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川柳的逍遥 人の世の一家言
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正一位泥の小袖を着て踊る  井上一筒

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平家による強権政治を、象徴的に物語った平家物語-章段。

「禿髪」-かぶろと読む。

清盛が栄華を誇っていたとき、

平家のことを軽んじるものがないよう、

14~16歳の童を300人集めて、

頭髪を禿髪にそろえて、

赤い直垂(ひたたれ)を着せて召使い、都中に放った。

禿髪=髪の先を切りそろえて結ばずに垂らしたおかっぱ頭のこと。

鎌首を少し余して立ち去りぬ  筒井祥文

そして、平家を悪しざまにいう者があれば、

仲間を呼んでその家に乱入して、家財や道具を没収し、

本人を逮捕して六波羅へ連行したので、

都人たちはこれを怖れて、

禿髪がくると道を通る車も、わきによけ、

都の高官も、見て見ぬふりをしたという。

切ないね棘ある水に馴染んでる  岩根彰子

平家物語のこの章の目的は、

平家の栄華と権勢を描くことにあり、

清盛の義弟・時忠が、

「平家にあらずんば人にあらず」

と豪語したとされる逸話も、このなかで紹介されている。

悪人かもしれなぬ頭に渦がない  八田灯子

史実としては、清盛が京中に密偵を放って、

平家に反発するものを、検挙したという裏づけはない。

そもそも、禿髪頭赤い直垂という

人目にたつ格好で、密偵が務まるとも思えない。

禿髪の逸話が生まれた背景には、

清盛が応保元年(1161)から、

1年8ヶ月の長期間にわたって、

検非違使別当に任じられていたことに

関係があると考えられている。

検非違使は、京中の警察や裁判をつかさどる役所で、

別当はその長官である。


ようかんの金塊ほどもある重さ  篠原信廣

検非違使は、犯罪を犯して刑罰を受けたのち、

出獄した「放免」といわれる人たちを駆使して、

犯罪者の追捕や情報収集にあたった。

物語の禿髪のように、人々に紛れ込んで、

噂話や情報を当局に通報することもあったであろう。

もっとも、それは、

検非違使の職掌そのものにかかわることで、

誰が別当であっても、同じことは行われた。

ひとり清盛だけの特殊事情ではない。

気の弱い弁解うなずいてあげる  三村一子

ただし、このころ、平家による検非違使の掌握が、

進んだことは確かである。

実際に犯罪者を追捕するのは、

検非違使尉(判官)の仕事であるが、

平家の全盛期には、

平家の有力家人の多くが判官として活躍した。

さらに注目すべきは、

時忠が検非違使別当に三度も就任している。

反省をすぐに忘れる猫の鼻  中村登美子

同一人物が三度も別当に就任するのは、

検非違使の歴史上初めてのことであり、

九条兼実は、「物狂いの至り」とまで評している。

時忠の別当時代には、

かなり強権的な捜査が進められることもあった。

てっぺんに登ると見えぬものもあり  河村啓子

福原遷都が失敗に終り京に遷都してからは、

反乱勢力の追捕のために

上級貴族にも、兵糧の供出が求められたが、

その調査や徴収の責任者となったのが、時忠であった。

また、頼朝に通じたと噂された貴族に対して、

かなり強引な家宅捜査も行っている。

検非違使を把握することで、

京の治安維持や犯罪捜査を、一手に握った平家の権勢が、

禿髪のような逸話をつくる下地になったのかもしれない。

しゃべったのはペン僕は眠ってた  和田洋子


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参考・『平家物語』-「禿髪」

かくて清盛公、仁安3年11月11日、年51にて病に冒され、

存命のために、たちまちに出家入道す。

法名は
浄海(じやうかい)とこそ名のられけれ。

そのしるしにや、宿病たちどころに癒えて、天命を全うす。

人の従ひつくこと、吹く風の草木をなびかすがごとし。

 ・
中略
 ・
また、いかなる賢王賢主(けんおうけんじゆ)の御政も、

摂政関白の御成敗も、

世にあまされたるいたづら者なんどの、人の聞かぬ所にて、

何となうそしり傾け申すことは、常の習ひなれども、

この禅門世盛りのほどは、いささかいるかせにも申す者なし。

その故は、入道相国のはかりことに、14、5・6の童部を三百人そろへて、


髪をかぶろに切りまはし、

赤き直垂着せて召し使はれけるが、

京中に満ち満ちて往反(おうへん)しけり。

おのづから、平家のこと、悪しざまに申す者あれば、

一人(いちにん)聞き出ださぬほどこそありけれ、

余党にふれ回して、その家に乱入し、

資材雑具を追捕し、

その奴をからめ取つて、六波羅へ率て参る。

されば目に見、心に知るといへども、

(ことば)にあらはれて申す者なし。

「六波羅のかぶろ」と言ひてんしかば、

道を過ぐる馬車も、よぎてぞ通りける。

世のあまねく仰げること、降る雨の国土をうるほすに同じ。

六波羅殿の御一家の君達と言ひてんしかば、

花族も英雄も面を向かへ、肩を並ぶる人なし。

されば入道相国のこじうと、平大納言時忠卿のたまひけるは、

「この一門にあらざらん人は皆、人非人なるべし」

とぞ、のたまひける。

かかりしかば、いかなる人も、相構へて、そのゆかりに結ぼほれんとぞしける。

衣紋(えもん)のかきやう、烏帽子のためやうより初めて、

何事も六波羅やうと言ひてんげれば、

一天四海の人、皆これをまなぶ。

川にごる人間らしきものを捨て  森中惠美子

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叩かれてじょじょに木魚になって行く  田中博造

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  蛭ヶ小島(頼朝配流の島)

