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川柳的逍遥 人の世の一家言
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きのうという小壜ににび色が詰まる たむらあきこ

 
 
 


 家康の7ツの顔 (其々人相が違っています拡大してご覧下さい)

「家康百面相」

秀吉の死によって、天下は再び騒乱の兆しを見せ始めた。

その軸には徳川家康前田利家がいた。

しかい、利家も翌年の慶長4年(1599)3月に病死する。

これを契機として、

家康の勢力拡大を目指した有力大名の取り込みが始まるのである。

最もよく知られた取り込み策は、家康が自分の子どもや、

養女にした家臣の娘などと婚姻させるというもので、

これは秀吉の生前に、固く禁止されていたことである。

これが三成など秀吉恩顧の大名には、
        てんかさんだつ
家康による「天下簒奪」と映った。

青ざめて糸は絡まるばかりなり  合田瑠美子

長政は、家康の策に積極的に乗った。

黒田家の延命を考えてのことであったろうし、

「三成憎し」の感情もあった。

家康も長政の心中を見切ったように、いち早く長政を取り込んだ。

残されている長政の書状を見ると、秀吉が没した直後から、

家康や家康の重臣との間の、遣り取りが増えていることが分かる。

かなり早い段階から、家康は長政取り込みを図っていたようだ。

赤い実は赤く いくさを知っている  前田扶巳代

それが秀吉によって削られていた長政の所領回復と加増になった表れ、

長政の側にすれば正室・(蜂須賀小六の娘)を離縁して、

を正室に家康の養女・栄(保科正直の娘。家康の姪)を、

迎えたことに表れている。

もちろん、この離婚と新しい結婚には、如水も同調していた。

それは正室のと長政の正室・を大坂から九州の中津に逃がす

手はずを、事前に整えていたことで分かる。

西軍に人質としてとられる事を防ごうとしているわけだから、

「三成には与しない」という

如水の意思がはっきりと表れているのである。

まず黒田家としては、豊臣系大名の蜂須賀家よりも、

徳川家との繋がりを重視しての結果であった。

露骨な政略結婚であるが、

これによって長政は、家康のさらに、厚い信頼を得ることになった。

わが生の行きつくところ青みどろ  本多洋子

しかし、如水は長政とは異なる道を歩み始める。

如水の頭の中にも、"家康こそ次の天下人"との予測が

少なからずあったかもしれないが、とはいえ、

だからと言って長政のように、接近することはなかった。

かくして親子は、異なる立場で、

天下分け目の戦いに、臨むこととなった。


もう一度石を拾って投げてみる  佐藤正昭

慶長5年(1600)6月。

上杉征伐に向かう家康に20万の将兵が従った中に、

長政率いる5千4百の黒田勢もいた。

長政はすでに毛利方の吉川、小早川との友好関係を確立しており、

さらに加藤清正、福島正則、細川忠興など、

豊臣恩顧の大名たちとの交流も深まっていた。

人に貼るバンドエイドの多種多様  山口美千代

同5年7月。

三成を盟主とする西軍が立ち上がった報に接した家康は驚愕するが、

長政は、豊臣恩顧の筆頭であった福島正則の説得には力を尽くした。

長政の説得を受けた正則は、「小山会議」といわれる評定後、

いち早く「徳川方への味方」を言い出して、これがきっかけになって、

東軍が結成されたともいう。

また長政は、

西軍に属している吉川広家、小早川秀秋の東軍内通も工作していた。
        きすう
これが東軍帰趨を決めることになる。

