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川柳的逍遥 人の世の一家言
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背信のかすかに匂う沈丁花  美馬りゅうこ

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 「平治物語絵巻 信西巻」

殿上にて臨時除目(じもく)を出す藤原信頼。

除目=平安中期以降、大臣以外の官を任ずる儀式。

定例春秋二回。

春は外官(地方官)を任命するので県召(あがためし)の除目,

秋は大臣以外の京官を任命するので、司召(つかさめし)の除目という

またその儀式自体である宮中の年中行事を指し、

任官した者を列記した帳簿そのものを指す。


「臨時除目」は、小除目(こじもく)と呼び、春や秋の恒例の除目以外に、

臨時に実施される小規模な除目のこと。

≪信頼にとって、この臨時除目が命とりになった≫

もう夢はみない枕が捨ててある  岩根彰子

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「反・信西の中心人物」

「従来の院近臣たち」は、

もともと一枚岩の団結を誇るような、

集団であったわけではない。

というよりも、むしろこの時期、従来の院近臣たちは、

「後白河院派」「二条親政派」という、

2つの立場に分かれていた。

だが、信西に対する反発は、

政治的な立場の違いを乗り越えさせるほど、

大きかったのだ。

マカロンにはさむ苺のサスペンス  北原照子

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反信西の中心となった人物は、

「平治の乱」の主役の1人、藤原信頼である。

信頼は、後白河院派の筆頭というべき寵臣であった。

その家は、藤原道長の兄・藤原道隆の子孫で、

院政期に入ってからは、院近臣として、

受領を代々務めていた。

神のいる方へは行かぬかたつむり  定金冬二

信頼の運命を大きく変えたのは、

受領として源義朝との深い関わりを持ったことである。

信頼は久安6年(1150)に、18歳で武蔵守に任じられ、

保元2年(1157)弟の信説にこれを譲っている。

角のない鬼で二階が欲しくなる  森中惠美子

武蔵国は、東国の要とも言うべき、

最重要の国であり、

多数の武士団が存在し、

何より、義朝の軍事基盤となっていた。

≪保元の乱の前年、義朝の長男・義平が、

   京都から下ってきた叔父の
義賢を攻め殺すという、

   事件が起こっている。
(大蔵合戦)


実は、その戦場となったのは、

武蔵国比企郡の大蔵館であった。

普通であれば、勝手に合戦を起して、

敵を攻め殺すというのは、重罪であり、

義朝・義平が処罰を受けることになっても、

不思議ではない。

ところが、この一件はまったく問題とされておらず、

その背景のひとつには、

受領である信頼の黙認があった。

不手際の左を許す夜のグラス  上野勝彦

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おそらく、すでにこの時点で、

「信頼と義朝との間に提携が成り立っていた」

ものと考えられている。

家柄や官位を考えると、両者の関係は当然、

信頼が主で、義朝が従であっただろう。

足し算も引き算もする闇の中  山本芳男

さらに、信頼は陸奥国も知行していた。

陸奥国と信頼一門との関わりは、

康治2年(1143)に、信頼の異母兄である基成が、

陸奥守に任じられたことに始まっているが、

基成は任期終了後も、京都に帰らず陸奥国に残留した。

残留してどうしたかといえば、なんと、

現地の実権を握っていた奥州・藤原氏の政治顧問のような、

立場に収まったのである。

筋雲移動意味のない塔を経て  筒井祥文

基成は、奥州・藤原氏3代目の藤原秀衡を婿としており、

4代目にして最後の当主となった泰衡は、

基成の孫にあたる。

陸奥国は、奥州藤原氏との関係でのみ、

重要だったのではない。

陸奥国は馬の一大供給源であり、

矢羽の材料となる鷲の羽の生産地でもあった。

肩幅に足を開いて変身する  酒井かがり

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このように、

陸奥国は武士にとって非常に魅力的な国であり、

義朝も家人を派遣して、

物資の調達に当たらせていたことが知られている。

まして、保元の乱後に左馬頭になってからは、

義朝は職務上も陸奥国とは、

切っても切れない関係にあった。

義朝にとって、陸奥国を知行する信頼との関係は、

武士として活動する上で、生命線となっていたのである。

組み立てラインは牛蒡の皮を剥く  井上一筒

拍手[3回]

