- 2013/04/13
- Category : ポエム&川柳
薩長同盟
上申書・叢裡鳴蟲(そうりめいちゅう)
岩倉具視が和宮降嫁に反対する公家と対立し、
岩倉村に蟄居している間に書き上げた著作。
上申書には政の大綱は朝廷で起案し、諸藩を集めて評議させる、
ことなど卓越した提案がならんでいた。
「新島襄登場」
上州安中藩士の子として神田に生まれ、
しめた
1864年、鎖国の禁を破って米国船に乗り込んだ新島七五三は、
船長からジョーと名付けられボストンに渡る。
地元資産家ハーディ夫妻の庇護の下、現地の大学や神学校に学び、
72年には岩倉 使説節団の通訳として渡欧。
そして74年。
米国の伝道組織アメリカン・ボードの総会で、
大学創設の夢を語った彼は、約5千どるの寄付を手に帰国。
翌75年、京都に借り受けた華族・高松保実邸で、
教師2名、生徒8名の「同志社英学校」を開校する。
ちなみにこの時力を貸したのが八重の兄・山本覚馬だった。
垢を落せば残った骨が光り出す 森 廣子
「薩長同盟」
「蛤御門の変」の直後、長州はイギリスやフランスなど、
四国艦隊との戦争にも惨敗し、
いよいよ攘夷が困難であることを思い知る。
倒幕に根強く反対していた上層部も、
高杉晋作らによる軍事クーデターに遭って淘汰され、
長州の藩論は、「武力倒幕」にまとまった。
四月からだんだん開く川の巾 笠原道子
こうして、長州の藩論が武力倒幕に固まるなか、
新たに倒幕へと傾き始めた勢力があった。
もとは公武合体派で、
長州と激しく対立していた薩摩藩である。
薩摩藩の西郷隆盛は、幕臣の勝海舟らから、
「幕府には時局をまとめる力がまったくない」
と聞かされたこともあって、
ひそかに倒幕を目指しはじめていたのである。
覇王になるはずの朝の目ん玉 山口ろっぱ
岩倉具視幽棲旧宅
ただし、薩摩藩のトップは、
「幕藩体制の遵守」をかかげていた島津久光である。
たかちか
家臣にすべてを任せていた長州藩の藩主・毛利敬親と違い、
久光が倒幕行動を許すとは考えられない。
そこで西郷は盟友の大久保利通と協力して、
久光に相談せずに、武力倒幕の道を模索することになった。
君の仕業かと消しゴム付き鉛筆 酒井かがり
岩倉具視・岩倉村幽居の図-1
すると、倒幕という方針で共通する両藩を、
結びつけようという人物があらわれた。
土佐の脱藩浪士・坂本竜馬と中岡慎太郎である。
しかし、薩摩と長州は犬猿の仲。
とくに長州は、蛤御門の変で薩摩に手痛い敗北を喫しており、
強い恨みを抱いていたのだ。
そこで竜馬は、
まず両者が経済的に助けあえるように手を打つ。
この時期の長州は武器の不足に悩み、
薩摩は天災による米不足に頭を悩ませていた。
地平線つなぐ長芋and数珠 井上一筒
そこで竜馬は、薩摩藩が武器弾薬を買い付けて長州に渡し、
長州はその見返りに、米を渡すことを提案したのだ。
竜馬のこの狙いは的中し、長州と薩摩は経済同盟という形で、
まず手を結んだのである。
そして、慶応2年(1866)1月22日、両者は軍事同盟を結んだ。
「薩長同盟」である。
結べとは言ったが括れとは言わん 兵頭全郎
岩倉具視・岩倉村幽居の図-2
岩倉具視、西郷隆盛・薩摩藩、長州藩による
クーデターは成功した。
クーデター軍に守られながら、
最初の小御所会議が開かれた。
そこには徳川慶喜は出席していない。
「新政府に慶喜の姿がないのはおかしい」
と主張する山内容堂らの意見もあったが、
クーデター軍に銃口を突きつけられているような状況では、
慶喜サイドの大名も多くをいえず、
結局、ここに慶喜の官職辞任と、
領地変換が迫られることになったのである。
試着室に入って会議出てこない 井上しのぶ
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