「源頼朝ー流人時代の逸話」

びり事で伊東館おしくじり  江戸川柳


伊豆に流された頼朝は20年間、流人生活を送ったが、

流人といっても、

監視役の伊東祐親北条時政がうるさいことを

言わなかったので、かなり自由な毎日で、

祐親の京都勤番の留守には「伊東館」に足繁く通い、

娘の八重姫との情事で子をつくってしまった。

帰郷した祐親はこれを知り、

「清盛に知れると大変なことになる」

と、子を川に捨て姫を他家に嫁がせてしまった。

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冒頭の江戸川柳は、

頼朝が将来、まさか天下を取る男とは思いも寄らず、

祐親が、
「良い婿を取りはぐれてしまった」

と冷やかしたものである。

梵天の化身ぞ蝿は叩くまい  増田えんじぇる

頼朝が、次に手をつけたのが北条時政の娘。

嫁に行きそびれ、当時としては、

適齢期をとうに過ぎていた23歳の政子である。

時政も京都勤番から戻って、

2人の関係を知るところとなり、別れさせるために

政子を伊豆の代官・山木兼隆に嫁がせる約束をとりつけ、

「山木館」に送り込んだが、政子にとっては、

頼朝が最初の男、そう簡単にはあきらめられず、

深夜、脱走して頼朝の元に戻ってくる。

後日、時政は頼朝の人物を見抜き、2人の仲を認めるとともに

以後、頼朝の支援者になる。


ややこしい事おもむろに背を向ける  山本昌乃

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   頼朝と政子

頼朝の蛭ヶ崎の流人小屋には、

元流人僧の文覚がよく訪ねて来た。

文覚と知り合ったことが、頼朝のその後を大きく左右することになる。

文覚は以前は、遠藤盛遠という北面の武士で、

僧侶になったのは、

源渡の妻の袈裟御前とできてしまい、

その袈裟御前から 「夫を殺すよう」 唆かされ、

寝所に忍び込み、首を刎ねたら、首は渡ではなく、

袈裟御前だった。

そんなことから、盛遠は改悛して出家したという。

手にかけた袈裟を涙で首にかけ  江戸川柳

文覚が伊豆に流されたのは、この事件ではなく、

僧侶になってからの、寺院再建の騒擾問題だが、

刑期満了になっても都に帰らず、

伊豆を拠点に諸国を巡り、頼朝に情報を伝えていた。

挙兵を決意させたのも、平家追討の以仁王の令旨や

後白河上皇の院宣を持ち還ったのも文覚であった。

ヤキトリの串に隠れていた忍者  井上一筒

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「頼朝の助命から」

平治の乱で敗れた頼朝の父・源義朝は、

再起を期して東国に逃れたが、

尾張で無念の最期を迎えた。

当時14歳だった頼朝は父に従ったものの、

途中で一行とはぐれて捕らえられ、六波羅に送られる。

源氏の嫡男なので、死罪は免れない。

しかし、清盛の継母・池禅尼の要請によって、

死一等に減じられた。

痛点は同時多発を許さない  山田ゆみ葉

池禅尼は、清盛の父・忠盛の正室である。

清盛の弟になる家盛を産んだが、

