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川柳的逍遥 人の世の一家言
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旅ひとりどんどん水になってゆく  たむらあきこ

 

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(前列3人目が八重、左6人目より林権助・松平恒雄・松平保男・山川健次郎・柴五郎)

昭和3年、京都会津会の秋季例会が催された折、

松平保男恒雄を中心とした記念写真が撮られたのだが、

その写真の裏に八重は、数日後に詠んだ短歌を書き記している。
  ち よ ふ
”千代経ともいろもかわらぬ若松の 木に志たかげに遊ぶむれつる”

「61年目の慶事」

御所から半里、京師を俯瞰する黒谷の地に城構えの寺がある。
しうんざんこんかいこうみょうじ
「紫雲山金戒光明寺」である。

この寺の 塔頭西雲院において、

昭和3年11月17日、京都会津会の秋季例会が催された。

7日前、昭和天皇の御大典(即位の儀)が京都御所で執り行われた際、

その式典に会津若松の人々も招かれたことによる。

西雲院で催された理由は、

かって京都守護職・松平容保が、くろ谷を本陣としただけでなく、

当院のすぐ東に会津藩殉難者墓地が置かれているからだった。

人脈の真ん中へんに落ちがある  立蔵信子



秩父宮雍仁親王と勢津子妃ご成婚写真

御大典に先立つ9月28日、会津人にとって溜飲の下がった一事があった。
                              やすひと
昭和天皇の皇弟である秩父宮雍仁親王のご婚儀で、

その妃殿下として入輿されたのが、

松平恒雄の長女・節子(勢津子)だったからだ。

ただし、恒雄は平民籍だったため、

爵位を継いで貴族院子爵議員となっていた弟・保男の養女となり、

輿入れした。

思えば会津藩は理不尽にも逆賊の汚名を蒙り、

朝敵とされ、骨の髄まで痛め尽くされた。

それからちょうど61年目、ふたたび戊辰の年が巡り来てようやく、

崇敬し続けてきた皇室に会津の血が迎え入れられることになったのだから、

これに優る慶びはなかっただろう。

沈黙のしこりをついに笑わせる  岡内知香



  山川健次郎

「このたびは、ご苦労さまでございました」

八重が丁寧に頭を下げたのは、旧主松平家の家政顧問・山川健次郎である。

東大、九大、京大の総長も務めた人物で、

勢津子を入輿させるべく東奔西走したという話は、

八重の耳にも届いていた。

「お陰さまで、会津もようやく誉れを得ることができました」

「いいえ、八重さん」

もとはと言えば薩摩の樺山愛輔がいいだし、

たまたま林権助が宮内省御用掛に任じられ功をそうしたのだと、

健次郎は謙虚に答えた。

瘡蓋が剥がれるまでのノーサイド  寺川弘一

が、そのすぐ後、にわかに眉間を緊張させ、

「ご成婚が相成ったとはいえ、会津の戦いは終わっておりませんぞ」

と言い切った。

世間はいまだに会津軍を賊軍と呼んでいる。

この呼称が消えるまで戦わねばならぬのだ、というのである。

実際、大蔵浩は自らの見聞による「京都守護職始末」の草稿を、

記しているし、健次郎もまた兄の草稿を完成させるとともに、

己が体験をもとにした「会津戊辰戦史」の原稿に着手していた。

「わが東軍の義と志を、西軍はもとより世の中の人々に、

あまねく知らしめねばならぬのです」
                                                                     つづく

言葉にはならずにそっと肩を抱く  山田葉子

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わたくしの骨とさくらが満開に  大西泰世

八重は常に新しい自分を見つけていった。

(画像は拡大してご覧ください)

