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川柳的逍遥 人の世の一家言
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法則を守って雑巾が乾く  山本早苗


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「平治物語絵巻・信西巻」 (国立国会図書館)

信西の首は獄門に晒された。

そして信西の息子たちは、一斉に配流されて一族は壊滅した。

「信西の首」


平治元年(1159)12月9日、「平治の乱」が勃発する。

清盛が一家をあげて熊野参詣のため、

京を留守にしていた最中だった。

後白河の近臣・藤原信頼源義朝らの軍勢が、

後白河上皇の院御所・三条殿を突如襲撃した。

彼らの目的は信西である。

信西は下級官人出身だが、

非常に有能で、実務官僚系の院近臣として、

鳥羽院に接近し、

後白河の乳母を妻にしていることから、

後白河の側近にもなり、「保元の乱」後の混乱の中

政治の中枢に躍り出た人物だ。

ポケットの中の心が見つからず  くんじろう

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信西の生首を持ち帰る道中 前列の4人が首を掲げる

後白河を大内裏に移し、

義朝らは信西を捜索するが、

信西は危険を察知し、逃亡したあとだった。

のちに、自ら胸に刀を突き刺し自殺した姿で、

信楽山の山中で発見され、

その首は落とされ西獄門に晒された。

謀叛罪として梟首に処せられたのである。

子息たちも解官、配流された。

50年前、鎮西で反乱をおこした源義親(義朝の祖父)以来の

「梟首の刑」である。

一昼夜拍手を浴びてオポッサム  富山 悠

信頼義朝はさっそく「除目」をおこない、

自らはもちろん、一門や同志の貴族たちの官位を進めた。

しかし、反信西では一致していた彼らに、

早くも分裂が始まっていた。

除目=官職に任命する儀式。

知らぬところで鏡の割れる音がする  洗い慶子

すなわち二条天皇の外戚・藤原経宗(つねむね)

側近・藤原惟方(これかた)など親二条派が、

9日の事件に、

強い危機感を抱いた内大臣・藤原公教(きみのり)が、

秘密裏に進めていた反信西派の結集工作に、

加わったのだ。

彼らの手引きで、公教は二条天皇を内裏から、

密かに脱出させるという作戦を企て、

その実行役として、清盛が起用された。

終りでも始めでもある判を押す  中川隆充

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   「六波羅合戦図」 (国際日本文化研究センター)

赤い旗をなびかせながら出陣する平氏軍。

中央の赤い甲冑を着た武士が、清盛。
 (デジタル復元図)

もともと、二条親政派であった藤原経宗、

惟方にしてみれば、

後白河院政派から鞍替えしたばかりの、

信頼、義朝が、自分達を差し置いて、

二条天皇を擁立し、政権を牛耳るのは、

バカバカしい話であった。

そこに目を付け、反信西派に打ち込んで分断した、

藤原公教の目の付け所は見事というほかない。

≪公教は、信西によって荘園整理のために設置された、

  記録所の責任者とされた人物だが、

   信西にそれだけ高く評価されるだけのことはあったのだろう≫


砂時計倒れたままの裏表紙  笠嶋恵美子

拍手[4回]

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幕間のコントに痛烈なジョーク  荻野浩子

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「平治物語絵巻 三条殿焼討巻」

平治元年12月9日、藤原信頼、源義朝によって、

後白河の院御所三条殿に火が放たれた。


信西は自害、二条天皇・後白河上皇も確保したが、

周囲の支持を急速に失ってゆく。


(画面をクリックすれば映像は大きくなります)