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裏の顔もときどき見せておきましょう  津田照子

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     相撲節会

「信西の執政2」

保元の乱後の政治をリードした信西

乱の後には、新たな政策が矢継ぎ早に打ち出された。

まず、保元元年(1156)閏9月18日、

「荘園整理令」を中心とした保元新制が発令されている。

荘園整理令後白河天皇の即位以前に設置された荘園の内、

 天皇の宣旨、および
白河・鳥羽院庁下文に基づいていないものを、

 廃止するよう命じた。


塩辛いやがてを水に晒す  岩田多佳子

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荘園整理令が出された理由は、

荒廃していた「大内裏」を新造する財源を、

捻出するためである。

いつの世も、大規模な事業のためには、

行財政改革が欠かせない。その甲斐あって、

早くも翌年の10月8日に「大内裏」が完成している。

こうした事業はすべて、

後白河天皇の名前で命令が出されたが、

その裏で計画を立案していたのは信西であり、

その目的は、信西が擁立した後白河天皇の権威を、

高めることにあった。

ポイントデーという ワナにおちていく  井上一筒

大内裏新造での信西の活躍ぶりは、

『愚管抄』で、

「立派に取り計らって、全国に少しの負担もなく、

  2年ほどであっと言う間に完成させてしまった」


と賞賛されている。

【大内裏】=
 
天皇の居所である内裏と政府諸官庁の置かれた一区画。

因みに、平安京大内裏の規模は、

東西約1164メートル、南北約1394メートル。


縁取りを待つだけになる森の水  兵頭全郎

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後白河天皇は、あくまでも中継ぎであり、

皇太子・守仁天皇の皇位継承は既定路線だ。

保元3年(1158)8月16日、

後白河天皇は、守仁天皇に譲位し院となった。

即位した守仁天皇が、すなわち二条天皇である。

この譲位は、二条天皇の養母である美福門院と、

信西との2人だけの相談で決定され、

関白の藤原忠通をはじめ、他の貴族たちは、

一切関与しなかった。 このことからも、

信西が握っていた権力の大きさがうかがえる。

石けんと皆既月食詰め放題  岩根彰子

信西の権力の源泉は、

後白河天皇の乳母の夫であることが大きかった。

後白河天皇から二条天皇に代替わりすると、

今度は、二条天皇との関係が問題となるが、

さすがは信西、その点には抜かりがない。

信西は、長男・俊憲を皇太子時代の、

二条天皇の東宮学士(学問の師)としている。

二条天皇が即位すると、

俊憲は、天皇の一番側近である蔵人頭とされた。

はみだした線を回収する熊手  加納美津子

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父親に似たのか、

信西の息子たちは総じて優秀で、

次男の貞憲も弁官に就任し、

4男の成範も、受領の最高位である播磨守となっている。

信西が息子達を要職につけた理由は、

私利私欲というよりも、学才のみを頼りに、

徒手空拳で成り上がった信西にとって、

権力を維持する為に必要なことだったからだ。

いいのではないか俺流わたし流  新家完司

しかしながら、これが信西にとっての命取りとなった。

というのは、この結果、信西は、

他の院近臣たちを敵に回すことになったからである。

弁官にせよ受領にせよ、

ポストを信西一門が占めれば、

代わりに誰かがあぶれることになる。

臨海を見るまで磨く大ふぐり  上野勝彦        

あぶれたのは、これまでこうしたポストに就いて、

院に奉仕してきた他の院近臣たちだ。

彼らにしてみれば、自分達の昇進が滞っているのは、

「信西一門のせいだ」

ということになる。

≪こうして、「従来の院近臣」たちの間に、

   深刻な反・信西の感情が芽生えたのであった≫


これ以上刻むと流れだす私  山本早苗

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体制を恨み続ける平家蟹  新家完司

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     宮廷相撲

「後白河帝」

御簾の向こうで、後白河帝が立ち上がった。

「さあ、みなの者。飲めや、歌えや。

 われらは遊ぶために生まれてきた。

 戯れるために生まれてきた。

 ここにおるは選ばれし者たち。


 誰よりもおもしろき遊びをするを許された者たちじゃ」

白拍子たちが、清盛のまわりで歌舞を披露する。

いかにも後白河が、清盛に用意した趣向だ。

手鏡に写る景色は一部分  奥山としつぐ

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  梁塵秘抄歌碑

後白河が清盛に誘いをかける。

「どうじゃ播磨守。生きる力がわいてこよう。

  体がうずうずしてこよう!」


√遊びをせんとや生まれけむ  戯れせんとや生まれけん

  遊ぶ子どもの声聞けば   我が身さへこそ動がるれ


白拍子の舞と歌が華やかであればあるほど、

清盛の心が暗く沈んでゆく。

沈むに従い、奥底から攻撃的な感情が湧き上がる。

清盛はぎりぎりと歯を食いしばり、肩をいからせ、

今にも噛みつきそうな目で御簾の中を見た。

プライドの鱗一枚ぶら下げる  岡内知香

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後白河帝は、そんな清盛をもてあそぶように見ている。

やがて、歯を食いしばった清盛の口角が上がっていき、

噛みつきそうな目をしたまま顔だけ笑った。

「・・・こたびはかように華々しき宴の場にお招きいただき、

 身にあまるほまれにござります。

  今後ともお導きいただけまするよう、

 お願い申し上げます・・・」


話の途中ですが頭裂けてるよ  増田えんじぇる

後白河帝がなにか勝負を仕掛けてくるなら、

清盛はいつでも、賽を振るつもりだ。

”平清盛とはなかなかおもしろそうな男だ” 

美福門院が不敵な笑みを浮かべている。

スイトピー咲いたらまな板になろう  田中博造

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「保元の乱・その後の政局」


保元の乱後、後白河天皇の親政は、

乳母夫・藤原信西が主導する政権となった。

一方、美福門院も権力の維持に成功し、

美福門院も藤原信西も出家していることから、

「仏と仏が話し合って政治を動かしている」

と噂された。

幽霊が桜の下に出るなんて  杉山ひさゆき

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「信西の執政」

保元の乱で藤原頼長が死んだあと、

朝廷で絶大な権力を振るったのは、信西だった。

鳥羽院に仕えたものの、官位は低く不遇だったが、

後白河天皇の乳母(紀伊局)の夫だったことから、

後白河天皇の信任を得て側近になった。

五線譜を繋ぐと多分多分春のうた  山本昌乃

保元の乱で、義朝の夜襲の献策を採用したのは、

信西である。

当代随一の博覧強記の学者だった信西は、

後白河天皇の黒衣の宰相として、

「天皇親政」を押しすすめた。

乱の3ヶ月後の出された「新制7か条」はその例である。

うず潮に乗ろうとπは思索中  和田洋子

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荘園の整理を意図したもので、

全国にある荘園を規制し、

天皇の支配下に置こうと意図するものだった。

また、宮廷人や社寺、源平両氏に費用を分担させて、

内裏を再興させた。

この時の信西の算段は、見事だったという。

こうして、保元2年(1157)10月に内裏が完成すると、

途絶えていた数々の「朝儀」も復活させた。

その盛大さは、平安中期の醍醐・村上天皇の治世を

超えるといわれた。

ぶつ切りのジェットコースター以来絶頂  酒井かがり

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相撲節会に参加した豊真将(ほうましょう)

