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川柳的逍遥 人の世の一家言
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背開きにされても叫ぶバンザイと  河村啓子



    官兵衛

おなじみのシャッポ
はこの時期から着用したものか。

「官兵衛生還」

信長荒木村重の有岡城を包囲すると、

音沙汰のない官兵衛の謀反を確信し、

人質として預かっていた官兵衛の嫡男・松寿丸秀吉に命じた。

それを知った半兵衛は、松寿丸の処分を買ってでる。

半兵衛はひそかに松寿丸を自分の館に匿い、

信長に偽の首を差し出す策を講じたのである。

そこから半年ほど後、織田方に包囲された有岡城に動きが出た。

官兵衛が幽閉されて約一年半が過ぎた時だった。

村重が、夜中に手勢を数人連れ尼崎方面へ逃げ出したのだ。

まっ先に鳥のまぶたにふれる夜  八上桐子



一方、劣悪な土牢で一人壁に向かいながら、

官兵衛はどんなことに思いを巡らせていたのだろうか。

黒田家が播磨の土豪・小寺氏に見出され、重用したのは、

財力が足場であった。

そして小寺家家老となった官兵衛が次に目指したのは、

信長の「天下布武事業」に感動し、

播磨の土豪から天下に名を馳せることであった

官兵衛が信長に注目したのは、織田の勢いだけではない。

諸国の大名が地域のせめぎあいに終始する中、

信長は天下というものを見据えていた。

官兵衛は信長の理念にきづき、

天下布武事業に参画することを決めたのである。

縄文の光りを溜める火焔土器  ふじのひろし  



          有岡城跡

この幽閉という思いもおよらぬ出来事で、官兵衛は、

「これまで播磨のために尽力してきたことが水泡に帰し、

   これで評価も落ち、戦国から見捨てられてしまうだろう」

と思ったこともある。

幽囚の身の不甲斐なさ、もどかしさにも苦しんだ。

しかし、官兵衛の鋼の信念はそんな柔なものではなかった。

負の可能性を切り捨て、自分の信じるところに突き進む、

強靭で楽天的で挫折の言葉をもたない人である。

「おれはこんなところでへたばる男ではない。

   牢から出た時にたとえだれも自分を顧みなくても、

   もう一度天下のために働いてみせる。

   秀吉を支える役割でもよい。

   力を存分に振る舞台は、必ずあるはずだ」

これが官兵衛なのである。

タロットは逆位置正座崩さない  栃尾泰子     



一方、牢の外に咲く藤の花の姿に、慰められる話も伝わる。

こころに去来するさまざまな思いに苦しむ官兵衛を、

花の生命力が勇気づけてくれた。

儚くもあり、力強くもある生命というものに、

深く思いが至った瞬間でもあった。

そして天正7年(1579)10月、

有岡城落城とともに官兵衛は救出された。

湿った牢内で一年を過ごし、官兵衛は足の関節が曲がらなくなり、

皮膚病で頭髪が抜け落ちたその姿を見て、秀吉は号泣した。

そして官兵衛の意志を貫いたことを賞賛してねぎらった。

失敗の末に卵が立っている  松本としこ



この粒さな情景に官兵衛の疑いは晴れた。

しかしその一方で、村重に見捨てられ、

城に取り残されただしたちは、

逃げ続ける村重への見せしめとして、

一族もろとも信長によって処刑されてしまう。

官兵衛は牢を出た後、

色々と便宜を図ってくれた門番の加藤又左衛門に謝して、

その子供を引き取り、黒田一成と名乗らせて、

息子・長政の弟のように育てている。

あたたかい人には開く自動ドア  本多洋子

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ときめいてみたらと春風の誘い  立蔵信子

「飛鳥駅から橘寺へ」-遊歩道を行く



飛鳥駅

古代の町を分けいる電車道。(画面をクリックしてご覧下さい)