家盛は、久安5(1149)に病没した。

それを悲しんだ池禅尼は、

処刑されようとする頼朝の容姿が

家盛によく似ていたため、

清盛に助命を嘆願したのだという。

御上さん一期一会が薄汚れてる  岩根彰子

『平家物語』によると、清盛はその願いを拒否したが、

池禅尼が断食をはじめたため、ついに折れて、

死罪から流罪へと減刑したとされる。

また、頼朝が仕えていた上西門院と、

後白河上皇の意向が働いたとの説もある。

疼くものそして流れてゆく時間  山本芳男

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源氏の芽を摘んでしまうと、

「平氏の専制に歯止めがきかなくなる危険性」

を考慮してのことだろうか。

伊豆の「蛭が小島」に流され、再期を期した頼朝は、

池禅尼の恩を生涯忘れなかった。

大地には計り知れない借りがある  嶋澤喜八郎

池禅尼の子で、平家盛の弟に頼盛がいたが、

頼朝は、頼盛に情を寄せた。

源平合戦の際も、

頼盛の軍に対しては、弓を引かせなかったという。

頼朝は壇ノ浦で平家一門を滅ぼしたあとも、

平頼盛を厚遇した。

神さまは耳の後ろにいるらしい  新家完司

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「武士が家督を継ぐための条件」

清盛の時代、武士が家督を継ぐための条件は、

生まれた順番ではなく、母親の出自が重要だった。

頼朝は、兄に武勇の誉れ高い悪源太義平がいたが、

母の家柄がよかったため、

三男ながら、当初より嫡子とみなされていた。

清盛の長男・重盛も、晩年は官位の面で、

清盛の正室・時子の子である宗盛の猛追を受けており、

長生きしていたら、

家督の地位を、譲り渡すことになったかもしれない。

≪事実、重盛の一族である小松家は、

   重盛の死後、一門の傍流に転落している。

   当の小松家にしても、重盛の嫡男は長男の維盛ではなく、

   藤原成親の妹を母にもつ三男・清経だったといわれている≫


ひなた水に浮かぶぼくらの蒙古斑  吉澤久良

重盛が死ぬまで、家督を失うことがなかったのは、

器量や人徳もさることながら、

母を早くに亡くした境遇が、

清盛に似ていたことも、理由だったかもしれない。

清盛自身、忠盛の正室である池禅尼が生んだ家盛に、

家督の地位を脅かされた経験もある。

母を早くに亡くした子どもの気持ちが、

清盛には、よくわかっていたのだろう。

盲点のそこにあなたがおりました  山口ろっぱ

家盛の同母弟・頼盛は、

清盛より15歳も年下だったので、

清盛の地位を脅かす存在にはならなかったが、

それでも忠盛の正室の子に、ふさわしい待遇を与えられた。

官位の昇進は、ふたりの異母兄・経盛・教盛より早く、

都落ち直前には、権大納言にのぼっている。

トンビから生まれたタカをもてあます  杉本克子

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頼盛邸より出土した器 (京都歴史資料館)        