ほら貝が鳴った戦わねばならぬ  竹内ゆみこ

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運命にもDNAがあるらしい  武本 碧                    

  
 黒田長政所用黒漆桃形大水牛脇立兜
                
「家康と長政」

慶長3年(1598)、朝鮮の役のこと。
                 うるさん
「黒田長政と蜂須賀家政は蔚山城の救援に向かったが、

    臆病にも戦わなかった」   

福原直高、垣見一直、熊谷直盛ら三目付の、

そんな報告に接した秀吉は激怒し、長政家政は窮地に陥った。

後にこの報告は、誤りであったことが証明されるが、

長政は三目付及び彼らと結びつく三成を憎み、対立することになる。

一方、秀吉没後もなお朝鮮にあった長政に対し、

たびたび労いの書状を送ったのが家康であった。

頃合いの男を笛で躍らせる  上田 仁


 家康

家康は秀吉が逝去すると、無断で有力大名と次々と婚姻を結び、

味方を増やしていた。

長政だけでなく、父親である如水に対して、

長政帰国を祝う手紙を送っているのも、その一環である。

長政は家康に感謝し、ビロードを贈っている。

さらに3年12月には、長政は家康重臣・井伊直政と起請文を交わし、

お互い蔑ろにせず、秘密を他言しないことを約束した。

長政は徳川家と盟約を結んだに等しく、

それは、三成らの勢力との対立を前提としていた。

下地には仏の顔を書いておく  中川隆充        


  黒田長政

五大老の前田利家が没すると、慶長4年3月4日、

「七人の将」が三成を襲撃計画を企てた。

朝鮮出兵時に不当な扱いをされたことへの復讐のためである。

その中心にいたのが長政だった。

その2週間後の3月19日、朝鮮の役での蔚山城の一件が再調査され、

長政や家政は名誉を回復する。

真一文字の口の男だ振り向かぬ  柴本ばっは
                              あずか
一方、三成は佐和山に隠退し、政治には今後、与らないことに決した。

長政にすれば名誉回復と三成失脚で溜飲を下げたであろうが、

一連の騒動で最も特をしたのが家康であることは疑いない。

では、長政は家康にうまく利用されただけかといえば、

必ずしもそうではない。

幼少より秀吉の世話になった長政だが、

次の天下人が誰かを冷静に値踏みし、家康に接近した可能性がある。

如水が、家康と一定の距離を置いたのとは対照的だ。

山の端の雲が大人になった雲  井上一筒

このような長政の考えの外で、七将の目線の違いもある。
    ここう
秀吉の股肱の臣である三成に秀頼を託す路線を支持する人々がいる一方、

家康に託す路線を支持する勢力が生まれた。

その代表が七将の加藤清正福島正則である。

「豊臣命」とも言うべき加藤と福島は、

秀頼に政権を継がせて、「豊臣の天下を続けたい」と目論んでいる。

そのためには、秀頼を三成にまかるよりは、

家康を後見人役にした方がよいと考えていた。

この点において長政は、二人とは違っていた。

長政は父・如水同様「天下は力ある者の回り持ち」

という発想を持っている。

つまり、次の天下は秀頼ではなく、家康であると考えたのである。

展開は真みどり三重奏の靴  富山やよい

                
           す
官兵衛は秀吉に天下を統べる力量がある、と考えたので後押しをした。
                          さんだつ
それは秀吉が、織田家の天下統一事業を簒奪することを意味する。