スルッと関西今日の花見はやまと迄  小山紀乃

電車賃残す男の遊び方  福尾圭司



駅前案内

飛鳥人の館、お姉さんが二人。とても親切でした。

もも色を塗ってはしゃいでいる小窓  阪本高士

まなざしで僕のハートが鼓動する  まさじ



駅前の風景

史跡でない石像がお迎え。遊歩道の始まりです。

結び目を解いて遊ぶ古希の春  中山恵美子

六法の狭間で遊ぶ好奇心  細田貴子



道標

道標、右に行けば飛鳥美人に会えるのですが。橘寺は直進に。

春ですよ飛鳥美人が唄いだす  テイ子

いい言葉すぐに浮かんでくる桜  佐藤辰雄



吉備姫王の墓地
        きびひめのおおきみ
春の景色を追えば、吉備姫王が待っていた。

花暦余白に夢を遊ばせる  山田順啓

切り札が胸三寸で待機する  了味茶助



姫を守る像

吉備姫の鳥居の中には案内役のように猿や法師などの石像がある。

白魚の手には持てない鋤や鍬  邦子

ころころと笑って毒を包みこむ  れいこ



吉備姫王の墓 
吉備姫は飛鳥時代の日本の皇族。
茅渟王(押坂彦人大兄皇子の子)の妃となり、
宝皇女(皇極天皇・斉明天皇)・軽王(孝徳天皇)を儲けた。

鼻声の毒に痺れる心地よさ  上山堅坊

ときめいて女は蝶に華になる  古川洋子



欽明天皇の墓地

吉備姫は欽明天皇の皇子・桜井皇子の王女である。

トランプも百人一首も連れて逝く  瀬渡良子

子羊をタイムカードで管理する  大西將文



鬼の雪隠

この石から測ると鬼の背丈は10メートル以上あると思われる。

鬼平を閉じて缶ビールを開ける  菱木 誠

切り札を握って最前列に鬼  阪本高士



鬼の爼

鬼の爼・鬼の雪隠
言い伝えによると、風の森と呼ばれるこの地方に鬼が棲んでおり、
通行人を騙してとらえ食べたと云われている。
「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したという。
底石(俎)には多数の穴が開けられており、
割り取ろうとした形跡がある。

毒に毒適材適所ホーホケキョ  柴田園江

女ごころわかっています麦畑  西澤知子



亀石

亀に似ている石といわれるが、
顔が三角形また目が上に飛び出していることなどから
亀というよりはカエルと見る人が多い。

ことさらに嘘美しい花の下  れいこ

人生の伴侶見つけたおにごっこ  五味尚子



石畳を行けば橘寺

案内石には聖徳太子誕生のゆかりとある。

文字の毒鼻を切られた泣きっ面  田頭良子

覚えあるあの口笛が呼んでいる  田頭良子



橘寺

橘寺は聖徳太子の生誕地に創建された太子創建七寺のうちの一つ。
境内に「二面石」「橘寺型石灯篭」などがある。
聖徳太子は推古天皇の摂政になって、
十七条憲法と冠位十二階を定め、
遣隋使を派遣して、中国の隋の皇帝に
「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。
    恙無きや」
という手紙を送って、対等な外交を行った。
四天王寺や法隆寺を建てて、仏教を大切にした。

わたくしの心模様に添う桜  大内朝子

戻れない時と遊んでいるのです  立蔵信子



二面石右善面・左悪面と呼ばれている)

聖徳太子の裏面
旧一万円札の肖像画は聖徳太子ではないとされている。
かぶっている冠、着ている服、持っている笏 などは、
その時代に存在しなかったものと検証されているからである。
顎ヒゲについても、肖像画とは、別人が描いたものと見られている。
また一度に10人の人の言葉を聞き分けたという話も、
太子の評価を上げるための作為的なものであったといわれる。

保護色を被って会話するのです  武智三成

スペードのエースが呼び出した邪神  井上一筒



帰りのバスまでの道

石碑を一瞥して帰路につく。

イエローカード二枚残して旅終える  松本柾子

甘酒に酔い奈良漬けで寝てしまう  井上一筒

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飼主に咬みつく犬を二匹飼う  井上一筒


 黒田氏家臣連署起請文

官兵衛が有岡城に幽閉された際、家臣一同が団結を示すために、

官兵衛の妻である光の方に差し出した連署起請文。

「官兵衛幽閉」-(小寺政職の謀反)