「余談」  

頼盛「池大納言」と呼ぶのは、

六波羅の頼盛の本宅である「池殿」に由来するが、

これはもともと、池禅尼の家であり、

清盛の「泉殿」に匹敵する大規模な

邸宅であったといわれる。

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頼盛邸から出土した甕

福原の頼盛邸も福原遷都の当初、

安徳天皇の内裏とされたほどだから、

相当の規模だったに違いない。

邸宅の面でも頼盛の立場は、清盛に拮抗していた。

清盛につぐ、

「平家のもうひとつの顔」というべき存在であった。

気遣いに取り囲まれている安堵  黒田忠昭

拍手[2回]

生乾きの過去をときおり陽にあてる  新川ひろこ

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清盛の血入り曼荼羅図

清盛が高野山に奉納した「曼荼羅」は、

胎蔵界大日如来の宝冠に、


清盛自身の頭の血を混ぜて描いたとある。

パプリカの定理を喋り過ぎる赤  くんじろう

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「平家の道ー③」ー”平家にあらざれば”

清盛の父・忠盛の死後、

その跡を継いで平氏一門の棟梁となった清盛には、

公卿たちの風当たりもやわらかだった。

忠盛が昇殿を許された際は、

強烈な拒否反応を示し、

また白河院に詠歌を献じようとした場合も、

「武士にしてその前例なし」

と反対したが、清盛には寛容だったのは、

やはり、ご落胤説の真実を示すものだろうか。

雲だった昨日小雨になる明日  中野六助

清盛の歩みは順調である。

肥後・安芸・播磨の国司を、太宰大弐を歴任、

祖父・正盛や父・忠盛が西国を基盤として、

平家の根を広く強く張ったように、

彼もまた、西国経営に意欲的であった。

瀬戸内の海上交通や、

港湾の開削、改修に取組んで積極的であった。

芽吹くまでの一途な思い身にまとう  山田葉子

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 古代大輪田泊の石涼

「父祖のご遺志を絶やすまいぞ」

清盛は、父の「日宋貿易」に思いをめぐらせ、

深く思念した果て、

「ここにこそ、わが平家伸長の鍵がある!」

と攝津・「大輪田泊(神戸港)の修築に着手した。

この大輪田泊の完成によって、

宋船の廻航が可能になり、

日宋貿易による平家の財政は、飛躍的に潤沢となった。

血小板に彫り込んである家訓  井上一筒

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  音戸の瀬戸(現在)

清盛はまた、

安芸の「音戸の瀬戸」の開削にも着手しており、

厳島神社を崇敬することによって、

海上交通や西国武士の組織化をはかるなど、

かっての源氏武士団に劣らぬ、

強大な平氏へと変貌をとげていった。

清盛はこれらのことを、都の公家たちが、

舞や蹴鞠の巧拙にうつつをぬかしている間に、

冷静に意欲的にやってのけたのだ。

冴えております頭を打ってから  酒井かがり

ことに「平治の乱」で源氏の棟梁・義家を撃破してからは、

もはや部門唯一の棟梁は、清盛だったから、

かれは源氏の遺領を次々とわがものとし、

北陸・東国の国司までも、

平氏から任命するにいたった。

問いかけはわたし答えるのも私  嶋澤喜八郎

日本全土、六十六国、

平氏はその半分の三十余国を領するとまで評されたが、

そのころには、

清盛も太政大臣・従一位の高官にまで登りつめており、

その娘たち八人も、

例えば徳子(建礼門院)高倉天皇へ入内して、

安徳天皇を生む。

ほかにも、摂関家に嫁がすなど、

目も眩いまでの華やかさであった。

善人は報われるはず童話なら  伊庭日出樹

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また男子は、嫡男・重盛が大納言で、

宗盛が左衛門督、

知盛が左中将の資盛(すけもり)というように、

平家一門の族勢は、もはや揺るがぬものと思われて、

ついに、

「平家にあらざれば人にあらず」

と豪語するまでに至った。

目立つのが好きでキリンの首になる  中 博司  

たしかに清盛は、父祖の悲願を果した。

宮廷貴族に奉仕する侍の身が、

自身、殿上人に列せられるに至ったのだから、

父祖の望む以上のものを、完璧に果したといってよい。

そして、反平氏の狼煙をあげた以仁王(もちひとおう)