明治29年、51歳になった八重は、特別社員になり、

日清戦争時の功績や、看護婦の待遇改善や地位向上を

目指したことが認められ、一般人として初めて

「勲七等宝冠章」が下賜された。

そして、日露戦争時にも大阪予備病院で2ヵ月間、

篤志看護婦たちを連れて従軍、

後に「勲六等宝冠章」を授賞する。

ふりむかぬ進化の先の表彰台  岩根彰子

八重の博愛精神は、会津・鶴ヶ城の籠城戦での負傷者の看護、

京都へ来てからの盲目の覚馬の介添え、

襄の看病などを体験し、社会奉仕事業に傾倒していった。

まさに、『日本のナイチンゲール』と呼んでもいいだろう。

その後の八重は、篤志婦人看護会の活動とは別に、

慈善活動にも取り組み、学校の増改築、

また天災被害や火事の被災者にも、寄付を欠かさなかった。

偉くなる本を買わないことにする  森中惠美子

「美徳を以って飾とせよ」

八重の精神が茶室に掲げられている。

56歳の時は「愛国婦人会」の臨時評議員に選ばれ、

プライベートでは、「茶道の修業」にも熱心に取り組んだ。

茶道とは単なる芸事ではなく、

「終わりなき修練の場」と考えたのかも知れない。

61歳で「京都婦人慈善会」に特別会員、

78歳で名誉会員となる。

真剣勝負すっぴんで待ってます  竹内ゆみこ

大正13年に貞明皇后(昭和天皇の母)が、

同志社女学校へ行啓訪問され、八重に単独の謁見が許される。

八重が79歳の時で、同志社側は大いに喜んだ。

学校の土地は、京都御苑の旧柳原前光邸を借り受けたものであり、

柳原の妹・愛子さまが大正天皇の母というご縁でのご訪問だった。

雨は何かを見つめたまま 雨に  前田扶巳代

晩年の八重に朗報が続く。

昭和3年は会津戦争から60年の節目の年。

大正天皇第二皇子・秩父宮と、旧会津藩主・松平容保の六男で

外交官であった松平恒雄の長女・節子(成婚後・勢津子と改名)

とのご婚約が発表される。

秋晴れて二枚重ねのよだれがけ  森田律子

この慶事は、「朝敵」と呼ばれた会津の汚名返上となり、

復権に会津関係者たちは沸き立った。

83歳になった八重は、いても立ってもいられず、

東京の松平家へお祝いの挨拶に出かけた。

晩年の八重は会津への思いが顕著で、

会津出身者たちの「京都会津会」にも入会し、

全国総会にも出席する。

過去形が無性に恋し栗ごはん  山本昌乃

80代になった八重はまたしても物議をかもしだす。

キリスト教から仏教に宗旨変えしたのではと騒がれた。

「一つの宗教に籍をおいているからといって、他の方のお話を

 聞いてはならない事はないでしょう」

世間への反論である。

昭和7年4月、八重の米寿の茶会が開催された。

6月14日、急性胆のう炎を発症した八重は、

86年の生涯を終えた。

会津で砲術師範・山本家の娘・八重として生まれ、

京都で新島襄と出会った八重、

会津武士の末裔である『戦争上リノオ転婆娘』が、

この世に別れを告げた。

燃えつきて溜息だけが暮のこる  河村啓子

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痛そうに咲く脇腹のカキツバタ  井上一筒

 

碑石を支える亀形の台石
                  (画像は拡大したご覧下さい)

鶴ヶ城の東方、東山温泉入口近くの山中に、

約15平方メートルという広大な墓域をかめるのが、

会津藩歴代藩主が眠る、会津の聖地ともいうべき会津松平家廟所である。

これだけの規模は、全国大名家墓所のなかで珍しく、

会津藩の威容がうかがえる。

起立して礼して霊は着席す  兵頭全郎

明暦3年(1657)、藩祖・保科正之の嫡男・正頼が18歳で病死した折に、

正之の命によって墓所と定められ、

2代・正経から9代・容保までの歴代藩主のほか、

正室・側室・子女の墓が並んでいる。
                               まさかた
2代・正経のみ仏式で葬られ、3代目・正容以降の藩主は神式で、