織田方へ叛旗を翻す荒木村重説得に最後に派遣されたのは、

官兵衛であった。

従来なら村重ごとき、信長からみれば一捻りで潰せる相手である。

そんな相手を敢えて、説得の方向に決意をしたわけが官兵衛にあった。

『黒田家譜』にはこうある。

そもそも主君の小寺政職が信長に叛旗を翻す

との噂を聞きつけた官兵衛が、翻意させるため、

御着城へ向ったのが始まりであった。

政職は、「村重が思い止まるならば、謀反を思い止まる」 と、

官兵衛に答えたとある。

蛇口からポトポト漏れている答え  阪部文子



政職のその答えに官兵衛は戦慄した。

村重が叛意を撤回しない限り、小寺家は毛利方に呼応することになる。

しかし、それは間違いなく滅亡への序曲となる。

半兵衛の論を全面的に受け入れれば、

「もはや小寺家は見限り、織田家の家臣として生きていく」

という決断をするべきだったが、そこまでは非情になれない。

小寺姓を名乗っている以上、自分はその一族であり、

主家のために身を賭さなければならない。

官兵衛は、そういう男だった。

うたかたをうたかたのまま呑む器  岡田陽一



「乱世が終わり、天下が安らげば、棘も枳も枯れる。

 それまでの辛抱なのだ・・・わしが荒木殿の説得に行く」

かくして天正6年秋、官兵衛は村重の説得にあたるべく、

単身、摂津有岡城へと向かっていった。

驚いたことにこの時点で政職は、村重に密使を送り、

「説得に向った官兵衛を暗殺するよう」に依頼していた。

政職と村重は、すでに繋がっていたのである。

官兵衛は、そのことをまったく知らなかった。

そんなところへ官兵衛は、のこのこと赴き、

村重に捕らえられ「幽閉」されたのである。

器から戦の匂い手の汚れ  桑名知華子



官兵衛の土牢(NHKのセット) 岡田官兵衛入牢

官兵衛が幽閉された土牢がどんなものであったかは不明だが、

大正時代に著された『黒田如水伝』には、

「有岡城西北隅。背後に溜池。三方が竹薮。

   一日中陽は差さず、湿気が強い」

とある。

そんな土牢に閉じ込められ、

主君に裏切られることを悟った官兵衛の心境は、

どのようなものだったろうか。

しかも、政職の官兵衛の暗殺要請もある。

普通であれば主君への怒りや恨み、

展開を読み誤ったことへの自嘲の念が湧くところである。

常人なら絶望しかない状況である。

身のうちの風穴だけに風がある  荒井慶子

しかし官兵衛の真骨頂は、馬鹿正直の言葉がつく。

「たとえどうなろうと、俺は主君を裏切るまい」

という強烈な信条である。

裏切りが日常茶飯事の世にあって、

官兵衛は受けた恩義を忘れず、義理堅さを通す男であった。

また牢内で官兵衛は、命を奪われるとは考えていなかった。

それは村重が、義を重んじる男であることを知っていたからだ。

蓮根の穴から浄土みえますか  田中蛙鳴



ただ、有岡城に赴いたまま戻らない官兵衛を、

織田方が村重に通じたと勘違いする懸念があった。

そうなれば織田方に人質に出している松寿丸の身に危険が及ぶだろう。

実際、官兵衛の内通を疑った信長は、

「松寿丸を殺せ」秀吉に命じている。

こればかりはどうしようもない。

秀吉がうまく対処してくれることを祈るしかなかった。

少しの疑心暗鬼もあっただろうが、

秀吉は結局、信長の命令よりも、官兵衛への信義を重んじ、

半兵衛の提案を受け密かに匿うことを許している。

消しゴムがこんなに欲しい夜がある  田中博造

「小寺政職の謀反の時期」

天正6年(1578)10月2日、秀吉小寺政職に対して、

別所氏が知行していた神東郡のうち1250石を知行として

与えることを、約束している。

この時点では、政職は信長に従っていた。(小寺家文書)
                  あわやもとたね
同年11月、小早川隆景粟屋元種に書状を送っている。

「御着の小寺政職やそのほかの国家が味方になった」

 と言う内容が記されている。(毛利家文書)

小寺氏が知行地を与えられてから、僅か一ヶ月余りでの出来事である。

(ただ赤松氏や宇喜多氏はこれに応じることがなかった)

すなわち政職が信長に叛旗を翻したのは、

天正6年10月初旬から11月初旬にかけてということになる。

有岡城が落城したのは、天正7年10月。

毛利方に与した小寺氏は、三木合戦後に滅亡した。

のちに政職の子孫は、福岡藩主となった黒田家に召抱えられている。

まことに皮肉な結果となったのである。

鍵穴を通って「バカモン」が消えた  桑原伸吉

【蛇足】



幽閉から4年後、官兵衛が、荒木村重に送った書簡。
書簡は「官兵衛に村重に対する遺恨などなく、
また茶人となった村重が政治に関与し、
秀吉の下で力を合わせて政策を実現しようとする
当時の2人の関係性を示している」

と神戸女子大の今井修平教授は分析している。
また、秀吉のことを「姫路へのお供をされるのであれば、
この地へお出でになるだろうと存じていたところ、
お出でになられず、とても残念」

と再会できなかったことを惜しむ内容も綴られている。(兵庫県伊丹市立博物館)