矢印の反対側へ置くこころ  井上裕二

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「義朝、クーデターを決行」

平治元年(1159)12月9日、

義朝の軍勢が、後白河上皇「御所三条東殿」を襲撃し、

上皇を内裏の一本御書所に幽閉した。

軍勢は御所に火を放ったうえ、

外からさんざんに矢を射かけたため、

多くの女官が御所内の井戸に身を投げて、

命を落したと言われる。

一本御書所=書籍の書写や管理が行なわれた場所。

俎板の窪みに溜まる雨の音  笠嶋恵美子

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信西はからくも京を脱出し、

宇治に近い自身の荘園に逃れたが、

助かる見込みはないと観念して、

土中にもぐって自害した。

この時、信西に従った郎党のひとりに、

後年「鹿ヶ谷事件」で斬首される藤原師光がいた。

信西の死体は、追手の武士によって

堀り起され、首は獄門にかけられた。

実権を握って、わずか3年の短い天下であった。

配役に首塚とある暑さかな  石田柊馬

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一方、内裏では、

信頼が天皇の名のもとに論功行賞を行い、

自身は念願の大臣・大将に就任。

義朝は、清盛が保元の乱で任じられた播磨守に、

三男の頼朝は、右兵衛佐に任じられた。

ここに信頼・義朝連合によるクーデターは、

ひとまず成功をみた。

かくて決着A4の夢の中  筒井祥文

熊野参詣の途上にあった清盛が、

都の異変を知ったのは、田辺宿の付近であった。

一緒にいたのは次男・基盛、三男・宗盛

それに郎党が15人ほどである。

義朝勢に対抗するには、あまりにも数が少なすぎる。

驚いた清盛は、

「いったん九州へ落ちて手勢を集めるべきであろうか」

と気弱なところを見せた。

刻々とメルトダウンが進む脳  泉水冴子

ところが、紀州の在地武士である湯浅宗重が、

37騎の武士を、熊野別当湛快が、

鎧7領と弓矢を提供してくれた。

これに力を得た清盛は帰京を決意し、

一門・郎党を引き連れて京への道を急いだ。

                            『愚管抄の記述より』

運のいいタケノコそっと生き延びる  新家完司            

軍記物語・『平治物語』だと、さらにドラマティックになる。

急報を受けた清盛は、

「朝廷の御大事となった以上、帰京するしかない。

しかし武具がないのはどうしたものか」


というと、平家第一の郎等と言われた平家貞が進みでて、

「少々は用意してございます」

と長櫃の中に隠してあった甲冑や弓矢を取り出した。

家貞は、

「大将軍に仕える者はこのように用意をしておくものだ」

といい、侍たちは、

「あはれ高名かな」 と感心したという。

前頭葉あたりで葦のそよぐ景  福光二郎

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「余談」

清盛の熊野詣は、

「義朝の挙兵を促すための偽装だった」

という説がある。

ライバルの義朝や、

将来政敵になる可能性のあった信西を,

滅ぼすために、"清盛が仕組んだ大芝居だった"

というのだ。

しかし、先の清盛の狼狽ぶりを見る限り、

そのような計画があったとは思われない。

悪役の今日はなんだか芋けんぴ  くんじろう


清盛一行は、義朝の長男・悪源太義平

天王寺、阿倍野で待ち伏せしているという情報に接し、

戦々恐々としながら京への道を急いだが、

それは義平ではなく、

決戦に備えて集まっていた平家の軍勢であったという。

                               『平治物語より』 

汐目が変わりここからは喜劇です  筒井祥文 

義平は15歳のとき、

武蔵国大蔵で叔父の源義賢(木曾義仲の父)

攻め滅ぼしたという豪の者。

普段は鎌倉を拠点として、

関東における義朝の勢力拡大を助けていたが、

このたび義朝の挙兵に応じて、

関東の精兵を率いて上洛していたのである。

確かに、清盛一行は兵も少なく武装も軽微で、

帰京を阻むには、絶好の機会であった。

流れ矢の一つがにじり寄ってくる  谷垣郁郎

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しかし、義朝たちのクーデター計画は、

隠密裏に進められたため、

大規模な軍勢の動員はできなかった。

少ない戦力を割いて、

清盛の帰京を阻むゆとりはなかっただろう。

あるいは平家と二重の姻戚関係を結ぶ信頼が、

身内意識から、清盛の反撃を警戒しなかった可能性もある。

いずれにせよ、清盛は何ら抵抗を受けることなく、

12月17日に、京に帰ることができたのである。

表紙からサソリ2匹も生き延びた  井上一筒

拍手[3回]