源頼政の挙兵を、たちまちにして鎮定したし、

源氏の棟梁・義朝の遺志・頼朝も、

伊豆・蛭ヶ島にとじてあるのだ。

いまの平家には、

なんの不安もないかに見うけられた。

神さまがズボンをぬぐと砂が落ちる  定金冬二

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   神戸の夜景(現在)

〔未来予告〕

福原への遷都を強行した当夜、

天空の一角で奇怪な現象が起きた。

夜半遊歩の奇癖をもつ若き公卿、歌人の藤原定家が、

三条大橋のあたりでそれを目撃し、

自著・『明月記』に、

「椀ほどもある流星が、空中で破裂しておわんぬ」

と記録しているのである。

この大流星が、平家にとって、

吉凶いずれを暗示するものか、

この時点での清盛には、

もとより、判る筈はなかった。

直立不動のくらげにあるお告げ  岩田多佳子


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「清盛曼荼羅奉納のいわれ」

清盛鳥羽院の命にて、「高野山の大塔」の修理を行いました。

修理完成時に参詣した清盛は、一人の老僧に出会います。

その老僧は大塔の修理のお礼を述べ、

荒れている厳島の修理を清盛に依頼しました。

奥之院の方へ去る老僧の姿は、しばらくすると、

ふとかき消えてしまいました。

清盛はこの老僧は
弘法大師の化身であったと知り、

ますます信仰を深め、金堂に
「曼荼羅」を奉納しました。

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あやまち多き身に太陽は傾いて  森中惠美子

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二位尼坐像 (宮島町立歴史民族館)

池禅尼が、情にほだされておかしたミスが、

「平治の乱」における頼朝の助命であった。

逃亡中に義朝とはぐれて捕えられた頼朝が、

亡き家盛に生き写しだったことから、

禅尼は、「自分の命に代えても助けたい」

と清盛に懇願したという。 『平治物語』

どの顔も犯人に似る免許証  奥山晴生

もとより清盛は、斬首するつもりであったが、

継母のたっての願いに負けて、

伊豆への配流にとどめたのである。

≪頼朝が家盛と似ていたかどうかは、確かめようがないし、

    そもそも
「それが助命の理由だったのかどうか」もわからない≫

ただ、禅尼の厚意によって頼朝の首がつながったことは

『愚管抄』にもあり、平家都落ち以後の、

平頼盛に対する頼朝の待遇をみても確実である。

我が胸に敵も味方も棲んでいる  庄田潤子

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清盛にしてみれば、頼朝ひとりを斬ったところで、

「どうなるものでもないし、これ以上血を見たくない」

という思いもあったのだろう。

「保元の乱」で死刑の復活を命じた信西の首が

獄門にさらされたばかりでもあり、

復讐の連鎖が繰り返されることを、

恐れたのかもしれない。

しかし、頼朝を助命した最大の理由は、

何よりも、継母である禅尼への、

遠慮であったのではないだろうか。

偶数で囲むと風邪をひく男  森田律子

頼朝死後の北条政子の例もあるとおり、

武家では棟梁の死後、

その正室が家長を代行する立場になることがあった。

清盛がいくら家督であっても、

慣例的に、父・忠盛の正室である禅尼の意向は、

尊重しなければならない。

加えて、「保元の乱」における恩義もあるならなおさらだ。

善玉の綿に限界説の壁  井上一筒

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禅尼は長寛2年(1164)ころに、亡くなったといわれるが、