正之の形態にならっている。
                           はにつ
なお正之の墓所は、猪苗代町の土津神社にある。

ためつすがめつ雲梯の吐息  酒井かがり

3代以降の歴代会津藩主の墓は、

霊を祀る鎮石、石灯籠、事績を記した碑石で一組となり、

特に碑石は巨大な亀形の台石に設置され、

すべて北を向いている。

また、亀の大きさが代が下ることに小さくなっているのも面白い。

なお明治26年に逝去した悲運の藩主・容保は、

大正6年になり晴れてこの地に移葬されることとなった。

点線で囲むと居場所出来上がる  合田瑠美子

昭和62年に国指定史跡に登録され、現在も毎年5月4日に、

歴代藩主の霊を鎮める墓前祭「院内ご廟お花まつり」が、

松平家当主が祭主となり行われている。

墓前祭「院内ご廟お花まつり」は、

神主が祝詞をあげて参列者が遥拝する非常にシンプルな祭りであるが、

地元の松平奉賛会や青年会議所の多くが、

数日も前から墓の掃除や諸々の準備のために集まるという。

今尚、会津の絆の厚さを感じさせている。

集うては屋上からの四季の色  徳山泰子

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生きている実感朝めしが旨い  早泉早人



          覚馬の家族

後方に八重と新島襄がいる。
                                                 
(画面は拡大してごらん下さい)



「新たな生き方として選んだのは従軍看護婦」


明治23年4月、46歳で未亡人となった八重は、

日本赤十字社の正社員になる。

家庭内に踏みとどまるのではなく、八重は社会へ出ることを選ぶ。

ところが新たな一歩を踏み出した八重を、

さらに不幸が襲った。

の死の2年後、兄の覚馬がこの世を去った。

襄亡き後、覚馬は同志社の臨時総長も務めたが、

兄の死去で八重と同志社の縁も途絶えた。

瘡蓋がはがれるまでのノーサイド  寺川弘一



 八重の従軍看護婦姿

八重は、日清・日露戦争では「従軍看護婦」を務めている。

明治以後、八重だけでなく多くの会津女性たちが、

看護婦の道を選んだ。

理由は、言うまでもない。

会津の女性たちは籠城中、自分の帯の芯までほぐして、

包帯代わりとし、負傷兵を手当てをするが、

薬も医学的知識もない中で、彼らが死んでゆくのを、

ただ見守るしかできなかった。

降伏はしないシーソーなんだから  みつ木もも花

彼女たちは強烈な無力感に打ちのめされていたはず。

「その無念を晴らしたい」

という思いが会津の女性たちにはあったのではないか。

禁門の変から戊辰戦争まで、

三千名余の会津人が犠牲になった代わりに、

明治以後の看護学の基礎ができあがったとも言えるのである。

生きていてくれと言われて生きている  永井 尚

 

日本赤十字篤志看護婦人会

翌年、「日本赤十字篤志看護婦人会」が設立され、八重も会員になる。

皇族や華族の夫人が参加してできた組織で、

会の中に会津出身の大山捨松がいて、理事を務めていた。

明治27年、日清戦争が始まると、

会津戦争の原風景が残る八重たちは、

「お国のために何かしなきゃいけない」

日本赤十字社の幹事となり、

仲間とともに篤志看護婦として、名乗りをあげる。

この道でいいかと天に聞いている  岡内知香



  八重と看護婦仲間

戦場に女が行くなど考えられなかった時代、

八重は40名を率いて広島陸軍予備病院に赴任する。

看護婦取締りの役目を担い、4ヵ月間、

30時間を交代で務めるという、激務をやり抜いた。

この果敢なる行動により八重たちは、

翌年、赤十字社の修身社員となり日清戦争の従軍記章も授与された。

一本の樹は愛になり風がらみ  前田扶美代



明治20年校長代理の山本覚馬が、

同志社の卒業式において卒業生に送った言葉がある。
                 その
「諸氏の今や業を終えて、各其目的とするところに進まんとす。

―中略・・・而して其従事すること等しからずと雖も、

子等是非とも勉むべきは貧民のともたること之なり。
                                           けんかく
吾れ思ふに日本は将来英国の如く、貧富の懸隔追日甚だしきに至らん。