茶碗の中にも爆発音はある  森中惠美子

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  平治の乱対立の構図

(画面をクリックすれば大きくみれます)

「くすぶる官邸」

保元3年(1158)「中継ぎ」だった後白河天皇が、

皇子の守仁(二条天皇)に譲位した後も、

信西は引き続き権力を握り続けた。

平家も一門をあげて、大内裏の再建に貢献する一方、

信西の引き立てを受けて出世し、清盛も乱の翌年、

播磨守から大宰府の長官である「大宰大弐」となった。

「三位の公卿」が就任することもある高官である。

半開きのドアの向うで笑う海  酒井かがり

しかし、信西と平家一門の繁栄の陰で、

不満をかこつ者も増えていた。

1人は保元の乱勝利の立役者義朝

もう1人は、後白河上皇の近臣・藤原信頼である。

当時、後白河の引き立てにより、

右衛門督となっていた信頼は、

大臣・大将を望んだが、

信西に阻止されて恨みを抱いていた。

今日を紡いで首に巻く夜風  近藤真奈

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「義朝の恨み」

信西政権を経済・軍事面で支えたのが、

清盛と平家一門だった。

保元の乱の恩賞が平家に厚く、

源氏に薄かったのは、両者の同盟関係が、

前提になっていたのである。

義朝も、この実力者に取り入ろうと、

信西の子息の1人を、娘婿にもらいたいと申し出た。

しかし、信西は、

「我が子は学者であり 武者の婿にふさわしくない」

とはねつけた。

永遠に弐ひく壱はさみしかり  中野六助

その一方で清盛の娘との縁談を進めて、

義朝の面目をつぶした。

信西としては、冷静に清盛と義朝の器量を比べて、

「清盛こそ頼むに足る人物である」

と判断したのだろうが、

義朝が信西に恨みを抱いたのも、また当然であった。

裏側に解答欄がある鏡  山本早苗

「信頼のこと」

信頼は、『平治物語』に、

「文にもあらず、武にもあらず」 と評され、

後白河の男色相手だったこともあり、

ひ弱な公卿のイメージが強いが、

政治的な力量は、なかなかのものであったとも言われる。

武蔵国の知行国主として、支配権を握っており、

その関係から、東国を基盤とする義朝を、

自らの武力として活用することができた。

ひらがなのように男がやってくる  大西泰世

また、当時、信頼の兄弟や一族は、

武具や駿馬の一大供給地である陸奥の国守を、

歴任していた。

良質の武具や馬の確保は、

武門の棟梁としての地位を左右する、

重要な要素であったから、

義朝が東国で影響力を保ち続けるためには、

奥州に顔がきく信頼との提携は、必須だったのである。

経由地に立派な塔ほか指の影  兵頭全郎

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さらに、信頼は平家とも姻戚関係を結んでいた。

異母兄の藤原隆教は、忠盛の娘(清盛の姉妹)を妻とし、

信頼の嫡男・廼信親は、何と清盛の娘婿になっていたのだ。

後白河の寵愛もさることながら、

源平の武士との二重三重のつながりも、

信頼の政治力の源泉になっていたのである。

息止めて太刀の笑くぼを選り分ける  井上一筒

また、以上の姻戚関係をとおして、

信頼は平家に親近感を抱いており、

清盛が敵対してくるとは、思いもよらなかったのであろう。

ここに、信頼が大胆なクーデターに踏み切った

要因の1つがあったと考えられる。

この両者に、

天皇親政を目論む二条の外戚の藤原経宗

乳母子の藤原惟方が加わり、

打倒信西のクーデターは、決行された。

パンパンと叩いて洗濯物を干す  笠嶋恵美子

拍手[2回]