それ以後も頼盛は、重用され続けた。

頼盛の妻は、大荘園領主として隠然たる勢力を誇った

八条院(鳥羽上皇の娘)の乳母の子だったことから、

頼盛には、八条院と平家を結ぶ懸け橋としての役割が、

期待されたと考えられている。

また、頼盛は自ら大宰府に下って貿易に取り組み、

福原にも豪壮な別宅を建てるなど、

日宋貿易に理解と共感を寄せていたから、

清盛としても、頼もしく感じるところがあったに違いない。

また君かいとテトラポットは温い  酒井かがり

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   紺地金泥法華経

では、ふたりの関係は絶えず円満だったのだろうか。

嘉応2年(1170)清盛頼盛が協力して、

「紺地金泥の法華経」を書写し厳島神社に奉納したのは、

兄弟の結束を確認する意味もあったのだろう。

逆にいえば、

結束を確認しなければならないような、すきま風が、

絶えずふたりの間に吹いていた、とみることもできる。

事実、治承3年のクーデターでは、

頼盛は、清盛によって解官させられただけでなく、

清盛が「六波羅の頼盛を攻める」という風聞までたっている。

三日月うぃ絞るうっすら血が染む  笠嶋惠美子

しかし、実際に清盛が頼盛を攻めることはなく、

まもなく朝廷への出仕を許されて、

その後も、順調に昇進を重ねた。

たとえ、煙たい弟であっても、

断絶を決定的にしてしまえば、一門の結束にひびが入る。

それを清盛は恐れたのだろう。

禅尼の決断により、一門が結束して、

保元の乱を乗り越えた経験は、清盛の心に、

一門融和の大切さを、刻み込ませたのかもしれない。

切ないね棘ある水に馴染んでる  岩根彰子

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しかしその頼盛も、

清盛死後は主流派と距離をおいた。

その結果、寿永2年(1183)「平家の都落ち」では、

途中まで行幸に従いながら、

突如車を返して、京に逃げ戻り、

あろうことか頼朝を頼って、身の安泰をはかったのである。

鎌倉に下った頼盛は、子どもたちともども、

頼朝に手厚くもてなされた上、

頼朝の口添えによって、

都落ちの際に没収された所領を取り戻し、

正二位権大納言に返り咲いた。

長生きのためにプラグは抜いている いわさき妖子  

禅尼の温情は、平家滅亡の遠因となったが、

息子の命だけは救うことができたわけだ。

しかし、一門を裏切ったという自責の念は、

頼盛の心身をむしばみ、

平家滅亡の翌年、文治2年(1186)6月、

54歳で帰らぬ人になる。

蹴った樹のしずくに濡れる自己嫌悪  有田一央

拍手[3回]

字引きから 《寝耳に水》 は削除する  岩根彰子

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乱後、後白河上皇二条天皇が協調する

政治体制となったが、

院政を続けようとする後白河上皇と、

親政を目指す二条天皇の間には、火種が燻っていた。

縦糸に水 横糸に水蒸気  井上一筒

そんな中清盛は、双方の良好な関係が維持されるよう、

気を配りつつ、両者に奉仕していく。

清盛としては、時の天皇である二条天皇を重んじる一方、

天皇家の家長として二条天皇を後見する後白河上皇も

尊重すべきと考えた。

「よくよく謹みて、いみじくはからいて、

   アナタコナタ しけるにこそ」


(用心し、よく配慮して、後白河と二条の双方に心を配っている)