信西が考えた朝議に「相撲節復活」もその一つである。

平治物語によれば、

「保元元年よりこのかたは、

 内宴、
相撲の節、久しく絶たる跡をおこし、

 詩歌管絃のあそび、折にふれて相もよほす。

 九重の儀式むかしをはぢず、万事の礼法ふるきがごとし」


とある。

ひとりぼっちの君にひだまり届けます  高橋謡子

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  【相撲節会】

奈良時代の天平年間になると、

毎年7月7日の「七夕の節会」と一体化して、

近衛府、兵衛府の官人(武官)と,

諸国から貢進された相撲人たちの間で,

「宮中相撲」が行われるようになった。

平安時代になると、宮中の年中行事として、

相撲が盛大に行われるようになる。

≪射礼、騎射とともに「三度節」と呼ばれる≫

残ったのこった国技館座席券  脇 正夫

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「相撲節会変節」

保安3年(1122)の相撲節の後、長い空白期間ができた。

天養2年(1145) 7月27日に相撲召合の予定があったが、

「天変あるによりて停止」せられてしまった。

天変とは、ハレー彗星の出現のことで、

 3月30日と4月1日に相撲使が任命されたが、

彗星は不吉であるという意見から

7月22日に久安元年と改元されるなどのゴタゴタで、

中止となっていた。

煙突の煙を追いかけ過ぎた夢  くんじろう

しかし、「相撲節会」は慣例化するに至らぬうち、

翌年の「平治の乱」でまた頓挫してしまう。

16年後、中絶期間中も御白河院は、

相撲見物をやっているし、

「相撲御覧の儀」も数度あったという。

消しゴムの好きな神様だっている  定金冬二

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まちがいなく顔だ眼がある虚ろがある  中野六助

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     馬上の義朝

(画像をクリックすると大きくなります)