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紫陽花と約束のある途中下車  美馬りゅうこ    



三木城攻めの最中の天正7年4月、半兵衛は病に倒れた。

秀吉は京で療養させたが、「戦場で死にたい」 と願い、

秀吉の本陣で亡くなる。

「二兵衛の絆」

無言のうちに互いの戦略を理解したという天才軍師同士の逸話。

「二兵衛」と呼ばれた半兵衛官兵衛が、

実は、共に闘った戦の数はそう多くはない。

反織田方である「三木城の奪取」に向けて、

秀吉は、天正6年(1578)戦を起こしたが、

以外にも相手が手強く、城攻めに手を焼いていた。

そんなある日、

500名ほどの兵が小高い山中に消えるのを秀吉は見る。

「あれは敵か味方か」

判別できぬ秀吉が半兵衛に尋ねると、

「あれは官兵衛様でございましょう。

   今日は殿の勝利に終わるに違いございませぬ」

と、半兵衛はきっぱり言ってのけたのである。

設問の1でホクロの数を訊く  井上一筒 



 半兵衛最期の戦い

半兵衛はその日、官兵衛が動くとは知らされていなかったが、

今回の戦で劣勢が続く中、

「この辺りで策を打ちたい」と思っていた矢先のことだった。

「あの山中は以前より兵を進めるならここだ」と見込んでいた場所。

官兵衛も同じ読みをしたに違いない。

そう即座に判断し、秀吉に進言したのである。

半兵衛はさっそく援軍をだして敵をおびき出した。

そこを官兵衛隊が襲撃。

官兵衛に花を持たせるかたちで、

秀吉勢に勝利をもたらすことに成功した。

二人の阿吽の呼吸が伝わってくる。

おみそれをしましたと天丼の海老  谷口 義 

しかし、ふたりの運命を大きく揺さぶる事件が、

その「三木城攻め」の最中に起こった。

小寺政職と謀って造反した荒木村重を説得するため、

単身敵城に乗り込んだ官兵衛であったが、

予期せぬことに捕らえられてしまい、幽閉されたのだ。

キナクサイ話になった裏表紙  赤松ますみ

帰らぬ官兵衛に謀反の嫌疑をかけた信長は、

官兵衛の嫡子・松寿丸の処刑を秀吉に命ずる。

躊躇する秀吉に、「私におまかせくだされ」と、

申し出たのは半兵衛だった。

忠誠の証として、我が子を差し出した官兵衛が、

「裏切るわけがない」という確信。

松寿丸を命を守ることこそ「自分の忠心」という思い。

それらが心を突き動かし、なんと主君の命に背き、

松寿丸を己の領地内に匿って助けるという大胆な行動に出た。

信念を曲げぬ万年筆の艷  辻内次根

ところが、病弱ゆえ、すでに自分の余命を悟っていたのだろう。

天正7年、三木陣中で病に倒れ、京都で療養していたが、

「武士たるもの、戦場で死すべし」と、

病を押して陣中に舞い戻り、この世を去った。

享年36歳。

そばには、官兵衛こそが自分の思いを受け継ぐ軍師であると

言わんばかりに、愛用の采配が横たえられていた。

緞帳が降りる迄夢追い続け  石田ひろ子

幽閉から一年後、無事に救出された官兵衛の耳に届いたのは、

命をかけて松寿丸を救った盟友・半兵衛の死だった。

形見の采配を受け取った官兵衛は、

半兵衛が貫き通した仁愛の心を心底、理解したのかも知れない。

生まれつき体が弱かったため命を慈しみ、

戦では無駄な血を流さずに勝つための知略を尽くした軍師。

暗い牢獄で死の淵を彷徨った官兵衛も、

戦の不毛さを身を以って悟り、

半兵衛の戦い方こそ真の軍師と確信したのであろう。

輝いてキリンの涙落ちてくる  大西俊和

三木城攻めを受け継いだ官兵衛は、城に乗り込み、

城主の切腹と引き換えに兵の解放を提案し、

長い戦は終息した。

晩年、官兵衛が長政(松寿丸)に遺したのは、

「家臣を信頼し、民を愛せよ」 という言葉だった。

官兵衛の心には、25年という年月を経てもなお、

半兵衛は生き続けていたのである。

頂点の笑顔競ってきた笑顔  籠島恵子

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彼岸花歩幅合わせてくださいな  岩根彰子



「荒木村重」と妻「たし」の歌碑

"思いきやあまのかけ橋ふみならし なにはの花も夢ならむとは"

「果たして思ったであろうか、これまで自分のやってきたことは、
 漁師が間に合せの、仮橋を踏んで平らにするように、
 同じところを何回も往ったり来たりしているようなもので、
 難波の花も結局は夢のまた夢であろうとは」

"霜かれにのこりてわれは八重むくら なにはのうらのそこのみつくに"