背信のかすかに匂う沈丁花  美馬りゅうこ

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 「平治物語絵巻 信西巻」

殿上にて臨時除目(じもく)を出す藤原信頼。

除目=平安中期以降、大臣以外の官を任ずる儀式。

定例春秋二回。

春は外官(地方官)を任命するので県召(あがためし)の除目,

秋は大臣以外の京官を任命するので、司召(つかさめし)の除目という

またその儀式自体である宮中の年中行事を指し、

任官した者を列記した帳簿そのものを指す。


「臨時除目」は、小除目(こじもく)と呼び、春や秋の恒例の除目以外に、

臨時に実施される小規模な除目のこと。

≪信頼にとって、この臨時除目が命とりになった≫

もう夢はみない枕が捨ててある  岩根彰子

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「反・信西の中心人物」

「従来の院近臣たち」は、

もともと一枚岩の団結を誇るような、

集団であったわけではない。

というよりも、むしろこの時期、従来の院近臣たちは、

「後白河院派」「二条親政派」という、

2つの立場に分かれていた。

だが、信西に対する反発は、

政治的な立場の違いを乗り越えさせるほど、

大きかったのだ。

マカロンにはさむ苺のサスペンス  北原照子

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反信西の中心となった人物は、

「平治の乱」の主役の1人、藤原信頼である。

信頼は、後白河院派の筆頭というべき寵臣であった。

その家は、藤原道長の兄・藤原道隆の子孫で、

院政期に入ってからは、院近臣として、

受領を代々務めていた。

神のいる方へは行かぬかたつむり  定金冬二

信頼の運命を大きく変えたのは、

受領として源義朝との深い関わりを持ったことである。

信頼は久安6年(1150)に、18歳で武蔵守に任じられ、

保元2年(1157)弟の信説にこれを譲っている。

角のない鬼で二階が欲しくなる  森中惠美子

武蔵国は、東国の要とも言うべき、

最重要の国であり、

多数の武士団が存在し、

何より、義朝の軍事基盤となっていた。

≪保元の乱の前年、義朝の長男・義平が、

   京都から下ってきた叔父の
義賢を攻め殺すという、

   事件が起こっている。
(大蔵合戦)


実は、その戦場となったのは、

武蔵国比企郡の大蔵館であった。

普通であれば、勝手に合戦を起して、

敵を攻め殺すというのは、重罪であり、

義朝・義平が処罰を受けることになっても、

不思議ではない。

ところが、この一件はまったく問題とされておらず、

その背景のひとつには、

受領である信頼の黙認があった。

不手際の左を許す夜のグラス  上野勝彦

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おそらく、すでにこの時点で、

「信頼と義朝との間に提携が成り立っていた」

ものと考えられている。

家柄や官位を考えると、両者の関係は当然、

信頼が主で、義朝が従であっただろう。

足し算も引き算もする闇の中  山本芳男

さらに、信頼は陸奥国も知行していた。

陸奥国と信頼一門との関わりは、

康治2年(1143)に、信頼の異母兄である基成が、

陸奥守に任じられたことに始まっているが、

基成は任期終了後も、京都に帰らず陸奥国に残留した。

残留してどうしたかといえば、なんと、

現地の実権を握っていた奥州・藤原氏の政治顧問のような、

立場に収まったのである。

筋雲移動意味のない塔を経て  筒井祥文

基成は、奥州・藤原氏3代目の藤原秀衡を婿としており、

4代目にして最後の当主となった泰衡は、

基成の孫にあたる。

陸奥国は、奥州藤原氏との関係でのみ、

重要だったのではない。

陸奥国は馬の一大供給源であり、

矢羽の材料となる鷲の羽の生産地でもあった。

肩幅に足を開いて変身する  酒井かがり

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このように、

陸奥国は武士にとって非常に魅力的な国であり、

義朝も家人を派遣して、

物資の調達に当たらせていたことが知られている。

まして、保元の乱後に左馬頭になってからは、

義朝は職務上も陸奥国とは、

切っても切れない関係にあった。

義朝にとって、陸奥国を知行する信頼との関係は、

武士として活動する上で、生命線となっていたのである。

組み立てラインは牛蒡の皮を剥く  井上一筒

拍手[3回]