「保元物語よりー義朝の弟たちの誅殺」

左馬頭(義朝)に重ねて宣旨が下って、

「お前の弟たちを、みな捜して連れて来い。

  とくに為朝とかいう奴は、

  主上の鸞輦に、矢を放とうなどと申した不届きな奴である。

  捕らえて誅せよ」


とある。

問答無用ト短調の夕陽  酒井かがり

義朝は畏まって、ほうぼうに武士を遣わして捜されたので、

ここそこから,弟たちを捜し出した。

為朝は敵が寄せて来ると見たので、

どちらともなく失踪した。

四郎左衛門頼賢、掃部助頼仲、六郎為宗、七郎為成、

九郎為仲、
以上の五人の人たちを、都の中には、

入れてはいけない、とご命令なので、

すぐに舟岡山へ連れて行った。

五人みなで馬から下りて並んでいた。

赤い糸今更白に変わらない  森 廣子

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末期の水を与えると、

おのおの畳紙(たとうがみ)でこれを受けたその中で、

頼仲がこの水をとって、唇を拭ってから申したには、

「私は幼少から人の首を斬ったことが数多くある。

そうした罪の報いだろうか、

今日の私の身の上になるのだろう。

兄でいらっしゃるから、頼賢殿が先立って、

お供申すべきでしょうが、


戦においては君命はなく、戦場でも兄の礼なしと申すので、

死を先にする道も、強いて礼を守らないでもよいでしょうか」


散りかたを教えてくれたのは木の葉  佐藤美はる

「そのうえ(先にしたい)仔細がございます。

  日頃皇后宮の中で、言い交わしている女がある。

  昨夜も来て目通りしたい ということを申しましたが、

  叶わないことを、心を鬼にして申して返しました。

  きっとまた,今日も訪ねてくるでしょうと思われます。

  最期のありさまを見ても仕方なく、

  また不覚にも涙を流すのも本本意ではありませんので、

  先にさせていただきます」


「六道のちまたで、必ずお会いいたしましょう」

と申して、直垂の紐を解いて、首を延ばして斬られた。

花束の絶叫おくり付けられる  真田義子

その後、四人みな斬られた。

みな立派に見えた。

次の日に陣へと首実験のため持たせて差し上げた。

左衛門尉信忠がこれを実験する。

獄門にはかけられないで、

穀倉院の南にある池のほとりに捨てられた。

これは、故上皇のご中陰であったらである。

生涯は一度落花はしきりなり  大西泰世


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「保元物語よりー孝・忠・信・義」


「死刑復活」、その中でも義朝に父を斬らせたことは、

前代未聞のことではないだろうか。

一方では、朝廷のご判断の誤りであるし、

また他方では、義朝自身の不覚である。

勅命に背くことはできないということで、

父を誅するのは、『忠』というのだろうか。

朝日にかざすサムライの行方  酒井かがり

『信』というのであろうか。

もし、『忠』だというのであれば、

忠臣を、『孝子』の門に求めるといえるのだろうか。

また、もし『信』だというのであれば、

「信を義に近くしろ」といえるのだろうか。

『義』に背いてどうして、「忠信」に随(したが)えるだろうか。

ヤツデの葉の先に解答が八つ  井上一筒

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     源為義

古い文章に

「君はいたって尊いけれども、いたって近くはない。

  母はいたって親しいけれども、いたって尊くはない。

  父だけが、尊く近しいものである」


と言う。

だから、母よりも尊く、君主よりも親しいのは、

ただ、父だけなのだ。

冬という茶鼠色の父のこと  河村啓子

どうしてこれを殺そうか。

「孝」を父にとり、「忠」を君主にとる。

もし
「忠」を主として、父を殺したらば、

「不孝」の大逆、「不義」の至りである。

だから、すべての行為の中で、

「孝行」を先にするといい、