長政は父が秀吉の天下取りを支えたように、

長政は、「自分が家康に天下を取らせよう」と考えたのではないか。

言い換えれば、稀代の調略家の息子としての矜持をもち、

父に対する対抗心が長政にあった。

実際に長政は、「関が原の合戦」において、

自分の判断で吉川広家小早川秀秋を説得するなど積極的に動き、

多大な貢献をしている。

修羅ひとつこえて枕を裏返す  山本昌乃

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答出たのね靴ひもを結ぶふり  森田律子



「如水謀る」

春、家康に対抗できる大物・前田利家が病死すると、

事態は一気に動きはじめる。

如水の嫡男・長政加藤清正福島正則など、

「武断派」と呼ばれる大名たちと組んで、

論功行賞凍結を遵守する立場の三成を襲撃しようとし、

三成は隠居に追い込まれた。

秋には、前田利家の後を継いだ利長に謀反の疑いがかけられ、

家康が前田討伐を号令する。

これは利長の必死の陳弁によって回避されたが、

もはや領地を欲する大名たちに歯止めは利かなくなっていた。

ひがな一日祈ろうか呪おうか  筒井祥文


  石田三成肖像画

その後、家康は、おねに譲ってもらった大坂城・西の丸に入り、

大名の加増や転封・婚姻などを次々と実行していった。

家康は我がもの顔で歩き、

まるで天下人のような振る舞いをしている。

所領の近江・佐和山で隠居生活を強いられていた三成は、

家康のこうした動きに焦りを覚えつつも、何もすることができない。

そこへ中津へ帰る途上といい、如水が訪ねてきた。

逝く時を知るも知らぬも蟻地獄  三宅保州



挨拶もそこそこに如水は唐突に切り出した。

「ひとつ、うかがってもよろしいか?」

「石田殿は、いかにして徳川殿を倒すおつもりか?」

三成がその気はないと一蹴すると、如水はさらに言った。

「志を同じくするものが集まれば、別でござろう」

如水は、

三成とは昵懇の間柄である会津上杉家の直江兼続の名を挙げて、

「わしがおぬしなら、まず上杉景勝に兵を挙げさせる」
                                       から
そうすれば家康は討伐の軍を起こして東へ向かい、大坂は空になる。

その時、秀頼を奉じて徳川討伐の兵を挙げる。

挟み撃ちになった家康は万事休すだ。

「もう」言うな水はしばらく止められん きゅういち


 上杉景勝と直江件続像

「だがやめておかれるがよい」

この策は家康にはお見通しであろうし、

むしろ、事が起こるのをまっているはず。

「策を立てるのとまことの戦はまるで別物じゃ。

   これはわしのおぬしへの、最後の忠告でござる」

そこで三成は五大老のひとり、

会津の上杉景勝の家老・直江兼続と謀議した。

如水が描いた絵の通り、上杉家がまず会津で挙兵し、

それを討伐しようと北に向かった家康の軍を、

大坂で秀頼を旗頭にした三成の軍が挙兵し、

挟み撃ちにしてしまうという策を練った。

如水が三成を余り好もしくも思っていない三成を煽った事も、

他で実際に、こうした謀議がなされたかは、定かではないが・・・。

シリカゲルの太る音 人潰す音  岩田多佳子

慶長5年(1600)6月、上杉景勝に謀反の疑いがあるということで、

家康は自ら兵を率いて大坂城を後にした。

この好機に三成は、五大老のひとり毛利輝元を盟主に仰ぎ、

7月に大坂で兵を挙げた。

そして手始めに、家康の老臣・鳥居元忠が守る伏見城にせまった。

7月18日には、輝元の名前で元忠に開城を求めた。

城将のひとり、木下勝俊のみは勧告に応じて城を出たが、

元忠は断固拒否の姿勢を崩さなかった。

つんつんがほどよく効いてきたらしい  雨森茂喜

そこで翌19日から、西軍による伏見城総攻撃が始まった。

宇喜多秀家、小早川秀秋、島津義弘ら4万もの大軍に囲まれたため、

元忠ら城兵は大いに奮戦したが、8月1日に落城した。

この戦いを皮切りに約2ヶ月にわたる東西対決が続くのである。

三成が挙兵したことを、

中津の居城にいた如水はわずか3日後に知った。

その意味では、同じように秀吉へ讒言された如水も、

三成をよく思っていなかったはずである。

如水は、長年仕えた秀吉の死を悼む反面、

ここから新たな政治局面が始まる、ことも読んでいた。

複式呼吸で腹の虫殺す  田口和代


    家康像

「貴公の才知、甚だ鋭敏」(黒田家譜)

