福岡城本丸の図

次に石高だが、公平に比較するために、

太閤検地の結果をもとにした慶長3年の国別石高でみると、

阿波が18万石に対して、豊前が14万石だから、

官兵衛は10万石程度ということになる。

江戸時代の大名の石高として知られるのは、

関が原の戦いのあと諸大名が、江戸幕府に自主申告した石高で

豊前一国プラス豊後の一部を与えられた細川忠興

38万石だったことからすると、

豊前一国は30万石に値するものである。

比率くずせば幽霊になりますが  徳山泰子

徳川時代は豊臣時代よりかなり水増しされた数字になるが、

太閤検地で10万石程度というのは、

江戸時代の20万石以上に相当するのである。

ただし、官兵衛に豊前が与えられたより後になって、

加藤清正、小西行長、福島正則、石田三成などに

10数万石とみられる領地が与えられている。

このあたりは、世代交代で次の世代がそれぞれの功績に応じて、

大きい領地を得たのである。

それに対して、官兵衛は全盛期を過ぎ、長政は若かったから、

まだ加増されなかったと考えられるのである。

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「官兵衛を苦々しく思う秀吉」

秀吉は官兵衛の優れた才智や野心家ぶりを警戒して、

「官兵衛を自分から遠ざけた」という説がある。

これも黒田家譜に書かれてある。

官兵衛と親しかった小早川隆景は、

「官兵衛は素晴しい知恵者で、なんでもどんどん決めていく。

   私はかれほどの才能はないので決めることには慎重だが、

   じっくり考えるお陰で間違ったことには,滅多にならない」

と評した。

イケメンの駱駝に乗ってきた胡椒  山本早苗

そうした官兵衛の才気煥発ぶりや、恩賞の約束を言いふらして、

危ういと見られていたという話は、多々、伝えられている。

かなり広く官兵衛についての人物評として、見られるところで、

官兵衛がそういう印象を与えていたのは事実のようである。

秀吉は官兵衛が自分と同じような考えをすることを、喜んでいた。

ただ、秀吉が政治的な判断で口にしないことを、

すぐに言ってしまうことを、

秀吉は善くも悪くも疎ましく思うようになった。

すなわち、秀吉は官兵衛の才能を買っていたが、

世が落ち着きだして、官兵衛の出過ぎることを

「苦々しく思った」というのが真のところであろう。

さすがの官兵衛も戦術は得意だが、処世術は駄目だったようだ。

わたしよりわたしの口が前に出る  大海幸生

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変身の刑豚までにしてほしい  井上一筒



秀吉の書状

「領土確定問題」

「山崎の戦い」のあと秀吉が大坂城の築城と平行して、

取り組まねばならない課題が、

毛利氏との「領土確定問題」であった。

一般的には備中・高松城での講和で毛利氏との関係は解決した、

と見られているが、実は棚上げしたに過ぎなかったのである。

この領土問題に際して、秀吉は小早川隆景に書状を送り、

「自らが交渉に乗り出す」 と述べている。

しかし、これはいつもの秀吉の恫喝手法であって、

自身が交渉にあたるわけだはない。

その時刻には沈黙を手向ける  居谷真理子


   蜂須賀正勝

秀吉側で交渉に担当したのは、官兵衛蜂須賀正勝

一方、毛利側は安国寺恵瓊である。

恵瓊は毛利氏の配下にあって、秀吉とも交流があり適任といえる。

恵瓊は「信長の没落と秀吉の興隆」を予言した人物としても知られ、

交渉能力も優れていた。

何より情報収集と分析に優れており、

的確な判断を下すことに定評があった。
                               さるかけ
そして天正11年12月、恵瓊と就連は備中・猿懸城に赴いて、

官兵衛と正勝との面会を果たした。

もぐらたたきせめて一発反したい  柴田園江

高松城の戦いは、本能寺の変が勃発したこともあり、

とりあえずは清水宗治の切腹により幕を閉じた。

秀吉側が条件を少し譲歩したとはいえ、

実態としては、毛利側が不利なまま、終局を迎えた。

そのことを実感していたのは恵瓊であった。

そのような事情から、秀吉の要求は実に厳しいものであった。

秀吉が毛利氏に割譲を求めたのは、

備中・美作・備後・伯耆・出雲の五カ国である。

さすがに毛利氏側もすぐに呑むわけにはいかなかった。

流されているなと思いつつ流れ  前田咲二


  安国寺恵瓊の板絵

安国寺恵瓊は安土桃山時代の禅僧で大名。
「板絵」は約40㌢四方の大きさで江戸時代に描かれたとされる。

結局は備中・美作・伯耆に絞られた。

それでも、この交渉は難航を極めた。

① 備中外部を秀吉に譲る。
② 美作を秀吉に譲る。
③ 虎倉山、岩尾城からの撤退。
④ 常山城、松山城、高田城から一つ選択して残りは放棄する。
⑤ 伯耆の八橋城の割譲。

備中・美作の割譲プランである。

秀吉の要求はあまりに厳しかった。

官兵衛・正勝からすれば、備中半国を譲った形であるが、

当初から織り込み済みであったのだろう。

逆に恵瓊らにすれば、大きな成果であった。

身辺整理わたくしをそぎ落とす  岡内知香

ところが天正12年3月、「小牧・長久手の戦い」が勃発し、

官兵衛と正勝は交渉をいったん打ち切り、急遽帰国している。

改めて毛利氏との領土確定交渉が行われ、

解決したのは天正13年の2月であった。

毛利氏は備前と高田城を引き渡し、

八橋城と松山城はそのままということになった。

備中も高梁川から西を確保することができた。

この交渉における恵瓊が果たした役割はかなり大きい。

こうして毛利氏は、秀吉と和睦したが、

以後は秀吉の先兵として、各地に出陣することになる。

せめてこの一瞬凍らせてみたい  立蔵信子

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大根をおろすとじゃこが身構える  井丸昌紀


 秀吉・義久和睦の像

剃髪した島津義久は、名を龍伯と改め、薩摩川内の泰平寺において、

秀吉に跪いて降伏し、3歳にも満たない3女・亀寿を人質に出した。

「九州平定」

四国を平定した秀吉の、次なる目的地は九州であった。

九州とは、九つの国=州が集まっているという意味。(現在は7県)