また、三千の罪の中で、

「不孝」より大きいものはないという。

こめかみに降りしきる軽佻浮薄  山口ろっぱ

しかし、まさに大きな罪を犯した者を、

父だからといって、助けたらば、

政道を汚すことになるだろう。

天下は、彼一人の天下ではないのだから。

もし、政道を正しくして刑を行えば、

またたちまちに「孝行」の道から背くことになる。

明君は孝行でもって、天下を治めている。

「だからただ父を背負って、位を捨てて、去るのがよいのだ」

と判じた。

判決を言います第九唱います  花森こま

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まして、義朝の身においては、尚更である。

まことに助けようと思ったならば、

どうしてその方法がなかったろうか。

恩賞に申し替えても、

たとえ我が身を捨てても、

どうして父を救わないだろうか。

他人に命令されたのであれば、力及ばないことである。

ほんとうに「義」に背いたために、

並ぶもののない「大忠」であったけれども、

とりたてて恩賞があるわけでもなく、

結局いくばくもしないで、

その身を滅ぼしたことこそ、呆れてしまう事である。

六道の是非すべからく荒物屋  きゅういち

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嘘に嘘まぶしてかぎりなく濁る  たむらあきこ

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  保元物語絵図ー2

「為義VS信西」

義朝もまた、信西から父・為義と弟の頼賢、頼仲、為宗、

為成、為仲の斬首を命じられた。

「・・・おそれながら。わが父と弟たちがそこまでの罪を

 犯したとは思えませぬ」


おずおずと申し出た義朝に、信西はすげなく告げた。

「戦場であいまみえても、父と命のやりとりをする、

  "武士に二言はない"と申したはそなたぞ。

 そしてその代わりに、昇殿を許されたを忘れたか」


「巧みに踊らされたー」   

そんな思いが、義朝の胸中を駆けめぐった。

蹴った樹のしずくに濡れる自己嫌悪  有田一央

「戦はまだ終わっておらぬ」

そう言い置いて、信西が立ち上がった。

義朝に背中を向けて歩き出したとき、

信西のあとに従おうとした師光が、不穏な気配を察した。

義朝が今にも、信西に飛びかかろうとしている。

師光はとっさに信西をかばい、

控えていた武士達が、義朝を押さえつけた。

マンツーマンで斬り死にすればよし  井上一筒

「お許し下さりませーっ!恩賞もなにもかも返上致す!

 返上致すゆえ、命ばかりはなにとぞ!なにとぞ・・・」


義朝は押さえつけられたままもがき、

抗議の声を張り上げた。

「成功を上げれば破格の恩賞を与えると言うたは、

  そなたではござらぬか!

 それが親兄弟を斬れとは、あまりに無慈悲な仰せ。

 なにゆえにござりまするか。

  なにゆえにござりまするかーっ!」


遠吠えが聞こえましたかお月さま  立蔵信子

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信西が振り返り、義朝の前に数歩近寄った。

「清盛は叔父とその子らを斬る。

  むろん、そなたと同じく、身内を斬りとうないと抗っておった・・・・

 だが斬るであろう」


打ちのめされてからが始まりである  森田律子

信西は自分が下した裁断など、忘れたかのように、  

算木を並べてなにか計算している。

夕方、師光が報告を持って現れた。

「忠正、党五つ、為義、党六つ、合わせて十一の首、

 確かに斬られました由にござります」


「さようか。大路にてさらすがよい」

信西は計算を続けたまま応えた。

「ふふふ・・・、ははは、ふははははは!」

師光が笑い出し、信西が不快そうに振り返った。

潮目が変わりここからは喜劇です  筒井祥文

「まったく、わが殿ながらお見事にござりまするな!