                                                            『愚管抄』

がまんがまん丸虫のようになる  筒井祥文

権力者2人の間でバランスを保つのは、

「清盛の優れた政治力の表われ」 といえるだろう。

そんな清盛を

「貴族のようで、武士にあるまじき者」

と評する者もときにはいるが、、

清盛は、決して武士を捨てたわけではなく、

むしろ武士でありながら、

朝廷政治に加わることのできた存在なのだ。

清盛は、単に諸方面に気を配るだけでなく、

明確な政治スタンスを持っていた。

自転公転レモン一顆を遊ばせる  前中知栄

清盛は、保元・平治の乱のいずれも、

終始一貫して天皇を支持している。

いわゆる「時の天皇」に忠実でいるということ。

そのため、この時期の清盛は、

どちらかといえば、二条天皇寄りにも見え、

二条天皇も清盛の力を背景として、

少しずつ政治権限を強めていった。

キャベツ色して蝶々になりすます  山本早苗

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    二条帝

また二条天皇との関係で見過ごせないのは、

二条天皇の乳母が、清盛の正室・時子であるということ。

かつて、信西が後白河上皇の乳父として、

権勢を振るったように、清盛は二条天皇の乳父であり、

それが二人の強いつながりになっていた。

虚空引き裂く母方遺伝因子  山口ろっぱ

ところが、応保元年(1161)9月、

上皇と天皇の協調体制が崩れる事件が起こる。

上皇の皇子で天皇の弟・憲仁親王(高倉天皇)

皇太子にしようとする企ての発覚で、

これは、時子の弟・平時忠が仕組み、

後白河上皇が加担したものだった。

憲仁親王の生母は、時忠の妹・滋子(建春門院)であり、

時忠は外戚の立場を得ることで、

平氏一門の繁栄をもたらそうとしたのだろう。

人生です紙風船を吹いてます  田中博造

しかしこの時、清盛は断固たる態度をとった。

二条天皇を擁護する立場をとって、

時忠を処罰するのみならず、

後白河上皇の院政を停止させるのである。

あくまでも、時の天皇を重んじる清盛は、

二条天皇の意向を無視した立太子を、

非常に無礼なことと考えたのだ。

祈る手は雑巾しぼる手に似てる  兵頭全郎

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この時、後白河上皇と清盛の間に、

感情のしこりが生じたのは間違いない。

滋子は清盛の義妹であり、後白河上皇が

「平氏一門の子が皇太子となれば清盛も喜ぶ」

と清盛にとっても良かれと思い、

為したことと、考えられなくもないからだ。

後白河上皇は、清盛に怒りを覚えたはずである。

俎板の窪みに溜まる雨の音  笠嶋恵美子

一方一門の子が、皇太子になり得たにもかかわらず、

それを阻止した清盛は、非常に筋を重んじたといえる。

後白河院政の停止後、二条天皇の親政が始まった。

もっとも清盛は、

後白河上皇への奉仕をやめたわけではない。

応保2年(1162)には、上皇から官職任命の儀式について

諮問を受けたり、後白河上皇のために、

蓮華王院(三十三間堂)を造営するなどしている。

≪この時期の清盛と後白河上皇について、

   政治的な対立があったとよく強調されるが、

   少なくとも、清盛にはそのような気持ちは一切なかった≫


三杯酢かけて亀裂を修復する  内藤洋子

この頃、一門の政治基盤を安定させるため、

清盛は摂関家に接近し、長寛2年(1164)に、

関白・藤原基実を娘の婿にとる。

翌永万元年(1165)7月には、僅か2歳の六条天皇に譲位し、

上皇となっていた二条天皇が崩御する。

ここで幼い六条天皇にかわって、

執政する立場となったのが、婿の藤原基実で、

清盛は8月に権大納言となった。

≪基実を支えるための任官である≫

ところが肝心の基実が、

あくる仁安元年(1166)7月病没し、

清盛は、二条天皇、藤原基実と立て続けに、

後ろ盾を失ってしまう。

うっすらと濡れている運命線の端  蟹口和枝

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これらを受け、再び後白河上皇による院政が始まる。

後白河は過去の経験から、

「清盛と提携した方が政権が安定する」と分っている。

そこで清盛と再び組むためにも、

清盛と縁の深い憲仁親王を皇太子に立てた。

清盛もこれを容認し、東宮大夫(とうぐうだいぶ)となった。

六条天皇は幼く、

母親が摂関家でも平氏出身でもないからである。

天皇家の安定を見据えるなら、

後白河、憲仁の系統が一番だと考え、

清盛は再び後白河と結んだのである。

一言めの「だから」の意味を解いている  佐藤美はる

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