此時に当り能く弱を助け強を挫き、貧を救い富を抑ゆるものは誰ぞ。
                           ふくよう
諸氏乞う吾が言を常に心に服膺して忘るる勿れ」

懸隔=二つの物事がかけ離れている(差がある)こと。

服膺=心にとどめて忘れないこと。

咲きなさい自分の好きな色かたち  嶋澤喜八郎

維新後、物心両面から京都の近代化を図り、

成果をあげた覚馬だが、とりわけ重んじたのは、精神の気高さだった。

弱きを助け強きを挫き、貧を救い富を抑える人であれ―。

そこには、新政府の「勝てば官軍」の歪んだ価値観では、

「新時代を背負う人材は育たない」という覚馬の信念があった。

早咲き遅咲き一度はきっと咲くはずだ  森下よりこ



晩年も若者たちと会話することを好み、

また頼ってくる会津出身者を快く迎え入れて、同志社に学ばせた覚馬。

最後まで、自分の信じる新しい国づくりに力を尽くし、

明治25年に瞑目した。

享年65歳。

幕末の上洛より、覚馬がふるさと会津の土を踏むことはついになかった。

しかし、

その生き方は、誠を尽くし、何があろうとも屈しない、

会津武士そのものであった。

残照を描き私を俯瞰する  前中知栄

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それからはタヌキ寝入りが巧くなる  美馬りゅうこ



      山川 浩
                                      (各画像は拡大してご覧下さい)
 「竹筒の中味」
          しんかん
孝明天皇宸翰とは、文久3年(1863)「八月十八日の政変」始末の礼に、

孝明天皇より松平容保に送られた「天皇直筆の手紙」である。

同時に、天皇の「和歌」も送られた。

容保は、これを「竹筒」に入れ生涯誰にも見せることなく亡くなった。

(容保は明治26年12月5日、東京小石川の自邸にて肺炎のため死去した)

伝説は青色になり海になり  河村啓子

宸翰御製が世に出るのは、容保の死去の10年後、

山川浩と弟・健次郎による『京都守護職始末』の公表まで待つことになる。

もし宸翰と御製を公開されていれば、会津はどうなったのだろう。

幕末の変換期に会津だけが悪者にされ、

藩は藩士の末端まで、困窮と不幸を背負わされているにもかかわらず、

何故、容保は「朝敵の汚名」をはらさず、頑なに沈黙を守ったのだろう。

それを「時代」、それが「もののふ」と言うのか、深い霧に包まれる。

山から聞いたこと川へメールする  井上一筒



      宸 翰

 【ご宸翰】
 
「堂上以下、暴論をつらね、不正の処置増長につき、痛心堪え難く、

内命を下せしところ、速やかに領掌し、憂患をはらってくれ、

朕の存念貫徹の段、全くその方の忠誠、深く感悦の余り、

右一箱これを遣わすものなり」

(堂上以下が、乱暴な意見を連ねて、不正の行いも増え、心の痛みに耐えがたい。

 内々の命を下したところ、速やかにわかってくれ、

 憂いを払い私の思っていることを貫いてくれた。

 全くその方の忠誠に深く感悦し、右一箱を遣わすものなり)

堂上=清涼殿に昇殿が許されている公家

ごく軽くつまづくという預けかた  酒井かがり



       御 製

 【御製】
 やわ
『和らくもたけき心も相生の まつの落葉のあらす栄へん』

(平穏を望む心も、勇猛な武士の心も、

 一つの根の相生の松のように共に栄えてほしいものだです)
 もののふ
『武士と心あはしていはほをも 貫きてまし世々の思ひて』

(武士と心を合わせれば、どんな困難にも打ち勝ち、代々伝えられるだろう

白紙の周辺から一行足らずの私情  山口ろっぱ

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