 忠正にせよ為義にせよ、

 死罪にまでせねばならぬほどの咎があるとは、

 あなた様とて、思うてはおらぬはず。


 もとよりあなた様にとって、忠正一党はどうあってもよい。

 だが為義一党に生きておられては困る。

 ここで藤原摂関家の力をすっかり、

  削いでおくためにござります。


  平氏が身内を斬るとなれば

 源氏もまたそうせざる得ぬ。

 播磨守の気性、下野守の気性、見事に見抜いてのご采配。


 思えば戦のさ中より、いやその前より、

  あなた様はこうなるように仕組んでおられた」


行ったり来たりひとり芝居で悪を練る  柴本ばっは

信西は否定せず、かすかな笑みを浮かべた。

師光も応えて、したたかそうに笑った。

「殿の苛烈ぶり、亡き悪左府様の比ではござりませぬ。

 師光はどこまでもついて参りまする」


モノクロの下着をつけている思想  中野六助

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頼朝産湯の井戸

あれから義朝は、どこかに魂を置き忘れた、

抜け殻のようになって日々を過している。

そんなところへ、鬼武者が元服したいと申し出てくる。

数日後、鬼武者は髪を結い、加冠されて、


凛々しい若武者姿となった。

「本日より頼朝と名乗るがよい」

頼朝誕生、鬼武者は強い男子に成長していた。

生き残り賭けて鬼とも手をつなぐ  菱木 誠

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「保元物語よりー為義誅殺の事」

「為義法師の首を刎ねなければならない」

と、義朝(左馬頭)に命令が下った。

義朝は、「ご赦免されるよう」にと、

さまざまに二度まで、奏聞したが、

「清盛はすでに叔父を誅している、

  どうして、のろのろとさせているのか。

  甥はやはり子どものようなものである。

  叔父はどうして父と違うだろうか。

  早急に誅戮せよ。


  もしそれでも違背するのであれば、

  清盛以下の武士にご命令する」


と主上の逆鱗に触れた。

空き部屋でぐずぐずこねる哲学書  北原照子

勅命は重いので、力及ばず涙をおさえて、

義朝は、

「陛下のお言葉はこのようなのだ。

  これに従って、判官殿(為義)を討ち申しあげたらば、

  親殺しという五逆罪の第一を犯すことになるだろう。

  しかし、その罪を怖れて宣旨に背けば、

  すぐに違勅の者となってしまう。


  どうしたらよいものか」

鎌田正清に心中を述べた。

切れかけの尻尾をずっと握っている  青砥たかこ

それに対し、正清はかしこまって、

「申すには憚られますが、愚かなことをおっしゃいますなあ。

  私戦で討ち申し上げなされば、

  そのような咎もございましょう。

  そのうえ観音経には、世界の初めよりこのかた、


  "父を殺す悪王は、1万8千人であるといっても、

  まだ母を殺す者はいない" と説かれています。

  こうした諸々の悪王は、

 位を奪おうとしてのことでございます。


三日月に腰かけている物語  杉本克子

  こちらの例では、父上は朝敵となられたのですから、

  結局は誅殺は免れない運命でございます。

  たとえ、殿がお引き受けされなくとも、

 月日をこれ以上延ばすことのできるお命では、

  ございませんので、味方なさって、

 人手にかかるよりは、せめて殿のお自らの手で、

  後のご孝養をよくよくなさいませ。

  どうして悩まれることがありましょうか」


と正清が述べると、

 「それならば、お前が準備をせよ」

と言い、左馬守は泣く泣く内に引き下がられた。

影までが情けないねと前かがみ  泉水冴子

まもなく正清は、入道為義のもとへ参上し、

「現在都は平氏の仲間が権威をとって、

  左馬頭殿主人は、

  石の中にいる蜘蛛とかいうようでございますので、

  東国へ下られます。