秀吉亡き後、次の天下人と目されたのは、

五大老筆頭の家康である。

如水も家康の人物を買っている。
                      よし
だから家康が存命中から、何かと誼みを通じてきた。

息子の長政に家康の養女を娶らせている。

家康の会津征伐にも、

長政が5千5百の兵を引き連れて参陣している。

だが家康とて絶対に勝利するとは限らないだろう。

戦いが長引けば、不測の事態も必ず起こるものだ。

そう考えていた如水は、すぐさま蓄えていた金銀を放出。

浪人から農民、町人に至るまで人数を集め、

約9千名もの速成軍を編成。

この兵をもって素早く九州を平定し、さらに、

中国から上方を目指せば、天下人への道が開けるかも知れない。

梅干の種噛みながらスクワット  井上一筒

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シミとシワ消すとわたしも消えました  美馬りゅうこ


   五大老の花押

「何でそうなるの」
                かす
徳川家康が豊臣の天下を掠めとったことについて、

秀吉ともあろう政治家が、やすやすとそれを許したのは、
もうろく
耄碌していたからだとしか考えられないと、誰しもが言う。

だが、それは結果論であって、秀吉の晩年の状況においては、

家康が天下を取る可能性がそれほどあったわけではない。

家康を関八州の太守にしたのは、大陸遠征に専念するために、

関東の治安維持を、家康に任せたかったからだ。

爪楊枝として私を添える  河村啓子

また、羽柴秀次を追放するにあたって、

秀頼の後ろ盾として、前田利家家康を頼りにしている。

あるいは、東国のことは家康に、

西国のことは毛利輝元小早川隆景に、差配を任せたい、

といったようなことも言っている。

またこの頃は、輝元に子がなかったので、

隆景が高く評価する弟・毛利秀元元就・四男)が養子となっていた。

凹凸したり捻じれたりしてつづく  今井和子

ところがこの年の暮れに、輝元に実子として秀就が生まれて、

秀元は嫡子としての地位から降り、

山口を本拠にした独立大名となる方向で調整が行なわれるが難航する。

しかも隆景は (1597)に死去した。

もし、秀就の誕生がなくて秀元が継承者として安定し、

隆景が存命なら、毛利家は安泰だっただろうし、

西軍の盟主となるような、冒険主義にも陥らなかったはずだ。

また、そうした歴史であれば、

家康につけいられるようなこともなかっただろう。

また、その場合には、如水も毛利主導の西日本秩序のなかで、

大人しくしているほかはなかったはずだ。

運命にもDNAがあるらしい  武本 碧

ただ、それでも、秀吉は織田旧臣の代表格で宇喜多や細川に娘を 
                                ふやく(もりやく)
嫁がせていた前田利家を織田家の血も引く秀頼の傅役として、

大坂城に置き、伏見城で政務中心にあった家康に対峙させた。

この体制では、家康のほうが優勢とは言えなかったし、

だからこそ、家康は焦って諸大名と縁組をしたりした。

つまり家康は、隆景と利家が先に死んでくれたからこそ、

天下を取れたのであり、如水が家康寄りになったのも、

そういう変化があってのことなのだ。

北緯二十五度東経5度の咳  井上一筒

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口から口へ移す嘘っぽい夢  雨森茂喜

「武断派の七将」
 
浅野幸長(甲斐甲府城主)  池田輝政(三河吉田城主)

 
加藤清正(肥後熊本城主) 加藤嘉明(伊予松山城主)

 
 福島正則(尾張清洲城主) 細川忠興(丹後宮津城主)


黒田長政(豊前中津城主)