筑前・筑後・豊前・豊後・肥前・肥後・日向・大隈・薩摩 を指す。

天正年間の初め頃は豊前、豊後を大友氏、肥前・筑後を龍造寺氏
                                                                ていりつ
薩摩・大隈を島津氏が抑え、鼎立していた。

一房の夢と甘露を追いかける  吉川 幸

それが徐々に島津氏の勢力が拡大していった。

天正6年の「耳川の戦い」で

九州最大の勢力を誇る大友宗麟の軍を破り。
                おきたなわて
さらに、天正12年の「沖田畷の戦い」では、

九州西部に勢力を誇っていた龍造寺隆信を敗死させた。

こうして島津氏が九州最大の戦国大名となれたのも、

当主・島津義久義弘・歳久・家久という優秀な3人の弟がいたから。

ともに武将としての資質に富み、精強な家臣団を抱えていた。

詰め込むとどこか歪みの出る器  たむらあきこ


   大友宗麟

彼らが協力して一時は、

豊前の一部を除く九州全土に版図を拡げたのである。

そんな島津氏の圧迫に苦しんでいた大友宗麟は、

秀吉に救いを求めた。

秀吉としても、九州全土を島津氏が支配するのは面白くない。

そこで天正13年(1585)10月、島津氏に停戦命令を下した。

その年の7月11日、秀吉は関白に任官したため、
                        そうぶじれい
朝廷の権力を背景に私闘を禁じる「惣無事令」を発令したのだった。

そして、天正14年5月に秀吉は、

肥後半国、豊前半国、筑後を大友氏に返すように命じた。

海胆の分際で信号無視をする  井上一筒

しかし島津氏は従うどころか6月になると逆に大友領に攻め込んだ。

その報に接した秀吉は、

7月に官兵衛を九州先遣隊として先発させる。

10月、途中で、毛利輝元・吉川元春、小早川隆景の毛利隊と合流、

官兵衛は、部隊の軍監として2万5千余りの兵で豊前へ攻め入った。

8月、豊前に着陣した先遣隊の一部は、高鳥居城を奪還、

小倉城を攻略。
       うるづ
つづいて宇留津城をわずか一日で陥落せしめ、

1千余りの首を斬獲したばかりか、

男女373人を生け捕りにして磔にかけた。

とんがらし入りの目薬です どうぞ  中村幸彦

無益な流血を伴う武力行使を、極力回避しようとした官兵衛の

戦術思想とは、相容れないとも思える行為だが、

実はそうではない。

宇留津城攻めでの厳酷な行為は九州平定に向けての、

周到な布石であった。

抵抗勢力を苛烈に処断することで、脅しの一面を見せる一方、

官兵衛は島津方になびいた大名や国人衆のもとへ

使者を送り込んでの調略を策すのである。

使者に選んだのは貝原市兵衛久野勘介だった。

変換キー願いを聞いてくださいな  下谷憲子

「九州の諸将は関白殿下の勢威盛んなることを知らず、

   島津になびいている。

   連中のもとへ使いして殿下の武威を知らしめよ」

「仰せながら、それだけでは容易に膝を屈するとは思えませぬが」

「来年には、殿下自ら九州へ下向なさることになっている。

   降参して味方するならば、

   殿下によきように申し上げて本領を安堵すると約束してやれ」

続けて官兵衛は、次のような言葉をつけ加えた。

「即座に島津と手切れ出来ないというのであれば、

   内々に志を通じ、殿下の御下向を待てと伝えろ.
              したた
   詳しくは、この廻文に認めてある」

官兵衛は、島津の報復をかわすための手順の詳細まで明示して、

細やかな気配りを演出したのである。

またこの廻文を、わざと敵の手に渡らせて、

疑心暗鬼を生じさせる作戦も考えていたのである。

まず致死量を確かめてからジンライム 山口ろっぱ


   貝原市兵衛       久野勘介

貝原市兵衛は、小倉から海路を経て筑前・筑後・肥後へ赴き、

久野勘介は、陸路を辿って筑前・秋月に至り、

さらに筑後・豊前の諸所を巡り、廻文を呈示して口上を述べた。

結果、諸将の多くはその旨に従って密かに内通を約束。

翌天正15年3月、秀吉自らが20万を超える大軍を率いて、

赤間関(下関)に着陣する。

九州に入ると秀吉は10万余りを率い肥後路を通って鹿児島を目指す。

弟の秀長が率いた10万余りの別働隊は日向路に向かう。

官兵衛はこの別働隊に参加している。

ブレーキを踏まずに交差点通過  笠原道子


義久秀吉と謁見の場面

秀吉をグッと睨み、悔しそうな義久の表情が滲みでている。

かくして秀吉が九州に入ると帰順する小大名が多く駆けつけた。

飴と鞭を見事に使い分けた、人間通の官兵衛らしい「勧降」である。

結果、秀吉軍に薩摩まで追い詰められた島津義久は、

秀吉への臣従を決意。

およそ2年をかけ、ついに九州平定となったのである。

細胞分裂喧嘩は止めにしませんか  竹内ゆみこ

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