  判官殿は先にお立ち下さいますよう、

  お迎えにあがりました」


と車を寄せた。そこで為義は、

「それならばもう一度八幡に参って、

  お暇を申しておけばよかった」


と言い、為義は南の方を拝んで、車に乗り込んだ。

七条朱雀に白木の輿をかきすえてある。

ここで車から輿にお乗り移りになられるところを、

討ち申し上げようというはらである。

ガラスを走るかすかな月のひび割れ  前田咲二

その時、秦野延景が、正清に向かって、

「あなたのご計画は誤りでしょう。

 人間は人生の最期が一番大事です。

 それをだましだまし殺し申そうというのは、

 情けないことでございます。


 ただあるがままにお知らせして、

 最期のご念仏もすすめ申し上げ、

 また言い残されることも、どうしてないでしょうか」


と言う。

土砂降りの中で素数になっている  和田洋子

それを受けて正清は、

「それももっともなことだ。 

  余計なことを患らわすまいと思って、

 このように計画したのだが、本当に私の誤りだ」


と考えを変えたので、

延景が入道のもとに行き、

「本当は関東ご下向では、ございません。

 左馬頭殿が宣旨を承って、正清を太刀取りとして、

 入道殿をお討ち申し上げようと、いうことなのでございます。

 殿は再三お嘆き申しなさったのですが、


 勅命が重くございまして、力及ばずご命令なさいました。

心しずかに、ご念仏なさいませ」


ひけ目でもあるのか雨がそっと降る  嶋澤喜八郎

それを聞いた為義は、

「悔しい事だ。為義くらいの者を、騙さずに討てばよいのに。

  たとえ陛下のお言葉が重くて、助けることが叶わなくとも、

  どうしてありのままに知らせないのか。

  また、心底助けようというのであれば、


  自分の身に替えても、どうしてご赦免を申し受けないのか。

  私だったら、義朝が私を頼って来たならば、

  自分の命にかえても助けたろう」


終焉のローソクほのか身を正す  磯部義雄

続けて、

「諸々ノミ仏ハ、衆生ノコトヲ思ウガ、

 衆生ハ、ミ仏ノコトヲ思ワズ、

 父母ハ、絶エズ子ノコトヲ思ウガ、


 子ハ、父母ノコトヲ思ワナイ、

 と説かれているからには、

 親の思うようには、子は親のことを思わないのが,


慣いであるので、

 義朝一人の咎ではない。

 ただ恨めしいのは、

 このことをどうして、始めから知らせないのか」


つまらない池だ底まで見せている  都司 豊

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そして、念仏を百遍ほども唱えながら、

為義は、命を惜しむ様子もなく、

「時間が経つと為義の首を斬るのを見ようと、

  下々の者たちが立てこむだろう。早く斬ってしまえ」


と言うので、正清は、太刀を抜いて後ろに廻った。

しかし代々の主人の首を斬らねばならない畏れと無念に、

涙にくれながら、太刀を当てるところも失念し、

一度斬ろうとして持った太刀を、人に託すのであった。

落丁の月光ガラス窓に卍  蟹口和枝

その時、為義は、

「願諸同法者、臨終正念仏、見弥陀来迎、往生安楽国」

と唱えて大声で念仏を数度繰り返し、ついに斬られた。

首実験の後に、義朝にその首は下され、

孝養するようにとの、主上の言があったので、

正清がこれをいただき、

円覚寺に収め、墓をたてて檀を作り、卒塔婆などを作られて、

さまざまの孝養を尽くされた。

折り合いを「南無阿弥陀仏」阿弥陀籤  岩根彰子

さらに為義のほうぼうに残した子ども42人や

頼憲の郎等4、5人、

能景配下の多くの武士たち。源平の70人以上が、

この19日に、自害があったり、首を斬られた。

まことに驚き入るばかりのことである。

線を外れる自分で書いた線  植野美津江

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