「霜枯れの冬にのこる私は、幾重にも生い茂った雑草のようなもので、
  難波の水底の屑になってしまうのだなあ」

この道で良かったかなと自問する  原 洋志



  文禄伊丹の図

「有岡城の悲劇」

別所の叛乱は収まらず、三木城の攻防は続いている。

その最中、宇喜多直家の調略は成ったものの、事態は悪化した。

信長によって摂津国を任されていた荒木村重もまた、

叛旗を翻したのである。

深呼吸辛い話はみんな吐く  小豆沢歌子  

      

「信長は他国の者が恭順してくる時は、それなりの待遇を用意する。
         れいか
 だが一度、隷下となるや、牛馬のようにこき使う。

 そればかりか言うことを聞かぬ者に対しては、

   何の憐憫も与えない。

 尼子勝久、山中鹿之助を見よ。

 あれが信長の意に沿わぬ者の最期だ。

 尼子だけではない。赤松政範はどうであったか。

 政範が死しても尚、信長は許さず、城兵悉く首を刎ね、
    けんぞく
 一家眷属の果てまでも斬殺した。
             はりつけ
 子供は串刺し、女は磔。 

   その酷さはどうだ。誰の指図だ」


これが村重の言い分である。

無意識と意識を揺れる象の鼻  八上桐子   



官兵衛の考えは異なった。
                  おうさつ
確かに見せしめのために、鏖殺せざるを得なかったことはあった。

だがその時、秀吉は大粒の涙を溢れさせ、

念仏を唱えるようにして処置していた。

官兵衛はそうした秀吉をまのあたりにし、この男は本物だと思った。

半兵衛が「生涯を掛けるに足る器」と認めただけのことはある

と感じ入った。

鏖殺】=皆殺しにすること。

懐の深さにひかれついて行く  河村啓子

そんな秀吉の崇敬するのが秀吉ならば、

己の全身全霊をもって織田家に賭けてみよう。

信長の果たそうとしている国造りに貢献してみよう。

その国を見てみたい。

だから不本意ながらも、

多少の犠牲は止むを得ないと自身に言い聞かせたのだ。

しかし、有岡城の村重はそうではない。

「信長の本性は魔であり、それに従うのは悪の道だ」

と判断していた。

黒黴か忍者なのかがわからない  たむらあきこ    



「信長には血も涙もない。秀吉とて同様じゃ。

 信長が進めと命ずる道は、
         ききょく
 どこまで行っても枳棘の道じゃ。

 傷だらけにされても尚、

   信長の犬となって歩み続けてゆくつもりはない。

 わしは、有岡に篭城する」

枳棘】="枳棘は鸞鳳の棲む所に非ず" より居心地の悪い処の意味

ここに村重は有岡城篭城を宣言した。

天と地が揺れても正座崩さない  板野美子


     井 戸(有岡城跡

もと伊丹城は村重が入城して大改修を行う。

鉄道敷設の際に多くが取り壊された。

本丸には井戸や礎石、石垣、土塁が残る。


     石 垣         土 塁

「そして悲劇が・・・」

天正7年(1579)12月13日、

まず女房衆112人が尼崎近くの七松に引き出され、

或る者 は磔刑となり、或る者は鉄砲で射殺され、

また或る者は槍で刺殺された。
  かせさむらい
また、悴侍の妻子や女中ら388人

と女房付の若党124人の併せて

512人は、四軒の民家に押し込められて家ごと焼き殺された。
 
【悴侍】=雑役に当たる身分の低い侍。
【若党】=最下級の武士

さよならの予感的中してしまう  竹内ゆみこ

「村重家族の辞世」

"みがくべき心の月のくもらねば 光と共に西へこそ行け"
                          荒木たし
      
”露の身の消え残りても何かせん 南無阿弥陀仏にたすかりぞする
                      村重の娘(15歳
      
”世の中の憂き迷いをばかきすてて、弥陀の誓いに会うぞうれしき
                       おいち(たしの侍女)

残照に緑の縁を縫いつける  蟹口和枝



  岩佐又兵衛

もう一つの村重の没年説がある.。

天正7年、村重が有岡城を逃げ、尼崎にて自害したというのである。

「岩佐家譜」

岩佐家譜は岩佐又兵衛の没後八十年に書かれたものであり、

又兵衛を「浮世絵の祖」とする系譜である。

又兵衛は、有岡城が落城したときに脱出させられた

村重と、たしの子・荒木村直といわれている。

ここでは村重は、武将でなく、

絵画の道に生きた又兵衛の父親として、死去している。

淋しさの具象抽象描き分ける 森吉留里惠

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