裏の顔もときどき見せておきましょう  津田照子

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     相撲節会

「信西の執政2」

保元の乱後の政治をリードした信西

乱の後には、新たな政策が矢継ぎ早に打ち出された。

まず、保元元年(1156)閏9月18日、

「荘園整理令」を中心とした保元新制が発令されている。

荘園整理令後白河天皇の即位以前に設置された荘園の内、

 天皇の宣旨、および
白河・鳥羽院庁下文に基づいていないものを、

 廃止するよう命じた。


塩辛いやがてを水に晒す  岩田多佳子

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荘園整理令が出された理由は、

荒廃していた「大内裏」を新造する財源を、

捻出するためである。

いつの世も、大規模な事業のためには、

行財政改革が欠かせない。その甲斐あって、

早くも翌年の10月8日に「大内裏」が完成している。

こうした事業はすべて、

後白河天皇の名前で命令が出されたが、

その裏で計画を立案していたのは信西であり、

その目的は、信西が擁立した後白河天皇の権威を、

高めることにあった。

ポイントデーという ワナにおちていく  井上一筒

大内裏新造での信西の活躍ぶりは、

『愚管抄』で、

「立派に取り計らって、全国に少しの負担もなく、

  2年ほどであっと言う間に完成させてしまった」


と賞賛されている。

【大内裏】=
 
天皇の居所である内裏と政府諸官庁の置かれた一区画。

因みに、平安京大内裏の規模は、

東西約1164メートル、南北約1394メートル。


縁取りを待つだけになる森の水  兵頭全郎

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後白河天皇は、あくまでも中継ぎであり、

皇太子・守仁天皇の皇位継承は既定路線だ。

保元3年(1158)8月16日、

後白河天皇は、守仁天皇に譲位し院となった。

即位した守仁天皇が、すなわち二条天皇である。

この譲位は、二条天皇の養母である美福門院と、

信西との2人だけの相談で決定され、

関白の藤原忠通をはじめ、他の貴族たちは、

一切関与しなかった。 このことからも、

信西が握っていた権力の大きさがうかがえる。

石けんと皆既月食詰め放題  岩根彰子

信西の権力の源泉は、

後白河天皇の乳母の夫であることが大きかった。

後白河天皇から二条天皇に代替わりすると、

今度は、二条天皇との関係が問題となるが、

さすがは信西、その点には抜かりがない。

信西は、長男・俊憲を皇太子時代の、

二条天皇の東宮学士(学問の師)としている。

二条天皇が即位すると、

俊憲は、天皇の一番側近である蔵人頭とされた。

はみだした線を回収する熊手  加納美津子

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父親に似たのか、

信西の息子たちは総じて優秀で、

次男の貞憲も弁官に就任し、

4男の成範も、受領の最高位である播磨守となっている。

信西が息子達を要職につけた理由は、

私利私欲というよりも、学才のみを頼りに、

徒手空拳で成り上がった信西にとって、

権力を維持する為に必要なことだったからだ。

いいのではないか俺流わたし流  新家完司

しかしながら、これが信西にとっての命取りとなった。

というのは、この結果、信西は、

他の院近臣たちを敵に回すことになったからである。

弁官にせよ受領にせよ、

ポストを信西一門が占めれば、

代わりに誰かがあぶれることになる。

臨海を見るまで磨く大ふぐり  上野勝彦        

あぶれたのは、これまでこうしたポストに就いて、

院に奉仕してきた他の院近臣たちだ。

彼らにしてみれば、自分達の昇進が滞っているのは、

「信西一門のせいだ」

ということになる。

≪こうして、「従来の院近臣」たちの間に、

   深刻な反・信西の感情が芽生えたのであった≫


これ以上刻むと流れだす私  山本早苗

拍手[3回]



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