「再び、揺らぎ始める天下」

「朝鮮の役」は、ただでさえ基盤が脆弱な豊臣政権に、

大きな打撃を与える結果となってしまった。

遠征軍の中心となっていたのは、

おもに西国に領地を持つ大名たちである。

これらの大名の多くは、もともと親豊臣派であった。

それが得るものが何もなかった。

外征により、財政や人員をはなはだしく消耗してしまう。

そしてさらに深刻なのが、三成ら五奉行を中心とする「文治派」と、

加藤清正ら主に朝鮮の戦場を駆け巡った「武断派」の対立であった。

なかでも三成の讒言により、一時は秀吉から謹慎を命じられた清正は、

「三成憎し」の感情がとくに強かった。

朝日より夕日が似合う無節操  大和峰明

慶長4年(1599)3月3日、前田利家が亡くなる。

利家は唯一、家康と互角に渡り合える大老であった。

すると武断派の、加藤清正、福島正則、黒田長政、細川忠興

浅野行長、池田輝政、加藤嘉明「七将」が、

大坂にあった三成の屋敷を襲撃した。

しかし、佐竹義宣からこの情報を得ていた三成は、

あろうことか、家康のいる伏見城内に逃げこんでいた。

ひょんなことからクラゲと一つ屋根の下 笠嶋恵美子

両者は伏見で睨みあうことになったが、

家康が仲裁に入りその場は事なきを得た。

ただ三成はこの件をきっかけに、奉行の職を退いたうえ、

居城の佐和山城で蟄居を承諾させられる。

「利家の死去」、「三成の蟄居」、により、

家康の専横に歯止めをかける存在がいなくなった。

そんな中央の状況を如水は、

九州の地から冷ややかな目で眺めていた。

如水は次に天下を狙うのは家康だと睨んでいる。

三成ら奉行連中は、「七将の襲撃事件」を面白く思わず、

必ず衝突することになると考えていた。

BとB型 移動性低気圧  田口和代



「この時、如水の動き」

慶長3年(1598)8月18日秀吉が伏見城で没した。

享年62歳。

如水がそれを知ったのは、領国の豊前中津においてである。

20日に第一報を受けた如水は、24日に確報を得ると、

毛利氏のキーマンである吉川元春の三男の広家に、

「自分は京で世間の様子を静観するつもりである」

と書き送った。

かって秀吉の名軍師として鳴らした如水、ときに53歳。

朝鮮の陣での不手際から勘気をこうむり隠居謹慎し、

「秀吉の死によって完全の自分の時代は終わった」

―と、普通の人間であれば肩を落とすところだろう。

ロープの先にあぶない火種燃えている  都倉求芽

だが、如水は違った。

「今いちど、腕をふるう時がきたわ」

その目は輝きを取り戻し、全身には生気が満ち溢れていた。

広家への書状は「上方に兵乱起こらん事、かねて悟っている」と続く。

新たな乱を予期した如水は、
         とも
大坂と備後の鞆と周防の上関に早舟を待機させて、

何か事が起これば即座に国元に連絡が来る仕組みを整えていた。

このおかげで、秀吉の死を九州にいながら、

三日目に知ることも出来たのだ。

そしてまた戦闘帽に旗を振る  柴田園江

同年12月、如水は予定通り伏見の黒田屋敷に入る。

すでに彼の耳には、五大老筆頭の家康が、秀吉の死の直前に、

浅野長政、増田長盛、長束正家、前田玄以、石田三成

いわゆる五奉行に対し、

「豊臣家臣同士で私に派閥を作りません。

  秀頼様がご成人されるまでは諸大名からの知行に関する訴えを

  取り次がず、自分が仮に加増されても辞退します」

と誓紙を出していたことが入っていた。

玉葱の薄皮ほどのせめてです  新川弘子

しかし如水は、「そんな約束など何の保証にもならぬ」

と、醒めきった頭脳で考えている。

事実、秀吉の死の直後に、石田、増田、長束、前田の4奉行が

毛利輝元に、「世間がいかに乱れても協力しよう」

という誓紙を出させている。

家康と親しい浅野長政を排除し、輝元ひとりと同盟を結ぶ内容は、

明らかに「私に派閥を作らない」という

秀吉の定めた法度に抵触していた。

さらに慶長4年1月9日には、薩摩の島津義弘、忠恒父子に対して、

朝鮮四川の大勝の功として、5万石が加増された。

これも「知行は秀頼成人まで変更しない」という定めに背く。

鴨川の五分には過去の紙魚がある  たむらあきこ

如水はひとり呟いた。

「秀吉様の大義名分は、浪速の露と消えたのだ」

『天下惣無事』―大名間の領地を巡る私戦は一切許さず。

公儀への奉仕によってのみ本領を保証し恩賞を与える。

これに従わない者は、天皇の名において秀吉が討伐する、

というロジックである。

秀吉は圧倒的な武力と財力を背景にこの「惣無事」を押しつけ、

天下の統一と支配を正当化した。

私戦を禁止するために必要な「論功行賞」も行なえなくなった時点で、

それは崩壊したのだ、と如水は考えた。

すでに諸大名は領地に飢えた狼となって動き出している。

それは黒田家も例外ではなかった。

あるかなしかの風にも飛んでいった種 柴本ばっは

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